第4話 走る君を、初めて見た
体育館の空気は、教室とはまったく違う匂いがした。
少しだけ乾いた床の匂い。
ワックスの匂い。
汗を含んだ体操服の匂い。
天井の高い場所で反響する声。
バスケットボールが床を叩く音。
バレーボールが腕に当たる乾いた音。
春の体育館は、まだ暑いというほどではない。
けれど、動き始めればすぐに体温が上がる。
窓の上部は少しだけ開けられていて、そこから水戸の春風が細く入り込んでいた。
二年十一組の体育は、男女で種目が分かれていた。
女子はバレーボール。
男子はバスケットボール。
同じ第一体育館の中で、コートを分けて行う。
真ん中にはネットとライン。
完全に別れているわけではない。
声も音も、視線も、少し気を抜けば簡単に隣へ流れてしまう。
横田なつきにとって、それが今日一番の問題だった。
「なつき、聞いてる?」
「え?」
遠山茜の声で、なつきは我に返った。
女子コートの端。
体育教師がチーム分けを説明している最中だった。
なつきは慌てて前を向く。
「聞いてるよ」
「今、先生何て言った?」
「えっと……楽しくやりましょう?」
「言ってない」
「安全第一?」
「それも言ってない」
「準備運動?」
「もう終わった」
「……ごめんなさい」
なつきは小さく肩を落とした。
茜は腕を組んで、呆れたようにため息をつく。
「今日のなつき、ずっと男子コート見てる」
「み、見てないよ」
「まだ誰の名前も出してない」
「うっ」
「大國くんでしょ」
「小声でお願いします……」
なつきは慌てて周りを見た。
近くにいた女子が、ちらっとこちらを見る。
なつきは何でもないように笑おうとしたが、顔が少し熱くなっているのが自分でも分かった。
大國春樹。
斜め後ろの席の男子。
読書が好きで、静かで、図書室が似合う人。
なつきが一年生の頃から片想いしている人。
その春樹が、今、男子コートにいる。
体操服姿で。
本を持っていない。
机に座っていない。
立っている。
ただそれだけなのに、なつきの視線は何度もそちらへ引っ張られていた。
春樹は男子の列の中でも、特別目立つわけではなかった。
島中良のように声が大きいわけでもない。
田辺守のように体格で目を引くわけでもない。
けれど、立ち姿が静かだった。
背筋が自然に伸びていて、肩に余計な力が入っていない。
周りがふざけて笑っていても、春樹は軽く首を回しながら、体育教師の説明を聞いている。
その隣では、板倉紅秋が同じように準備運動をしていた。
紅秋は眼鏡を外している。
それだけで、いつもより少し印象が違った。
勉強ができる副委員長、という雰囲気より、普通に運動できそうな男子に見える。
いや。
普通に、というより。
なんだか普通以上に動けそうに見える。
なつきは、自分でもよく分からないまま、二人を見ていた。
「なつき」
茜がもう一度呼ぶ。
「今度はちゃんと聞いて。最初、私たちのチーム、サーブ練習から」
「あ、うん」
「ポジションは後ろ」
「後ろ?」
「前に出すと危ないから」
「私、そんなに危ない?」
「今日の視線の動きだと危ない」
「そこまで?」
「かなり」
茜は真顔で言った。
なつきは少しだけ唇を尖らせる。
「大丈夫だよ。ちゃんとやるもん」
「本当に?」
「本当。体育だし。ボール見るし」
「大國くんじゃなくて?」
「ボールを見る」
「大國くんは?」
「……見ないようにする」
「見ない、じゃないのね」
「完全には無理かも」
「正直」
茜は呆れながらも、少しだけ笑っていた。
その表情に、なつきも少しほっとする。
体育教師の笛が鳴った。
女子コートでは、バレーの練習が始まる。
男子コートでは、バスケのチーム分けが決まり、軽くシュート練習が始まっていた。
