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『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


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第31話 マイクの向こうの放課後


 駅前のカラオケ店は、放課後の高校生たちで少し混み始めていた。


 中間テストが終わった日。


 同じことを考える生徒は、どこの学校にもいるらしい。


 制服姿のグループが入口の前で待っている。


 スマホを見ながら曲の話をしている男子。


 飲み放題のメニューを眺めている女子。


 「何歌う?」という声。


 「一曲目どうする?」という声。


 その全部が、テストから解放されたばかりの空気をまとっていた。


 二年十一組のメンバーも、その中に混ざっていた。


 全員ではない。


 家の用事がある生徒。


 部活がある生徒。


 カラオケが苦手な生徒。


 そういう生徒たちは帰っていった。


 それでも、集まった人数は思ったより多かった。


 十五人ほど。


 島中良を中心にした男子数人。


 田辺守。


 三浦圭。


 板倉紅秋。


 伊藤亜衣。


 遠山茜。


 横田なつき。


 そして大國春樹。


 他にも、普段はそこまで前に出ない女子や男子が何人かいる。


 クラス全体とまではいかない。


 けれど、十分に「クラスの打ち上げ」と呼べる人数だった。


 なつきは自転車を駐輪スペースに停め、茜と並んで店の前へ向かった。


 少し先に、駅方面から歩いてきた亜衣と春樹の姿が見える。


 亜衣は片手で軽く手を振った。


「なつきー、茜ー」


「亜衣ちゃん」


 なつきが手を振り返す。


 春樹はその隣で、いつも通り静かに立っていた。


 カラオケ店の前。


 制服。


 テスト後。


 周りのざわめき。


 その中に春樹がいることが、少し不思議だった。


 図書室の春樹。


 教室で簿記を教えてくれる春樹。


 電車で亜衣と帰る春樹。


 ファミレスでチーズケーキを食べていた春樹。


 そして、今からカラオケに入る春樹。


 同じ人なのに、場所が変わるたびに少しずつ違って見える。


 なつきは、自分がまた新しい春樹を見ようとしているのだと思った。


 それだけで、胸の奥がそわそわする。


「なつき、顔」


 茜が横で言った。


「え?」


「緊張してる」


「出てる?」


「出てる」


「う……」


 なつきは頬に手を当てた。


 茜は少しだけ笑う。


「大丈夫。今日は楽しむ日でしょ」


「うん」


「無理に歌わなくてもいいし」


「でも、歌う流れになりそう」


「なるでしょうね」


「茜ちゃんは?」


「様子を見る」


「ずるい」


「何が」


「絶対うまく避ける気だ」


「必要なら避ける」


「茜ちゃんらしい」


 なつきは小さく笑った。


 その時、店の入口付近で島中がスマホを片手に声を上げた。


「十五人だから、二部屋で取るわ。広めの部屋、二つ空いてるって」


「おー」


「さすが島中」


「何時間?」


「二時間でよくね? 長すぎてもだるいし」


 島中は慣れた様子で受付へ向かう。


 店員と話しながら、人数とコースを決めている。


 その姿だけ見れば、頼れるクラスメイトに見えなくもない。


 実際、こういう時に動けるのは島中の強みなのだろう。


 ただ、なつきには分かってしまう。


 島中は仕切るのが好きだ。


 中心にいるのが好きだ。


 そして、自分の周りに人が集まるのが好きだ。


 それ自体が悪いわけではない。


 けれど、その輪の中に春樹がいると、島中の目は少しだけ違う色を帯びる。


 なつきは、それを何度か見てきた。


 簿記の授業。


 勉強会。


 教室での難癖。


 そして、今日もきっと。


 少しはある。


 そう思うと、楽しみの中に小さな不安が混ざった。


 亜衣がなつきの隣に来て、小声で言う。


