第40話 球技大会開幕
あの日から数日。
放課後の体育館には、毎日のようにボールの音が響いていた。
床を跳ねる低い音。
体育館シューズが床を擦る音。
誰かが名前を呼ぶ声。
笑い声。
悔しそうな声。
そして、たまに上がる歓声。
最初は遠かったリングも、少しずつ近く見えるようになった。
最初は手の中で落ち着かなかったボールも、少しずつ怖くなくなっていった。
なつきは何度もシュートを打った。
外した。
拾った。
また打った。
リングの手前で落ちる日もあった。
奥に当たりすぎる日もあった。
綺麗に入って、亜衣が大きく拍手してくれた日もあった。
茜が「今のは落ち着いていたわ」と頷いてくれた日もあった。
三浦が遠くから「横田、いいぞー!」と大声で叫び、紅秋に「集中を乱さない」と注意される日もあった。
田辺が「横田、試合で決めたら盛り上がるぞ」と言って、亜衣に「プレッシャーかけない」と叩かれる日もあった。
春樹は、ずっと見学席のコーチだった。
軽い捻挫は少しずつ良くなっていったけれど、周りの監視は厳しかった。
走ろうとすれば三浦が止める。
ボールを持てば紅秋が見る。
シュートを打とうとすれば田辺が「大國、やめとけ」と声をかける。
そのたびに春樹は少しだけ不満そうな顔をした。
でも、無理はしなかった。
少なくとも、みんなの前では。
春樹の言葉は短かった。
「肘」
「足」
「今のいい」
「焦らない」
「もう少し上」
たったそれだけ。
けれど、なつきには十分だった。
その言葉があるだけで、もう一回打とうと思えた。
もう一歩、前へ進もうと思えた。
そして気づけば、球技大会当日が来ていた。
朝。
梅桜高校の校門前は、いつもよりずっと賑やかだった。
制服姿の生徒たちが、いつもより少し早い足取りで校内へ入っていく。
手には水筒。
タオル。
クラスごとに作った応援用の小物。
体育館シューズの袋を持つ生徒も多い。
男子の何人かは、すでにジャージ姿で騒いでいた。
女子たちは髪を結び直しながら、今日の試合順を確認している。
朝の校舎は、まだ涼しかった。
けれど空気だけは、もう少し熱を帯びている。
球技大会。
その一日が、学校全体を浮き立たせていた。
なつきは自転車を駐輪場に停めながら、胸の奥が落ち着かないのを感じていた。
ついに本番。
練習では、少しずつできるようになった。
パスも、ドリブルも、シュートも。
でも、本番は違う。
人が見る。
声援がある。
相手がいる。
失敗したら、ボールは相手に渡る。
迷ったら、試合は進んでしまう。
そう思うと、昨日の夜から何度も胸がそわそわした。
鞄の中には、タオルと水筒。
そして、春樹に借りた本も入っている。
今日は読む時間なんてないかもしれない。
それでも、何となく持ってきた。
鞄の中にあるだけで、少し落ち着く気がしたからだ。
「なつき」
後ろから声がした。
振り返ると、茜が自転車を押して歩いてきていた。
いつも通りの落ち着いた表情。
でも、今日は髪を少しきつめに結んでいる。
それだけで、いつもより少しだけ気合が入って見えた。
「茜ちゃん、おはよう」
「おはよう」
「今日だね」
「今日ね」
茜は自転車を停めながら言った。
「緊張してる?」
「してる」
「でしょうね」
「茜ちゃんは?」
「してる」
「ほんと?」
「ほんと」
茜は淡々と答えた。
なつきは少し笑った。
「顔に出てない」
「出さないだけ」
「すごい」
「なつきは出てる」
「やっぱり?」
「かなり」
なつきは頬を押さえた。
そこへ亜衣が歩いてきた。
自転車ではなく、駅方面から来る生徒の流れに少し混ざっていたらしい。
鞄を肩にかけ、片手にスポーツドリンクを持っている。
「おはよー」
「亜衣ちゃん、おはよう」
「なつき、顔が完全に本番前」
「どんな顔?」
「緊張三割、楽しみ三割、大國くんのこと考えてる四割」
「亜衣ちゃん!」
「違う?」
「……ちょっと違う」
「ちょっとなんだ」
茜が静かに言う。
「亜衣、朝から追い詰めない」
「はーい」
亜衣は笑いながら、なつきの肩を軽く叩いた。
「でも大丈夫。練習してきたじゃん」
