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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第45話 優勝のあとに


 試合終了から二十分後。


 グラウンドの熱気はまだ消えていなかった。


 あちこちで結果発表が行われ、写真撮影が行われ、勝ったクラスも負けたクラスもそれぞれの球技大会を終えようとしている。


 そんな中。


 十一組の男子達は担任に連れられて教室へ戻っていた。


「優勝だぞ優勝!」


 三浦がうるさい。


 とにかくうるさい。


「分かったから」


 田辺が呆れたように言う。


「いや分かってねぇ!」


「分かってる」


「分かってねぇ!」


「うるさい」


「ひどくね!?」


 廊下に笑い声が響く。


 後ろを歩いていた女子達もつられて笑っていた。


 なつきも笑う。


 茜も。


 亜衣も。


 球技大会が終わった安心感だろうか。


 みんな表情が柔らかい。


 そんな中。


 春樹だけはいつも通りだった。


 タオルを首に掛け。


 汗を拭きながら歩いている。


 優勝した本人とは思えない。


「大國」


 三浦が言う。


「ん?」


「もう少し喜べ」


「喜んでる」


「見えねぇ」


「そう?」


「そうだよ!」


 周囲から笑いが起きた。


 春樹は首を傾げる。


 本気で分かっていないらしい。


 その姿に。


 なつきは思わず笑ってしまう。


 やっぱり春樹くんだ。


 あれだけ活躍したのに。


 変わらない。


 本当に。


 変わらない。


 教室が近付く。


 扉の向こうからも声が聞こえる。


 先に戻っていたクラスメイト達だろう。


 そして。


 三浦が勢いよく扉を開いた。


「優勝チームのお帰りだぞー!!」


 一瞬の静寂。


 そして。


「うおおおおおお!!」


 教室が爆発した。


「マジで優勝した!」


「おめでとう!」


「すげぇ!」


「大國!」


「島中!」


「三浦!」


 拍手。


 歓声。


 机を叩く音。


 十一組の教室が揺れる。


 なつきも思わず笑った。


 こんなに盛り上がるのは初めてかもしれない。


「やったじゃん!」


「ありがとう!」


「優勝者だー!」


「お前らも応援してただろ!」


 男子も女子も関係ない。


 教室全体がお祭り状態だった。


 そんな中。


 春樹はそっと自分の席へ向かおうとする。


 しかし。


「逃がすか!」


 三浦に捕獲された。


「何」


「今日の主役!」


「違う」


「違わない!」


「違わないね」


 珍しく紅秋まで参加している。


 教室中から笑いが起きた。


 春樹は小さくため息を吐く。


 それを見てまた笑いが起きる。


 その時だった。


「大國」


 不意に声がした。


 教室の空気が少しだけ変わる。


 声を掛けたのは島中だった。


 さっきまで騒いでいた教室が少し静かになる。


 なつきも振り返る。


 茜も。


 亜衣も。


 三浦も。


 みんな島中を見ていた。


 島中は少しだけ頭を掻いた。


 らしくない仕草だった。


「ん?」


 春樹が振り向く。


 数秒。


 沈黙。


 教室全体がその続きを待っていた。


 三浦が口を開く。


「おい」


「何だ」


「まさか告白か?」


 一秒後。


 教室が爆笑した。


「違うわ!」


「違ったか」


「当たり前だろ!」


「残念」


