第24話 夕暮れの帰り道
放課後の図書室は、不思議と時間がゆっくり流れる。
昼休みの慌ただしさもなく。
授業中の緊張感もなく。
ただ、本を閉じる音と、ページをめくる音だけが静かに響く。
窓の外では、グラウンドから運動部の声が聞こえていた。
サッカー部の笛。
野球部の掛け声。
バスケ部のボールが床を叩く音。
その音も図書室に入るとどこか遠く感じる。
伊藤亜衣は貸出カードを整理しながら大きく伸びをした。
「終わったぁぁぁ……」
情けない声が図書室に響く。
カウンターの向こう側で本を整理していた春樹が顔を上げた。
「まだ終わってない」
「気持ちは終わった」
「仕事は?」
「あと五分」
「じゃあ終わってない」
「厳しい」
亜衣は机に突っ伏した。
もちろん本当に寝るわけではない。
ただ疲れたアピールである。
春樹はそれを知っているのか知らないのか、特に反応しなかった。
返却された本を棚ごとに分けている。
その動きは相変わらず無駄がない。
「春樹ってさ」
「何」
「そういうとこあるよね」
「どういうとこ」
「真面目」
「よく言われる」
「島中にも言われてたじゃん」
「言われた」
「どう思った?」
「別に」
即答だった。
亜衣は思わず笑う。
「その反応よ」
「事実だから」
「普通はちょっと気にするんだって」
「そうなの?」
「そうなの」
春樹は少しだけ考えるような顔をした。
けれど数秒後には本の整理へ戻っていた。
気にしていないのだろう。
本当に。
そういう人間だ。
亜衣は改めて思う。
春樹は鈍感だ。
恋愛だけじゃない。
自分に向けられる感情そのものに鈍い。
褒められても。
好かれても。
敵意を向けられても。
必要以上に反応しない。
だから島中の難癖もあまり効かなかった。
普通の男子ならイラッとする。
少なくとも亜衣ならする。
茜なら切り捨てる。
三浦なら言い返す。
でも春樹は違う。
困っているなら教える。
それだけ。
単純なのに難しい。
「終わった」
春樹が言った。
最後の本を棚へ戻したらしい。
「やっと?」
「予定通り」
「私の心は三十分前に終わってた」
「知らない」
冷たい。
でもどこか笑える。
亜衣は立ち上がった。
「帰ろうぜ」
「うん」
夕方の校舎は少しだけ静かだった。
部活へ向かう生徒。
帰宅する生徒。
廊下には夕陽が差し込んでいる。
窓ガラスが赤く染まり。
床には長い影が伸びていた。
階段を降りる。
昇降口を抜ける。
外へ出ると、少しだけ涼しい風が吹いていた。
テスト前。
六月の終わり。
昼間は暑い。
でも夕方になると少しだけ過ごしやすい。
校門を出て駅へ向かう道。
制服姿の生徒たちがぽつぽつ歩いている。
「勉強どう?」
春樹が聞いた。
「聞く?」
亜衣は即答した。
「聞く?」
もう一度言う。
春樹は少しだけ考えた。
「よくない?」
「大正解」
亜衣は拍手した。
「簿記が私を嫌ってる」
「嫌ってない」
「嫌ってる」
「問題文読んでないだけ」
「それを言うな」
図星だった。
春樹は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
口元が動く程度。
それでも亜衣は気づく。
付き合いが長いわけではない。
でも最近は少し分かる。
春樹は感情表現が大きくない。
だから小さな変化が分かりやすい。
「なあ」
「何」
「好きな人いる?」
歩きながら。
亜衣は何気なく聞いた。
春樹は少しも動じなかった。
「いない」
即答。
「早っ」
「いないから」
「本当に?」
「本当に」
「へぇ」
嘘を言っている感じはない。
少なくとも亜衣にはそう見えた。
だから余計に面白い。
「亜衣は?」
「いない」
「即答」
「お互い様」
少し笑う。
歩道橋へ続く道。
夕焼け。
車の音。
遠くで電車の警笛が聞こえる。
しばらく沈黙が続いた。
居心地の悪い沈黙ではない。
なんとなく歩く時間。
その空気の中で。
亜衣は本題を投げた。
「なつきってどう思う?」
春樹が少しだけ首を傾げた。
