第35話 リングまで届かない距離
球技大会の種目が決まってから、二年十一組の空気は少し変わった。
テスト返却のざわめきが残っていた教室に、今度は別の熱が入り込んできた。
男子バスケ。
男子フットサル。
女子バスケ。
女子テニス。
黒板に書かれた種目表はその日のうちに消されたけれど、名前がそこに並んだ感覚は、なつきの中にまだ残っていた。
横田なつき。
女子バスケ。
最初に見た時は、少しだけ現実味がなかった。
けれど翌日になると、逃げられない現実としてじわじわ近づいてくる。
昼休み。
教室のあちこちでは、球技大会の話が続いていた。
「フットサル、相手どこだろ」
「スポーツ特待と当たったら終わる」
「いや、島中いればワンチャン」
「バスケも蓮のクラス強いらしいぞ」
「特進って運動できる奴もいるのずるくね?」
男子たちの声が飛び交う。
島中良はフットサル組の中心で、すでに勝つ気満々の顔をしていた。
椅子に座りながらも足を揺らし、スマホでフットサルの動画らしきものを見ている。
「まあ、俺が点取ればいいだろ」
そんな言葉が聞こえた。
周りの男子が笑う。
「出た」
「頼むわ、島中」
「横田に見せ場作らないとな」
その名前が出た瞬間、なつきは肩を少しだけ固くした。
聞こえなかったふりをする。
机の上に置いた昼休み用の小さなタオルを、指先で無意味に畳み直した。
亜衣が隣で目を細める。
「今の、だる」
「亜衣ちゃん」
「聞こえたし」
茜も静かに弁当箱を片付けながら言う。
「今日は相手にしなくていいわ」
「うん」
「それより」
亜衣がにっと笑った。
「女子バスケ、今日練習するよ」
なつきの手が止まった。
「今日?」
「昼休み、体育館空いてるって聞いた」
「え、もう?」
「もう。球技大会までそんなに時間ないし」
「心の準備が」
「それは体育館でして」
「無理だよ」
茜が水筒をしまいながら言った。
「短時間でも、ボールに触っておいた方がいいわ」
「茜ちゃんまで」
「なつきは慣れるところから」
「慣れるところから……」
その言い方は優しいようで、現実的だった。
確かに、なつきはバスケに慣れていない。
ボールを持つことも、ドリブルも、シュートも。
全部どこかぎこちない。
体育の授業で男子バスケを見ていた時、春樹の動きに見惚れて、ボールを顔面に受けたことがある。
あれは本当に恥ずかしかった。
しかも春樹に見られていた。
思い出しただけで頬が熱くなる。
「なつき」
亜衣が顔を覗き込む。
「今、顔面ボール事件思い出した?」
「思い出してない」
「嘘」
「思い出した」
「素直」
亜衣は笑った。
茜は真面目な顔で言う。
「今回はボールを見る」
「はい」
「大國くんを見るのは、自分の手元にボールがない時」
「茜ちゃん!」
またしても声が大きくなり、近くの女子が少し笑った。
なつきは顔を伏せる。
亜衣は肩を震わせている。
「茜、最近容赦ない」
「大事なことだから」
「確かに」
「亜衣ちゃんまで」
そんなやり取りをしながら、三人は体育館へ向かった。
昼休みの体育館は、思ったより賑やかだった。
球技大会前だからか、他のクラスの生徒も練習に来ている。
バスケットボールが床を跳ねる音。
体育館シューズがきゅっと鳴る音。
高い声。
笑い声。
リングに当たって弾かれるボールの音。
少し暑い。
窓が開いていても、人が動くと体育館の空気はすぐに熱を帯びる。
なつきは入り口で一瞬立ち止まった。
体育館の匂い。
ワックスの匂い。
ボールのゴムの匂い。
遠くから聞こえる歓声。
それらが一気に押し寄せてきて、胸が少しだけ高鳴る。
怖い。
でも、少し楽しみでもある。
亜衣がボール置き場からボールを一つ持ってきた。
「はい、なつき」
いきなり渡される。
「わっ」
なつきは慌てて両手で受け取った。
思っていたより重い。
両手に収まる丸い重さ。
これをドリブルして、パスして、シュートする。
改めて考えると、できる気がしない。
「まずドリブルね」
茜が言う。
「その場でつくところから」
「うん」
なつきはボールを床へ落とした。
ぼん、と音が鳴る。
戻ってきたボールを手で押す。
また床へ。
ぼん。
ぼん。
少しずつリズムを作ろうとする。
けれど、五回目でボールが横へ逃げた。
「あっ」