「何がだ!」


 さらに笑いが起きる。


 重くなりかけた空気が少しだけ和らぐ。


 島中は大きく息を吐いた。


 そして。


 もう一度春樹を見る。


「悪かった」


 教室が静かになった。


 今度は誰も茶化さない。


 島中の声が本気だと分かったからだ。


 春樹も少しだけ目を瞬かせる。


「何が?」


 本気で聞いている。


 島中は思わず顔をしかめた。


「そういうとこだぞ」


 教室から笑いが漏れる。


 だが。


 島中は続けた。


「正直」


 一拍。


「ムカついてた」


 静かな声だった。


「勉強できるし」


「本読むし」


「女子には優しいし」


「球技もできるし」


 教室から笑い声が漏れる。


 だが島中は止まらない。


「しかも今日あれだぞ」


「反則だろ」


 今度は教室全体が笑った。


 春樹だけが分かっていない顔をしている。


 それが余計に面白かった。


「でも」


 島中は言った。


「助かった」


 今度は笑い声はない。


 静かだった。


「ありがとう」


 その言葉だけは。


 本当に真っ直ぐだった。


 春樹は数秒考える。


 そして。


「別に」


 と答えた。


 島中は天井を見上げた。


「やっぱムカつくな」


 爆笑。


 教室が再び笑いに包まれた。


 だが。


 今度の笑いは。


 どこか温かかった――。



 教室の笑い声はなかなか収まらなかった。


 島中の謝罪。


 そして春樹の相変わらずな返事。


 そのやり取りがあまりにも二人らしかったからだ。


「いやでもさ」


 三浦が机に腰を掛けながら言う。


「島中が謝るとは思わなかった」


「うるせぇ」


 島中が即答する。


「普通するだろ」


「しない」


「しないね」


「しないな」


 田辺。


 紅秋。


 三浦。


 三連続だった。


 教室が笑いに包まれる。


「お前ら喧嘩売ってんのか」


「事実だし」


「事実だからな」


「事実だね」


 女子まで参加し始めた。


 島中は頭を抱える。


 だが。


 その顔はどこか吹っ切れていた。


 今までみたいな尖った空気がない。


 それを感じていたのは。


 なつきも同じだった。


 島中くん。


 変わったな。


 そんなことを思う。


 球技大会。


 怪我。


 悔しさ。


 全部あった。


 でも。


 ちゃんと謝った。


 ちゃんと認めた。


 それは簡単なことじゃない。


 だから。


 少しだけ見方が変わった。


「で?」


 三浦が言う。


「で?」


 島中が返す。


「終わり?」


「何が」


「謝罪」


 島中が嫌そうな顔をした。


 その瞬間。


 三浦がニヤニヤする。


 嫌な予感しかしない。


「まだあるだろ?」


「ない」


「ある」


「ない」


「ある」


「ない」


「ある」


 小学生みたいなやり取りだった。


 教室から笑いが漏れる。


 そして。


 三浦は爆弾を投げた。


「横田に言うこと」


 なつきが固まった。


「は?」


 島中も固まった。


「何でそうなる」


「応援されてただろ」


「お前黙れ」


「聞こえてたぞー」


 その瞬間。


 教室がざわついた。


 なつきの耳が真っ赤になる。


 亜衣が吹き出した。


 茜は額を押さえている。


「三浦」


 茜が言う。


「何?」


「面白いけどやめなさい」


「すみません」


 即謝罪だった。


 だが。