「なつき?」
「うん」
「横田さん?」
「そう」
数秒。
春樹は考えた。
真面目に。
本当に質問に答えようとしている顔だった。
「真面目」
「それだけ?」
「頑張ってる」
「それだけ?」
「面倒見がいい」
「それだけ?」
「優しい」
「ふーん」
亜衣は笑いを堪えた。
気づいてない。
本当に。
欠片も。
気づいていない。
「何」
「別に」
「変な質問」
「そう?」
「そう」
春樹は不思議そうだった。
そして本当にそれ以上考えていない。
だから亜衣はさらに聞いた。
「可愛いと思う?」
「普通に可愛いんじゃない?」
即答。
今度は亜衣の方が固まった。
「え」
「何」
「いや」
「変?」
「変じゃない」
変じゃない。
全然変じゃない。
むしろ普通。
でも。
(余計タチ悪いなこの人)
亜衣は心の中で思った。
可愛いとは思っている。
優しいとも思っている。
頑張っているとも思っている。
それなのに。
そこから先へ一ミリも進んでいない。
本当に恋愛へ結び付いていない。
だから鈍感なのだ。
「何で聞くの?」
春樹が聞いた。
「なんとなく」
「そう」
それ以上追及しない。
夕焼けの空。
駅前へ続く道。
制服姿の高校生たち。
その中を二人で歩いていく。
もう少しで駅だ。
そして、このあと。
亜衣はもう一つの光景を見ることになる。
なつきが見たら、たぶん気になる光景を。
★
駅が近づくにつれて、帰り道の音は少しずつ変わっていった。
学校の周りにある、部活帰りの声や自転車のベル、靴底がアスファルトを擦る音。
それらに、駅前の雑踏が混ざり始める。
信号待ちをする人たち。
買い物袋を持った大人。
制服姿の高校生。
バス停に並ぶ人の列。
夕方の水戸の空は、まだ明るさを残していた。
けれど西の方は赤く染まり、建物の影が歩道に長く伸びている。
図書室を出た時より、空気は少しだけ涼しかった。
亜衣は鞄を肩にかけ直しながら、隣を歩く春樹を横目で見た。
春樹は相変わらず静かだった。
さっきまで、なつきのことを聞いていた。
好きな人がいるかどうかも聞いた。
なのに、春樹の歩調はまったく変わらない。
動揺もない。
照れもない。
面倒そうですらない。
ただ、駅へ向かって歩いている。
そういうところが春樹らしいと言えば、春樹らしい。
「春樹」
「何」
「さっきの話、ちゃんと答えたつもり?」
「何の話」
「なつきの話」
「答えた」
「真面目、頑張ってる、面倒見がいい、優しい」
「うん」
「それで全部?」
亜衣が聞くと、春樹は少しだけ考えた。
本当に、答えを探すような間だった。
適当に流すわけではない。
でも、恋愛の気配を拾うわけでもない。
その真面目さが、亜衣には少しもどかしかった。
「人のことをよく見てる」
春樹が言った。
亜衣は少し目を細める。
「へぇ」
「でも、自分が見られてることにはあまり気づかない」
「……春樹、それなつき本人に言ったことある?」
「ない」
「だろうね」
「言うこと?」
「言ったらたぶん固まる」
「そう?」
「そう」
なつきがその言葉を聞いたら、きっと目を丸くする。
それから顔を赤くして、どう返せばいいか分からなくなる。
亜衣には簡単に想像できた。
春樹は鈍い。
でも、見ていないわけではない。
むしろ、なつきのことをちゃんと見ている。
見ているのに、それを恋愛に結びつけていない。
そこが問題なのだ。
「じゃあさ」
「うん」
「なつきが髪切ったら気づく?」
「長さによる」
「現実的」
「少しなら気づかないかも」
「じゃあ髪型変えたら?」
「たぶん」
「服は?」
「学校だと制服」
「休日なら?」
春樹は少しだけ亜衣を見た。
「質問多い」
「気になるじゃん」
「休日なら、見ると思う」
「見るんだ」
「見えるから」
「その言い方が春樹だわ」
亜衣は笑った。
可愛いと思うか、と聞いた時もそうだった。
春樹は、なつきを否定しなかった。
でも、褒める言葉にも熱がない。
そこに悪意はない。
ただ、本当に自分の感情をまだ分類していないのだ。
