第25話 なっちゃんと、言えなかった不安
土曜日の午後。
横田なつきは、遠山茜の家の前で立ち止まっていた。
空はよく晴れていた。
五月の終わりに近づいた日差しは、少しだけ強くなっている。
けれど風はまだ柔らかく、住宅街の細い道を抜けると、洗濯物の匂いと、どこかの家の庭で咲いている花の香りが混ざって流れてきた。
なつきは肩にかけた鞄を持ち直す。
中には、簿記の問題集、数学のノート、英語の教科書、範囲表、筆箱、付箋。
そして、春樹に借りた二冊目の本も入っている。
今日は茜の家で勉強する。
中間テスト前。
休日の午後を使って、分からないところを整理するためだった。
最初は図書館で集まる案もあった。
けれど、今日は茜と二人で基礎を見直す日になった。
亜衣は家の用事。
三浦は部活関係の用事。
春樹と紅秋は別で特進の友達と勉強ではなく、各自復習。
だから今日は、なつきと茜だけ。
二人だけなら、茜の家の方が落ち着くだろうという話になった。
なつきは、茜の家に来るのが初めてではない。
一年生の頃にも何度か来たことがある。
商業科は一クラスしかないから、茜とは一年生の頃からずっと同じクラスだった。
最初は、茜のきっちりした雰囲気に少し緊張していた。
委員長タイプ。
正しいことを正しいと言う。
忘れ物や提出物に厳しい。
でも、話してみると、冷たいわけではなかった。
むしろ、誰よりも周りを見ていた。
困っている人を放っておけない。
ただ、助け方が真っ直ぐすぎるだけ。
そんな茜と、なつきは少しずつ仲良くなった。
今では、親友と言っていい。
だから茜の家も、まったく知らない場所ではない。
それなのに今日は少しだけ緊張していた。
理由は分かっている。
勉強だけでは済まない気がしていたからだ。
最近、胸の奥にたまっているものがある。
春樹のこと。
篠崎美優のこと。
本のこと。
写真のこと。
勉強会のこと。
言葉にならない不安。
それを、今日は茜に話してしまうかもしれない。
そう思うと、玄関の前に立つだけで少し息が浅くなる。
「……よし」
なつきは小さく呟いて、インターホンを押した。
数秒後。
中から足音が聞こえた。
そして扉が開く。
「あらぁ!」
明るい声が飛んできた。
なつきは反射的に背筋を伸ばす。
玄関に立っていたのは、茜の母だった。
柔らかい雰囲気の女性。
肩の力が抜けた笑顔。
明るい色のエプロン。
茜とは真逆と言っていいくらい、のほほんとしていて、人懐っこい空気をまとっている。
「なっちゃん、いらっしゃーい」
その呼び方に、なつきの頬が少し緩む。
「お、お邪魔します」
「もう、そんなかしこまらなくていいのに。なっちゃんは半分うちの子みたいなものでしょ」
「えっ」
なつきが照れるより早く、家の奥から茜の声が飛んできた。
「お母さん」
「はい」
「勝手に家族にしないで」
「いいじゃない。なっちゃん可愛いし」
「理由になってない」
「茜にはもったいないくらい可愛いわよねぇ」
「私の友達に、もったいないとかない」
茜が玄関へ出てきた。
家の中なのに、いつも通り姿勢がいい。
髪もきちんとまとめている。
休日なのに、なぜか学校にいる時とあまり変わらない緊張感がある。
けれど、母親に向ける顔だけは少し違った。
眉間にしわを寄せているのに、どこか慣れている。
怒っているというより、いつものやり取りなのだと分かる。
「茜ちゃん、お邪魔します」
「いらっしゃい。上がって」
茜が言うと、母が横からすぐに続けた。
「ほら、なっちゃん。スリッパこっちね。今日は暑いから麦茶冷やしてあるわよ。あと、おやつもあるから」
「ありがとうございます」
「勉強会でしょ? 偉いわねぇ。うちの茜なんて、家でもずーっと真面目な顔してるのよ」
「お母さん」
「はい」
「余計なこと言わないで」
「真面目なのは褒めてるのよ?」
「その言い方が余計」
なつきは思わず笑ってしまった。
茜がこちらを見た。
「笑わないで」
