第36話 乱入者と、静かな
放課後の体育館には、昼休みとは違う熱があった。
昼の体育館は、短い時間を奪い合うような慌ただしさがある。
チャイムまでの数十分。
昼食を急いで終わらせた生徒たちが、ボールを持って走り込み、少しでも体を慣らそうとする。
けれど放課後は違う。
時間が少しだけ伸びる。
窓から入る光も、昼の白さではなく、少し黄色を含んだ柔らかいものになる。
体育館の床に伸びた影が長くなり、ボールの跳ねる音が昼より深く響く。
外からは、グラウンドでフットサルの練習をしている男子たちの声もかすかに聞こえていた。
風に乗って、笛の音のようなものも届く。
球技大会が近づいている。
学校全体が、その空気に少しずつ飲み込まれていくようだった。
横田なつきは、女子バスケのボールを両手で持ちながら、リングを見上げた。
少し前まで、あのリングは遠かった。
届かないものに見えた。
ボールを投げても手前で落ちてしまい、何度やっても情けない音だけが体育館に転がった。
でも、昨日。
春樹に教えてもらって、初めてシュートが入った。
膝を曲げる。
腕だけじゃなく、足を使う。
体全体で上へ送る。
そして最後に、手首を軽く返す。
その感覚はまだ手のひらに残っている。
春樹の声も、残っている。
『今のいい』
思い出すだけで、胸が熱くなる。
なつきはボールをぎゅっと持ち直した。
「なつき」
少し離れたところから亜衣の声が飛んできた。
「はい」
「今、絶対思い出してたでしょ」
「何を?」
「大國くんの『今のいい』」
「亜衣ちゃん!」
なつきの声が体育館に響く。
近くで練習していた女子が何人かこちらを見て、くすくす笑った。
なつきは慌てて口を押さえる。
亜衣は悪びれない顔で、ドリブルをしながら近づいてきた。
「分かりやすいんだもん」
「そんなに?」
「うん。リング見る顔が完全に昨日の余韻だった」
「余韻って……」
なつきは頬が熱くなるのを感じた。
否定したい。
でも否定しきれない。
昨日の放課後は、確かに余韻がすごかった。
家に帰ってからも、何度も思い出した。
シュートが入った瞬間の音。
春樹が言ってくれた一言。
体育館の夕方の光。
自分の手の中に残ったボールの重さ。
全部が、何度も胸の中で再生された。
茜が横から静かに言う。
「余韻に浸るのはいいけれど、今日は練習よ」
「はい」
「昨日入ったからといって、今日も入るとは限らない」
「現実……」
「でも、昨日入ったなら、今日も入る可能性はある」
茜は淡々と言った。
その言葉は厳しいようで、ちゃんと前を向いている。
なつきは少し笑った。
「うん。頑張る」
「まずはドリブルから」
「はい」
女子バスケ組は、昨日より少し人数が増えていた。
同じ商業科の女子が数人、練習に参加している。
テニス組は外のコートへ向かっていて、体育館には女子バスケ組と男子バスケ組、それから別クラスの数人がいた。
男子バスケ組は、まだ全員そろっていない。
三浦はすでに来ていて、壁際で軽くストレッチをしながら、田辺と何か話している。
紅秋は体育館の端で、ボールの数を確認していた。
春樹はまだ来ていない。
なつきはそれを意識しないように、ドリブルを始めた。
ぼん。
ぼん。
昨日よりは続く。
まだぎこちない。
でも、ボールがすぐに横へ逃げることは少なくなった。
亜衣が横で軽快にドリブルしながら言う。
「お、なつき、昨日よりいいじゃん」
「本当?」
「うん。ボールに嫌われてない」
「昨日は嫌われてた?」
「ちょっと距離置かれてた」
「ボールに?」
「うん」
なつきは笑いそうになって、ドリブルが乱れた。
ボールが足元から少し離れる。
「あっ」
追いかけて、何とか止める。
亜衣が笑う。
「今、笑ったから」
「亜衣ちゃんが変なこと言うから」
「試合中に笑ってもボールは待ってくれないよ」
「急に真面目」
茜が近づいてきて、なつきの横に立つ。
「顔を上げる練習もしましょう」
「うん」
「亜衣にパス」
「はい」
なつきはボールを両手で持ち、亜衣へ向ける。
体の向き。
手だけで投げない。
相手を見る。
春樹に教わったシュートとは違うけれど、茜に言われた言葉を思い出す。
パスも、相手へ体を向ける。
なつきは息を吸い、亜衣へパスを出した。
ボールは少しだけ高くなったが、亜衣が受け取れる範囲に飛んだ。