「うん」
「一本入れよう」
「いきなり?」
「目標は大事」
「外したら?」
「拾う」
茜が即答した。
「そうね。入らなかったら拾えばいい」
その言葉に、なつきは少し肩の力が抜けた。
入らなかったら終わりではない。
拾えばいい。
パスを繋げばいい。
走ればいい。
できることは、シュートだけではない。
「うん」
なつきは頷いた。
「拾う」
校舎へ入ると、廊下はさらに賑やかだった。
普通科の生徒たち。
特進科の生徒たち。
スポーツ特待の生徒たち。
それぞれのクラスが、いつもより少しだけまとまって動いている。
掲示板には、球技大会の試合表が貼られていた。
すでに何人かがその前に集まり、自分たちの試合時間を確認している。
「十一組、女子バスケ初戦……」
亜衣が試合表を覗き込む。
「第二試合だね」
茜が確認する。
「男子バスケは?」
「第三試合」
なつきの胸が跳ねる。
男子バスケ。
春樹たちの試合。
見られるだろうか。
女子の試合が終わった後なら、間に合うかもしれない。
春樹の足はもう大丈夫だろうか。
出られるのだろうか。
この数日、春樹は少しずつ動けるようになっていた。
でも、試合となれば練習とは違う。
蓮や美優は何と言うだろう。
そんなことを考えていると、亜衣が顔を覗き込んできた。
「なつき」
「はい」
「試合表見てる顔じゃなかった」
「見てたよ」
「男子バスケのとこだけでしょ」
「……見てた」
「正直」
茜が試合表を見ながら言った。
「女子の試合を先に集中しましょう」
「はい」
「その後、男子を見に行けばいい」
「うん」
「そのためにも、初戦で体力を使い果たさないように」
「それは難しいかも」
亜衣が笑う。
「なつき、緊張で最初から全力出しそう」
「ありえる」
「そこは茜が制御して」
「努力するわ」
三人で話していると、後ろから大きな声がした。
「おはようございまあああす!」
振り返らなくても分かる。
三浦圭だった。
朝から全力。
ジャージの上に制服のブレザーを羽織り、鞄を肩にかけたまま廊下を歩いてくる。
後ろには田辺と紅秋。
田辺は眠そうな顔をしているが、体格のせいか歩くだけで存在感がある。
紅秋はいつも通り、落ち着いた表情で試合表を見ている。
「三浦くん、朝から声大きい」
亜衣が言う。
「今日は球技大会だぞ! 声出していこう!」
「廊下ではほどほどに」
紅秋が言う。
「板倉、朝から冷静!」
「朝だから」
「理由になる?」
「なる」
田辺が試合表を覗く。
「男子バスケ第三試合か」
「そう」
紅秋が頷く。
「春樹は?」
三浦が周りを見る。
「まだ?」
「来てないみたい」
なつきの心臓がまた少し跳ねる。
春樹。
来るかな。
いや、来る。
でも、足は。
その時だった。
廊下の向こうから、春樹が歩いてきた。
制服姿。
いつも通り、鞄を肩にかけている。
歩き方は、かなり普通に戻っていた。
それを見た瞬間、なつきは胸の奥から息が抜けるような安心を感じた。
良かった。
普通に歩いてる。
春樹の隣には蓮がいた。
少し遅れて、美優も一緒に歩いている。
三人の姿に、周りの生徒がちらりと視線を向ける。
特進科の二人が商業科の方へ来るのは、最近ではもう珍しすぎる光景ではなくなっていた。
それでも、三人で歩いていると少し目立つ。
三浦がすぐに手を上げた。
「春樹ー!」
春樹が顔を上げる。
「朝から元気」
「球技大会だからな!」
蓮が笑う。
「三浦、ほんと朝から声でかいな」
「桐谷も今日は声出してけよ!」
「俺は試合で出すわ」
「お、言ったな!」
美優が春樹を見る。
「足、大丈夫そう?」
春樹は短く答える。
「うん」
蓮がすかさず言う。
「はい出た、うん」
「何」
「信用できない返事」
「大丈夫」
「それも信用できない」
春樹は少しだけ眉を寄せた。
三浦が横から入る。
「春樹、今日無理すんなよ!」
「三浦も言うんだ」
「当たり前だろ!」
田辺も頷く。
「マジで無理すんなよ。俺らもいるし」
その言葉に、なつきは少し驚いた。
田辺が、自然に春樹へそう言った。
少し前なら、こんなふうには思わなかったかもしれない。
