第39話 夕暮れの体育館で、もう一歩
放課後の体育館には、夕方の色が差し込んでいた。
窓の外はまだ明るい。
けれど、昼間の白い光とは違う。
少し橙色を含んだ光が、高い窓から斜めに入り、体育館の床を長く照らしている。
バスケットボールが床を跳ねる音。
体育館シューズが擦れる音。
誰かの笑い声。
遠くのグラウンドから聞こえるフットサル組の掛け声。
それらが重なり合い、球技大会前の梅桜高校らしい放課後を作っていた。
二年十一組の女子バスケ組は、今日も体育館に残っていた。
なつき。
茜。
亜衣。
それから数人の女子。
男子バスケ組も残っている。
三浦。
田辺。
紅秋。
そして、見学兼コーチのような立場になってしまった春樹。
春樹は今日もボールを持って走ることは許されていない。
体育の授業で先生から見学を言い渡されたこともあり、周囲もかなり厳しく見ている。
三浦は「春樹見張り隊」を勝手に名乗り、紅秋は実際に静かに監視している。
田辺ですら、春樹がボールへ手を伸ばしそうになると、「大國、見るだけな」と言う。
そのたびに春樹は少しだけ不満そうな顔をする。
けれど、誰も引かなかった。
春樹が無理をする可能性を、みんな少しずつ分かり始めていた。
なつきは女子側のコートで、ボールを両手に持ち、リングを見上げる。
昨日より。
少しだけ。
近く見える。
そう思える自分が、少し嬉しかった。
「なつき、いくよ」
亜衣が声をかける。
「うん」
亜衣からパスが来る。
なつきは両手で受け取った。
少し前なら、受け取るだけで慌てていた。
ボールが重くて、手の中から逃げそうで、すぐに誰かへ渡したくなっていた。
でも今は違う。
まだ上手くはない。
けれど、怖さは少し減った。
ボールを持っても、息を吸う余裕がある。
相手を見る余裕がある。
リングを見る余裕がある。
「茜ちゃん!」
なつきは茜へパスを出す。
ボールは少しだけ高くなった。
でも、茜がしっかり受け取る。
「悪くない」
「ほんと?」
「前よりまっすぐ」
「やった」
亜衣が笑う。
「なつき、だいぶボールと仲良くなったね」
「友達くらい?」
「うん。まだ親友ではない」
「親友になるには?」
「本番で一本決める」
「ハードル高い」
茜が淡々と言う。
「親友への道は厳しいわね」
「ボールとの友情って難しい」
なつきは笑いながら、次の動きへ移る。
楽しい。
少し前まで、バスケの練習は不安が大きかった。
春樹に教えてもらえるかもしれない。
それは嬉しかった。
でも、自分が足を引っ張るかもしれないという怖さの方が大きかった。
けれど今は、少し違う。
上手くなりたい。
ボールを落としたくない。
パスを繋ぎたい。
シュートを入れたい。
球技大会本番で、ちゃんと自分の力で一本でも何かをしたい。
そんな気持ちが胸の中に生まれていた。
体育館の壁際では、春樹と蓮が並んで立っていた。
蓮は特進科の制服姿のまま、ジャージ姿の春樹を眺めている。
今日は美優と一緒に商業科へ来た後、そのまま体育館までついてきた。
春樹が「来なくていい」と言っても、蓮は「だから言ったろ」と笑い、美優は「見るだけ」と答えた。
そして今、二人とも本当に来ている。
春樹は少し困ったような顔をしていたが、もう諦めたらしい。
「で、足どうよ」
蓮が軽く聞く。
「平気」
春樹は即答した。
「嘘」
「歩ける」
「それ、平気じゃないって何回言われたら覚えるんだよ」
「痛みは減った」
「最初からそう言え」
蓮は呆れたように笑った。
春樹は壁に軽く背を預け、コートを見る。
三浦が田辺へパスを出し、田辺がゴール下で受ける。
紅秋が外側で位置を変え、三浦へ戻す。
春樹はその動きを黙って見ていた。
「三浦、次は先に右を見ると通る」
短く声をかける。
三浦が反応する。
「了解、春樹コーチ!」
「コーチじゃない」
「見学席の司令塔!」
「長い」
蓮が吹き出した。
