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『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


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第32話 知らない声、知っている鼓動


 イントロが流れた瞬間、部屋の空気が少し変わった。


 さっきまで、三浦と田辺のデュエットで笑いに満ちていたカラオケルーム。


 狭い部屋の中には、まだその余韻が残っている。


 三浦の大げさな動き。


 田辺の意外な歌声。


 亜衣の明るい手拍子。


 茜の小さな笑い。


 紅秋の落ち着いた視線。


 そして、春樹の静かな横顔。


 その全部が、なつきの中でまだ温かく揺れていた。


 けれど今、画面には男女デュエット曲の歌詞が流れ始めている。


 マイクを持つのは、伊藤亜衣と大國春樹。


 亜衣はいつも通り、軽い笑顔を浮かべていた。


 春樹は少しだけ画面を見つめている。


 困っているようにも見える。


 けれど、嫌がってはいない。


 なつきは、ソファの上で膝の上に置いた手を、そっと握った。


 大丈夫。


 ただのカラオケ。


 ただのデュエット。


 亜衣ちゃんは春樹にそういう気持ちはない。


 亜衣ちゃんは、なつきのことを見てくれている。


 分かっている。


 分かっているのに。


 胸の奥が、少しだけ小さくざわついた。


 そのざわつきが嫌で、なつきは一度カップに手を伸ばした。


 オレンジジュースを少し飲む。


 甘さと冷たさが喉を通る。


 けれど、胸の奥の熱は消えなかった。


「春樹、最初そっちね」


 亜衣が軽く言う。


「分かった」


 春樹は短く答えた。


 いつもの声。


 短くて、落ち着いていて、必要以上に揺れない声。


 それがマイクを通ると、少しだけ違って聞こえた。


 イントロが終わる。


 最初の歌詞が画面に出る。


 春樹が息を吸った。


 そして、歌い出した。


 なつきは、思わず目を止めた。


 春樹の歌声は、思っていたよりずっと柔らかかった。


 大きく響かせる歌い方ではない。


 三浦のように場を動かすわけでも、田辺のように声量で押すわけでもない。


 ただ、音を外さず、淡々と、けれど丁寧に歌っている。


 普段の春樹に似ている。


 静かで、まっすぐで、余計なものがない。


 でも、話す声より少しだけ低く聞こえた。


 少しだけ、優しく聞こえた。


 なつきは、息をするのを忘れそうになった。


「……うま」


 三浦が小さく呟く。


「普通にうまいじゃん」


 田辺も目を丸くする。


 亜衣は春樹の歌声に合わせて、自分のパートを歌い出した。


 亜衣の声は明るい。


 軽やかで、少し甘くて、空気を華やかにする。


 春樹の静かな声と、不思議なくらい合っていた。


 合っている。


 そう思った瞬間、なつきの胸が少しだけ痛んだ。


 亜衣と春樹が並んで歌っている。


 マイクを持って。


 同じ画面を見て。


 同じ曲を歌っている。


 その光景は、ただのカラオケだ。


 それ以外の意味なんてない。


 でも、好きな人が他の女子と並んでいるだけで、心は勝手に意味を探してしまう。


 嫌な子ではない。


 亜衣は友達だ。


 なつきの味方だ。


 だから余計に、自分の胸のざわつきが少しだけ恥ずかしい。


 なつきは視線を落としかけた。


 その時、茜が隣で小さく言った。


「なつき」


「え?」


「見てていいのよ」


 声は小さかった。


 でも、ちゃんとなつきに届いた。


 なつきは茜を見る。


 茜は画面を見たままだった。


 表情はいつも通り落ち着いている。


「目を逸らしたら、余計に気になるでしょ」


「……うん」


「ただのカラオケ」


「うん」


「でも気になるなら、それも仕方ない」


 なつきは少しだけ目を伏せた。


 茜は続ける。


「見て、勝手に決めつけない。それだけ」


 その言葉が、胸の中に静かに落ちる。


 見て、勝手に決めつけない。