「ナイス」
亜衣が言う。
「本当?」
「うん。昨日より全然いい」
たったそれだけで、なつきの胸が少し軽くなる。
昨日よりいい。
少しずつ良くなる。
その感覚は、テスト勉強の時にもあった。
最初は分からなかった簿記の問題文が、少しずつ読めるようになった時。
試算表が初めて合った時。
春樹に「迷いが減ってる」と言われた時。
今は、ボールでそれを感じている。
勉強も、バスケも、少しずつ。
なつきはもう一度パスを受けた。
今度は茜へ。
少しだけずれたが、茜は落ち着いて受け取る。
「悪くない」
「茜ちゃんの悪くない、嬉しい」
「まだ良いとは言ってない」
「厳しい」
「でも、昨日よりは良い」
「それは嬉しい」
そんなやり取りをしながら、練習は進んでいった。
体育館の空気は徐々に熱を帯びていく。
ボールが床を跳ねる音が増える。
誰かがシュートを決めて小さく歓声を上げる。
外のグラウンドからは、フットサル組の声が遠く聞こえる。
窓の向こうの空は、少しずつ夕方の色に近づいていた。
しばらくすると、男子バスケ組も本格的に動き始めた。
三浦の声が響く。
「春樹、来た!」
なつきの手が一瞬止まりかけた。
亜衣がすぐに言う。
「なつき」
「はい」
「ボール」
「はい」
なつきは慌ててドリブルを続ける。
でも、視線はどうしても体育館の入口へ向いてしまった。
春樹が入ってくる。
ジャージ姿。
手には水筒とタオル。
特別なことは何もしていない。
ただ体育館に入ってきただけ。
それなのに、なつきの胸は簡単に跳ねる。
昨日の放課後のせいだ。
そう思う。
シュートを教えてもらった。
初めて入った。
今のいい、と言ってもらった。
だから、春樹を見るだけで昨日の感覚が戻ってくる。
春樹は三浦たちの方へ向かった。
三浦が大きく手を振る。
「春樹、今日も頼むぞ」
「何を?」
「勝利への道案内」
「まだ練習」
「練習から勝負は始まってる」
紅秋が冷静に言う。
「まず基礎練習」
「板倉先生」
「先生じゃない」
田辺がボールを持ちながら笑う。
「俺、リバウンド練習したい」
「田辺はそこ強いもんな」
三浦が頷く。
「ゴール下の壁」
「壁って言うな」
「褒めてる」
「ならいいけど」
男子組の空気は明るかった。
けれど、その中で春樹はやっぱり静かだ。
必要な時に短く話す。
でも、コートに入ると目が変わる。
ボールを持つと、無駄がなくなる。
なつきはそれを見てしまう。
見てはいけないわけではない。
でも、自分の練習中に見すぎるとボールが逃げる。
それはもう学んだ。
「なつき」
茜の声。
「はい」
「今、二秒見た」
「計ってたの?」
「目に入った」
「すごい」
「感心しなくていい」
亜衣が笑う。
「まあ、見ちゃうのは分かるけど」
「亜衣ちゃん」
「でも、今日は自分も練習。昨日入ったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ今日も一回入れよう」
「うん」
なつきはリングを見上げた。
昨日より少しだけ近く見える。
シュート練習に移る。
ゴール下から。
膝を曲げる。
腕ではなく足。
体全体で上へ。
手首。
なつきは昨日の感覚を思い出しながら打った。
ボールはリングに当たって跳ねた。
惜しい。
「今の惜しい!」
亜衣が言う。
「惜しかったね」
「方向は良かったわ」
茜も頷く。
なつきはボールを拾いに行きながら、少し嬉しくなる。
入ってはいない。
でも、届いている。
昨日の自分とは違う。
もう一度打つ。
今度は少し強い。
次は弱い。
その次はリングの横。
それでも、何度かに一度はリングに当たる。
外れる音も、昨日より悪くない音に聞こえた。
そんな時だった。
体育館の入口側が、少し騒がしくなった。
外のグラウンドから戻ってきたのか、フットサル組の男子たちが数人、体育館を覗き込んでいる。
その中心に、島中良がいた。
額に汗をかき、首にタオルをかけている。
フットサルの練習後なのだろう。
息は少し上がっているが、表情には余裕がある。
島中は体育館の中を見回した。
男子バスケ組。
女子バスケ組。
そして、なつき。
その視線が春樹の方へ動き、またなつきへ戻る。
なつきの胸に、嫌な予感が生まれた。
「へぇ」