「春樹って、好きになったらどうなるんだろうね」
亜衣が呟くように言うと、春樹は前を向いたまま答えた。
「分からない」
「やっぱり?」
「好きって判断したことがない」
「判断」
「何となく気になる、ならあったと思う」
「中学?」
「うん」
「誰?」
「言わない」
「えー」
「言わない」
春樹はそこだけはっきりしていた。
亜衣は口を尖らせたが、それ以上は聞かなかった。
春樹は話さないと決めたら話さない。
そこは、最近少し分かってきた。
ただ、ひとつだけ頭に残った。
好きって判断したことがない。
春樹らしい言い方だった。
好きになる、ではなく、判断する。
自分の気持ちに名前をつけるのが、春樹はたぶん遅い。
遅いどころか、気づかないまま通り過ぎる可能性もある。
亜衣は小さく息を吐いた。
「なつき、大変だな」
「何が?」
「独り言」
「そう」
聞いてこない。
そこも春樹だった。
駅前の信号が青に変わり、人の波が動く。
二人もその流れに乗って改札の方へ向かった。
改札前は、学校帰りの生徒で少し混んでいた。
同じ梅桜高校の制服も見える。
普通科、特進、スポーツ特待。
校舎では棟が違っても、駅へ来れば同じ制服の生徒たちが混ざる。
春樹はその中で、誰かを探すように軽く視線を動かした。
その時だった。
「お、いたいた」
明るい声がした。
桐谷蓮だった。
制服姿で、鞄を肩にかけている。
ネクタイは少し緩められていて、手には参考書らしき本が一冊。
駅の柱の近くから、軽く手を上げて近づいてくる。
「桐谷くん」
亜衣が声をかけると、蓮はにっと笑った。
「伊藤じゃん。春樹と一緒?」
「図書委員だったから、駅まで」
「あー、なるほど。春樹、今日当番だったんだ」
「うん」
春樹は短く答える。
蓮は慣れたように頷いた。
「お疲れ」
「蓮は?」
「補習じゃないぞ」
「聞いてない」
「顔が聞いてた」
「聞いてない」
蓮は楽しそうに笑った。
亜衣はそのやり取りを見ながら、少しだけ感心した。
桐谷くんは、春樹の短い返事をまったく気にしない。
むしろ、その短さを会話のテンポにしている。
長い付き合いなのだと、すぐに分かる。
「桐谷くんって、春樹と中学からだっけ?」
亜衣が聞くと、蓮はすぐに答えた。
「いや、小学校から」
すると春樹が訂正した。
「小三から」
「細かいな」
「違うから」
「小学校からでいいだろ」
「まあ、いいけど」
「いいんじゃん」
蓮が笑う。
春樹はほんの少しだけ眉を寄せた。
亜衣はその表情を見て、思わず笑った。
「小三からって長いね」
「長いよ。春樹がまだ今よりちょっとだけ素直だった頃から」
「今も素直」
「どこが?」
「嘘は言わない」
「それは素直とはちょっと違う」
蓮の返しに、亜衣は頷いた。
「分かる」
「だろ?」
「俺の話?」
春樹が静かに言う。
「そう」
蓮と亜衣が同時に答えた。
春樹は何も言わなかった。
少しだけ、諦めたような顔をした。
その顔がまた面白くて、亜衣は笑ってしまう。
すると蓮が改札の向こう側をちらりと見た。
「美優、まだかな」
「先生に捕まってる?」
春樹が言う。
「ありえる」
「篠崎さん、よく先生に呼ばれるの?」
亜衣が聞くと、蓮は頷いた。
「真面目だからね。プリント運んで、とか、ちょっと手伝って、とか頼まれがち」
「断れないタイプ?」
「そうそう」
春樹が短く言う。
「断れない」
「春樹が言うと実感あるね」
亜衣が言うと、春樹は少しだけ首を傾げた。
「昔からだから」
昔から。
その言葉が、自然に出る。
亜衣は黙って聞いていた。
なつきには、まだない時間。
春樹と美優。
春樹と蓮。
そこには、小学校から、中学から続いている積み重ねがある。
それは、ただの距離の近さではない。
時間の重さだった。
数分もしないうちに、美優が改札の方へ駆け寄ってきた。
制服姿。
手には参考書が二冊。
鞄の肩紐を押さえながら、少しだけ息を弾ませている。
「ごめん、待った?」
美優が言うと、蓮が即答した。
「待った」
春樹も言う。
「二分」
