第28話 白い紙の向こう側
問題用紙を表に返した瞬間、教室の音が少し遠くなった。
いや、音が消えたわけではない。
むしろ、いつもよりはっきり聞こえる。
シャーペンの芯が紙に触れる音。
誰かが小さく息を吸う音。
椅子がわずかに軋む音。
窓の外を風が通る気配。
担任が教卓の前で腕時計を見る、ほんの小さな動き。
全部聞こえる。
聞こえるのに、なつきの意識は目の前の白い紙に吸い寄せられていた。
一時間目。
簿記。
中間考査初日の最初の科目。
問題用紙の上には、見慣れたようで、少しだけ違う文章が並んでいる。
仕訳問題。
手形。
売掛金。
買掛金。
試算表。
範囲表で何度も見た言葉。
春樹に教わった言葉。
茜に確認してもらった言葉。
図書館で、空き教室で、ノートの上に何度も書いた言葉。
なつきは、問題文の最初の一行に目を落とした。
焦らない。
最後まで読む。
胸の中で、ゆっくり繰り返す。
昨日の夜、グループメッセージで春樹が送ってくれた言葉。
今朝、春樹に言った言葉。
自分自身に何度も言い聞かせた言葉。
問題文を最後まで読む。
なつきはシャーペンをまだ動かさなかった。
まず読む。
最初から最後まで。
『得意先より売掛金の回収として、約束手形を受け取った』
受け取った。
心の中で、春樹の声がする。
受け取ったなら、受取手形。
売掛金が減る。
借方、受取手形。
貸方、売掛金。
なつきは小さく息を吐き、答案用紙へ書き込んだ。
手が震えていない。
少しだけ、それが嬉しかった。
次の問題。
『仕入先に対する買掛金の支払いとして、約束手形を振り出した』
振り出した。
支払手形。
買掛金が減る。
借方、買掛金。
貸方、支払手形。
同じように書く。
途中で、一瞬だけ受取手形と書きそうになった。
でも、手が止まった。
違う。
振り出した。
支払手形。
なつきはゆっくり文字を書き直す前に、そもそも書き間違える前に気づけたことに、小さく胸が熱くなった。
できている。
まだ最初だけだ。
でも、前の自分なら焦っていた。
一問目に引っ張られて、二問目も同じように書いていたかもしれない。
春樹に言われたこと。
茜に見てもらったこと。
ちゃんと残っている。
教室の中では、シャーペンの音が少しずつ増えていた。
斜め前の生徒がページをめくる。
どこかで誰かが小さく咳をする。
普段なら気になる音も、今は遠い。
なつきは三問目へ進んだ。
次は少し複雑だった。
現金の支払い。
買掛金の一部。
手数料。
一瞬、頭の中に線が絡まる。
心臓がまた速くなった。
焦る。
早く書かなければ。
みんなもう進んでいるのではないか。
そんな考えが浮かぶ。
けれど、その瞬間、茜の声が思い出された。
焦らない。
数字だけ見ない。
条件に線。
聞かれているものに丸。
なつきは問題用紙の余白に、小さく印をつけた。
条件。
支払い。
一部。
手数料。
何が増えたのか。
何が減ったのか。
一つずつ確認する。
全部を一度に見ようとすると混乱する。
だから、分ける。
今から作る距離も、昔からの距離とは違う。
なぜか、昨日の茜の言葉まで思い出した。
勉強とは関係ないはずの言葉。
でも、今のなつきには少しだけ似ているように思えた。
できない問題を、いきなり全部解こうとしない。
一つずつ分ける。
不安も、比べる気持ちも、テストも。
全部一度に抱えようとしない。
なつきはゆっくり仕訳を書いた。
少し迷った。
でも、空欄ではない。
自分で考えて書いた。
それだけで、前よりは進んでいる。
ページの下へ進むと、試算表の問題があった。
なつきは一瞬だけ息を止めた。
試算表。
何度もずれた。
合計が合わなかった。
同じ数字を二回入れた。
現金の欄で迷った。
春樹に「同じ金額を二回入れるとずれる」と言われた。
茜に「転記を確認」と言われた。
図書館で、紅秋に「先に科目ごとの場所を作る」と言われた。
なつきは答案用紙の横に、小さな区切りを作った。
売掛金。
買掛金。
現金。
受取手形。
支払手形。
先に道を作る。
春樹の言葉。
迷子にならないように、先に道を作る。
なつきは数字を拾っていった。
一つ。
二つ。
三つ。
焦らずに。
途中で、隣の席の誰かが勢いよく消しゴムを使い始めた。
消しカスが机の端にたまる音がする。
普段なら、それだけで不安になる。
誰かが間違えた。
自分も間違えているのではないか。
そんなふうに引きずられる。
でも今日は、目の前に戻れた。
自分の答案。
自分の問題。
最後まで読む。
合計を書く。
借方合計。
貸方合計。
なつきは数字を見比べた。
同じだった。
胸の奥で、何かが小さく弾けた。
合った。
試算表が合った。
声に出したいくらいだった。
でも、ここは試験中だ。
なつきは唇を結び、代わりに答案用紙の端を指で押さえた。
嬉しい。
でも、まだ終わっていない。