田辺は島中側。
距離が近くて、少しうざくて、なつきにとっては苦手なところも多かった。
でも、昨日の件から少し変わって見える。
田辺はちゃんと見ていた。
島中のラフプレーを否定した。
そして今、春樹を心配している。
人は、一面だけではない。
なつきは改めてそう思った。
紅秋が春樹を見て言う。
「試合前に痛みが出たら言って」
「うん」
「無理に隠さない」
「分かった」
「分かってない可能性があるから言っている」
「ひどい」
蓮が笑う。
「板倉くん、正しい」
美優も頷く。
「正しいね」
「みんな厳しい」
春樹が小さく言う。
そのやり取りに、廊下の空気が少し柔らかくなった。
なつきは春樹へ声をかけようとして、少し迷った。
朝からみんながいる。
蓮も美優もいる。
でも、今日は本番だ。
言いたい。
ちゃんと。
「あの、大國くん」
声を出す。
春樹がなつきを見る。
「うん」
「今日、頑張って」
短い言葉だった。
でも、なつきにとっては勇気のいる言葉だった。
春樹は少しだけ目を瞬かせる。
それから、短く答えた。
「横田さんも」
胸が跳ねた。
横田さんも。
自分にも返してくれた。
応援を。
たったそれだけで、今日の不安が少し軽くなる。
「うん」
なつきは頷いた。
「頑張る」
亜衣が隣でにやにやしている。
茜は何も言わない。
でも、少しだけ口元が緩んでいた。
やがて、各クラスは体育館へ移動する時間になった。
球技大会の開会式。
全校生徒が体育館へ集まる。
体育館の入り口には、すでに人の流れができていた。
クラスごとに並び、先生たちが声をかける。
「二年十一組、こっち」
担任の声に従い、なつきたちは体育館へ入った。
中はすでに熱気で満ちていた。
普段の体育の授業とはまったく違う。
学年ごと、クラスごとに生徒たちが並ぶ。
体育館の壁には、球技大会のスローガンが貼られている。
得点表。
試合順。
応援席。
体育館の天井は高いはずなのに、人の声が反響して、空間全体が狭く感じるほどだった。
「すご……」
なつきは思わず呟く。
亜衣が隣で笑う。
「本番感あるね」
「うん」
「緊張してきた?」
「かなり」
「大丈夫。私も」
「亜衣ちゃんも?」
「当たり前じゃん」
亜衣は軽く笑った。
「でも、楽しみ」
茜も頷く。
「緊張しているけれど、悪くない緊張ね」
「茜ちゃん、かっこいい」
「普通よ」
「春樹くんみたいなこと言った」
亜衣が言うと、茜は少し眉を上げた。
「それは少し心外ね」
「え、心外なんだ」
「普通の基準が高すぎる人と一緒にしないで」
なつきは思わず笑った。
笑ったことで、少しだけ肩の力が抜ける。
開会式が始まった。
校長先生の挨拶。
生徒会の説明。
体育委員からの注意事項。
競技ごとのルール確認。
「怪我には十分注意してください」という言葉が出た時、なつきは反射的に春樹の方を見た。
春樹は男子の列にいる。
少し離れている。
でも、視線の先で春樹が一瞬だけこちらを見たような気がした。
目が合った。
ような気がした。
なつきは慌てて前を向いた。
心臓がうるさい。
こんな大人数の中でも、春樹を見つけてしまう。
そして、見つけてもらえたかもしれないと思うだけで、胸が跳ねる。
隣で亜衣が小さく笑った。
「なつき」
「何も言わないで」
「まだ言ってない」
「言いそうだった」
「正解」
開会式が終わると、体育館の空気は一気に動いた。
各競技の初戦へ向けて、移動が始まる。
男子フットサル組はグラウンドへ。
女子テニス組はテニスコートへ。
バスケ組は体育館に残る。
応援に行く生徒たちも、それぞれ分かれていく。
二年十一組の女子バスケ初戦は第二試合。
つまり、少しだけ準備の時間がある。
男子バスケは第三試合。
春樹たちは女子の試合を少し見られるかもしれない。
そう思った瞬間、なつきの緊張が一段階上がった。
「なつき」
茜が声をかける。
「はい」
「深呼吸」
「はい」
なつきは息を吸った。
体育館の空気は少し熱い。
汗とワックスと、朝の緊張が混ざった匂い。
息を吐く。
まだ心臓は速い。
でも、少し落ち着いた。
亜衣が肩を叩く。