「それ、待ってるじゃん」
美優は少し困ったように笑った。
春樹は淡々と返す。
「少し」
「春樹が少しって言う時、だいたい本当に少しなんだよね」
「そう?」
「そう」
美優はそう言ってから、亜衣に気づいた。
「あ、伊藤さん」
「お疲れ、篠崎さん」
「春樹と一緒だったの?」
「図書委員。今日は担当一緒だったから」
「そっか。大変だった?」
「返却本多かった。春樹は淡々と働いてた」
「春樹、ちゃんと働いた?」
「働いた」
「本当に?」
「本当に」
美優は春樹を少し疑うように見た。
蓮が横から笑う。
「美優、春樹への信用低いな」
「低くはないよ。方向による」
「方向?」
「本の整理とかは信用できる。時間管理は微妙」
「分かる」
蓮が頷く。
春樹は少しだけ不満そうにした。
「遅刻はしてない」
「ギリギリはある」
美優が言う。
「中学の時も、朝読書の時間にぎりぎり入ってきたことあったよね」
「一回」
「三回」
蓮が訂正する。
「盛るな」
「盛ってない」
美優も頷く。
「あったよ。しかも一回、教室入ってから筆箱忘れたって気づいてた」
「それは覚えてる」
「覚えてるんだ」
亜衣が笑うと、春樹は少しだけ目を逸らした。
「覚えてる」
美優がくすくす笑った。
「春樹、昔から忘れ物は少ないけど、忘れる時は大事なもの忘れるよね」
「そんなことない」
「ある」
「あるな」
蓮も頷く。
二対一。
春樹は反論を諦めたように黙った。
その沈黙に、美優と蓮が自然に笑う。
亜衣も笑った。
会話に入れないわけではない。
むしろ、蓮も美優も亜衣を置いていかないように話してくれている。
でも、亜衣は同時に感じていた。
三人の間にある、昔からの会話の蓄積。
どの話題にも「前に」がある。
どの言葉にも「あの時」がある。
それは、新しく知り合った人間がすぐに持てるものではない。
なつきは、これを見たらどう思うだろう。
亜衣はふと考えた。
きっと笑う。
でも、胸の奥では少し沈む。
そういう顔が、簡単に思い浮かんだ。
四人は改札を通り、ホームへ向かった。
階段を下りる途中、美優が参考書を抱え直す。
その腕には少し重そうな力が入っていた。
「重そうだね」
亜衣が言うと、美優は苦笑した。
「先生に追加で渡されたの。テスト前だから、これも見ておくといいよって」
「それはありがたいけど重いね」
「うん。物理的に重い」
春樹が美優の手元を見る。
「持つ?」
自然な一言だった。
あまりにも自然で、亜衣は少しだけ瞬きした。
美優も驚かない。
「大丈夫。これくらい持てる」
「そう」
「でも、ありがとう」
「うん」
それだけ。
特別な甘さはない。
でも、自然な気遣いがあった。
幼馴染だからなのか。
春樹がそういう人だからなのか。
美優がそれを当たり前に受け取る距離にいるからなのか。
亜衣には判断できない。
ただ、近いなと思った。
ホームには夕方の空気が流れていた。
学校帰りの生徒たちが列を作り、ところどころで話し声が弾んでいる。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
線路の向こうには、薄く赤い空が広がっていた。
美優は春樹の隣に立った。
肩が触れるほどではない。
でも、迷わない距離だった。
蓮はその反対側で、参考書をぱらぱらとめくっている。
「蓮、今見ても頭入らないでしょ」
美優が言う。
「雰囲気だけ」
「一番だめなやつ」
「やってる感は大事」
「点にはならない」
春樹が短く言った。
「春樹まで言うか」
「事実」
「冷たいなぁ」
「現実」
「テスト前に現実言うな」
蓮が大げさに肩を落とす。
亜衣は笑った。
この空気は嫌ではない。
むしろ楽しい。
だけど、同時に少しだけ眩しい。
なつきが知らない春樹。
美優と蓮の間にいる春樹。
教室で見る春樹とは違うのに、やっぱり同じ春樹。
いろんな場所に、春樹がいる。
その全部を知りたいと思ったら、きっと苦しい。
なつきは、今まさにそれをしているのかもしれない。
