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『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


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第1話 見ているだけの春


 四月の水戸は、まだ少しだけ朝が冷たい。


 吐く息が白くなるほどではないけれど、自転車のハンドルを握る指先には、冬の名残みたいな冷たさが残っていた。


 けれど、空はよく晴れている。


 薄い雲が少しだけ浮かんで、その向こうから差し込む朝日が、校門へ続く坂道を淡く照らしていた。


 私立梅桜高等学校。


 水戸市郊外にある、県内でもそこそこ名の知られた私立高校。


 広い敷地の中には三つの校舎が並んでいる。


 一つ目は、特進科が使う特進棟。


 二つ目は、普通科が使う普通科棟。


 三つ目は、スポーツ特待科と商業科が使うスポーツ・商業棟。


 校舎とは別に、部活館と体育館も建っている。


 朝の学校は、すでに賑やかだった。


 グラウンドの方からはサッカー部の声。


 体育館の方からはバッシュの音。


 部活館の前では、朝練を終えた生徒たちが汗を拭きながら笑っている。


 駅方面から歩いてくる電車通学組。


 自転車置き場へ向かう地元組。


 新学期特有の、少し浮ついた声。


 桜はもう満開を少し過ぎていて、風が吹くたびに花びらがひらひらと舞い落ちる。


 その中を、横田なつきは自転車を押しながら歩いていた。


 茶色がかった柔らかい髪が、風に揺れる。


 校則違反にならない程度に整えた前髪。


 少し丸い目元。


 ふわっとした雰囲気。


 周りからはよく「天然」と言われる。


 本人としては、そこまで天然のつもりはない。


 ただ、少しだけ考えごとをしている時間が長いだけだ。


 今日も、そうだった。


「なつき」


 隣から声がした。


「うん?」


「前」


「前?」


「そう。前」


 言われてから、なつきは顔を上げた。


 目の前に、校門脇の低い石柱が迫っていた。


「わっ」


 慌てて自転車のハンドルを切る。


 前輪が小さく砂を噛んで、かたん、と音を立てた。


 転ぶほどではなかった。


 けれど、なつきの身体は少しだけ斜めに揺れる。


 隣にいた遠山茜が、呆れたようにため息をついた。


「だから前って言ったでしょう」


「言われました……」


「聞いてた?」


「聞いてたよ?」


「聞いていた人は石柱に突っ込まない」


「石柱が急に近づいてきたのかも」


「動かないわよ」


「だよね」


「だよね、じゃない」


 茜は眼鏡の奥から、まっすぐなつきを見た。


 黒髪を肩の少し下で揃えた、しっかり者の女の子。


 なつきとは中学からの親友だ。


 真面目で、面倒見がよくて、言うべきことははっきり言う。


 なつきにとっては、友達というより、少し保護者に近い存在でもあった。


 茜がいなかったら、自分は提出物も忘れるし、教室移動も間違えるし、たぶん今よりもっと大変なことになっている。


 そう思うくらいには、なつきは茜を頼っていた。


「今日から二年生なんだから、少しは落ち着きなさい」


「落ち着いてるよ」


「石柱に向かって歩く人は落ち着いてない」


「そこはもう許してほしいな」


「一分前の出来事よ」


「記憶力いいね、茜ちゃん」


「褒めてもごまかせない」


 茜の返事は冷静だった。


 なつきは小さく笑った。


 このやり取りも、もう何年も続いている。


 中学の頃から、茜はなつきの少し先を見ていた。


 忘れ物をする前に注意してくれる。


 転びそうになる前に声をかけてくれる。


 変な人に絡まれそうになる前に間に入ってくれる。


 そのたびに、なつきは「ありがとう」と言いながら、また同じような失敗をする。


 茜は呆れる。


 それでも隣にいてくれる。


 だから、今日も安心していられた。


 ……はずだった。


「で」


 茜が言った。


「何を見てたの」


「え?」


「桜?」


「うん。桜」


「本当に?」


「桜、きれいだなって」


「それだけ?」


「それだけ……だと思う」


「思う?」


 茜の声が少しだけ低くなった。


 なつきは視線を泳がせた。


 嘘をつくのは苦手だ。


 特に茜には、ほとんど通用しない。


 茜は校門の向こう、昇降口へ向かう生徒たちの流れを見た。


 そして、ぽつりと言った。


「大國くん、まだ来てないわよ」


 なつきの足が止まった。


「な、なんで大國くんの名前が出るのかな?」


「顔」


「顔?」


「大國くんを探してる顔だった」


「そんな顔ある?」


「ある。なつきにはある」


 なつきは思わず両手で頬を押さえた。


 そんなに分かりやすいのだろうか。


 いや、分かりやすいのだと思う。


 少なくとも、茜にはずっと前からばれている。


 なつきには、好きな人がいる。


 大國春樹。


 私立梅桜高等学校、商業科。


 なつきと同じ二年十一組。


 商業科は一学年に一クラスしかない。


 つまり、去年も同じクラスだった。


 今年も同じクラスだ。


 来年も、きっと同じクラスになる。


 クラス替えで離れる心配はない。


 それは安心できることのはずなのに、なつきにとっては、少しだけ苦しくもあった。


 同じ教室にいるのに、遠い。


 毎日会えるのに、話せない。


 一年間、ずっと。


 大國春樹は、教室の中でいつも静かだった。


 休み時間は本を読んでいる。


 昼休みも、自分の席か図書室。


 周囲が騒いでいても、無理に混ざろうとしない。


 誰かを拒んでいるわけではないのに、簡単には近づけない空気がある。


 それが、なつきには不思議だった。


 そして、好きだった。


 きっかけは、去年の六月。


 放課後。


 先生に頼まれたプリントを届けに、特進棟へ行った帰り。


 なつきは偶然、図書室の前を通った。


 扉が少しだけ開いていて、中から紙をめくる音がした。


 何となく覗いた。


 その窓際に、春樹がいた。


 夕方の光の中で、本を読んでいた。


 ただ、それだけだった。


 でも、その横顔から目が離せなかった。


 教室では騒がしさに紛れて見えなかったものが、そこにはあった。


 静かで、落ち着いていて、自分の時間を大事にしているような横顔。


 なつきはその日から、春樹を目で追うようになった。


 そして、気づけば一年が過ぎていた。


「今日こそ話しかけるの?」


 茜が聞いた。


 なつきは自転車のハンドルをぎゅっと握った。


「……今日こそ?」


「昨日も一昨日も言ってたわけじゃないけど、去年からずっと思ってたでしょう」


「それは……まあ」


「同じクラスなんだから、話しかける機会くらいあったじゃない」


「そうなんだけど」


「授業中にプリントを回すときもあった」


「うん」


「掃除当番も一緒になった」


「うん」


「文化祭の準備でも同じ教室にいた」


「うん」


「それで、何回話した?」


 なつきは黙った。


 思い出そうとする。


 春樹と話した回数。


 おはよう。


 プリント。


 これ落ちてたよ。


 ありがとう。


 たぶん、それくらい。


 片手で足りる。


 いや、片手でも指が余るかもしれない。


「……三回?」


「少ない」


「でも、三回も話した」


「前向きに言えばいいと思ってる?」


「思ってないです」


 茜はまたため息をついた。


 けれど、その表情は厳しいだけではなかった。


 少しだけ、なつきを心配しているようにも見えた。


「見ているだけでいいなら、私は何も言わない」


 茜の声が、少し柔らかくなる。


「でも、なつきはそれで平気なの?」


「……」


「一年間、見ているだけだったでしょう。春樹くんが図書室で本を読んでいるところを、廊下から眺めて。教室でも、話しかけようとして結局やめて。帰り道に、今日も無理だったって言って」