見直し。
見直しをする。
問題文を最後まで読むのと同じように、最後まで確認する。
時間を見る。
まだ少しある。
全部解き終えたわけではない。
後半の問題に進む。
分からないものもあった。
完全に自信がない問題もある。
でも、白紙ではない。
何かを書ける。
自分が知っているところまで、持っていける。
それが、なつきには大きかった。
終了五分前。
担任が声をかけた。
「あと五分」
教室の空気が少しだけ揺れた。
シャーペンの音が速くなる。
誰かが小さく息を飲む。
三浦の席の方から、紙をめくる慌ただしい音が聞こえた気がした。
亜衣は大丈夫だろうか。
茜はきっと落ち着いている。
春樹は。
なつきは、思わず前方を見る。
春樹は静かに答案を見直していた。
いつも通り。
それを見ただけで、不思議と落ち着いた。
自分も見直す。
最後の一分。
名前。
番号。
書いてある。
科目名。
大丈夫。
仕訳の借方貸方。
受け取った。
振り出した。
試算表。
数字。
すべて完璧かは分からない。
でも、最後まで見た。
チャイムが鳴った。
甲高い音が、教室の中に響く。
「やめ」
担任の声。
なつきはシャーペンを置いた。
手の中が少し汗ばんでいる。
答案用紙が前から回収されていく。
自分の答案が手元を離れた瞬間、体の力が少し抜けた。
一時間目が終わった。
簿記が終わった。
終わってしまった。
できたのか、できていないのか。
まだ分からない。
でも、なつきの中には確かに手応えがあった。
いつもより、読めた。
いつもより、止まらなかった。
いつもより、逃げなかった。
休み時間になった瞬間、教室中から一斉に声が上がった。
「うわぁぁぁ……」
「手形出た!」
「試算表むずくない?」
「最後の問題何?」
「終わった」
「まだ一時間目だぞ」
「もう帰りたい」
静かだった教室が、一気にいつもの二年十一組に戻る。
いや、いつも以上に騒がしい。
張りつめていた分、声が一気に弾けたのだ。
三浦が椅子に背中を預けて、天井を見上げていた。
「俺は……生きてる……」
亜衣が机に突っ伏す。
「簿記、滅びなかった……でも私が滅びそう」
「亜衣ちゃん、大丈夫?」
なつきが声をかけると、亜衣は顔だけ上げた。
「なつきは?」
「たぶん……前よりできた」
言ってから、なつきは少し恥ずかしくなった。
でも、嘘ではない。
亜衣は目を丸くし、それからにっと笑った。
「おお」
三浦も反応する。
「横田、手応えあり?」
「全部じゃないけど」
「それでもすごい。俺、手応えというより、生存確認」
茜が自分の答案を思い返すようにしながら言った。
「なつき、落ち着いて解けた?」
「うん。最後まで読んだ」
「よし」
茜のその一言が、何よりも嬉しかった。
紅秋も近づいてきた。
「試算表、合計合った?」
「一応」
「なら大きいね」
「うん」
三浦が震える。
「俺、合計が合った瞬間に奇跡だと思った」
「合ったの?」
亜衣が聞く。
「一回だけ」
「一回?」
「一回合った。その後見直したらずれた」
「何してんの」
亜衣が笑う。
その笑い声で、なつきも少し笑えた。
春樹が席から立ち上がり、近くへ来た。
なつきは自然に姿勢を正してしまう。
「横田さん」
「はい」
「どうだった?」
それは短い質問だった。
でも、なつきにはとても大きい質問だった。
春樹が聞いてくれた。
自分の簿記のことを。
なつきは少しだけ息を吸った。
「最後まで読めた」
春樹は頷いた。
「うん」
「試算表も、一応合った」
「よかった」
その言葉に、胸が温かくなる。
ただの「よかった」。
でも、春樹が言うと、静かに沁みる。
「大國くんのおかげでもある」
言ってから、なつきは少しだけ頬が熱くなった。
でも、ちゃんと言いたかった。
春樹は一瞬だけ目を瞬かせた。
「横田さんが解いたから」
「でも、教えてくれたから」
「うん」
「ありがとう」
「どういたしまして」
短いやり取り。
でも、なつきには十分すぎた。
その横で、亜衣が何か言いたそうに口を開きかけた。
けれど茜に視線で止められた。
三浦は気づいているのかいないのか、次の英語の教科書を開いて絶望している。
「待って。次英語?」
「そう」
紅秋が答える。
「俺、簿記で全力使った」
「配分を考えなさい」
茜が言う。
「今言われても遅い!」
二時間目の英語が迫っていた。
教室の空気は、簿記後の解放感から一転して、また緊張へ戻っていく。
なつきも英語の教科書を開いた。
本文訳。
文法。
単語。
簿記ほど時間をかけられていない。
けれど、亜衣や春樹と図書館で確認したところはある。
関係代名詞。
長い文は切って読む。
亜衣が「関係しすぎ」と言っていた文。
春樹が「切って読む」と言った文。
思い出すと、少しだけ緊張が和らぐ。
やがて二時間目が始まった。
英語の問題用紙が配られる。