 笑いは止まらない。


 島中も苦笑する。


「別に」


 少しだけ肩を竦める。


「横田が誰応援しようが自由だろ」


 なつきは目を瞬かせた。


 教室も少し静かになる。


 島中は続ける。


「俺は俺」


「大國は大國」


「それだけだ」


 短い言葉だった。


 でも。


 そこには変な意地もなかった。


 なつきは少しだけ驚く。


 本当に吹っ切れたのかもしれない。


「まぁ」


 島中が笑う。


「負けたとは言ってねぇけど」


 一瞬。


 教室が静かになる。


 そして。


「出た」


 三浦が言った。


「出たね」


 田辺が頷く。


「出たな」


 紅秋も言う。


 爆笑だった。


「何だよ!」


 島中が叫ぶ。


「いや」


 三浦が笑う。


「それ聞いて安心した」


「は?」


「お前らしくて」


 島中は少しだけ黙った。


 それから。


 小さく笑う。


「次は負けねぇ」


 その視線は春樹へ向いていた。


 春樹は窓の外を見ていた。


 たぶん聞いている。


 でも。


 反応しない。


「大國」


 島中が呼ぶ。


「ん?」


 振り向く。


「次は勝つ」


「そう」


「もっと何か言え」


「頑張って」


 教室が爆笑した。


「だからそういうとこだ!」


 島中が叫ぶ。


 春樹は少しだけ困った顔をする。


 そのやり取りだけで。


 また笑いが起きる。


 空気が軽い。


 優しい。


 そして。


 担任が教室へ入ってきた。


「おー」


 教室が少し静かになる。


「盛り上がってるな」


「優勝したんで!」


 三浦が答える。


「知ってる」


 担任は笑った。


「だから写真撮るぞ」


 一瞬。


 教室が静かになる。


 そして。


「おおおおおお!!」


 再び歓声。


「記念写真!」


「やった!」


「残る!」


「撮る!」


 全員が立ち上がる。


 机を動かす。


 椅子を寄せる。


 教室が一気に慌ただしくなる。


 その中で。


 春樹だけがそっと席へ戻ろうとしていた。


「待て」


 三浦が捕獲。


「何」


「主役」


「違う」


「違わない」


「違わないね」


 今度は女子まで参加していた。


 春樹はため息を吐く。


 そして。


 なつきは少し離れた場所からその様子を見ていた。


 写真。


 集合写真。


 春樹くんの隣。


 そんなことを考えた瞬間。


 自分で自分を止める。


 無理。


 絶対無理。


 そんな勇気ない。


 すると。


 隣から茜が小さく笑った。


「何?」


「別に」


 怪しい。


 すごく怪しい。


 さらに。


 亜衣まで笑っている。


「何その顔」


「何でもない」


 絶対何かある。


 なつきは嫌な予感がした。


 ものすごく。


 嫌な予感が。


 そして。


 その予感は大体当たるのだ――。




 教室は、一気に慌ただしくなった。


 担任の「写真撮るぞ」の一言で、それまで机に腰を掛けていた男子も、窓際で喋っていた女子も、全員が一斉に動き出す。


「机、後ろ寄せろー!」


「椅子どうする?」


「前に座る人いる?」


「黒板に何か書こうよ!」


「優勝って書け優勝!」


 三浦の声が、誰よりも大きい。


 それに負けないくらい、クラスメイトたちも騒いでいた。


 教室の前方では、黒板に大きく文字が書かれていく。


 男子フットサル優勝。


 女子バスケ初戦突破。


 球技大会お疲れ!