「うん」


「それで、今年も同じことをするの?」


 なつきは答えられなかった。


 校門の近くでは、友達同士で笑い合う声がする。


 春休み明けの教室へ向かう生徒たち。


 新しい学年。


 変わらない顔ぶれ。


 同じ商業科。


 同じ十一組。


 なつきの日常は、たぶん今年も大きくは変わらない。


 でも。


 自分が変わらなければ。


 春樹との距離も、変わらない。


「……話したいよ」


 なつきは小さく言った。


「うん」


「でも、いざ話そうと思うと、何話せばいいか分からなくなるの。大國くん、本読んでるし、邪魔したら悪いかなって思うし、私が話しかけても困るかもしれないし」


「それは話しかけてから考えなさい」


「茜ちゃん、それ強い」


「なつきが弱すぎるの」


「うぅ……」


 なつきは肩を落とした。


 でも、茜の言う通りだ。


 考えてばかりでは何も変わらない。


 分かっている。


 分かっているのに、足が出ない。


 好きな人へ近づく一歩は、どうしてこんなに重いのだろう。


「まずは挨拶」


 茜が言った。


「おはようって?」


「そう」


「でも、教室で急に?」


「急じゃないでしょ。同じクラスなんだから」


「一年間あんまり話してないのに、急におはようって言ったら変じゃない?」


「変じゃない」


「本当?」


「少なくとも、石柱にぶつかりそうになるよりは変じゃない」


「その話まだ続く?」


「続けられたくなければ前を見なさい」


 なつきは口を尖らせた。


 それでも、少しだけ笑ってしまう。


 茜と話していると、怖さがほんの少し薄れる。


 もしかしたら今日なら。


 今日こそなら。


 そう思えそうになる。


 そんなときだった。


「なつきー!」


 背後から、明るい声が飛んできた。


 振り返る前に、なつきは誰か分かった。


 田辺守。


 同じ中学出身。


 同じ商業科。


 レスリング部。


 昔から距離が近くて、声が大きくて、何かと絡んでくる男子。


 なつきが振り返ると、守は片手を上げながら歩いてきた。


 朝練帰りなのか、髪が少し湿っている。


 体格はがっしりしていて、制服の上からでも運動部だと分かる。


「おはよ、田辺」


「おう。朝からぼーっとしてんな」


「ぼーっとしてないよ」


「してただろ。石柱に突っ込みかけてたし」


「見てたの!?」


「見えてた。なにしてんだよ、マジで」


「ちょっと考えごと」


「何をそんな深刻そうに考えてんだよ。今日の購買で何買うか?」


「違うよ」


「じゃあ席か。今日席替えだもんな」


 なつきの胸が、小さく跳ねた。


 そう。


 今日は席替えがある。


 商業科は一クラスしかないから、顔ぶれは変わらない。


 けれど、席は変わる。


 それだけで、なつきには十分大きな出来事だった。


 春樹の席がどこになるのか。


 自分の席がどこになるのか。


 近くなるのか。


 遠くなるのか。


 それだけで、今日一日の気持ちが決まってしまいそうだった。


「そういえば席替えだね」


 なつきは何でもないように言った。


 守は不思議そうに眉を上げる。


「なんだよ、今思い出したみたいな顔して」


「思い出しただけだよ」


「嘘くせぇ。お前、席替え好きだもんな」


「好きっていうか……」


「窓側がいいんだろ?」


「うん」


「寝れるから?」


「寝ないよ」


「寝るだろ。去年の現代文で三回寝てた」


「田辺、よく見てるね」


「目立つんだよ、お前は。寝そうになると頭がこくんこくんするから」


 守は真似をするように首を揺らした。


 なつきは頬を膨らませる。


「そんなに揺れてない」


「揺れてる」


「揺れてない」


「揺れてるって。なあ遠山」


 守が茜を見る。


 茜は一瞬考えてから、冷静に答えた。


「揺れてる」


「茜ちゃん!」


「事実だから」


「二人してひどい」


 なつきが抗議すると、守は声を出して笑った。


 その笑い方は昔から変わらない。


 中学の頃もそうだった。


 守はなつきを「なつき」と呼ぶ。


 なつきは守を「田辺」と呼ぶ。


 何度か「守って呼べよ」と言われたことはある。


 でも、なつきにとって田辺は田辺だった。


 距離が近いのに、なぜか名前で呼ぶ気にはなれない。


 それが不思議ではあるけれど、深く考えたことはなかった。


「なあ、今日の一時間目って何?」


 守が聞いた。


「知らない」


「お前も知らないのかよ」


「茜ちゃん知ってる?」


「始業式とホームルーム。そのあと学年集会」


「あー、じゃあ授業ないのか。助かった」


「何が」


「春休みの課題」


 守は堂々と言った。


 茜の表情がすっと冷える。


「やってないの?」


「半分くらい」


「半分しか?」


「半分も、だろ」