電車がホームへ入ってきた。
風が吹き、制服の袖が揺れる。
ドアが開き、人が降りる。
それから、四人は車内へ乗り込んだ。
座席は少し空いていた。
蓮が先に座る。
その隣に春樹。
春樹の隣に美優。
亜衣は向かい側の席へ座った。
誰かが指示したわけではない。
自然にそうなった。
その自然さを、亜衣は見逃さなかった。
春樹と美優が隣に座ることに、誰も違和感を覚えていない。
蓮も茶化さない。
春樹も避けない。
美優も気負わない。
それは恋人らしいというより、本当に長い付き合いの距離だった。
でも、第三者から見れば。
なつきが見れば。
きっと、近く見える。
電車が動き出した。
窓の外の景色がゆっくり流れていく。
夕焼けの街。
線路沿いの家々。
踏切の明かり。
車内の蛍光灯が少しずつ目立つ時間。
蓮が参考書を閉じて言った。
「テスト終わったら、何か食べに行きたい」
「まだ始まってもないのに」
美優が呆れる。
「終わった後の希望がないと頑張れない」
「分かる」
亜衣が言った。
「私もテスト後に甘いもの食べたい」
「伊藤、分かってる」
蓮が嬉しそうに頷く。
「春樹は?」
「何が?」
「テスト終わったら」
「寝る」
「夢がない」
「現実的」
美優が笑う。
「春樹、昔からイベント後すぐ寝るよね」
「疲れるから」
「中学の体育祭の後も寝てた」
「それはみんな寝る」
「帰りの電車で立ったまま寝かけてたじゃん」
「寝てない」
「寝てた」
蓮が言う。
「俺、支えてた」
「それは覚えてない」
「ほら寝てた」
美優が笑う。
亜衣も笑った。
昔話は、次から次へと出てくる。
中学の体育祭。
忘れ物。
先生に頼まれたプリント運び。
蓮が購買でパンを買いすぎた話。
美優が小テスト前に二人へ単語を叩き込んだ話。
春樹がそれを淡々と受け流していた話。
どれも小さな話だった。
大事件ではない。
でも、積み重なれば、その人たちだけの歴史になる。
亜衣は相槌を打ちながら、その歴史の外側に座っていた。
除け者にされているわけではない。
むしろ、美優も蓮も話を振ってくれる。
「伊藤さんは、中学どこだったの?」
「私は水戸市内。なつきと同じではないけど、近いところ」
「じゃあ、横田さんとは高校から?」
「うん。でも一年の時は今ほどじゃなかったかな」
「そうなんだ」
美優は興味深そうに聞いた。
「横田さん、優しいよね」
美優が言った。
亜衣は少しだけ目を上げる。
「うん。優しい」
「交流会の時も、写真係すごく頑張ってたって春樹から聞いた」
春樹が少しだけ視線を上げる。
「言った?」
「言ったよ。ちゃんと撮ってくれたって」
「それは言った」
「ほら」
美優が少し笑う。
亜衣は春樹を見た。
「春樹、なつきの写真ちゃんと見てたもんね」
「見た」
「珍しいよね」
蓮が言う。
「春樹、写真とかあんまり興味ないのに」
「興味ないわけじゃない」
「じゃあ何?」
春樹は少しだけ考えた。
「見る理由があれば見る」
「理由あったんだ?」
亜衣が聞く。
「班の記録だったから」
「それだけ?」
「楽しそうだった」
春樹の言葉は短かった。
でも、亜衣の胸に少し残った。
楽しそうだった。
なつきが撮った写真を見て、春樹はそう思った。
それを、今ここで普通に言う。
本人がいない場所で。
美優と蓮がいる前で。
恋愛感情があるとは言えない。
でも、見ている。
なつきの頑張りを。
なつきの撮った写真を。
その中の楽しさを。
亜衣は、少しだけ口元を緩めた。
「なつきが聞いたら喜ぶよ、それ」
つい言ってしまった。
春樹は不思議そうにする。
「そう?」
「そう」
「写真、頑張ってたから」
「うん」
美優が穏やかに頷いた。
「横田さん、また写真撮ってくれるかな」
「行事があれば撮ると思う」
亜衣が言う。
「たぶん、すごく真面目に」
「そういうの、いいね」
美優の声は優しかった。
嫌な感じはない。
それがまた、亜衣には少し複雑だった。
美優はなつきを下に見ているわけではない。
遠ざけようとしているわけでもない。
