第3話 教えてほしい人
春の朝は、まだ少しだけ眠たそうだった。
スポーツ・商業棟三階。
二年十一組の教室には、朝の光が斜めに入り込んでいた。
窓側の席では、薄いカーテンが風に揺れている。
グラウンドからは、朝練を終えた運動部の声が遠く聞こえた。
廊下では誰かが笑いながら走っていて、すぐに先生の「廊下を走るな」という声が追いかけていく。
昨日決まった新しい席にも、少しずつ慣れ始めていた。
けれど、横田なつきだけは、まだ慣れられなかった。
斜め後ろ。
そこに大國春樹がいる。
それだけで、朝の教室の空気が少し違って感じる。
黒板。
窓。
机。
椅子。
去年と同じ教室のはずなのに、斜め後ろに春樹がいるだけで、世界の距離感が変わってしまったみたいだった。
なつきは自分の席に座りながら、机の上の教科書を少しだけ整えた。
いつもなら、適当に置いている。
でも今日は、なんとなく綺麗に並べた。
斜め後ろから見えるかもしれない。
そう思った瞬間、自分で自分が恥ずかしくなる。
見られているわけがない。
春樹はそんなに人の机を見ない。
たぶん、今も本を読んでいる。
そう分かっていても、なつきはつい姿勢を正してしまう。
「なつき」
廊下側から遠山茜がやって来た。
手には教科書とノート。
今日もきっちりしている。
「おはよう、茜ちゃん」
「おはよう。今日は机が綺麗ね」
「えっ」
「いつもはもう少し散らかってる」
「そんなことないよ」
「昨日、プリント三枚落としてた」
「それは風が」
「窓、閉まってた」
「……私が落としました」
「素直でよろしい」
茜は静かに言って、なつきの机の横に立った。
その視線が、なつきの机から少しだけ後ろへ流れる。
春樹の席。
それから、またなつきへ戻ってくる。
なつきはその動きだけで、全部見抜かれた気がした。
「なに?」
「別に」
「別にって顔じゃないよ」
「なつきが机を綺麗にする理由なんて、限られてると思っただけ」
「理由なんてないよ」
「本当に?」
「……ちょっとだけ」
「大國くん?」
「名前を出さないでください」
「もう遅い」
茜は小さく息を吐いた。
けれど、昨日より少しだけ優しい顔をしている。
昨日、なつきは書記になった。
春樹と同じ図書委員にはなれなかった。
春樹は伊藤亜衣と一緒に図書委員になった。
それは少し苦しかった。
でも、なつきもクラス役員として一歩だけ前に出た。
見ているだけだった去年とは違う。
そう思いたかった。
今日こそ、少しでも話す。
昨日もそう言った。
一昨日もそう思った。
何度も同じことを繰り返している。
けれど、今日は違う。
席が近い。
書記にもなった。
同じ教室で、ほんの少しだけ自分の立ち位置が変わった。
なら、何かが起きてもいいはず。
いや、起こさないといけないのかもしれない。
なつきは膝の上で、そっと指を握った。
「今日の一時間目、簿記だよね」
茜が言った。
「うん……」
なつきの声は、少しだけ沈んだ。
簿記。
商業科らしい授業。
嫌いではない。
嫌いではないのだけれど、得意ではない。
数字が並ぶ。
借方。
貸方。
現金。
売掛金。
仕入。
売上。
先生が説明してくれると、そのときは分かった気になる。
でも、プリントを前にすると急に迷子になる。
なつきにとって簿記は、分かったと思った瞬間に分からなくなる不思議な教科だった。
「今日、小テストみたいな確認プリントあるって先生言ってた」
「えっ、そうなの?」
「昨日のホームルームで言ってた」
「言ってた?」
「言ってた」
「聞いてなかったかも」
「図書室の方を見てたからね」
