表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/78

第35話 リングまで届かない距離


 球技大会の種目が決まってから、二年十一組の空気は少し変わった。


 テスト返却のざわめきが残っていた教室に、今度は別の熱が入り込んできた。


 男子バスケ。


 男子フットサル。


 女子バスケ。


 女子テニス。


 黒板に書かれた種目表はその日のうちに消されたけれど、名前がそこに並んだ感覚は、なつきの中にまだ残っていた。


 横田なつき。


 女子バスケ。


 最初に見た時は、少しだけ現実味がなかった。


 けれど翌日になると、逃げられない現実としてじわじわ近づいてくる。


 昼休み。


 教室のあちこちでは、球技大会の話が続いていた。


「フットサル、相手どこだろ」


「スポーツ特待と当たったら終わる」


「いや、島中いればワンチャン」


「バスケも蓮のクラス強いらしいぞ」


「特進って運動できる奴もいるのずるくね?」


 男子たちの声が飛び交う。


 島中良はフットサル組の中心で、すでに勝つ気満々の顔をしていた。


 椅子に座りながらも足を揺らし、スマホでフットサルの動画らしきものを見ている。


「まあ、俺が点取ればいいだろ」


 そんな言葉が聞こえた。


 周りの男子が笑う。


「出た」


「頼むわ、島中」


「横田に見せ場作らないとな」


 その名前が出た瞬間、なつきは肩を少しだけ固くした。


 聞こえなかったふりをする。


 机の上に置いた昼休み用の小さなタオルを、指先で無意味に畳み直した。


 亜衣が隣で目を細める。


「今の、だる」


「亜衣ちゃん」


「聞こえたし」


 茜も静かに弁当箱を片付けながら言う。


「今日は相手にしなくていいわ」


「うん」


「それより」


 亜衣がにっと笑った。


「女子バスケ、今日練習するよ」


 なつきの手が止まった。


「今日?」


「昼休み、体育館空いてるって聞いた」


「え、もう?」


「もう。球技大会までそんなに時間ないし」


「心の準備が」


「それは体育館でして」


「無理だよ」


 茜が水筒をしまいながら言った。


「短時間でも、ボールに触っておいた方がいいわ」


「茜ちゃんまで」


「なつきは慣れるところから」


「慣れるところから……」


 その言い方は優しいようで、現実的だった。


 確かに、なつきはバスケに慣れていない。


 ボールを持つことも、ドリブルも、シュートも。


 全部どこかぎこちない。


 体育の授業で男子バスケを見ていた時、春樹の動きに見惚れて、ボールを顔面に受けたことがある。


 あれは本当に恥ずかしかった。


 しかも春樹に見られていた。


 思い出しただけで頬が熱くなる。


「なつき」


 亜衣が顔を覗き込む。


「今、顔面ボール事件思い出した?」


「思い出してない」


「嘘」


「思い出した」


「素直」


 亜衣は笑った。


 茜は真面目な顔で言う。


「今回はボールを見る」


「はい」


「大國くんを見るのは、自分の手元にボールがない時」


「茜ちゃん!」


 またしても声が大きくなり、近くの女子が少し笑った。


 なつきは顔を伏せる。


 亜衣は肩を震わせている。


「茜、最近容赦ない」


「大事なことだから」


「確かに」


「亜衣ちゃんまで」


 そんなやり取りをしながら、三人は体育館へ向かった。


 昼休みの体育館は、思ったより賑やかだった。


 球技大会前だからか、他のクラスの生徒も練習に来ている。


 バスケットボールが床を跳ねる音。


 体育館シューズがきゅっと鳴る音。


 高い声。


 笑い声。


 リングに当たって弾かれるボールの音。


 少し暑い。


 窓が開いていても、人が動くと体育館の空気はすぐに熱を帯びる。


 なつきは入り口で一瞬立ち止まった。


 体育館の匂い。


 ワックスの匂い。


 ボールのゴムの匂い。


 遠くから聞こえる歓声。


 それらが一気に押し寄せてきて、胸が少しだけ高鳴る。


