第27話 前日の夜に残るもの
中間テスト前日の夜。
横田なつきの部屋には、いつもより多くの紙の音があった。
机の上には、教科書と問題集が広がっている。
簿記の問題集。
数学のノート。
英語の教科書。
商業経済のプリント。
情報処理の確認表。
そして、端が少し丸まり始めた中間考査の範囲表。
その隣には、桜色のしおりを挟んだ一冊の本が置かれていた。
大國春樹が選んでくれた、二冊目の本。
テスト期間に入ってからは、読む速度が落ちていた。
けれど、完全に閉じてしまうことはできなかった。
机の端に置いておくと、不思議と落ち着く。
勉強とは直接関係ない。
試験範囲にも出ない。
それでもその本は、なつきにとって、テスト前の不安な夜を支える小さなお守りのようになっていた。
なつきはシャーペンを握り直し、簿記の問題に目を落とす。
『得意先より売掛金の回収として、約束手形を受け取った』
何度も見た文章。
受け取った。
受取手形。
売掛金が減る。
借方、受取手形。
貸方、売掛金。
ノートに仕訳を書く。
以前より、手は止まらない。
それでも油断はできない。
数字を写す時に間違える。
受取手形と支払手形を書き間違える。
試算表で同じ金額を二回入れる。
なつきは自分の癖を、今なら少し分かる。
分かるようになったのは、自分一人の力だけではない。
春樹が教えてくれた。
茜が確認してくれた。
図書館でみんなと勉強した。
空き教室で、普通科棟の静かな机を囲んだ。
その一つ一つが、今、ノートの上に残っている。
なつきは書き終えた仕訳を見て、小さく頷いた。
「……合ってる、と思う」
誰に言うでもなく呟く。
その声は、自分を励ますためのものだった。
時計を見る。
午後九時を少し過ぎている。
普段ならスマホを見てだらだらしてしまう時間。
でも今日は、机から離れるのが少し怖かった。
明日から中間テストが始まる。
高校二年生になって最初の定期考査。
範囲表が配られた日から、ずっとこの日に向かってきた。
最初はただ怖かった。
範囲が広い。
簿記が難しい。
数学が不安。
情報処理も忘れている。
その怖さだけが大きかった。
けれど今は、怖さの中に別の感情も混ざっている。
やれるところまでやった。
そう思いたい気持ち。
でも、本当に大丈夫か分からない不安。
そして、春樹に教えてもらったところを間違えたくないという、少し違う緊張。
なつきは簿記ノートの端に残った小さな矢印を指でなぞった。
春樹が書いてくれたもの。
受け取る。
振り出す。
受取手形。
支払手形。
それだけの図。
でも、なつきには大事だった。
この矢印を見れば、春樹の声が少しだけ思い出せる。
『問題文を最後まで読む』
『受け取ったか、振り出したか』
『迷いが減ってる』
迷いが減ってる。
図書館で春樹に言われた言葉が、まだ胸の中に残っている。
テスト前の勉強のことを言われたのに、なつきにはそれが勉強以外のことにも聞こえた。
自分の気持ちも、少しずつ迷いが減っているのだろうか。
篠崎美優のことを考えると、まだ胸はざわつく。
美優は綺麗で、頭がよくて、春樹の幼馴染で、昔から春樹を知っている。
それは何も変わらない。
これからも変わらない。
なつきがどれだけ頑張っても、春樹の過去にいる美優にはなれない。
でも、茜が言ってくれた。
昔からの距離と、今から作る距離は違う。
もう始まっている。
その言葉を思い出すと、胸の奥に少しだけ力が戻る。
なつきは本へ視線を移した。
桜色のしおりが、ページの間から少しだけ顔を出している。
テストが終わったら、ちゃんと読む。
そして、春樹に感想を言う。
『待ってる』
図書館の前で春樹が言った。
その一言を思い出すだけで、なつきの心臓は少し跳ねる。
春樹はただ、本の感想を待っているだけ。
それは分かっている。
でも、それでも嬉しい。
自分の言葉を待ってくれている。
そう思えるだけで、明日のテストも少しだけ頑張れる気がする。
机の外から、軽いノックの音がした。
「なつき、入っていい?」
母の声だった。
「うん」
扉が開き、なつきの母が顔を出した。
手にはマグカップを持っている。
湯気がゆっくり上がっていた。
「ホットミルク。砂糖少し入れたよ」
「ありがとう」
母は机の空いている場所を探し、少し困ったように笑った。
「置くところある?」
「あ、ごめん」
なつきは慌ててプリントを寄せた。
母はマグカップを置き、机の上を見回した。
「すごいね。ちゃんと勉強してる」
