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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第37話 朝の教室に残る熱


 翌朝の二年十一組は、いつもより少しだけ早くざわついていた。


 まだホームルームまでは時間がある。


 黒板には日付と、その日の連絡事項が小さく書かれているだけ。


 窓の外は薄く明るく、校庭には朝練を終えた運動部の生徒たちがちらほら見えた。


 けれど今日の空気には、昨日の体育館の熱がまだ残っていた。


 島中のラフプレー。


 春樹の転倒。


 その後の、静かな反撃。


 誰も大きな声では言わない。


 でも、教室のあちこちに、その話題の残り火があった。


「昨日、見た?」


「見た。大國、やばかった」


「島中、あれはないよな」


「足引っかけたように見えた」


 なつきは自分の席で、その声を聞いていた。


 春樹が倒れた瞬間が、まだ頭から離れない。


 膝の擦り傷。


 軽い捻挫。


 保健室の椅子に座っていた春樹。


 大丈夫、と言った声。


 大丈夫ではなさそうだったのに、いつも通りの顔をしていた春樹。


「なつき」


 隣から茜が声をかける。


「大丈夫?」


「え?」


「顔、ずっと考えてる顔」


「……うん」


 なつきは正直に頷いた。


「大國くん、来るかなって」


 茜は静かに言った。


「来るでしょうね」


「うん」


「でも、無理をしているなら止める人もいるわ」


「紅秋くん?」


「それもあるし、三浦くんも昨日は本気で怒っていたもの」


 亜衣が前の方から歩いてきた。


「私もまだムカついてる」


「亜衣ちゃん」


「だってさ、謝ってないんだよ? 島中」


 亜衣の眉がきゅっと寄る。


「足滑ったとか言ってたけど、あれは無理ある。田辺まで引いてたじゃん」


 茜も静かに言う。


「最低限、謝罪は必要ね」


「だよね」


 亜衣が頷く。


「大國くんが気にしてないからって、周りも気にしないとは限らないし」


 その頃、前方では三浦が数人の男子に囲まれて、昨日の一対一の話をしていた。


「だからさ、春樹がこう、すって動いたんだよ」


「すって?」


「そう、すっ」


「分からん」


「で、島中がガッて来るじゃん」


「語彙」


「春樹は何もしてない顔で、すって抜く」


「またすっ」


「いや、見たら分かるんだって!」


 教室に笑いが起きる。


 けれど、昨日見ていた生徒たちは頷いていた。


 春樹の動きは、確かに言葉にしづらかった。


 派手ではない。


 大きく跳んだわけでもない。


 ただ、相手の一歩先にいた。


 三浦は少し真面目な顔になる。


「春樹って普段、全然怒んないじゃん。でも昨日は怒ってた。声は普通だったけど」


 その言葉に、なつきの胸が小さく鳴った。


 怒鳴らない春樹。


 でも、静かに怒っていた春樹。


 思い出すと、やっぱり胸が熱くなる。


 紅秋は窓際近くの席で、いつも通り静かに本を開いていた。


 けれど、ページはあまり進んでいないように見えた。


 視線が時々、春樹の空席へ向かう。


 大きく感情を出さない。


 でも、ちゃんと心配している。


 紅秋らしい姿だった。


 その時。


 教室の後ろの扉が開いた。


 何人かが振り向く。


 そして、空気が少し動いた。


 春樹だった。


 だけど、一人ではなかった。


 春樹の隣には、桐谷蓮。


 そして、篠崎美優。


 三人で教室へ入ってきた。


 特進棟へ向かう前に、商業科へ寄ったのだろう。


 春樹は昨日より普通に歩いているように見えた。


 けれど、なつきには分かる。


 ほんの少しだけ右足を庇っている。


 それに気づいた瞬間、胸がきゅっとなった。


「おー!」


 三浦が真っ先に声を上げた。


「負傷兵、登校!」


 春樹がすぐ返す。


「違う」