普通に、なつきのことを良い子だと思っているように見える。
その一方で、春樹の隣に自然にいる。
だから分からない。
美優の気持ちが恋なのか、幼馴染の延長なのか。
春樹がそれをどう受け止めているのか。
今の亜衣には判断できなかった。
電車が揺れる。
美優が参考書を持ち直した時、春樹が自然に少し腕を引いた。
美優の肘が当たらないように。
美優はそれに気づいたのか、気づかなかったのか、軽く「ありがと」と言った。
春樹は「うん」とだけ返す。
それだけの動き。
でも、近い。
亜衣はまた思う。
あれを、なつきが見たら。
やっぱり気になる。
絶対に。
何も起きていない。
誰も悪くない。
でも、気になる。
好きな人の隣に、自然に座る女の子。
昔話を共有する女の子。
重い参考書を持っていたら、春樹が自然に気遣う女の子。
それが気にならない方が難しい。
やがて、亜衣が降りる駅が近づいた。
アナウンスが流れる。
亜衣は鞄を持って立ち上がった。
「私、次」
「お疲れ」
春樹が言う。
「また明日」
美優が微笑む。
「テスト勉強、頑張ろうね」
「うん。篠崎さんも」
蓮も手を上げる。
「伊藤、簿記に負けるなよ」
「桐谷くんも英語に負けないでね」
「痛いところ突くな」
「お互い様」
電車が停まる。
ドアが開く。
亜衣はホームへ降りた。
外の空気が少し冷たい。
振り返ると、窓越しに三人が見えた。
蓮が何かを言う。
美優が笑う。
春樹が短く返す。
それだけで成立する空気。
電車のドアが閉まる。
ゆっくりと動き出す。
窓の向こうの三人が、少しずつ遠ざかっていく。
亜衣はその場で、しばらく電車を見送った。
夕暮れのホームに、風が通る。
髪が頬にかかる。
アナウンスが次の電車を告げる。
周りの人たちは階段へ向かって歩いていく。
でも亜衣は、少しだけその場に残った。
今日、分かったことがある。
春樹は、なつきを見ている。
真面目だと思っている。
頑張っていると思っている。
人のことをよく見ているとも思っている。
写真も、ちゃんと見ていた。
楽しそうだったと言った。
でも、それが恋なのかどうかは、たぶん春樹自身も分かっていない。
そして、美優と蓮は、春樹の中に自然にいる。
昔からの時間を持っている。
美優の隣にいる春樹は、教室の春樹とも、図書委員の春樹とも少し違う。
でも、それも同じ春樹だった。
「なつき」
亜衣は小さく呟いた。
本人はいない。
でも、自然に名前が出た。
「あれは気になるわ」
少しだけ笑う。
笑うしかなかった。
「私でも、ちょっと気になる」
春樹と美優が何なのかは分からない。
恋なのか。
幼馴染なのか。
家族みたいなものなのか。
蓮を含めた三人の空気なのか。
答えはまだ出せない。
でも、なつきが不安になる理由は分かった。
それだけは、はっきり分かった。
亜衣はスマホを取り出しかけた。
なつきにメッセージを送ろうかと思った。
でも、やめた。
今言えば、なつきはきっと考えすぎる。
テスト前なのに。
本を読んで、勉強して、春樹に少しずつ近づこうとしているのに。
余計な不安を渡すのは違う気がした。
だから、亜衣はスマホを鞄に戻した。
必要な時が来たら話せばいい。
今は、見ておく。
なつきのことも。
春樹のことも。
美優のことも。
分からないものを、分からないまま。
勝手に決めつけずに。
亜衣はホームの階段へ向かった。
夕暮れは、もう夜に近づいている。
紫色に沈んでいく空を見上げながら、亜衣は胸の中でそっと呟いた。
なつき。
まだ大変かもしれないよ。
でも、ちゃんと見てるから。
ひとりでぐるぐるしそうになったら、たぶん止めるから。
そう思うと、少しだけ足取りが軽くなった。
恋をしているのは亜衣ではない。
それなのに、どうしてこんなに気になるのだろう。
友達だから。
たぶん、それだけだ。
亜衣は小さく笑って、駅の階段を下りていった。
電車の音は、もう遠くなっていた。
それでも、窓の向こうで見た三人の距離は、しばらく亜衣の胸に残っていた。




