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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第40話 球技大会開幕


 あの日から数日。


 放課後の体育館には、毎日のようにボールの音が響いていた。


 床を跳ねる低い音。


 体育館シューズが床を擦る音。


 誰かが名前を呼ぶ声。


 笑い声。


 悔しそうな声。


 そして、たまに上がる歓声。


 最初は遠かったリングも、少しずつ近く見えるようになった。


 最初は手の中で落ち着かなかったボールも、少しずつ怖くなくなっていった。


 なつきは何度もシュートを打った。


 外した。


 拾った。


 また打った。


 リングの手前で落ちる日もあった。


 奥に当たりすぎる日もあった。


 綺麗に入って、亜衣が大きく拍手してくれた日もあった。


 茜が「今のは落ち着いていたわ」と頷いてくれた日もあった。


 三浦が遠くから「横田、いいぞー!」と大声で叫び、紅秋に「集中を乱さない」と注意される日もあった。


 田辺が「横田、試合で決めたら盛り上がるぞ」と言って、亜衣に「プレッシャーかけない」と叩かれる日もあった。


 春樹は、ずっと見学席のコーチだった。


 軽い捻挫は少しずつ良くなっていったけれど、周りの監視は厳しかった。


 走ろうとすれば三浦が止める。


 ボールを持てば紅秋が見る。


 シュートを打とうとすれば田辺が「大國、やめとけ」と声をかける。


 そのたびに春樹は少しだけ不満そうな顔をした。


 でも、無理はしなかった。


 少なくとも、みんなの前では。


 春樹の言葉は短かった。


「肘」


「足」


「今のいい」


「焦らない」


「もう少し上」


 たったそれだけ。


 けれど、なつきには十分だった。


 その言葉があるだけで、もう一回打とうと思えた。


 もう一歩、前へ進もうと思えた。


 そして気づけば、球技大会当日が来ていた。


 朝。


 梅桜高校の校門前は、いつもよりずっと賑やかだった。


 制服姿の生徒たちが、いつもより少し早い足取りで校内へ入っていく。


 手には水筒。


 タオル。


 クラスごとに作った応援用の小物。


 体育館シューズの袋を持つ生徒も多い。


 男子の何人かは、すでにジャージ姿で騒いでいた。


 女子たちは髪を結び直しながら、今日の試合順を確認している。


 朝の校舎は、まだ涼しかった。


 けれど空気だけは、もう少し熱を帯びている。


 球技大会。


 その一日が、学校全体を浮き立たせていた。


 なつきは自転車を駐輪場に停めながら、胸の奥が落ち着かないのを感じていた。


 ついに本番。


 練習では、少しずつできるようになった。


 パスも、ドリブルも、シュートも。


 でも、本番は違う。


 人が見る。


 声援がある。


 相手がいる。


 失敗したら、ボールは相手に渡る。


 迷ったら、試合は進んでしまう。


 そう思うと、昨日の夜から何度も胸がそわそわした。


 鞄の中には、タオルと水筒。


 そして、春樹に借りた本も入っている。


 今日は読む時間なんてないかもしれない。


 それでも、何となく持ってきた。


 鞄の中にあるだけで、少し落ち着く気がしたからだ。


「なつき」


 後ろから声がした。


 振り返ると、茜が自転車を押して歩いてきていた。


 いつも通りの落ち着いた表情。


 でも、今日は髪を少しきつめに結んでいる。


 それだけで、いつもより少しだけ気合が入って見えた。


「茜ちゃん、おはよう」


「おはよう」


「今日だね」


「今日ね」


 茜は自転車を停めながら言った。


「緊張してる?」


「してる」


「でしょうね」


「茜ちゃんは?」


「してる」


「ほんと?」


「ほんと」


 茜は淡々と答えた。


 なつきは少し笑った。


「顔に出てない」


「出さないだけ」


「すごい」


「なつきは出てる」


「やっぱり?」


「かなり」


 なつきは頬を押さえた。


 そこへ亜衣が歩いてきた。