島中が軽い声で言った。
「楽しそうじゃん」
体育館の空気が、ほんの少し変わった。
亜衣がすぐに目を細める。
「島中、フットサル終わったの?」
「休憩」
「体育館、バスケ練習中だけど」
「見学くらいいいだろ」
島中は笑いながら中へ入ってくる。
フットサル組の男子が数人、入口付近で様子を見ている。
田辺が男子バスケ側から顔を上げた。
「島中、何してんの?」
「見に来ただけ」
「フットサルは?」
「終わったって言ったろ」
「休憩って言ってたけど」
「細けぇな」
島中は田辺の言葉を軽く流し、なつきの方へ近づいた。
なつきはボールを両手で持ったまま、少しだけ身構える。
「横田、バスケやってんだ」
「うん」
「似合わねぇ」
軽い笑い。
でも、その一言は少しだけ刺さった。
亜衣が即座に言う。
「島中、そういうのいらない」
「冗談じゃん」
「面白くない」
「伊藤、相変わらずきついな」
茜が静かに言う。
「練習中よ」
「分かってるって」
島中は周囲を見回し、それから春樹の方を見た。
「大國」
春樹がボールを持ったまま顔を上げる。
「何?」
「女子に教えてんの?」
「シュートなら少し」
島中の目が少しだけ細くなる。
「へぇ。女子に教えるの上手いんだ」
その言い方に、体育館の空気がまた少し硬くなった。
三浦が慌てて明るい声を出す。
「春樹は教えるの普通に上手いぞ。簿記もバスケも」
「三浦には聞いてない」
「聞かれてなくても答える男」
「うざ」
「え、俺?」
三浦が自分を指差す。
亜衣が小さく笑ったが、すぐに表情を戻した。
島中は春樹へ一歩近づく。
「大國、俺にも教えてよ」
「フットサルでしょ」
「バスケもできるけど?」
「そう」
「反応薄いな」
「できるなら教えることない」
春樹の声はいつも通りだった。
煽るつもりも、挑発するつもりもない。
ただ、本当にそう思っているような声。
それが島中には気に入らないのだろう。
島中の口元の笑みが少しだけ深くなる。
「じゃあ、一本やろうぜ」
三浦が反応する。
「一本?」
「一対一」
島中はボールを指差した。
「バスケで」
体育館の音が、一瞬遠くなった気がした。
女子バスケ組の生徒たちも手を止める。
男子バスケ組も見る。
入口のフットサル組もざわつく。
田辺が眉をひそめた。
「島中、急に何言ってんだよ」
「遊びだよ」
「練習中だろ」
「だから軽く」
島中は笑っている。
でも、その目は笑っていなかった。
春樹はボールを持ったまま言う。
「今?」
「今」
「女子の練習時間」
「すぐ終わるだろ」
その言葉に、なつきの胸が少しざわついた。
女子の練習時間。
春樹はそう言ってくれた。
自分たちの時間を、ちゃんと守ろうとしてくれた。
それが嬉しい。
でも同時に、島中の言葉が嫌だった。
すぐ終わる。
まるで、自分たちの練習なんて大したものではないみたいに。
亜衣が一歩前へ出る。
「島中、やるなら自分たちの時間でやりなよ」
「伊藤、そんな怒んなよ」
「怒るでしょ。邪魔してんだから」
島中は肩をすくめた。
「邪魔ってほどじゃないじゃん」
茜の声が少し低くなる。
「練習を止めている時点で邪魔よ」
島中の表情が一瞬だけ変わった。
茜に言われると、逃げ道がなくなる。
でも島中はすぐに春樹へ視線を戻した。
「大國、どうすんの?」
「やらない」
春樹は短く答えた。
なつきは少しだけほっとした。
でも、島中は引かなかった。
「逃げるんだ」
体育館の空気が、確かに止まった。
三浦の表情が変わる。
田辺も眉を寄せる。
紅秋が静かに島中を見る。
亜衣が何か言いかけた。
その前に、春樹がボールを床についた。
ぼん。
低い音。
「逃げる理由はない」
春樹の声は静かだった。
でも、さっきまでとほんの少しだけ違った。
大きくはない。
怒鳴ってもいない。
表情もほとんど変わらない。
けれど、体育館の空気が変わるくらいには、そこに何かがあった。
なつきは息を飲む。
春樹が、少しだけ怒っている。
そう感じた。
「一本だけ」
春樹は言った。
「終わったら、女子の練習に戻す」
島中は笑った。
「いいじゃん」
三浦が慌てて手を上げる。
「じゃあ俺、審判っぽいことする!」
「三浦くん、できるの?」
亜衣が聞く。
「雰囲気で」
「不安」
紅秋が近づいてくる。
「僕が見る」
「板倉、頼む」