簿記の時より少しだけ心が落ち着いていた。
なつきは名前を書き、問題文を読み始める。
長い英文。
見た瞬間に、少しひるむ。
でも、すぐに思い出す。
切って読む。
全部を一度に読まない。
主語。
動詞。
修飾。
分かるところから。
英語は簿記ほどの手応えはなかった。
単語で迷う。
本文訳で止まる。
選択肢で二つに絞ってから悩む。
それでも、以前よりは粘れた。
何も書かずに飛ばす問題は少なかった。
なつきは、分からないところに印をつけ、先に進み、最後に戻った。
テスト中の時間は、不思議だった。
長いようで短い。
焦っている時は時計の針が速く見える。
悩んでいる時は、同じ一分がやけに重い。
終了チャイムが鳴った時、英語に関しては胸を張ってできたとは言えなかった。
でも、投げ出さなかった。
その実感はあった。
二時間目終了後の教室は、簿記の時とは違う声に包まれた。
「英語無理!」
「長文長い!」
「単語出すぎ!」
「関係代名詞って何と関係してんだよ!」
亜衣が机に顔を伏せたまま言った。
「関係代名詞、絶交したい」
春樹が近くで静かに答える。
「できない」
「分かってるけど言いたかった」
三浦が続く。
「俺、途中から英語じゃなくて模様に見えてきた」
「それはまずい」
紅秋が言う。
「板倉、今の俺に現実を見せるな」
「見ないと次が数学」
「そうだったあああ」
叫びかけて、三浦は途中で声を抑えた。
テスト期間中だから、先生に注意される可能性がある。
それでも周りの生徒たちは笑った。
緊張と疲労で、みんな少しだけ変なテンションになっている。
なつきも笑いながら、数学のノートを出した。
三時間目。
数学。
初日の最後。
ここを乗り切れば、とりあえず今日のテストは終わる。
数学は不安だった。
簿記よりも手応えが読めない。
文章題が出たら、焦る可能性がある。
でも、茜に教わった。
条件に線。
聞かれているものに丸。
焦らない。
担任が戻ってきて、また教室が静かになる。
問題用紙が配られる。
なつきは三度目の深呼吸をした。
今日は何度、深呼吸しているのだろう。
でも、そのたびに少しずつ落ち着けている。
数学の問題用紙を表に返す。
計算問題。
関数。
文章題。
なつきは最初の計算問題から取りかかった。
ここは落としたくない。
丁寧に。
符号に注意。
途中式を書く。
暗算で飛ばさない。
春樹ではなく、茜の声が強く思い出される。
途中式を書きなさい。
なつきはノートではなく答案用紙の余白に、きちんと式を書いた。
文章題に入ると、少し手が止まった。
問題文が長い。
数字が複数ある。
一瞬、頭が白くなりかける。
でも、そこでシャーペンを置かずに、問題文に線を引いた。
条件。
聞かれているもの。
何をxにするか。
昨日、茜の家で何度もやったこと。
図書館でも確認したこと。
ゆっくり。
全部分からなくてもいい。
分かるところから。
隣の席から、誰かのため息が聞こえた。
後ろの方で、ページをめくる音。
三浦は大丈夫だろうか。
亜衣は。
そんな考えが浮かぶ。
でも、すぐに戻る。
自分の答案。
今は自分の問題。
なつきは式を立てた。
完全に自信はない。
でも、書けた。
解いた。
最後まで。
三時間目の終盤、なつきの集中力はかなり削られていた。
頭が疲れている。
簿記、英語、数学。
連続でテストを受けるというのは、ただ座っているだけでも消耗する。
それでも、あと少し。
今日の最後。
なつきは残った問題を見直した。
計算ミスが一つ見つかった。
消しゴムで丁寧に消し、書き直す。
見直してよかった。
そう思った瞬間、少しだけ嬉しくなる。
終了のチャイムが鳴った。
「やめ」
担任の声。
なつきはシャーペンを置いた。
今度こそ、今日のテストが終わった。
答案用紙が回収される。
教室の空気は、回収が終わるまでぎりぎり静かだった。
けれど全ての答案が教卓に集まった瞬間。
二年十一組は、一気に爆発した。
「終わったあああ!」
「一日目終わった!」
「数学何あれ!」
「簿記の試算表合った人いる!?」
「英語長文無理!」
「生きてる!」
椅子が鳴る。
机の上に突っ伏す音。
誰かが笑う。
誰かが本気で泣きそうな声を出す。
三浦は両手を上げていた。
「俺は帰還した!」
亜衣が机に伏せたまま片手を上げる。
「私も……たぶん帰還……」
紅秋が少し疲れた顔で笑った。
「一日目としては、まあ」
「板倉、その『まあ』が怖い」
三浦が言う。
茜はノートをしまいながら、小さく息を吐いた。
なつきはその横顔を見て言う。
「茜ちゃん、お疲れ」
「なつきも」
「数学、難しかったね」
「うん。少し時間が足りなかった」
「茜ちゃんでも?」
「うん」
それを聞いて、なつきは少しだけ安心した。
自分だけが難しいと感じたわけではない。
春樹はどうだったのだろう。