「見てない……こともないです」
なつきは肩を落とした。
茜は呆れつつも、ノートを開く。
「昨日の範囲は、仕訳の基本と売掛金、買掛金。たぶんそこが出る」
「売掛金……」
「その顔、分かってないわね」
「分かってるよ。たぶん。売ったけど、まだお金もらってないやつ」
「合ってる」
「やった」
「でも問題になると間違える」
「ひどい」
「事実」
茜の指摘は正確だった。
なつきは、言葉でなら何となく説明できる。
でも、いざ仕訳にすると、借方と貸方が逆になる。
現金が増えたらどっち。
売上はどっち。
売掛金は何。
考えれば考えるほど、頭の中で文字がぐるぐる回り始める。
「分からなかったら聞きなさい」
茜が言った。
「茜ちゃんに?」
「私でもいいけど」
茜はそこで少し間を置いた。
なつきは嫌な予感がした。
「大國くんでもいいんじゃない」
やっぱり。
なつきの顔が一気に熱くなる。
「む、無理だよ」
「何で」
「授業中だよ」
「プリントを解いた人から提出して、残り時間は自習って先生がよくやるでしょ。そのときに聞けばいい」
「急に?」
「急にじゃない。分からないところを聞くのは普通」
「でも、大國くん、迷惑じゃないかな」
「分からない」
「分からないの?」
「私は大國くんじゃないから」
「茜ちゃん、たまに正論で突き放す」
「なつきが考えすぎるからよ」
茜はノートを閉じた。
「聞きたいなら聞く。聞かないなら自分で解く。それだけ」
「それだけが難しいんだよ」
「恋愛は知らないけど、簿記は聞いた方が早い」
「恋愛も聞けたら早いのかな」
「何を?」
「私のことどう思ってますか、って」
「それを今聞けるなら苦労してないでしょ」
「はい……」
なつきは机に頬をつけそうになった。
そのとき、前方から元気な声が飛んできた。
「なつきー、簿記のプリントって今日だっけ?」
田辺守だった。
なつきは少しだけ顔を上げる。
守は前の方の席から、椅子を少し後ろに傾けながらこちらを見ている。
「今日らしいよ」
「マジか。昨日勉強した?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとって何分」
「えっと……十五分」
「俺よりやってる」
「田辺は?」
「五分」
「それはやったって言わないよ」
「教科書開いたからセーフだろ」
「開いただけ?」
「読もうとした」
「読んではないんだね」
「眠くなった」
守は堂々と言った。
なつきは思わず笑ってしまう。
茜は冷たい目を向けた。
「田辺くん、今日のプリント、成績に入るかもしれないって先生言ってたわよ」
「え、マジ?」
「マジ」
「それ昨日言ってくれよ」
「昨日言った」
「俺聞いてない」
「聞いてなかっただけ」
「遠山、今から教えて」
「授業前の五分でどうにかなると思ってる?」
「思ってる」
「ならない」
茜の返答は容赦なかった。
守は「終わった」と前を向いて突っ伏す。
教室のあちこちで、似たような会話が起きていた。
簿記が得意な生徒は余裕そうにしている。
苦手な生徒は慌ててノートを見返している。
島中良は、中心グループの中で笑いながら教科書をめくっていた。
「いや、これ余裕だろ。借方とか貸方とか、雰囲気で分かるって」
「雰囲気で分かったら苦労しねぇよ」
「でも先生の問題、だいたいパターンじゃん」
「島中、分かってるなら教えて」
「え、俺が?」
「今余裕って言ったじゃん」
「いや、余裕って気持ちの問題だから」
周囲が笑う。
島中も笑う。
その軽さが、教室の空気を明るくしている。
でも、なつきは少しだけ不安になった。