「提出は今日よ」


「だから朝からどうしようかなって考えてた」


「今から考える段階じゃない」


 茜の声が鋭い。


 守は笑ってごまかした。


「まあ何とかなるって」


「ならないから」


「遠山は真面目だな」


「田辺くんが雑すぎるだけ」


「その呼び方、なんか先生っぽいな」


「先生に叱られる前に出しなさい」


 守は「へいへい」と軽く返事をした。


 なつきはそのやり取りを見ながら、少しだけ笑った。


 この三人で話していると、時間が中学に戻ったみたいになる。


 気楽で、安心する。


 でも。


 その気楽さの中に、春樹はいない。


 春樹のことを考えると、同じ朝でも空気が変わる。


 胸の奥がふわふわして、足元が落ち着かなくなる。


 守や茜といるときの自分とは、違う自分になる。


 その違いに、なつきはまだ慣れていなかった。


「おーい、守!」


 校門の向こうから、また別の声がした。


 島中良だった。


 数人の男子と一緒に歩いている。


 サッカー部のジャージを肩にかけ、制服のネクタイは少し緩い。


 明るく笑いながら、周囲の男子に何かを言っている。


 その周りには自然と人が集まっていた。


 島中はクラスの中心にいるタイプだ。


 明るい。


 ノリがいい。


 顔も悪くない。


 先生の前ではうまくやる。


 男子からも女子からもよく話しかけられる。


 なつきも、話すことは多かった。


 でも、得意かと言われると少し違う。


「おはよ、なつき」


 島中は守の横に来ると、すぐになつきへ笑いかけた。


「おはよう、島中くん」


「二年初日から石柱に突っ込みかけたってマジ?」


「なんで広まってるの!?」


「守が今ジェスチャーで説明してた」


「田辺!」


「いや、面白かったから」


「面白くないよぉ」


 周りの男子たちが笑う。


 島中も楽しそうに笑っていた。


 笑われているだけ。


 悪意はない。


 たぶん。


 それでも、なつきは少しだけ頬が熱くなった。


 失敗を笑われることには慣れている。


 けれど、島中の笑いは、少しだけ逃げにくい。


 輪の中心で笑われると、こちらも笑わなきゃいけない気がする。


 困っていても、困っていると言いづらい。


「なつきはそういうところ変わんねぇな」


 島中が言う。


「変わってないかな」


「変わってない。そこがいいんだけど」


「え?」


「いや、癒し系っていうかさ。朝から見てて飽きない」


 島中は軽く言った。


 周りの男子が「出た」と笑う。


 守も「島中、朝から飛ばすな」と茶化した。


 なつきは曖昧に笑うしかなかった。


「そういう言い方、困るでしょ」


 茜が静かに言った。


 空気が、ほんの少しだけ止まった。


 島中は茜を見て、肩をすくめる。


「冗談だって、遠山」


「冗談でも、相手が困ってたらやめた方がいい」


「なつき、困ってた?」


 島中の視線が、なつきへ向く。


 周囲の視線も、少しだけこちらへ集まる。


 なつきは、すぐに答えられなかった。


 困っていた。


 でも、ここで「困ってた」と言う勇気はない。


 島中を責めたいわけではない。


 空気を悪くしたいわけでもない。


 だから、なつきは笑った。


「だ、大丈夫だよ」


 茜が少しだけ眉を寄せる。


 島中は安心したように笑った。


「ほら」


「ほら、じゃない」


 茜の声は低いままだった。


 島中はそれ以上言わず、守の肩を叩いた。


「行こうぜ。今日、席替えあるんだろ」


「おう。いい席引けるといいな」


「俺、後ろがいいわ」


「寝る気満々じゃねぇか」


「違うって。後ろの方が全体見えるじゃん」


「言い訳が雑」


 男子たちは笑いながら昇降口へ向かっていった。


 守もその中に混ざる。


 途中で振り返って、なつきに手を振った。


「なつき、早く来いよー」


「うん」


 なつきも手を振り返した。


 その背中を見送りながら、茜が小さく息を吐く。


「なつき」


「うん」


「大丈夫って言えば済むわけじゃないからね」


「……うん」


「嫌なら嫌って言っていいのよ」


「分かってるんだけど」


「分かっているのと、できるのは違う?」


「うん」


 なつきは少しだけ視線を落とした。


 茜の言葉は正しい。


 でも、なつきはどうしても、場の空気を壊すのが苦手だった。


 自分が少し我慢すれば、その場が丸く収まる。


 そう思ってしまう。


 島中のことを嫌いなわけではない。


 守と一緒に笑っているときの島中は、本当にクラスの中心らしく明るい。


 でも、ときどき、なつきは距離の近さに戸惑う。


 春樹とは正反対だった。


 春樹は、こちらに踏み込んでこない。


 自分から大きな声で笑わせようともしてこない。


 褒める言葉を軽く投げてきたりもしない。