「ごめん。でも、茜ちゃんの家って落ち着く」
「この状態で?」
「うん」
「なっちゃん、いい子ねぇ」
茜母が嬉しそうに言う。
「茜、なっちゃんを大事にしなさいよ」
「してる」
「あら、即答」
「お母さんが変なこと言うから」
「大事にしてるんだぁ」
「してるって言っただけ」
「独占欲?」
「違う」
なつきは一気に顔が熱くなった。
茜は母親を軽く睨む。
「お母さん」
「はいはい。若い子をからかいすぎると嫌われるものね」
「もう遅い」
「えー、なっちゃん、嫌いになった?」
「な、なってないです」
「ほらぁ」
茜母はにこにこしている。
茜は深く息を吐いた。
「部屋行くわよ」
「う、うん」
なつきは靴を揃えて、茜の後に続いた。
廊下を歩いていると、後ろから母の声がした。
「なっちゃん、あとでおやつ持っていくからねー」
「ありがとうございます」
「茜が勉強ばっかりさせたら、逃げてきていいから」
「逃げないで」
茜が即座に返す。
なつきはまた笑ってしまった。
茜の部屋は、茜らしい部屋だった。
整っている。
机の上には必要なものだけ。
参考書は科目別に並び、付箋の色までそろっている。
本棚には教科書、ノート、数冊の小説。
ベッドの上もきれいで、クッションがひとつ置いてあるだけ。
無駄がない。
けれど冷たい部屋ではない。
カーテンは淡い色で、窓際には小さな観葉植物が置かれている。
その植物が、茜の真面目さの奥にある柔らかさを少しだけ見せているようだった。
「相変わらず綺麗」
なつきが言うと、茜は机の横に座布団を置きながら答えた。
「普通よ」
「普通じゃないよ。私の部屋、もっと物がある」
「知ってる」
「来たことあるもんね」
「前にノートを探すのに五分かかった」
「それは言わないで」
なつきは鞄を下ろし、座布団に座った。
茜は机の上に今日の予定を書いた紙を置く。
「まず簿記。次に数学。余裕があれば英語」
「余裕がある気がしない」
「作るの」
「茜ちゃん厳しい」
「テストはもっと厳しい」
「現実……」
なつきは問題集を出した。
茜もノートを開く。
最初は簿記。
手形、売掛金、買掛金、試算表。
春樹に教えてもらった部分を、もう一度なつきは解き直した。
茜はなつきのノートを見ながら、間違えやすいところを指摘する。
「ここ、借方と貸方は合ってる」
「ほんと?」
「うん。でも数字の転記がずれてる」
「また数字……」
「問題文は読めてるから、慌てなければ大丈夫」
なつきは少し驚いた。
春樹と同じようなことを言われた。
問題文は読めている。
考え方は合っている。
そう言われると、少し安心する。
「大國くんにも、似たこと言われた」
なつきが小さく言うと、茜はペンを止めた。
「そう」
「うん。考え方は合ってるって」
「なら合ってるんでしょ」
「茜ちゃん、あっさり」
「大國くんがそう言って、私が見てもそうなら、変に疑う必要はない」
「……うん」
なつきは頷く。
自分では自信が持てない。
でも、茜がそう言ってくれると少し信じられる。
勉強は一時間ほど続いた。
途中、茜母が本当におやつを持ってきた。
麦茶と、切ったロールケーキ。
「はい、なっちゃん。糖分補給」
「ありがとうございます」
「茜には少し小さめね」
「なんで」
「なっちゃん優先」
「私の家」
「だから?」
茜が無言で母を見る。
母はにこにこ笑った。
「冗談よ。二人とも同じ大きさ」
「最初からそうして」
「茜、なっちゃんの前だと少し表情柔らかいわねぇ」
「お母さん」
「いいことよ」
「出ていって」
「はいはい。青春の邪魔はしません」
「勉強」
「青春でしょ?」
「勉強」
「はいはい」
母は楽しそうに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく沈黙。
なつきはロールケーキを見つめたまま、笑いをこらえきれなかった。
「笑わないで」
「ごめん。茜ちゃんのお母さん、好き」
「私は疲れる」
