第29話 甘いものと、明日への約束
ファミレスの入口には、夕方らしいざわめきがあった。
自動ドアが開くたびに、店内の明るい音が外へこぼれてくる。
食器の触れ合う音。
店員の声。
子どもの笑い声。
ドリンクバーの機械が氷を落とす音。
そして、どこかの席で聞こえる「テスト終わったー」という声。
同じように中間考査一日目を終えた生徒たちが、何組か店内にいるらしい。
学校から少し離れた場所にあるそのファミレスは、梅桜高校の生徒もよく使う店だった。
なつきたち自転車組は、店の前の駐輪スペースに自転車を並べた。
なつき、茜、三浦、紅秋。
少し遅れて、駅方面へ歩いていた春樹と亜衣も到着した。
「着いたー!」
三浦が店の前で両手を広げる。
「声」
茜が即座に注意する。
「まだ店の外だからセーフ」
「外でも迷惑」
「はい」
亜衣が笑いながら言った。
「三浦くん、ファミレスでテンション上がりすぎ」
「伊藤さん、今日は許してくれ。俺は数学から解放された男なんだ」
「まだ明日もテストあるよ」
「それを今言うな!」
紅秋が静かに言う。
「現実からは逃げられない」
「板倉まで」
なつきはそのやり取りを聞きながら、思わず笑った。
笑える。
テスト前はあんなに緊張していたのに。
朝は、問題用紙を見ることを考えるだけで胸が苦しかったのに。
今は、みんなでファミレスの前にいる。
それだけで、少し不思議な感じがした。
春樹は店の看板を見上げてから、静かに言った。
「混んでるかも」
「だよなぁ」
三浦が入口の中を覗く。
「六人いけるかな」
「待つなら待つ」
紅秋が言う。
「甘いもののためなら待てる」
亜衣が力強く頷いた。
「分かる」
なつきも小さく頷く。
春樹が横から言った。
「甘いもの、強いな」
「強いよ」
なつきは思わず答えた。
春樹が少しだけこちらを見る。
「そうなんだ」
「うん。テスト後は特に」
「そう」
それだけの短い会話。
でも、なつきの胸には少しだけ温かく残った。
今日、春樹は来てくれた。
六人で。
勉強会メンバーで。
それが嬉しい。
ただそれだけなのに、足元が少し軽くなるようだった。
三浦が代表して店員に声をかけた。
「六人です」
店員は少しだけ店内を確認し、笑顔で言った。
「少々お待ちください」
入口横の待合スペースに並ぶ。
六人で立つと、少しだけ狭い。
けれど、不思議と窮屈ではなかった。
亜衣がメニューの立て看板を見ながら言う。
「パフェある」
「あるね」
なつきも覗き込む。
チョコパフェ。
いちごパフェ。
抹茶パフェ。
季節限定のフルーツパフェ。
写真の中のクリームが、テストで疲れた頭にやけに眩しく見える。
「なつき、どれにする?」
「迷う」
「迷ってる時点で幸せ」
「分かる」
三浦が後ろから覗き込む。
「俺は全部食べたい」
「三浦くん、明日もテストだよ」
「糖分は脳の燃料」
紅秋が即座に言う。
「取りすぎると眠くなる」
「現実!」
茜が看板を見ながら静かに言った。
「私は小さいパフェでいいかな」
「茜、小さいのでいいの?」
亜衣が驚く。
「夜に響くと困る」
「真面目」
「明日もあるから」
「分かってるけど、今は忘れたい」
亜衣がため息をつく。
その時、店員が戻ってきた。
「六名様、ご案内します」
六人は店内へ入った。
案内されたのは、奥の少し広めの席だった。
六人で座れるボックス席。
通路側に三浦と亜衣。
奥側に茜となつき。
向かいに春樹と紅秋。
自然とそんな配置になった。
なつきの正面は、春樹ではなく、少し斜め前。
でも、顔を上げれば見える距離だった。
近すぎない。
でも遠くもない。
その距離が、今はちょうど良い気がした。
「よし」
三浦がメニューを開く。
「作戦会議だ」
「何の?」