ボールはころころと体育館の床を転がる。
亜衣がすぐに追いかけて拾う。
「なつきー」
「ごめん」
「手首硬いかも」
「手首?」
「押しつけすぎ。もっとぽんぽんって」
「ぽんぽん……」
言葉は簡単だ。
でも、体がついてこない。
なつきはもう一度挑戦する。
ぼん。
ぼん。
ぼん。
今度は少し続いた。
「お、いいじゃん」
亜衣が言う。
「本当?」
「さっきよりは」
「さっきよりは」
なつきは苦笑した。
茜が隣で言う。
「目線が下がりすぎ。試合中は前も見ないと」
「今はボールだけで精一杯」
「まずはそれでいいけど、慣れたら顔を上げる」
「はい」
「あと、止まる時にボールを持ちすぎない」
「難しい……」
「難しいわね」
茜が真顔で頷く。
その素直さに、なつきは少し笑った。
茜も完璧ではない。
でも、できないことをできるように整理するのが上手い。
勉強の時と同じだった。
バスケでも、茜は茜だ。
しばらく三人でドリブルとパスの練習をした。
亜衣は思ったより動ける。
軽く走りながらボールを受け、すぐに返す。
体育会系というほどではないが、体の使い方が柔らかい。
茜は派手さはない。
でも、正確だった。
パスがまっすぐ来る。
止まる時も落ち着いている。
なつきだけが、ボールに振り回されていた。
「なつき、こっち!」
亜衣が手を上げる。
「うん!」
なつきはパスを出す。
ボールは亜衣の右側へ大きくずれた。
亜衣が慌てて追いかける。
「なつきー!」
「ごめん!」
「でも勢いはある!」
「褒めてる?」
「半分!」
茜が次に受け取る。
「なつき、体の向きを相手へ」
「相手へ」
「手だけで投げない」
「はい」
また投げる。
今度は少しまっすぐ飛んだ。
茜が受け取る。
「今のは良い」
「本当?」
「うん」
たったそれだけで、少し嬉しい。
なつきは息を吐いた。
汗が額に滲む。
昼休みの短い時間なのに、思ったより体を使う。
でも、少しずつボールが怖くなくなってきた。
完璧ではない。
下手だ。
でも、触っているうちに、少しだけ距離が縮まる。
テストの時、簿記の問題文と距離が縮まったように。
ボールとも、少しだけ仲良くなれるのかもしれない。
そう思った時だった。
体育館の反対側から、男子たちの声が聞こえた。
「バスケ組、こっち使えるって!」
三浦の声だった。
なつきは反射的にそちらを見てしまう。
男子バスケ組が体育館へ入ってきた。
三浦。
田辺。
紅秋。
そして春樹。
春樹はジャージ姿で、手にボールを持っていた。
制服姿でもなく、図書室でもなく、教室でもない。
体育館の光の中にいる春樹。
それだけで、なつきの胸が跳ねる。
春樹がボールを床につく。
低く、安定したドリブル。
一回、一回が静かで、無駄がない。
さっき自分がボールに逃げられていたのとは全然違う。
春樹は三浦へパスを出す。
三浦が受け取って走る。
田辺がゴール下で構える。
紅秋が位置を見て、短く指示を出す。
男子バスケの練習が始まった。
なつきの視線は、自然と春樹を追った。
走る。
止まる。
パスを受ける。
シュートを打つ。
ボールがリングへ吸い込まれる。
派手に喜ばない。
春樹はただ次の動きへ移る。
その全部が、なつきには眩しかった。
「なつき」
亜衣の声。
「うん?」
「ボール」
「え?」
その瞬間、亜衣からのパスが胸元へ来ていた。
なつきは慌てて受け取る。
少し弾いたが、何とか落とさなかった。
「危なっ」
亜衣が笑う。
「今、大國くん見てたでしょ」
「見てない」
「見てた」
「ちょっとだけ」
「素直」
茜が横から言う。
「なつき、ボール」
「はい」
「大國くんを見るのは休憩中」
「はい……」
顔が熱い。
でも、春樹の動きが気になる。
どうしてあんなに自然に動けるのだろう。
ボールが手から離れても、次にどこへ行くか分かっているみたいだった。
周りが見えている。
バスケのコートの中でも、春樹は春樹だった。
図書室で本の場所を自然に把握している時と同じ。
簿記の問題文のどこを見るか分かっている時と同じ。
必要なものを見ている。
必要な場所へ動いている。
それが、すごく春樹らしかった。
「横田ー!」
今度は三浦の声が飛んできた。
「女子バスケ、どう?」
「大変!」
なつきが答えると、三浦が笑う。
「春樹に教えてもらえ!」