そう思って視線を向けると、春樹は答案が回収された後、静かに筆箱をしまっていた。
いつも通り。
けれど、少しだけ肩の力が抜けているようにも見えた。
なつきは、今日一日を振り返った。
簿記。
最後まで読めた。
試算表が合った。
英語。
難しかったけれど、投げ出さなかった。
数学。
計算ミスを見つけて直せた。
完璧ではない。
満点なんて、きっと遠い。
でも、今までとは違った。
ちゃんと戦った。
そう思えた。
なつきは机の上の消しゴムを拾い、鞄にしまう。
手のひらにはまだ少し汗が残っている。
けれどその汗さえ、今日を乗り切った証のように思えた。
一日目のテストは終わった。
でも、教室の騒がしさはまだ収まらない。
この後、誰かがきっと言い出す。
お疲れ会。
打ち上げ。
甘いもの。
ファミレス。
その予感が、教室のあちこちにもう漂い始めていた。
なつきは、春樹の方をちらりと見る。
春樹も少しだけこちらを見た。
目が合った。
ほんの一瞬。
それだけで、なつきの胸は今日の疲れとは別の音を立てる。
春樹は短く頷いた。
なつきも、小さく頷き返した。
言葉はなかった。
でも、それだけでよかった。
今日、頑張った。
そのことを、少しだけ分かち合えた気がしたから。
★
三時間目終了のチャイムが鳴った。
その音が消えるより早く、教室中の空気が変わる。
今まで張り詰めていた糸が、一斉に切れたようだった。
「終わったああああああ!!」
最初に叫んだのは三浦圭だった。
勢いよく椅子へ背中を預け、そのまま両手を天井へ突き上げる。
「俺は生還した!!」
「うるさい」
即座に亜衣が返した。
「聞いてくれ伊藤!」
「聞かない」
「聞いてくれ!」
「聞かない」
「俺は!」
「聞かない」
「生還した!」
「知ってる」
教室のあちこちから笑い声が上がった。
緊張で固まっていた空気が、一気に崩れる。
誰かが机に突っ伏す。
誰かが椅子へだらしなくもたれかかる。
水筒を一気に飲む生徒。
窓を開ける生徒。
友達同士で答え合わせを始める生徒。
まるで別の教室だった。
ほんの数分前まで、誰もが問題用紙と睨み合っていたのに。
「数学無理」
「英語長かった」
「簿記の試算表で死んだ」
「最後の文章題見た?」
「見たくない」
「俺も」
あちこちで悲鳴と笑いが飛ぶ。
その騒がしさが、なつきには妙に心地良かった。
終わった。
まだ全教科ではない。
中間テスト自体も終わっていない。
でも。
今日の分は終わった。
それだけで、胸の奥に溜まっていた重さが少し軽くなる。
「なつき」
隣から茜が呼んだ。
「お疲れ」
「茜ちゃんも」
二人は顔を見合わせる。
それだけで少し笑ってしまう。
昨日までの不安。
今朝の緊張。
全部が少し遠く感じた。
「どうだった?」
茜が聞く。
「分かんない」
なつきは正直に答えた。
「でも」
「うん」
「前よりはできた気がする」
言葉にした瞬間、胸が温かくなる。
点数はまだ分からない。
結果も出ていない。
でも、自分の中の感覚は確かだった。
前よりできた。
前より解けた。
前より逃げなかった。
それは事実だった。
茜は静かに頷いた。
「それなら十分」
その言葉が嬉しい。
なつきは少しだけ肩の力を抜いた。
すると前の席から三浦が振り返る。
「横田!」
「なに?」
「俺たち頑張ったよな!」
「うん」
「褒めてくれ!」
「頑張ったね」
「よし!」
三浦は拳を握った。
教室がまた笑う。
紅秋まで少し口元を緩めている。
「三浦」
紅秋が言った。
「なに」
「まだテスト期間中」
「今は祝勝会」
「違う」
「気持ちは祝勝会」
「それは否定しない」
珍しく紅秋が折れた。
周囲から「おお」と声が上がる。
「板倉も疲れてる」
「板倉が優しい」
「世界終わる?」
「終わらない」
紅秋の即答にまた笑いが起きた。
なつきはその光景を見ながら思う。
こういう時間が好きだ。
勉強会も楽しかった。
図書館も。
でも、こうしてみんなで笑っている時間も好きだった。
高校二年生になってから。
少しずつ。
本当に少しずつだけど。
自分の居場所が増えている気がする。
その時だった。
「横田」
聞き慣れた声。
島中良だった。
なつきの肩が少しだけ固くなる。
さっきまでの空気とは違う。
島中は机へ腰を預けながら笑っていた。
「どうだった?」
「何が?」
「テスト」
「普通かな」
「普通ってなんだよ」
「普通は普通」
なつきが答えると、島中は鼻で笑った。
「俺、結構できたわ」
亜衣がすぐ反応する。
「聞いてない」
「まだ何も言ってないだろ」
「言ったじゃん」
「伊藤さぁ」
島中が呆れた顔をする。
亜衣は全く気にしない。
「島中、自分からできたアピールする人って大体微妙だよ」
「偏見」
「経験則」
「失礼だな」
教室の何人かが吹き出した。
島中は面白くなさそうだった。