亜衣が聞く。
「甘いものをどう攻略するか」
「食べるだけ」
「伊藤さん、甘いものに敬意を持って」
「あるよ。だから早く決めたい」
茜がメニューを開きながら言う。
「先に注文を決めて、その後ドリンクバーね」
「委員長出た」
三浦が言う。
「今日は委員長ではない」
「休日でもないし、放課後委員長?」
「三浦くん」
「はい」
なつきは笑いながらメニューを見る。
パフェ。
ケーキ。
パンケーキ。
アイス。
どれも魅力的だった。
でも、心の中ではもう決まりかけていた。
チョコパフェ。
疲れた時には、分かりやすく甘いものがいい。
「なつきは?」
亜衣が聞く。
「チョコパフェにする」
「いいね。私はいちご」
「茜ちゃんは?」
「ミニパフェ」
「本当に小さいやつだ」
「明日もあるから」
三浦はメニューを見ながら唸っている。
「俺、パンケーキかパフェで人生の分岐点にいる」
「大げさ」
紅秋が言う。
「板倉は?」
「チーズケーキ」
その言葉に、なつきは反射的に春樹を見た。
春樹もメニューを見ている。
そして、静かに言った。
「俺もチーズケーキ」
なつきの胸が、小さく跳ねた。
本当に頼むんだ。
廊下で聞いたばかりだった。
春樹の好きな甘いもの。
チーズケーキ。
その答えが、今、目の前の注文として形になる。
ただそれだけのこと。
でも、なつきには少し特別だった。
亜衣がなつきの顔をちらりと見る。
何かに気づいたように、口元を少し緩める。
なつきは慌ててメニューへ視線を戻した。
からかわれないように。
でも、たぶん少し顔に出ている。
「春樹、チーズケーキ好きなんだ」
亜衣がさらっと言う。
「うん」
「初耳」
「言ってないから」
「確かに」
三浦が手を上げる。
「俺はパンケーキにする。メープルが俺を呼んでる」
「さっきから何かに呼ばれすぎ」
茜が言う。
注文を終えると、六人はドリンクバーへ向かった。
三浦はカップを持つだけで妙に楽しそうだった。
「見ろ、ドリンクバーだ」
「見てる」
紅秋が答える。
「無限の可能性」
「混ぜすぎるとまずくなる」
「経験者?」
「一般論」
亜衣が氷を入れながら言う。
「三浦くん、変なミックスしないでよ。席に戻ってから後悔するやつ」
「俺は学習する男」
「本当に?」
「今日は普通にメロンソーダ」
「普通だった」
なつきはオレンジジュースを選んだ。
隣で春樹がアイスティーを入れている。
その動きが静かで、店内の賑やかさの中でも春樹らしかった。
「大國くん、アイスティーなんだ」
「うん」
「甘くする?」
「少し」
「そうなんだ」
小さな発見がまた増える。
チーズケーキ。
アイスティーは少し甘くする。
別に大きなことではない。
でも、なつきはそれを覚えておきたいと思った。
席へ戻ると、三浦がカップを掲げた。
「では」
「何?」
亜衣が警戒する。
「中間考査一日目、お疲れ様でした!」
その声は店内に響きすぎない程度だった。
でも、十分に三浦らしい勢いがある。
亜衣が笑ってカップを上げる。
「お疲れー」
なつきも続く。
「お疲れ様」
茜も静かにカップを持ち上げる。
「お疲れ様」
紅秋が頷く。
「お疲れ」
春樹も短く言った。
「お疲れ」
六つのカップが、軽く近づく。
音はほとんど鳴らない。
でも、その小さな仕草だけで、なつきの胸が少し熱くなった。
勉強会メンバー。
いつの間にか、そう呼べる六人になっていた。
最初は、ただテストが不安だった。
島中や田辺に邪魔されないように、少人数で集まるための勉強会だった。
普通科棟の空き教室。
図書館。
茜の家。
たくさんのノート。
付箋。
ため息。
小さな笑い。
その全部が、このカップの音のない乾杯に繋がっている。
「で」