「でも、仲良いよね」
「うるさいだけ」
「それも仲良いって言うんだよ」
茜は返事をしなかった。
代わりに麦茶を飲む。
その横顔が少しだけ照れているように見えて、なつきはまた笑いそうになった。
おやつを食べて、少しだけ休憩した後。
勉強は数学に移った。
文章題。
なつきは苦手だった。
式を立てる前に、何を聞かれているのか分からなくなる。
茜は丁寧に、問題文に線を引く場所を教えてくれた。
「条件に線。聞かれているものに丸」
「うん」
「数字だけ見ない」
「うん」
「焦らない」
「それが一番難しい」
「分かる。でもやる」
「茜ちゃん、やっぱり先生みたい」
「大國くんも先生みたいって言われてたわね」
「うん」
名前が出るだけで、胸が少し揺れる。
なつきはそれを隠すように問題文へ目を落とした。
けれど、茜は気づいていた。
何も言わない。
ただ、少しだけ待った。
部屋の中は静かだった。
外からは遠くの車の音が聞こえる。
下の階では、茜母が何かを片付けている音がする。
勉強机の上には、問題集とノート。
麦茶のグラス。
半分食べたロールケーキの皿。
休日の午後。
学校ではない場所。
だからなのか。
なつきの中で、ずっと胸の奥にあったものが、少しずつ浮かび上がってきた。
「茜ちゃん」
なつきは、シャーペンを置いた。
「何?」
茜はノートから顔を上げる。
なつきはすぐには言えなかった。
言葉が喉で止まる。
篠崎さんのこと。
春樹のこと。
自分のこと。
何から言えばいいのか分からない。
でも、茜は急かさなかった。
ただ待っていた。
その沈黙が、なつきにはありがたかった。
「私さ」
「うん」
「篠崎さんを見ると、自信なくなる」
言った。
言ってしまった。
部屋の中の空気が、少しだけ静かになる。
茜は表情を変えなかった。
驚いたようにも見えない。
ただ、ちゃんと聞く姿勢になった。
「どうして?」
「だって……綺麗だし」
「うん」
「頭いいし」
「特進だからね」
「春樹……大國くんの幼馴染だし」
「うん」
「昔から知ってるし」
「うん」
「自然に隣にいる感じがするし」
「うん」
茜は、なつきの言葉を遮らなかった。
ただ、ひとつずつ受け止める。
なつきは膝の上で手を握った。
「私、普通だし」
その言葉は、自分で思っていたよりも弱く出た。
「勉強もそんなにできないし」
「うん」
「特進でもないし」
「うん」
「大國くんと昔からの思い出とか、ないし」
「うん」
「私が知ってる大國くんって、ほんの少しだけで」
「うん」
「図書室で本読んでるところとか、勉強教えてくれるところとか、バーベキューで火起こししてたところとか、そういう最近のことばっかりで」
言いながら、胸が詰まっていく。
自分で言葉にすると、思っていたより苦しい。
なつきは続けた。
「篠崎さんは、もっと前から知ってるんだよね」
「そうね」
「中学とか、小さい頃とか」
「うん」
「大國くんがどんな子だったかとか、何が好きだったかとか、どんなふうに笑うかとか、きっといっぱい知ってる」
「うん」
「私が知らない大國くんを、たくさん知ってる」
そこまで言って、なつきは黙った。
胸の奥にあった言葉が、ようやく形になった気がした。
自分は美優が嫌いなわけではない。
それが余計に苦しい。
嫌な子だったらよかった。
意地悪だったらよかった。
春樹を独り占めしようとしているなら、怒れたかもしれない。
でも、美優は優しかった。
図書室で話した時も、嫌な感じはしなかった。
だから、なつきは自分の不安だけが悪いものに思えてしまう。
「篠崎さん、いい子だった」
なつきは小さく言った。
「うん」
「だから、嫌いになれない」
「嫌いになる必要はないわ」
茜はすぐに言った。
その言葉は、前にもメッセージでくれたものと同じだった。
でも、今、直接聞くと、もっと深く胸に届いた。
「でも、羨ましい」
「それは仕方ない」
「いいの?」
「いい」
「こんなこと思っても?」