ボールが床を叩く音が、体育館に響く。
だむ、だむ、だむ。
一定のリズム。
それだけで、なつきの意識はまた隣へ流れそうになった。
だめ。
今はバレー。
ボールを見る。
大國くんじゃなくて。
ボール。
なつきは両手を軽く合わせた。
体育の授業は嫌いではない。
でも、得意でもない。
特にバレーは少し苦手だった。
ボールが怖い。
飛んでくると、つい目を閉じてしまう。
小学生の頃に顔へ当たった記憶が、まだ身体のどこかに残っている。
それでも、高校生になってからは少しずつ慣れてきた。
茜が「まずボールをちゃんと見る」と何度も言ってくれたからだ。
そう。
ボールを見る。
目を逸らさない。
今日もそうする。
はずだった。
「いくよー、なつき!」
同じチームの女子が声をかける。
「うん!」
軽く上がったボールが、なつきの方へ飛んできた。
大丈夫。
ゆっくりだ。
腕を合わせる。
膝を曲げる。
ボールを見る。
なつきはそう思った。
その瞬間。
男子コートで歓声が上がった。
「おおっ!」
「島中、速っ!」
「ナイス!」
思わず、なつきの目がそちらへ流れた。
島中良がドリブルで抜け出し、軽くジャンプシュートを決めていた。
バスケットボールがリングを通り、ネットが揺れる。
周りの男子が声を上げる。
島中は笑いながら片手を上げた。
そして。
ほんの一瞬、なつきの方を見た。
目が合った気がした。
島中が得意げに笑う。
なつきは反射的に、曖昧に笑い返した。
その直後。
「なつき、前!」
茜の声。
「え?」
ぽすん。
柔らかいようで、思ったより重い衝撃が、なつきの顔面に直撃した。
「……っ」
視界が一瞬、白く弾けた。
痛い。
というより、びっくりした。
鼻と頬のあたりに、バレーボールの感触が残る。
ボールはなつきの顔から弾かれ、床へ落ちて、ころころ転がった。
体育館の音が、一瞬だけ遠のく。
それから、近くの女子たちが一斉に駆け寄ってきた。
「なつき、大丈夫!?」
「顔! 顔当たったよね!?」
「鼻血出てない?」
「目、開けられる?」
なつきは両手で顔を押さえたまま、ゆっくりしゃがんだ。
「だ、大丈夫……」
「本当に?」
茜がすぐ近くに膝をついた。
声は落ち着いている。
でも、目は心配そうだった。
「鼻、痛い?」
「ちょっと」
「見せて」
「うん……」
なつきが手を少し下げると、茜が顔を覗き込む。
「鼻血は出てない。赤くなってるけど、たぶん大丈夫」
「よかった……」
「よくない。何を見てたの」
茜の声が少しだけ低くなる。
なつきは目を逸らした。
「ボール……」
「見てなかった」
「見ようとはしてた」
「結果として見てなかった」
「はい……」
周りの女子たちが苦笑する。
その中に、伊藤亜衣もいた。
亜衣は少し離れたところから、心配そうに覗き込んでいる。
「なつき、マジで大丈夫? いい音したけど」
「うん、たぶん大丈夫」
「たぶんって怖いんだけど。保健室行く?」
「大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
「それならいいけど。てか、何見てたの?」
「えっ」
亜衣の問いに、なつきは固まる。
茜が何か言う前に、亜衣は男子コートの方をちらっと見た。
「あー。男子バスケ?」
「ち、違うよ」
「違うって言うの早っ」
「違うもん」
「じゃあ何?」
「えっと……体育館の天井?」
「高いよねー。ってなるか」
亜衣は笑った。
なつきもつられて少し笑う。
その笑いで、場の空気が少しだけ和らいだ。
体育教師も近づいてきて、なつきの様子を確認した。
「横田、大丈夫か」
「はい。大丈夫です」
「痛みが続いたらすぐ言えよ。無理するな」