 茜はいつも、なつきの心が行き過ぎそうなところで、そっと線を引いてくれる。


 なつきは小さく頷いた。


 そして、もう一度春樹を見た。


 春樹は歌っていた。


 相変わらず大きな表情はない。


 けれど、歌詞を追う目は真剣だった。


 亜衣が少し笑いながら合わせると、春樹もほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。


 それは、恋人みたいな甘さではなかった。


 ただ、友達と歌っている時の自然な反応。


 図書委員で一緒になる亜衣と、普通に会話する春樹。


 それが、カラオケという場で少し形を変えただけ。


 なつきはそう思うようにした。


 それでも、春樹の歌声から目を離せない。


 知らない春樹だった。


 でも、同じ春樹だった。


 図書室で本を読む春樹。


 簿記を教えてくれる春樹。


 チーズケーキを食べる春樹。


 そして今、マイクを持って歌う春樹。


 なつきの知らない春樹がまた増える。


 それは少し怖くて。


 でも、それ以上に嬉しかった。


 曲が終わる。


 画面に採点ではなく、次の曲予約の画面が戻る。


 一瞬の沈黙。


 そして、部屋に拍手が起こった。


「春樹、うまいじゃん!」


 三浦が一番に叫んだ。


「隠してたな!」


「隠してない」


 春樹はマイクを置きながら答える。


「いや、これは隠してた」


 田辺も言う。


「普通に上手い」


「普通」


 春樹が言うと、亜衣が笑った。


「春樹の普通、また出た」


「うまかったよ」


 亜衣がさらっと言う。


「歌いやすかった」


「そう」


「反応薄い」


「ありがとう」


「よし」


 亜衣は満足そうに笑った。


 なつきは拍手しながら、胸の奥のざわつきが少しずつほどけていくのを感じた。


 完全に消えたわけではない。


 でも、嫌なものではなくなった。


 春樹の歌を聞けた。


 それだけで、今日は来てよかったと思えた。


 春樹がふと、なつきの方を見た。


 目が合う。


 なつきは慌てて言った。


「う、上手だった」


 声が少し上ずった。


 春樹は少しだけ目を瞬かせる。


「ありがとう」


 短い返事。


 でも、なつきの胸はまた跳ねた。


 亜衣がその様子を見て、にやりとする。


 でも何も言わない。


 今日は何も言わないでいてくれる。


 それがありがたかった。


「さて」


 三浦がリモコンを持った。


「次は誰だ?」


「三浦くん、さっきから回し役になってる」


 亜衣が言う。


「俺はこの部屋の盛り上げ隊長」


「自称」


「認めてくれ」


「働き次第」


 三浦は胸を叩いた。


「任せろ」


 その時、静かに手が伸びた。


 紅秋だった。


 リモコンを受け取る。


「じゃあ、僕が」


 部屋の空気が、一瞬止まった。


「板倉が?」


 三浦が目を丸くする。


「うん」


「何歌うの?」


「入れた」


「早い」


 画面に曲名が表示された。


 その瞬間、部屋が静かになった。


 演歌だった。


 しかも、かなり渋い。


 昭和の匂いがする、情念の強そうなタイトル。


 三浦がゆっくり紅秋を見た。


「板倉」


「何?」


「それ、演歌?」


「演歌」


「普通って言ってたよな?」


「普通に歌う」


「そういう意味じゃない!」


 亜衣が口元を押さえて笑いをこらえている。


 田辺はもう笑っている。


 茜ですら目を丸くしていた。


「板倉くん、演歌歌うの?」


 なつきが聞くと、紅秋は淡々と頷いた。


「祖父の影響で」


「祖父」


 三浦が復唱する。


「情報が渋い!」


 イントロが流れる。


 重い。


 あまりにも重い。


 さっきまでの青春カラオケの空気が、一気に港町へ連れていかれたようだった。


 紅秋はマイクを持ち、姿勢を正した。


 その姿は、普段の教室で副委員長として立つ時と変わらない。


 けれど、イントロが終わり、歌い出した瞬間。


 全員が固まった。


 うまい。


 それも、ただうまいのではない。


 やけに本格的だった。


 声の出し方。


 語尾の震わせ方。