なつきはそのやり取りを見ながら、少しだけ助かったと思う。
亜衣はこういう時、本当に遠慮がない。
でも、その遠慮のなさに救われることも多い。
そこへ田辺が現れた。
問題集を脇に抱えている。
「俺さ」
誰も聞いていないのに話し始める。
「簿記いけた」
「おめでとう」
三浦が即答。
「ありがと」
「誰も止めないんだ」
亜衣が呆れる。
田辺は春樹の方を向いた。
「大國のおかげ」
「違う」
春樹は即答した。
「いや、大國のおかげ」
「違う」
「でも教えてくれたじゃん」
「解いたのは田辺」
「でも教えてくれた」
「解いたのは田辺」
同じ会話が繰り返される。
教室の何人かが笑った。
三浦が腹を抱える。
「漫才か」
「ほんとだ」
亜衣も笑う。
なつきはそのやり取りを見ながら、胸が少し温かくなる。
春樹は変わらない。
誰に対しても。
田辺だから適当に扱うわけじゃない。
勉強を教えたのも。
今こうして話しているのも。
全部自然だ。
それが春樹らしい。
だから好きになったのかもしれない。
そんなことを考えてしまう。
その時。
三浦が突然立ち上がった。
「決めた」
みんなが見る。
「甘いもの食べたい」
教室が一瞬静かになる。
「分かる」
最初に言ったのは亜衣だった。
「分かる」
なつきも言う。
「分かる」
茜も。
「分かる」
紅秋まで頷く。
三浦は感動したように胸を押さえた。
「ありがとう」
「何が」
「世界」
亜衣が笑う。
「大げさ」
「いや、疲れた後の甘いものは正義」
「それは否定しない」
茜が言う。
すると三浦が机を叩いた。
「よし」
「なに」
「行こう」
「どこに」
「打ち上げ」
その一言で空気が変わる。
教室の中に小さなざわめきが生まれた。
なつきの心臓も少しだけ跳ねる。
打ち上げ。
その響きだけで、なんだか特別に聞こえた。
★
「打ち上げ」
三浦が言ったその言葉は、教室の空気に思っていた以上に響いた。
中間テスト一日目。
簿記、英語、数学。
三つの科目を乗り越えた直後の二年十一組には、もう勉強という言葉を受け止める余力はあまり残っていなかった。
誰もが疲れている。
誰もが何かを叫びたい。
誰もが、少しだけ自分を甘やかしたかった。
だから、三浦の言葉は正しかった。
少なくとも、この瞬間の教室にとっては。
「打ち上げって、今日?」
亜衣が目を上げる。
机に突っ伏していた顔には、まだ英語と数学の疲れが残っている。
けれど、その目だけは少し輝き始めていた。
三浦は大きく頷く。
「今日」
「まだテスト期間中だけど」
茜が冷静に言う。
三浦は胸に手を当てた。
「遠山さん」
「何?」
「今日だけは、その正しさを少しだけ横に置いてくれ」
「なぜ」
「俺たちは生き残った」
「中間考査一日目が終わっただけよ」
「それが大事件なんだ!」
教室の近くにいた数人が笑う。
亜衣が椅子に座り直して言った。
「でも、正直甘いものは食べたい」
「ほら!」
三浦が勢いよく亜衣を指差す。
「伊藤さんが言った!」
「私は甘いものが食べたいって言っただけで、打ち上げとは言ってない」
「ほぼ同じ!」
「違う」
「違わない!」
なつきは二人のやり取りを見ながら、少しだけ笑った。
テスト前の緊張が嘘みたいだった。
朝は、問題用紙のことを考えるだけで胸が苦しかった。
教室に入った時も、黒板に書かれた『中間考査一日目』の文字が、やけに重く見えた。
それなのに今は、同じ教室で三浦が甘いものを叫んでいる。
亜衣が半分笑いながら止めている。
茜が現実を差し込んでいる。
紅秋が呆れたように、それでも少し笑っている。
春樹は静かに筆箱をしまいながら、その会話を聞いている。
全部が、同じ日とは思えない。
けれど、だからこそ解放感があった。
終わった。
今日の分は、ちゃんと終わった。
「なつきは?」
亜衣が聞いた。
「え?」
「甘いもの」
「あ、食べたい」
なつきは素直に答えた。
朝は食欲がなかった。
母に「だから食べるの」と言われて朝食を食べた。
でも今は違う。
体が甘いものを欲しがっている。
頭も、心も、何か柔らかいものを欲しがっている。
「ほら、なつきも」
三浦が嬉しそうに言う。
「横田も賛成」
紅秋が小さく言った。
「なら、軽く寄るくらいならいいんじゃない?」
その一言に、三浦が目を見開いた。
「板倉が……許可を……」
「許可ではない」
「板倉が打ち上げを認めた!」
「軽く寄ると言っただけ」
「それを人は打ち上げと言う!」
「言わない」
紅秋は訂正したが、口元は少し緩んでいた。
茜は軽くため息をつく。
「帰ってから復習するなら、少しくらいはいいと思う」
「茜ちゃんも?」
なつきが聞くと、茜は頷いた。
「ずっと詰めていても効率が悪いから」
「茜が合理的な理由で許可した!」
亜衣が笑う。
「じゃあ決まりじゃん」
三浦が両手を上げる。
「行こう! 甘いものの国へ!」
「ファミレスね」
