第33話 返ってきた点数と、胸に残る一言
中間テストが終わってから数日。
二年十一組の教室には、落ち着かない空気が漂っていた。
テスト前の緊張とは違う。
テスト中の張り詰めた静けさとも違う。
もっとざわざわしていて、もっと逃げ場がなくて、もっと現実に近い空気。
返却日。
その言葉は、終わったはずの中間テストを、もう一度教室へ連れてくる。
朝から、誰もがどこか浮ついていた。
机の上に教科書を出しているのに、ページはあまり進まない。
友達と話していても、話題は自然と点数へ戻っていく。
「今日、簿記返ってくるんだっけ?」
「英語もじゃない?」
「数学だけは明日にしてほしい」
「いや、早く楽になりたい」
「返ってこないのが一番楽」
「それは無理」
あちこちから声が聞こえる。
なつきは自分の席で、鞄の中に入っている春樹に借りた本をそっと意識していた。
今日、返せるかもしれない。
テストが終わってから、少しずつ読み進めた。
カラオケの日の夜はさすがに疲れて眠ってしまったけれど、その次の日からは、寝る前に少しずつ読んだ。
春樹に「待ってる」と言われた本。
その言葉があるだけで、ページをめくる時間が少しだけ特別になった。
でも、今日はまずテスト返却。
それも、簿記。
なつきにとって、一番向き合った科目。
春樹に教わった科目。
茜に見てもらった科目。
図書館で、空き教室で、何度も問題を解いた科目。
だからこそ、怖かった。
頑張った。
前よりできた気がした。
試算表も合った。
そう思った。
でも、点数が返ってくるまでは分からない。
答案用紙に赤い数字が書かれるまでは、本当の意味では結果にならない。
なつきは指先で机の端を軽くなぞった。
「なつき」
隣から茜が声をかける。
「緊張してる?」
「してる」
「顔に出てる」
「やっぱり」
なつきは苦笑した。
茜はいつも通り落ち着いているように見える。
けれど、最近のなつきは少しだけ分かる。
茜だって緊張する。
ただ、それを表に大きく出さないだけだ。
「茜ちゃんも?」
「してる」
「簿記?」
「全部」
「茜ちゃんでも?」
「何度も言うけど、私を何だと思ってるの」
「できる人」
「できるように準備してる人、くらいにして」
「うん」
なつきは少し笑った。
その笑いで、胸の緊張がほんの少しだけ緩む。
前の席では、三浦が机に両手をついて祈っていた。
「神よ」
亜衣がすぐに言う。
「また交渉してる」
「今回は返却だから、点数を書き換えてもらう」
「それは不正」
「神の力でも?」
「だめ」
紅秋が静かに答える。
「不正は不正」
「板倉、神にも厳しい」
「点数は変わらないから受け止めるしかない」
「現実が殴ってくる」
三浦は机に額をつけた。
教室の数人が笑う。
その笑いで、返却前の重たい空気が少しだけ和らいだ。
亜衣は自分の席でノートを閉じながら、なつきの方へ振り返る。
「なつき、簿記はいける気がする」
「え?」
「だって、テストの日すごい顔してたもん」
「どんな顔?」
「逃げてない顔」
その言葉に、なつきは少しだけ胸が熱くなった。
逃げてない顔。
自分では分からない。
でも、亜衣にはそう見えていたらしい。
「私、そんな顔してた?」
「してた」
茜も頷く。
「してたわね」
「二人とも……」
「だから大丈夫、とは言わないけど」
亜衣は少し笑った。
「頑張った点数は出ると思う」
頑張った点数。
なつきはその言葉を胸の中で繰り返した。
点数が全部ではない。
母もそう言った。
でも、頑張ったことが少しでも数字になったら。
それはきっと、とても嬉しい。
チャイムが鳴り、簿記の先生が教室に入ってきた。
その瞬間、二年十一組の空気が変わる。
ざわめきが引く。
笑っていた三浦も顔を上げる。
亜衣が姿勢を正す。
なつきの心臓が、どくんと大きく鳴った。
先生の手には、答案用紙の束。
赤ペンの数字が裏側からでも見える気がする。
「はい。中間考査、簿記を返します」
教室のあちこちから小さな声が漏れた。
「来た……」
「やばい」
「終わった」
「まだ見てない」
先生は少しだけ笑う。
「全体的には、思ったより良かったです。特に試算表は、練習していた人とそうでない人で差が出ました」
試算表。
なつきの胸がまた鳴る。
自分は、練習した。
何度も。
春樹に教わって、茜に見てもらって、図書館で確認して。