「三浦、いいキャラしてんな」
「うるさいけど、空気は読める」
春樹が言う。
蓮は少しだけ目を細めた。
「へぇ」
「何」
「春樹がクラスメイト褒めてる」
「褒めた?」
「褒めてた」
「そう」
蓮はしばらく男子側を見てから、今度は女子側へ視線を向けた。
なつきがドリブルをしている。
少し危なっかしい。
けれど、前へ進もうとしている。
茜が横から指示を出し、亜衣が明るく声をかけている。
なつきは失敗してもすぐにボールを追い、また戻ってくる。
蓮は少し笑った。
「横田さん、頑張ってるな」
春樹も見る。
なつきがボールを受ける。
少し慌てる。
でも踏みとどまる。
亜衣へパス。
亜衣が受け取って、なつきへ親指を立てる。
なつきがほっとしたように笑う。
春樹の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「頑張ってる」
蓮はその横顔を見逃さなかった。
「気になる?」
春樹は視線を女子側へ向けたまま答える。
「チームメイトだから」
「へぇ」
「何」
「いや、チームメイトって便利な言葉だなって」
「便利?」
「春樹、そういうとこあるよな」
「どういうとこ」
「自分の中で名前つけるのが遅いとこ」
春樹は少しだけ蓮を見た。
蓮は笑っている。
からかうようで、少しだけ真面目な顔。
「横田さん、春樹のアドバイスちゃんと聞いてるじゃん」
「うん」
「春樹もちゃんと見てるじゃん」
「見学だから」
「またそれ」
蓮は肩をすくめた。
「まあ、いいけど」
春樹は何も言わなかった。
ただ、女子側のコートを見ていた。
なつきがシュートを打つ。
リングに当たる。
外れる。
なつきが悔しそうに口を結ぶ。
でも、またボールを拾いに行く。
春樹は短く言った。
「肘、直ってきた」
蓮は少しだけ笑った。
「やっぱ気にしてんじゃん」
「フォーム」
「はいはい、フォームね」
蓮は楽しそうに言った。
その頃、美優は体育館の端で、なつきたちの練習を見ていた。
最初は春樹の様子を確認するために来たはずだった。
でも、春樹が本当に走らず、壁際でコーチのように立っているのを見て、少し安心したようだった。
美優は水筒を持ったまま、女子側へ近づいてくる。
なつきはちょうどシュートを外し、ボールを拾いに行ったところだった。
ボールが美優の近くへ転がる。
美優がそれを拾った。
「はい」
「あ、ありがとうございます」
なつきは慌てて受け取る。
近くで見る美優は、やっぱり綺麗だった。
制服姿なのに、体育館の空気にも不思議と馴染んでいる。
落ち着いていて、柔らかくて。
それでいて、春樹の隣に自然に立てる人。
なつきは少しだけ緊張した。
美優は微笑んだ。
「上手くなったね」
「え?」
「シュート。前より形きれいになってると思う」
なつきは驚いた。
自分が褒められるとは思っていなかった。
しかも、美優から。
「そんなことないです」
「あるよ。最初より、ちゃんと足使えてる」
「見てたんですか?」
「うん。春樹が見てたから」
その言葉に、なつきの胸が跳ねた。
春樹が見ていた。
美優はそれに気づいていた。
嬉しい。
でも、同時に少し恥ずかしい。
美優は続ける。
「春樹、ああいうの見るの好きなんだよね」
「ああいうの?」
「できなかったことが、少しずつできるようになるところ」
なつきはボールを抱えたまま、美優を見る。
「そうなんですか?」
「うん。本人は言わないけど」
美優は少し笑った。
「昔からそう。人の変化に気づくのは早いのに、それを言葉にするのは遅い」
なつきは、その言葉がすごく春樹らしいと思った。
見ている。
でも、すぐには言わない。
言う時は短い。
でも、ちゃんと見た上で言う。
だから、春樹の「今のいい」は胸に残る。
「篠崎さんは、バスケやってたんですか?」
なつきは勇気を出して聞いた。
美優は少し驚いたようにしてから、すぐに笑った。