三浦は素直に下がった。
田辺は島中の方を見て、少しだけ困ったような顔をしている。
「島中、マジで軽くだぞ」
「分かってるって」
島中はボールを受け取る。
軽くドリブルする。
フットサルの時の軽さが、足元にある。
運動神経は良い。
それはなつきにも分かった。
ボールを扱う手つきは、バスケ専門ではないかもしれないが、体の動きは速い。
島中は春樹の前に立った。
「じゃあ、俺からでいい?」
「いい」
春樹は低く構える。
体育館の隅。
即席の一対一。
周囲の生徒たちが少しずつ集まってくる。
女子バスケ組も、男子バスケ組も、フットサル組も。
誰も大声では騒がない。
でも、期待と緊張が空気に混ざっていた。
なつきはボールを抱えるように両手を握った。
怖い。
でも、目を離せない。
島中が春樹を抜こうとする。
春樹がどう動くのか。
春樹が本気でバスケをする姿。
昨日のシュート指導とは違う。
これは、勝負だ。
紅秋が静かに言った。
「始め」
島中が動いた。
最初の一歩は速かった。
右へ体を振る。
すぐに左へ切り返す。
フットサルのステップに近い、細かくて鋭い動き。
見ていた何人かが「おお」と声を漏らした。
島中はやっぱり運動ができる。
速い。
体の使い方も上手い。
なつきは思わずそう思った。
でも。
春樹は抜かれなかった。
一歩だけ、下がる。
大きく動かない。
島中の動きを追いすぎない。
重心だけを見ているようだった。
島中がもう一度切り返す。
春樹はまた、最小限の動きで前に入る。
田辺が小さく呟いた。
「大國、動き小さくね?」
紅秋が答える。
「無駄がない」
三浦が興奮を抑えきれない声で言う。
「静かに怖いんだけど、春樹」
島中の顔から、少しずつ余裕が消えていく。
「……っ」
強引にシュートへ持ち込もうとする。
春樹が手を伸ばす。
ボールに触れた。
完全に奪ったわけではない。
でも、島中のリズムが崩れる。
シュートはリングに当たらず、横へ外れた。
「アウト」
紅秋が言った。
周囲から小さなどよめきが起こる。
「惜しい!」
「島中、速かったけどな」
「大國、止めた」
島中は舌打ちしそうな顔をしたが、すぐに笑った。
「まだ一本じゃん」
「攻守交代」
紅秋が言う。
今度は春樹がボールを持った。
島中が守る。
なつきの心臓が速くなる。
春樹が攻める。
春樹はゆっくりドリブルを始めた。
速くない。
派手でもない。
島中は低く構えている。
春樹の動きを読もうとしている。
春樹は一度、右を見る。
ボールは左手。
島中の重心がほんの少し動く。
その瞬間。
春樹が抜いた。
大きなフェイントではなかった。
ほんの一歩。
でも、その一歩で島中の横を通った。
なつきには、何が起きたのか一瞬分からなかった。
春樹がリングへ向かう。
軽く跳ぶ。
ボールが上がる。
ネットを通る。
ぱさり。
体育館に、綺麗な音が落ちた。
一瞬の沈黙。
そして。
「おおおお!」
三浦の声が爆発した。
「春樹、今の何!?」
田辺も驚いている。
「一歩で抜いたぞ」
亜衣が目を丸くしている。
「なつき、見た?」
なつきは答えられなかった。
見た。
でも、見たと言えるほど理解できていない。
ただ、春樹がすごかった。
静かに。
自然に。
勝った。
それだけが胸に刺さっている。
島中は動かない。
ボールが床を跳ねて戻ってくる。
春樹はそれを拾った。
「終わり?」
春樹が聞いた。
責めるような言い方ではない。
ただ、確認する声。
けれど島中の表情は、明らかに変わっていた。
悔しさ。
焦り。
認めたくない気持ち。
それが全部、顔に出ていた。
「もう一本」
島中が言った。
紅秋がすぐに言う。
「一本の約束だった」
「今のはたまたまだろ」
三浦が眉を寄せる。
「島中」
「いいじゃん、もう一本くらい」
亜衣が低い声で言う。
「女子の練習時間って言ったよね」
「だからすぐ終わるって」
島中は春樹を見た。
「大國、やろうぜ」
春樹は少しだけ黙った。
体育館の空気が張る。
なつきは、もうやめてほしいと思った。
でも、春樹の横顔を見た瞬間、言葉が出なかった。
春樹は怒っているようには見えない。
けれど、何かが静かに燃えている。
昨日、なつきにシュートを教えてくれた時とは違う。
図書室で本を選んでくれた時とも違う。