 感情の乗せ方。


 高校二年生のカラオケとは思えない深みがある。


 三浦が口を開けたまま固まっている。


 田辺も笑うのを忘れている。


 亜衣は机を叩きそうになりながら笑いをこらえている。


 茜は珍しく目を丸くしたまま。


 春樹は静かに聞いているが、口元が少しだけ緩んでいた。


 なつきは、驚きすぎて笑うタイミングを失った。


 紅秋は本気だった。


 ふざけていない。


 だから余計に面白い。


 サビに入ると、紅秋は少しだけ目を伏せ、見事に歌い上げた。


 部屋の空気が、完全に紅秋のものになった。


 歌詞の内容は、大人の別れの歌だった。


 高校生にはまだ早すぎる。


 けれど、紅秋の声は妙に合っている。


 曲が終わる。


 一瞬の沈黙。


 そして。


「なんで!?」


 三浦の叫びが部屋に響いた。


 それをきっかけに、全員が笑い出した。


「板倉、なんでそんな上手いの!?」


「だから祖父の影響」


「祖父すごい!」


「祖父じゃなくて僕が歌った」


「それはそうだけど!」


 亜衣は涙が出そうなほど笑っていた。


「無理、ギャップすごい」


 田辺も腹を抱えている。


「板倉、演歌うますぎだろ」


 茜は口元を押さえながら言った。


「予想外だったわ」


「遠山さんにも予想外って言われた」


 三浦がなぜか嬉しそうに言う。


 紅秋は少しだけ首を傾げた。


「変だった?」


「変じゃない」


 春樹が言った。


「うまかった」


「ありがとう」


「でも意外」


「それはよく言われる」


 三浦が身を乗り出す。


「よく言われるってことは、他でも歌ってるのか!?」


「家族の前では」


「家族カラオケで演歌!?」


「祖父が喜ぶから」


 その一言で、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。


 紅秋の意外な一面。


 でも、それはただのギャップではなかった。


 家族の前で歌う。


 祖父が喜ぶから。


 その理由が、紅秋らしいようで、少しだけ可愛かった。


 なつきは笑いながらも、紅秋を見る目が少し変わった。


 クラスで学力二位。


 副委員長。


 春樹の相棒のような男子。


 冷静で、少し距離のある人。


 でも、家族の前で演歌を歌う人でもある。


 人は、教室だけでは分からない。


 春樹もそう。


 紅秋もそう。


 田辺も、三浦も、亜衣も。


 みんな、場所が変わると違う顔を見せる。


 カラオケという空間が、少しだけそれを見せてくれていた。


「次、茜!」


 亜衣が勢いで言った。


 茜はすぐに首を振る。


「まだ」


「まだってことは後で歌う?」


「……一曲くらいなら」


「言質取った!」


 三浦が叫ぶ。


「三浦くん、静かに」


「はい」


 なつきは笑っていたが、次の瞬間、亜衣と目が合った。


 亜衣がにこっと笑う。


「なつき」


「え」


「そろそろ?」


「え、私?」


「うん」


「無理無理」


「大丈夫。ここ、みんな優しい」


 三浦が大きく頷く。


「そうだぞ横田。下手でも笑わない」


「その言い方が逆に怖い」


 田辺が言う。


「なつき、歌えよ。聞きたい」


 田辺の言い方は少し軽かった。


 けれど、今日は嫌な圧は少なかった。


 三浦の横で、部屋の空気に乗っているだけ。


 それでも、なつきの心臓は速くなった。


 歌う。


 みんなの前で。


 春樹の前で。


 無理。


 そう思う。


 けれど、亜衣が小声で言った。


「なつき、好きな曲でいいよ。無理に盛り上げなくていい」


 茜も隣で頷く。


「歌いたくなければ断っていい。でも、歌いたい気持ちが少しでもあるなら、歌えばいい」


 歌いたい気持ち。


 あるのだろうか。


 恥ずかしい。


 怖い。


 でも、少しだけ。


 この空気の中で、自分も一曲歌ってみたい。


 そう思っている自分もいた。


 春樹がいるから怖い。


 でも、春樹がいるから歌いたい。


 なつきは、ゆっくりリモコンを受け取った。


「じゃあ……一曲だけ」


「おお!」