「はい」
「ボールは最後まで見ること。基本だぞ」
「はい……」
先生の言葉に、なつきは小さく頷いた。
痛みより恥ずかしさの方が強い。
顔にボールが当たったことより、何を見ていたかを疑われていることが恥ずかしい。
しかも。
もし春樹に見られていたら。
その可能性を考えた瞬間、顔の赤みがさらに増えた気がした。
なつきは恐る恐る男子コートを見た。
春樹はこちらを見ていなかった。
いや、ちょうどボールを受け取っているところだった。
見られていない。
たぶん。
ほっとしたような、少し残念なような。
自分でもよく分からない気持ちになる。
「なつき」
茜が腕を組んで立っていた。
「何?」
「今、また見たわね」
「確認」
「何の」
「見られてたかなって」
「そこを気にする前に、自分の顔を気にしなさい」
「はい……」
なつきは両手で頬を押さえた。
まだ少しじんじんする。
でも、動けないほどではない。
むしろ、胸の方が忙しかった。
男子コートでは、バスケのミニゲームが始まろうとしていた。
チーム分けは、島中のいるチームと、春樹・紅秋のいるチームが別になっている。
守は島中側のチームだった。
体格のいい守がゴール下に立つと、それだけで強そうに見える。
島中はボールを手に、楽しそうに笑っていた。
「おい大國、手加減してやろうか?」
島中の声が体育館に響いた。
男子たちが笑う。
春樹は軽く首を傾げた。
「必要ない」
短い返事。
でも、なつきの耳にはしっかり届いた。
島中は一瞬だけ目を細めた後、すぐに笑う。
「言うじゃん」
守が横から声を上げる。
「大國、バスケできんの?」
「少し」
「少しってやつ、大体できるんだよな」
紅秋がボールを受け取りながら言った。
「それは君にも言える」
春樹が返す。
紅秋は軽く笑った。
「俺は普通」
「それも信用できない」
二人の会話は短い。
でも、テンポがある。
紅秋はいつも通り落ち着いているが、体育の場でも浮いていない。
むしろ、自然だった。
春樹も同じ。
本を読んでいるときとは違うのに、春樹らしさは消えていない。
なつきは、そのことが不思議だった。
動いている春樹。
体育館にいる春樹。
体操服姿の春樹。
知らない春樹のはずなのに、やっぱり春樹だった。
静かで。
無駄がなくて。
周囲に合わせすぎない。
でも、ちゃんとそこにいる。
「なつき、今度こそ見るのはボール」
茜が横で釘を刺した。
「分かってる」
「本当に?」
「うん。今度はちゃんと見る」
「ならよし」
バレーの練習が再開された。
なつきは今度こそ女子コートに集中しようとした。
サーブが来る。
レシーブ。
トス。
ボールを追う。
腕を合わせる。
声を出す。
でも、男子コートの音がどうしても耳に入ってくる。
だむ、だむ、だむ。
キュッ、とシューズが床をこする音。
男子たちの声。
島中の明るい声。
守の大きな声。
そして、ときどき聞こえる紅秋の声。
春樹の声はあまり聞こえない。
それなのに、なつきは春樹の動きが気になって仕方なかった。
女子コートでボールを待つ間、つい視線が男子コートへ流れる。
ミニゲームが始まっていた。
島中がボールを持つ。
動きは派手だった。
ドリブルで前へ出る。
相手を抜く。
シュートを打つ。
外れても笑う。
決めれば大きくガッツポーズをする。
周囲も盛り上がる。
「島中、ナイス!」
「さすがサッカー部!」
「バスケ部じゃねぇけどな!」
島中は笑いながら、何度もなつきの方をちらりと見た。
アピールされている。
それは分かった。
なつきはそのたびに、どう反応していいか分からず、曖昧に笑った。
すごいね。
そんな気持ちがないわけではない。
島中は確かに運動ができる。