「三浦くん!」
また顔が熱くなる。
春樹がちらりとこちらを見た。
目が合った気がする。
なつきは慌てて視線を逸らした。
亜衣が肩を震わせている。
「なつき、顔」
「言わないで」
「赤い」
「言わないで」
「大國くんも見てたよ」
「亜衣ちゃん!」
茜がボールを持ったまま冷静に言う。
「練習に戻るわよ」
「はい」
女子組の練習は続いた。
今度はシュート。
ゴール下から近い距離。
それでも、なつきには遠く見える。
リングが高い。
ボールが重い。
届く気がしない。
亜衣が先に打つ。
ボールはリングに当たり、跳ねて落ちた。
「あー惜しい」
次に茜。
少し硬いフォームだが、ボールはリングに当たる。
入らないが、ちゃんと届いている。
そしてなつき。
「いきます」
「宣言しなくていい」
亜衣が笑う。
なつきはボールを構えた。
膝を曲げる。
腕を伸ばす。
えい、と投げる。
ボールはリングの手前で落ちた。
届かなかった。
「あ……」
三人の間に少しだけ沈黙。
亜衣がすぐに言う。
「最初はそんなもん!」
「今の、全然届かなかった」
「だから練習するんでしょ」
茜も頷く。
「腕だけで投げてる。足を使う必要があるわ」
「足?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私も詳しくはない」
そこで、体育館の反対側から春樹の声がした。
「足」
三人が振り向く。
春樹がボールを持って近づいてきていた。
なつきの心臓が、いきなり強く鳴る。
「大國くん」
「腕だけだと届きにくい」
春樹は普通の顔で言った。
まるで、簿記の問題文を指摘する時と同じように。
なつきはボールを抱えたまま固まる。
「今、見てたの?」
「少し」
「……見られてた」
「シュート?」
「うん」
「惜しかった」
「届いてなかったよ」
「方向は悪くない」
その言葉に、胸が跳ねた。
届いていない。
失敗した。
そう思っていたのに、春樹は方向を見ていた。
悪くないところを見つけてくれた。
勉強の時と同じだ。
間違いを責めるのではなく、できているところを見てくれる。
亜衣が隣でにやにやしている。
茜は少しだけ目を細めている。
「春樹ー!」
三浦が反対側から呼ぶ。
「こっちも練習中!」
「すぐ戻る」
春樹は短く答えた。
それから、なつきへ視線を戻す。
「放課後、少しやる?」
昼休みに言われるとは思っていなかった。
なつきは一瞬、言葉を失う。
「え」
「シュート」
「いいの?」
「うん」
「男子練習は?」
「今日、放課後は少しだけ」
「でも……」
亜衣がすぐに口を挟んだ。
「なつき、教えてもらいなよ」
「亜衣ちゃん」
茜も言う。
「短時間でも、フォームを見てもらった方がいいわ」
「茜ちゃんまで」
「私たちは先に片付けるから」
「え、もう離脱の準備?」
「合理的に」
亜衣が笑う。
「私は飲み物買う用事あるし」
「今作ったでしょ」
「作った」
なつきは二人を見た。
完全に背中を押されている。
逃げ道がない。
でも、逃げたいわけではなかった。
むしろ、嬉しい。
嬉しすぎて困っているだけだ。
「じゃあ……お願いします」
なつきが小さく言うと、春樹は頷いた。
「うん」
その「うん」だけで、昼休みの体育館が少しだけ眩しく見えた。
放課後。
授業が終わって、教室の空気がゆるむ。
部活へ向かう生徒。
帰る準備をする生徒。
球技大会の話を続ける生徒。
なつきは鞄を机の横にかけたまま、少し落ち着かなかった。
放課後、春樹にシュートを教えてもらう。
たったそれだけのこと。
でも、頭の中では何度も繰り返してしまう。
体育館。
ボール。
春樹。
教えてもらう。
近いかもしれない。
いや、バスケだから近いとは限らない。
でも、もしかしたら。
「なつき」
亜衣が声をかける。
「顔が忙しい」
「忙しい?」
「にやけそうになって、緊張して、またにやけそうになってる」
「そんな顔してる?」
「してる」
茜も頷く。
「してるわね」
「二人とも……」
「大丈夫」
亜衣が親指を立てる。
「シュート決めてきな」
「決められる気がしない」
「一回くらい入るって」
茜が静かに言った。
「入らなくても、練習になる」
「現実的」
「それに」
茜は少しだけ声を柔らかくした。