 怖い。


 でも、少し楽しみでもある。


 亜衣がボール置き場からボールを一つ持ってきた。


「はい、なつき」


 いきなり渡される。


「わっ」


 なつきは慌てて両手で受け取った。


 思っていたより重い。


 両手に収まる丸い重さ。


 これをドリブルして、パスして、シュートする。


 改めて考えると、できる気がしない。


「まずドリブルね」


 茜が言う。


「その場でつくところから」


「うん」


 なつきはボールを床へ落とした。


 ぼん、と音が鳴る。


 戻ってきたボールを手で押す。


 また床へ。


 ぼん。


 ぼん。


 少しずつリズムを作ろうとする。


 けれど、五回目でボールが横へ逃げた。


「あっ」


 ボールはころころと体育館の床を転がる。


 亜衣がすぐに追いかけて拾う。


「なつきー」


「ごめん」


「手首硬いかも」


「手首?」


「押しつけすぎ。もっとぽんぽんって」


「ぽんぽん……」


 言葉は簡単だ。


 でも、体がついてこない。


 なつきはもう一度挑戦する。


 ぼん。


 ぼん。


 ぼん。


 今度は少し続いた。


「お、いいじゃん」


 亜衣が言う。


「本当?」


「さっきよりは」


「さっきよりは」


 なつきは苦笑した。


 茜が隣で言う。


「目線が下がりすぎ。試合中は前も見ないと」


「今はボールだけで精一杯」


「まずはそれでいいけど、慣れたら顔を上げる」


「はい」


「あと、止まる時にボールを持ちすぎない」


「難しい……」


「難しいわね」


 茜が真顔で頷く。


 その素直さに、なつきは少し笑った。


 茜も完璧ではない。


 でも、できないことをできるように整理するのが上手い。


 勉強の時と同じだった。


 バスケでも、茜は茜だ。


 しばらく三人でドリブルとパスの練習をした。


 亜衣は思ったより動ける。


 軽く走りながらボールを受け、すぐに返す。


 体育会系というほどではないが、体の使い方が柔らかい。


 茜は派手さはない。


 でも、正確だった。


 パスがまっすぐ来る。


 止まる時も落ち着いている。


 なつきだけが、ボールに振り回されていた。


「なつき、こっち!」


 亜衣が手を上げる。


「うん!」


 なつきはパスを出す。


 ボールは亜衣の右側へ大きくずれた。


 亜衣が慌てて追いかける。


「なつきー!」


「ごめん!」


「でも勢いはある!」


「褒めてる?」


「半分!」


 茜が次に受け取る。


「なつき、体の向きを相手へ」


「相手へ」


「手だけで投げない」


「はい」


 また投げる。


 今度は少しまっすぐ飛んだ。


 茜が受け取る。


「今のは良い」


「本当?」


「うん」


 たったそれだけで、少し嬉しい。


 なつきは息を吐いた。


 汗が額に滲む。


 昼休みの短い時間なのに、思ったより体を使う。


 でも、少しずつボールが怖くなくなってきた。


 完璧ではない。


 下手だ。


 でも、触っているうちに、少しだけ距離が縮まる。


 テストの時、簿記の問題文と距離が縮まったように。


 ボールとも、少しだけ仲良くなれるのかもしれない。


 そう思った時だった。


 体育館の反対側から、男子たちの声が聞こえた。


「バスケ組、こっち使えるって!」


 三浦の声だった。


 なつきは反射的にそちらを見てしまう。


 男子バスケ組が体育館へ入ってきた。


 三浦。


 田辺。


 紅秋。


 そして春樹。


 春樹はジャージ姿で、手にボールを持っていた。


 制服姿でもなく、図書室でもなく、教室でもない。


 体育館の光の中にいる春樹。


 それだけで、なつきの胸が跳ねる。


 春樹がボールを床につく。


 低く、安定したドリブル。


 一回、一回が静かで、無駄がない。


 さっき自分がボールに逃げられていたのとは全然違う。


 春樹は三浦へパスを出す。


 三浦が受け取って走る。