「島中の主催者面、早速出てるね」


「亜衣ちゃん」


「まあ、予約してくれたのは助かるけど」


「うん」


「でも、何かあったらこっち来な」


「うん」


 亜衣の言葉は軽い。


 でも、その軽さの奥にちゃんと気遣いがある。


 なつきは頷いた。


 茜も反対側から言う。


「無理に中心に行かなくていいわ。部屋も分かれるし」


「うん」


「なつきは、楽しめばいい」


「茜ちゃんも楽しんでね」


「努力する」


「努力なんだ」


「騒がしい場所は得意ではないから」


 そう言いながらも、茜は帰るとは言わない。


 来てくれた。


 それだけで、なつきは嬉しかった。


 受付が終わり、島中が振り返った。


「部屋二つ。適当に分かれて」


「適当って一番揉めるやつ」


 三浦が言う。


「じゃあお前が決める?」


「俺が決めるとマイク争奪戦になる」


「だろうな」


 島中が笑う。


 その近くで、田辺が部屋番号の紙を覗き込んでいた。


「俺、三浦と同じ部屋な」


「田辺!」


 三浦が大げさに両手を広げる。


「魂のデュエット、忘れてないな!」


「曲決めてから言えよ」


「勢いで何とかなる」


「ならねぇよ」


 田辺は笑っていた。


 その笑い方は、いつものなつきへの距離の近い絡みとは違う。


 男子同士の軽さ。


 少し子どもっぽくて、少し楽しそう。


 なつきはその様子を見て、少しだけ安心した。


 田辺は今日は三浦に引っ張られている。


 その方がいい。


 なつきにぐいぐい来られるより、ずっと空気が軽い。


「じゃあさ」


 三浦が周りを見回す。


「俺、田辺、板倉、伊藤さん、横田、遠山さん、大國で一部屋どう?」


「人数多くない?」


 亜衣が言う。


「七人。もう一部屋八人ならちょうどいい」


「島中は?」


 誰かが聞いた。


 三浦が少しだけ言葉に詰まった。


 その一瞬を、なつきは見逃さなかった。


 島中も聞いていた。


「何、俺だけ別?」


 笑っている。


 でも、少しだけ声が低い。


 三浦は慌てて笑った。


「いや、島中は向こうの部屋まとめた方がよくない? 人数多いし」


「まとめ役?」


「そうそう。主催者だし」


 うまい。


 なつきは思った。


 三浦は、島中を外したのではなく、役割を渡した。


 中心にいたい島中にとって、悪くない言い方。


 島中は少しだけ目を細めたが、すぐに笑った。


「まあ、いいけど」


 その言葉には、少し引っかかりが残っていた。


 でも、強引にこちらの部屋へ来ることはなかった。


「じゃあ俺、向こう見るわ」


 島中は自分のグループへ声をかける。


 なつきは小さく息を吐いた。


 亜衣が小声で言う。


「三浦くん、やるじゃん」


 三浦は聞こえたのか、振り返って親指を立てた。


「空気は読む男」


「読める時と読めない時の差が激しい」


「それは言わない約束」


 紅秋が静かに言った。


「結果的に助かった」


「板倉に褒められた」


「褒めたというより評価した」


「それでも嬉しい」


 七人は案内された部屋へ向かった。


 通路には、別の学校の生徒たちの声が響いている。


 ドアの隙間から歌声が漏れる。


 低い声。


 高い声。


 笑い声。


 拍手。


 カラオケ特有の、少しこもった音。


 なつきはその音に少し緊張した。


 友達とカラオケに行ったことはある。


 でも、クラスメイトの男子もいるカラオケは少し違う。


 しかも春樹がいる。


 春樹が同じ部屋にいる。


 歌うかもしれない。


 歌わないかもしれない。


 それを考えるだけで、足元が少しふわふわした。


 部屋に入ると、思ったより広かった。


 長いソファ。


 中央のテーブル。


 壁に設置された大きな画面。


 照明は少し暗めで、学校やファミレスとはまったく違う雰囲気がある。


 テーブルの上にはリモコンとメニュー。


 マイクが二本。


 三浦がそれを見た瞬間、目を輝かせた。


「マイクだ」


「カラオケだからね」