島中は、分かっているのか分かっていないのか分からない。
守よりはできるのかもしれない。
でも、教えてもらうなら、やっぱりちゃんと分かっている人がいい。
春樹。
斜め後ろの席。
なつきは、また少しだけ意識した。
春樹は本を閉じ、簿記の教科書を開いていた。
その横に、ノート。
シャーペン。
すでに準備が終わっている。
落ち着いている。
やっぱり、できるんだろうな。
なつきはそう思った。
春樹に聞きたい。
でも、聞けるだろうか。
チャイムが鳴った。
簿記の先生が教室に入ってくる。
少し年配の男性教師で、声は大きいが説明は丁寧だった。
黒板に今日の内容を書きながら、先生は教室を見渡した。
「はい、今日は昨日言った通り、確認プリントをやります。できた人から前に提出。提出した人は静かに自習。まだの人に答えを教えるのは禁止。ただし、考え方の確認は小声でなら許可します」
教室が少しざわついた。
「先生、考え方と答えの違いって何ですかー?」
島中が聞いた。
先生は慣れた様子で答える。
「答えをそのまま言ったらアウト。なぜそうなるかを説明するならセーフ」
「じゃあ、雰囲気って説明は?」
「アウト」
「厳しい」
「簿記を雰囲気でやるな」
教室に笑いが起きた。
なつきも少し笑った。
けれど、すぐにプリントが配られ始めると、笑っている余裕はなくなった。
前から後ろへ。
白いプリントが回ってくる。
なつきは一枚取って、後ろへ回した。
その瞬間。
「はい」
後ろから春樹の声がした。
短い。
ただ、プリントを受け取っただけ。
でも、なつきの背中がぴんと伸びた。
声が近い。
斜め後ろにいるのだから当たり前なのに、いちいち反応してしまう。
プリントの一番上には、今日の日付と名前欄。
その下に、仕訳問題が十問並んでいる。
最初の二問は簡単そうだった。
現金で商品を売り上げた。
商品を掛けで仕入れた。
なつきはゆっくり問題を読んだ。
先生の合図で、教室が静かになる。
紙に鉛筆が走る音。
消しゴムの音。
どこかで小さくため息。
いつも賑やかな二年十一組が、簿記のプリント一枚で急に真面目になる。
なつきもシャーペンを握った。
まず一問目。
現金で商品を売り上げた。
現金が増える。
売上。
借方、現金。
貸方、売上。
これは分かる。
二問目。
商品を掛けで仕入れた。
掛けで仕入れたということは、まだお金を払っていない。
買掛金。
仕入。
借方、仕入。
貸方、買掛金。
たぶん合っている。
三問目。
売掛金を現金で回収した。
売掛金が減る。
現金が増える。
借方、現金。
貸方、売掛金。
これも、たぶん。
四問目。
なつきの手が止まった。
問題文を読む。
商品を売り上げ、代金の一部を現金で受け取り、残額は掛けとした。
現金。
売掛金。
売上。
三つ出てきた。
え。
どうするの。
借方が二つ?
貸方が一つ?
それでいいの?
なつきは問題文をもう一度読んだ。
商品を売り上げた。
売上は貸方。
現金を受け取った。
現金は借方。
残りは掛け。
売掛金は借方。
つまり、借方に現金と売掛金。
貸方に売上。
……で、いいのかもしれない。
でも金額の合計が合っているか確認しないといけない。
なつきは計算しようとして、問題文の数字を見直した。
現金三千円。
残額二千円。
売上五千円。
たぶん合っている。
書いた。
けれど、不安が残る。
次の問題。
買掛金の一部を現金で支払い、残額は約束手形を振り出した。
約束手形。
急に知らない単語が出てきた気がした。
いや、昨日説明していた。
聞いた気がする。
でも、どう使うのか分からない。
支払手形?
受取手形?