 田辺がゴール下で構える。


 紅秋が位置を見て、短く指示を出す。


 男子バスケの練習が始まった。


 なつきの視線は、自然と春樹を追った。


 走る。


 止まる。


 パスを受ける。


 シュートを打つ。


 ボールがリングへ吸い込まれる。


 派手に喜ばない。


 春樹はただ次の動きへ移る。


 その全部が、なつきには眩しかった。


「なつき」


 亜衣の声。


「うん?」


「ボール」


「え?」


 その瞬間、亜衣からのパスが胸元へ来ていた。


 なつきは慌てて受け取る。


 少し弾いたが、何とか落とさなかった。


「危なっ」


 亜衣が笑う。


「今、大國くん見てたでしょ」


「見てない」


「見てた」


「ちょっとだけ」


「素直」


 茜が横から言う。


「なつき、ボール」


「はい」


「大國くんを見るのは休憩中」


「はい……」


 顔が熱い。


 でも、春樹の動きが気になる。


 どうしてあんなに自然に動けるのだろう。


 ボールが手から離れても、次にどこへ行くか分かっているみたいだった。


 周りが見えている。


 バスケのコートの中でも、春樹は春樹だった。


 図書室で本の場所を自然に把握している時と同じ。


 簿記の問題文のどこを見るか分かっている時と同じ。


 必要なものを見ている。


 必要な場所へ動いている。


 それが、すごく春樹らしかった。


「横田ー!」


 今度は三浦の声が飛んできた。


「女子バスケ、どう?」


「大変!」


 なつきが答えると、三浦が笑う。


「春樹に教えてもらえ!」


「三浦くん!」


 また顔が熱くなる。


 春樹がちらりとこちらを見た。


 目が合った気がする。


 なつきは慌てて視線を逸らした。


 亜衣が肩を震わせている。


「なつき、顔」


「言わないで」


「赤い」


「言わないで」


「大國くんも見てたよ」


「亜衣ちゃん!」


 茜がボールを持ったまま冷静に言う。


「練習に戻るわよ」


「はい」


 女子組の練習は続いた。


 今度はシュート。


 ゴール下から近い距離。


 それでも、なつきには遠く見える。


 リングが高い。


 ボールが重い。


 届く気がしない。


 亜衣が先に打つ。


 ボールはリングに当たり、跳ねて落ちた。


「あー惜しい」


 次に茜。


 少し硬いフォームだが、ボールはリングに当たる。


 入らないが、ちゃんと届いている。


 そしてなつき。


「いきます」


「宣言しなくていい」


 亜衣が笑う。


 なつきはボールを構えた。


 膝を曲げる。


 腕を伸ばす。


 えい、と投げる。


 ボールはリングの手前で落ちた。


 届かなかった。


「あ……」


 三人の間に少しだけ沈黙。


 亜衣がすぐに言う。


「最初はそんなもん!」


「今の、全然届かなかった」


「だから練習するんでしょ」


 茜も頷く。


「腕だけで投げてる。足を使う必要があるわ」


「足?」


「たぶん」


「たぶん?」


「私も詳しくはない」


 そこで、体育館の反対側から春樹の声がした。


「足」


 三人が振り向く。


 春樹がボールを持って近づいてきていた。


 なつきの心臓が、いきなり強く鳴る。


「大國くん」


「腕だけだと届きにくい」


 春樹は普通の顔で言った。


 まるで、簿記の問題文を指摘する時と同じように。


 なつきはボールを抱えたまま固まる。


「今、見てたの?」


「少し」


「……見られてた」


「シュート?」


「うん」


「惜しかった」


「届いてなかったよ」


「方向は悪くない」


 その言葉に、胸が跳ねた。


 届いていない。


 失敗した。


 そう思っていたのに、春樹は方向を見ていた。


 悪くないところを見つけてくれた。


 勉強の時と同じだ。


 間違いを責めるのではなく、できているところを見てくれる。


 亜衣が隣でにやにやしている。


 茜は少しだけ目を細めている。