 亜衣が言う。


「始まる」


「まだ始まらない」


「もう始まってる」


「座って」


 茜が言うと、三浦は素直に座った。


 席は自然に決まった。


 奥側のソファに、茜、なつき、亜衣。


 向かい側に、春樹、紅秋、三浦、田辺。


 春樹はなつきの斜め前。


 ファミレスの時と少し似た距離だった。


 違うのは、音があること。


 照明が違うこと。


 そして、マイクが目の前にあること。


「ドリンクどうする?」


 紅秋が聞く。


「先に取りに行く?」


 亜衣が立ち上がる。


「私行く」


「俺も」


 三浦も立ち上がる。


「三浦くん、変なミックスしないでね」


 茜が言う。


「今日は普通にいく」


「前も聞いた」


「今日は本当に」


 田辺が立ち上がった。


「俺も行く」


「じゃあ俺たち取ってくるわ」


 三浦と田辺、亜衣が部屋を出る。


 部屋には、なつき、茜、春樹、紅秋が残った。


 急に少し静かになる。


 外の音は聞こえる。


 隣の部屋の歌声も薄く届く。


 でも、この部屋の中だけ、少し空白ができた。


 なつきは何か話そうとして、言葉が浮かばなかった。


 春樹が目の前にいる。


 カラオケの部屋で。


 その状況だけで、普段より会話の難易度が上がっている気がする。


 紅秋がリモコンを見ながら言った。


「最初、誰が入れる?」


「三浦くんじゃない?」


 茜が答える。


「だろうね」


 春樹が短く言う。


「マイク見て目が光ってた」


 紅秋が少し笑った。


「三浦くんらしい」


 なつきも笑った。


「三浦くん、歌うの好きそう」


「好きだと思う」


 春樹が言った。


 なつきは少し勇気を出して聞いた。


「大國くんは?」


「何が?」


「歌うの、好き?」


 春樹は少しだけ考えた。


「嫌いではない」


「そうなんだ」


「でも、あまり行かない」


「カラオケ?」


「うん」


「じゃあ今日は珍しい?」


「たぶん」


 その「たぶん」が春樹らしくて、なつきは少し笑った。


「何?」


「ううん。大國くんらしいなって」


「そう?」


「うん」


 春樹は不思議そうにしていた。


 その表情が、なつきにはやっぱり好きだった。


 分かっていない。


 自分がどれだけなつきの心を揺らしているのか。


 まったく分かっていない。


 でも、だからこそ、なつきは小さな会話を大切にしたいと思う。


 ドアが開き、三浦たちが戻ってきた。


「お待たせ!」


 三浦のカップは、なぜか緑色だった。


 亜衣がすぐに言う。


「普通にいくって言ったよね?」


「メロンソーダは普通」


「まあ、それはそう」


「田辺は?」


 田辺のカップはコーラだった。


「普通」


「つまらない」


「飲み物で面白さ求めんな」


 亜衣は烏龍茶を持っていた。


「伊藤さん、意外と落ち着いてる」


 三浦が言う。


「最初はね。喉守る」


「歌う気満々!」


「当たり前じゃん」


 亜衣はマイクを一本手に取った。


「最初、誰?」


 三浦が立ち上がる。


「俺」


「やっぱり」


 全員がほぼ同時に言った。


 三浦は胸を張る。


「一曲目は任せろ」


「何歌うの?」


 田辺が聞く。


 三浦はリモコンを操作しながら、なぜか真剣な顔になった。


「盛り上がるやつ」


「具体性なし」


 紅秋が言う。


「曲名で言って」


「今入れる!」


 数秒後、画面に明るいイントロが流れ始めた。


 誰もが一度は聞いたことがあるような、勢いのある曲。


 三浦はマイクを握り、立ち上がる。


 そして、最初の歌い出しから予想以上の声量で歌い始めた。


「うまっ」


 亜衣が目を丸くする。


「三浦くん、普通にうまい」


 なつきも驚いた。


 三浦は普段から明るく、よく喋る。


 でも、歌声は思ったよりまっすぐで、リズムにも乗っている。


 しかもただ歌うだけではない。


 サビに入ると、体が自然に動き出す。


 狭い部屋なので大きく踊るわけではないが、肩や足のリズムが軽い。