「明日テストだから」
「それでも、ちゃんとやってるのは偉いよ」
「そんなことないよ」
「そんなことある」
母は柔らかく言った。
なつきはマグカップを両手で包む。
温かい。
その温度が、少し強張っていた手をゆっくりほどいてくれる。
「難しい?」
「うん。簿記とか、数学とか」
「お母さんにはもう分からないなぁ」
「私も分からない」
「でも、前よりノートいっぱい書いてるじゃない」
母はノートを覗き込んだ。
「これは……何?」
「手形」
「手形?」
「お金のやつ」
「大人っぽい」
「そうかな」
「高校生ってすごいね」
母の素直な感想に、なつきは少し笑った。
家では、学校のことをあまり細かく話さない。
母も、根掘り葉掘り聞くタイプではない。
でも、こうしてテスト前には温かい飲み物を持ってきてくれる。
何気なく、頑張っていることを見てくれる。
その距離が、なつきには心地よかった。
「最近、よく勉強してるね」
母が言った。
「うん」
「友達と勉強会もしてたんでしょ?」
「うん。茜ちゃんの家とか、図書館とか」
「茜ちゃんって、前に来てくれた子?」
「そう」
「あのしっかりした子」
「うん」
「いい友達だね」
「うん。すごく」
なつきは迷わず頷いた。
茜の家で話したことは、母には言わない。
春樹のことも、美優のことも、今はまだ言えない。
でも、茜がいてくれてよかったとは、心から思っている。
「他にも一緒に勉強してる子いるの?」
母が聞いた。
「うん。亜衣ちゃんと、三浦くんと、板倉くんと……」
なつきは少しだけ止まった。
母はすぐに気づく。
「あと?」
「大國くん」
言っただけで、少し声が小さくなった。
母はじっとなつきを見た。
その視線に、なつきは慌ててマグカップに口をつける。
「ふーん」
母が言う。
「何?」
「別に」
「今の別にじゃない」
「別に」
「お母さん」
母は少し笑った。
茜母のように明るくからかうタイプではない。
でも、こういうところは少し似ているかもしれない。
母親というのは、どうしてこういう時だけ鋭いのだろう。
「その大國くん、勉強教えてくれるの?」
「うん。簿記、分かりやすく教えてくれる」
「そうなんだ」
「無口だけど、ちゃんと見てくれて……」
言いかけて、なつきは止まった。
言いすぎた気がした。
母は何も言わずに微笑んでいる。
その沈黙が逆に恥ずかしい。
「いい子なんだね」
母が言った。
「うん」
なつきは小さく頷いた。
「いい子だと思う」
「そっか」
母はそれ以上、踏み込まなかった。
好きなの?
とは聞かない。
青春だね、とも言わない。
ただ、なつきの机の上にあるノートと本を見て、柔らかく言った。
「明日、頑張っておいで」
「うん」
「でも、寝不足はだめだよ」
「分かってる」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんは怪しい」
なつきは笑った。
母は部屋を出る前に、もう一度振り返った。
「なつき」
「何?」
「点数も大事だけど、ちゃんと頑張ったことも大事だからね」
「……うん」
「それは、忘れないで」
母はそう言って、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋にまた、紙の音と時計の音が戻る。
なつきはホットミルクを一口飲んだ。
甘い。
少しだけ、胸が緩む。
ちゃんと頑張ったことも大事。
母の言葉は、茜の言葉と少し似ていた。
事実として、なつきは頑張った。
分からないところから逃げなかった。
島中や田辺に邪魔されても、勉強会を守った。
空き教室へ行った。
図書館へ行った。
茜の家で不安を吐き出した。
春樹に教えてもらった。
亜衣に励まされた。
三浦に笑わせてもらった。
紅秋に整理してもらった。
全部、明日のテストに直接つながっているかは分からない。
でも、何もしてこなかったわけではない。
なつきはもう一度問題集へ向かった。
最後に簿記を三問。
数学の公式確認。
英語の単語を少し。
商業経済のプリントを眺める。
集中できる時間と、ぼんやりしてしまう時間が交互に来る。
不安が顔を出すたびに、ノートの矢印を見た。
茜の言葉を思い出した。
春樹の「待ってる」を思い出した。
母のホットミルクの温かさを、手の中で感じた。
午後十一時前。
なつきはシャーペンを置いた。
「……今日は、ここまで」
声に出して区切りをつける。
もっとやらなければいけない気もする。