「春樹ー!」


 三浦が反対側から呼ぶ。


「こっちも練習中!」


「すぐ戻る」


 春樹は短く答えた。


 それから、なつきへ視線を戻す。


「放課後、少しやる?」


 昼休みに言われるとは思っていなかった。


 なつきは一瞬、言葉を失う。


「え」


「シュート」


「いいの?」


「うん」


「男子練習は?」


「今日、放課後は少しだけ」


「でも……」


 亜衣がすぐに口を挟んだ。


「なつき、教えてもらいなよ」


「亜衣ちゃん」


 茜も言う。


「短時間でも、フォームを見てもらった方がいいわ」


「茜ちゃんまで」


「私たちは先に片付けるから」


「え、もう離脱の準備?」


「合理的に」


 亜衣が笑う。


「私は飲み物買う用事あるし」


「今作ったでしょ」


「作った」


 なつきは二人を見た。


 完全に背中を押されている。


 逃げ道がない。


 でも、逃げたいわけではなかった。


 むしろ、嬉しい。


 嬉しすぎて困っているだけだ。


「じゃあ……お願いします」


 なつきが小さく言うと、春樹は頷いた。


「うん」


 その「うん」だけで、昼休みの体育館が少しだけ眩しく見えた。


 放課後。


 授業が終わって、教室の空気がゆるむ。


 部活へ向かう生徒。


 帰る準備をする生徒。


 球技大会の話を続ける生徒。


 なつきは鞄を机の横にかけたまま、少し落ち着かなかった。


 放課後、春樹にシュートを教えてもらう。


 たったそれだけのこと。


 でも、頭の中では何度も繰り返してしまう。


 体育館。


 ボール。


 春樹。


 教えてもらう。


 近いかもしれない。


 いや、バスケだから近いとは限らない。


 でも、もしかしたら。


「なつき」


 亜衣が声をかける。


「顔が忙しい」


「忙しい?」


「にやけそうになって、緊張して、またにやけそうになってる」


「そんな顔してる?」


「してる」


 茜も頷く。


「してるわね」


「二人とも……」


「大丈夫」


 亜衣が親指を立てる。


「シュート決めてきな」


「決められる気がしない」


「一回くらい入るって」


 茜が静かに言った。


「入らなくても、練習になる」


「現実的」


「それに」


 茜は少しだけ声を柔らかくした。


「教えてもらうだけじゃなくて、ちゃんと覚えてくるのよ」


「うん」


「見惚れるだけではだめ」


「……はい」


 その注意が本当に必要な自分が少し恥ずかしい。


 でも、否定できない。


 なつきは体育館へ向かった。


 放課後の体育館は、昼休みより少し落ち着いていた。


 部活が始まる前の短い時間。


 まだ全体使用にはなっておらず、球技大会の練習に使えるスペースが少し残っている。


 窓から夕方の光が差し込んでいた。


 床に長く伸びる光。


 遠くで聞こえる運動部の準備の声。


 ボールが床に弾む音。


 昼休みの熱気とは違う、少し静かな体育館。


 なつきが入口で立っていると、春樹がボールを持ってやってきた。


「横田さん」


「はい」


「やる?」


「お願いします」


 声が固くなった。


 春樹は気にした様子もなく、ゴール下へ歩く。


 なつきもついていく。


 体育館の隅。


 他の生徒たちから少し離れた場所。


 そこに立つだけで、心臓がうるさかった。


 春樹はボールをなつきへ渡した。


「まず、さっきと同じで」


「うん」


 なつきはゴールを見上げる。


 リングはやっぱり高い。


 昼休みに届かなかった距離。


 ボールを構える。


 膝を少し曲げる。


 腕を伸ばす。


 投げる。


 ボールはリングの手前で落ちた。


「……」


「腕だけ」


 春樹が言う。


「やっぱり」


「うん」


「どうすればいい?」


 春樹はボールを拾って戻ってきた。


「足を使う」


「足」


「膝を曲げて、伸びる時にボールを上げる」


「膝を曲げて、伸びる」


「腕で投げるより、体全体で上に送る感じ」