茜が即座に修正する。
「現実的!」
「場所はどこ?」
紅秋が聞く。
三浦が少し考える。
「学校から自転車でも行きやすいところ……駅方面だと春樹と伊藤さんは帰りやすいけど、横田たち自転車組はどうだ?」
その一言で、なつきは少しだけ三浦を見直した。
三浦はおちゃらけている。
いつも勢いで動いているように見える。
でも、こういうところでちゃんと周りを見る。
なつき、茜、三浦、紅秋は自転車通学。
春樹と亜衣は電車通学。
蓮や美優も電車組だが、今回はいない。
帰りやすさを考えるなら、学校からそれほど遠くなく、駅にも向かいやすい場所がいい。
「駅までの途中にあるファミレスは?」
亜衣が言う。
「あそこなら自転車も置けるし、私は駅に向かえる」
「いいと思う」
紅秋が頷いた。
「混んでいるかもしれないけど、時間的にはまだ入れる」
「じゃあそこ!」
三浦が即決する。
「待って」
茜が手を上げる。
「何?」
「人数」
三浦は指を折った。
「俺、横田、遠山さん、伊藤さん、板倉、春樹」
そこで春樹の名前が出た瞬間、なつきの心臓が少し跳ねた。
来るのだろうか。
春樹は。
テスト後の打ち上げ。
ファミレス。
勉強会メンバー。
その中に春樹がいる。
想像しただけで、疲れていたはずの胸が少しだけ高鳴る。
でも、春樹はこういう場に来るのだろうか。
春樹は静かな場所が好きそうだ。
人の多いファミレスより、図書室や本屋の方が似合う。
断るかもしれない。
なつきがそう思った時、亜衣が春樹を見た。
「春樹は?」
「何が?」
「行く?」
春樹は少しだけ考えた。
ほんの数秒。
なつきには、その数秒が長く感じられた。
行くと言ってほしい。
でも、そう思っていることを顔に出したくない。
なつきは机の上の筆箱をしまうふりをして、春樹の返事を待った。
「行く」
春樹が言った。
短く。
いつも通り。
なつきは顔を上げないようにした。
でも、胸の中では小さく何かが弾けていた。
行く。
春樹が。
ファミレスに。
みんなと一緒に。
亜衣がにやりと笑った。
「お、大國が乗った」
「珍しい」
三浦も嬉しそうに言う。
「いいぞ春樹! 甘いものは世界を救う!」
「そこまでは思ってない」
「思ってなくても救われるんだ」
「そう」
春樹は少しだけ困ったように返した。
その反応に、また周りが笑う。
なつきも笑った。
自然に。
嬉しさを隠すためではなく、本当に楽しかったから。
その時だった。
「何、打ち上げ?」
島中の声が入ってきた。
さっきまで少し離れた席でグループと話していたはずなのに、いつの間にかこちらへ来ていた。
笑っている。
いつもの笑顔。
でも、目は少しだけ探るようだった。
なつきの胸が少しだけ固くなる。
解放感の中に、冷たいものが混ざる。
島中は三浦を見る。
「どこ行くの?」
三浦が一瞬だけ口を開きかけた。
でも、すぐに言葉を選んだ。
「軽く甘いもの食べに行く感じ」
「へぇ。誰で?」
その聞き方が、なつきには少し嫌だった。
ただの興味のようで、そうではない。
入る隙間を探している。
「勉強会メンバー」
茜が答えた。
はっきりと。
島中の笑顔がほんの少し止まる。
「勉強会メンバーって?」
「今回一緒に勉強していた六人」
茜は言った。
「なつき、亜衣、大國くん、板倉くん、三浦くん、私」
呼び方は淡々としている。
でも、線ははっきり引かれていた。
島中は軽く笑う。
「別に俺らも行ってよくない?」
来た。
なつきはそう思った。
テストが終わった解放感の中でも、島中はこうやって入ってくる。
自分が呼ばれていない輪へ。
春樹がいる輪へ。
なつきがいる輪へ。
「今回はその六人で」
茜が答えた。
迷いがない。
島中は少し肩をすくめる。
「打ち上げくらい、人数多い方が楽しいだろ」
「今日のは、勉強会の区切りだから」
紅秋が静かに言う。
「区切り?」
「一緒に勉強していたメンバーの一区切り」
「真面目だな」
島中は笑った。
その笑い方に、なつきは少しだけ胸がざわつく。
まただ。
真面目。
春樹に言った時と似ている。
相手の線引きを、軽く見ようとする言い方。
亜衣が椅子に座ったまま言った。
「島中、そういうの本当にだるい」
「伊藤、また?」
「また。呼ばれてないなら入ってこない」
「きつ」
「きつく言わないと聞かないじゃん」
周りの生徒が少しだけこちらを見る。
教室の空気が、ほんの少し張る。
せっかくの解放感が壊れそうになる。
なつきは手を握った。
言わないと。
また、誰かに任せきりにするのではなく。
そう思った時。
田辺守が横から顔を出した。
「え、何? 打ち上げ行くの?」
空気を読まない声。
でも、今回は少しだけ助かったような、余計にややこしくなったような。
「俺も行きたい」
「田辺」
亜衣がすぐに言う。
「今その流れじゃない」
「え、だめなの?」