亜衣がドリンクを一口飲んでから言った。
「簿記どうだった?」
「出た」
三浦が即答する。
「何が」
「敵」
「全部敵でしょ」
「違う。今回は手形がちょっと味方だった」
「おお」
紅秋が頷く。
「教えたところは出たね」
「板倉先生のおかげ」
「先生じゃない」
「春樹先生もありがとう」
「先生じゃない」
春樹が即答する。
二人の「先生じゃない」が重なり、亜衣が笑う。
「そこ仲良いね」
「仲良いのか?」
三浦が真顔で聞く。
紅秋が答える。
「少なくとも三浦くんよりは静か」
「比較対象!」
なつきは笑った。
声を出して笑った。
こんなに自然に笑えることが嬉しい。
テストが終わったからだけではない。
このメンバーだから。
そう思えた。
「なつきは簿記、手応えありそうだったよね」
亜衣が言う。
なつきは少し照れた。
「全部じゃないけど……前よりは」
「それ、かなりすごいよ」
「そうかな」
「そう。最初の頃、簿記の問題見て顔消えてたもん」
「顔消えてた?」
「表情が無になってた」
三浦が頷く。
「分かる。横田、問題文に魂吸われてた」
「そんなに?」
茜が静かに言った。
「前より落ち着いていたのは本当」
「茜ちゃん」
「問題文を読む癖がついたから」
春樹も頷く。
「最後まで読めてたなら大きい」
なつきは胸の奥が温かくなる。
褒められている。
少しずつ。
みんなから。
努力が、ちゃんと見られていた。
「でも数学は難しかった」
なつきが言うと、全員が少し沈黙した。
そして三浦が深く頷いた。
「数学の話はやめよう」
「自分から言うのはいいんだ」
亜衣が突っ込む。
「数学とは今、距離を置いてる」
「明日以降も必要だよ」
紅秋が言う。
「板倉、今だけ夢を見せてくれ」
「現実を見た方が点は上がる」
「厳しい!」
そこへ注文した甘いものが運ばれてきた。
チョコパフェ。
いちごパフェ。
ミニパフェ。
パンケーキ。
チーズケーキ二つ。
テーブルの上が一気に華やかになる。
「うわ」
なつきは思わず声を漏らした。
チョコパフェは写真よりも大きく見えた。
クリームの白。
チョコソースの濃い色。
アイス。
バナナ。
小さなクッキー。
テスト用紙の白とはまるで違う白さだった。
「これは勝ち」
亜衣がいちごパフェを見つめて言う。
「何に?」
茜が聞く。
「今日に」
三浦がパンケーキの前で手を合わせる。
「ありがとう、世界」
「また世界」
紅秋がチーズケーキをフォークで切る。
春樹も同じようにチーズケーキを食べる。
なつきはその様子をちらりと見た。
春樹は静かに一口食べる。
表情はあまり変わらない。
けれど、ほんの少しだけ目元が柔らかくなった気がした。
「大國くん」
「うん」
「美味しい?」
「うん」
「よかった」
言ってから、なつきは少し照れた。
自分が作ったわけでもないのに、よかったと言ってしまった。
春樹は気にした様子もなく言う。
「横田さんのは?」
「甘い」
「見れば分かる」
「美味しいよ」
「そう」
春樹は少しだけ頷いた。
それだけの会話なのに、なつきのパフェはさっきより甘く感じた。
亜衣がその様子を見て、何か言いたそうにした。
けれど、今日は言わなかった。
その代わり、いちごパフェを一口食べて大げさに言う。
「生き返る」
三浦もパンケーキを口に入れた。
「俺も今、生き返ってる」
「二人とも一回死んでたの?」
茜が言う。
「数学で」
「英語で」
二人が同時に答える。
紅秋が静かに言った。
「復活してよかったね」
「板倉が優しい」
「明日もあるから」
「優しさの後に現実」
笑いがテーブルを包む。
周りの席にも高校生がいる。
どこかのグループも同じようにテストの話をしている。
店内のざわめきの中で、自分たちの笑い声が混ざっていく。