でも、これ以上やっても頭に入らない。
寝ることも、明日の準備だ。
母にも言われた。
なつきは机の上を少しずつ片付けた。
明日の持ち物を鞄に入れる。
筆箱。
消しゴム。
予備のシャーペン。
範囲表。
最終確認のノート。
定期券。
ハンカチ。
スマホ。
問題集は迷った末、一冊だけ入れた。
朝、少し見直すため。
そして、春樹に借りた本は机に残した。
明日は持っていかない。
テストに集中する。
でも、しおりの位置を確認して、表紙をそっと撫でた。
「終わったら、読むから」
誰に言うわけでもない。
けれど、少しだけ春樹に約束するような気持ちだった。
スマホを見ると、勉強会のグループにメッセージが来ていた。
亜衣。
『明日、簿記からだっけ? もう無理』
三浦。
『俺は今から覚醒する』
紅秋。
『今から新しいことを詰め込むより、確認にした方がいい』
三浦。
『覚醒キャンセル』
亜衣。
『早い』
茜。
『二人とも寝なさい』
三浦。
『委員長命令きた』
亜衣。
『茜、明日朝起こして』
茜。
『自分で起きなさい』
なつきは思わず笑った。
そこへ、春樹のメッセージが表示された。
『明日、問題文を最後まで読む』
それだけだった。
短い。
春樹らしい。
でも、なつきには十分すぎるメッセージだった。
自分だけに向けたものではない。
グループ全体への言葉。
それでも、なつきはその一文を何度も見た。
問題文を最後まで読む。
春樹に何度も言われたこと。
明日、ちゃんと思い出せるように。
なつきは返信を打った。
『うん。最後まで読む』
送信。
すぐに亜衣が反応した。
『私も読む。たぶん』
茜。
『たぶん禁止』
三浦。
『俺も読む。目が滑ったら心で読む』
紅秋。
『目で読んで』
グループに小さな笑いが生まれる。
文字だけなのに、みんなの声が聞こえる気がした。
なつきはスマホを胸に抱えそうになって、慌てて机に置いた。
不安は消えない。
でも、一人ではない。
それが、こんなにも心強い。
ベッドに入る前、なつきは部屋の電気を少しだけ落とした。
机の上には、明日の朝見直すノートと、春樹に借りた本。
窓の外には、夜の住宅街。
遠くで車の音がして、家の中では母が食器を片付ける音がかすかに聞こえる。
なつきはベッドに横になった。
布団を胸まで引き上げる。
目を閉じても、すぐには眠れない。
明日のことを考える。
教室の空気。
テスト用紙。
先生の声。
シャーペンの音。
春樹の背中。
茜の落ち着いた顔。
亜衣の不安そうな声。
三浦の大げさな悲鳴。
紅秋の冷静な確認。
そして、自分のノートに残った矢印。
受け取る。
振り出す。
最後まで読む。
焦らない。
なつきは小さく息を吐いた。
「明日、頑張ろう」
呟きは、部屋の中に静かに落ちた。
恋も。
勉強も。
まだ答えは出ていない。
春樹の気持ちも分からない。
テストの結果も分からない。
でも、今日まで頑張ってきたことは消えない。
それだけは、信じていい。
なつきはもう一度、心の中で繰り返した。
問題文を最後まで読む。
自分の気持ちも、途中で決めつけない。
最後までちゃんと見る。
そう思ったら、少しだけ眠気が近づいてきた。
夜は静かだった。
明日へ向かう前日の夜。
不安と、少しの期待と、たくさんの小さな言葉を抱えながら。
なつきはゆっくり目を閉じた。
★
目覚ましが鳴る少し前に、なつきは目を覚ました。
部屋の中はまだ薄暗い。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、ゆっくりと部屋を明るくしていた。
中間テスト初日。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、胸が少しだけ重くなる。
けれど同時に、不思議な感覚もあった。
怖いだけじゃない。
ここまでやってきた。
その実感も確かにあった。
なつきはベッドから起き上がり、カーテンを開けた。
青空だった。
雲は少ない。
五月らしい、穏やかな朝。
「今日だ」
小さく呟く。
机の上には昨夜まで使っていたノート。
その横には春樹から借りた本。
桜色のしおり。
思わず目が止まる。
テストが終わったら読む。
そして感想を言う。
その約束だけで、少しだけ力が湧いた。
朝食を済ませ、制服に着替えたなつきは自転車を押して家を出た。
朝の空気は少しひんやりしている。
住宅街はまだ静かだった。
犬の散歩をする人。
庭の水やりをしている人。
そんな日常の景色の中を、自転車で進んでいく。