買掛金が減る。
現金も減る。
手形を振り出すから、支払手形。
借方、買掛金。
貸方、現金、支払手形。
たぶん。
たぶんばかりだ。
なつきはプリントの端を指で押さえた。
頭の中が少しずつ曇っていく。
周りでは、もう立ち上がる生徒が出始めていた。
プリントを終えた人から提出。
早い。
紅秋が最初に立った。
先生の机へ行き、プリントを提出する。
すぐに席へ戻る。
その少し後、春樹も立ち上がった。
なつきは思わず顔を上げそうになった。
でも、上げないようにした。
春樹が横を通る。
プリントを持って、教卓へ向かう。
先生がざっと目を通し、頷く。
「大國、よし」
「はい」
春樹は静かに返事をして、席へ戻った。
早い。
やっぱり、できる。
なつきは自分のプリントを見た。
まだ半分残っている。
しかも自信がない。
聞きたい。
今なら先生も「考え方の確認はいい」と言っていた。
春樹はもう提出している。
自習中。
聞ける。
聞いても、変ではない。
簿記の問題について聞くだけ。
それだけ。
なつきはシャーペンを置いた。
少しだけ後ろを振り返る。
春樹は本を開いていた。
でも、授業中だからか、読んでいるというより、静かに待っているように見えた。
声をかけるなら今。
なつきは唇を開きかけた。
その瞬間。
「なつき」
前方から声が飛んできた。
まただった。
田辺守。
なつきは少しだけ肩を落としそうになる。
「なに?」
小声で返す。
授業中だから、守も声を抑えている。
しかし、声を抑えていても、存在感は大きい。
「五問目分かる?」
「私も分からない」
「マジかよ。なつきなら分かると思ったのに」
「なんで?」
「雰囲気」
「簿記を雰囲気でやっちゃだめって先生言ってたよ」
「俺じゃなくて、なつきの雰囲気」
「どういう意味?」
「なんか今日は分かってそうな顔してた」
「してないよ」
「してた。目が真面目だった」
「田辺、それ褒めてる?」
「半分」
「もう半分は?」
「眠そう」
「ひどい」
守は前方の席から身体をひねっている。
先生に見つかれば注意される。
なつきは早く会話を終わらせたかった。
春樹に聞きたい。
でも、守が話しかけてくると、その流れが切れる。
「田辺、先生に聞いた方がいいよ」
「先生怖いじゃん」
「怖くないよ」
「大國に聞けば?」
守がそう言った。
なつきの心臓が跳ねる。
「え?」
「大國、もう終わってたし。お前近いだろ」
守は何の気なしに言った。
本当に、それだけだった。
なつきが春樹を好きだなんて思ってもいない。
春樹に聞きに行きたいと思っていることも知らない。
ただ、斜め後ろにいて、できる人だから、聞けばいいと言っただけ。
けれど、なつきにはその一言が大きすぎた。
自分から聞くのとは違う。
守に言われて聞くみたいになる。
それは嫌だった。
でも、聞きたい。
迷っていると、さらに別の声が割って入った。
「なつき、分かんないなら俺が教えようか」
島中だった。
斜め前の席から、軽く身体をこちらへ向けている。
声は小さいが、表情はいつものように明るい。
「え、島中くん?」
「俺、そこ分かったし」
「本当?」
「たぶん」
「たぶん?」
「大丈夫大丈夫。こういうのは勢いだから」
なつきは困った。
勢いでは困る。
簿記は勢いでやるものではない。
でも、島中はにこにこしている。
断りづらい。
「なつき、どこ?」
島中が少し身を乗り出す。
「五問目?」
「う、うん」
「見せて」
「あ、でも」
なつきが迷っていると、守も前から覗き込もうとする。
「俺も見たい」
「田辺は自分のやって」
「だから分かんねぇんだって」
「私も分からないってば」
「じゃあ三人で考えればいいだろ」
「授業中だよ」
「小声ならいいって先生言ってた」
「答え教えるのはだめって」
「答え分かんねぇからセーフ」
「それはセーフなの?」
なつきは混乱してきた。
春樹へ聞きたい。
でも、島中と守がいる。
二人とも悪気があるようでないようで、なつきの周りに会話を広げていく。
声は小さいが、近くの女子がちらちら見始めていた。
島中はその視線に気づいても、気にしない。
むしろ少し楽しんでいるようにも見える。
「なつきって簿記苦手だよな」
島中が言った。
「う……」
「でもそういうとこ、らしいっていうか」
「島中くん、それ今言わなくても」
「いや、かわいいって意味」
なつきは固まった。
まただ。
軽い言葉。
周りの空気を巻き込む言い方。