「大丈夫。練習通り」
「練習通り」
「パス来たら慌てない」
「慌てない」
「シュートは?」
「膝。肘。最後だけ」
「おお、言えるじゃん」
「言うだけなら」
「本番でもやる」
「はい」
茜が静かに頷く。
「失敗しても、次」
「うん」
「拾う」
「拾う」
その言葉に、なつきはまた少しだけ落ち着いた。
女子バスケ組はコートの端で軽くアップを始めた。
ドリブル。
パス。
シュート。
なつきの一投目は外れた。
リングに当たって、外へ跳ねる。
でも、悪くない。
届いている。
二投目。
少し弱い。
三投目。
リングに当たる。
亜衣がボールを拾って渡してくれる。
「本番前に全部入れなくていいよ」
「そうなの?」
「本番で入れる分、残しとこ」
「そういうもの?」
「そういうものにしとこ」
なつきは笑った。
その時、体育館の反対側から三浦の声が響いた。
「女子バスケー! 頑張れー!」
振り向くと、男子バスケ組が応援席側にいた。
三浦が両手を振っている。
田辺も腕を組んで立っている。
紅秋は静かに見ている。
春樹もそこにいた。
なつきは一瞬、固まる。
見ている。
春樹が。
試合前のアップを。
自分のシュートを。
そう思っただけで、手が震えそうになる。
亜衣がすぐに言った。
「なつき」
「はい」
「大國くんを見るなら、ボール持ってない時」
「……はい」
茜も頷く。
「もう何度も言ったわ」
「はい」
なつきは顔を赤くしながら、もう一度ボールを構えた。
春樹の声を思い出す。
膝。
肘。
最後だけ。
ボールを打つ。
リングに当たり、ネットに触れずに落ちた。
外れた。
でも。
春樹が小さく頷いたように見えた。
それだけで、なつきはまた頑張れる気がした。
第一試合が始まった。
別のクラスの女子たちがコートに入る。
笛が鳴り、ボールが動き出す。
応援席から声が上がる。
体育館の熱が一気に上がった。
なつきたちはコート脇でそれを見ながら、自分たちの出番を待つ。
ボールを追う女子たち。
ぶつかり合う声。
シュートが決まった瞬間の歓声。
その全部が、次は自分たちだと告げていた。
なつきの手のひらに汗が滲む。
タオルで軽く拭く。
水筒を飲む。
呼吸を整える。
それでも、心臓は落ち着かない。
「緊張する」
なつきが小さく言うと、茜が隣で言った。
「していいわ」
「え?」
「緊張しない方が難しい」
「うん」
「でも、緊張しても動ける」
亜衣も言う。
「そうそう。緊張しててもパスは出せる。緊張してても走れる」
「シュートは?」
「入る時は入る」
「雑」
「でも本当」
なつきは笑った。
笑えた。
そのことに少し驚く。
本番直前なのに。
ちゃんと笑えた。
それは、茜と亜衣がいるからだ。
そして、練習してきた時間があるからだ。
第一試合が終わった。
笛が鳴る。
拍手と歓声。
コートから選手たちが出ていく。
次。
二年十一組女子バスケ。
なつきたちの番だった。
亜衣が両手を叩く。
「行こう」
茜が頷く。
「落ち着いて」
なつきは深呼吸した。
体育館の音が、少し遠くなる。
そして、近くなる。
自分の足でコートへ入る。
靴底が床を踏む。
リングが見える。
相手チームが見える。
応援席が見える。
三浦の声が聞こえる。
「十一組、いけー!」
田辺の声も混ざる。
「横田、落ち着けよー!」
亜衣が笑う。
「田辺、今のはまあまあ」
なつきは思わず少し笑った。
そして、視線の端に春樹がいた。
春樹は応援席の前で、静かにこちらを見ている。
声は出していない。
でも、目が合った。
今度は、はっきり。
春樹が短く口を動かした。
声は聞こえない。
けれど、何と言ったのか、なつきには分かった気がした。
大丈夫。
そう見えた。
なつきは、胸の奥でその言葉を受け取った。
大丈夫。
練習した。
外しても拾う。
緊張しても動ける。
ボールと、少しだけ友達になった。
リングまでの距離は、届かない距離じゃない。
なつきは膝に手を置き、試合開始の笛を待った。
体育館の熱。
クラスの声。
茜と亜衣の気配。
春樹の視線。
その全部が背中にあった。
笛が鳴る。
ピーッ―――!