 だからこそ、なつきは春樹のそばにある静けさに惹かれたのかもしれない。


「大國くんだったら」


 気づけば、なつきは小さく呟いていた。


 茜が横目で見る。


「大國くんだったら?」


「ああいうふうには言わないだろうなって」


「それは、まあ、言わなそうね」


「うん」


「でも、言わない人だからって、何も伝えなくても分かってくれるわけじゃないわよ」


「……そうだね」


 なつきは頷いた。


 春樹は優しそう。


 静か。


 落ち着いている。


 でも、それはなつきが遠くから見て思っているだけだ。


 本当の春樹を、なつきはまだ知らない。


 話していないから。


 知りたいなら、話すしかない。


 分かっている。


 それでも。


 今日の目標は、まず挨拶。


 そう心に決めて、なつきは昇降口へ向かった。


 スポーツ・商業棟の三階。


 二年十一組の教室は、朝から騒がしかった。


 商業科は一クラスしかない。


 だから、教室に入っても顔ぶれはほとんど変わらない。


 一年生の頃から一緒だった人たち。


 これからまた一年、同じ教室で過ごす人たち。


 新鮮さは少ない。


 けれど、進級初日らしい落ち着かなさはあった。


 黒板には、担任の字で大きく書かれていた。


『新しい席表は黒板横』


 その一文を見た瞬間、なつきの胸が跳ねた。


 席替え。


 大事な席替え。


 なつきは鞄を持ったまま、黒板横へ向かった。


 すでに何人かが席表の前に集まっている。


「うわ、俺前かよ」


「やった、後ろ」


「窓側いいなー」


「先生、絶対成績悪いやつ前にしてるだろ」


「島中、前じゃん」


「マジかよ。終わった」


 笑い声があちこちで起きる。


 なつきは人の隙間から、席表を覗き込んだ。


 まず、自分の名前。


 横田なつき。


 窓側から二列目。


 後ろから三番目。


 悪くない。


 悪くないどころか、かなりいい。


 そして。


 なつきは、すぐに大國春樹の名前を探した。


 大國春樹。


 窓側の一番後ろ。


 なつきの斜め後ろ。


 一瞬。


 呼吸が止まりそうになった。


 近い。


 去年より、近い。


 振り返れば見える。


 いや、振り返らなくても気配が分かるかもしれない。


 授業中に斜め後ろから紙を回される可能性もある。


 掃除当番のとき、声をかける機会があるかもしれない。


 心臓が、急に忙しくなった。


 席表の文字が、少しだけ滲んで見える。


「なつき」


 茜の声。


「うん」


「自分の席は見た?」


「見た」


「大國くんの席は?」


「見てない」


「嘘が下手」


「……見ました」


「近いわね」


「うん」


 なつきは小さく頷いた。


 その声が、思ったより柔らかくなってしまう。


 茜は表情を変えないまま、席表を見る。


「私は廊下側ね。少し離れた」


「茜ちゃん遠い……」


「休み時間は行ける距離よ」


「授業中は?」


「授業中に何をするつもり」


「助けを求める」


「授業を聞きなさい」


「はい……」


 なつきは肩を落とした。


 でも、すぐにまた春樹の席を見てしまう。


 斜め後ろ。


 近い。


 近すぎる気もする。


 もし授業中に変な動きをしたら見られる。


 居眠りしそうになったら見られる。


 消しゴムを落としたら拾ってくれるかもしれない。


 いや、そんな都合よくない。


 でも、もしそうなったらどうしよう。


 想像するだけで、なつきは頬が熱くなった。


「顔」


 茜が言う。


「え?」


「にやけてる」


「にやけてないよ」


「口元」


 なつきは慌てて口を押さえた。


 茜が小さく息を吐く。


「分かりやすすぎ」


「そんなに?」


「かなり」


「大國くんにも分かっちゃうかな」


「大國くんが見ていればね」


「見てないよね」


「たぶん」


「それはそれで寂しい」


「面倒ね」


 茜の言葉に、なつきは小さく笑った。


 確かに面倒だ。


 見られたら困る。


 でも、見られなかったら寂しい。


 好きという気持ちは、どうしてこんなにわがままなのだろう。


「お、なつき近いじゃん」


 後ろから守の声がした。


 なつきはびくっと肩を揺らす。


 守が席表を覗き込んでいる。


「あ、ほんとだ。俺、前の方かよ。最悪」


「田辺、前の方なんだ」


「しかも島中の近く。まあ退屈はしねぇか」


 守は自分の席を確認してから、なつきの名前を見た。


「お前、いい席じゃん。後ろの方だし」


「うん」


「寝れるな」


「寝ないってば」


「去年寝てた」


「それ何回言うの」


「事実は大事だろ」


 守は笑った。


 それから、席表の右端へ視線を動かした。


「大國、窓際の一番後ろか。あいつっぽい席だな」