 手の動きに、少しだけブレイクダンスを思わせるキレがある。


「三浦くん、ほんとに踊るんだ」


 なつきが言うと、茜が少しだけ目を細めた。


「部屋が広かったら危なかったわね」


「注意する準備してた?」


「してた」


 春樹も静かに見ていた。


 その目元がほんの少しだけ柔らかい。


 なつきは、それにも気づいてしまう。


 春樹が笑っているとまでは言えない。


 でも、楽しそうではある。


 それが嬉しかった。


 三浦が一曲目を歌い切ると、部屋の中に拍手が起きた。


「おお!」


「うまい!」


「三浦、やるじゃん!」


 田辺が素直に拍手する。


「普通にすげぇ」


 三浦は汗を拭うふりをした。


「ありがとう。今日の俺はテストから解放されたからな」


「それ毎回言うね」


 亜衣が笑う。


 三浦はマイクを田辺に差し出した。


「次、田辺」


「早くね?」


「デュエットの前に実力確認」


「何様だよ」


「相方」


「まだ相方になってねぇ」


 田辺はそう言いながらもマイクを受け取った。


 なつきは少し意外だった。


 田辺が歌う姿は、あまり想像していなかった。


 レスリング部。


 声が大きい。


 距離が近い。


 そういう印象が強い。


 けれど、マイクを持つ田辺は、思ったより照れているように見えた。


「何歌うの?」


 亜衣が聞く。


「知ってるやつ」


「雑」


 田辺は少し古めの男性ボーカル曲を入れた。


 イントロが流れる。


 歌い出す。


 その瞬間、部屋の空気が少し変わった。


「え」


 亜衣が小さく声を漏らす。


 田辺は、普通にうまかった。


 声量がある。


 音程も意外と安定している。


 少し不器用な歌い方だけれど、その分まっすぐだった。


 三浦とは違う。


 三浦は場を動かす歌い方。


 田辺は、声そのもので押す歌い方。


「田辺、うまいじゃん」


 三浦が本気で驚いている。


「だから言ったろ、普通に歌うって」


「普通じゃない。これはデュエット決定」


「だから何でだよ」


 歌い終えた田辺は、少し照れくさそうに頭をかいた。


 なつきも拍手した。


「田辺、上手だった」


「お、なつきもそう思う?」


 いつものように名前で呼ばれて、少しだけ反応しそうになった。


 でも、今日は嫌な感じは薄かった。


 田辺の意識が、なつきだけに向いているわけではないからだろう。


 周りもいる。


 三浦もいる。


 空気が明るい。


「うん。びっくりした」


「だろ」


 田辺は嬉しそうだった。


 その隣で島中がいないことも、なつきには少し大きかった。


 この部屋は、今のところ穏やかだ。


 島中の視線がないだけで、こんなに空気が違う。


 亜衣がリモコンを取った。


「じゃあ次、私」


「お、伊藤さん!」


 三浦が盛り上げる。


「何歌う?」


「普通に明るいやつ」


「亜衣ちゃん、歌うまそう」


 なつきが言うと、亜衣は笑った。


「そこそこね」


「自分で言う」


 茜が突っ込む。


「だって下手とは言いたくないじゃん」


 亜衣は明るい女性ボーカルの曲を入れた。


 イントロが流れると、表情が少し変わる。


 普段の軽さはそのままに、歌い出すと声に華やかさがあった。


 明るくて、少し甘くて、でも力がある。


 自然と場が盛り上がる。


 三浦が手拍子を始め、田辺も乗る。


 なつきも小さく手拍子した。


 茜は控えめに。


 紅秋はリズムを取りながら静かに見ている。


 春樹は、画面と亜衣を交互に見ていた。


 亜衣は歌いながら、サビのところでなつきへ軽くウインクした。


 なつきは笑ってしまった。


 亜衣はすごい。


 どこでも亜衣らしくいられる。


 図書館でも。


 電車でも。


 教室でも。


 カラオケでも。


 その明るさに、なつきは何度も助けられている。


 亜衣が歌い終えると、部屋に拍手が起こった。


「伊藤さん、やっぱりうまい!」


 三浦が言う。


