第42話 知らない距離
「大國くん」
静かな声だった。
歓声に包まれた体育館の中では決して大きくない。
それでも、不思議と耳に残る声だった。
なつきは反射的に振り返った。
体育館入口。
一人の女子生徒が立っていた。
球技大会用のTシャツ。
首にはタオル。
少しだけ汗の残る額。
髪は後ろでひとつにまとめられている。
派手さはない。
けれど、落ち着いた雰囲気が自然と目を引いた。
試合を終えたばかりなのだろう。
どこかやり切ったような空気をまとっている。
春樹が振り返る。
一瞬だけ表情が動いた。
驚いたような。
でも、本当に少しだけ。
「白石さん」
春樹がそう呼んだ。
なつきの胸が小さく跳ねる。
知っている。
春樹が。
あの子を。
女子生徒――白石祐衣は春樹の前まで歩いていく。
手には薄い青色のタオル。
そして。
それを自然に差し出した。
「これ」
短い一言。
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
それから受け取る。
「ありがとう」
「うん」
祐衣は小さく頷いた。
それだけ。
本当にそれだけだった。
なのに。
なつきの胸の中には疑問が次々と浮かぶ。
誰?
なんでタオル?
なんでそんな自然なの?
なんで春樹くんも普通なの?
頭の中が少しだけ忙しくなる。
その時だった。
「あ、祐衣」
隣から美優の声がした。
祐衣が振り向く。
「美優」
自然だった。
あまりにも自然だった。
名前呼び。
お互いに。
その距離感がすぐに分かる。
なつきは思わず目を瞬かせた。
仲が良いんだ。
そう思った瞬間。
今度は蓮が声をかけた。
「白石」
「桐谷くん」
「勝った?」
蓮の問いに。
祐衣は少しだけ苦笑した。
「残念ながら負けました」
「あー」
蓮が頷く。
「惜しかった?」
「結構」
「そっか」
一瞬だけ沈黙。
それから蓮は笑った。
「でも、そんな顔なら頑張ったんだろ」
祐衣が少し目を丸くする。
「どういう顔?」
「やり切った顔」
祐衣は一瞬だけ考えた。
そして小さく笑った。
「そうかもしれません」
自然な会話だった。
無理がない。
気を遣っている感じもない。
つまり。
蓮も知っている。
美優も知っている。
春樹も知っている。
なつきだけが知らない。
その事実が胸の奥へ静かに沈んでいく。
亜衣が小声で言った。
「誰?」
「白石祐衣」
美優が答える。
「特進の子」
祐衣はその声を聞いてこちらを見る。
そして。
軽く頭を下げた。
「こんにちは」
礼儀正しい。
嫌味もない。
自然な挨拶。
亜衣も頭を下げる。
「こんにちは」
茜も続く。
「こんにちは」
なつきも慌てて頭を下げた。
「こ、こんにちは」
祐衣は少しだけ微笑んだ。
柔らかい笑顔だった。
だから困る。
嫌な感じがしない。
むしろ感じが良い。
だから警戒しづらい。
その時。
「うおおおおお!」
三浦が突然立ち上がった。
「負けたぁぁぁぁ!」
「今さらか!」
田辺が即座に突っ込む。
周囲から笑いが起きた。
張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
春樹も少しだけ笑う。
その笑顔を見た祐衣の口元も少しだけ緩んだ。
なつきは、その瞬間を見てしまった。
祐衣は春樹を見ている。
ただ見ているだけ。
でも。
その視線は少しだけ優しく見えた。
気のせいかもしれない。
でも。
そう見えてしまった。
祐衣は再び春樹を見る。
「足、大丈夫?」
なつきの心臓が小さく跳ねた。
怪我のこと。
知っている。
心配していた。
春樹は短く答える。
「うん」
「そう」
祐衣は安心したように頷いた。
「よかった」
その一言が。
なつきには妙に引っかかった。
春樹は受け取ったタオルを見る。
「使っていい?」
「そのために持ってきたから」
祐衣は当然のように言う。
春樹も当然のように受け取る。
自然だった。
あまりにも。
自然だった。
だからこそ。
なつきは何も言えなかった。
亜衣がちらりとなつきを見る。
茜も気付いている。
でも何も言わない。
言えない。
なつき自身がまだ整理できていないからだ。
白石祐衣。
春樹くんと。
どんな関係なんだろう。
美優さんとも仲が良い。