 なつきの胸が、また跳ねた。


 守は特に意味もなく言ったのだと思う。


 ただ席を見て、そう思っただけ。


 でも、なつきにとっては春樹の名前が出るだけで、少し緊張する。


「なつきの斜め後ろじゃん」


 守が続ける。


「……そうだね」


「じゃあ授業中寝たらすぐバレるな」


「だから寝ないよ」


「大國、真面目そうだし、先生にチクるかもな」


「そんなことしないと思う」


 思わず、なつきは少し強めに言ってしまった。


 守が目を丸くする。


「なんだよ、急に」


「あ……別に」


「大國のこと庇うじゃん」


「庇うとかじゃなくて、そういうことしなそうだなって思っただけ」


「ふーん」


 守は少し不思議そうな顔をした。


 けれど、深く考えている様子はない。


 なつきの気持ちに気づいているわけではない。


 たぶん、全然気づいていない。


 ただ、なつきが春樹のことを言ったから、何となく引っかかっただけ。


 その程度だ。


「まあいいや。なつき、課題出した?」


「……」


「その顔は出してねぇな」


「持ってきたよ?」


「やったとは言ってねぇ」


「ちょっとはやった」


「ちょっとって何ページ」


「……三ページ」


「少なっ」


「田辺は?」


「半分」


「人のこと言えないよ」


「俺は部活があるから」


「私だって忙しいもん」


「何で?」


「えっと……いろいろ」


「どうせ寝てただけだろ」


「寝てないよ!」


 守との会話は、いつもこんな感じで続く。


 気楽だ。


 でも、少し雑。


 守は悪気なく踏み込んでくる。


 なつきも、つい言い返してしまう。


 それは楽しい。


 けれど、ときどき、守が春樹の話題に触れると、心臓が妙な動きをする。


 気づかないでほしい。


 でも、分かってほしい気もする。


 そんな曖昧な気持ちは、自分でも整理できなかった。


 そのとき、教室の入口が少し静かになった。


 なつきは何となくそちらを見た。


 大國春樹が入ってきた。


 黒いリュックを肩にかけ、片手に文庫本を持っている。


 髪は少し長め。


 制服はきちんとしている。


 眠そうでもなく、浮かれてもいない。


 いつもの春樹だった。


 教室の騒がしさを避けるように、静かに席表の前へ来る。


 なつきは一瞬、息を止めた。


 近い。


 席表を見る春樹が、すぐそばにいる。


 何か言うなら今だ。


 おはよう。


 ただ、それだけでいい。


 茜に言われた通り。


 おはよう。


 同じクラスなのだから、変じゃない。


 なつきは唇を開きかけた。


 けれど、その瞬間。


「春樹」


 別の声がした。


 板倉紅秋だった。


 眼鏡をかけた細身の男子。


 なつきは名前と顔は知っている。


 成績が良い。


 落ち着いている。


 少し皮肉っぽい話し方をする。


 そして、春樹とだけはよく話している。


 紅秋は席表を見ながら、春樹の横に並んだ。


「君、またいい席だね。窓際最後尾。主人公席じゃないか」


「何それ」


「物語なら何か起きる席」


「何も起きない方がいい」


「君らしい」


 紅秋は薄く笑った。


 春樹は少しだけ目を細める。


 笑った、というほどではない。


 でも、表情がわずかに緩んだ。


 なつきはそれを見て、胸がきゅっとなった。


 春樹が自然に話している。


 紅秋とは、普通に。


 羨ましい。


 いいな。


 そう思った。


 同時に、さっきまで喉元にあった「おはよう」は、どこかへ消えてしまった。


「なつき?」


 守が横から覗き込む。


「何固まってんだよ」


「えっ」


「席表の前で邪魔になってるぞ」


「あ、ごめん」


 守は悪気なく言っただけだった。


 でも、その声で、なつきの中の勇気は完全にしぼんだ。


 春樹へ向けようとしていた言葉が、引っ込んでしまう。


 なつきは慌てて席表の前から離れた。


 守も一緒についてくる。


「なあ、課題マジでどうする?」


「田辺、まだその話?」


「大事だろ。二年最初から怒られるの嫌じゃん」


「じゃあやればよかったのに」


「春休み短かったんだよ」


「長かったよ」


「部活やってる人間には短いんだよ」


 守はそう言いながら、なつきの隣を歩く。


 何も知らずに。


 何も気づかずに。


 今、なつきが春樹へ話しかけようとしていたことも。


 そのタイミングを自分が潰したことも。


 まったく気づいていない。


 なつきは少しだけ唇を尖らせた。


「田辺のばか」


「は? なんで?」


「なんでもない」


「なんでもないのにばかって言われたのか俺」


「そういう日もある」


「理不尽すぎるだろ」


 守は本気で困った顔をした。


 なつきは少し笑ってしまう。


 怒りきれない。