 自転車ではなく、駅方面から来る生徒の流れに少し混ざっていたらしい。


 鞄を肩にかけ、片手にスポーツドリンクを持っている。


「おはよー」


「亜衣ちゃん、おはよう」


「なつき、顔が完全に本番前」


「どんな顔?」


「緊張三割、楽しみ三割、大國くんのこと考えてる四割」


「亜衣ちゃん!」


「違う?」


「……ちょっと違う」


「ちょっとなんだ」


 茜が静かに言う。


「亜衣、朝から追い詰めない」


「はーい」


 亜衣は笑いながら、なつきの肩を軽く叩いた。


「でも大丈夫。練習してきたじゃん」


「うん」


「一本入れよう」


「いきなり?」


「目標は大事」


「外したら?」


「拾う」


 茜が即答した。


「そうね。入らなかったら拾えばいい」


 その言葉に、なつきは少し肩の力が抜けた。


 入らなかったら終わりではない。


 拾えばいい。


 パスを繋げばいい。


 走ればいい。


 できることは、シュートだけではない。


「うん」


 なつきは頷いた。


「拾う」


 校舎へ入ると、廊下はさらに賑やかだった。


 普通科の生徒たち。


 特進科の生徒たち。


 スポーツ特待の生徒たち。


 それぞれのクラスが、いつもより少しだけまとまって動いている。


 掲示板には、球技大会の試合表が貼られていた。


 すでに何人かがその前に集まり、自分たちの試合時間を確認している。


「十一組、女子バスケ初戦……」


 亜衣が試合表を覗き込む。


「第二試合だね」


 茜が確認する。


「男子バスケは?」


「第三試合」


 なつきの胸が跳ねる。


 男子バスケ。


 春樹たちの試合。


 見られるだろうか。


 女子の試合が終わった後なら、間に合うかもしれない。


 春樹の足はもう大丈夫だろうか。


 出られるのだろうか。


 この数日、春樹は少しずつ動けるようになっていた。


 でも、試合となれば練習とは違う。


 蓮や美優は何と言うだろう。


 そんなことを考えていると、亜衣が顔を覗き込んできた。


「なつき」


「はい」


「試合表見てる顔じゃなかった」


「見てたよ」


「男子バスケのとこだけでしょ」


「……見てた」


「正直」


 茜が試合表を見ながら言った。


「女子の試合を先に集中しましょう」


「はい」


「その後、男子を見に行けばいい」


「うん」


「そのためにも、初戦で体力を使い果たさないように」


「それは難しいかも」


 亜衣が笑う。


「なつき、緊張で最初から全力出しそう」


「ありえる」


「そこは茜が制御して」


「努力するわ」


 三人で話していると、後ろから大きな声がした。


「おはようございまあああす!」


 振り返らなくても分かる。


 三浦圭だった。


 朝から全力。


 ジャージの上に制服のブレザーを羽織り、鞄を肩にかけたまま廊下を歩いてくる。


 後ろには田辺と紅秋。


 田辺は眠そうな顔をしているが、体格のせいか歩くだけで存在感がある。


 紅秋はいつも通り、落ち着いた表情で試合表を見ている。


「三浦くん、朝から声大きい」


 亜衣が言う。


「今日は球技大会だぞ! 声出していこう!」


「廊下ではほどほどに」


 紅秋が言う。


「板倉、朝から冷静!」


「朝だから」


「理由になる?」


「なる」


 田辺が試合表を覗く。


「男子バスケ第三試合か」


「そう」


 紅秋が頷く。


「春樹は?」


 三浦が周りを見る。


「まだ?」


「来てないみたい」


 なつきの心臓がまた少し跳ねる。


 春樹。


 来るかな。


 いや、来る。


 でも、足は。


 その時だった。


 廊下の向こうから、春樹が歩いてきた。


 制服姿。


 いつも通り、鞄を肩にかけている。


 歩き方は、かなり普通に戻っていた。


 それを見た瞬間、なつきは胸の奥から息が抜けるような安心を感じた。


 良かった。


 普通に歩いてる。


 春樹の隣には蓮がいた。


 少し遅れて、美優も一緒に歩いている。


 三人の姿に、周りの生徒がちらりと視線を向ける。