目立つし、かっこいいと思う人もいると思う。
でも、なつきの視線は島中で止まらなかった。
その奥。
春樹。
春樹は派手には動かない。
でも、ボールが来る場所に自然にいる。
パスを受ける。
一度視線を走らせる。
無理に抜こうとしない。
近くの味方へ短くパス。
空いた場所へ動く。
戻ってきたボールを受ける。
軽く膝を曲げる。
シュート。
リングに当たらず、ボールは静かにネットを通った。
派手なガッツポーズはない。
春樹はそのまま、すぐに戻る。
何でもないことのように。
でも、なつきには何でもなくなかった。
胸が、静かに高鳴った。
すごい。
大國くん、バスケできるんだ。
本を読んでいるところしか、ほとんど知らなかった。
図書室の窓際でページをめくる姿。
教室で静かにノートを取る姿。
簿記を教えてくれた横顔。
そこに、走る春樹が加わった。
床を蹴る足。
ボールを見る目。
汗で少しだけ額に張りついた髪。
シュートを決めても騒がない静けさ。
全部、なつきの知らない春樹だった。
そして、なつきはその知らない部分に、また惹かれていた。
「なつき!」
「へ?」
女子コートから声が飛ぶ。
今度はボールが来ていた。
なつきは慌てて腕を出す。
遅い。
ボールは腕の端に当たり、変な方向へ飛んだ。
「あっ」
「どんまい!」
「次次!」
チームメイトは笑ってくれた。
茜は額に手を当てていた。
「なつき」
「ごめんなさい」
「見てたわね」
「今のは……ちょっとだけ」
「ちょっとじゃない」
「でも顔面じゃなかった」
「基準を下げない」
なつきは小さく謝った。
でも、心はまだ男子コートに置いていかれていた。
春樹が走るたびに、目で追ってしまう。
ボールが春樹へ渡るたびに、息を止めてしまう。
それは、自分でもどうしようもなかった。
バレーのゲームが少しずつ進む中、男子コートも盛り上がっていった。
島中チームは派手だった。
島中がボールを持てば周囲が声を上げる。
守がリバウンドを取れば、男子たちが笑いながら「強っ」と叫ぶ。
力と勢い。
分かりやすい強さ。
対して、春樹と紅秋のチームは静かだった。
けれど、点差はあまり開かない。
紅秋がパスを通す。
春樹が空いた場所へ動く。
また紅秋へ戻す。
別の男子へ出す。
派手ではないが、流れが切れない。
気づけば点が入っている。
島中が攻める。
春樹が無理に止めるのではなく、コースを塞ぐ。
紅秋が横からボールへ触れる。
こぼれたところを別の男子が拾う。
攻守が入れ替わる。
女子たちの一部も、男子コートを見始めていた。
「え、大國くんって運動できるんだ」
「意外」
「板倉くんも普通に動けるじゃん」
「眼鏡ないと雰囲気違うね」
「島中くんはやっぱ目立つねー」
そんな声が聞こえた。
なつきの胸が少しだけざわつく。
春樹のことを見ている人がいる。
春樹のかっこよさに気づく人がいる。
それは嬉しい。
好きな人が褒められるのは、嬉しい。
でも、同時に少しだけ落ち着かない。
自分がずっと見てきた春樹を、他の人も見始めている。
そんな勝手な気持ち。
自分でも幼いと思う。
でも、消えなかった。
「横田さん、サーブ」
体育教師の声。
「あ、はい!」
なつきは慌ててボールを受け取った。
サーブ。
苦手ではないけれど、得意でもない。
コートの後ろへ立つ。
ボールを持つ。
深呼吸する。
今度こそ集中。
ボールを見る。
相手コートを見る。
腕を引く。
その瞬間、男子コートで島中の声が響いた。
「なつき、見てろよ!」
「えっ?」
反射的に見てしまった。
島中がボールを持って、春樹の前へ向かっていく。
見てろよ。
誰に向けた言葉か、分かりやすかった。
周りの男子たちが「おお、島中いけ!」と盛り上がる。