田辺は本当に分かっていない顔をした。
なつきは小さく息を吸う。
田辺は島中と違う。
悪意で入ってこようとしているわけではない。
でも、入れてしまえば島中も来る。
それに、今日は六人で行きたい。
勉強会を頑張った六人で。
自分たちで作った時間を、自分たちで区切りたい。
「田辺」
なつきは声を出した。
田辺がこちらを見る。
「今日は、勉強会のメンバーで行くから」
「そっか」
田辺は少し残念そうにした。
「じゃあ俺らは別で行くか?」
そう言ったのは、意外にも田辺の方だった。
島中が少し田辺を見る。
「は?」
「いや、俺らも甘いもの食えばいいじゃん。テスト終わったし」
「……」
田辺の言葉に、なつきは少し驚いた。
田辺はいつも無自覚に近づいてくる。
でも、今は少し引いた。
なつきが断ったことを、完全ではないにしても受け止めた。
それは小さな変化だった。
春樹が田辺を見る。
「田辺」
「ん?」
「簿記、できたならよかった」
「おう」
田辺は少し嬉しそうに笑った。
「大國のおかげ」
「違う」
「またそれかよ」
「自分で解いたから」
「はいはい」
田辺は笑った。
そのやり取りに、教室の空気が少しだけ戻る。
島中だけが、少し面白くなさそうだった。
「まあ、いいけど」
島中は言った。
その言い方は、前にも聞いたことがある。
納得していない時の声。
「勉強会メンバーね」
島中は軽く笑い、なつきへ視線を向けた。
「横田、楽しんできなよ」
言葉だけなら普通だった。
でも、なつきには少し棘があるように聞こえた。
何か返そうとしたが、亜衣が先に言った。
「楽しむよ」
「伊藤に言ってない」
「私もメンバーだから」
「はいはい」
島中は田辺の肩を軽く叩く。
「行くぞ」
「おう。俺らもどっか寄る?」
「考えとく」
二人は離れていった。
その背中を見送りながら、なつきは小さく息を吐いた。
断れた。
今回は、ちゃんと。
勉強会の時ほど大きな緊張ではなかったけれど、それでも少し体に力が入っていた。
茜が小さく言う。
「よく言えたわね」
「うん」
「田辺くん、少し引けるようになったわね」
「そうだね」
亜衣が頷く。
「島中は相変わらずだけど」
「そこはね」
三浦がわざと明るく言った。
「よし! 重い空気終了!」
「三浦くん」
茜が見る。
「何?」
「今回は助かった」
「え?」
三浦が目を丸くする。
「ちゃんと線を引こうとしてたから」
「遠山さんに褒められた」
「そういうところ」
「すみません」
教室に小さな笑いが戻る。
三浦は照れ隠しのように頭をかいた。
「まあ、俺も今日は六人で行きたいし」
その言葉に、なつきは少し胸が温かくなった。
六人で。
勉強会メンバーで。
それが自然に言えるようになっている。
春樹もその中にいる。
なつきもその中にいる。
昨日、茜に言われた「今から作る距離」が、また少し形になった気がした。
「じゃあ、行く準備しよう」
紅秋が言う。
「時間が遅くなると混む」
「板倉、現実的だけどありがたい」
亜衣が鞄を持つ。
「なつき、行こ」
「うん」
なつきも鞄を肩にかけた。
テストの疲れで体は少し重い。
でも心は軽い。
朝、鞄に入れて持ってきた不安は、全部ではないけれど、少し問題用紙に出してこられた気がする。
母の言葉を思い出す。
不安は持っていけばいい。
学校で少しずつ出してくればいい。
本当に、その通りだった。
教室を出る時、なつきは一度だけ黒板を見た。
『中間考査一日目』
朝は重く見えた文字。
今は少し違って見える。
乗り越えた一日。
その証みたいに。
廊下に出ると、他のクラスからも似たような声が聞こえていた。
「終わったー!」
「マジ無理!」
「ファミレス行く?」
「部活あるんだけど!」
学校全体が、テスト初日の解放感で少し浮いているようだった。
普段の放課後よりも、声が大きい。
足取りが軽い。
それでも、完全な休日ではない。
まだテスト期間。
その中間のような、少し不思議な空気。
六人は廊下を歩いた。
先頭に三浦と紅秋。
三浦が何かを大げさに語り、紅秋が訂正する。
その後ろに亜衣と茜。
亜衣が甘いものの候補を並べ、茜が「食べすぎない」と注意する。
なつきと春樹は、自然と少し後ろになった。
偶然。
たぶん偶然。
でも、なつきの胸は少し高鳴った。
廊下の窓から、夕方前の光が入っている。
今日は朝からずっと教室にいたから、外の明るさが少し眩しい。
「横田さん」
春樹が声をかけた。
「はい」
「疲れた?」
「うん。でも、少しすっきりした」
「そう」
「大國くんは?」
「疲れた」
「大國くんも?」
「三科目は疲れる」
「そっか」
春樹も疲れる。
当たり前のことなのに、なつきには少し嬉しかった。
春樹が遠すぎない気がする。
同じ日に、同じテストを受けて、同じように疲れている。
それだけで、少し近い。