 守は本当に分かっていないのだ。


 だから、責めるのも違う気がする。


 でも。


 邪魔だった。


 ものすごく。


 なつきは自分の新しい席へ向かった。


 窓側から二列目。


 後ろから三番目。


 鞄を机に置く。


 椅子に座る。


 そして、そっと斜め後ろを見る。


 春樹はまだ席表の前で紅秋と話していた。


 紅秋が何かを言い、春樹が短く返す。


 会話は長くない。


 でも、自然だった。


 その自然さが、なつきにはとても遠く見えた。


 やがて春樹がこちらへ歩いてくる。


 なつきは慌てて前を向いた。


 心臓が跳ねる。


 足音が近づく。


 机の横を通る。


 春樹が斜め後ろの席に座る。


 椅子を引く音。


 リュックを置く音。


 本を机に置く音。


 全部が聞こえる気がした。


 なつきは背筋を伸ばした。


 普段より少しだけ。


 いや、かなり。


 変に思われないだろうか。


 斜め後ろから見られているかもしれない。


 いや、春樹は本を読んでいるから見ていない。


 でも、もし見られたら。


 どうしよう。


 そんなことを考えているうちに、担任が教室へ入ってきた。


「はい、席につけー」


 ざわついていた教室が、少しずつ落ち着いていく。


 島中たちが笑いながら席へ戻る。


 守は前方の席で「うわ、黒板近い」と文句を言っていた。


 茜は廊下側の席で、すでに教科書を机に出している。


 紅秋は中央寄りの席に座り、ノートを整えていた。


 春樹は斜め後ろ。


 本を閉じて、静かに前を向いている。


 なつきは、その気配を背中で感じながら、机の端を指でなぞった。


 二年生が始まった。


 去年と同じ顔ぶれ。


 去年と同じ商業科十一組。


 でも、席は去年より少し近い。


 それだけで、なつきの世界は少し変わった気がした。


 始業式は体育館で行われた。


 第一体育館には全学年が集まり、校長先生の話が長く続いた。


 特進科。


 普通科。


 スポーツ特待科。


 商業科。


 それぞれの生徒たちが列を作って並んでいる。


 体育館の床は少し冷たく、天井の照明が白く光っていた。


 校長先生の声はマイクを通して響く。


 新年度の心構え。


 目標を持つこと。


 努力すること。


 進路を意識すること。


 どれも大事な話だとは思う。


 でも、なつきの意識は何度も横へ流れてしまった。


 春樹はどこにいるのだろう。


 十一組の男子列。


 少し後ろの方。


 探してはいけないと思いながら、探してしまう。


 でも、体育館では人が多すぎてよく見えない。


 見えないと、少し寂しい。


 さっきまで斜め後ろにいたのに。


 同じ空間にいるのに。


 見えないだけで、こんなに遠い。


 なつきは自分でも呆れた。


 好きという感情は、視力までおかしくするのかもしれない。


「横田」


 隣の女子に小声で呼ばれた。


「ん?」


「眠そう」


「寝てないよ」


「目がふわふわしてる」


「目ってふわふわする?」


「してる」


 小声で笑われる。


 なつきも小さく笑った。


 けれど、すぐに茜が前の列から少しだけ振り返った。


 静かにしなさい。


 目だけでそう言われた気がして、なつきは慌てて姿勢を正した。


 始業式が終わり、教室へ戻る途中。


 スポーツ・商業棟へ向かう渡り廊下は、生徒でいっぱいだった。


 スポーツ特待科の男子たちが大きな声で部活の話をしている。


 商業科の女子たちは春休みの話をしている。


 普通科棟の方からも、楽しそうな声が流れてくる。


 なつきはその中を歩きながら、特進棟の方をちらりと見た。


 図書室は、特進棟の三階西端にある。


 一年前、春樹を見つけた場所。


 放課後になると、春樹はよくそこへ行く。


 今日も行くだろうか。


 もし行くなら。


 自分も行けるだろうか。


 話しかけられるだろうか。


 朝の「おはよう」は言えなかった。


 守に声をかけられて、タイミングを逃した。


 でも、放課後なら。


 図書室なら。


 人も少ないかもしれない。


 なつきは自分の手元を見た。


 指先が少し冷たい。


 緊張していると、いつもこうなる。


「また考えてる」


 隣に来た茜が言った。


「うん」


「今度は何」


「放課後、図書室行こうかなって」


 言ってから、なつきは少し恥ずかしくなった。


 茜は驚かなかった。


 むしろ、やっと言ったか、という顔をした。


「いいんじゃない」


「いいかな」


「去年も行ってたでしょ」


「でも、去年は見るだけだったから」


「今年も見るだけにするの?」


「……それは嫌かも」


「なら、近づきなさい」


 簡単に言う。


 でも、簡単ではない。


 なつきにとって春樹の隣は、ものすごく遠い場所だった。


