第2話 同じ場所に立てそうで、立てない
翌朝。
水戸の空は、昨日より少しだけ白く霞んでいた。
春の朝特有の、やわらかい湿り気を含んだ空気が、スポーツ・商業棟の廊下にゆっくり流れている。
二年十一組の教室は、昨日より少しだけ落ち着いていた。
進級初日の浮ついた空気はまだ残っている。
けれど、一日経っただけで、去年から続く商業科の空気が戻ってきていた。
顔ぶれは変わらない。
商業科は一クラスしかない。
だから、誰かと離れたとか、誰かと同じクラスになれたとか、そういう騒ぎはない。
変わったのは席だけ。
けれど、横田なつきにとっては、その席だけで十分だった。
斜め後ろに、大國春樹がいる。
昨日から、ずっとそれを意識している。
教室に入る前から。
階段を上っている途中から。
自分の席に座る前から。
なつきは何度も心の中で言い聞かせていた。
普通にする。
普通に座る。
普通に挨拶する。
それだけ。
それだけなのに、教室の扉を開けた瞬間、全部が揺らいだ。
春樹はもう来ていた。
窓側の一番後ろ。
昨日決まった新しい席。
机の上に文庫本を置き、静かにページをめくっている。
朝の教室は賑やかだった。
島中良を中心にした男子たちの笑い声。
女子たちの昨日のドラマの話。
田辺守が課題の提出について誰かに泣きついている声。
それらが混ざる中で、春樹の周りだけは、少しだけ音が薄い。
そこだけ、朝の光が静かに落ちているみたいだった。
なつきは、扉のところでほんの少し立ち止まった。
おはよう。
昨日、言えなかった言葉。
今日こそ。
今日こそ、言う。
そう決めていた。
でも、春樹は本を読んでいる。
邪魔になるかもしれない。
いや、挨拶くらい邪魔じゃない。
同じクラスなんだから。
斜め後ろなんだから。
ただ振り返って、おはようと言えばいい。
なつきは自分の席へ向かいながら、指先で鞄の持ち手をぎゅっと握った。
席につく。
椅子を引く。
鞄を置く。
背中の後ろに、春樹の気配がある。
ただ座っているだけなのに、肩に力が入る。
なつきは一度、深く息を吸った。
そして、ゆっくり振り返ろうとした。
「なつき」
その瞬間、前方から田辺守の声が飛んできた。
なつきの身体がぴたりと止まる。
「……なに?」
「課題、今日提出だっけ?」
「昨日も言ってたよね、それ」
「昨日は昨日。今日は今日だろ」
「提出は今日だよ」
「マジか」
「マジだよ」
「終わった」
守は机に突っ伏した。
教室の前方。
黒板に近い席。
昨日の席替えで、守はかなり前の席になっていた。
本人はずっと文句を言っている。
なつきは少しだけ呆れながらも、笑ってしまった。
「昨日のうちにやればよかったのに」
「昨日は部活があった」
「その後は?」
「飯食った」
「その後」
「風呂入った」
「その後」
「寝た」
「やる時間あったよね?」
「寝る時間は削れねぇだろ」
「課題を削ったんだね」
「うまいこと言うな」
「褒めてないよ」
守は突っ伏したまま、片手だけを上げてひらひら振った。
「なつき、写させて」
「私も全部自信ないよ」
「いいから。お前の字なら読める」
「田辺の字よりはね」
「そこは認める」
なつきが苦笑していると、廊下側の席から遠山茜がやってきた。
手には提出用のプリントをきれいに揃えて持っている。
「田辺くん」
「お、遠山。救世主」
「自分でやりなさい」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「俺そんな分かりやすい?」
「かなり」
茜は冷静に言い切った。
守は「マジか」と本気で驚いた顔をする。
なつきは少しだけ笑った。
でも、その笑いの後ろで、胸の奥が小さく沈む。
まただ。
またタイミングを逃した。
春樹へおはようと言うはずだったのに。
守は悪くない。
悪くないのに、いつも絶妙なところで声をかけてくる。
昨日もそうだった。
放課後、春樹を追って図書室へ行こうとしたとき、守に止められた。
今日も、挨拶しようとした瞬間だった。
なつきは机の端を指でなぞった。
言えばよかった。
守に返事をする前に。
振り返って、春樹に。
たった一言。
おはよう。
それだけなのに。
「なつき?」
茜が顔を覗き込む。
「どうしたの。朝から少し固まってる」
「ううん。なんでもない」
「なんでもない顔じゃない」
「大丈夫」
「また大丈夫で片づける」
茜が少しだけ眉を寄せた。
なつきは曖昧に笑った。
そのとき、斜め後ろで椅子がわずかに動く音がした。
なつきの背筋が伸びる。
春樹が本を閉じたのかもしれない。
立ったのかもしれない。
こちらを見ているわけではないと思う。
でも、気になる。
気になってしまう。
なつきはゆっくり、ほんの少しだけ振り返った。
春樹の席の横に、板倉紅秋が立っていた。
黒髪。
眼鏡。
すらっとした体格。
朝から落ち着いた雰囲気で、片手にプリントを持っている。