 特進科の二人が商業科の方へ来るのは、最近ではもう珍しすぎる光景ではなくなっていた。


 それでも、三人で歩いていると少し目立つ。


 三浦がすぐに手を上げた。


「春樹ー!」


 春樹が顔を上げる。


「朝から元気」


「球技大会だからな!」


 蓮が笑う。


「三浦、ほんと朝から声でかいな」


「桐谷も今日は声出してけよ!」


「俺は試合で出すわ」


「お、言ったな!」


 美優が春樹を見る。


「足、大丈夫そう?」


 春樹は短く答える。


「うん」


 蓮がすかさず言う。


「はい出た、うん」


「何」


「信用できない返事」


「大丈夫」


「それも信用できない」


 春樹は少しだけ眉を寄せた。


 三浦が横から入る。


「春樹、今日無理すんなよ!」


「三浦も言うんだ」


「当たり前だろ!」


 田辺も頷く。


「マジで無理すんなよ。俺らもいるし」


 その言葉に、なつきは少し驚いた。


 田辺が、自然に春樹へそう言った。


 少し前なら、こんなふうには思わなかったかもしれない。


 田辺は島中側。


 距離が近くて、少しうざくて、なつきにとっては苦手なところも多かった。


 でも、昨日の件から少し変わって見える。


 田辺はちゃんと見ていた。


 島中のラフプレーを否定した。


 そして今、春樹を心配している。


 人は、一面だけではない。


 なつきは改めてそう思った。


 紅秋が春樹を見て言う。


「試合前に痛みが出たら言って」


「うん」


「無理に隠さない」


「分かった」


「分かってない可能性があるから言っている」


「ひどい」


 蓮が笑う。


「板倉くん、正しい」


 美優も頷く。


「正しいね」


「みんな厳しい」


 春樹が小さく言う。


 そのやり取りに、廊下の空気が少し柔らかくなった。


 なつきは春樹へ声をかけようとして、少し迷った。


 朝からみんながいる。


 蓮も美優もいる。


 でも、今日は本番だ。


 言いたい。


 ちゃんと。


「あの、大國くん」


 声を出す。


 春樹がなつきを見る。


「うん」


「今日、頑張って」


 短い言葉だった。


 でも、なつきにとっては勇気のいる言葉だった。


 春樹は少しだけ目を瞬かせる。


 それから、短く答えた。


「横田さんも」


 胸が跳ねた。


 横田さんも。


 自分にも返してくれた。


 応援を。


 たったそれだけで、今日の不安が少し軽くなる。


「うん」


 なつきは頷いた。


「頑張る」


 亜衣が隣でにやにやしている。


 茜は何も言わない。


 でも、少しだけ口元が緩んでいた。


 やがて、各クラスは体育館へ移動する時間になった。


 球技大会の開会式。


 全校生徒が体育館へ集まる。


 体育館の入り口には、すでに人の流れができていた。


 クラスごとに並び、先生たちが声をかける。


「二年十一組、こっち」


 担任の声に従い、なつきたちは体育館へ入った。


 中はすでに熱気で満ちていた。


 普段の体育の授業とはまったく違う。


 学年ごと、クラスごとに生徒たちが並ぶ。


 体育館の壁には、球技大会のスローガンが貼られている。


 得点表。


 試合順。


 応援席。


 体育館の天井は高いはずなのに、人の声が反響して、空間全体が狭く感じるほどだった。


「すご……」


 なつきは思わず呟く。


 亜衣が隣で笑う。


「本番感あるね」


「うん」


「緊張してきた?」


「かなり」


「大丈夫。私も」


「亜衣ちゃんも?」


「当たり前じゃん」


 亜衣は軽く笑った。


「でも、楽しみ」


 茜も頷く。


「緊張しているけれど、悪くない緊張ね」


「茜ちゃん、かっこいい」


「普通よ」


「春樹くんみたいなこと言った」


 亜衣が言うと、茜は少し眉を上げた。


「それは少し心外ね」


「え、心外なんだ」


「普通の基準が高すぎる人と一緒にしないで」


 なつきは思わず笑った。


 笑ったことで、少しだけ肩の力が抜ける。


 開会式が始まった。


 校長先生の挨拶。


 生徒会の説明。