鋭い笛の音が体育館に響いた。
女子バスケ初戦。
二年十一組対二年八組。
試合開始。
ボールが宙へ放られる。
両チームの選手が一斉に動いた。
応援席から歓声が上がる。
「いけー!」
「頑張れー!」
「十一組ー!」
体育館の空気が一瞬で変わる。
練習ではない。
本番だ。
なつきの心臓が強く跳ねる。
耳の奥で、自分の鼓動が聞こえる気がした。
ボールが相手チームへ渡る。
相手のドリブル。
パス。
ゴール下への侵入。
なつきは慌てて動く。
頭では分かっている。
練習した。
茜にも亜衣にも教わった。
でも、実際の試合になると違う。
人が多い。
速い。
声が飛び交う。
目の前の景色が忙しい。
「横田!」
茜の声。
「右!」
「っ!」
なつきは慌てて動く。
ぎりぎりで相手の進路へ入る。
相手がパスを選択する。
ボールが外へ流れる。
シュート。
外れた。
リバウンドを茜が取る。
「ナイス!」
亜衣の声が飛ぶ。
ボールは十一組へ。
なつきは走った。
だが、自分の動きがぎこちないことは分かっていた。
足が重い。
肩に力が入っている。
緊張。
分かっている。
分かっているのに、体が言うことを聞かない。
応援席から三浦の声が飛ぶ。
「落ち着け横田ー!」
「お前が落ち着けー!」
誰かが突っ込む。
笑いが起きる。
その笑い声が、少しだけ緊張を和らげた。
ボールが亜衣へ渡る。
亜衣はドリブルで前へ運ぶ。
相手が寄る。
亜衣が叫ぶ。
「なつき!」
ボールが来る。
受け取る。
その瞬間。
頭が真っ白になった。
どうする?
パス?
ドリブル?
シュート?
一瞬の迷い。
その隙に相手が近づく。
「横田!」
茜の声。
なつきは反射的にパスを出した。
茜が受け取る。
そのままシュート。
外れる。
だがファウルをもらった。
試合が止まる。
なつきは小さく息を吐いた。
危なかった。
今のは完全に固まっていた。
ベンチへ戻る途中。
亜衣が肩を叩く。
「大丈夫」
「ごめん」
「何が?」
「今の」
「試合始まって一分も経ってない」
亜衣は笑った。
「まだ序盤」
茜も頷く。
「焦っているだけ」
「分かる?」
「顔見れば」
「そんなに?」
「そんなに」
なつきは思わず苦笑した。
体育館を見上げる。
高い天井。
眩しい照明。
響く歓声。
球技大会。
本当に始まっている。
その時だった。
応援席の方から声がした。
「横田さん」
なつきが振り返る。
春樹だった。
試合中なので大声ではない。
コート脇から聞こえるくらいの声。
それでも届く。
「大丈夫」
短い。
それだけ。
本当にそれだけだった。
けれど。
なつきの肩から力が抜けた。
不思議なくらい。
たった二文字なのに。
練習中も何度も聞いた言葉。
大丈夫。
焦らない。
今のいい。
短い言葉。
だけど春樹の言葉は、ちゃんと見た上で言ってくれる。
だから信じられる。
なつきは小さく頷いた。
「うん」
試合再開。
再びコートへ戻る。
今度は少しだけ視界が広かった。
ボールを追う。
人を見る。
味方を見る。
亜衣がいる。
茜がいる。
一人じゃない。
ボールが回る。
相手のパス。
茜がカット。
歓声。
「ナイス!」
ボールがなつきへ来る。
受け取る。
緊張はある。
でも今度は止まらない。
ドリブル一回。
二回。
前へ出る。
相手が寄る。
パス。
亜衣が受け取る。
「ナイス!」
亜衣が叫ぶ。
そのままシュート。
得点。
歓声。