練習した。
「名前を呼ばれたら取りに来てください」
返却が始まった。
出席番号順。
前の方から一人ずつ呼ばれる。
答案を受け取った生徒の表情が、それぞれ違う。
ほっとする人。
固まる人。
小さくガッツポーズする人。
机に戻ってすぐに裏返す人。
友達に見せる人。
見せない人。
三浦は呼ばれる前からそわそわしていた。
「三浦圭」
「はい!」
やけに元気な返事。
教室に笑いが起きる。
三浦は答案を受け取り、席へ戻る途中でちらりと点数を見た。
そして、固まった。
「三浦くん?」
なつきが声をかける。
三浦はゆっくり親指を立てた。
「生きてる」
「何点?」
亜衣が聞く。
「赤点じゃない」
「おお」
「すごいじゃん」
田辺が後ろから言う。
三浦は胸を張った。
「俺は生還した」
「最近そればっかり」
亜衣が笑う。
次に紅秋が呼ばれた。
紅秋は静かに取りに行き、静かに戻ってくる。
表情はほとんど変わらない。
三浦が覗き込もうとする。
「板倉、どうだった?」
「普通」
「板倉の普通は信用できない」
紅秋は答案を少しだけ見せた。
三浦が目を見開く。
「普通じゃない!」
「僕にとっては普通」
「出た!」
なつきは笑いながらも、紅秋らしいと思った。
安定している。
でも、その安定も努力の上にあるのだろう。
次々と答案が返る。
亜衣が呼ばれた。
「伊藤亜衣」
「はい」
亜衣は少し緊張した顔で取りに行き、答案を受け取る。
席に戻って点数を見る。
そして、目を丸くした。
「え」
「亜衣ちゃん?」
「思ったよりいい」
「ほんと?」
「うん。簿記、私に優しかった」
「亜衣が頑張ったんでしょ」
茜が言う。
亜衣は少し照れたように笑った。
「まあ、ちょっとはね」
三浦が拍手する。
「伊藤さん、生還!」
「生還!」
亜衣も小さく拳を上げた。
教室の空気が、少しずつ明るくなっていく。
もちろん全員が良かったわけではない。
机に突っ伏す生徒もいる。
「終わった」と呟く男子もいる。
それでも、簿記の返却は思っていたより悪くない雰囲気だった。
そして。
「横田なつき」
名前を呼ばれた。
なつきの心臓が、一気に強く鳴る。
「はい」
声が少しだけ硬い。
立ち上がる。
教卓までの数歩が、やけに長く感じた。
先生の前に立つ。
答案が渡される。
先生は少しだけ目元を緩めた。
「よく頑張りましたね」
その一言に、なつきは息を止めた。
答案を受け取る。
点数を見る。
赤い数字。
前回の小テストより、ずっと高い。
自分が想像していたよりも、ずっと。
なつきは、一瞬、数字の意味が分からなかった。
見間違いかと思った。
もう一度見る。
同じ数字。
試算表のところにも、しっかり丸がついている。
手形の問題も、かなり取れている。
間違いもある。
完璧ではない。
でも。
良い。
ちゃんと良い。
なつきは答案を持ったまま、教卓の前で固まりそうになった。
「横田さん?」
先生に呼ばれて、はっとする。
「あ、ありがとうございます」
慌てて頭を下げ、席へ戻る。
足が少しふわふわしていた。
席に座ると、茜がすぐに聞いた。
「どうだった?」
なつきは答案を見せた。
茜の目が少しだけ開く。
「すごいじゃない」
その言葉で、なつきの胸の奥から何かが込み上げてきた。
「茜ちゃん」
「本当に上がってる」
「うん」
「よく頑張ったわね」
その一言が、耐えきれないくらい嬉しかった。
亜衣も身を乗り出す。
「なつき、見せて」
「うん」
「え、すごっ!」
亜衣の声に、三浦も振り返る。
「横田、爆上げ?」
「前よりは」
「前よりどころじゃないじゃん!」
三浦が拍手する。
「横田、勝利!」
「勝利って」
「これは勝利」
紅秋も答案を見て頷いた。
「試算表が取れてるのが大きいね」
「うん」
「練習の成果だと思う」
なつきは答案を見つめた。
練習の成果。
その言葉が、胸の奥に深く落ちる。
母のホットミルク。
茜の家。
図書館の机。
空き教室。
春樹の矢印。
問題文を最後まで読む。
全部が、この赤い数字につながっている。
なつきの目が少し潤みそうになった。
でも泣くのは違う気がして、ぐっとこらえる。
嬉しい。
ただ、嬉しい。
教室の前方では、春樹も答案を受け取っていた。
点数は見えない。
けれど、周りの男子が「大國やっぱやば」と言っているから、きっとかなり良いのだろう。
春樹はいつも通りだった。