なつきはサーブの姿勢のまま、固まってしまった。
島中がドリブルで春樹を抜こうとする。
右へ。
左へ。
派手に身体を揺らす。
春樹は動かない。
いや、動いていないように見えるだけだった。
島中が一歩踏み込んだ瞬間、春樹の足が半歩だけ動く。
進路が塞がる。
島中が少しだけ詰まる。
その一瞬に、紅秋が横からボールへ手を出した。
ボールがこぼれる。
春樹が拾う。
すぐに前へパス。
紅秋が走る。
そのままレイアップ。
ボールがリングへ吸い込まれた。
体育館が一瞬ざわついた。
「うわ、今の連携すご」
「島中止められた?」
「板倉、速くね?」
「大國、普通に守備うまい」
声が広がる。
島中は少しだけ表情を固くした。
すぐに笑ったけれど、その笑顔はさっきより薄い。
春樹は何も言わず、自分の陣地へ戻る。
紅秋が軽く手を上げると、春樹も小さく手を合わせた。
なつきは見惚れていた。
静かな連携。
派手じゃないのに、きれいだった。
春樹が目立とうとしていないのに、目を引いた。
そういうところが、好きだと思った。
そして。
「横田さん」
体育教師の声がした。
なつきははっとする。
自分はまだサーブを打っていない。
ボールを持ったまま固まっていた。
女子コートの全員がこちらを見ている。
茜が無言で見ている。
亜衣が口元を押さえて笑っている。
「す、すみません!」
なつきは慌ててサーブを打った。
焦ったせいで、ボールはネットに当たり、力なく落ちた。
女子たちから笑いが起きる。
「どんまーい!」
「なつき、集中!」
「男子見るの禁止ー!」
「見てないよ!」
なつきは反射的に言い返したが、説得力はまったくなかった。
亜衣が笑いながら近づいてくる。
「なつき、めっちゃ見てたじゃん」
「見てない……こともないけど」
「正直でいいね」
「亜衣ちゃん、お願いだから大きい声で言わないで」
「言わない言わない。で、誰見てたの?」
「えっ」
「島中? さっき見てろよって言ってたし」
なつきは言葉に詰まった。
島中。
違う。
見ていたのは島中ではない。
春樹だ。
でも、そう言えるわけがない。
なつきは困ったように笑った。
「えっと……試合?」
「試合ねぇ」
亜衣はにやっと笑う。
なつきはさらに頬を赤くする。
茜が横から入ってきた。
「亜衣、今は休憩じゃないわよ」
「あ、茜ちゃん真面目」
「真面目じゃなくて体育中」
「はいはい。なつき、あとで聞くからね」
「聞かなくていいよぉ」
亜衣は笑いながら自分の位置へ戻っていった。
なつきは胸を押さえたい気持ちになった。
危ない。
亜衣は勘が良さそうだ。
茜ほどではないかもしれないが、ふざけながらも人をよく見ている。
春樹と普通に話せる亜衣に、自分の気持ちまで気づかれたらどうしよう。
なつきは少し不安になった。
でも、それ以上に、春樹のプレーが頭から離れなかった。
授業の後半。
女子のバレーも男子のバスケも、ミニゲーム形式になった。
女子コートでは、なつきのチームが少し劣勢だった。
なつきはなるべくボールを見るようにしていた。
顔面直撃はもう嫌だ。
茜からの視線も痛い。
でも、男子コートの盛り上がりが大きくなるたびに、どうしても気になる。
特に、島中と春樹が向かい合う場面。
島中は何度も春樹を抜こうとしていた。
最初は軽いノリだった。
けれど、春樹が思ったより止めるからか、だんだん表情が真剣になっていく。
守がゴール下で声を出す。
「島中、こっち!」
「分かってる!」
島中はパスを出さず、自分で行く。
春樹が前に立つ。
今度は島中が左へ大きく動いた。
春樹が半歩下がる。
島中がジャンプシュート。
ボールはリングに当たった。
外れる。