春樹の中に、知らない火がある。
「最後」
春樹は言った。
「これで終わり」
島中は笑った。
「いいよ」
その笑顔が、なつきには少し怖かった。
さっきよりも、体育館の空気は重い。
遊びの一対一ではなくなっている。
でも、もう始まってしまう。
紅秋が静かに二人を見る。
三浦は息を飲む。
田辺は島中を見て、何か言いたそうにしている。
亜衣は腕を組み、苛立ちを隠していない。
茜はなつきの隣で、静かに状況を見ていた。
なつきはただ、春樹を見つめた。
次の一本。
それが終われば、練習に戻れる。
そう思いたかった。
でも、胸の奥には小さな不安が残っていた。
島中の目が、さっきより危うく見えたから。
紅秋が口を開く。
「始め」
その声と同時に、島中が動いた。
紅秋の「始め」が体育館に落ちる。
その瞬間だった。
島中はさっきまでとは明らかに違う勢いで踏み込んだ。
ボールを低くつく。
右。
左。
再び右。
最初の一本目より速い。
いや、速さそのものではない。
焦りが乗っている。
力が入っている。
勝ちたいというより、負けたくない。
そんな空気だった。
「おおっ!」
三浦が思わず声を上げる。
島中は強引に春樹の横を抜こうとする。
肩を入れる。
体をぶつける。
体育館シューズが床を強く擦った。
だが。
春樹は動じない。
大きく下がらない。
慌てない。
島中の重心だけを見ているようだった。
なつきは息を飲む。
春樹の目が違う。
怒っているわけではない。
でも、静かだ。
いつもより静かだった。
島中がもう一度切り返す。
春樹が一歩だけ動く。
前に入る。
島中の道が消える。
「っ!」
島中の顔が歪む。
そのまま無理やりシュートへ行こうとした。
ボールが少し流れる。
春樹の手が伸びた。
ぱしっ。
綺麗な音。
ボールが奪われた。
「うおっ!?」
三浦が叫ぶ。
体育館がどよめいた。
「取った!」
「今の取れるのかよ!」
「大國やばっ!」
女子たちの声も混ざる。
春樹はそのままドリブル。
急がない。
慌てない。
ゆっくりリングへ向かう。
島中が追う。
追い付こうとする。
だが。
春樹は一度だけボールを切り返した。
島中の足が止まる。
そのままレイアップ。
ぱさり。
ネットが揺れた。
静かな音だった。
でも、その音は島中の表情を大きく変えた。
周囲がざわつく。
「二本目も大國だ」
「島中、全然抜けねぇじゃん」
「春樹うま……」
三浦は完全に興奮していた。
「何あれ!?」
「知らん!」
「田辺!」
「俺に聞くな!」
田辺まで驚いている。
紅秋は静かに腕を組んでいた。
「予想通り」
「板倉、冷静だな!」
「大國くんは元々上手い」
島中は何も言わなかった。
ボールを拾う。
そして。
もう一度ドリブルを始めた。
紅秋が眉を寄せる。
「終わり」
「まだだろ」
島中が言う。
その声には苛立ちが混じっていた。
周囲も気づいている。
空気が少し危ない。
なつきは不安になった。
もう終わればいいのに。
そう思う。
でも島中は止まらない。
「大國」
島中が言う。
「もう一本」
春樹は少しだけ黙った。
それから。
「最後」
とだけ答えた。
その声は静かだった。
けれど、なつきには分かった。
春樹も少し怒っている。
怒鳴らないだけだ。
きっと。
紅秋が小さく息を吐いた。
「本当に最後」
「分かってる」
島中が答える。
そして。
三本目が始まった。
島中は最初から突っ込んだ。
無理やり。
力任せに。
ドリブルも荒い。
肩も入る。
春樹は冷静に対応する。
一歩。
二歩。
島中の進路を塞ぐ。
その時だった。
島中の足が大きく動いた。
不自然なほど。
なつきの目にはそう見えた。
春樹を追い抜こうとしたのではない。
ボールを取りに行ったのでもない。
足が。
春樹の足元へ入った。
「あっ」
誰かが声を上げた。
次の瞬間。
春樹の体が崩れた。
ガッ。
鈍い音。
体育館の空気が止まる。
春樹が床へ倒れた。
膝が強く床を擦る。
ボールが転がる。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
誰も声を出せなかった。
「……は?」
三浦だった。
次の瞬間。
「おい!」
体育館に響く。
なつきの心臓が跳ねる。
春樹。
春樹が倒れている。