「思うだけなら自由」
茜は静かに言った。
「ただ、それを理由に自分を下げるのは違う」
なつきは顔を上げた。
茜の目は真っ直ぐだった。
「横田」
茜は、いつもより少しだけ改まった声で呼んだ。
「なつき、じゃないの?」
「今は横田」
「え」
「話を聞きなさい」
「はい」
なつきは少しだけ背筋を伸ばした。
茜はノートを閉じた。
「横田は、篠崎さんと自分を比べすぎ」
「でも」
「でもは禁止」
「……」
「篠崎さんが綺麗なのは事実。頭がいいのも事実。大國くんの幼馴染なのも事実。昔から知っているのも事実」
茜はひとつずつ並べる。
逃げ場のない言葉。
でも、それはなつきを傷つけるためではなかった。
「でも、それが横田の価値を下げる理由にはならない」
なつきは黙った。
茜は続ける。
「大國くんは、横田のことを嫌ってる?」
「……嫌っては、ないと思う」
「本を貸してくれた?」
「うん」
「感想を聞いてくれた?」
「うん」
「二冊目も選んでくれた?」
「うん」
「写真を見てくれた?」
「うん」
「簿記を教えてくれた?」
「うん」
「困っていた時、助けてくれた?」
「……うん」
答えるたびに、胸の中に一つずつ灯りが戻ってくるようだった。
春樹がしてくれたこと。
なつきが受け取ってきたこと。
それは、なつきの中に確かにある。
美優の存在で消えるものではない。
「なら」
茜は言った。
「大國くんは横田を見ていないわけじゃない」
なつきは息を止めた。
「見ていないなら、そんなことはしない」
「……でも、優しいから」
「大國くんは優しいわね」
「うん」
「でも、誰にでも同じように時間を使うわけではない」
茜の言葉に、なつきは目を瞬かせた。
「大國くんは、必要だと思ったことはする。田辺くんにも教えた。島中くんにも教えた。でも、本を選ぶのは別」
「別?」
「別よ」
茜は少しだけ語気を強めた。
「相手に合わせて本を選ぶのは、ただ優しいだけではできない。少なくとも、その人が読めそうか、何を受け取れそうかを考える必要がある」
なつきの胸が、静かに揺れた。
春樹が二冊目の本を選んでくれた時のことを思い出す。
読めそうだと思ったから。
そう言ってくれた。
あれは、ただの図書委員としての対応だったのだろうか。
そうかもしれない。
でも、茜の言う通り、少しは自分のことを考えてくれたのかもしれない。
「写真もそう」
茜は続けた。
「大國くんは、必要のないものをわざわざ見ないタイプでしょう」
「うん」
「それでも見た。良かったと言った」
「うん」
「それは事実」
なつきは何も言えなかった。
涙が出るほどではない。
でも、胸の奥がじんわり熱くなる。
自分は、見えていないものばかり数えていた。
美優が持っているもの。
自分にないもの。
昔からの距離。
特進。
幼馴染。
そういうものばかり。
でも、今、自分が持っているものもある。
春樹に選んでもらった本。
写真への言葉。
簿記のノートに残った矢印。
困った時に言ってくれた言葉。
それらは、美優の存在とは別に、なつきの中にちゃんとある。
「横田は」
茜は少し声を柔らかくした。
「大國くんに近づけていないわけじゃない」
「……うん」
「ただ、篠崎さんの距離が違う種類だから、怖く見えるだけ」
「違う種類」
「昔からの距離と、今から作る距離は違う」
なつきは、その言葉をゆっくり飲み込んだ。
昔からの距離。
今から作る距離。
美優には昔からの距離がある。
それはなつきにはない。
でも、なつきには今から作る距離がある。
本。
写真。
勉強。
会話。
一つずつ。
まだ小さくても。
「私、作れるかな」
なつきは小さく聞いた。
茜は即答した。
「作ってる途中でしょ」
「……」
「もう始まってる」
その言葉に、なつきの視界が少しだけ滲みそうになった。
でも、泣かなかった。
代わりに、笑った。
少しだけ。
「茜ちゃん、すごい」
「普通」
「大國くんみたい」
「やめて」
「嫌なの?」