蓮くんとも普通に話す。
そして春樹くんとも自然に会話する。
私だけ知らない。
その感覚が。
少しずつ胸の奥へ沈んでいった。
球技大会の歓声はまだ続いている。
次の試合の笛も聞こえる。
周囲は相変わらず賑やかだ。
なのに。
なつきだけが少し静かな場所へ取り残されたような気がしていた――。
★
なつきが胸の奥のざわつきを抱えたまま座っていると。
「そうだ」
美優が思い出したように声を上げた。
「祐衣、お疲れ」
「ありがとう」
祐衣が微笑む。
「美優も応援来てたんだ」
「うん」
「そっか」
二人の会話は自然だった。
気負いがない。
昔からの親友というより、お互いをよく知る友人同士。
そんな距離感だった。
「祐衣ちゃんは何の競技だったの?」
亜衣が聞く。
「女子テニス」
「あー!」
亜衣が納得したように頷く。
「だから今来たんだ」
「うん」
祐衣も頷いた。
「さっき終わったから」
「どうだった?」
今度は茜が聞く。
祐衣は少しだけ苦笑した。
「負けちゃいました」
「惜しかった?」
「結構」
「うわぁ、それ悔しいやつだ」
亜衣が顔をしかめる。
「悔しかったです」
祐衣は素直に認めた。
その言葉になつきは少し意外さを覚える。
もっと完璧な人かと思っていた。
でも違う。
ちゃんと悔しそうで。
ちゃんと高校生だった。
その時。
三浦が会話へ割り込んだ。
「白石さん!」
「はい?」
「大國の知り合い?」
直球だった。
なつきの心臓が跳ねる。
聞きたい。
でも聞けない。
そんなことを三浦は平然と聞く。
祐衣は驚く様子もなく答えた。
「図書委員です」
「あー!」
三浦が大声を出した。
「なるほど!」
「静かに」
紅秋が即座に突っ込む。
周囲から笑いが起きた。
けれど。
なつきの胸にはその言葉が残る。
図書委員。
春樹との接点。
知らなかった。
本当に。
全然知らなかった。
祐衣は春樹を見る。
「今月の当番、来週だったよね?」
「うん」
春樹が頷く。
「たぶん木曜日」
「分かった」
それだけ。
ただの確認。
なのに。
なつきは妙に気になってしまう。
来週。
一緒の当番。
そんな当たり前の事実が少し胸に刺さった。
「そういえば」
美優が笑った。
「祐衣、今度のクッキーまた作るの?」
祐衣が少し照れたように笑う。
「予定」
「楽しみ」
「ありがとう」
なつきは思わず反応した。
「クッキー?」
「あ」
美優が振り向く。
「祐衣、お菓子作るの上手なんだよ」
「そんなことない」
「ある」
美優は即答した。
祐衣が少し困ったように笑う。
どうやら慣れているらしい。
「料理研究部だから」
その一言に。
亜衣の目が輝いた。
「えっ、すご!」
「別にすごくは」
「いや、すごいって!」
亜衣は本気だった。
「私、クッキー作ったら岩みたいになるもん」
「それ料理じゃなくて兵器では?」
茜が真顔で言う。
周囲から笑いが起きた。
亜衣が抗議する。
「失礼な!」
「否定しないのね」
「否定できない!」
また笑いが広がる。
その輪の中で。
なつきは少しだけ考えていた。
料理研究部。
お菓子作り。
図書委員。
特進科。
落ち着いた雰囲気。
美優とも仲が良い。
春樹とも自然。
知らなかった。
本当に。
全然知らなかった。
春樹の世界に。
こんな人がいたなんて。
その時だった。
体育館入口の方が騒がしくなった。
誰かが走ってくる音。
息を切らした男子生徒が体育館へ入ってくる。
そして。
十一組の応援席へ向かって声を上げた。
「島中が怪我した!」
一瞬で空気が変わる。
ざわっ、と周囲が揺れた。
「え?」
亜衣が目を丸くする。
「怪我?」
茜も眉をひそめた。
なつきも思わず立ち上がりそうになる。
男子生徒は息を整えながら続けた。
「今フットサル!」
「足やったみたいで!」
「保健室行くって!」
応援席がざわつく。
「マジか?」
「島中?」
「大丈夫なのか?」
あちこちから声が上がる。
田辺が表情を引き締めた。
紅秋も眼鏡の奥の目を細める。
「重いの?」
紅秋が聞く。
「分からない!」
男子生徒は首を振った。
「でも歩けてなかった!」
その言葉で空気がさらに重くなる。
なつきの胸もざわついた。
さっきまで頭を占めていた祐衣のことが、一瞬で遠くなる。
島中が怪我。