「教えてもらうだけじゃなくて、ちゃんと覚えてくるのよ」
「うん」
「見惚れるだけではだめ」
「……はい」
その注意が本当に必要な自分が少し恥ずかしい。
でも、否定できない。
なつきは体育館へ向かった。
放課後の体育館は、昼休みより少し落ち着いていた。
部活が始まる前の短い時間。
まだ全体使用にはなっておらず、球技大会の練習に使えるスペースが少し残っている。
窓から夕方の光が差し込んでいた。
床に長く伸びる光。
遠くで聞こえる運動部の準備の声。
ボールが床に弾む音。
昼休みの熱気とは違う、少し静かな体育館。
なつきが入口で立っていると、春樹がボールを持ってやってきた。
「横田さん」
「はい」
「やる?」
「お願いします」
声が固くなった。
春樹は気にした様子もなく、ゴール下へ歩く。
なつきもついていく。
体育館の隅。
他の生徒たちから少し離れた場所。
そこに立つだけで、心臓がうるさかった。
春樹はボールをなつきへ渡した。
「まず、さっきと同じで」
「うん」
なつきはゴールを見上げる。
リングはやっぱり高い。
昼休みに届かなかった距離。
ボールを構える。
膝を少し曲げる。
腕を伸ばす。
投げる。
ボールはリングの手前で落ちた。
「……」
「腕だけ」
春樹が言う。
「やっぱり」
「うん」
「どうすればいい?」
春樹はボールを拾って戻ってきた。
「足を使う」
「足」
「膝を曲げて、伸びる時にボールを上げる」
「膝を曲げて、伸びる」
「腕で投げるより、体全体で上に送る感じ」
「体全体……」
春樹はボールを持ち、ゴールの前に立った。
「見てて」
「はい」
なつきは思わず背筋を伸ばした。
春樹が軽く膝を曲げる。
そのまま、無駄のない動きでボールを上げる。
手首が柔らかく返る。
ボールは静かな弧を描き、リングに触れることなくネットを通った。
ぱさり。
軽い音。
なつきは見惚れていた。
あまりにも綺麗だった。
昼休みの男子練習でも見たはずなのに、こうして近くで見るとまるで違う。
膝。
腕。
指先。
ボールの軌道。
全部が自然で、簡単そうに見える。
でも、実際にやると難しい。
「見てた?」
春樹が聞いた。
「見てた」
「覚えてた?」
「え」
「動き」
「……見惚れてた」
言った瞬間、なつきは自分の口を押さえた。
何を言っているのだろう。
春樹の前で。
見惚れてた、なんて。
春樹は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、少しだけ困ったように言う。
「じゃあ、もう一回」
「ご、ごめん」
「大丈夫」
春樹はもう一度シュートを打った。
今度は、なつきも必死に見る。
膝。
伸びる。
腕。
手首。
ボール。
リング。
全部を追う。
また綺麗に入った。
「今の、分かった?」
「たぶん」
「やってみて」
「はい」
なつきはボールを受け取った。
春樹が隣に立つ。
近い。
近い気がする。
でも、練習中だ。
集中しないと。
なつきは膝を曲げた。
「もう少し」
春樹の声。
なつきは膝をもう少し曲げる。
「ボール、顔の前じゃなくて少し上」
「こう?」
「うん」
「手首?」
「最後に軽く」
「軽く……」
言葉を一つずつ確認する。
簿記の時みたいだった。
問題文を最後まで読む。
今は、動きを一つずつ確認する。
膝。
腕。
手首。
リング。
「打って」
春樹が言う。
なつきは息を吸った。
膝を伸ばす。
ボールを上げる。
手首を軽く返す。
ボールはさっきより高く上がった。
リングには当たらなかった。
でも、手前で落ちるのではなく、リングの横を通って落ちた。
「あっ」
「今の方がいい」
春樹が言った。
「入ってないよ」
「届いた」
その言葉に、なつきの胸が跳ねる。
届いた。
さっきまで届かなかったリングへ。
今は、届いた。
入ってはいない。
でも、届いた。
「もう一回」
なつきが言う。
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
春樹は頷いた。
「うん」
もう一回。
また外れる。
でもリングに当たった。
またもう一回。
今度は強すぎて奥に当たる。
春樹はそのたびに短く言う。
「足はいい」
「手首が少し強い」
「今のは方向」
「焦らない」
「惜しい」