授業中なのに。
なつきが困っているのに。
「島中」
茜の声がした。
廊下側の席から、静かに。
でも、教室の空気を少し冷やす声だった。
「今、横田さんは問題を解きたいの。からかう時間じゃない」
島中は少しだけ眉を上げた。
「からかってないって」
「じゃあ教えられるの?」
「え?」
「五問目。説明できる?」
「いや、まあ、だいたいは」
「だいたいじゃなくて。買掛金の一部を現金で支払い、残額は約束手形を振り出した場合、借方と貸方は?」
島中は口を開いた。
閉じた。
少しだけ視線を逸らす。
「……それは、今から考えるとこ」
「なら邪魔しないで」
茜の声は淡々としていた。
でも、切れ味は鋭かった。
教室の近くの生徒たちが、少しだけ息をひそめる。
島中の表情から、笑みが少し消えた。
「別に邪魔してねぇし」
「してる」
茜はすぐに返した。
「横田さんが困ってる。分からないなら黙って自分の問題を解いて」
「……」
沈黙が落ちた。
島中は少しだけ唇を引き結んだ。
空気が気まずくなる前に、守が口を挟んだ。
「まあまあ、遠山。俺も分かんねぇしさ」
「田辺くん」
「はい」
「あなたはまず、自分のプリントを前に向けなさい。身体をひねっているから先生に見つかる」
「え、そこ?」
「それから、分からない人が分からない人に聞いても進まない」
「刺さる」
「刺さっていいから前を向きなさい」
「はい……」
守は素直に前を向いた。
島中も面白くなさそうに自分のプリントへ戻る。
なつきはその場で少し固まっていた。
茜が助けてくれた。
でも、教室の空気が少しだけ変わってしまった気もする。
島中の周りの男子が、小声で何か言っている。
島中は笑ってはいない。
守は本当に困った顔でプリントを見ている。
なつきは胸の中が少しざわついた。
自分がはっきり言えないから、茜に言わせてしまった。
そう思うと、申し訳ない。
同時に、ほっとしている自分もいる。
どちらの気持ちも本当だった。
なつきはもう一度、春樹の方を見ようとした。
しかし、その前に別の声がした。
「大國ー」
伊藤亜衣だった。
亜衣はすでにプリントを半分以上解いたらしく、後ろを向いて春樹に声をかけている。
春樹は本から顔を上げた。
「何」
「ここ分かんない。五問目」
なつきの胸が小さく沈んだ。
同じ問題。
自分が聞きたかったところ。
亜衣は迷わず聞いた。
本当に、自然に。
春樹は亜衣のプリントを見た。
「買掛金が減る」
「うん」
「だから借方は買掛金」
「借方に買掛金ってこと?」
「そう」
「で、貸方は現金?」
「現金で払った分は現金。残りは支払手形」
「支払手形か。受取手形じゃなくて?」
「自分が払う側だから」
「あー、なるほど。払う側だから支払手形。分かりやす」
亜衣は納得したように頷いた。
春樹は必要なことだけを短く説明する。
でも、その短さが分かりやすい。
なつきも聞いていて、少し理解できた。
けれど、それがまた胸に刺さる。
自分が聞けなかったことを、亜衣は聞いた。
自分が聞きたかった説明を、亜衣は受け取った。
それだけ。
それだけなのに、なつきの指先が少し冷たくなる。
「大國、説明うまいね」
亜衣が言う。
「普通」
「普通じゃないって。先生より短いのに分かる」
「先生に聞かれたら怒られる」
「内緒にしとく」
亜衣は笑った。
春樹も、ほんの少しだけ表情を緩めた。
なつきは目を逸らした。
見ているのが少しつらかった。
亜衣は悪くない。
春樹も悪くない。
授業中に分からないところを聞いただけ。
それなのに、自分だけが勝手に落ち込んでいる。
情けない。
なつきはプリントへ視線を戻した。
五問目。
今の説明で分かった。
借方、買掛金。
貸方、現金、支払手形。
金額も合う。
書ける。
でも、なぜかペンが少し重かった。
六問目。
今度は売掛金に関する問題。
また少し迷う。
七問目。
さらに迷う。
八問目。
完全に手が止まった。
プリントの上に、白い空白が残る。
周囲では、どんどん提出する生徒が増えていた。
紅秋はすでに自習に入っている。
春樹も本を読んでいる。
亜衣も提出しに行った。
島中は何とか書き終えたのか、先生に出している。
守はまだ苦戦している。
なつきも、進まない。
焦る。
焦るほど分からない。
茜に聞くこともできる。
でも、茜はまだ自分の問題を解いている。
しかも、さっき助けてもらったばかりだ。
これ以上頼っていいのだろうか。
先生に聞く?