 誰かがチョークで星を描く。


 誰かがバスケットボールみたいな丸を描く。


 三浦がフットサルボールを描こうとして、ただの歪んだ円になり、亜衣に「何それ、じゃがいも?」と言われて教室中が笑った。


「じゃがいもじゃねぇ!」


「じゃあ何?」


「ボール!」


「じゃがいもボール」


「やめろ!」


 笑い声が弾ける。


 その笑いの中で、なつきも自然に笑っていた。


 球技大会が終わった。


 勝った。


 優勝した。


 そして、島中が春樹に謝った。


 その全部がまだ胸の中で熱を持っている。


 今日は、何だかすごい一日だった。


 試合の緊張も。


 自分のシュートも。


 春樹の無双も。


 白石祐衣の登場も。


 島中の謝罪も。


 全部が一日の中に詰まっていて、頭の中が追いついていない。


 それなのに、教室の空気は明るかった。


 重さも、気まずさも、少しずつ笑いに変わっていく。


「横田」


 茜が声をかける。


「うん?」


「前に行きましょう」


「え?」


「写真」


「あ、うん」


 なつきは頷いた。


 だが、すぐに足が止まる。


 教室の前方。


 黒板の前。


 そこには、すでに春樹がいた。


 いや、いたというより、連れてこられていた。


 三浦が春樹の肩を押さえ、田辺が逃げ道を塞ぎ、紅秋が静かに位置を確認している。


「春樹、真ん中!」


「違う」


「違わない!」


「優勝の立役者!」


「島中くん達だろ」


「そういうのいいから真ん中!」


 春樹は明らかに困っていた。


 けれど、誰も逃がす気がない。


 教室中から声が飛ぶ。


「大國、真ん中!」


「今日くらい諦めろー!」


「逃げるなー!」


 春樹は小さく息を吐いた。


「……分かった」


 その瞬間、拍手が起きた。


「よし!」


「勝った!」


「何に?」


「大國捕獲戦!」


 また笑いが起きる。


 なつきはその光景を見て、胸の奥が少し温かくなった。


 春樹が中心にいる。


 本人は望んでいないのに。


 それでも、みんなが春樹を真ん中に置こうとしている。


 それが何だか嬉しかった。


 自分のことではないのに。


 でも。


 その近くへ行く勇気はなかった。


「なつき」


 亜衣がにこにこしながら近づいてくる。


「何?」


「こっち」


「え?」


「こっち」


「どこ?」


「前」


 嫌な予感がした。


 ものすごく。


 なつきは茜を見る。


 茜は静かに微笑んでいる。


 助けてくれる気はなさそうだった。


「茜ちゃん?」


「行きましょう」


「どこに?」


「前」


「いや、だから」


「写真だから」


「でも、後ろでも」


「だめ」


 即答だった。


 なつきの心臓が跳ねる。


「だめ?」


「だめ」


 亜衣がなつきの背中を軽く押す。


「ほらほら」


「待って、心の準備」


「球技大会でシュート決めた女が何言ってんの」


「あれとこれは違う!」


「同じ青春」


「違う!」


 押される。


 じりじりと。


 教室の前方へ。


 なつきは抵抗しようとしたが、亜衣の勢いと茜の静かな誘導に勝てなかった。


 気づけば、黒板の前に近づいている。


 春樹が近い。


 近い。


 近い。


 なつきの頭の中が一気に真っ白になる。


「横田さん」


 春樹が気づいた。


「はいっ」


 声が裏返った。


 教室の一部が笑う。


 なつきは顔が熱くなる。


 春樹は少しだけ首を傾げた。


「大丈夫?」


「だ、大丈夫です」


「そう」


 たったそれだけ。


 なのに心臓が大騒ぎしている。


 亜衣が後ろから小声で言った。


「隣空いてるよ」


「聞こえてる!」


「聞こえるように言った」


「亜衣ちゃん!」


 茜が静かに言う。


「なつき、そこ」


「そこ?」


 指された場所は、春樹の斜め隣だった。


 完全な隣ではない。


 でも、近い。


 肩が触れるほどではないけれど、写真に写れば近く見える距離。


 その絶妙な位置。


 茜の采配だった。


「無理」


 なつきは小さく言った。


「無理じゃない」


 茜は淡々としている。


「写真を撮るだけ」


「それが無理」


「練習したシュートより簡単よ」


「違うよ」


「違わないわ」


 そのやり取りを聞いていた三浦が、にやにやしながら割り込んできた。