守がリバウンドを取りに行く。
しかし、紅秋が先に位置を取っていた。
守と紅秋がほぼ同時に跳ぶ。
体格では守の方が大きい。
けれど、紅秋はタイミングがよかった。
ボールを軽くはたき、味方へつなぐ。
「板倉、やるじゃん!」
男子が声を上げる。
紅秋は少し息を吐きながら、春樹へパスを出した。
「春樹」
「ん」
春樹が受ける。
そのまま前へ。
無理に速くない。
でも、止まらない。
一人をかわし、空いた味方へパス。
すぐに自分も走る。
戻ってきたボールを受け取って、リング下で軽くシュート。
決まる。
女子コートからも、小さな歓声が上がった。
「今の大國くん、普通にかっこよくない?」
「分かる。静かなのに動けるのいい」
「板倉くんも意外」
「男子って体育で印象変わるよね」
なつきは、ボールを受ける準備をしながら、その声を聞いていた。
胸が、嬉しいような苦しいような、変な形にねじれる。
かっこいい。
そう思われるのは、分かる。
だって、かっこいい。
なつきだって、そう思っている。
でも、他の女子の口から春樹のことを「かっこいい」と聞くと、心が少しざわつく。
私が先に見つけたのに。
そんなことを思いかけて、すぐに恥ずかしくなる。
春樹は物じゃない。
誰のものでもない。
それに、自分はまだまともに話せるようになったばかりだ。
先に見ていただけ。
ただ、それだけ。
「なつき、来る!」
茜の声。
今度こそ、なつきはボールを見た。
飛んできたボールを腕で受ける。
少し変な方向へ飛んだが、チームメイトが拾ってくれた。
「ナイス!」
「上がった上がった!」
ボールが相手コートへ返る。
なつきはほっと息を吐いた。
できた。
ちゃんとボールを見られた。
茜が親指を立てる。
なつきは少し笑った。
その瞬間、男子コートでまた声がした。
「島中、ラスト一本!」
「任せろ!」
時間が残り少ないらしい。
島中チームが一点差で負けている。
島中がボールを持った。
周りの男子が盛り上がる。
なつきも、つい見てしまった。
島中は今度こそ決めるつもりなのだろう。
ドリブルが速い。
守がスクリーンのように春樹の前へ入る。
春樹の動きが一瞬止まる。
島中が抜ける。
ゴールへ向かう。
その瞬間、紅秋が横へ動いた。
島中は紅秋を避けてジャンプする。
シュート。
ボールは高く上がった。
リングへ向かう。
入る。
そう思った瞬間。
春樹が跳んだ。
無理に叩き落とすのではなく、指先で軌道をずらす。
ボールはリングの外側に当たり、跳ねた。
試合終了の笛が鳴る。
男子コートが一瞬静かになり、すぐにざわついた。
「うわ、止めた!」
「今の届くのかよ」
「大國すげぇ」
「島中惜しい!」
春樹は着地して、少しだけ息を整えた。
紅秋が近づいて、軽く肩を叩く。
春樹は何も言わず、頷く。
島中はボールの跳ねた先を見ていた。
表情は笑っている。
でも、その笑顔は悔しさを隠しているように見えた。
守が島中の背中を叩く。
「惜しかったな」
「まあ、授業だし」
島中は軽く言った。
でも、視線は春樹へ向いていた。
なつきは、その視線に少しだけ気づいた。
島中が春樹を見る目。
昨日までの軽いからかいとは少し違う。
面白くなさそうな目。
それを見て、なつきの胸に小さな不安が落ちた。
体育の授業が終わる頃には、体育館の空気はかなり温まっていた。
窓から入る風が気持ちいい。
女子たちは汗を拭きながら、ボールを片付けている。
男子たちもバスケットボールをまとめていた。
なつきは顔に当たった部分をそっと触った。
もう痛みはほとんどない。
でも、恥ずかしさはまだ残っている。
「なつき、保健室行かなくて平気?」
亜衣が聞いた。
「うん。もう大丈夫」