紅秋は春樹の机にそのプリントを軽く置いた。
「春樹、昨日の確認プリント。先生が出しておけって」
「ありがとう」
「君、こういうの無駄に早いから、俺が渡す必要なかった気もするけど」
「なら持ってこなくてよかった」
「そう言われると思ったから持ってきた」
「どういうこと」
「少しくらい人に感謝しなさいということ」
春樹は少しだけ目を細めた。
笑った、というには小さい。
でも、なつきには分かる。
春樹の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
その瞬間、胸がきゅっとした。
紅秋とは普通に話す。
春樹は、紅秋とはこんなふうにやり取りできる。
短いけれど、自然で、遠慮がない。
昨日も見た光景。
羨ましい。
自分もあんなふうに、春樹に話しかけられたら。
そう思う。
でも同時に、紅秋に対して嫌な気持ちはなかった。
紅秋は、なつきから見ても嫌な人ではない。
むしろ、春樹の近くにいることで、春樹の表情を少しだけ引き出してくれる人に見えた。
だからこそ、余計に遠く感じた。
あの場所に、自分はいない。
「見すぎ」
茜の声が小さく刺さった。
なつきは慌てて前を向いた。
「見てない」
「今のは無理がある」
「ちょっとだけ」
「ちょっとの時間が長かった」
「うぅ……」
なつきは机に額をつけたくなった。
茜はため息をつきながらも、声を柔らかくする。
「今日は委員会決めがあるでしょ」
「うん」
「大國くんと話す機会があるかもしれない」
「あるかな」
「同じ委員になれればね」
その言葉に、なつきの心臓が跳ねた。
同じ委員。
それは昨日のホームルームで担任が言っていたことだった。
今日はクラス内の係と、各委員会を決める。
学校全体の委員会は、各クラスから二名ずつ。
図書委員、保健委員、体育委員、文化委員、美化委員、放送委員。
いくつかある。
そして、春樹といえば。
やっぱり、図書委員。
なつきは昨日から何度も考えていた。
春樹が図書委員になったら。
自分も立候補できるだろうか。
図書室。
放課後。
本の整理。
委員会の仕事。
自然に話す理由ができる。
用事があるから話す。
同じ仕事だから話す。
それなら、春樹の読書を邪魔しているわけではない。
話しかける理由がある。
なつきにとって、それは喉から手が出るほど欲しい理由だった。
「図書委員……」
なつきが小さく呟くと、茜はすぐに反応した。
「やりたいの?」
「やりたい、というか」
「大國くんがやるなら?」
「……やりたい」
「正直でよろしい」
「でも、私が図書委員って変じゃないかな」
「別に変じゃない」
「本、そんなに読まないよ?」
「読まない図書委員なんて普通にいる」
「それはそれでどうなの」
「理由なんて何でもいいのよ。やるならちゃんとやれば」
茜は淡々と言った。
なつきは少しだけ考え込む。
自分が図書委員。
似合わない気がする。
でも、春樹と同じ委員になれるなら。
やってみたい。
やれるかもしれない。
そんな期待が胸に灯りかけたところで、チャイムが鳴った。
担任が入ってくる。
「はい、席つけー。昨日配った書類出せよ。出してないやつはこの場で反省しろ」
教室がざわつく。
守が前方で本当に反省しているような顔をしていた。
島中が隣の男子に何かを言って笑っている。
紅秋はすでに提出物を整えている。
春樹も静かにプリントを出していた。
なつきも慌てて鞄から書類を取り出す。
少しだけ角が折れていた。
茜がそれを見て、小さく眉を寄せる。
「なつき、昨日ファイルに入れた?」
「入れたよ」
「どのファイル?」
「えっと……鞄の中の」
「それはファイルじゃなくて鞄」
「細かい」
「細かくない」
なつきは苦笑しながらプリントを伸ばした。
担任が出席を取り、連絡事項を済ませる。
そして、黒板に大きく文字を書いた。
『委員会・係決め』
教室の空気が、少しだけ変わった。
面倒そうにする声。
誰かやれよ、という視線。
なるべく楽なものを選びたい空気。
新学期らしいざわつきが、教室の中をゆっくり広がっていく。
「さて」
担任はチョークを置き、教卓に手をついた。
「今日は委員会とクラス役員を決める。先に言っておくが、黙ってれば時間が過ぎると思うなよ。終わるまで帰れん」
「先生、横暴ー」
島中が軽く言った。
教室が笑う。
担任は慣れた様子で返す。
「横暴で結構。まず各委員会からだ。委員会は各クラス二名まで。男女は問わない。ただし、名前だけ置いて仕事しないやつは許さん」
「楽なやつありますかー?」
男子の一人が聞いた。
「そういう質問をするやつには面倒なやつをやらせる」
「すみませんでした」
また笑いが起きる。
なつきはその笑いの中で、そっと斜め後ろを意識していた。
春樹は前を向いている。
表情は変わらない。
図書委員。
春樹は立候補するだろうか。
しなかったら?
自分だけ立候補する?