「体全体……」


 春樹はボールを持ち、ゴールの前に立った。


「見てて」


「はい」


 なつきは思わず背筋を伸ばした。


 春樹が軽く膝を曲げる。


 そのまま、無駄のない動きでボールを上げる。


 手首が柔らかく返る。


 ボールは静かな弧を描き、リングに触れることなくネットを通った。


 ぱさり。


 軽い音。


 なつきは見惚れていた。


 あまりにも綺麗だった。


 昼休みの男子練習でも見たはずなのに、こうして近くで見るとまるで違う。


 膝。


 腕。


 指先。


 ボールの軌道。


 全部が自然で、簡単そうに見える。


 でも、実際にやると難しい。


「見てた?」


 春樹が聞いた。


「見てた」


「覚えてた?」


「え」


「動き」


「……見惚れてた」


 言った瞬間、なつきは自分の口を押さえた。


 何を言っているのだろう。


 春樹の前で。


 見惚れてた、なんて。


 春樹は一瞬だけ目を瞬かせた。


 それから、少しだけ困ったように言う。


「じゃあ、もう一回」


「ご、ごめん」


「大丈夫」


 春樹はもう一度シュートを打った。


 今度は、なつきも必死に見る。


 膝。


 伸びる。


 腕。


 手首。


 ボール。


 リング。


 全部を追う。


 また綺麗に入った。


「今の、分かった?」


「たぶん」


「やってみて」


「はい」


 なつきはボールを受け取った。


 春樹が隣に立つ。


 近い。


 近い気がする。


 でも、練習中だ。


 集中しないと。


 なつきは膝を曲げた。


「もう少し」


 春樹の声。


 なつきは膝をもう少し曲げる。


「ボール、顔の前じゃなくて少し上」


「こう?」


「うん」


「手首?」


「最後に軽く」


「軽く……」


 言葉を一つずつ確認する。


 簿記の時みたいだった。


 問題文を最後まで読む。


 今は、動きを一つずつ確認する。


 膝。


 腕。


 手首。


 リング。


「打って」


 春樹が言う。


 なつきは息を吸った。


 膝を伸ばす。


 ボールを上げる。


 手首を軽く返す。


 ボールはさっきより高く上がった。


 リングには当たらなかった。


 でも、手前で落ちるのではなく、リングの横を通って落ちた。


「あっ」


「今の方がいい」


 春樹が言った。


「入ってないよ」


「届いた」


 その言葉に、なつきの胸が跳ねる。


 届いた。


 さっきまで届かなかったリングへ。


 今は、届いた。


 入ってはいない。


 でも、届いた。


「もう一回」


 なつきが言う。


 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。


 春樹は頷いた。


「うん」


 もう一回。


 また外れる。


 でもリングに当たった。


 またもう一回。


 今度は強すぎて奥に当たる。


 春樹はそのたびに短く言う。


「足はいい」


「手首が少し強い」


「今のは方向」


「焦らない」


「惜しい」


 その言葉が、ひとつずつ背中を押してくれる。


 なつきは汗をかいた。


 息も少し上がる。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 春樹がボールを拾ってくれる。


 なつきが構える。


 春樹が少しだけ言葉をくれる。


 また打つ。


 その繰り返し。


 たったそれだけの時間が、すごく特別だった。


 体育館の外の夕方の光が、少しずつ色を変えていく。


 遠くで部活の声が大きくなる。


 そろそろ場所を空けなければいけない時間。


 それでも、なつきはあと一回だけ打ちたかった。


「最後、もう一回いい?」


「うん」


 春樹がボールを渡す。


 なつきは受け取った。


 手のひらにボールの感触。


 膝を曲げる。


 息を吸う。


 春樹の声を思い出す。