でも、先生は提出されたプリントを確認している。
春樹に聞く?
聞きたい。
でも、今度こそ聞ける?
なつきはシャーペンを握ったまま、じっとプリントを見つめた。
時間だけが過ぎる。
教室のざわめきが少しずつ増えていく。
解き終わった生徒たちが小声で話し始める。
先生が「静かに」と注意する。
窓の外では、風が桜の花びらを運んでいる。
なつきは、八問目の空白を見つめながら、胸の奥で小さく呟いた。
聞きたい。
教えてほしい。
でも。
そのときだった。
「横田さん」
背中の後ろから、静かな声がした。
なつきは、反射的に顔を上げた。
心臓が一瞬遅れて跳ねる。
大國春樹の声だった。
なつきはゆっくり振り返る。
春樹は本を閉じて、こちらを見ていた。
「そこ」
「え?」
「八問目。たぶん、売掛金と売上を逆にしてる」
なつきは慌てて自分のプリントを見る。
まだ空欄だ。
「あ、まだ書いてない」
「じゃあ、書く前でよかった」
春樹は静かに言った。
なつきは固まった。
春樹が。
声をかけてくれた。
自分から。
自分に。
教えてくれるために。
頭の中で言葉が散らばる。
何か返さないと。
でも、何を返せばいいか分からない。
「あ、ありがとう」
やっと出た声は、小さかった。
春樹は首を少し横に振る。
「問題文、見る?」
「う、うん」
なつきはプリントを少し後ろへ向けた。
春樹は席から少し身を乗り出す。
近い。
距離が近い。
斜め後ろだから、プリントを見せるには自然な距離。
でも、なつきにとっては自然ではなかった。
春樹の視線が、自分のプリントに落ちる。
指が問題文を軽く示す。
その指先まで、なつきは見てしまう。
「ここは、商品を掛けで売り上げたって書いてある」
「うん」
「だから、まだお金はもらってない」
「うん」
「お金をもらってないけど、後でもらえる権利がある」
「それが売掛金?」
「そう」
「じゃあ、売掛金は借方?」
「うん。増えるから」
「売上は?」
「貸方」
春樹の説明は短い。
でも、すっと入ってくる。
先生の説明よりも、ずっと近い場所から届くからかもしれない。
なつきはゆっくり頷いた。
「借方、売掛金。貸方、売上」
「そう」
「……分かったかも」
「かも?」
「あ、分かった。と思う」
なつきが慌てて言い直すと、春樹は少しだけ口元を緩めた。
その小さな変化に、なつきの胸がまた跳ねる。
笑った。
ほんの少し。
でも、笑った。
「五問目は?」
春樹が聞いた。
「さっき、亜衣ちゃんに教えてたところ?」
「うん」
「聞こえてたから、たぶん大丈夫」
「ならいい」
「でも……」
なつきは少し迷った。
聞いていいのだろうか。
せっかく春樹が声をかけてくれた。
ここで終わったら、また短い会話で終わってしまう。
もう少し。
もう少しだけ話したい。
なつきはプリントの端を指で押さえた。
「大國くんって、説明分かりやすいね」
言えた。
ただの感想。
でも、なつきにとっては勇気のいる一言だった。
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
「そう?」
「うん。短いけど、分かる」
「短すぎるって紅秋には言われる」
「板倉くん?」
「うん。説明を削りすぎって」
「たしかに、先生みたいに長くはないかも」
「長い方がいい?」
「私は……短い方が助かるかも。長いと途中で迷子になるから」
「それは分かる」
「大國くんも?」
「説明が長いと、どこが大事か分からなくなることはある」
「え、意外」
「意外?」
「大國くんは、全部分かってそうだから」
言った瞬間、なつきは少し焦った。
変なことを言ったかもしれない。
春樹は自分をどう見ているかなんて言われたら困るかもしれない。
でも、春樹は嫌そうな顔をしなかった。
ただ、少しだけ考えるように視線を落とした。
「全部は分からない」
「そうなの?」