 体育委員からの注意事項。


 競技ごとのルール確認。


 「怪我には十分注意してください」という言葉が出た時、なつきは反射的に春樹の方を見た。


 春樹は男子の列にいる。


 少し離れている。


 でも、視線の先で春樹が一瞬だけこちらを見たような気がした。


 目が合った。


 ような気がした。


 なつきは慌てて前を向いた。


 心臓がうるさい。


 こんな大人数の中でも、春樹を見つけてしまう。


 そして、見つけてもらえたかもしれないと思うだけで、胸が跳ねる。


 隣で亜衣が小さく笑った。


「なつき」


「何も言わないで」


「まだ言ってない」


「言いそうだった」


「正解」


 開会式が終わると、体育館の空気は一気に動いた。


 各競技の初戦へ向けて、移動が始まる。


 男子フットサル組はグラウンドへ。


 女子テニス組はテニスコートへ。


 バスケ組は体育館に残る。


 応援に行く生徒たちも、それぞれ分かれていく。


 二年十一組の女子バスケ初戦は第二試合。


 つまり、少しだけ準備の時間がある。


 男子バスケは第三試合。


 春樹たちは女子の試合を少し見られるかもしれない。


 そう思った瞬間、なつきの緊張が一段階上がった。


「なつき」


 茜が声をかける。


「はい」


「深呼吸」


「はい」


 なつきは息を吸った。


 体育館の空気は少し熱い。


 汗とワックスと、朝の緊張が混ざった匂い。


 息を吐く。


 まだ心臓は速い。


 でも、少し落ち着いた。


 亜衣が肩を叩く。


「大丈夫。練習通り」


「練習通り」


「パス来たら慌てない」


「慌てない」


「シュートは?」


「膝。肘。最後だけ」


「おお、言えるじゃん」


「言うだけなら」


「本番でもやる」


「はい」


 茜が静かに頷く。


「失敗しても、次」


「うん」


「拾う」


「拾う」


 その言葉に、なつきはまた少しだけ落ち着いた。


 女子バスケ組はコートの端で軽くアップを始めた。


 ドリブル。


 パス。


 シュート。


 なつきの一投目は外れた。


 リングに当たって、外へ跳ねる。


 でも、悪くない。


 届いている。


 二投目。


 少し弱い。


 三投目。


 リングに当たる。


 亜衣がボールを拾って渡してくれる。


「本番前に全部入れなくていいよ」


「そうなの?」


「本番で入れる分、残しとこ」


「そういうもの?」


「そういうものにしとこ」


 なつきは笑った。


 その時、体育館の反対側から三浦の声が響いた。


「女子バスケー! 頑張れー!」


 振り向くと、男子バスケ組が応援席側にいた。


 三浦が両手を振っている。


 田辺も腕を組んで立っている。


 紅秋は静かに見ている。


 春樹もそこにいた。


 なつきは一瞬、固まる。


 見ている。


 春樹が。


 試合前のアップを。


 自分のシュートを。


 そう思っただけで、手が震えそうになる。


 亜衣がすぐに言った。


「なつき」


「はい」


「大國くんを見るなら、ボール持ってない時」


「……はい」


 茜も頷く。


「もう何度も言ったわ」


「はい」


 なつきは顔を赤くしながら、もう一度ボールを構えた。


 春樹の声を思い出す。


 膝。


 肘。


 最後だけ。


 ボールを打つ。


 リングに当たり、ネットに触れずに落ちた。


 外れた。


 でも。


 春樹が小さく頷いたように見えた。


 それだけで、なつきはまた頑張れる気がした。


 第一試合が始まった。


 別のクラスの女子たちがコートに入る。


 笛が鳴り、ボールが動き出す。


 応援席から声が上がる。


 体育館の熱が一気に上がった。


 なつきたちはコート脇でそれを見ながら、自分たちの出番を待つ。


 ボールを追う女子たち。


 ぶつかり合う声。


 シュートが決まった瞬間の歓声。


 その全部が、次は自分たちだと告げていた。


 なつきの手のひらに汗が滲む。


 タオルで軽く拭く。


 水筒を飲む。


 呼吸を整える。