 腕じゃなくて足。


 体全体で上へ。


 焦らない。


 なつきはシュートを打った。


 ボールが弧を描く。


 リングに当たる。


 一度跳ねる。


 もう一度、リングの内側に当たる。


 そして。


 ネットを通った。


 ぱさり。


 音がした。


 なつきは固まった。


「……入った」


 自分の声が小さく出る。


「入った」


 春樹が言った。


 なつきはゆっくり春樹を見る。


「今、入ったよね?」


「うん」


「本当に?」


「本当に」


 嬉しさが、一気に込み上げてきた。


 たった一本。


 練習中の、誰も見ていないような一本。


 試合でもない。


 点数にもならない。


 でも、なつきには大きかった。


 届かなかったリングに、届いた。


 そして、入った。


「やった……」


 なつきは小さく拳を握った。


 春樹が少しだけ目元を緩める。


「今のいい」


 その一言で。


 なつきの胸は、さっきのシュートよりずっと高く跳ねた。


 今のいい。


 春樹が言った。


 簿記の時の「頑張ってたから」と同じくらい、胸に刺さる言葉だった。


 自分ができたことを、ちゃんと見ていてくれた。


 その瞬間を、春樹が一緒に見てくれた。


「ありがとう」


 なつきは言った。


 声が少し震えていた。


「大國くんのおかげ」


「横田さんが打ったから」


 まただ。


 春樹はいつもそう言う。


 教えたのは自分でも、やったのは相手だと返してくれる。


 なつきは、その優しさにまた胸がいっぱいになった。


「でも、教えてくれたから」


「うん」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 体育館の隅で、二人の間に短い沈黙が落ちた。


 気まずい沈黙ではなかった。


 ボールが床に転がる音。


 遠くの部活の声。


 夕方の光。


 少し汗ばんだ手。


 春樹の静かな表情。


 その全部が、なつきの中に残っていく。


 いつか、この一瞬を思い出す気がした。


 球技大会本番ではない。


 大歓声もない。


 勝敗もない。


 でも、春樹に教えてもらって、初めてシュートが入った放課後。


 それは、なつきにとって間違いなく特別だった。


「また練習する?」


 春樹が聞いた。


「え?」


「時間が合えば」


 なつきは、今度は迷わず頷いた。


「したい」


「じゃあ、また」


「うん」


 また。


 その約束が、胸の中で小さく光る。


 春樹はボールを片付けに行く。


 なつきはその背中を見つめながら、そっと自分の手を見た。


 さっき、ボールを投げた手。


 初めてシュートを決めた手。


 春樹に「今のいい」と言われた手。


 まだ少し震えている。


 嬉しさで。


 緊張で。


 きゅんとした何かで。


 体育館の入口の方を見ると、亜衣と茜がこちらを見ていた。


 いつの間に戻ってきたのか。


 亜衣は完全ににやけている。


 茜は少しだけ微笑んでいる。


 なつきは顔が熱くなる。


 亜衣が口だけで言った。


「入った?」


 なつきは小さく頷いた。


 亜衣が両手で小さく拍手する。


 茜も頷いた。


 なつきは、恥ずかしくて、嬉しくて、少し泣きそうになった。


 でも泣かなかった。


 代わりに、もう一度小さく拳を握る。


 球技大会まで、まだ時間はある。


 自分はまだ下手だ。


 ドリブルも危ない。


 パスもずれる。


 シュートだって、たった一本入っただけ。


 でも。


 最初の一本は入った。


 そして、その一本を春樹が見てくれた。


 それだけで、頑張れる気がした。


 なつきは体育館の床を見つめ、それからリングを見上げた。


 さっきまで遠かったリングが、ほんの少しだけ近く見えた。


 春樹との距離も。


 ほんの少しだけ。


 近くなった気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