「よっしゃあ!」
「十一組!」
「いいぞ!」
三浦が飛び上がっている。
田辺も拍手している。
紅秋も小さく頷いている。
なつきは息を吐いた。
今のは自分の得点じゃない。
でも、ちゃんと繋がった。
練習したことが。
それだけで嬉しい。
試合は接戦だった。
一進一退。
点差は大きく開かない。
どちらも決定力に欠ける。
だからこそ一本が重い。
一本が流れを変える。
時間が進む。
汗が増える。
足が重くなる。
それでも走る。
応援席の声はむしろ大きくなっていた。
「いけー!」
「守れ!」
「ナイス!」
体育館全体が熱を帯びていく。
なつきの呼吸も荒くなっていた。
でも、不思議と苦しくない。
むしろ楽しかった。
ボールを追う。
仲間と声を掛け合う。
失敗しても次がある。
それが楽しい。
残り時間はわずか。
点差は二点。
十一組がリードしている。
だが油断できない。
相手の攻撃。
シュート。
外れる。
リバウンド。
ボールが弾かれる。
転がる。
「横田!」
誰かが叫んだ。
なつきは反射的に飛び出した。
ボールへ手を伸ばす。
指先が触れる。
取った。
歓声。
「ナイス!」
その瞬間。
相手が寄る。
パスコースが消える。
茜もマークされている。
亜衣も遠い。
なつきはボールを抱えた。
どうする。
どうする。
どうする。
その時。
練習の日々が頭をよぎる。
体育館。
夕暮れ。
何度も打ったシュート。
春樹の声。
膝。
肘。
最後だけ。
リングを見る。
距離はある。
でも届かない距離じゃない。
練習した。
何度も。
外した。
拾った。
また打った。
そして。
少しだけ友達になった。
なつきは息を吸った。
足を止める。
ボールを構える。
応援席がざわつく。
「横田?」
「打つのか?」
時間が遅くなる。
そんな錯覚。
リングだけが見える。
膝。
肘。
最後だけ。
ボールを放つ。
高い放物線。
体育館が静まる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
そして。
ぱさっ―――。
ネットが揺れた。
一拍遅れて。
体育館が爆発した。
「入ったあああああ!!」
三浦の絶叫。
「うおおおお!」
「横田ー!」
「やった!」
歓声。
拍手。
悲鳴みたいな応援。
なつきは自分でも信じられなかった。
入った。
本当に。
試合で。
本番で。
シュートが。
亜衣が真っ先に飛んできた。
「なつきぃぃぃ!」
「えっ」
「やったじゃん!」
茜も駆け寄る。
珍しく少しだけ表情が崩れていた。
「ナイスシュート」
「入った……」
「入ったわ」
なつきの目に少しだけ涙が浮かぶ。
嬉しかった。
ただ嬉しかった。
練習してきた。
何度も外した。
恥ずかしい思いもした。
でも。
入った。
その時。
応援席の向こう。
春樹が見えた。
春樹は静かに立っている。
大声は出していない。
でも。
少しだけ笑っていた。
そして。
小さく親指を立てた。
ほんの一瞬。
誰も気づかないくらい。
でも。
なつきには見えた。
胸が熱くなる。
泣きそうになる。
でも試合中だ。
まだ終わっていない。
笛が鳴る。
試合再開。
残り時間は少ない。
なつきは涙を堪えながら前を向いた。
もう怖くない。
もう足は止まらない。
練習した時間は無駄じゃなかった。
春樹の言葉も。
茜の支えも。
亜衣の声も。
全部、自分の力になっていた。
そして。
ピーッ―――!
