第43話 託された背中
初夏の風が校庭を吹き抜ける。
体育館を出たなつきたちは、そのままフットサルコートへ向かっていた。
遠くから歓声が聞こえる。
試合はまだ続いている。
球技大会は終わっていない。
なのに。
胸の中はどこか落ち着かなかった。
「大丈夫かな」
亜衣が小さく言う。
「島中くん」
「うん」
なつきも頷いた。
怪我。
その言葉はやっぱり気になる。
茜も少し表情を曇らせていた。
「軽いといいんだけど」
誰も答えられない。
実際に見ていないからだ。
ただ足をひねっただけかもしれない。
思ったより重いかもしれない。
分からない。
だから不安だった。
グラウンドへ近付くにつれて歓声が大きくなる。
サッカーボールを蹴る音。
ホイッスル。
先生の声。
球技大会らしい賑わいが広がっていた。
「いた」
三浦が前を指差した。
フットサルコート脇。
ベンチ。
そこに島中の姿があった。
なつきたちは思わず足を速める。
島中はベンチへ腰掛けていた。
右足には氷嚢。
先生が何か話している。
保健室へ行く途中だったのだろう。
だが。
表情が良くない。
痛みではない。
悔しさだった。
「島中」
三浦が声をかける。
島中が顔を上げた。
「あ」
いつものような勢いがない。
それだけで、状況が少し伝わる。
「大丈夫か?」
田辺が聞く。
「まぁ」
島中は苦笑した。
「捻っただけらしい」
「だけじゃねぇだろ」
三浦が眉をひそめる。
「試合中だぞ」
「分かってる」
島中は視線を落とした。
その拳が少しだけ握られている。
悔しいのだ。
なつきにはそれが分かった。
怪我よりも。
試合に出られないことが。
悔しい。
きっと。
すごく。
「先生は?」
紅秋が聞く。
「今日は無理だって」
島中が答えた。
短い言葉。
でも重かった。
周囲が静かになる。
今日は無理。
つまり。
もう出られない。
球技大会は終わり。
島中にとっては。
そこで終わってしまった。
風が吹く。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
そんな空気の中。
なつきが小さく口を開く。
「島中くん」
島中が顔を上げる。
「ん?」
「頑張ってたよ」
一瞬。
島中が目を瞬かせた。
なつきは続ける。
「私、見てなかったけど」
「おい」
三浦が突っ込む。
周囲から小さな笑いが起きた。
なつきも少し照れる。
「でも、みんなそう言ってたから」
「……そっか」
島中は小さく笑った。
本当に少しだけ。
それでも。
さっきよりはましだった。
亜衣も頷く。
「島中くん、結構活躍してたらしいじゃん」
「らしいな」
田辺も言う。
「準決勝まで行ったんだし」
「まぁな」
島中は頭を掻く。
照れているのか。
悔しいのか。
自分でも整理できていないようだった。
その時だった。
先生が歩いてきた。
「十一組」
全員が振り向く。
先生は困ったような顔をしていた。
「ちょっと問題があってな」
三浦が嫌な顔をする。
「その顔やめてください」
「俺もしたくてしてるわけじゃない」
先生がため息をついた。
「島中が抜けるだろ」
「はい」
「人数が足りない」
一瞬。
全員が黙る。
それはそうだ。
フットサルは人数が必要だ。
一人欠ければ話が変わる。
「誰か出られるか?」
先生が言う。
周囲がざわついた。
「いや」
「今から?」
「準決勝だぞ?」
無理だ。
経験者でもない限り。
急に出ろと言われても。
そんな空気が流れる。
そして。
先生の視線が動いた。
三浦。
田辺。
紅秋。
そして。
春樹。
そこで止まる。
「大國」
春樹が顔を上げる。
「お前、出られるか?」
なつきの心臓が跳ねた。
周囲も静かになる。
三浦が目を見開く。
田辺も。
紅秋も。
島中でさえ。
春樹を見る。
春樹は少しだけ考えた。
風が吹く。
歓声が聞こえる。
球技大会の音が遠くなる。
なつきは息を止めた。
そして。
春樹がゆっくり口を開く――。
★
風が吹いた。
グラウンドの白線の上を砂が転がっていく。
遠くでは別の試合の歓声が響いている。
けれど。
今だけは。
この場所だけ時間の流れが違うような気がした。
「大國」
先生がもう一度呼ぶ。
「お前、出られるか?」
視線が集まる。
三浦。
田辺。
紅秋。
島中。
なつき。
亜衣。
茜。
美優。
祐衣。
みんなが春樹を見ていた。
春樹は少しだけ考える。
本当に少しだけ。
そして。
「出るだけなら」
静かに言った。
一瞬。
沈黙。
そして。
「助かる!」
先生が即答した。
「いや早い!」