なつきはその空気を、ゆっくり胸に入れた。
楽しい。
ただ、それだけの感情があった。
春樹のことを意識していないわけではない。
むしろ、隣ではないけれど同じテーブルにいるだけで、何度も胸は高鳴る。
でも、それだけではなかった。
茜がいて。
亜衣がいて。
三浦がいて。
紅秋がいて。
春樹がいる。
この六人で過ごす時間そのものが、楽しかった。
「こういうの」
なつきは小さく呟いた。
茜が気づく。
「何?」
「ううん。楽しいなって」
茜は少しだけ目を細めた。
「そうね」
「茜ちゃんも?」
「楽しいわよ」
「意外」
「私を何だと思ってるの」
「真面目」
「真面目でも楽しいものは楽しい」
その言葉が、なつきはなんだか嬉しかった。
茜も楽しんでいる。
紅秋も笑っている。
春樹も来てくれた。
亜衣も三浦もいつも通り騒いでいる。
ノーストレス。
誰かに邪魔されることもない。
誰かの視線を気にすることもない。
ただ、テスト初日を乗り越えた六人が、甘いものを食べている。
それだけなのに、とても大切な時間に思えた。
しばらくテストの話をして、甘いものを食べて、ドリンクバーをおかわりして。
気づけば窓の外は少し暗くなり始めていた。
ファミレスの窓に、店内の明かりが映る。
自分たちの席も、少しだけそのガラスに映っている。
三浦が二杯目のメロンソーダを飲みながら言った。
「明日、何だっけ」
「現実に戻るの早いね」
亜衣が言う。
「戻りたくないけど、戻らないと死ぬ」
紅秋がスマホで時間割を確認する。
「情報処理と商業経済、あと国語」
「うわ」
亜衣が露骨に嫌そうな顔をする。
「暗記系きた」
「今夜は確認中心ね」
茜が言う。
三浦がテーブルに額をつけそうになる。
「帰ったら寝たい」
「寝る前にやりなさい」
「遠山さん、優しくない」
「優しいから言ってる」
「それはそう」
なつきはパフェの最後のアイスを食べながら、小さく頷いた。
「私も帰ったら少しやる」
「なつき、偉い」
亜衣が言う。
「亜衣ちゃんもやろう」
「やる。嫌だけど」
「私も嫌だけど」
三浦が手を上げる。
「俺も嫌だけどやる」
紅秋が頷く。
「それでいいと思う」
春樹も短く言う。
「やる」
全員が、少しだけ笑った。
嫌だけどやる。
それが、今の正直な気持ちだった。
テストはまだ続く。
今日の解放感にずっと浸ってはいられない。
でも、今日ここで笑ったことは、明日へ向かう力になる。
なつきはそう思った。
「じゃあ」
三浦がカップを持ち上げる。
「第二回乾杯」
「何に?」
亜衣が聞く。
「明日の生還に」
「縁起でもないけど、まあいいか」
茜もカップを持つ。
紅秋も。
春樹も。
なつきも。
三浦が小声で言った。
「明日も頑張ろう」
今度は誰もふざけなかった。
亜衣が頷く。
「頑張ろう」
茜も言う。
「頑張りましょう」
紅秋が続く。
「確認してから寝よう」
春樹が短く言う。
「焦らずに」
なつきはカップを持ったまま、みんなを見た。
今日まで、ひとりで頑張っていたわけではない。
明日も、ひとりで頑張るわけではない。
そう思えるだけで、少し強くなれる。
「うん」
なつきは笑った。
「明日も頑張ろう」
六つのカップが、また少しだけ近づいた。
小さな音が鳴る。
それは、テスト初日の終わりを告げる音であり、明日へ向かう約束の音でもあった。
ファミレスの外は、もう夕方から夜へ変わり始めている。
でも、なつきの胸の中は、不思議と暗くなかった。
甘いものの余韻。
みんなの笑い声。
春樹の「焦らずに」。
その全部を抱えて、なつきは明日も頑張れる気がした。
テストはまだ続く。
恋もまだ続く。
でも今日は。
ただ、楽しかった。
その事実だけで、十分だった。