試合終了の笛が鳴った。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間。
体育館に歓声が弾けた。
「勝ったああああ!」
「十一組ー!」
「やったー!」
なつきはその場で膝に手をついた。
呼吸が苦しい。
汗が額を伝う。
足も重い。
でも、不思議と苦しくなかった。
むしろ胸の中は熱かった。
勝った。
自分たちが。
そして。
自分もシュートを決めた。
本番で。
球技大会で。
応援席の前で。
本当に。
「なつきぃぃぃ!」
亜衣が飛びついてきた。
「やったじゃん!」
「亜衣ちゃん!」
「入れたじゃん!」
「入った……」
「入ったじゃん!」
なつきは笑った。
笑いながら少しだけ涙ぐんだ。
茜も歩いてくる。
息は上がっている。
それでも表情は穏やかだった。
「ナイスシュート」
「ありがとう」
「ちゃんと決めたわね」
「奇跡かも」
「違う」
茜は首を横に振った。
「練習した結果よ」
その言葉が胸に沁みた。
練習した結果。
その通りだった。
最初は入らなかった。
何度も外した。
恥ずかしい思いもした。
でも続けた。
だから届いた。
体育館の反対側から三浦が全力で走ってくる。
「横田ー!」
「三浦くん!?」
「見たか!?」
「見たよ!?」
「俺も見た!」
「それは知ってる!」
周囲が笑う。
三浦は興奮したまま両手を振り回した。
「めっちゃ綺麗に入ったぞ!」
「ありがとう」
「泣きそうになった!」
「三浦くんが?」
「俺が!」
「何で!?」
「青春だから!」
意味が分からない。
でも少し分かる気もした。
田辺もやってくる。
「横田」
「はい」
「決めたな」
「たまたまです」
「試合で入るやつはだいたいたまたまじゃねぇ」
田辺は笑った。
「自信持て」
その言葉に、なつきは少しだけ照れた。
「ありがとう」
紅秋も近付いてきた。
「横田さん」
「はい」
「良かった」
短い。
でも紅秋らしい。
「ありがとう」
「あと」
「あと?」
「三浦がうるさかった」
「それは知ってる」
周囲から笑いが起きた。
その時。
少し後ろで拍手が聞こえた。
春樹だった。
大きくではない。
静かな拍手。
でも、なつきにはすぐ分かった。
胸が跳ねる。
春樹は近付いてきた。
「お疲れ様」
「うん」
なつきの声は少し震えた。
「シュート」
春樹が言う。
「はい」
「良かった」
たった三文字。
でも。
その言葉が欲しかった。
なつきは思わず笑った。
「ありがとう」
「うん」
春樹も少しだけ笑う。
その瞬間。
なつきの胸がまた熱くなった。
嬉しい。
本当に。
その後。
女子バスケ組は応援席へ戻った。
タオルで汗を拭く。
水筒を飲む。
試合の余韻がまだ体の中に残っている。
応援席ではクラスメイトたちが口々に話していた。
「横田のシュート見た?」
「入ったよな!」
「すげぇ盛り上がった」
「十一組勝ったじゃん」
その声を聞くたびに、なつきは少しだけ照れた。
自分のことを言われるのは慣れていない。
でも嫌ではなかった。
むしろ少し嬉しい。
その時。
体育館の中央で次の試合準備が始まった。
男子バスケ。
二年十一組。
春樹たちの初戦だった。
体育館の空気がまた変わる。
男子たちが立ち上がる。
三浦が両拳を握る。
「よし!」
田辺が首を鳴らす。
紅秋は静かに靴紐を確認する。
春樹はコートを見ていた。
その姿を見て、なつきは少しだけ緊張した。
自分の試合より。
少しだけ。
春樹の試合の方が緊張する。
不思議だった。
「行ってくる」
三浦が言う。
「優勝してくる」
「一試合目だよ」
亜衣が突っ込む。
「気持ちの問題!」
「元気だねぇ」
茜が苦笑する。
春樹たちはコートへ向かった。
歓声が上がる。
商業科。
特進科。
普通科。
みんなが見ている。
球技大会は勉強の成績とは違う。