 三浦が拍手する。


「横田いきます!」


「実況しない」


 亜衣が笑う。


 なつきは曲を探した。


 明るすぎない曲。


 でも暗すぎない曲。


 女子が歌いやすい、少し優しいテンポの曲。


 前に家でよく聞いていた曲。


 恋の歌。


 歌詞が今の自分に少し近いような気がして、入れる手が一瞬止まった。


 春樹の前で歌うには、少し恥ずかしいかもしれない。


 でも、直接伝えるわけではない。


 ただの歌。


 なつきは送信ボタンを押した。


 イントロが流れる。


 心臓が速い。


 マイクを持つ手が少し汗ばむ。


 画面の歌詞が流れ始める。


 なつきは息を吸った。


 最初の声は、少し震えた。


 でも、誰も笑わなかった。


 三浦は意外と静かに聞いている。


 田辺も黙っている。


 亜衣は優しくリズムを取っている。


 茜は隣で、いつもの落ち着いた顔で見守ってくれている。


 紅秋も静かに聞いている。


 春樹は。


 春樹は、画面ではなく、なつきの方を見ていた。


 そのことに気づいて、なつきの声が一瞬揺れそうになった。


 でも、持ち直した。


 見られている。


 春樹に。


 恥ずかしい。


 でも、逃げたくない。


 テストの時もそうだった。


 最後まで読む。


 最後まで解く。


 今も同じ。


 最後まで歌う。


 なつきは歌詞を追った。


 恋の歌。


 近づきたいのに、近づけない。


 言いたいのに、言えない。


 でも、少しずつ隣へ行きたい。


 そんな歌詞。


 自分のことみたいだと思った。


 だから、途中から少しだけ声が乗った。


 うまいかどうかは分からない。


 音程も完璧ではないかもしれない。


 でも、ちゃんと歌った。


 最後まで。


 曲が終わる。


 一瞬、部屋が静かになる。


 なつきはマイクを下ろした。


 顔が熱い。


 心臓がうるさい。


 すぐに亜衣が拍手した。


「なつき、いいじゃん!」


 三浦も拍手する。


「横田、普通にうまい!」


「声かわいいな」


 田辺が言う。


「田辺、それ言い方」


 亜衣が突っ込む。


「いや褒めてる」


「分かるけど」


 茜が静かに言った。


「良かったわよ」


「茜ちゃん」


「ちゃんと最後まで歌えてた」


 その言葉に、なつきは少し笑った。


 最後まで。


 今日、何度も聞いた言葉。


 テストでも。


 歌でも。


 なつきは最後までできた。


 春樹は何も言わない。


 なつきは少しだけ怖くなる。


 どう思ったのだろう。


 変だったかな。


 下手だったかな。


 恥ずかしい曲だったかな。


 そんな不安が胸をよぎった時。


 春樹が言った。


「上手かった」


 短い言葉だった。


 でも、部屋の中の音が一瞬、全部遠くなった。


 上手かった。


 春樹が。


 言ってくれた。


 なつきはマイクを持ったまま固まりそうになる。


「あ、ありがとう」


 何とか返す。


 春樹は頷く。


「声、聞きやすかった」


 追撃だった。


 なつきの顔が一気に熱くなる。


 亜衣が口元を押さえた。


 三浦が「おお?」という顔をした。


 茜が軽く亜衣を見て、余計なことを言わないよう目で止める。


 田辺は少しだけ不思議そうに春樹を見ていた。


 紅秋は、何かを察したように静かにドリンクを飲んでいる。


 なつきは、胸がいっぱいで何も言えなかった。


 声、聞きやすかった。


 春樹にそんなふうに言われるとは思わなかった。


 褒め言葉は短い。


 でも、具体的だった。


 ちゃんと聞いてくれていた。


 それが分かる言葉だった。


「……ありがとう」


 もう一度、小さく言う。


 春樹はいつものように、短く頷いた。


「うん」


 それだけ。


 でも、それだけで、なつきの今日のカラオケは十分すぎるくらい特別になった。


 その後もカラオケは続いた。


 亜衣がもう一曲明るい曲を歌い、三浦がまた動きすぎて茜に注意され、田辺が意外なバラードを歌って部屋を少ししんみりさせ、紅秋が二曲目にまた演歌を入れようとして全員に止められた。