それは少し違う気がする。
でも、図書室に行く理由にはなる。
心の中でそんなことをぐるぐる考えているうちに、担任が最初の委員会名を書いた。
「まず体育委員」
島中の周りが少しざわついた。
「島中じゃね?」
「サッカー部だし」
「体育委員っぽい」
島中は笑いながら手を振る。
「俺、部活で忙しいんだけど」
「体育委員って部活やってるやつがやるもんじゃねぇの?」
「偏見だろ」
「いや似合う」
担任が島中を見た。
「島中、やるか」
「先生までその流れ?」
「嫌なら断っていいぞ」
「じゃあ断ります」
「そうか。では田辺」
「なんで俺!?」
教室がどっと笑った。
守が椅子から半分立ち上がる。
「先生、流れ弾ですよね今の」
「レスリング部だろ」
「体育委員とレスリング関係あります?」
「体が丈夫そう」
「理由ざっくりしすぎじゃないですか」
守は抗議したが、周囲から「田辺でいいじゃん」「似合う」と声が飛ぶ。
守はしばらく抵抗していたが、最終的には諦めたように頭をかいた。
「じゃあ、まあ……やりますけど」
「よし。体育委員一人目、田辺。もう一人」
もう一人は女子の運動部から決まった。
なつきはその様子を見ながら、少しだけ安心した。
守が体育委員なら、図書委員には来ない。
そう思ってしまった自分に、少しだけ苦笑する。
守は別に悪い人じゃない。
でも、昨日から何度も邪魔をされている。
本人に自覚がないから、なおさら厄介だった。
次に保健委員。
美化委員。
文化委員。
放送委員。
順番に決まっていく。
なつきはそのたびに、春樹の様子をうかがっていた。
春樹はどれにも手を上げない。
紅秋もまだ動かない。
茜も静かに様子を見ている。
島中は時々茶化すが、立候補はしない。
亜衣が文化委員のときに一瞬「文化祭関係なら楽しそう」と言ったが、友達に「去年大変そうだったよ」と言われてすぐ引っ込んだ。
伊藤亜衣。
同じ二年十一組の女子。
明るめの茶髪を校則ぎりぎりで整えた、ちょいギャルっぽい雰囲気の子だった。
けれど、怖い感じはない。
むしろ誰とでも話せる。
島中たち陽キャグループにも混ざるし、なつきや茜にも普通に話しかける。
春樹にも、たまに遠慮なく話しかけている。
なつきはそれを見るたびに、少しだけ羨ましくなる。
亜衣は、春樹に話しかけるときも構えない。
まるで、隣の席の人に消しゴムを借りるくらい自然に。
「次、図書委員」
担任が黒板に書いた瞬間、なつきの胸が強く跳ねた。
教室の空気は、他の委員会のときとあまり変わらない。
何人かが「本かー」「図書室って遠くね?」と小声で言う。
けれど、なつきには音が少し遠くなった。
図書委員。
春樹。
どうするの。
手を上げるの。
なつきは背中に神経を集中させる。
すると、斜め後ろで椅子がわずかに鳴った。
春樹が、静かに手を上げた。
「やります」
短い声。
大きくはない。
でも、教室にちゃんと届いた。
なつきの心臓が、どん、と大きく鳴った。
春樹が図書委員。
予想していた。
していたけれど、実際にそうなると、頭の中が一瞬真っ白になった。
今。
今、手を上げれば。
同じ委員になれる。
図書室で一緒に仕事ができる。
春樹と話す理由ができる。
なつきは机の下で指を握った。
手を上げる。
上げなきゃ。
今しかない。
でも、腕が重い。
本当に自分が図書委員でいいのか。
本を読まないのに。
春樹目当てだとばれないか。
茜に見られている。
守もいる。
島中もいる。
もし「なつきが図書委員?」と笑われたら。
もし春樹に迷惑そうな顔をされたら。
考えが一気に押し寄せてきて、腕が動かない。
そのわずかな迷いの間に。
「じゃあ、あたしもやろっかな」
軽い声がした。
伊藤亜衣だった。
なつきは息を止めた。
亜衣は頬杖をつきながら、片手をひらひら上げている。
「伊藤、理由は?」
担任が聞く。
「図書室って静かそうだし。あと、なんか文化委員より楽そう」
「本音が出てるぞ」
「でもちゃんとやりますって」
「本当だな」
「たぶん」
「そこは言い切れ」
教室が笑った。
亜衣も笑う。
春樹は表情を変えない。
担任は少し考えた後、黒板に名前を書いた。
図書委員。
大國春樹。
伊藤亜衣。
決まった。
なつきの胸の中で、灯りかけていた期待が、静かに小さくなった。
手を上げられなかった。
ほんの数秒。
迷っただけ。
でも、その数秒で席は埋まってしまった。
なつきは机の上のプリントを見つめた。
文字が目に入らない。
隣ではない。
同じ委員ではない。
春樹は図書委員。
亜衣と一緒。
亜衣はきっと、春樹に普通に話しかける。
「大國、これどこ置くの?」とか。
「今日委員会あるっけ?」とか。
「聞いてよ、昨日さ」とか。
そうやって、自然に。