「でしょ」


 亜衣は得意げに笑った。


「春樹、どう?」


 突然、亜衣が春樹に振った。


 春樹は少しだけ顔を上げる。


「うまかった」


「感想短っ」


「うまかった」


「二回言った」


 亜衣が笑う。


「じゃあ次、春樹いく?」


 なつきの心臓が跳ねた。


 いきなり。


 春樹。


 歌うのか。


 春樹は少しだけ考えた。


「まだいい」


「逃げた」


「逃げてない」


「じゃあ後でね」


「うん」


 後で。


 春樹が歌う。


 なつきは、急に喉が渇いた。


 カップを手に取り、少し飲む。


 ただのオレンジジュースが、やけに甘く感じる。


 次は誰にするかで、少しだけ揉めた。


 三浦は「田辺とデュエットの準備」と言い始め、田辺は「まだ早い」と笑いながら断る。


 亜衣は「茜歌おう」と言い、茜は「まだ様子を見る」と返す。


 紅秋は静かにメニューの曲リストを見ていた。


 その横顔があまりに落ち着いていて、三浦が目ざとく気づく。


「板倉」


「何?」


「何探してる?」


「曲」


「歌うの?」


「そのうち」


「何系?」


「普通」


「普通が怖い」


 紅秋は何も言わなかった。


 ただ、リモコンの履歴をじっと見ている。


 その静けさが、逆に不穏だった。


 なつきは少し笑った。


 この部屋は、思っていたより楽しい。


 大人数のクラス打ち上げだから、もっと落ち着かないかと思っていた。


 島中が同じ部屋ではないことも大きい。


 田辺も三浦と一緒に楽しんでいる。


 亜衣はいつも通り明るい。


 茜は控えめだけれど楽しそう。


 紅秋は何を歌うのか分からない。


 春樹はまだ歌っていない。


 まだ始まったばかりなのに、すでに胸がいっぱいだった。


 その時、ドアの外が少し騒がしくなった。


 廊下を誰かが歩く足音。


 笑い声。


 そして、聞き慣れた声。


「こっち、盛り上がってんの?」


 ドアが軽く開いた。


 島中だった。


 向こうの部屋から様子を見に来たらしい。


 なつきの胸が一瞬だけ固くなる。


 島中は部屋の中を見回した。


 三浦、田辺、亜衣、茜、なつき、春樹、紅秋。


 そして、マイク。


「何、もう歌ってんじゃん」


 三浦が明るく言う。


「そりゃカラオケだからな」


「向こうは?」


「盛り上がってるよ」


 島中は笑った。


 でも、視線は少しなつきと春樹の方へ動いていた。


 なつきはそれに気づく。


 亜衣も気づいたのか、すぐに声を出した。


「島中、向こうの部屋まとめ役なんでしょ?」


「まあね」


「じゃあ戻った方がいいんじゃない? 主催者いないと困るでしょ」


 言い方は明るい。


 でも、ちゃんと線がある。


 島中は少しだけ笑った。


「伊藤、追い返すのうまいな」


「褒め言葉として受け取る」


「じゃ、また後でな」


 島中は軽く手を振ってドアを閉めた。


 空気が少しだけ戻る。


 三浦が小声で言う。


「伊藤さん、助かった」


「別に。向こうの部屋も見ないとでしょ、主催者さんは」


 亜衣はわざと軽く言った。


 茜が小さく頷く。


「今のは良かった」


「でしょ」


 なつきは胸の力を抜いた。


 少しだけ島中が来ただけで、こんなに体が反応する。


 でも、今は一人ではない。


 そう思うと、大丈夫だった。


 春樹が静かに言った。


「大丈夫?」


 誰に向けたのか、一瞬分からなかった。


 でも、視線はなつきの方を向いていた。


 なつきは少し驚く。


「うん」


「そう」


「ありがとう」


 春樹は頷いた。


 たったそれだけ。


 でも、なつきの胸はまた温かくなった。


 見ていてくれた。


 島中が来た時、自分が少し固まったことを。


 気づいてくれた。


 それだけで、さっきまでの不安が少し溶けていく。


 三浦が空気を変えるようにマイクを持ち上げた。


「よし!」


「何?」


 田辺が聞く。


「田辺」


「おう」


「デュエットだ」