 同じクラス。


 斜め後ろ。


 物理的には近い。


 それでも、話しかけるとなると遠い。


「何て言えばいいかな」


「おはようを逃したなら、放課後は何読んでるの、でいいんじゃない」


「急に?」


「図書室なら自然でしょ」


「自然かな」


「少なくとも、図書室で本の話をするのは自然」


「たしかに」


「できそう?」


「……五十パーセントくらい」


「高く見積もったわね」


「三十パーセント」


「下がった」


「二十……」


「戻しなさい」


 なつきは小さく笑った。


 茜と話していると、緊張が少しだけ笑いに変わる。


 完全には消えない。


 でも、少し動けそうになる。


 教室に戻ると、担任がホームルームを始めた。


 新年度の説明。


 配布物。


 提出物の確認。


 明日の予定。


 そして、委員会決めは明日に回されることになった。


「今日は書類が多いからな。委員会と係は明日決めるぞ。逃げるなよ」


 担任が言うと、教室から少し笑いが起きた。


「先生、委員長とかもう決めちゃえば?」


 島中が軽い声で言った。


「お前がやるか?」


「いや、俺は忙しいんで」


「何に忙しいんだ」


「部活と青春です」


「青春は理由にならん」


 教室が笑う。


 島中は笑いながら両手を上げた。


 そうやって自然に教室の空気を動かせるのが島中だった。


 なつきはそのやり取りを見ながら、少しだけ複雑な気持ちになった。


 島中は明るい。


 みんなを笑わせる。


 クラスの中心にいる。


 もし普通に考えれば、島中はかなり魅力的な男子なのかもしれない。


 でも、なつきの視線は、やっぱり斜め後ろへ向かってしまう。


 春樹は笑っていなかった。


 つまらなそう、というわけでもない。


 ただ静かに配布物を整理している。


 隣の席ではないけれど、斜め後ろという距離は思った以上に近かった。


 紙をめくる音が聞こえる。


 シャーペンを置く音が聞こえる。


 それだけで、なつきは落ち着かなくなる。


 ホームルームが終わる頃には、午前中の予定もほとんど終わっていた。


 今日は午前授業。


 部活のある生徒は残り、ない生徒は帰る。


 教室は一気にざわついた。


「購買行くやついる?」


「部活まで時間あるし、行こうぜ」


「駅前寄る?」


「今日カラオケ行かね?」


 声が飛び交う。


 島中の周りにはすぐに人が集まった。


 守も前方の席から立ち上がり、島中たちと話している。


 茜は配布された書類を丁寧にファイルへ入れていた。


 紅秋は何かをメモしている。


 春樹は本を鞄に入れた。


 なつきの胸が跳ねる。


 春樹が立ち上がった。


 リュックを肩にかける。


 教室の後ろのドアへ向かう。


 放課後。


 図書室。


 たぶん、行く。


 今なら追える。


 いや、追うって言い方は変だ。


 自分も図書室へ行くだけ。


 本を借りに行くだけ。


 そして、もし近くに春樹がいたら。


 何読んでるの。


 そう聞く。


 なつきは鞄を持った。


 立ち上がる。


「なつき、行くの?」


 茜が聞く。


 声は小さかった。


 でも、意図はすぐに分かった。


 なつきはこくりと頷く。


「図書室」


「うん」


「行っておいで」


「……うん」


 茜の声に背中を押される。


 なつきは教室の後ろのドアへ向かった。


 春樹はすでに廊下へ出ている。


 距離は少しある。


 でも、見える。


 このまま行けば、特進棟へ向かう途中で追いつけるかもしれない。


 胸がうるさい。


 足が少しふわふわする。


 でも、朝よりは動けている。


 今日こそ。


 今日こそ、少しだけ。


「なつき」


 背後から声がした。


 なつきは足を止めた。


 田辺守だった。


「え?」


「帰るぞ」


「……え?」


 守は当然のような顔をしていた。


 なつきは目を瞬かせる。


「帰るって、田辺、部活は?」


「今日は午後から。飯食ってから戻る」


「そうなんだ」


「お前も帰るだろ? 途中まで一緒に行こうぜ。春休みの課題の答え合わせしたいし」


「え、私は……」


 なつきは廊下を見る。


 春樹の背中が、少し遠ざかっていた。


 人混みの中に紛れていく。


 待って。


 そう思う。


 声に出せない。


「私、ちょっと用事が」


「何の?」


「えっと……」


「購買?」


「違う」


「先生?」


「違う」


「じゃあ何?」


「図書室……」


 なつきが小さく言うと、守はきょとんとした。


「図書室? なつきが?」


「うん」


「何しに?」


「本を……」


「本?」


 守は本気で不思議そうだった。


 なつきが普段あまり図書室で本を借りないことを知っているからだ。