床に手をつきながら起き上がろうとしている。
膝。
ジャージの下。
擦れている。
赤い。
血だ。
「大國くん!」
なつきが思わず声を上げる。
茜も前へ出た。
亜衣は完全に顔色を変えている。
「今の何?」
低い声だった。
なつきは初めて聞いたかもしれない。
亜衣が本気で怒る声。
「今の何?」
もう一度言った。
島中を見る。
真っ直ぐ。
逃がさないように。
島中は目を逸らした。
「いや、足滑っただけだろ」
「嘘でしょ」
亜衣の声が冷たい。
「見てたから」
「伊藤」
「見てたから」
体育館が静まり返る。
誰も笑わない。
誰も茶化さない。
田辺が島中を見る。
そして。
「島中」
と言った。
それだけで十分だった。
田辺の顔にも呆れが出ている。
「それはねぇだろ」
その言葉に。
島中の表情がさらに固くなった。
紅秋が春樹のところへ行く。
「立てる?」
「うん」
春樹は答えた。
痛そうだった。
でも声は変わらない。
立ち上がる。
少しだけ右足を気にした。
なつきの胸が締め付けられる。
「大丈夫?」
思わず聞く。
春樹はなつきを見た。
「大丈夫」
短い。
でも。
完全に平気ではない。
それは分かった。
三浦が近寄る。
「全然大丈夫じゃねぇだろ!」
「歩ける」
「そういう問題じゃねぇ!」
珍しく本気で怒っていた。
島中へ向く。
「今のはねぇわ」
「だから滑ったって」
「無理あるだろ!」
空気が悪くなる。
紅秋が静かに言う。
「もう終わり」
だが。
春樹がボールを拾った。
全員がそちらを見る。
「春樹?」
三浦が言う。
春樹はボールを持ったまま島中を見る。
島中も見る。
目が合う。
沈黙。
数秒。
長かった。
なつきは息を飲む。
怒るのだろうか。
言い返すのだろうか。
でも。
春樹は何も言わなかった。
ただ。
ボールを床についた。
ぼん。
低い音。
「最後」
そう言った。
島中が笑う。
少しだけ。
勝ったと思った顔だった。
だが。
その表情はすぐ消える。
春樹が動いた。
速い。
今までより。
明らかに。
島中が反応する。
追う。
追い付けない。
切り返し。
一歩。
二歩。
島中の重心が完全に置いていかれる。
「うわっ!」
三浦が叫ぶ。
田辺も目を見開く。
春樹は止まらない。
リングへ向かう。
レイアップ。
入る。
ぱさり。
そして。
戻る。
またボールを持つ。
もう一度。
抜く。
また抜く。
今度はフェイントだけで島中を動かした。
完全に読んでいる。
完全に。
島中の動きが。
見えている。
周囲がざわめく。
「やばい」
「大國やばい」
「何だあれ」
「島中、何もできてない」
田辺ですら言葉を失っていた。
春樹は何も言わない。
笑わない。
怒鳴らない。
ただ。
圧倒する。
島中が一番自信を持っている運動で。
完膚なきまでに。
そして最後。
シュートが決まった瞬間。
春樹はボールを拾った。
静かに。
本当に静かに。
「終わり」
と言った。
体育館は完全に静まり返っていた。
島中は何も言えない。
言葉が出ない。
プライドだけが床に転がっているようだった。
なつきは。
ただ春樹を見ていた。
怒鳴らなかった。
殴らなかった。
でも。
誰よりも強く。
やり返していた。
その姿が。
どうしようもなく格好良かった。
体育館の空気が、まだ戻らない。
春樹の「終わり」という言葉が落ちてから数秒。
誰もすぐには動けなかった。
それほど圧倒的だった。
誰もが見ていた。
島中が春樹を転ばせたこと。
春樹が何も言わずに立ち上がったこと。
そして。
その後のプレーで、完全に勝負を終わらせたことを。
ボールが床に転がる。
ころころと音を立てて。
誰も拾わない。
島中は動かなかった。
顔が真っ赤になっている。
悔しい。
恥ずかしい。
認めたくない。
そんな感情が全部見えていた。
三浦が先に動いた。
「春樹!」
駆け寄る。
「足!」
「平気」
「平気じゃねぇ!」
即座に否定。
春樹は少し困った顔をした。
「歩ける」
「だからそういう問題じゃねぇって!」
田辺も近づいてくる。
春樹の膝を見る。
ジャージが擦れている。
赤い。
消毒しなければ駄目なレベルだった。
「大國」
「うん」
「保健室」
「大丈夫」
「いや行け」
珍しく田辺が強かった。
さらに。
紅秋も来る。
「行く」
「板倉まで」
「行く」