点数で大騒ぎするわけでもなく、静かに答案を鞄へ入れる。
その横顔を見た瞬間、なつきの胸がまた高鳴った。
報告したい。
大國くんに。
ちゃんとできたって。
簿記、前より取れたって。
教えてくれたところ、できたって。
その気持ちが、胸の中で大きくなっていく。
でも、今ここで言うのは少し恥ずかしい。
周りもいる。
島中もいる。
田辺もいる。
なつきは答案をそっとファイルにしまった。
放課後。
図書室に行こう。
本を返す。
感想を言う。
そして、簿記のことも報告する。
そう決めた瞬間、胸の中にまた違う緊張が生まれた。
簿記の授業が終わった後も、返却は続いた。
英語。
数学。
国語。
全部が一気に返るわけではなかったが、その日のうちにいくつかの科目が戻ってきた。
亜衣は英語で思ったより悪くなく、机に突っ伏しながら「生きてる」と呟いた。
三浦は数学で一度静かになった。
「三浦くん?」
なつきが声をかけると、三浦はゆっくり顔を上げた。
「数学とは、しばらく距離を置く」
「点数は?」
「聞かないでくれ」
田辺が横から覗き込んで笑う。
「俺より低いじゃん」
「田辺、それ言うな!」
「いや、俺も高くねぇけど」
田辺は簿記が意外と良く、少し嬉しそうだった。
「大國に教わったとこ取れてた」
「よかったね」
なつきが言うと、田辺は素直に頷いた。
「うん。マジ助かった」
それを聞いて、なつきは少しだけ春樹を見る。
春樹はやっぱり静かだった。
でも、田辺の点が取れていたことを聞いて、ほんの少しだけ安心したようにも見えた。
誰かに教えたことが、その人の結果につながる。
春樹はそれを、あまり表に出さずに受け止めているのだろう。
島中は、簿記の点をやたら軽く見せていた。
「まあまあかな」
そう言いながら、点数は悪くないらしい。
ただ、春樹や紅秋の点を聞いた時に、少しだけ顔を歪めていた。
なつきの点数には直接触れてこなかった。
それが少しだけ助かった。
亜衣が小声で言う。
「島中、聞きたいけど聞けない顔してる」
「亜衣ちゃん」
「だって、なつきが上がってたら大國のおかげって分かるじゃん」
「それは……」
「まあ、なつきが頑張ったんだけどね」
亜衣はにっと笑った。
「そこ間違えるやつは私が許さない」
なつきは胸が温かくなる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
昼休み。
勉強会メンバーは自然と集まった。
なつき、茜、亜衣、春樹、紅秋、三浦。
教室の隅。
机を少し寄せる。
完全な報告会のようになった。
三浦が自分の点数を科目ごとに並べて、わざと大げさにため息をつく。
「簿記、生還。英語、生還。数学、戦死」
「一科目だけ重い」
亜衣が笑う。
「数学は犠牲になった」
「次は助けよう」
紅秋が言う。
「板倉先生……!」
「先生じゃない」
春樹と同じ返しに、みんなが笑った。
亜衣は英語の答案を見せながら言う。
「私、長文思ったより取れてた」
「関係代名詞と絶交しなかったからね」
なつきが言うと、亜衣は笑った。
「まだ仲悪いけど、今回は休戦」
茜はどの科目も安定していた。
でも本人は「まだ確認するところがある」と言う。
三浦が「その点でまだ確認するの?」と震えていた。
紅秋は相変わらず高得点。
春樹も高得点。
けれど、二人ともそれをひけらかさない。
淡々としている。
だからこそ、なつきは素直にすごいと思えた。
「なつきは?」
春樹が聞いた。
昼休みの教室。
みんながいる前。
なつきは少しだけ緊張した。
でも、ここで隠すのも違う気がした。
「簿記、前よりかなり上がった」
春樹は頷いた。
「よかった」
その言葉だけで、胸が跳ねる。
でも、なつきはまだちゃんと報告したいと思った。
今ではなく。
放課後。
図書室で。
春樹ともう少し静かな場所で。
そう思うと、昼休みの「よかった」は、予告みたいに胸に残った。
放課後。
授業が終わり、教室の空気が少し緩んだ。
テスト返却の疲れと、結果への一喜一憂で、クラス全体がどこか落ち着かない。
三浦は「数学を供養する」と言いながら亜衣に止められていた。
田辺は部活へ向かう前に、春樹へ「簿記マジ助かった」ともう一度言っていた。
春樹は「解いたのは田辺」と返していた。
島中はその様子を少し離れたところから見ていたが、今日は絡んでこなかった。