「ならよかった。顔赤いけど」
「えっ、まだ赤い?」
「うん。まあ、ボールのせいだけじゃなさそうだけど」
「亜衣ちゃん」
「ごめんごめん」
亜衣は笑って手を振った。
茜がタオルで汗を拭きながら近づく。
「なつき、次の体育では男子コートを見ないこと」
「努力します」
「約束しなさい」
「……努力します」
「約束できないのね」
「うん」
なつきが正直に言うと、茜は呆れた。
けれど、少しだけ笑った。
「でも、今日は一回ちゃんと返せた」
「うん。あれは見てた。よかった」
「ありがとう」
「ただし、その後また男子を見てた」
「それは……」
「大國くん?」
茜の声は小さい。
なつきは慌てて周囲を見た。
誰も聞いていない。
たぶん。
「……うん」
小さく頷く。
茜は責めるでもなく、ただ聞いた。
「かっこよかった?」
なつきは、すぐには答えられなかった。
体育館の床。
窓から入る光。
男子コートで走っていた春樹。
ボールを受ける手。
無駄のない動き。
静かなシュート。
島中のシュートを止めた瞬間。
全部が頭に浮かぶ。
顔が熱くなる。
「……かっこよかった」
ようやく言うと、茜は小さく頷いた。
「よかったわね。新しい大國くんを知れて」
「うん」
「でも、見惚れてボールに当たるのはなし」
「はい」
なつきは素直に返事をした。
そのとき、男子コート側から島中が歩いてきた。
額に汗をかき、タオルを首にかけている。
周りに男子が何人かいる。
守も一緒だった。
「なつき、大丈夫だった?」
島中が明るく聞いてくる。
「え?」
「顔面。ボール当たってたじゃん」
「あ、うん。大丈夫」
「めっちゃいい音してたぞ」
「それ言わないで……」
なつきは苦笑した。
島中は少し近づき、顔を覗き込むようにする。
「赤くなってる?」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん」
「ならよかった」
島中は笑った。
心配してくれている。
たぶん、それは本当。
でも距離が近い。
なつきは少しだけ身体を引いた。
島中は気づいているのかいないのか、そのまま続ける。
「バスケ見てた?」
「えっと……少し」
「俺のシュート見た?」
「うん。見たよ」
「どうだった?」
島中は笑顔だった。
答えを待っている顔。
周りの男子も少しニヤニヤしている。
なつきは困った。
すごかった。
そう言えばいい。
実際、島中は上手かった。
動きも速かったし、目立っていた。
でも、なつきの中で一番残っているのは春樹だった。
そのことを言えるはずがない。
「すごかったよ」
なつきは笑った。
愛想笑いだと、自分でも少し分かった。
島中は一瞬だけ、なつきの表情を見た。
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ次、もっと決めるわ」
「うん、頑張って」
「応援してよ」
「え?」
「次の体育。俺のこと見てて」
島中は冗談っぽく言った。
周りの男子が「おー」と茶化す。
守も笑う。
「島中、直球だな」
「別にいいだろ」
「なつき困ってんじゃん」
守は笑いながら言う。
なつきはまた曖昧に笑った。
「えっと……みんな見るよ」
「みんな?」
「試合だから」
「なるほどね」
島中は笑った。
でも、その笑顔は少しだけ薄かった。
なつきはそれ以上何も言えなかった。
茜が横に立つ。
何も言わない。
けれど、その存在だけで少し安心した。
「島中くん」
茜が静かに言った。
「なに?」
「更衣時間、短いわよ。男子も早く戻った方がいいんじゃない?」
「あー、そうだった」
島中は少し肩をすくめた。
「じゃあな、なつき。また教室で」
「うん」
島中たちは男子更衣室の方へ向かった。