スマホが震えた。
信号待ちで確認する。
勉強会グループだった。
亜衣
『起きた。奇跡』
三浦
『俺も起きた。世界が俺を祝福している』
茜
『二人とも早く準備しなさい』
紅秋
『忘れ物確認』
春樹
『消しゴム』
三浦
『今入れた。危なかった』
なつきは思わず笑った。
朝から三浦らしい。
なつきも短く返信する。
『私も出た。頑張ろう』
三浦からすぐ返事。
『全員生還しよう』
その言葉が少しだけ嬉しかった。
みんな同じなんだ。
緊張している。
不安もある。
それでも学校へ向かっている。
商店街を抜ける。
信号を渡る。
やがて梅桜高校へ続く坂道が見えた。
その途中。
見慣れた後ろ姿が目に入る。
遠山茜だった。
同じように自転車で登校している。
「茜ちゃーん!」
声をかける。
茜が振り返った。
「あら、おはよう」
「おはよう」
二人は自然に速度を合わせた。
並んで坂道を上る。
朝の日差しが制服を照らす。
「緊張してる?」
なつきが聞く。
茜は少し考えた。
「してる」
「茜ちゃんも?」
「当たり前でしょ」
「なんか安心した」
「何よそれ」
「茜ちゃん、何でもできそうだから」
「できないこともある」
「あるの?」
「ある」
即答だった。
なつきは少し笑う。
「でも準備はした」
茜が言った。
「だから、あとは解くだけ」
その言葉が妙に心強かった。
二人は自転車置き場へ向かった。
同じように登校してきた生徒たちが並んでいる。
商業科。
普通科。
スポーツ特待。
みんな今日はどこか落ち着かない顔をしていた。
テストの日の空気だった。
教室へ入る。
いつもの二年十一組。
なのに雰囲気が違う。
普段は朝から賑やかな教室が、今日はどこか静かだ。
ノートを開く者。
問題集を確認する者。
天井を見つめて現実逃避する者。
それぞれの戦いが始まっている。
三浦は机に突っ伏していた。
「三浦くん?」
「帰りたい」
「まだ始まってない」
亜衣が呆れた声を出す。
「一回帰ってから来たい」
「来なくていい」
「伊藤が冷たい」
「現実を見て」
そのやり取りに周囲から小さな笑いが起きた。
緊張した空気が少しだけ和らぐ。
紅秋は静かにノートを閉じた。
いつも通り落ち着いて見える。
けれど、なつきは気づいた。
ページの端を何度も整えている。
少しだけ緊張しているのだ。
完璧そうに見える人も同じ。
それが少し嬉しかった。
窓際の席には春樹。
まとめノートを見ている。
問題集を何度も開くわけではない。
本当に必要なところだけ。
いつも通り。
その姿を見るだけで、なつきの呼吸が少し整う。
「大國くん」
「うん」
「おはよう」
「おはよう」
「緊張してる?」
春樹は少しだけ考えた。
「少し」
「大國くんも?」
「テストだから」
なつきは思わず笑った。
少し安心する。
「私、かなり緊張してる」
「そう」
「でも」
なつきは昨日のメッセージを思い出した。
「問題文を最後まで読む」
春樹は頷く。
「それでいいと思う」
「うん」
「最初に焦らなければ大丈夫」
その言葉を胸にしまう。
そこへ島中がやって来た。
「横田、朝から大國に確認?」
軽い口調。
けれど少し刺々しい。
「簿記、大丈夫?」
「できるところまでやるよ」
「赤点取るなよ?」
余計な一言。
亜衣が即座に反応した。
「島中、朝からだるい」
「冗談だろ」
「面白くない」
島中は苦笑する。
田辺が割って入った。
「俺マジで不安なんだけど」
「田辺は昨日も言ってた」
三浦が言う。
「手形全部逃げた」
「俺の数学も逃げた」
教室に少し笑いが広がる。
緊張と笑いが入り混じる。
それがテスト前の教室だった。
やがて担任が入ってきた。
空気が変わる。
机の中を空にする音。
筆箱を出す音。
問題集をしまう音。
教室全体が静かになっていく。
問題用紙が配られる。
紙の束が前から後ろへ流れる。
なつきの机にも置かれた。
白い紙。
まだ裏返し。
なのに重い。
心臓が速い。
手のひらが少し汗ばむ。
深呼吸する。
母の言葉。
不安は持っていけばいい。
茜の言葉。
準備はした。
春樹の言葉。
問題文を最後まで読む。
全部思い出す
担任が時計を見る。
教室中が静まり返る。
「では」
声が響く。
「始め」
一斉に問題用紙がめくられる。
シャーペンを握る音。
紙をめくる音。
なつきも問題用紙を表に返した。
焦らない。
最後まで読む。
胸の中でそう繰り返しながら、
なつきは最初の一行へ視線を落とした。