なつきは鞄の中から本を取り出した。
春樹に借りた本。
読み終えた。
感想も、何度か頭の中で考えた。
うまく言えるかは分からない。
でも、返したい。
伝えたい。
簿記のことも。
なつきは茜を見る。
茜はすぐに気づいた。
「図書室?」
「うん」
「行ってきなさい」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
「また?」
「また」
亜衣も横から顔を出す。
「なつき、報告しておいで」
「亜衣ちゃんまで」
「簿記上がったんだから、大國に言わなきゃ」
「うん」
「あと本の感想もね」
「うん」
「顔、赤くなりすぎないように」
「それは無理かも」
亜衣は笑った。
茜も少しだけ笑う。
「大丈夫。なつきなら言える」
その言葉に背中を押され、なつきは図書室へ向かった。
放課後の廊下は、テスト返却後のざわめきがまだ残っていた。
部活へ向かう生徒。
教室に残って点数を見せ合う生徒。
階段を駆け下りる男子。
廊下の窓から入る夕方の光。
その中を、なつきは本を抱えて歩いた。
図書室の扉の前で、一度立ち止まる。
深呼吸。
何度目だろう。
テストの時も。
カラオケで歌う前も。
春樹に話しかける前も。
なつきはいつも深呼吸している気がする。
それでもいい。
深呼吸してから進めるなら。
なつきは扉を開けた。
図書室は静かだった。
いつもの紙の匂い。
窓から入る柔らかい光。
カウンターの向こうには、春樹がいた。
今日の図書委員当番なのだろう。
返却された本を整理している。
その姿を見ただけで、なつきの胸が少し跳ねた。
「大國くん」
声をかける。
春樹が顔を上げた。
「横田さん」
「本、返しに来た」
「読めた?」
「うん」
なつきはカウンターの前へ行き、本を差し出した。
春樹はそれを受け取り、表紙を見る。
「どうだった?」
その質問に、なつきは少しだけ言葉を探した。
感想を何度も考えたはずなのに、春樹の前に立つと頭が少し白くなる。
でも、今日は逃げたくなかった。
「最初は、ちょっと静かすぎるかなって思った」
「うん」
「でも、途中から、登場人物が何を言わないのかが気になって」
「うん」
「言葉にしないところが多いのに、何となく分かる感じがして」
「うん」
「最後、すごく大きい出来事があるわけじゃないのに、ちゃんと残った」
春樹は黙って聞いていた。
その沈黙は、急かすものではなかった。
なつきは続ける。
「私、派手な話じゃないと途中で飽きるかなって思ってたんだけど」
「うん」
「これは、ゆっくり読めた」
「そっか」
「大國くんが、読めそうって言ってくれた意味、ちょっと分かった気がする」
言い終えた瞬間、なつきの胸が少し軽くなった。
ちゃんと言えた。
完璧な感想ではないかもしれない。
でも、自分の言葉で言えた。
春樹は本をそっと置いた。
「いい感想だと思う」
なつきは固まった。
「え?」
「ちゃんと読んだ感じがする」
「……ほんと?」
「うん」
胸の奥が一気に熱くなる。
本の感想を褒められた。
それだけなのに、こんなに嬉しい。
春樹は続けた。
「横田さん、最初より読むの慣れてきた」
「そうかな」
「うん」
「大國くんが選んでくれたから」
「読んだのは横田さん」
その言い方が、昼休みに田辺へ言っていた言葉と似ていた。
解いたのは田辺。
読んだのは横田さん。
春樹は、手伝ったことを自分の手柄にしない。
相手がやったこととして返してくれる。
それが、なつきにはたまらなく嬉しかった。
「あのね」
「うん」
「簿記も」
なつきはファイルから答案を出した。
少しだけ恥ずかしい。
でも見せたい。
「前より、かなり上がった」
春樹は答案を見た。
赤い数字。
丸のついた試算表。
手形の問題。
なつきは春樹の反応を待つ。
心臓がうるさい。
図書室は静かなのに、自分の鼓動だけが聞こえそうだった。
春樹は答案を見て、少しだけ目を細めた。
「すごい」
短い言葉。
でも、今までで一番まっすぐ胸に届いた。
なつきは息を止めた。
「すごい、かな」
「うん」
「大國くんに教えてもらったところ、取れてた」
「横田さんが最後まで読んだから」
「でも」
「でもじゃなくて」
春樹は静かに言った。
「頑張ってたから」
その瞬間。
なつきの中で、何かが弾けた。
頑張ってたから。
春樹が。
言ってくれた。