なつきが一年かけてもできなかったことを、亜衣は最初からできる。
胸が少し痛かった。
「なつき」
茜が小さく呼ぶ。
なつきは顔を上げられなかった。
「……うん」
「大丈夫?」
「うん」
また、大丈夫と言った。
大丈夫じゃないのに。
でも、ここで何を言えばいいか分からなかった。
自分が遅かっただけだ。
亜衣は悪くない。
春樹も悪くない。
誰も悪くない。
だから余計に、行き場がなかった。
「伊藤、よろしく」
担任の声がする。
「はーい」
亜衣は明るく返事をした。
そのあと、後ろを振り返って春樹に言う。
「大國、よろしくね」
「うん」
「図書室の仕事って何すんの?」
「本の整理とか、貸出の手伝いとか」
「へぇ。大國詳しいね」
「図書室行くから」
「だよね。なんか住んでそうだもん」
「住んではない」
「分かってるって」
教室の数人が笑った。
春樹も、ほんの少しだけ返している。
亜衣はやっぱりすごい。
なつきはそう思った。
春樹が無口でも、気にせず話す。
返事が短くても、会話を続けられる。
春樹の静けさに怯えない。
それが羨ましかった。
自分なら、春樹が「うん」と返しただけで、次の言葉が出なくなる。
嫌われたかな。
迷惑かな。
そう考えて、黙ってしまう。
亜衣は違う。
春樹との距離を、軽やかに越えていく。
なつきは膝の上で、そっとスカートを握った。
図書委員が決まった後も、委員会決めは続いた。
けれど、なつきの耳にはあまり入らなかった。
時々、茜が小声で説明してくれる。
「今、放送委員」
「うん」
「次で最後」
「うん」
「なつき、聞いてる?」
「聞いてる」
「聞いてない返事ね」
「ごめん」
なつきは苦笑した。
茜は少しだけ心配そうに見たが、それ以上追及しなかった。
全ての委員会が決まった頃には、教室の空気も少しだれていた。
自分の委員が決まった生徒は安心し、まだ何も役についていない生徒は、これ以上何か振られないことを祈っている。
担任は黒板を見直しながら言った。
「よし。委員会はこれで終わり。次、クラス役員だ」
教室から小さなうめき声が上がった。
「まだあるのかよ」
「係でよくね?」
「先生、明日にしよう」
「昨日もそう言っただろうが」
担任は笑いながらチョークを持った。
「委員長、副委員長、書記、会計。最低ここまでは決める」
なつきは少しだけ顔を上げた。
クラス役員。
委員会とは別。
クラス内の仕事。
ホームルームの記録や行事の連絡、文化祭や体育祭の取りまとめ。
面倒そうな役だ。
普通なら、なつきは絶対に避けたい。
でも。
図書委員になれなかった今、何か別の接点が生まれる可能性はあるのだろうか。
そんなことを考えた自分に、なつきは少し驚いた。
恋をすると、人は面倒な役にすら期待してしまうらしい。
「まず委員長」
担任が言った。
教室が静かになった。
誰も手を上げない。
当然の沈黙。
みんな前を向かない。
目を合わせない。
島中でさえ、今度は軽口を控えている。
そんな中で、男子の一人がぼそっと言った。
「遠山さんでよくね?」
空気が一瞬で動いた。
「あー」
「確かに」
「遠山なら安心」
「去年もなんかまとめてたし」
視線が茜に集まる。
茜はゆっくり顔を上げた。
「待って。私は立候補してない」
「でも向いてるじゃん」
「向いているかどうかと、やりたいかどうかは別よ」
「そこをなんとか」
「なんとかって何」
茜は冷静に返す。
しかし、教室全体はすでに「遠山でいい」という空気になっていた。
なつきは少し申し訳なくなった。
茜は絶対に向いている。
でも、だからといって押し付けていいわけではない。
「茜ちゃん」
なつきは小さく言った。
「無理なら、ちゃんと言った方がいいよ」
茜はなつきを見た。
少しだけ目を細める。
「なつきに心配される日が来るとは思わなかった」
「今ちょっと失礼じゃなかった?」
「かなり優しく言った」
「優しくないよ」
茜は小さく息を吐いた。
そして、教室を見渡す。
「やるなら、ちゃんと協力してもらうから」
その一言に、教室が少し明るくなった。
「おお」
「さすが遠山」
「頼れる」
「委員長感ある」
「勝手なこと言わない」
茜は少しだけ不満そうにしながらも、結局引き受けた。
黒板に名前が書かれる。
委員長。
遠山茜。
なつきは小さく拍手した。
周りも拍手する。
茜は「拍手されることじゃない」と言いながら、少しだけ照れているようにも見えた。
「次、副委員長」
担任が続ける。
また沈黙。
今度はさっきより少し短かった。
「板倉でよくね?」
誰かが言った。
教室の空気がまた動く。
「あー」
「学力的に」
「板倉なら遠山とバランスいい」
「いや学力関係ある?」
紅秋が静かに言った。
それまで黙っていた紅秋は、少しだけ眉を上げている。
担任が紅秋を見る。