「体育くらい。部活ではやってないよ」
「でも、上手そうです」
「そうかな」
「なんか、動けそう」
「それは春樹と蓮に連れ回されたからかも」
「連れ回された?」
美優は昔を思い出すように目を細めた。
「小学校の頃、昼休みに外で遊ぶってなると、だいたい二人が先に校庭行ってて」
「はい」
「私は最初、見るだけだったんだけど、気づいたら混ざってた」
「春樹くんも、よく外で遊んでたんですね」
「うん。今は本読んでる印象が強いかもしれないけど、昔は結構動いてたよ」
なつきの胸に、また小さな驚きが落ちる。
知らない春樹。
美優が知っている春樹。
小学校の校庭で走る春樹。
蓮と一緒に遊ぶ春樹。
美優が見ていた春樹。
遠い。
でも、聞けて嬉しい。
そんな不思議な感情だった。
「春樹は」
美優が少しだけ声を柔らかくした。
「何でも平均以上にできちゃうところがあるんだけど」
「はい」
「自分ではあんまり気づいてないんだよね」
「分かる気がします」
なつきは思わず言った。
美優が少し笑う。
「分かる?」
「はい。大國くん、自分のことを普通って言います」
「あー、言うね」
美優は心底分かるという顔をした。
「春樹の普通は、あんまり普通じゃない」
「ですよね」
その言葉で、二人は少しだけ笑った。
なつきは、その瞬間に緊張が少し緩むのを感じた。
美優は怖い人ではない。
むしろ、優しい。
なつきに意地悪をするわけでも、マウントを取るわけでもない。
春樹のことを昔から知っていて、自然に話すだけ。
だからこそ、強い。
嫌いになれない強さ。
そして、なつきにとっては羨ましい強さ。
「横田さん」
美優が少し真面目な声で言った。
「はい」
「春樹、褒められるの苦手だけど」
「はい」
「頑張った時は、ちゃんと言ってあげて」
なつきは息を止めた。
「私が、ですか?」
「うん」
「でも、私なんかが」
「私なんか、じゃないよ」
美優はすぐに言った。
柔らかいけれど、はっきりした声。
「春樹、横田さんのことちゃんと見てると思う」
なつきの胸が、一気に熱くなる。
「ちゃんと?」
「うん。少なくとも、シュートのフォームまで気にしてる」
「それは……チームメイトだから」
言ってから、自分で気づいた。
さっき春樹が蓮に言ったのと同じような逃げ方になっている。
美優は少しだけ笑った。
「春樹もそんなこと言いそう」
「え?」
「何でも理由つけるから」
美優は女子側のコートを見る。
「でも、理由があるから見るんじゃなくて、見てるから理由をつける時もあると思うよ」
なつきは言葉を失った。
見てるから理由をつける。
その言葉が、胸の奥に落ちていく。
春樹が自分を見ている。
フォームを見ている。
頑張っているところを見ている。
それは、チームメイトだから。
女子バスケの練習だから。
見学だから。
そうかもしれない。
でも、もしかしたら。
それだけじゃない可能性も、ほんの少しだけあるのだろうか。
そう思った瞬間、なつきの心臓がうるさくなる。
美優はそれ以上、深く踏み込まなかった。
ただ、優しく言った。
「応援してあげたら、春樹はたぶん嬉しいと思う」
「……嬉しい、ですか」
「うん。顔には出にくいけど」
「分かります」
「でしょ?」
美優は笑った。
その笑顔に、なつきも少し笑った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
美優との距離が近くなった気がした。
敵ではない。
でも、ただの友達とも違う。
春樹を知っている人。
春樹を大切にしている人。
そして、なつきに春樹のことを少し教えてくれる人。
その複雑な位置にいる美優を、なつきはまだどう受け止めればいいのか分からない。
でも、話せてよかったと思った。
「ありがとうございます」
なつきは言った。
美優は首を傾げる。
「何が?」
「今の話」
「ううん。私が勝手に話しただけ」