「簿記」
春樹が言った。
「うん」
「最後まで読めたなら、よかった」
「うん」
「次もその感じで」
「明日もあるもんね」
「うん」
まだテストは続く。
この解放感も、今日だけのものかもしれない。
家に帰ればまた勉強しなければいけない。
でも、今は。
この廊下を歩く時間だけは。
少しだけ、自分を褒めてもいい気がした。
「大國くん」
「うん」
「今日、行くって言ってくれて嬉しかった」
言ってから、なつきは自分で驚いた。
思ったより素直な言葉が出てしまった。
春樹も少しだけ目を瞬かせる。
「打ち上げ?」
「うん」
「疲れたし」
「甘いもの?」
「少し」
「大國くんも甘いもの食べるんだ」
「食べる」
「何が好き?」
聞いてしまった。
自然な会話。
でも、なつきにとっては大きい。
春樹は少し考える。
「チーズケーキ」
「へぇ」
「横田さんは?」
「私は……パフェとか」
「甘そう」
「甘いよ」
「そう」
たったそれだけの会話。
でも、なつきは胸の中で静かに喜んでいた。
春樹の好きな甘いものを知った。
チーズケーキ。
そんな小さなことが、今はとても大切に思える。
階段を下り、昇降口へ向かう。
靴を履き替える時、三浦が振り返った。
「おーい、置いてくぞー」
「置いていかないで」
亜衣が返す。
「甘いものが俺を呼んでる」
「幻聴」
茜が言う。
「遠山さん、今日くらい信じて」
「信じない」
紅秋が時計を見る。
「自転車組はファミレスまで自転車で。伊藤さんと大國くんは歩き?」
「駅方面だから歩きでいい」
亜衣が言う。
「店の前で合流?」
「うん」
三浦が頷く。
「じゃあ俺たち自転車取ってくる。春樹と伊藤さんは先歩いてて」
春樹が頷く。
「分かった」
その瞬間、なつきは少しだけ「あ」と思った。
春樹と亜衣は電車通学。
駅方面へ歩く。
自分たちは自転車置き場へ行く。
一瞬、距離が分かれる。
それは当たり前のこと。
でも、少しだけ寂しい。
すると亜衣がなつきを見て、軽く笑った。
「なつき、店でね」
「うん」
「先に席取れたら取っとく」
「ありがとう」
亜衣は何かを察しているような顔をしていた。
でも、何も言わない。
春樹も「また後で」と短く言った。
「うん。また後で」
なつきはそう返した。
また後で。
その言葉が嬉しかった。
自転車置き場へ向かう途中、茜が隣に並ぶ。
「楽しそうね」
「え?」
「顔」
「出てる?」
「出てる」
「う……」
なつきは頬を押さえた。
茜は少しだけ笑った。
「今日はいいんじゃない?」
「いいの?」
「頑張ったから」
その言葉に、なつきは胸が温かくなる。
頑張ったから。
今日は少し浮かれてもいい。
少し期待してもいい。
少し春樹との会話を喜んでもいい。
そう言われた気がした。
自転車置き場には、テストを終えた生徒たちが次々と集まっていた。
あちこちで同じような声が飛ぶ。
「どっか寄ろうぜ!」
「部活ないの神!」
「まだ明日あるけどな!」
「それ言うな!」
学校全体が、少しだけ緩んでいた。
なつきは自転車の鍵を開ける。
金属の小さな音が鳴る。
鞄を前かごに入れ、ハンドルを握る。
三浦がすでに自転車にまたがっていた。
「出発!」
「安全運転」
紅秋が言う。
「分かってる!」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
茜が言う。
なつきは笑った。
笑いながら、校門の方を見る。
少し先で、春樹と亜衣が歩いているのが見えた。
春樹の背中。
亜衣が何か話しかけている。
春樹は短く返しているようだった。
その姿を見ても、前ほど胸がざわつかなかった。
少しは気になる。
もちろん、気になる。
でも、今は知っている。
亜衣はなつきを見てくれている。
春樹はなつきのことも見てくれている。
そして、なつきにはなつきの距離がある。
その距離を、今日も少しだけ作れた。
「なつき」
茜が呼ぶ。
「行くわよ」
「うん」
なつきはペダルに足を乗せた。
夕方前の風が、頬を撫でる。
テスト初日の疲れ。
答案を出した後の軽さ。
甘いものへの期待。
そして、春樹と同じ場所へ向かう小さな高鳴り。
全部が混ざって、胸の中が忙しい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
校門を出る。
六人は一度別々の速さで、同じ目的地へ向かう。
今日の点数はまだ分からない。
結果もまだ出ていない。
明日もテストは続く。
でも、今だけは。
終わった。
頑張った。
それだけで、十分だった。
なつきは自転車をゆっくり漕ぎ出した。
前方には、歩いていく春樹と亜衣。
隣には茜。
少し前には三浦と紅秋。
向かう先には、甘いものと、まだ知らない放課後の時間。
打ち上げへ続くその道は、いつもの通学路より少しだけ明るく見えた。