「今?」


「今」


「曲は?」


 三浦がリモコンを操作する。


「これ」


 画面に、明るく勢いのある男性デュオ曲のタイトルが表示された。


 田辺が少し笑う。


「あー、知ってる」


「だろ?」


「まあ、いける」


 三浦はもう一本のマイクを田辺へ渡した。


「魂のデュエット、開幕」


「だから魂って何だよ」


 イントロが流れる。


 三浦が立ち上がる。


 田辺も少し照れながら立つ。


 亜衣が手拍子を始める。


 なつきも笑いながら手拍子する。


 茜も控えめに。


 紅秋も少しだけリズムを取る。


 春樹は静かに見ている。


 歌が始まった。


 三浦の明るい声。


 田辺のまっすぐな声。


 二人の声は、思ったより相性が良かった。


 三浦が動きながら歌う。


 田辺が少し笑いながら合わせる。


 サビに入ると、三浦が田辺の肩を組もうとして、田辺が一瞬よける。


 でもすぐに笑って、結局少しだけ肩を寄せた。


 部屋中が笑いに包まれる。


「いいじゃん!」


 亜衣が声を上げる。


「田辺、いける!」


「三浦くん、動きすぎ!」


 なつきも笑った。


 こんな田辺を見るのは初めてだった。


 島中の隣でなつきに絡んでくる田辺ではない。


 体育会系の少し不器用な男子が、三浦に巻き込まれて楽しそうに歌っている。


 こういう顔もするのだと思った。


 曲が終わると、拍手が起きた。


 三浦は満足げにマイクを掲げる。


「俺たちは伝説になった」


 田辺は少し息を切らして笑った。


「疲れた」


「でも良かったよ」


 なつきが言うと、田辺は少し嬉しそうにする。


「おう。ありがとな」


 今日は、そこで終わった。


 いつものように距離を詰めてこなかった。


 なつきは少し安心し、素直に笑えた。


 その時、亜衣がふいに春樹を見る。


「春樹」


「何」


「そろそろ一曲いこう」


 なつきの心臓が、一瞬で跳ねた。


 春樹は逃げるような顔はしなかった。


 ただ、少しだけリモコンを見る。


「何歌うか決めてない」


「じゃあ知ってるやつで」


「雑」


「大丈夫。春樹なら何とかなる」


「根拠がない」


「ある。なんとなく」


 春樹は少し困ったようにした。


 その表情が新鮮で、なつきは見入ってしまう。


 図書室でも、教室でも、春樹はあまり困らない。


 島中に難癖をつけられても、田辺に聞かれても、淡々としていた。


 でもカラオケで曲を振られると、少しだけ困る。


 そんな春樹が、なんだか近く見えた。


「じゃあ」


 亜衣がリモコンを持つ。


「私とデュエットなら歌える?」


「曲による」


「これ」


 亜衣が選んだのは、男女デュエットの有名な曲だった。


 なつきの胸が、少しだけ揺れた。


 亜衣と春樹。


 デュエット。


 それは恋愛感情ではない。


 亜衣は春樹にそういう気持ちがない。


 それは分かっている。


 でも、目の前で二人が並んで歌うのを見るのは、少しだけ胸がざわつく。


 亜衣がこちらをちらりと見た。


 その目は、からかうものではなかった。


 大丈夫。


 そう言っているようにも見えた。


 なつきは小さく息を吸った。


 大丈夫。


 これはただのカラオケ。


 図書委員コンビ。


 同じ電車の友達。


 それだけ。


 春樹はマイクを受け取った。


「歌えると思う」


「じゃあ決まり」


 亜衣が笑う。


 イントロが流れ始める。


 部屋の空気が少し変わる。


 なつきは、マイクを持つ春樹を見つめた。


 春樹が歌う。


 次の瞬間を待つだけで、胸がいっぱいになる。


 春樹は画面を見た。


 そして、静かに息を吸った。


 その姿を見ながら、なつきは思った。


 今日もまた、自分の知らない春樹を知るのかもしれない。


 怖いような。


 嬉しいような。


 その両方を抱えたまま、なつきは始まる歌を待った。

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