「いや昨日の今日だからな!」


「歩ける」


「それ昨日も言ってた!」


 教室に小さな笑いが起きる。


 蓮が肩を揺らして笑った。


「三浦、昨日もそんな感じだったんだろうな」


「桐谷、それどういう意味?」


「いや、連絡も早かったし、実況も多かったし」


「実況じゃない。報告」


「報告にしては熱量高かったぞ」


「そりゃそうだろ! 春樹が削られたんだぞ!」


「削られたって言い方がもう実況なんだよ」


 三浦は少しだけむっとした顔をした。


「いやでも、あれは連絡するでしょ」


 蓮は頷いた。


「助かったよ。聞いてなかったら知らないままだったし」


「春樹、自分から言わなそうだもんな」


 美優が即答する。


「言わないね」


 春樹が少しだけ不満そうにする。


「言う」


「言わない」


 蓮と美優が同時に言った。


 教室にまた笑いが生まれる。


 なつきはそのやり取りを見て、胸の奥が少しだけちくりとした。


 自然だった。


 春樹がどう答えるかも、どこで否定するかも、二人は分かっているようだった。


 それが嫌なわけではない。


 でも、羨ましかった。


「で、足」


 三浦が春樹の足元を見る。


「大丈夫なのか?」


「昨日よりは」


「それ大丈夫って言わないやつ!」


「痛みは少ない」


「ならいいけどさ」


 三浦は本気で心配している顔だった。


 紅秋が席から立ち上がり、春樹のところへ来た。


「湿布替えた?」


「替えた」


「固定は?」


「してる」


「ならいい」


 それだけ。


 いつもの紅秋らしい短い確認。


 でも、それが紅秋なりの心配だと、なつきには分かった。


 蓮が紅秋を見て笑う。


「板倉くん、相変わらず淡々としてるな」


「騒いでも足は治らないから」


「それはそう」


 三浦が横から言う。


「でも確認細かいよな。板倉、春樹のお母さんみたいだぞ」


「違う」


「即答」


「必要だから確認しただけ」


 亜衣が美優へ声をかける。


「篠崎さん、おはよう」


「おはよう、伊藤さん」


 美優がにこっと笑う。


「昨日は大変だったね」


「ほんとにね。大國くん、巻き込まれて災難」


 亜衣の声に、少しだけ怒りが混ざる。


 美優も少し表情を引き締めた。


「島中くん、謝った?」


 教室の空気が少し止まった。


 亜衣が答える。


「まだ」


 美優は一瞬だけ黙った。


 蓮も春樹を見る。


 春樹は特に反応しない。


「そっか」


 美優はそれ以上強く言わなかった。


 けれど、その声は少し冷えていた。


 茜も静かに言った。


「謝罪くらいは、あるべきだと思うわ」


 美優は茜を見る。


「遠山さん、だよね?」


「はい」


「私もそう思う」


 亜衣も腕を組む。


「大國くんが気にしてないからって、周りも気にしないとは限らないし」


 春樹が少し困ったように言う。


「気にしてないわけじゃない」


 みんなの視線が春樹へ向く。


「ただ、もう終わったから」


 蓮が苦笑した。


「春樹、それはお前の中でだろ」


「そう?」


「そう。周りは終わってない。特に昨日見てた人は」


 美優も続ける。


「春樹はやり返したから終わったって思ってるかもしれないけど、怪我した事実は残ってるよ」


「そういうもの?」


「そういうもの」


 春樹は少し考えてから頷いた。


「分かった」


 三浦が目を丸くする。


「おお、春樹が納得した」


 蓮が笑う。


「たぶんね」


「たぶん?」


「春樹は一回納得しても、あとで普通に無理するから」


「何それ怖い」


 美優が頷く。


「意外と負けず嫌いだから」


 三浦が身を乗り出す。


「昨日聞いたやつ!」


 蓮は少し得意そうに言う。


「そう。こいつ、普段は静かだけど、怒ると面倒」


「面倒ってどう面倒?」


「相手が一番自信あるところで勝つまで終わらない」


「うわ、昨日のまんまだ」