守は途中で振り返って、なつきに声をかけた。
「なつき、顔冷やせよー」
「分かってる」
「あと次はボール見ろよ」
「田辺に言われたくない」
「俺、今日はちゃんと見てたし」
「課題は見てなかったのに?」
「それ関係なくね?」
守は笑いながら去っていった。
なつきは小さく息を吐いた。
島中に悪気があるのかどうか、まだ分からない。
ただ、距離の近さは少し苦手だった。
そして、春樹を見ていた自分に気づかれているのかもしれないと思うと、少し怖い。
なつきは男子コートの方をもう一度見た。
春樹は紅秋と一緒にボールを片付けていた。
島中たちのように騒がない。
片付けも淡々としている。
でも、紅秋が何かを言うと、春樹が短く返す。
その横顔は、体育の熱が残っているせいか、いつもより少しだけ生き生きして見えた。
なつきはその姿を、また目で追ってしまう。
すると。
春樹がふと顔を上げた。
視線がこちらへ向く。
なつきは固まった。
目が合った。
気がした。
いや、合った。
ほんの一瞬。
春樹の視線が、なつきの顔のあたりで止まった。
ボールが当たったところを見たのかもしれない。
なつきは慌てて顔を逸らした。
心臓が大きく鳴る。
見られた。
顔、赤かったかな。
ボール当たったの、知られてたかな。
恥ずかしい。
でも。
心配してくれたのかな。
そんな都合のいい想像が、胸の奥に小さく生まれる。
「なつき」
茜が言った。
「今度は何?」
「目、合った……かも」
「誰と」
「……大國くん」
茜は少しだけ目を細めた。
「よかったじゃない」
「よくない。顔面にボール当てたあとだよ」
「印象には残ったと思う」
「それ嫌だよぉ……」
なつきは両手で顔を覆った。
茜は小さく笑った。
体育館の中では、片付けが終わり始めている。
先生の笛が鳴る。
集合の声。
生徒たちがそれぞれの列へ戻る。
なつきも慌てて整列した。
男子列の中に春樹がいる。
隣に紅秋。
少し離れて島中と守。
同じ体育館。
同じ授業。
けれど、それぞれの距離は違う。
島中は分かりやすく近づいてくる。
守は無自覚に絡んでくる。
紅秋は春樹の隣に自然にいる。
そして春樹は、やっぱり遠い。
でも今日は、少しだけ新しい春樹を知った。
本を読んでいるだけじゃない。
簿記を教えてくれるだけじゃない。
体育館で走って、跳んで、シュートを止める春樹。
静かなまま、動ける春樹。
それを知ってしまった。
なつきは胸の奥が少し苦しくなった。
好きという気持ちは、知れば知るほど軽くなるわけではないらしい。
むしろ、重くなる。
知らなかった部分を知るたびに、もっと見たくなる。
もっと話したくなる。
もっと近づきたくなる。
それが嬉しくて、怖い。
体育教師が授業の終わりを告げる。
「次回も同じ種目でいく。女子はバレー、男子はバスケ。今日ボールに当たったやつは、次はちゃんと見ること」
何人かが笑った。
なつきは肩を小さくすくめる。
先生、絶対自分のことを言っている。
恥ずかしい。
でも、少しだけ笑えた。
授業が終わり、更衣室へ向かう途中。
なつきは体育館の出口で、一度だけ振り返った。
男子たちはまだ片付けをしている。
春樹がボールをかごに入れる。
紅秋が何かを言う。
春樹が少しだけ首を振る。
その横顔。
なつきはそっと胸の前で手を握った。
次の体育では、ちゃんとボールを見る。
たぶん。
できるだけ。
でも。
また春樹が走ったら。
きっと、見てしまう。
そう思った。
そして、それを否定できない自分に、なつきは少しだけ困ったように笑った。
春の体育館に、まだボールの音が残っている。
その音の中に、春樹の走る姿が、なつきの胸へ静かに残っていた。