頑張っていたことを、見てくれていた。
点数だけじゃない。
答えだけじゃない。
そこまでの時間を。
空き教室で問題文に線を引いたこと。
図書館で何度も聞いたこと。
試算表を何度も間違えたこと。
それでも逃げなかったこと。
春樹が全部知っているわけではない。
でも、見える範囲で見ていてくれた。
それが、たまらなく嬉しかった。
「……ありがとう」
声が少し震えた。
春樹は答案を返しながら言う。
「よかったね」
よかったね。
その言葉で、もうだめだった。
泣きそうになる。
でも、図書室で泣くわけにはいかない。
なつきは必死に笑った。
「うん。よかった」
春樹は少しだけ不思議そうに見ていた。
「泣きそう?」
「泣かない」
「そう」
「泣かないけど、ちょっと嬉しすぎる」
言ってから、なつきは顔が熱くなった。
嬉しすぎる。
そんなことまで言ってしまった。
でも、春樹はからかわなかった。
ただ静かに頷いた。
「嬉しいならよかった」
なつきは胸を押さえたくなった。
この人は、どうしてそんな普通の顔で、そんな言葉を言うのだろう。
たぶん、何も分かっていない。
なつきが今どれだけ心臓を鳴らしているか。
どれだけ嬉しくて、どれだけ苦しくて、どれだけ好きだと思っているか。
春樹はきっと分かっていない。
でも、それでもいい。
今日のこの一言は、なつきだけのものだ。
「次の本」
春樹が言った。
「え?」
「読む?」
なつきは驚いて顔を上げた。
「いいの?」
「うん。テスト終わったから」
「読みたい」
即答してしまった。
春樹は少しだけ口元を動かした。
笑った、ように見えた。
「じゃあ、選ぶ」
そう言って、春樹は棚の方へ歩き出した。
なつきはその背中を見つめる。
図書室。
放課後。
テスト返却。
上がった簿記の点数。
返した本。
そして、次の本。
また一つ、春樹へ続く小さな橋がかかる。
今から作る距離。
茜が言ってくれた言葉を思い出す。
本当に、少しずつ作っている。
春樹が棚の前で本を探している。
その姿を見ながら、なつきはそっと答案を鞄にしまった。
赤い数字は、ただの点数ではなかった。
頑張った証。
春樹に報告できた証。
褒めてもらえた証。
そして、次へ進むための、小さな勇気。
春樹が一冊の本を手に戻ってくる。
「これは?」
なつきは表紙を見る。
今までより少しだけ明るい雰囲気の本だった。
「読めそう?」
「うん」
「たぶん、今なら読めると思う」
その言葉に、なつきの胸がまた温かくなる。
今なら。
春樹は、なつきが少し変わったことを分かってくれているのだろうか。
分からない。
でも、そう思いたかった。
「ありがとう」
「うん」
春樹は貸出の手続きをする。
本に日付の紙を挟む。
なつきはそれを受け取る。
指先が少しだけ触れそうになって、触れなかった。
それだけで、胸が鳴る。
「感想」
春樹が言う。
「うん?」
「また聞く」
なつきは、思わず笑った。
嬉しくて。
照れくさくて。
胸がいっぱいで。
「うん」
そして、ちゃんと答えた。
「また言うね」
図書室の窓の外では、夕方の光が校舎を柔らかく染めていた。
テスト返却の日。
不安だった朝。
赤い点数。
みんなの笑い声。
そして、春樹の「すごい」。
今日の全部が、なつきの中で静かに輝いている。
恋はまだ、はっきり形になっていない。
春樹の気持ちも、まだ分からない。
でも。
なつきは今日、確かに一歩進んだ。
点数も。
本も。
言葉も。
少しずつ。
少しずつ。
春樹へ続く距離が、また伸びていく。
なつきは新しい本を胸に抱え、図書室を出る前にもう一度振り返った。
春樹はカウンターで本を整理している。
いつもの静かな姿。
けれど、なつきには少しだけ違って見えた。
今日の春樹は、なつきを褒めてくれた人だ。
頑張っていたと、言ってくれた人だ。
それだけで、世界が少し明るく見える。
「大國くん」
なつきは最後に声をかけた。
春樹が顔を上げる。
「何?」
「また明日」
春樹は短く頷いた。
「また明日」
その返事を聞いて、なつきは図書室を出た。
廊下は夕方の光で満ちていた。
胸の中には、新しい本と、返ってきた点数と、春樹の言葉。
それだけで、今日の帰り道はきっと、いつもより軽い。
なつきは歩き出した。
まだ恋は始まったばかり。
でも、確かに進んでいる。
そう思える放課後だった。