 それでも、心臓は落ち着かない。


「緊張する」


 なつきが小さく言うと、茜が隣で言った。


「していいわ」


「え?」


「緊張しない方が難しい」


「うん」


「でも、緊張しても動ける」


 亜衣も言う。


「そうそう。緊張しててもパスは出せる。緊張してても走れる」


「シュートは?」


「入る時は入る」


「雑」


「でも本当」


 なつきは笑った。


 笑えた。


 そのことに少し驚く。


 本番直前なのに。


 ちゃんと笑えた。


 それは、茜と亜衣がいるからだ。


 そして、練習してきた時間があるからだ。


 第一試合が終わった。


 笛が鳴る。


 拍手と歓声。


 コートから選手たちが出ていく。


 次。


 二年十一組女子バスケ。


 なつきたちの番だった。


 亜衣が両手を叩く。


「行こう」


 茜が頷く。


「落ち着いて」


 なつきは深呼吸した。


 体育館の音が、少し遠くなる。


 そして、近くなる。


 自分の足でコートへ入る。


 靴底が床を踏む。


 リングが見える。


 相手チームが見える。


 応援席が見える。


 三浦の声が聞こえる。


「十一組、いけー!」


 田辺の声も混ざる。


「横田、落ち着けよー!」


 亜衣が笑う。


「田辺、今のはまあまあ」


 なつきは思わず少し笑った。


 そして、視線の端に春樹がいた。


 春樹は応援席の前で、静かにこちらを見ている。


 声は出していない。


 でも、目が合った。


 今度は、はっきり。


 春樹が短く口を動かした。


 声は聞こえない。


 けれど、何と言ったのか、なつきには分かった気がした。


 大丈夫。


 そう見えた。


 なつきは、胸の奥でその言葉を受け取った。


 大丈夫。


 練習した。


 外しても拾う。


 緊張しても動ける。


 ボールと、少しだけ友達になった。


 リングまでの距離は、届かない距離じゃない。


 なつきは膝に手を置き、試合開始の笛を待った。


 体育館の熱。


 クラスの声。


 茜と亜衣の気配。


 春樹の視線。


 その全部が背中にあった。


 笛が鳴る。


 ピーッ―――!


 鋭い笛の音が体育館に響いた。


 女子バスケ初戦。


 二年十一組対二年八組。


 試合開始。


 ボールが宙へ放られる。


 両チームの選手が一斉に動いた。


 応援席から歓声が上がる。


「いけー!」


「頑張れー!」


「十一組ー!」


 体育館の空気が一瞬で変わる。


 練習ではない。


 本番だ。


 なつきの心臓が強く跳ねる。


 耳の奥で、自分の鼓動が聞こえる気がした。


 ボールが相手チームへ渡る。


 相手のドリブル。


 パス。


 ゴール下への侵入。


 なつきは慌てて動く。


 頭では分かっている。


 練習した。


 茜にも亜衣にも教わった。


 でも、実際の試合になると違う。


 人が多い。


 速い。


 声が飛び交う。


 目の前の景色が忙しい。


「横田!」


 茜の声。


「右!」


「っ!」


 なつきは慌てて動く。


 ぎりぎりで相手の進路へ入る。


 相手がパスを選択する。


 ボールが外へ流れる。


 シュート。


 外れた。


 リバウンドを茜が取る。


「ナイス!」


 亜衣の声が飛ぶ。


 ボールは十一組へ。


 なつきは走った。


 だが、自分の動きがぎこちないことは分かっていた。


 足が重い。


 肩に力が入っている。


 緊張。


 分かっている。


 分かっているのに、体が言うことを聞かない。


 応援席から三浦の声が飛ぶ。


「落ち着け横田ー!」


「お前が落ち着けー!」


 誰かが突っ込む。


 笑いが起きる。


 その笑い声が、少しだけ緊張を和らげた。


 ボールが亜衣へ渡る。


 亜衣はドリブルで前へ運ぶ。


 相手が寄る。


 亜衣が叫ぶ。


「なつき!」


 ボールが来る。


 受け取る。


 その瞬間。


 頭が真っ白になった。


 どうする?


 パス?


 ドリブル?


 シュート?