「板倉、どうだ」
「どうだ、ではなく、本人の意思確認を先にしてください」
「してるだろ」
「今のは確認ではなく圧です」
「細かいな」
「大事です」
教室がくすくす笑う。
紅秋は嫌そうではあるが、本気で拒絶しているようにも見えない。
春樹は斜め後ろの席で、静かにそのやり取りを見ていた。
「板倉くん、やってくれると助かる」
茜が言った。
紅秋は茜を見る。
少しだけ考えるように沈黙した。
「遠山さんにそう言われると断りづらいですね」
「断ってもいいけど、誰か他にいる?」
茜が教室を見渡す。
誰も目を合わせない。
紅秋は肩をすくめた。
「分かりました。やります」
教室からまた拍手が起きた。
紅秋は軽く手を上げて、それを受け流す。
なつきはその様子を見ながら、少し納得していた。
紅秋は確かに副委員長っぽい。
頭がよくて、冷静で、でも暗いわけではない。
島中のように中心で騒ぐタイプではないけれど、必要なときにはちゃんと前に出られる。
春樹と仲がいいのも、少し分かる気がした。
黒板に名前が書かれる。
副委員長。
板倉紅秋。
「次、書記」
担任が言った。
なつきは完全に油断していた。
書記。
何となく、字がきれいな人とか、真面目な人がやるものだと思っていた。
茜の友達の女子がやるかもしれない。
紅秋が誰かを推薦するかもしれない。
自分には関係ない。
そう思っていた。
しかし。
「横田さん」
紅秋の声がした。
なつきは、固まった。
「……え?」
教室の視線が一気になつきへ向く。
なつきは思わず背筋を伸ばした。
紅秋は黒板の方ではなく、なつきを見ている。
「書記、横田さんがいいと思います」
「わ、私?」
「うん」
「なんで?」
なつきの声は少し裏返った。
教室から小さな笑いが漏れる。
でも、馬鹿にする笑いではない。
単純に驚いたような空気だった。
紅秋は落ち着いたまま言った。
「字が柔らかくて読みやすい。去年、配布物の名前書きで見たことがある」
「え、そんなの覚えてるの?」
「必要なことは覚えています」
「それ、必要だった?」
「今必要になりました」
紅秋はさらっと返した。
なつきは言葉に詰まる。
茜がこちらを見る。
その目は、少しだけ面白がっているようにも見えた。
「なつき、できると思う」
「茜ちゃんまで」
「私もいるし、板倉くんもいる。分からないことがあれば聞けばいい」
「でも、私、書記とかやったことないし」
「誰でも最初はそう」
「漢字間違えるかも」
「確認する」
「話聞き逃すかも」
「そこは頑張りなさい」
「急に厳しい」
教室が笑った。
担任も少し笑っている。
「横田、どうする」
なつきは迷った。
正直、自信はない。
書記なんて自分には向いていない気がする。
でも。
委員長は茜。
副委員長は紅秋。
そして、紅秋は春樹と仲がいい。
もしかしたら、春樹とも話す機会が増えるかもしれない。
そんな打算が、胸の奥に小さく生まれた。
同時に、少し恥ずかしくなった。
結局、春樹のことばかり考えている。
でも、それでも。
図書委員にはなれなかった。
何か一つでも、変わるきっかけが欲しい。
なつきはゆっくり息を吸った。
「……できるか分からないけど」
声は小さかった。
でも、教室には届いた。
「やってみます」
拍手が起きた。
茜が小さく頷いた。
紅秋も「よろしく」と軽く言った。
なつきは頬が熱くなるのを感じながら、曖昧に頭を下げた。
黒板に名前が書かれる。
書記。
横田なつき。
自分の名前が黒板に書かれるのは、何だか不思議だった。
逃げられない感じがする。
でも、少しだけ嬉しくもあった。
何かが動いている。
昨日まで見ているだけだった自分が、少しずつ教室の中で役割を持ち始めている。
「次、会計」
担任が言った。
また沈黙。
教室の空気が少しだけ疲れてきていた。
「誰かいないか」
担任が見渡す。
誰も手を上げない。
そのとき、紅秋がふと斜め後ろを見た。
春樹の方だった。
なつきは、その視線の先に気づいて、心臓が跳ねた。
まさか。
「春樹」
紅秋が言った。
春樹はゆっくり顔を上げた。
「何」
「会計、やらない?」
教室が一瞬静かになった。
なつきの心臓が、どくんと大きく鳴る。
会計。
クラス役員。
もし春樹がやれば。
委員長の茜。
副委員長の紅秋。
書記のなつき。
会計の春樹。
同じ役員。
同じ集まり。
同じ連絡。
放課後に残ることもあるかもしれない。
プリントをまとめることもあるかもしれない。
話す理由ができる。
今度こそ、自然に。
胸の奥が一気に熱くなる。
なつきは前を向いたまま、身体を固くした。
振り返れない。
でも、春樹の返事を待っている。
待ってしまっている。
ほんの数秒の沈黙。
教室の誰かが「大國が会計?」と小さく言う。