「分からないところを減らしてるだけ」
その言葉は、静かだった。
でも、なつきの胸に残った。
全部分かっているわけではない。
分からないところを減らしているだけ。
春樹は、簡単にできているように見える。
でも、本当はきっと、ちゃんと考えている。
努力している。
分からないことと向き合っている。
なつきはそのことに少し驚いて、少し嬉しくなった。
遠くから見ていた春樹が、少しだけ人間らしく近づいた気がした。
「そっか」
なつきは小さく言った。
「私も、減らせるかな」
「何を?」
「分からないところ」
「聞けば減ると思う」
春樹はさらっと言った。
なつきはその言葉に、思わず顔を上げた。
聞けば。
減る。
それは簿記の話だ。
でも、なつきには別の意味にも聞こえた。
春樹のことを知らない。
話せない。
分からない。
でも、聞けば少しずつ減るのだろうか。
春樹との距離も。
分からないことも。
「じゃあ」
なつきは、もう一度勇気を出した。
「また聞いてもいい?」
教室のざわめきが、少しだけ遠くなった。
聞いてしまった。
また。
これは、次の約束みたいな言葉だ。
重かっただろうか。
図々しかっただろうか。
春樹は少しだけ間を置いた。
その沈黙の間に、なつきの胸は何度も小さく震えた。
やっぱり迷惑だったかも。
そう思いかけたとき、春樹が答えた。
「分かるところなら」
なつきは息を止めた。
それから、ゆっくり頷いた。
「ありがとう」
「うん」
会話はそこで一度途切れた。
でも、今までとは違った。
ただ終わったのではない。
次がある。
また聞いてもいい。
春樹は、分かるところなら、と言ってくれた。
なつきはプリントへ向き直った。
手が少し震えていた。
でも、さっきまでの焦りとは違う。
胸の奥が温かい。
八問目を書く。
九問目。
十問目。
春樹に教えてもらった考え方を思い出しながら、ゆっくり解く。
まだ少し迷う。
でも、完全に止まることはなかった。
ようやく最後まで書き終えたとき、なつきは小さく息を吐いた。
先生のところへ持っていく。
先生はざっと見て、赤ペンで一か所だけ印をつけた。
「横田、ここだけ惜しい。あとは合ってる」
「本当ですか?」
「本当。昨日よりいいぞ」
「ありがとうございます」
なつきは思わず笑った。
席へ戻る途中、茜と目が合う。
茜は少しだけ頷いた。
なつきも小さく頷き返す。
席に戻ると、斜め後ろから春樹の声がした。
「合ってた?」
なつきは驚いて振り返った。
春樹は本を開きかけていたが、こちらを見ている。
「一か所だけ間違えたけど、ほとんど合ってた」
「よかった」
「うん。大國くんのおかげ」
「俺は少し言っただけ」
「でも助かったよ」
なつきはそこで少しだけ迷った。
そして、もう一言だけ続けた。
「ありがとう」
春樹は、少しだけ目を細めた。
「どういたしまして」
その返事は短かった。
でも、今のなつきには十分すぎた。
胸の奥に、小さな花が咲いたみたいだった。
授業が終わる頃、教室はまたいつもの騒がしさを取り戻していた。
提出し終えた生徒たちが答え合わせのような話をしている。
「五問目むずくね?」
「支払手形って何だよ」
「俺、受取手形にしたわ」
「終わったじゃん」
守は机に突っ伏していた。
なつきが近づくと、顔だけ上げる。
「なつき、できた?」
「一か所だけ間違えた」
「勝ち組じゃん」
「田辺は?」
「聞くな」
「そんなに?」
「先生に『田辺、これは簿記じゃなくて創作だ』って言われた」
「それはすごいね」
「褒めてねぇだろ」
「うん」
なつきは笑った。
守は唇を尖らせる。
「てか、さっき大國に教えてもらってた?」
なつきの心臓が跳ねた。
「えっ」
「後ろでなんか話してたじゃん」
「あ、うん。少し」
「ふーん」
守は不思議そうに首を傾げた。
「大國って教え方うまいんだな」
「うん。分かりやすかった」