 三浦が両手で頭を抱える。


「島中、完全にそこ折られてたもんな」


 春樹が少しだけ眉を寄せる。


「言い方」


 蓮は笑う。


「事実だろ」


 美優も微笑んだまま言う。


「事実だね」


「美優まで」


「だってそうだもん。春樹、自分で思ってるより負けず嫌いだよ」


「そんなことない」


「ある」


「あるな」


 蓮も乗る。


 また二対一。


 春樹は諦めたように黙った。


 その沈黙に、教室が笑う。


 なつきも少し笑った。


 でも、胸の中にはまた違う感情があった。


 篠崎さんと蓮くんは、春樹のことをよく知っている。


 春樹が否定するところ。


 春樹が黙るところ。


 春樹が自分で気づいていない部分。


 それを、当たり前みたいに言葉にする。


 なつきは、昨日の春樹を見て初めて知った。


 怒ると静かに怖いこと。


 負けず嫌いなこと。


 相手の自信を折るくらい、プレーで返すこと。


 でも、二人にとっては初めてではない。


 そこが、少しだけ遠かった。


 その時、教室の前の扉が開いた。


 島中良が入ってきた。


 空気が、静かに変わる。


 誰も大きく反応しない。


 でも、話していた声が少しだけ落ちる。


 三浦は黙った。


 亜衣の目が冷える。


 茜も表情を変えずに島中を見る。


 田辺は自分の席で気まずそうに視線を逸らした。


 島中は、その空気に気づいていないわけではなかった。


 けれど、いつものように軽く笑って入ってくる。


「何、朝から集まってんの」


 誰もすぐには答えなかった。


 島中の視線が春樹へ向く。


 そして蓮と美優にも。


「特進組までいるじゃん」


 蓮が軽く笑った。


「ちょっと寄っただけ」


「へぇ」


 島中は春樹の足元を一瞬見る。


 それから、目を逸らした。


 謝らない。


 なつきはその瞬間、胸の中に小さな怒りが生まれるのを感じた。


 亜衣が小さく呟いた。


「信じらんない」


 茜も低く言う。


「残念ね」


 春樹は何も言わない。


 蓮も美優も、ここで何かを言うことはしなかった。


 でも、美優の目は少しだけ冷たかった。


 島中は居心地が悪かったのか、自分の席へ向かった。


 周りの男子も、昨日ほど島中へ声をかけない。


 田辺が何か言いたそうにしたが、結局言わなかった。


 蓮が時計を見る。


「そろそろ戻るか」


「うん」


 美優が頷く。


 特進科の二人は長居できない。


 美優は春樹を見る。


「放課後、商業科寄るから」


 なつきの胸が、静かに跳ねた。


 商業科寄るから。


 ただそれだけの言葉。


 でも、当たり前みたいだった。


 春樹はすぐに言う。


「来なくていい」


「行く」


「練習あるかも」


「じゃあ体育館見る」


「そこまでしなくていい」


「春樹が無理しないならしない」


 春樹が少し黙る。


 蓮が笑う。


「諦めろ。美優は言ったら来る」


「知ってる」


「なら早い」


 美優は少し微笑む。


「どうせ無理するでしょ」


「しない」


「する」


 蓮が即答した。


 美優も頷く。


「する」


 また二対一。


 春樹は小さく息を吐いた。


「……分かった」


 教室に小さな笑いが起きる。


 なつきは、その笑いに混ざれなかった。


 嫌ではない。


 美優は本当に春樹を心配している。


 蓮もそうだ。


 二人とも、春樹を大切にしている。


 分かる。


 分かるから、胸がちくりとした。


 当たり前みたいに、放課後に商業科へ寄ると言える距離。


 春樹が断っても、行くと言える距離。


 蓮が横から笑って、諦めろと言える空気。


 それが、羨ましかった。


 美優と蓮は教室を出ていった。


 去り際、美優はなつきたちの方へ軽く会釈した。


 亜衣が手を振る。


 茜も小さく会釈する。


 なつきも慌てて頭を下げた。


 扉が閉まる。


 教室に商業科だけの空気が戻る。