島中が面白そうに笑う気配がした。
春樹は、静かに答えた。
「断る」
即答だった。
なつきの胸が、すとんと落ちた。
あまりにも迷いのない声だった。
紅秋は少しも驚かずに言う。
「理由は?」
「図書委員になった」
「図書委員と会計は両立できます」
「したくない」
「正直だね」
「うん」
教室に笑いが起きた。
春樹は表情を変えない。
紅秋は少しだけ口元を緩める。
「春樹がいると楽なんだけど」
「紅秋がいるなら十分」
「俺一人に頼らないでほしい」
「遠山さんもいる」
「横田さんもいる」
紅秋がそう言った瞬間、なつきの肩が小さく揺れた。
自分の名前が春樹の会話の中に出た。
それだけで、胸がまた忙しくなる。
春樹は一瞬、なつきの方を見た。
本当に一瞬。
目が合った、気がした。
なつきは固まる。
すぐに春樹は視線を戻した。
「なら大丈夫」
「そういう問題じゃないんだけど」
紅秋は苦笑した。
担任が割って入る。
「大國、本当にやらないか」
「やりません」
「即答だな」
「はい」
「まあ図書委員もあるしな。無理にとは言わん」
春樹が会計になる可能性は、そこで消えた。
なつきは小さく息を吐いた。
期待した分だけ、胸の奥に少しだけ寂しさが残る。
でも、同時に少しだけ安心もしていた。
もし春樹が同じ役員になっていたら。
嬉しい。
すごく嬉しい。
でも、きっと緊張しすぎて何もできなかったかもしれない。
話せる機会が増えることは、嬉しいのに怖い。
自分でも面倒だと思う。
結局、会計は別の男子が押し切られる形で決まった。
教室には疲れたような拍手が起きる。
担任は黒板を見て、満足そうに頷いた。
「よし、これで決まりだな」
黒板には、今日決まった名前が並んでいた。
体育委員。
図書委員。
保健委員。
文化委員。
美化委員。
放送委員。
委員長。
副委員長。
書記。
会計。
そこに、自分の名前もある。
横田なつき。
書記。
隣には遠山茜。
その下に板倉紅秋。
そして少し離れた場所に、大國春樹の名前。
図書委員。
伊藤亜衣と並んでいる。
同じ場所には立てなかった。
でも、同じ黒板の上には名前がある。
そんな小さなことに、なつきは少しだけ救われていた。
ホームルームが終わると、教室は一気に緩んだ。
「終わったー」
「役ついたやつ頑張れ」
「田辺、体育委員似合いすぎ」
「うるせぇ」
守が文句を言いながらも笑っている。
島中は椅子に逆向きに座り、周囲の男子と話していた。
亜衣はすぐに春樹の席へ近づいた。
なつきは思わず見てしまう。
「大國」
亜衣は遠慮なく声をかけた。
春樹は本を鞄に入れながら顔を上げる。
「何」
「図書委員ってさ、今日いきなり集まりある?」
「たぶん。新年度だから」
「マジ? 今日バイトないからいいけど、急に言われると焦るんだけど」
「委員会はだいたい急に言われる」
「それ困るやつじゃん。てか大國、こういうの慣れてる?」
「一年のときも少し手伝ってた」
「え、じゃあ頼れるじゃん。あたし本の場所とか全然分かんないし、ミステリーと恋愛小説くらいしか見分けつかない」
「本の背表紙に書いてある」
「そういう正論やめて」
「正論だから」
「大國ってさ、たまに真顔で刺してくるよね」
「刺したつもりはない」
「刺さってるんですけど」
二人の会話に、近くの女子が笑う。
春樹は相変わらず声が大きいわけではない。
けれど、亜衣の勢いに対して、ちゃんと返している。
なつきは机の上のプリントを整理しながら、その会話を聞いていた。
聞かないようにしたいのに、耳が拾ってしまう。
羨ましい。
また、その感情が湧く。
亜衣は悪くない。
ただ話しているだけ。
でも、なつきにとっては、その「ただ」が遠い。
「なつき」
茜が近づいてきた。
「書記、よろしくね」
「あ、うん。こちらこそ……かな?」
「そんなに固くならなくていいわよ。私も初めてだし」
「茜ちゃんでも?」
「委員長なんて好きでやったことないもの」
「でも似合う」
「似合うと言われても嬉しくない」
「そうなの?」
「面倒事を押し付けられやすいという意味に聞こえるから」
「でも頼りになるって意味だよ」
なつきが言うと、茜は少しだけ表情を緩めた。
「それなら、まあ」
「うん。私も頑張る」
「本当に?」
「本当に」
「議事録で漢字を間違えたら直すから」
「最初から疑ってる」
「疑ってない。備えてる」
「同じじゃない?」
「違う」
なつきは笑った。
胸の奥に残っていた重さが、少しだけ和らぐ。
茜がいる。
それだけで、初めての書記も少しだけ怖くなくなる。
そのとき、紅秋もこちらへ歩いてきた。
「遠山さん、横田さん」
「板倉くん」
「これから一年、よろしく。副委員長になった以上、最低限は働くので」
紅秋は軽く頭を下げた。
茜も頷く。