 茜も結局、一曲だけ歌った。


 静かな曲だった。


 茜らしく、音程が安定していて、丁寧な歌い方。


 三浦が「遠山さん、普通にうまい」と言い、茜が「普通でいい」と返した。


 春樹は一人でも一曲歌った。


 やはり派手ではない。


 でも、静かにうまい。


 なつきはその歌声を、さっきより落ち着いて聞けた。


 知らない春樹を知るたびに、少し怖くなる。


 でも、今日はその怖さよりも嬉しさが勝っていた。


 時間が近づき、終了十分前の電話が鳴った。


 三浦が名残惜しそうに受話器を置く。


「もう終わりか」


「二時間歌えば十分」


 紅秋が言う。


「足りない」


「三浦くんは足りないでしょうね」


 亜衣が笑う。


「次はテスト返却後にリベンジだな」


 田辺が言う。


「返却後は気力が残ってたらね」


「不穏」


 茜が時計を見る。


「そろそろ片付けましょう」


「委員長出た」


「出します」


 みんなでカップを片付け、マイクを戻し、荷物を確認する。


 部屋を出る前に、なつきは一度だけ画面を見た。


 さっき、自分が歌った曲の履歴が残っている。


 その下には春樹が歌った曲。


 亜衣とのデュエット曲。


 紅秋の演歌。


 三浦と田辺のデュエット。


 全部が今日の思い出みたいに並んでいた。


 カラオケ店を出ると、外はすっかり夕方だった。


 空は薄い紫色になり、駅前の灯りが少しずつ目立ち始めている。


 向こうの部屋にいた島中たちも、少し遅れて出てきた。


 島中は楽しそうにしていたが、なつきたちの部屋の空気には入ってこなかった。


 それだけで、なつきは少しほっとした。


「じゃあ、解散?」


 三浦が言う。


「自転車組は帰り気をつけて」


 亜衣が言う。


「亜衣ちゃんも」


「私は駅だから」


 春樹も駅方面へ向かう。


 なつきは少しだけ寂しくなる。


 でも、今日はちゃんと満たされていた。


 同じ部屋で過ごした。


 春樹の歌を聞いた。


 自分の歌を褒めてもらった。


 それだけで十分だった。


「横田さん」


 春樹が声をかけた。


「はい」


「また明日」


「うん。また明日」


 ただの挨拶。


 でも、テストが終わって、カラオケも終わって、夕方の駅前で聞くその言葉は、少しだけ特別だった。


 また明日。


 明日も学校で会える。


 そのことが嬉しい。


 春樹と亜衣は駅方面へ歩いていく。


 なつきは茜と一緒に自転車置き場へ向かった。


「楽しかった?」


 茜が聞く。


 なつきはすぐに頷いた。


「うん」


「良かった」


「ちょっと緊張したけど」


「でしょうね」


「でも、楽しかった」


「それなら十分」


 なつきは自転車の鍵を開けた。


 金属の小さな音が夕方の空気に響く。


 今日一日が、少しずつ終わっていく。


 中間テストが終わった。


 クラスでカラオケに行った。


 春樹の歌を聞いた。


 自分も歌った。


 褒められた。


 それらの全部が、なつきの胸の中で静かに光っていた。


 帰り道。


 ペダルを踏みながら、なつきは空を見上げた。


 紫色の空に、細い雲が流れている。


 テストの結果はまだ分からない。


 返却されたら、また落ち込むかもしれない。


 でも。


 今日のことは、きっと忘れない。


 春樹の知らない声。


 紅秋の演歌。


 三浦と田辺のデュエット。


 亜衣の明るさ。


 茜の支え。


 そして、春樹の一言。


 上手かった。


 声、聞きやすかった。


 その言葉を思い出すだけで、なつきの胸はまだ少し熱くなる。


 恋は、まだ言葉にならない。


 でも、少しずつ増えていく。


 知っていること。


 聞いた声。


 交わした言葉。


 同じ時間。


 今から作る距離。


 その距離が、今日また少しだけ伸びた気がした。


 なつきは、風を受けながら自転車を漕いだ。


 明日からは、また普通の日々が戻ってくる。


 テスト返却もある。


 結果もある。


 でも今日だけは。


 ただ、楽しかった。


 そう思える放課後だった。

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