 でも、なつきの胸にはまだ、美優の言葉が残っていた。


 放課後、商業科寄るから。


「なつき」


 茜が静かに声をかけた。


「うん」


「気になる?」


 なつきは少し迷ってから、頷いた。


「うん」


「篠崎さん?」


「……少し」


「正直ね」


「羨ましかっただけ」


 口に出すと、少し楽になった。


「放課後、商業科寄るからって、普通に言えるの、すごいなって」


 亜衣が少し優しい顔になる。


「幼馴染だもんね」


「うん」


「でも、なつきはなつきでしょ」


「うん」


「昨日、大國くんの保健室まで行ったじゃん」


「それは……心配だったから」


「それでいいじゃん」


 亜衣は笑った。


「篠崎さんには篠崎さんの距離がある。なつきにはなつきの距離がある」


 茜も頷く。


「急に同じ距離にはなれないわ。でも、近づいていないわけじゃない」


 その言葉に、なつきは胸の奥が少し温かくなる。


 図書室。


 本。


 簿記。


 シュート。


 今のいい。


 全部、なつきだけの距離だ。


 美優や蓮が知らない時間も、少しずつできている。


 ホームルームのチャイムが鳴る。


 担任が教室へ入ってくる。


 朝のざわめきは少しずつ収まり、生徒たちは席に戻っていった。


 春樹も自分の席へ座る。


 なつきは少しだけ迷った。


 話しかけたい。


 足のことを聞きたい。


 でも、美優や蓮のようには自然に言えない。


 それでも。


 聞きたい。


 心配していることを、ちゃんと自分の言葉で伝えたい。


 ホームルームが終わった後。


 一時間目の準備で教室が少しざわつく中、なつきは勇気を出して席を立った。


 春樹の机の近くへ行く。


 心臓が速い。


 でも、昨日のシュートと同じ。


 焦らない。


 今は、言葉を届けるだけ。


「大國くん」


 春樹が顔を上げる。


「うん」


「あの……足」


 言葉が少し詰まる。


 でも、なつきは続けた。


「昨日よりは、大丈夫?」


 春樹は一瞬だけ目を瞬かせた。


 それから、少しだけ表情を緩める。


「昨日よりは」


 朝、三浦に返していた言葉と同じ。


 でも。


 今は、なつきに向けられた返事だった。


「よかった」


「心配かけた?」


「うん」


 なつきは正直に頷いた。


 春樹は少し困ったように言う。


「ごめん」


「大國くんが謝ることじゃないよ」


「でも、心配かけたから」


 その言葉に、なつきの胸がまた跳ねる。


「無理しないでね」


 なつきは小さく言った。


 春樹は少し考えてから答える。


「できる範囲で」


「それ、無理する人の言い方」


 言ってから、なつきは自分で驚いた。


 少しだけ、美優や蓮みたいな言い方をしてしまった。


 春樹も驚いたように瞬きする。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


「気をつける」


 なつきは固まった。


 笑った。


 少しだけ。


 でも確かに。


 春樹が。


 自分の言葉で。


「うん」


 なつきは何とか頷いた。


 席へ戻ると、亜衣がにやにやしていた。


「言えたじゃん」


「言えた」


「しかも、ちょっと言い返してた」


「私もびっくりした」


 茜が微笑む。


「自然だったわよ」


 なつきは机に座り、教科書を開いた。


 文字はまだ少し浮いて見える。


 でも、朝よりはずっと落ち着いていた。


 美優と蓮の距離は羨ましい。


 島中のことはまだもやもやする。


 春樹の足も心配。


 でも。


 なつきも、ちゃんと言えた。


 心配していると。


 無理しないでと。


 そして、春樹は少し笑ってくれた。


 そのことだけで、今日一日を頑張れる気がした。

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