それはさすがに心配だった。
春樹は何も言わなかった。
ただ静かに立ち上がる。
その動きを見て。
蓮も表情を変えた。
美優も。
祐衣も。
周囲の空気が少しずつ変わっていく。
球技大会はまだ続いている。
けれど。
今この瞬間だけは。
誰もが島中のことを考えていた
★
島中が怪我した。
その一言は、思った以上に十一組へ衝撃を与えていた。
球技大会。
勝ち負けはある。
転ぶこともある。
だが、怪我となると話は別だった。
「大丈夫なの?」
亜衣が不安そうに聞く。
男子生徒は首を横に振った。
「分からない」
「捻挫?」
「たぶん」
「たぶん?」
「見た感じだから」
周囲がざわつく。
誰も正確な状況を知らない。
だから余計に不安になる。
なつきも落ち着かなかった。
島中。
確かに距離感の近い男子だった。
時々困るくらい。
でも悪い人ではない。
だから素直に心配だった。
「見に行く?」
亜衣が小さく言う。
茜は少し考える。
「保健室なら先生もいるし」
「そうだよね」
「たぶん大丈夫だと思う」
そう言いながらも、茜の表情にも心配は浮かんでいた。
体育館の空気が少し落ち着かない。
そんな中。
春樹は静かだった。
騒がない。
慌てない。
ただ話を聞いている。
その横で蓮が腕を組んだ。
「フットサル、どこまで進んでる?」
男子生徒が答える。
「準決勝」
「そこまで行ってたのか」
「島中、結構頑張ってた」
その言葉に、なつきは少し驚く。
島中。
ちゃんと活躍していたんだ。
そう思った。
確かに最近は春樹とのことばかり目立っていた。
けれど島中だって運動は得意だ。
むしろクラスでも上位の方だった。
「悔しいだろうな」
田辺が呟く。
同じ運動をする者として分かるのだろう。
試合中の怪我。
その悔しさを。
紅秋も静かに頷いた。
体育館の外から歓声が聞こえる。
グラウンドだ。
球技大会は止まらない。
誰かが怪我をしても。
誰かが負けても。
時間は進む。
試合は続く。
それが球技大会だった。
その時。
再び体育館入口が騒がしくなる。
今度は別の男子生徒だった。
「いた!」
息を切らしながら駆け寄ってくる。
「先生がフットサルのメンバー探してる!」
「試合再開か」
「たぶん!」
周囲がざわつく。
男子たちも少しずつ立ち上がった。
「行くぞ」
三浦が言う。
「様子見てくる」
田辺も立ち上がる。
紅秋も続く。
そして。
春樹も自然に立ち上がった。
その姿をなつきは見ていた。
やっぱり春樹はそういう人だ。
仲間に何かあれば動く。
誰かに言われなくても動く。
だから。
なつきは好きになったのかもしれない。
「私たちも行く?」
亜衣が聞く。
「気になるしね」
茜も頷いた。
「少しだけなら」
「うん」
なつきも立ち上がる。
その時だった。
「私も行こうかな」
美優が何気なく言った。
蓮がちらりと見る。
「行くのか?」
「うん」
「そうか」
それ以上は何も言わない。
美優も特に説明しなかった。
それが自然だった。
その様子を見ていた祐衣も少し考え、
「じゃあ私も」
と小さく言った。
美優が微笑む。
「行こっか」
「うん」
二人は並んで立ち上がる。
なつきはそれを見ていた。
美優。
祐衣。
二人とも自然だった。
無理をしている感じもない。
ただ、その姿が少しだけ胸に引っかかった。
理由は分からない。
でも。
なんとなく気になった。
「じゃあな」
三浦が蓮へ手を振る。
「次は負けろよ」
「嫌だね」
蓮が笑う。
「お前らも頑張れ」
「言われなくても!」
三浦の返事に笑いが起きた。
張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
そして。
十一組の生徒たちは体育館を後にした。
外へ出ると、初夏の空気が肌を撫でる。
遠くから聞こえる歓声。
グラウンドのざわめき。
球技大会はまだ続いている。
その中心で。
何かが動こうとしている。
なつきは前を歩く春樹の背中を見る。
その少し後ろには美優。
さらにその隣には祐衣。
胸の奥が少しだけ落ち着かない。
けれど今は。
それよりも先に確かめたいことがあった。
島中は大丈夫なのか。
そして。
フットサルはどうなるのか。
誰もまだ知らない。