「比較対象が大國くんなのは複雑」
なつきは思わず笑った。
茜も少しだけ口元を緩める。
重かった空気が、少しだけほどけた。
その時だった。
扉の向こうから、明るい声がした。
「二人ともー、追加のおやついるー?」
茜の母だった。
タイミングが良すぎる。
茜はすぐに振り返った。
「いらない」
「即答?」
「勉強中」
「青春中じゃなくて?」
「勉強中」
「なっちゃんは?」
扉越しに呼ばれ、なつきは少し笑った。
「えっと……少しだけなら」
「ほら、なっちゃんは素直」
「お母さん」
「はいはい、持っていくわね」
「持ってくるんだ……」
茜は額に手を当てた。
なつきは笑いをこらえきれなかった。
「茜ちゃんのお母さん、すごいね」
「本当に疲れる」
「でも、いいお母さん」
「それは……否定しないけど」
茜は少しだけ小さな声で言った。
その照れた顔を見て、なつきは心が柔らかくなるのを感じた。
数分後、茜母は小さな皿にクッキーを乗せて持ってきた。
「はい、なっちゃん。糖分第二弾」
「ありがとうございます」
「茜、なっちゃん泣かせてない?」
「泣かせてない」
「泣いてないです」
なつきが慌てて言うと、母はにこにこ笑った。
「そう? ならいいの」
その笑顔は、少しだけ全部分かっているようにも見えた。
でも、何も聞いてこない。
好きな人がいるのか。
悩んでいるのか。
何があったのか。
そういうことは聞かない。
ただ、おやつを置いて、明るい声で空気を少し温めていく。
「なっちゃん、茜は口が強いけど、根は優しいからね」
「知ってます」
「なっちゃん」
茜が少し照れたように言う。
母は嬉しそうに笑った。
「仲良しねぇ」
「お母さん」
「はいはい、退散します」
母は軽やかに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋には、また二人だけの空気が戻った。
でも、さっきまでとは少し違う。
重さが少し減っている。
なつきはクッキーを一枚取り、ゆっくり食べた。
甘い。
少しだけ、心までほどける。
「茜ちゃん」
「何?」
「ありがとう」
「何に対して?」
「いろいろ」
「雑」
「でも本当に」
なつきはクッキーの皿を見つめながら言った。
「私、篠崎さんのこと考えると、ずっと自分が足りない気がしてた」
「うん」
「でも、足りないだけじゃないんだね」
「そうよ」
「今から作れる距離もある」
「うん」
「まだ、頑張っていい?」
茜は少しだけ目を細めた。
「誰に許可を取ってるの」
「茜ちゃん」
「必要ない」
「そうなの?」
「横田が頑張りたいなら、頑張ればいい」
「うん」
「ただし、無理しすぎたら止める」
「それは助かる」
「泣きそうになったら言いなさい」
「泣いたら?」
「ティッシュを渡す」
「優しい」
「それくらいはする」
なつきは笑った。
笑いながら、胸の奥が少しだけ軽くなっていることに気づいた。
不安が消えたわけではない。
篠崎さんを見れば、また苦しくなるかもしれない。
春樹と美優が並んでいる姿を見たら、きっと胸が痛む。
それは変わらない。
でも。
そのたびに、自分には何もないと思わなくていい。
自分にもある。
少しずつ作っているものがある。
春樹へ続く小さな橋がある。
本。
写真。
勉強。
言葉。
全部、まだ細い。
でも、ゼロではない。
なつきは問題集をもう一度開いた。
「続き、やる」
「大丈夫?」
「うん」
「無理してない?」
「してない」
「ならやりましょう」
茜もノートを開く。
二人は再び勉強に戻った。
数学の文章題。
簿記の試算表。
英語の本文。
途中でなつきは何度も詰まった。
茜はそのたびに冷静に説明してくれた。
時々厳しい。
でも、分からないまま置いていかない。
なつきはノートに線を引きながら、ふと思った。
春樹とは違う。
でも茜の教え方も、すごく優しい。
形は違っても、支えてくれる人がいる。
それは、なつきが思っていたよりずっと大きなことだった。