有無を言わせない声だった。
春樹が少しだけ諦めたように息を吐く。
「分かった」
なつきは少しほっとした。
無理をすると思ったから。
春樹なら。
これくらい平気だと言って練習を続けそうだったから。
亜衣はまだ怒っていた。
完全に。
島中の方を見る。
「最低」
ぽつり。
でも十分聞こえた。
島中が顔を上げる。
「は?」
「最低って言った」
体育館がまた静かになる。
亜衣は一歩も引かない。
「勝負で負けたから足引っかけるとかダサすぎ」
「違ぇって」
「見てたから」
「伊藤」
「見てたから」
同じ言葉。
でもさっきより冷たい。
島中は言い返せない。
田辺ですら味方しない。
三浦も怒っている。
紅秋も無言。
周囲の視線も痛い。
完全に孤立していた。
茜が静かに亜衣の肩を押した。
「亜衣」
「でも」
「今は大國くん」
その言葉で。
亜衣はぐっと飲み込んだ。
悔しそうだった。
でも。
春樹の方を見た。
「保健室ちゃんと行ってよ」
「行く」
「絶対」
「うん」
短い返事。
それだけなのに少し安心する。
紅秋が春樹の横へ立つ。
「行こう」
「一人で行ける」
「信用してない」
「ひどい」
「事実」
三浦が即座に頷いた。
「事実」
田辺も頷く。
「事実」
三連続だった。
春樹は少しだけ眉を寄せる。
なつきはそんなやり取りに少しだけ笑いそうになった。
でも。
やっぱり心配だった。
春樹が歩き出す。
少しだけ。
本当に少しだけ。
右足を気にしていた。
それが見えた瞬間。
胸が締め付けられる。
大丈夫じゃない。
絶対に。
なつきは茜を見る。
茜も同じことを考えていたらしい。
小さく頷いた。
「行く?」
茜が聞く。
「うん」
なつきは即答した。
亜衣も言う。
「私も」
三人は保健室へ向かった。
廊下には夕方の光が差し込んでいる。
体育館の熱気から離れると、少しだけ涼しい。
でも。
なつきの胸は落ち着かなかった。
保健室の前。
扉は少しだけ開いている。
中から先生の声が聞こえた。
「擦り傷ね」
「はい」
「はいじゃない」
先生がため息を吐く。
「それと軽い捻挫」
なつきの胸が跳ねた。
軽い。
でも。
捻挫。
「今日は無理しないこと」
「分かりました」
「球技大会前なんでしょ?」
「はい」
「余計に」
先生の声が聞こえる。
なつきたちはそっと中を覗いた。
春樹が椅子に座っている。
膝は消毒中。
足首には湿布。
紅秋が隣で腕を組んでいた。
完全に監視役だった。
「入っていい?」
亜衣が聞く。
先生が振り返る。
「友達?」
「はい」
「騒がなければ」
三人は中へ入った。
なつきの視線は真っ先に春樹へ向く。
「大國くん」
「横田さん」
いつも通り。
でも少し安心した。
普通に喋っている。
顔色も悪くない。
「大丈夫?」
なつきが聞く。
「大丈夫」
「さっきも聞いた」
亜衣が言う。
「信用ない」
「みんなそう言う」
「当たり前」
紅秋まで頷いた。
なつきは少し笑う。
でも。
やっぱり湿布を見ると不安になる。
「痛い?」
「少し」
春樹は正直に答えた。
なつきの胸がまた痛くなる。
少しでも。
痛いのは痛い。
「ごめん」
思わず言ってしまった。
春樹が首を傾げる。
「何が?」
「応援してたから」
「関係ない」
即答だった。
優しい。
だから余計に胸が苦しい。
その時だった。
保健室の扉が開いた。
「春樹」
聞き慣れた声。
なつきが振り向く。
篠崎美優だった。
その後ろには蓮もいる。
なつきは少し驚いた。
蓮はともかく。
美優まで来るとは思っていなかった。
「聞いた」
美優はそう言いながら近づいてくる。
表情は真剣だった。
「蓮から?」
春樹が聞く。
「うん」
蓮が肩を竦める。
「三浦から来た」
「早い」
「三浦だから」
全員が少し納得した。
確かに三浦なら連絡する。
しかも即。
美優は春樹の前で立ち止まった。
そして。
一言目。
「やり返した?」
だった。
なつきは思わず目を瞬く。
茜も少し驚いた顔をしている。
春樹は。
少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
「やり返した」
その笑顔に。
美優も少し笑う。
「ならよかった」
安心したような顔だった。
なつきは意味が分からない。
怪我したのに。
まずそこなの?