「こちらこそ。さっそくだけど、今日の放課後、少しだけ打ち合わせできる?」
「大丈夫。春樹を巻き込めなかったのは痛いけど」
紅秋がそう言うと、なつきの心臓がまた跳ねた。
春樹の名前。
まだ慣れない。
「大國くん、やっぱり断ったね」
なつきが思わず言うと、紅秋はこちらを見た。
そして少しだけ笑った。
「春樹は、やらないと決めたら本当にやらないから」
「そうなんだ」
「でも、頼まれたら手伝うことはある」
「え?」
「自分から役にはつかないけど、困ってる人を見捨てるほど冷たくもない」
紅秋の言葉は、さらっとしていた。
けれど、なつきの胸に残った。
困っている人を見捨てない。
それは、なつきが遠くから見ていた春樹の印象と少し重なった。
静かだけど、冷たくない。
自分から前には出ないけれど、必要なときには手を伸ばしてくれる。
そういう人なのだろうか。
もっと知りたい。
なつきはそう思った。
「板倉くんは、大國くんと仲いいよね」
なつきが言うと、紅秋は少し考えるように視線を上げた。
「仲がいい、で合ってると思う。少なくとも、俺はそう思ってる」
「大國くんは?」
「さあ。春樹はそういうの言わないから」
「言わなそう」
「でも嫌なら一緒にいない」
「そっか」
なつきは小さく頷いた。
紅秋と話していると、春樹の輪郭が少しだけ見える気がした。
自分の知らない春樹。
紅秋が知っている春樹。
その差が寂しくもあり、嬉しくもある。
「横田さん」
紅秋が言った。
「はい」
「書記、嫌だった?」
「え?」
「急に指名したから。もし嫌なら、先生に言って変えてもらってもいい」
なつきは少し驚いた。
紅秋は、思ったよりちゃんと気にしてくれている。
ただ面白がって指名したわけではなかったらしい。
「嫌じゃないよ」
なつきは首を横に振った。
「びっくりしたけど」
「それはごめん」
「でも、私の字を覚えててくれたのは、ちょっと嬉しかった」
「読みやすかったから」
「そんなこと言われたの初めてかも」
「なら、最初に言えて光栄です」
紅秋は大げさではなく、自然にそう言った。
なつきは少しだけ笑った。
紅秋は、思っていたより話しやすい。
もっと冷たい人かと思っていた。
春樹の隣にいるから、同じように静かな人なのかと思っていた。
でも違う。
落ち着いているけれど、人との距離の取り方がうまい。
それが分かっただけでも、少し収穫だった。
「じゃあ放課後、十分だけ残ろう」
茜が言った。
「了解」
紅秋が頷く。
なつきも頷いた。
その横で、亜衣の声がまた聞こえた。
「大國、今日図書委員の集まりあるってマジだった!」
「言った」
「しかも特進棟だって。遠くない?」
「図書室が特進棟だから」
「それもそうだけどさ。商業棟からだと地味に歩くじゃん。迷ったらよろしく」
「迷う距離じゃない」
「大國はそういうこと言うけど、あたし方向音痴なんだよ」
「昨日も職員室の場所間違えてた」
「なんで知ってんの!?」
「廊下で見た」
「見られてたの恥ずいんだけど」
亜衣が笑う。
春樹は静かに返す。
そのやり取りを見て、なつきは胸の奥がまた少しざわついた。
放課後、春樹は図書委員の集まりに行く。
亜衣と一緒に。
自分はクラス役員の打ち合わせ。
同じ放課後。
同じ学校。
でも向かう場所は違う。
同じ場所に立てそうで、立てない。
そんな感覚が、なつきの胸に残った。
放課後。
二年十一組の教室には、少しだけ生徒が残っていた。
部活へ行く前の守が、島中たちと話している。
亜衣は「図書委員行ってくる」と軽く手を振って教室を出た。
春樹もその少し後に立ち上がる。
なつきは思わず目で追った。
春樹は鞄を持たず、本と筆記用具だけを持っている。
図書委員の集まり。
特進棟。
図書室。
なつきが一年間、遠くから見ていた場所へ、今から春樹と亜衣が一緒に行く。
「なつき」
茜の声で、なつきは我に返った。
「打ち合わせ」
「あ、うん」
なつきは慌ててノートを開いた。
書記。
自分は書記なのだ。
今日から。
委員長の茜が前に立ち、副委員長の紅秋が黒板横に寄りかかる。
会計になった男子も少し面倒そうに残っている。
なつきはペンを持った。
窓の外では、春の光が少しずつ傾いている。
特進棟へ向かう渡り廊下が見えた。
そこを、春樹と亜衣が歩いている。
亜衣が何か話している。
春樹は少し横を向いて、短く返している。
距離は遠い。
声は聞こえない。
でも、二人が一緒に歩いているのは分かる。
なつきはペンを握る指に、少しだけ力を入れた。
「横田さん」
紅秋が言った。
「今の議題、書けそう?」
「えっ?」
「聞いてなかった?」
「き、聞いてたよ」
「では何の話だったでしょう」
「……えっと」
なつきは言葉に詰まった。
茜が小さくため息をつく。