その言葉が、ひとつずつ背中を押してくれる。
なつきは汗をかいた。
息も少し上がる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
春樹がボールを拾ってくれる。
なつきが構える。
春樹が少しだけ言葉をくれる。
また打つ。
その繰り返し。
たったそれだけの時間が、すごく特別だった。
体育館の外の夕方の光が、少しずつ色を変えていく。
遠くで部活の声が大きくなる。
そろそろ場所を空けなければいけない時間。
それでも、なつきはあと一回だけ打ちたかった。
「最後、もう一回いい?」
「うん」
春樹がボールを渡す。
なつきは受け取った。
手のひらにボールの感触。
膝を曲げる。
息を吸う。
春樹の声を思い出す。
腕じゃなくて足。
体全体で上へ。
焦らない。
なつきはシュートを打った。
ボールが弧を描く。
リングに当たる。
一度跳ねる。
もう一度、リングの内側に当たる。
そして。
ネットを通った。
ぱさり。
音がした。
なつきは固まった。
「……入った」
自分の声が小さく出る。
「入った」
春樹が言った。
なつきはゆっくり春樹を見る。
「今、入ったよね?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
嬉しさが、一気に込み上げてきた。
たった一本。
練習中の、誰も見ていないような一本。
試合でもない。
点数にもならない。
でも、なつきには大きかった。
届かなかったリングに、届いた。
そして、入った。
「やった……」
なつきは小さく拳を握った。
春樹が少しだけ目元を緩める。
「今のいい」
その一言で。
なつきの胸は、さっきのシュートよりずっと高く跳ねた。
今のいい。
春樹が言った。
簿記の時の「頑張ってたから」と同じくらい、胸に刺さる言葉だった。
自分ができたことを、ちゃんと見ていてくれた。
その瞬間を、春樹が一緒に見てくれた。
「ありがとう」
なつきは言った。
声が少し震えていた。
「大國くんのおかげ」
「横田さんが打ったから」
まただ。
春樹はいつもそう言う。
教えたのは自分でも、やったのは相手だと返してくれる。
なつきは、その優しさにまた胸がいっぱいになった。
「でも、教えてくれたから」
「うん」
「ありがとう」
「どういたしまして」
体育館の隅で、二人の間に短い沈黙が落ちた。
気まずい沈黙ではなかった。
ボールが床に転がる音。
遠くの部活の声。
夕方の光。
少し汗ばんだ手。
春樹の静かな表情。
その全部が、なつきの中に残っていく。
いつか、この一瞬を思い出す気がした。
球技大会本番ではない。
大歓声もない。
勝敗もない。
でも、春樹に教えてもらって、初めてシュートが入った放課後。
それは、なつきにとって間違いなく特別だった。
「また練習する?」
春樹が聞いた。
「え?」
「時間が合えば」
なつきは、今度は迷わず頷いた。
「したい」
「じゃあ、また」
「うん」
また。
その約束が、胸の中で小さく光る。
春樹はボールを片付けに行く。
なつきはその背中を見つめながら、そっと自分の手を見た。
さっき、ボールを投げた手。
初めてシュートを決めた手。
春樹に「今のいい」と言われた手。
まだ少し震えている。
嬉しさで。
緊張で。
きゅんとした何かで。
体育館の入口の方を見ると、亜衣と茜がこちらを見ていた。
いつの間に戻ってきたのか。
亜衣は完全ににやけている。
茜は少しだけ微笑んでいる。
なつきは顔が熱くなる。
亜衣が口だけで言った。
「入った?」
なつきは小さく頷いた。
亜衣が両手で小さく拍手する。
茜も頷いた。
なつきは、恥ずかしくて、嬉しくて、少し泣きそうになった。
でも泣かなかった。
代わりに、もう一度小さく拳を握る。
球技大会まで、まだ時間はある。
自分はまだ下手だ。
ドリブルも危ない。
パスもずれる。
シュートだって、たった一本入っただけ。
でも。
最初の一本は入った。
そして、その一本を春樹が見てくれた。
それだけで、頑張れる気がした。
なつきは体育館の床を見つめ、それからリングを見上げた。
さっきまで遠かったリングが、ほんの少しだけ近く見えた。
春樹との距離も。
ほんの少しだけ。
近くなった気がした。