そう思った。
すると蓮が苦笑した。
「だろうな」
「何?」
亜衣が聞く。
蓮は頭を掻いた。
「春樹さ」
少し昔を思い出すような顔。
「普段は全然怒らないんだけど」
「うん」
「本気で腹立つと厄介なんだよ」
なつきたちは黙って聞く。
蓮は続けた。
「相手が一番自信あるところで勝つまで終わらない」
保健室が静かになる。
春樹は少しだけ嫌そうな顔をした。
「言い方」
「事実だろ」
蓮が笑う。
美優も頷く。
「事実」
「美優まで」
「だって本当だし」
そして。
蓮はさらに言った。
「しかも本人は普通の顔してやるからタチ悪い」
「ひどい」
「昔からじゃん」
美優が言う。
「小学校の時もそうだった」
「何が?」
なつきが聞く。
美優が少し考える。
それから。
「春樹に喧嘩売った子がいたの」
「喧嘩?」
「うん」
「それで?」
蓮が笑う。
「次の運動会で全部勝ってた」
なつきは目を丸くした。
「全部?」
「全部」
「嘘」
「本当」
美優が即答する。
「徒競走も」
「リレーも」
「障害物も」
蓮が指を折る。
「相手泣きそうになってた」
「泣いてない」
春樹が言う。
美優と蓮が同時に答える。
「泣いてた」
完全に息が合っていた。
保健室に小さな笑いが広がる。
なつきもつられて笑ってしまう。
でも。
同時に思う。
知らない。
そんな春樹。
知らなかった。
美優と蓮は知っている。
小学校から。
中学校から。
ずっと。
なつきが知らない春樹を。
たくさん。
その事実が少しだけ胸を刺した。
羨ましい。
ただ、それだけだった。
美優はそこでようやく春樹の膝を見る。
笑顔が消える。
「怪我は?」
「擦り傷と軽い捻挫」
「軽くないじゃん」
即答だった。
春樹が少しだけ困った顔をする。
「歩ける」
「そういう問題じゃない」
「みんな同じこと言う」
「みんな正しいから」
美優はため息を吐いた。
でも。
その顔は本当に心配そうだった。
なつきは少しだけ安心した。
美優はちゃんと心配している。
当然だ。
幼馴染なのだから。
その後。
先生から何度も念押しされ。
ようやく解散になった。
校舎の外は夕焼けだった。
空が赤い。
少しだけ風も涼しい。
春樹。
蓮。
美優。
三人は自然に並ぶ。
誰かが言ったわけじゃない。
でも自然だった。
「帰るか」
蓮が言う。
「うん」
春樹が答える。
「私も帰る」
美優が言う。
当たり前みたいに。
いつもみたいに。
なつきは少し離れた場所から、その三人を見ていた。
特別じゃない。
でも。
自然だった。
長い時間が作った距離。
羨ましいと思う。
少しだけ。
本当に少しだけ。
胸がちくっとした。
すると隣で茜が言う。
「気になる?」
なつきは少し笑った。
「うん」
「正直ね」
「だって羨ましいもん」
茜は何も否定しなかった。
ただ小さく頷く。
それで十分だった。
前を歩く三人。
蓮が何か言う。
美優が笑う。
春樹も少しだけ笑った。
その横顔を見ながら。
なつきは胸の中で小さく拳を握った。
羨ましい。
でも。
負けたくない。
春樹のことを。
もっと知りたい。
もっと近づきたい。
そんな気持ちが、夕焼けの中で静かに大きくなっていた。
球技大会はまだ始まっていない。
けれど。
なつきの恋は、少しずつ前へ進んでいた。