紅秋は責めるでもなく、少しだけ笑った。
「今後のホームルーム記録について。最初だから、俺が板書するよ」
「ごめんなさい」
「大丈夫。初日だから」
紅秋はそう言って、黒板に簡単な項目を書いた。
なつきはそれをノートに写す。
文字を書きながら、心を落ち着かせようとした。
自分にもやることがある。
春樹と同じ場所ではない。
でも、自分の場所がある。
そう思うことにした。
打ち合わせは十分ほどで終わった。
茜が今後の流れを確認し、紅秋が担任へ提出するメモをまとめ、なつきがそれをノートに写した。
初めての書記。
不安はあったけれど、何とかできた。
少しだけ。
本当に少しだけ、自分が前に進めた気がした。
教室を出る頃には、廊下の人影も少なくなっていた。
部活の声が遠くから聞こえる。
グラウンドの方ではサッカー部が走っている。
体育館からはボールの音。
春の夕方の学校は、朝とは違う静けさがあった。
「なつき、帰る?」
茜が聞いた。
「うん……あ、でも」
なつきは特進棟の方を見た。
図書委員の集まりはもう終わっただろうか。
春樹はまだ図書室にいるだろうか。
そんなことを考えてしまう。
茜はすぐに察したように言った。
「行く?」
「え?」
「図書室」
なつきは迷った。
行きたい。
でも、今日も話しかけられる気がしない。
亜衣がいるかもしれない。
他の委員もいるかもしれない。
特進の生徒もいるかもしれない。
そう考えると、足が重くなる。
「今日は……」
なつきは小さく首を横に振った。
「帰る」
「そう」
「でも、明日は行くかも」
「昨日も聞いた気がする」
「今日は書記やったから、一歩進んだよ」
「それはそうね」
茜は少しだけ笑った。
「焦らなくていいけど、逃げ続けるのはだめよ」
「うん」
なつきは頷いた。
そのとき、階段の方から声がした。
「なつきー!」
守だった。
部活のジャージ姿で、階段を駆け上がってくる。
「まだいたのかよ」
「打ち合わせ」
「書記だっけ? 似合わねぇ」
「ひどい」
「いや、いい意味で」
「どういう意味?」
「なんか、なつきが真面目な役やってるの面白い」
「やっぱりひどい」
守は笑った。
なつきは少しだけ頬を膨らませる。
でも、昨日や今朝のような苛立ちはなかった。
守は守で、いつも通りだ。
こちらの気持ちに気づいていない。
それどころか、春樹のことも、なつきの視線も、ほとんど分かっていない。
だからこそ、無邪気に邪魔をする。
でも今は、その鈍さに少し救われる部分もあった。
「帰るなら途中まで行こうぜ」
「田辺、部活は?」
「今から。飲み物買いに行く」
「逆方向じゃない?」
「細かいこと気にすんな」
「気にするよ」
守が笑う。
茜は呆れたように見ている。
なつきも少し笑った。
けれど、階段を降りながら、なつきは一度だけ特進棟の方を振り返った。
図書室の窓。
西日を受けて、少しだけ光っている。
春樹はあそこにいるかもしれない。
亜衣と話しているかもしれない。
それとも、一人で本を読んでいるかもしれない。
そして、特進科の誰かと同じ委員になっているかもしれない。
なつきの知らない春樹の日常が、あの校舎の中にある。
そのことが、少し寂しかった。
でも。
今日、自分の名前も黒板に書かれた。
書記。
横田なつき。
小さな役割。
小さな一歩。
まだ春樹と同じ場所には立てない。
でも、同じ教室で、斜め後ろにいる。
明日も会える。
明日も、チャンスはある。
なつきは階段を降りながら、そっと胸の前で手を握った。
見ているだけの春は、まだ終わっていない。
けれど。
今日、少しだけ分かったことがある。
待っているだけでは、誰かが先に隣へ行ってしまう。
伊藤亜衣のように、自然に話せる人がいる。
板倉紅秋のように、春樹のことをよく知っている人がいる。
自分は、その外側で立ち止まっているだけではいられない。
「明日」
なつきは小さく呟いた。
隣を歩く茜が、ちらりと見る。
「何?」
「明日こそ、図書室行く」
「そう」
「今度こそ、ちゃんと」
「うん」
茜はそれ以上言わなかった。
守は前を歩きながら、自販機の場所を探している。
「なつき、何飲む?」
「え?」
「買うならついでに買うぞ」
「じゃあ、いちごミルク」
「子どもか」
「いいでしょ」
「いいけど」
守が笑う。
なつきも少しだけ笑った。
春の夕方。
スポーツ・商業棟の外へ出ると、校庭から土の匂いがした。
風が吹き、桜の花びらが足元を転がっていく。
なつきはその花びらを目で追いながら、もう一度だけ特進棟を見た。
図書室の窓は、まだ光っていた。
遠い。
でも、昨日よりは少しだけ近い。
そう思いたかった。
明日こそ。
その言葉を胸の奥にしまって、横田なつきはゆっくり歩き出した。