三浦が叫ぶ。
周囲から笑いが起きる。
張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「大國」
田辺が聞く。
「サッカーやったことあるのか?」
「少し」
「少し?」
三浦が眉をひそめる。
春樹は考える。
「小学校くらい」
「それを少しと言うのか」
紅秋が呟いた。
春樹は首を傾げる。
「少しだと思う」
「信用できねぇ」
三浦が即答する。
再び笑いが起きた。
だが。
島中だけは笑っていなかった。
春樹を見る。
じっと。
無言で。
その視線に気付いたのか。
春樹も島中を見る。
二人の間に短い沈黙が落ちた。
島中が口を開く。
「……悪い」
小さな声だった。
なつきは目を瞬かせる。
島中が謝った。
それだけで少し驚く。
「俺が怪我しなきゃ」
島中は視線を落とした。
「こんなことになってない」
悔しそうだった。
本当に。
悔しそうだった。
春樹は少しだけ考える。
そして。
「仕方ないだろ」
短く言った。
「試合中なんだから」
「でも」
「誰もわざとじゃない」
島中が黙る。
風が吹く。
その言葉は慰めじゃなかった。
励ましでもない。
ただ事実だった。
だから島中も反論できない。
しばらくして。
島中は苦笑した。
「お前、そういうとこだよな」
「?」
「いや」
島中は首を振った。
言葉にならなかった。
ただ。
少しだけ肩の力が抜けた気がした。
その様子を見ていたなつきも。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
春樹らしい。
本当に。
春樹らしい。
その時だった。
「春樹」
美優が声をかける。
春樹が振り向く。
「足」
「ん?」
「大丈夫なの?」
美優の表情は真面目だった。
幼馴染としての顔。
春樹は少しだけ足を動かしてみせる。
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
美優は数秒見つめる。
そして。
「ならいい」
小さく頷いた。
それだけだった。
だが。
そのやり取りには長年の信頼が見えた。
なつきは少しだけ羨ましくなる。
聞けるんだ。
あんな風に。
自然に。
その横で。
祐衣も静かに春樹を見ていた。
何か言いそうで。
でも言わない。
結局。
何も言わずに視線を逸らす。
その姿はなつきの目にも残った。
不思議な人だ。
近いようで。
近付きすぎない。
そんな感じだった。
「大國!」
三浦が肩を組む。
「頼んだぞ!」
「重い」
「重くない!」
「重い」
「ひどい!」
周囲から笑い声が上がる。
田辺も苦笑した。
「お前、それで怪我治ってないんだぞ」
「あ」
三浦が固まる。
「ごめん」
「大丈夫」
春樹が答える。
その様子に。
少しずつ空気が戻ってくる。
さっきまでの重さが薄れていく。
クラスメイト達も話し始める。
「大國ならなんとかなるんじゃね?」
「分かる」
「なんかやりそう」
「それ」
期待。
不安。
色々な感情が混ざる。
だが共通していたのは。
みんな春樹を信じていることだった。
なつきはその光景を見る。
胸が少し熱い。
春樹は人気者じゃない。
中心人物でもない。
自分から前へ出るタイプでもない。
それなのに。
気付けば。
みんなが頼っている。
それが少し誇らしかった。
自分のことじゃないのに。
なぜか嬉しかった。
先生が手を叩く。
「よし」
全員が振り向く。
「試合まで五分」
空気が変わる。
笑い声が消える。
代わりに緊張が戻ってくる。
準決勝。
負ければ終わり。
勝てば決勝。
その重みを誰もが理解していた。
春樹はフットサルコートを見る。
対戦相手も準備を始めている。
人数を確認し。
作戦を確認し。
試合の空気が出来上がっていく。
そして。
島中はベンチから立ち上がれないまま。
春樹の背中を見ていた。
何も言わず。
ただ。
じっと。
その背中を。
見つめていた――。
★
試合開始まで残り数分。
準決勝。
勝てば決勝。
負ければ終わり。
グラウンドには独特の緊張感が漂っていた。
フットサルコートの周囲には各クラスの生徒達が集まり始めている。
応援の声。
笑い声。
それでも試合開始が近付くにつれて空気は少しずつ張り詰めていった。
春樹は借りたビブスを受け取る。
足首を軽く回す。
問題ない。
少なくとも本人はそう判断した。
「無理すんなよ」
島中が言った。
ベンチに座ったまま。
右足には氷嚢。
悔しそうな顔のまま。
それでも春樹へ声を掛ける。
「ん」
春樹は短く頷く。