夕方が近づき、部屋の光が少しずつ赤みを帯びていく。
窓の外では、近所の子どもの声が遠くで聞こえた。
茜母が下の階で夕飯の準備をしている音もする。
なつきは最後の問題を解き終えて、シャーペンを置いた。
「できた」
「合ってる」
「やった」
小さく喜ぶと、茜が頷いた。
「今日はよく進んだわね」
「うん。茜ちゃんのおかげ」
「横田がちゃんとやったから」
「そう言ってもらえると嬉しい」
「事実だから」
なつきは笑った。
茜はいつも事実を言う。
厳しい事実も。
優しい事実も。
だから、茜の言葉は信じられる。
帰る時間になり、なつきは鞄に問題集をしまった。
春樹に借りた本が、鞄の中で少しだけ見えた。
その表紙を見て、なつきはそっと指で触れた。
まだ読み終わっていない。
でも、少しずつ読んでいる。
今度また、春樹に感想を言う。
その約束がある。
それも、自分が作っている距離のひとつだ。
玄関へ降りると、茜母が台所から顔を出した。
「あら、もう帰るの?」
「はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。また来てね、なっちゃん」
「はい」
「今度は勉強じゃなくて遊びに来てもいいのよ」
「えへへ、ありがとうございます」
「茜、ちゃんと送ってあげるのよ」
「分かってる」
「なっちゃん、夜道で変なのに絡まれたら茜を盾にしていいから」
「お母さん」
「茜、強そうでしょ?」
「強そうじゃなくて強いです」
なつきが思わず言うと、茜がこちらを見た。
「なつき」
「ごめん」
母は楽しそうに笑った。
「やっぱり仲良しねぇ」
その言葉に、茜は反論しなかった。
少しだけ顔を背けただけだった。
なつきはそれが嬉しくて、玄関で靴を履きながら小さく笑った。
外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。
空は薄い橙色になっている。
住宅街の道を、なつきと茜は並んで歩いた。
駅まで少しだけ。
いつものように、茜はなつきを途中まで送ってくれる。
「今日はありがとう」
なつきがもう一度言うと、茜は前を向いたまま答えた。
「何度も言わなくていい」
「でも言いたい」
「なら受け取る」
「うん」
しばらく歩く。
静かな住宅街。
電柱の影。
遠くの車の音。
なつきは、胸の中に残っていた言葉をもう一度思い出した。
昔からの距離と、今から作る距離は違う。
今から作る距離。
それは、頼りない。
まだ細い。
でも、確かにある。
「茜ちゃん」
「何?」
「私、また不安になると思う」
「なるでしょうね」
「即答」
「なるものはなる」
「そうだよね」
「でも、そのたびに全部終わりみたいな顔をしないこと」
「してる?」
「してる」
「気をつける」
「それと、比べすぎない」
「うん」
「篠崎さんには篠崎さんの時間がある。横田には横田の時間がある」
「うん」
「それを忘れないで」
なつきは頷いた。
夕方の空を見上げる。
綺麗だった。
少しだけ、昨日より広く見えた。
「ありがとう」
「また言った」
「何度でも言う」
「なら、どういたしまして」
二人は並んで歩いた。
言葉は少なかった。
でも、それでよかった。
なつきの中にあった不安は、完全に消えたわけではない。
美優の存在は、これからも大きい。
春樹の気持ちも分からない。
恋の答えはまだ遠い。
でも。
今日、なつきは少しだけ知った。
不安を言葉にしても、壊れないこと。
誰かと比べても、自分が消えるわけではないこと。
今から作れる距離があること。
そして、自分にはちゃんと支えてくれる友達がいること。
駅へ続く道の途中で、なつきは鞄の肩紐を握り直した。
中には問題集。
春樹に借りた本。
そして、今日茜からもらった言葉。
それらを持って、また明日から頑張ろうと思えた。
恋はまだ苦しい。
でも、ひとりで抱えなくてもいい。
そう思えた土曜日だった。