「俺も聞けばよかった」
「聞けばよかったのに」
「なんか聞きづらいじゃん」
その言葉に、なつきは少しだけ驚いた。
守でもそう思うのか。
春樹に聞きづらいと思うのか。
なつきだけではないのかもしれない。
「でも、聞いたら教えてくれると思うよ」
なつきは言った。
守は少しだけ目を丸くした。
「なんか今日のなつき、大國のこと分かった風じゃん」
「そ、そうかな」
「うん」
「そんなことないよ」
「まあいいけど」
守はそれ以上追及しなかった。
本当に気づいていない。
なつきが春樹に教えてもらって嬉しかったことも。
今も心臓が少し速いことも。
何も。
そこへ島中が来た。
「なつき、結局大國に聞いたんだ?」
声は軽い。
でも、少しだけ引っかかる響きがあった。
なつきは顔を上げる。
「うん。教えてもらった」
「俺が教えようとしたのに」
「島中くん、五問目分からなかったでしょ」
「まあ、あれは引っかけだったから」
島中は笑った。
でも、茜がすぐに横から言う。
「引っかけではないわよ」
「遠山、容赦ないな」
「事実だから」
「俺、そんなにだめだった?」
「教える側には向いてなかった」
「言い方」
「正確に言っただけ」
島中は苦笑しながら肩をすくめた。
周囲は笑っている。
でも、島中の目は少しだけなつきを見ていた。
なつきはその視線に気づいて、少し落ち着かなくなる。
「ま、大國に教えてもらえてよかったじゃん」
島中は明るく言った。
「うん」
なつきは素直に頷いた。
それが少しだけ、島中の笑顔を固くした。
けれど、すぐにいつもの顔に戻る。
「次分かんないときは俺にも聞けよ」
「うん……分かるところだったら」
「そこ強調しなくてもよくない?」
「だって」
なつきが困ったように笑うと、周囲も笑った。
茜は静かに島中を見ていた。
島中はそれに気づいたのか、少しだけ視線を逸らした。
授業と授業の間の休み時間。
教室はいつもの十一組に戻っていく。
守は自分の間違えたプリントを見て唸っている。
島中は中心グループへ戻り、何事もなかったように話し始める。
亜衣は別の女子に「大國、説明うまかった」と話している。
紅秋は春樹の席へ行き、何かを言っている。
春樹は本を開きながら、短く返している。
なつきは自分の席に座り、提出済みのプリントを見た。
一か所だけ赤い印。
でも、ほとんど合っていた。
春樹に教えてもらえたから。
春樹と話せたから。
また聞いてもいい、と言えたから。
それだけで、今日の簿記のプリントは、ただの確認プリントではなくなった。
なつきにとって、忘れられない一枚になった。
「よかったわね」
茜が隣に来て言った。
なつきは少しだけ頬を赤くした。
「うん」
「ちゃんと話せた」
「うん」
「短文で終わらなかった」
「そこ?」
「大事でしょ」
「大事かも」
なつきは笑った。
でも、すぐに少しだけ真面目な顔になる。
「茜ちゃん」
「何」
「私、聞いたら減るって言われた」
「何が?」
「分からないところ」
茜は少しだけ考えた。
それから、なつきの顔を見て、小さく頷いた。
「いい言葉ね」
「うん」
「じゃあ、聞いていかないとね」
「……うん」
なつきは春樹の方をちらりと見た。
春樹は本を読んでいる。
いつものように静かだ。
でも、昨日までとは少し違って見える。
遠い人。
見ているだけの人。
それだけではなくなった。
分からないところを教えてくれた人。
また聞いてもいいと言ってくれた人。
少しだけ、近づけた。
ほんの少し。
でも、なつきにとっては大きな一歩だった。
窓の外では、桜の花びらがまだ舞っている。
春は少しずつ進んでいく。
横田なつきの片想いも、ゆっくりと。
誰かに邪魔されながら。
誰かを羨ましがりながら。
それでも、ほんの少しずつ。
見ているだけの場所から、言葉を交わせる場所へ。
近づき始めていた。