「頼んだ」
少しだけ間が空いた。
そして島中は苦笑した。
「負けんなよ」
その言葉に。
春樹は小さく笑った。
「努力する」
「なんだそれ」
思わず島中も笑う。
少しだけ。
本当に少しだけ。
悔しさが薄れた気がした。
先生の笛が鳴る。
試合開始。
両チームが整列する。
挨拶。
握手。
配置確認。
そして。
ホイッスル。
ボールが動いた。
試合開始。
なつきは思わず前へ身を乗り出した。
春樹は中央付近。
目立たない位置。
だが。
その目だけは試合全体を見ていた。
開始直後。
相手チームが攻め込む。
速い。
準決勝まで勝ち上がっただけはある。
パス回しも上手い。
十一組のゴールへ迫る。
「まずい!」
亜衣が声を上げた。
だが。
その瞬間。
春樹が動いた。
相手のパスコースへ。
最短距離で。
滑り込むように。
ボールを奪う。
「え?」
歓声が止まる。
春樹はそのまま前を見る。
一人。
二人。
相手が寄る。
普通ならパス。
そう思った。
だが違った。
一歩。
ボールを引く。
相手が反応する。
次の瞬間。
逆を取った。
抜いた。
さらにもう一人。
かわす。
速い。
速すぎる。
歓声がざわめきへ変わる。
「は?」
「大國?」
「え?」
「何今?」
周囲がどよめく。
春樹は止まらない。
ゴール前。
シュート。
低い弾道。
一直線。
ネットが揺れる。
先制。
一瞬の沈黙。
そして。
「うおおおおおおおお!!」
十一組応援席が爆発した。
「なにあれ!」
「すげぇ!」
「大國!?」
歓声が広がる。
なつきも立ち上がっていた。
心臓がうるさい。
かっこいい。
ただ。
それしか出てこない。
春樹は何事もなかったように自陣へ戻る。
それが余計に格好良かった。
試合再開。
相手も本気になる。
警戒する。
二人で囲む。
三人で寄せる。
だが。
止まらない。
春樹は相手を見る。
動きを読む。
重心を見る。
空いた場所へ入る。
奪う。
運ぶ。
抜く。
そして。
また決める。
二点目。
歓声。
悲鳴。
拍手。
グラウンド全体がざわつき始めた。
「誰だよあれ!」
「本当に大國か!?」
「聞いてないぞ!」
周囲から声が飛ぶ。
島中も思わず苦笑した。
「反則だろ」
思わず漏れた本音だった。
ベンチの周囲から笑いが起きる。
なつきは完全に見惚れていた。
ボールを追う姿。
走る姿。
ゴールを決める姿。
全部。
目が離せない。
胸が苦しい。
嬉しいのに。
苦しい。
そんな感覚だった。
その横で。
美優は腕を組んでいた。
少しだけ笑っている。
まるで。
当然だと言わんばかりに。
「やっぱり」
小さな呟き。
祐衣も聞こえたらしい。
「知ってたの?」
祐衣が聞く。
美優は頷く。
「まぁ」
「サッカーも?」
「うん」
祐衣が再びコートを見る。
少し驚いている。
図書委員。
本好き。
静かな人。
そんな印象だった。
だから。
今の姿は意外だった。
春樹は三点目も決めた。
さらに一点。
また一点。
完全に試合を支配していた。
相手チームは何も出来ない。
止められない。
グラウンドの空気が変わる。
いつの間にか。
他の試合を見ていた生徒まで集まり始めていた。
「誰あれ」
「十一組の大國」
「マジで?」
「やばくね?」
ざわめきが広がる。
そして。
試合終了。
十一組勝利。
決勝進出。
歓声が爆発した。
春樹の周囲へチームメイトが集まる。
肩を叩く。
笑う。
叫ぶ。
それでも春樹本人は少し困った顔をしていた。
その時だった。
「だから言ったろ」
聞き慣れた声。
全員が振り返る。
蓮だった。
どうやら自分の試合が終わったらしい。
三浦が真っ先に叫ぶ。
「お前知ってたのか!?」
「知ってた」
蓮は即答した。
「春樹、バスケも出来るけど」
一拍。
わざとらしく間を置く。
周囲の視線が集まる。
そして。
蓮は笑った。
「サッカーの方が得意だから」
一瞬。
沈黙。
そして。
「先に言えぇぇぇぇぇ!!」
グラウンド中に叫び声が響いた。
爆笑。
拍手。
歓声。
その中心で。
春樹は少しだけ困ったように笑う。
蓮は肩を竦めた。
「昔ずっとやってたしな」
その一言で。
みんな納得した。
なるほど。
だからか。
そう思わずにはいられなかった。
そしてベンチでは。
島中が黙ってその光景を見ていた。
悔しい。
正直。
めちゃくちゃ悔しい。
自分が出たかった。
自分が勝ちたかった。
自分が活躍したかった。
でも。
認めるしかない。
春樹は凄かった。
本当に。
圧倒的に。
その事実だけは。
どうしても否定できなかった――。