「何だ何だ? 横田、緊張してんのか?」


「してない!」


「してるな」


「してない!」


「春樹の隣だから?」


 その瞬間。


 なつきは固まった。


 教室も少しざわつく。


 亜衣が三浦の肩を叩いた。


「三浦くん」


「はい」


「今のはちょっと雑」


「すみません」


 即謝罪。


 教室が笑う。


 春樹だけが不思議そうな顔をしていた。


「俺の隣だと緊張するの?」


 春樹が普通に聞いた。


 なつきは完全に停止した。


 亜衣が口を押さえる。


 茜が目を閉じる。


 三浦が「あ」と言う。


 島中が遠くからぼそっと言った。


「お前、ほんとそういうとこだぞ」


 春樹はさらに首を傾げる。


「何が?」


「もういい」


 島中が顔を逸らす。


 教室中が笑った。


 なつきは何とか声を絞り出す。


「緊張というか……」


「うん」


「写真だから」


「写真だと緊張する?」


「します」


「そう」


 春樹は納得したように頷いた。


 違う。


 そうじゃない。


 でも、それでいい。


 今はそれで終わってほしい。


 なつきは必死にそう思った。


「横田さん」


「はい」


「女子バスケのシュート、良かった」


 急に。


 本当に急に。


 春樹がそう言った。


 なつきは息を止めた。


 周囲の音が少し遠くなる。


「え?」


「あの試合の」


「見てたの?」


「見てた」


「……ありがとう」


 声が小さくなる。


 春樹はいつも通りだった。


 でも、ちゃんと覚えてくれていた。


 自分のシュートを。


 あの時のことを。


 なつきの胸がきゅっと熱くなる。


 亜衣が横で小さくガッツポーズしていた。


 茜も微笑んでいる。


 島中は少しだけ視線を逸らし、何かを飲み込むような顔をした。


 それでも何も言わなかった。


 その沈黙が、少しだけ島中の成長のようにも見えた。


「はいはい、並べー」


 担任の声が響く。


「撮るぞー」


 教室の前に、クラスメイトたちがぎゅっと集まる。


 前列は椅子に座る女子と男子。


 後列は立つ生徒たち。


 黒板には歪んだ文字と、じゃがいもみたいなボール。


 それでも、今の十一組にはぴったりだった。


 なつきは春樹の斜め隣に立つ。


 近い。


 近すぎる。


 春樹の肩が視界の端にある。


 タオルの柔軟剤みたいな匂いと、少し汗の匂いが混ざっている。


 変なことを考えている自分に、なつきは内心で悲鳴を上げた。


 落ち着いて。


 写真。


 ただの写真。


 でも、ただの写真ではない。


 今日の記念。


 春樹と一緒に写る写真。


 そう思うと、頬が熱くなる。


「横田さん」


 春樹が小さく言った。


「はい」


「前、見た方がいい」


「え?」


「カメラ」


「あっ」


 なつきは慌てて前を向いた。


 教室に笑いが広がる。


「なつき、かわいい」


 亜衣が言う。


「言わないで!」


 担任がスマホを構える。


「はい、いくぞー」


 三浦が叫ぶ。


「優勝ー!」


 みんなが笑う。


 シャッター音。


 一枚。


「もう一枚」


 担任が言う。


「今度はちゃんと全員前向けよー」


「横田のことですかー?」


 三浦が言う。


「三浦くん!」


 また笑い。


 二枚目。


 今度は全員で。


「十一組、優勝!」


 声が重なる。


 シャッター音。


 その瞬間。


 なつきは少しだけ笑えた。


 緊張していた。


 恥ずかしかった。


 でも。


 嬉しかった。


 ちゃんと。


 すごく。


 写真撮影が終わると、教室はまた一気に騒がしくなった。


「見せて!」


「俺変な顔してない?」


「三浦、常に変な顔」


「ひどい!」


「黒板のボール、やっぱじゃがいもじゃん」


「違うって!」


 担任のスマホを覗き込む生徒たち。


 自分の写りを気にする女子。


 変顔をしていた男子。


 笑い声はなかなか止まらない。


 春樹はその隙に自分の席へ戻ろうとしていた。


 だが、今度は島中が声をかけた。


「大國」


「ん?」


「写真、あとで送れよ」


「俺が持ってない」


「先生にもらえ」


「分かった」


「ほんとか?」


「忘れるかも」


「忘れんな」


 教室が笑う。


 島中は少しだけ笑って、それ以上は言わなかった。