 その反応は普通だ。


 普通だけれど、今は困る。


 春樹の背中が、もう見えなくなりそうだった。


「別に今日じゃなくてもよくね?」


「今日がいいの」


「なんで?」


「なんでも」


「なんでもって何だよ」


「いいから」


「じゃあ待ってる。俺も図書室行くわ」


「来なくていい!」


 思ったより大きな声が出た。


 近くにいた女子が振り返る。


 守も驚いた顔をした。


「え、何で怒ってんの?」


「怒ってない」


「怒ってるだろ」


「怒ってないよ」


「いや、今の声は怒ってた」


「怒ってないけど、来なくていいの」


「意味分かんねぇ」


 守は本当に分かっていなかった。


 なつきの気持ちにも。


 春樹の背中を追おうとしていたことにも。


 自分が今、見事に邪魔をしたことにも。


 全部、気づいていない。


 だから余計に、なつきは困った。


 怒りたい。


 でも、守は悪気がない。


 責めても、きっと「何で?」と返ってくるだけだ。


 その間に、春樹は特進棟へ行ってしまう。


 なつきは廊下の先を見た。


 もう、春樹の姿は見えなかった。


 胸の中で、何かがしゅんとしぼむ。


 朝と同じだ。


 またタイミングを逃した。


 今度も、守のせいで。


 でも、守は何も知らない。


 なつきは小さく息を吐いた。


「……田辺のばか」


「また!? 今日二回目なんだけど!」


「知らない」


「いや、知らないじゃなくて理由を言えよ」


「言わない」


「何だよそれ」


 守は困ったように頭をかいた。


 なつきは鞄を持ち直す。


 図書室へ行く気持ちは、まだ残っている。


 でも、春樹に追いつく勢いはもう消えてしまった。


 今から行っても、話しかけられるだろうか。


 図書室に着いて、春樹が席に座っていて、本を開いていて。


 そこへ近づいて。


 何読んでるの。


 言えるだろうか。


 たぶん、無理だ。


 今のなつきには、もうその勇気がなかった。


「なつき?」


 茜が近づいてきた。


 なつきの顔を見て、だいたい察したようだった。


「図書室、行く?」


 なつきは少し迷った。


 そして、小さく首を横に振った。


「今日は……やめる」


「そう」


 茜は責めなかった。


 それが少しありがたくて、少し悔しかった。


 守は二人のやり取りを見て、ますます不思議そうにしている。


「何なんだよ、マジで。俺なんかした?」


「した」


 茜が静かに言った。


「え、俺したの?」


「したわね」


「何を?」


「それが分かってないのが問題」


「遠山まで何なんだよ」


 守は本気で困っていた。


 なつきは少しだけ笑ってしまった。


 悔しいのに。


 邪魔されたのに。


 守の顔があまりにも分かっていなくて、怒りが少し抜けてしまう。


 それでも、胸の奥には小さな痛みが残った。


 今日も話せなかった。


 朝も。


 放課後も。


 でも、席は近くなった。


 明日には委員会決めがある。


 もしかしたら、何か変わるかもしれない。


 いや。


 変えるのは自分だ。


 茜に何度も言われている。


 見ているだけでは、何も変わらない。


 なつきは窓の外を見た。


 特進棟の三階。


 図書室がある方角。


 そこには春の光が差している。


 春樹は今ごろ、あの窓際の席で本を読んでいるのだろうか。


 去年と同じように。


 一年前、なつきが恋をした横顔のまま。


「明日」


 なつきは小さく言った。


 茜が見る。


 守も見る。


「明日こそ、話しかける」


 声は大きくなかった。


 けれど、今度は自分に言い聞かせるようにはっきりと言った。


 守は首を傾げた。


「誰に?」


 なつきは答えなかった。


 茜は少しだけ笑った。


「そう。明日ね」


「うん」


 明日。


 本当に話せるかは分からない。


 また逃げるかもしれない。


 またタイミングを逃すかもしれない。


 でも、今日より少しだけ近くに座れる。


 同じ教室で。


 斜め後ろに春樹がいて。


 明日も、春が続いていく。


 水戸の空は、午後になってもよく晴れていた。


 桜の花びらが、校舎の間を抜ける風に乗って舞っている。


 私立梅桜高等学校、二年十一組。


 商業科唯一のクラス。


 顔ぶれは去年と変わらない。


 けれど。


 横田なつきの春は、ほんの少しだけ動き始めていた。


 まだ見ているだけ。


 まだ話しかけられない。


 それでも。


 斜め後ろの席にいる大國春樹の存在が、今日から少しだけ近くなった。


 それだけで、なつきは明日を待てる気がした。

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