 一瞬の迷い。


 その隙に相手が近づく。


「横田!」


 茜の声。


 なつきは反射的にパスを出した。


 茜が受け取る。


 そのままシュート。


 外れる。


 だがファウルをもらった。


 試合が止まる。


 なつきは小さく息を吐いた。


 危なかった。


 今のは完全に固まっていた。


 ベンチへ戻る途中。


 亜衣が肩を叩く。


「大丈夫」


「ごめん」


「何が?」


「今の」


「試合始まって一分も経ってない」


 亜衣は笑った。


「まだ序盤」


 茜も頷く。


「焦っているだけ」


「分かる?」


「顔見れば」


「そんなに?」


「そんなに」


 なつきは思わず苦笑した。


 体育館を見上げる。


 高い天井。


 眩しい照明。


 響く歓声。


 球技大会。


 本当に始まっている。


 その時だった。


 応援席の方から声がした。


「横田さん」


 なつきが振り返る。


 春樹だった。


 試合中なので大声ではない。


 コート脇から聞こえるくらいの声。


 それでも届く。


「大丈夫」


 短い。


 それだけ。


 本当にそれだけだった。


 けれど。


 なつきの肩から力が抜けた。


 不思議なくらい。


 たった二文字なのに。


 練習中も何度も聞いた言葉。


 大丈夫。


 焦らない。


 今のいい。


 短い言葉。


 だけど春樹の言葉は、ちゃんと見た上で言ってくれる。


 だから信じられる。


 なつきは小さく頷いた。


「うん」


 試合再開。


 再びコートへ戻る。


 今度は少しだけ視界が広かった。


 ボールを追う。


 人を見る。


 味方を見る。


 亜衣がいる。


 茜がいる。


 一人じゃない。


 ボールが回る。


 相手のパス。


 茜がカット。


 歓声。


「ナイス!」


 ボールがなつきへ来る。


 受け取る。


 緊張はある。


 でも今度は止まらない。


 ドリブル一回。


 二回。


 前へ出る。


 相手が寄る。


 パス。


 亜衣が受け取る。


「ナイス!」


 亜衣が叫ぶ。


 そのままシュート。


 得点。


 歓声。


「よっしゃあ!」


「十一組!」


「いいぞ!」


 三浦が飛び上がっている。


 田辺も拍手している。


 紅秋も小さく頷いている。


 なつきは息を吐いた。


 今のは自分の得点じゃない。


 でも、ちゃんと繋がった。


 練習したことが。


 それだけで嬉しい。


 試合は接戦だった。


 一進一退。


 点差は大きく開かない。


 どちらも決定力に欠ける。


 だからこそ一本が重い。


 一本が流れを変える。


 時間が進む。


 汗が増える。


 足が重くなる。


 それでも走る。


 応援席の声はむしろ大きくなっていた。


「いけー!」


「守れ!」


「ナイス!」


 体育館全体が熱を帯びていく。


 なつきの呼吸も荒くなっていた。


 でも、不思議と苦しくない。


 むしろ楽しかった。


 ボールを追う。


 仲間と声を掛け合う。


 失敗しても次がある。


 それが楽しい。


 残り時間はわずか。


 点差は二点。


 十一組がリードしている。


 だが油断できない。


 相手の攻撃。


 シュート。


 外れる。


 リバウンド。


 ボールが弾かれる。


 転がる。


「横田!」


 誰かが叫んだ。


 なつきは反射的に飛び出した。


 ボールへ手を伸ばす。


 指先が触れる。


 取った。


 歓声。


「ナイス!」


 その瞬間。


 相手が寄る。


 パスコースが消える。


 茜もマークされている。


 亜衣も遠い。


 なつきはボールを抱えた。


 どうする。


 どうする。


 どうする。


 その時。


 練習の日々が頭をよぎる。


 体育館。


 夕暮れ。


 何度も打ったシュート。


 春樹の声。


 膝。


 肘。


 最後だけ。


 リングを見る。


 距離はある。


 でも届かない距離じゃない。


 練習した。


 何度も。


 外した。


 拾った。


 また打った。


 そして。


 少しだけ友達になった。


 なつきは息を吸った。


 足を止める。


 ボールを構える。


 応援席がざわつく。


「横田?」


「打つのか?」


 時間が遅くなる。


 そんな錯覚。


 リングだけが見える。


 膝。


 肘。


 最後だけ。


 ボールを放つ。


 高い放物線。


 体育館が静まる。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 そして。


 ぱさっ―――。


 ネットが揺れた。


 一拍遅れて。


 体育館が爆発した。


「入ったあああああ!!」


 三浦の絶叫。


「うおおおお!」


「横田ー!」


「やった!」


 歓声。


 拍手。


 悲鳴みたいな応援。


 なつきは自分でも信じられなかった。


 入った。


 本当に。


 試合で。


 本番で。


 シュートが。


 亜衣が真っ先に飛んできた。


「なつきぃぃぃ!」


「えっ」


「やったじゃん!」


 茜も駆け寄る。


 珍しく少しだけ表情が崩れていた。


「ナイスシュート」


「入った……」


「入ったわ」


 なつきの目に少しだけ涙が浮かぶ。


 嬉しかった。


 ただ嬉しかった。


 練習してきた。


 何度も外した。


 恥ずかしい思いもした。


 でも。


 入った。


 その時。


 応援席の向こう。


 春樹が見えた。


 春樹は静かに立っている。


 大声は出していない。


 でも。


 少しだけ笑っていた。


 そして。


 小さく親指を立てた。


 ほんの一瞬。


 誰も気づかないくらい。


 でも。


 なつきには見えた。


 胸が熱くなる。


 泣きそうになる。


 でも試合中だ。


 まだ終わっていない。


 笛が鳴る。


 試合再開。


 残り時間は少ない。


 なつきは涙を堪えながら前を向いた。


 もう怖くない。


 もう足は止まらない。


 練習した時間は無駄じゃなかった。


 春樹の言葉も。


 茜の支えも。


 亜衣の声も。


 全部、自分の力になっていた。


 そして。


 ピーッ―――!