 そのやり取りを見て、なつきはまた少し胸が温かくなる。


 島中と春樹。


 完全に仲良くなったわけではない。


 ライバルでもある。


 でも、前よりずっと自然だった。


 尖っていたものが、少しだけ丸くなった。


 それが今日の優勝よりも、何だか大きな変化に見えた。


 放課後のチャイムが鳴る頃には、球技大会の熱も少しずつ教室の中で落ち着き始めていた。


 机は元に戻され、黒板の文字も半分だけ消された。


 けれど、優勝の文字だけは誰かが残していた。


 消すのがもったいない。


 みんなそう思っていたのかもしれない。


「疲れたー」


 亜衣が机に突っ伏す。


「でも楽しかった」


「うん」


 なつきも頷いた。


「すごく」


 茜が鞄を整理しながら言う。


「今日はよく眠れそうね」


「絶対眠れる」


「なつきは?」


「たぶん……」


 なつきは少しだけ春樹を見る。


 春樹は席で鞄をまとめている。


 今日一日、何度春樹を見ただろう。


 たぶん数えられない。


 それでも、まだ見てしまう。


 その時、教室の後ろの扉が開いた。


「お疲れー」


 蓮だった。


 特進科のTシャツ姿のまま、少し汗の残る顔で教室を覗かせている。


 その隣には美優。


 さらに少し後ろに祐衣がいた。


 なつきの胸が少しだけ揺れる。


 また。


 春樹の世界の人たち。


 でも、さっきほど苦しくはなかった。


 今日は自分にもある。


 春樹の近くで写真を撮れたこと。


 女子バスケのシュートを褒めてもらえたこと。


 それが小さなお守りみたいに胸の中にあった。


 三浦がすぐ反応する。


「桐谷!」


「優勝おめでとう」


「おう!」


「俺は出てないけどな」


「知ってる」


 蓮は笑った。


「でも春樹が暴れたんだろ?」


「暴れた!」


 三浦が即答する。


「本当に?」


 春樹が不満そうに言う。


「暴れた!」


 田辺も言った。


「暴れたな」


 紅秋も頷く。


「支配していた」


「それは大げさ」


 春樹が言う。


 蓮が笑う。


「いや、お前はそういう時ある」


 美優も頷く。


「あるね」


 祐衣は静かに春樹を見る。


「すごかったです」


 春樹は少しだけ祐衣を見る。


「見てた?」


「少しだけ」


「そう」


「大國くん、あんなにサッカー上手だったんですね」


「昔、少し」


 蓮がすぐに突っ込む。


「少しじゃない」


 美優も言う。


「少しじゃないね」


「みんな厳しい」


 春樹が小さく言う。


 そのやり取りに教室が笑う。


 なつきはその笑いの中で、祐衣を見た。


 祐衣は春樹を見ている。


 落ち着いた顔。


 でも、その目にはさっきよりも少しだけ熱があるように見えた。


 やっぱり。


 祐衣さんも、大國くんのことを見ている。


 そう思う。


 胸がちくりとした。


 けれど、なつきはもう目を逸らさなかった。


 今日は、少しだけ強くなれた気がする。


 待っているだけじゃなくて。


 自分も前に出たい。


 そう思えたから。


「なつき」


 茜が小さく声をかける。


「うん」


「大丈夫?」


「うん」


 なつきは頷いた。


 今度は本当に。


「大丈夫」


 亜衣が少し笑う。


「いい顔」


「そう?」


「うん」


 なつきはもう一度、春樹を見る。


 春樹は蓮に何か言われて、少しだけ困った顔をしている。


 美優が笑い。


 祐衣が静かに見ている。


 三浦がまた騒ぎ。


 島中が呆れ。


 教室が笑う。


 球技大会は終わった。


 でも。


 何かが始まった気がした。


 なつきの恋も。


 春樹をめぐる距離も。


 クラスの空気も。


 少しずつ。


 確かに変わっている。


 窓の外では、夕方の光が校庭を柔らかく染め始めていた。


 青かった空は、少しずつ橙色へ近づいている。


 今日の熱が、ゆっくり一日の終わりへ沈んでいく。


 なつきは胸の奥でそっと呟いた。


 今日の写真。


 絶対、忘れない。


 そして。


 できれば。


 また少しだけ。


 大國くんの隣に近づけますように。


 教室には、まだ優勝の余韻が残っていた。


 その余韻の中で。


 なつきは小さく、でも確かに笑った。

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