教室では目立たない生徒も。
ここでは主役になれる。
だから盛り上がる。
だから歓声が大きい。
試合開始。
ジャンプボール。
春樹がボールを取る。
歓声。
「大國ー!」
「いけー!」
春樹はそのまま前へ出ない。
すぐに三浦へパス。
三浦が走る。
相手が寄る。
さらにパス。
紅秋。
田辺。
そして。
得点。
「おおおおお!」
体育館が揺れる。
なつきは思わず身を乗り出した。
「すごい」
亜衣も頷く。
「早い」
「チームワーク良いわね」
茜が言う。
本当にそうだった。
派手な個人技ではない。
でも。
ボールが止まらない。
誰かが持てば誰かが動く。
春樹が見て。
三浦が走り。
紅秋が繋ぎ。
田辺が決める。
何度も練習したのだろう。
見ているだけで分かる。
試合は優勢だった。
三浦が速い。
田辺が強い。
紅秋が冷静。
そして。
春樹がいる。
なつきは改めて思った。
春樹は目立つ。
でも。
春樹だけじゃない。
三浦もすごい。
田辺も頼もしい。
紅秋も上手い。
みんながいるから強い。
それが分かった。
応援席では美優と蓮も見ていた。
美優は腕を組みながら微笑んでいる。
まるで当然という顔。
蓮も笑っていた。
「仕上がってるな」
「うん」
美優が頷く。
「練習してたもん」
「だな」
コートでは。
三浦がドリブル突破。
囲まれる。
歓声。
その瞬間。
「右!」
春樹の声。
三浦が反射的にパス。
紅秋。
さらに田辺。
得点。
「うおおおおお!!」
三浦が叫ぶ。
「今の見たか!?」
「お前が決めてない」
紅秋が即座に突っ込む。
体育館が笑いに包まれる。
なつきも笑った。
試合はそのまま進み。
そして。
試合終了。
十一組の勝利。
歓声。
拍手。
三浦は両手を上げて飛び跳ねている。
田辺も笑っている。
紅秋は小さく息を吐いた。
春樹はいつも通りだった。
でも。
仲間とハイタッチする姿は少しだけ嬉しそうだった。
なつきは思わず見惚れてしまう。
汗を拭く春樹。
笑う三浦。
拳を合わせる田辺。
その光景が眩しかった。
「かっこいいなぁ」
思わず漏れた。
「うん」
隣で誰かが答えた。
振り向く。
美優だった。
なつきは慌てる。
「あ」
「かっこよかったね」
美優は自然に言った。
「みんな」
なつきは少しだけ安心した。
みんな。
ちゃんと。
みんな。
美優はコートを見ながら微笑む。
「勝つと思ってた」
当然みたいに言う。
蓮も肩をすくめた。
「俺も」
その言葉に、なつきは少し笑った。
幼馴染らしいなと思った。
そして。
試合後。
次の組み合わせ発表が始まる。
体育館中央。
先生がマイクを持つ。
ざわざわしていた空気が少し静まる。
「次の男子バスケ組み合わせを発表します」
応援席がざわつく。
三浦が振り返る。
「来た」
田辺も耳を傾ける。
紅秋は静かに聞いている。
春樹も。
蓮も。
美優も。
なつきも。
全員が。
先生の言葉を待った。
そして。
マイクから告げられる。
「第二回戦―――」
一拍。
「二年十一組対、二年特進一組」
ざわっ。
体育館が揺れた。
特進一組。
つまり。
蓮のチーム。
「おおおおお!!」
三浦が真っ先に叫ぶ。
「来たぁぁぁ!!」
歓声。
拍手。
どよめき。
商業科も。
特進科も。
一気に盛り上がる。
蓮は笑った。
「きたな」
春樹は静かだった。
でも。
口元だけが少し上がっている。
美優は額に手を当てた。
「本当に当たるんだ」
「当たったな」
蓮が笑う。
なつきの心臓が跳ねる。
春樹。
蓮。
幼馴染同士。
友達同士。
そして。
お互いに負けたくない相手。
その試合が始まる。
体育館の熱気がさらに上がる。
誰もが次の試合を待っている。
そしてなつきも。
気付けば胸を高鳴らせながら。
その対決の始まりを待っていた。
球技大会、女子バスケ初戦。
なつきの本番が、始まった。