 試合終了の笛が鳴った。


 一瞬の静寂。


 そして次の瞬間。


 体育館に歓声が弾けた。


「勝ったああああ!」


「十一組ー!」


「やったー!」


 なつきはその場で膝に手をついた。


 呼吸が苦しい。


 汗が額を伝う。


 足も重い。


 でも、不思議と苦しくなかった。


 むしろ胸の中は熱かった。


 勝った。


 自分たちが。


 そして。


 自分もシュートを決めた。


 本番で。


 球技大会で。


 応援席の前で。


 本当に。


「なつきぃぃぃ!」


 亜衣が飛びついてきた。


「やったじゃん!」


「亜衣ちゃん!」


「入れたじゃん!」


「入った……」


「入ったじゃん!」


 なつきは笑った。


 笑いながら少しだけ涙ぐんだ。


 茜も歩いてくる。


 息は上がっている。


 それでも表情は穏やかだった。


「ナイスシュート」


「ありがとう」


「ちゃんと決めたわね」


「奇跡かも」


「違う」


 茜は首を横に振った。


「練習した結果よ」


 その言葉が胸に沁みた。


 練習した結果。


 その通りだった。


 最初は入らなかった。


 何度も外した。


 恥ずかしい思いもした。


 でも続けた。


 だから届いた。


 体育館の反対側から三浦が全力で走ってくる。


「横田ー!」


「三浦くん!?」


「見たか!?」


「見たよ!?」


「俺も見た!」


「それは知ってる!」


 周囲が笑う。


 三浦は興奮したまま両手を振り回した。


「めっちゃ綺麗に入ったぞ!」


「ありがとう」


「泣きそうになった!」


「三浦くんが?」


「俺が!」


「何で!?」


「青春だから!」


 意味が分からない。


 でも少し分かる気もした。


 田辺もやってくる。


「横田」


「はい」


「決めたな」


「たまたまです」


「試合で入るやつはだいたいたまたまじゃねぇ」


 田辺は笑った。


「自信持て」


 その言葉に、なつきは少しだけ照れた。


「ありがとう」


 紅秋も近付いてきた。


「横田さん」


「はい」


「良かった」


 短い。


 でも紅秋らしい。


「ありがとう」


「あと」


「あと?」


「三浦がうるさかった」


「それは知ってる」


 周囲から笑いが起きた。


 その時。


 少し後ろで拍手が聞こえた。


 春樹だった。


 大きくではない。


 静かな拍手。


 でも、なつきにはすぐ分かった。


 胸が跳ねる。


 春樹は近付いてきた。


「お疲れ様」


「うん」


 なつきの声は少し震えた。


「シュート」


 春樹が言う。


「はい」


「良かった」


 たった三文字。


 でも。


 その言葉が欲しかった。


 なつきは思わず笑った。


「ありがとう」


「うん」


 春樹も少しだけ笑う。


 その瞬間。


 なつきの胸がまた熱くなった。


 嬉しい。


 本当に。


 その後。


 女子バスケ組は応援席へ戻った。


 タオルで汗を拭く。


 水筒を飲む。


 試合の余韻がまだ体の中に残っている。


 応援席ではクラスメイトたちが口々に話していた。


「横田のシュート見た?」


「入ったよな!」


「すげぇ盛り上がった」


「十一組勝ったじゃん」


 その声を聞くたびに、なつきは少しだけ照れた。


 自分のことを言われるのは慣れていない。


 でも嫌ではなかった。


 むしろ少し嬉しい。


 その時。


 体育館の中央で次の試合準備が始まった。


 男子バスケ。


 二年十一組。


 春樹たちの初戦だった。


 体育館の空気がまた変わる。


 男子たちが立ち上がる。


 三浦が両拳を握る。


「よし!」


 田辺が首を鳴らす。


 紅秋は静かに靴紐を確認する。


 春樹はコートを見ていた。


 その姿を見て、なつきは少しだけ緊張した。


 自分の試合より。


 少しだけ。


 春樹の試合の方が緊張する。


 不思議だった。


「行ってくる」


 三浦が言う。


「優勝してくる」


「一試合目だよ」


 亜衣が突っ込む。


「気持ちの問題!」


「元気だねぇ」


 茜が苦笑する。


 春樹たちはコートへ向かった。


 歓声が上がる。


 商業科。


 特進科。


 普通科。


 みんなが見ている。


 球技大会は勉強の成績とは違う。


 教室では目立たない生徒も。


 ここでは主役になれる。


 だから盛り上がる。


 だから歓声が大きい。


 試合開始。


 ジャンプボール。


 春樹がボールを取る。