「でも、嬉しかったです」
美優は少しだけ目を細めた。
「横田さん、素直だね」
「え?」
「春樹とは違う」
「大國くんは素直じゃないですか?」
「素直だけど、分かりにくい」
「あ、分かります」
また二人で笑った。
その笑い声に、亜衣が気づいて近づいてくる。
「何? 楽しそうじゃん」
「亜衣ちゃん」
「なつき、篠崎さんと仲良くなってる」
「そうかな」
美優が笑う。
「バスケの話をしてただけ」
「本当に?」
亜衣が少し疑うように見る。
「春樹の話も少し」
「やっぱり」
亜衣は納得したように頷いた。
茜も近づいてくる。
「なつき、休憩終わり?」
「うん。もう少しやる」
なつきはボールを持ち直した。
美優との会話で、胸の奥に何かが生まれていた。
ただの不安ではない。
ただの羨ましさでもない。
もっと前向きなもの。
頑張りたい。
そう思った。
春樹に応援を届けたい。
春樹が頑張った時、ちゃんと褒めたい。
そのためには、自分も頑張っていないと。
自分が立っている場所から、ちゃんと声を出せるようになりたい。
なつきはリングを見上げる。
「もう一本、打ってくる」
亜衣が笑う。
「いい顔」
茜も頷く。
「落ち着いて」
「うん」
なつきはゴール下へ向かった。
体育館の床が、夕方の光で少しだけ温かく見える。
春樹は壁際で蓮と話していたが、なつきがボールを持ったことに気づいたように、こちらを見た。
目が合う。
なつきは少しだけ緊張した。
でも、逸らさなかった。
膝を曲げる。
肘をまっすぐ。
力は最後だけ。
リングの奥を見る。
春樹の声を思い出す。
美優の言葉を思い出す。
応援してあげたら、春樹はたぶん嬉しいと思う。
なつきは息を吸った。
そして、シュートを打った。
ボールが弧を描く。
リングに当たる。
一度、跳ねる。
少しだけ迷うように揺れて。
ネットを通った。
ぱさり。
綺麗な音。
なつきはその場で固まった。
「入った!」
亜衣が叫ぶ。
「なつき、今のいい!」
茜も小さく拍手する。
「落ち着いてたわ」
美優も笑っている。
「上手くなってる」
なつきは振り返った。
春樹が見ていた。
そして、少しだけ頷いた。
「今のいい」
また。
同じ言葉。
でも、今回は少し違った。
ただ嬉しいだけではない。
胸の奥に、まっすぐ芯が通るような感覚があった。
今のいい。
その言葉に頼るだけではなく。
その言葉にふさわしい自分でいたい。
そう思った。
「ありがとう」
なつきは春樹へ向けて言った。
声は少しだけ震えた。
でも、ちゃんと届いた。
春樹は短く頷く。
「うん」
蓮が横で何かを言っている。
春樹は少しだけ困ったような顔をした。
美優はそれを見て笑っている。
亜衣と茜も、なつきを見ていた。
体育館の中には、たくさんの音がある。
ボールの音。
靴の音。
笑い声。
夕方の風が窓を揺らす音。
その全部の中で、なつきはボールを胸に抱えた。
球技大会は、もうすぐだ。
春樹の試合もある。
蓮との対戦もきっとある。
島中のことも、まだ終わっていない。
美優の存在も、胸の中に残っている。
これから、きっともっと心が揺れる。
知らない春樹を、また見ることになる。
自分が知らない時間に、何度も胸が痛くなるかもしれない。
でも。
なつきはもう、ただ見ているだけではいたくなかった。
自分もコートに立つ。
自分もボールを追う。
自分も声を出す。
そして、春樹が頑張った時には。
ちゃんと、言いたい。
すごかった。
かっこよかった。
頑張ってた。
そんな言葉を、自分の口で。
夕暮れの体育館で、なつきは小さく息を吸った。
ボールの重さが、前より少しだけ頼もしく感じた。
リングまでの距離は、まだ遠い。
春樹までの距離も、まだ遠い。
でも。
届かない距離ではない。
少なくとも、そう信じたい。
なつきはもう一度、リングを見上げた。
球技大会当日まで、あと少し。
次は、本番だ。