 歓声。


「大國ー!」


「いけー!」


 春樹はそのまま前へ出ない。


 すぐに三浦へパス。


 三浦が走る。


 相手が寄る。


 さらにパス。


 紅秋。


 田辺。


 そして。


 得点。


「おおおおお!」


 体育館が揺れる。


 なつきは思わず身を乗り出した。


「すごい」


 亜衣も頷く。


「早い」


「チームワーク良いわね」


 茜が言う。


 本当にそうだった。


 派手な個人技ではない。


 でも。


 ボールが止まらない。


 誰かが持てば誰かが動く。


 春樹が見て。


 三浦が走り。


 紅秋が繋ぎ。


 田辺が決める。


 何度も練習したのだろう。


 見ているだけで分かる。


 試合は優勢だった。


 三浦が速い。


 田辺が強い。


 紅秋が冷静。


 そして。


 春樹がいる。


 なつきは改めて思った。


 春樹は目立つ。


 でも。


 春樹だけじゃない。


 三浦もすごい。


 田辺も頼もしい。


 紅秋も上手い。


 みんながいるから強い。


 それが分かった。


 応援席では美優と蓮も見ていた。


 美優は腕を組みながら微笑んでいる。


 まるで当然という顔。


 蓮も笑っていた。


「仕上がってるな」


「うん」


 美優が頷く。


「練習してたもん」


「だな」


 コートでは。


 三浦がドリブル突破。


 囲まれる。


 歓声。


 その瞬間。


「右!」


 春樹の声。


 三浦が反射的にパス。


 紅秋。


 さらに田辺。


 得点。


「うおおおおお!!」


 三浦が叫ぶ。


「今の見たか!?」


「お前が決めてない」


 紅秋が即座に突っ込む。


 体育館が笑いに包まれる。


 なつきも笑った。


 試合はそのまま進み。


 そして。


 試合終了。


 十一組の勝利。


 歓声。


 拍手。


 三浦は両手を上げて飛び跳ねている。


 田辺も笑っている。


 紅秋は小さく息を吐いた。


 春樹はいつも通りだった。


 でも。


 仲間とハイタッチする姿は少しだけ嬉しそうだった。


 なつきは思わず見惚れてしまう。


 汗を拭く春樹。


 笑う三浦。


 拳を合わせる田辺。


 その光景が眩しかった。


「かっこいいなぁ」


 思わず漏れた。


「うん」


 隣で誰かが答えた。


 振り向く。


 美優だった。


 なつきは慌てる。


「あ」


「かっこよかったね」


 美優は自然に言った。


「みんな」


 なつきは少しだけ安心した。


 みんな。


 ちゃんと。


 みんな。


 美優はコートを見ながら微笑む。


「勝つと思ってた」


 当然みたいに言う。


 蓮も肩をすくめた。


「俺も」


 その言葉に、なつきは少し笑った。


 幼馴染らしいなと思った。


 そして。


 試合後。


 次の組み合わせ発表が始まる。


 体育館中央。


 先生がマイクを持つ。


 ざわざわしていた空気が少し静まる。


「次の男子バスケ組み合わせを発表します」


 応援席がざわつく。


 三浦が振り返る。


「来た」


 田辺も耳を傾ける。


 紅秋は静かに聞いている。


 春樹も。


 蓮も。


 美優も。


 なつきも。


 全員が。


 先生の言葉を待った。


 そして。


 マイクから告げられる。


「第二回戦―――」


 一拍。


「二年十一組対、二年特進一組」


 ざわっ。


 体育館が揺れた。


 特進一組。


 つまり。


 蓮のチーム。


「おおおおお!!」


 三浦が真っ先に叫ぶ。


「来たぁぁぁ!!」


 歓声。


 拍手。


 どよめき。


 商業科も。


 特進科も。


 一気に盛り上がる。


 蓮は笑った。


「きたな」


 春樹は静かだった。


 でも。


 口元だけが少し上がっている。


 美優は額に手を当てた。


「本当に当たるんだ」


「当たったな」


 蓮が笑う。


 なつきの心臓が跳ねる。


 春樹。


 蓮。


 幼馴染同士。


 友達同士。


 そして。


 お互いに負けたくない相手。


 その試合が始まる。


 体育館の熱気がさらに上がる。


 誰もが次の試合を待っている。


 そしてなつきも。


 気付けば胸を高鳴らせながら。


 その対決の始まりを待っていた。


 球技大会、女子バスケ初戦。


 なつきの本番が、始まった。

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