第23話 難癖の向こう側
中間テスト前の教室には、独特の音がある。
シャーペンの芯が紙を擦る音。
問題集のページをめくる音。
赤ペンで丸をつける音。
ため息。
小さな悲鳴。
そして、分かった瞬間の短い声。
「あ、これか」
「違った……」
「何で貸方に行くの」
「もう簿記嫌い」
「簿記は悪くない」
「先生みたいなこと言うな」
昼休みの二年十一組は、今日も少しだけ勉強の空気になっていた。
もちろん、全員が真面目に机へ向かっているわけではない。
いつも通り騒いでいる生徒もいる。
スマホを見ている生徒もいる。
部活の話をしている生徒もいる。
けれど、机の上に問題集が開かれている人数は明らかに増えていた。
中間テストまで、あと二週間ほど。
時間はあるようで、ない。
そのことに、少しずつみんな気づき始めていた。
横田なつきは、自分の席で簿記の問題集を開いていた。
昨日、春樹に教わった手形の復習。
受け取る。
振り出す。
受取手形。
支払手形。
買掛金。
売掛金。
言葉だけ見ると簡単そうなのに、問題文になると急に迷う。
でも、昨日よりは分かる。
ノートには、春樹が書いてくれた小さな矢印が残っている。
その横に、自分で書いた文字。
『問題文を最後まで読む』
そして、誰にも見せられないくらい小さく書いた言葉。
『普通じゃない優しさ』
なつきはその文字を見るたびに、少しだけ顔が熱くなる。
消そうかと思った。
けれど、消せなかった。
昨日の気持ちを、残しておきたかったから。
春樹は、田辺にも普通に教えた。
なつきだけに優しいわけではない。
誰かが困っていれば、必要なことを淡々と伝える。
その公平さが、少し寂しくて。
でも、それ以上に好きだった。
なつきはシャーペンを握り直し、問題文を読む。
『得意先から売掛金の回収として、約束手形を受け取った』
受け取った。
受取手形。
借方、受取手形。
貸方、売掛金。
書ける。
次。
『仕入先に対する買掛金の支払いとして、約束手形を振り出した』
振り出した。
支払手形。
買掛金が減る。
借方、買掛金。
貸方、支払手形。
書ける。
なつきは小さく息を吐いた。
昨日より手が止まらない。
少しだけ分かる。
それが嬉しい。
「お、横田、進んでる?」
向かいの席から三浦圭が声をかけた。
三浦は自分の問題集に付箋を貼りすぎて、端が花びらみたいになっている。
本人いわく「理解の花」らしい。
茜には「迷子の印」と言われていた。
「少しだけ」
なつきが答えると、三浦は親指を立てた。
「いいね。俺は今、手形と友情を結ぼうとしてる」
「友情?」
「手形と仲良くなれば、きっと解ける」
「解けるかな」
「解けないから助けて」
亜衣が横から笑った。
「早い。友情破綻早い」
「手形が心を開いてくれない」
「問題文を開きなさい」
茜が冷静に言う。
「遠山さん、今日も正論が鋭い!」
三浦は胸を押さえる。
空き教室での勉強会を始めてから、この六人の距離は少しだけ変わった。
まだ毎日一緒にいるわけではない。
でも、分からないところを共有するというのは、思ったよりも距離を縮める。
できないところを見せる。
間違いを見せる。
それを笑いすぎず、責めすぎず、時々冗談に変える。
その空気が、なつきには心地よかった。
春樹は斜め後ろの席で問題集を見ていた。
紅秋は三浦のノートを確認している。
茜は亜衣の英語の本文訳を見ている。
なつきは春樹に聞きたい問題が一つあった。
でも、すぐには声をかけられない。
昨日よりは少し慣れた。
それでも、春樹に話しかける前には、まだ小さな勇気が必要だった。
なつきが問題集を見つめて迷っていると、春樹の方から声がした。
「横田さん」
「はい」
「そこ、止まってる?」
見られていた。
なつきは少しだけ驚いてから、頷いた。
「うん。試算表のところ」
「見る?」
「お願いします」
春樹は問題集を持って、なつきの席の横へ来た。
教室で春樹が自然に隣へ来ることに、なつきはまだ慣れない。
慣れたいような、慣れたくないような。
緊張するけれど、その緊張も少しだけ嬉しい。
「どこ?」
「ここ」
なつきは試算表の問題を指差した。
「合計が合わなくて」
春樹は問題文と、なつきのノートを見比べる。
「仕訳は合ってる」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、足し算?」
「たぶん。現金のところ、二回足してる」
「え?」
なつきはノートを覗き込む。
春樹が指で示す。
「ここで一回入れて、下でもう一回入ってる」
「あ……本当だ」
「試算表は、同じ金額を二回入れるとずれる」
「当たり前なのにやってる……」
「よくある」
春樹は淡々と言った。
責める声ではない。
だから、なつきは少しだけ落ち着いて確認できる。
「じゃあここ消して」
「うん」
「もう一回合計」
「やってみる」
なつきは消しゴムで数字を消し、もう一度合計した。
借方合計。
貸方合計。
同じ数字になった。
「あ、合った」
「うん」
「合った!」
思わず声が少し大きくなる。
春樹は小さく頷いた。
「よかった」
その短い言葉が、胸に優しく届く。
三浦が横から身を乗り出した。
「おお、横田が試算表と和解した!」
「和解?」
亜衣が笑う。
「俺も和解したい。今、試算表に門前払いされてる」
「三浦くん、こっち来なさい」
紅秋が言う。
「はい、板倉先生!」
「先生じゃない」
「大國も板倉も先生じゃないって言うな。俺たちからしたら先生なんだよ」
教室に少し笑いが広がる。
その空気は穏やかだった。
少なくとも、この瞬間までは。
「へぇ」
少し離れたところから声がした。
島中良だった。
なつきの背筋が少しだけ固まる。
島中は、自分の席の近くからゆっくり歩いてきた。
手には簿記の問題集。
表情はいつもの笑顔。
でも、目は少し違う。
田辺はいない。
今日は部活へ早めに向かったらしい。
島中だけが来た。
亜衣が小さく息を吐いた。
茜がすっと顔を上げる。
三浦は「おっと」と小さく呟き、紅秋は静かに問題集を閉じた。
春樹はなつきのノートから目を離し、島中を見る。
「大國先生、今日も大人気じゃん」
島中が言った。
軽い声。
でも、その言い方には少し棘がある。
春樹は表情を変えない。
「先生じゃない」
「みんなに言ってるな、それ」
「事実だから」
「真面目」
島中は笑う。
それから、なつきの机の近くに立った。
「横田も教わってんの?」
「うん」
なつきは短く答えた。
島中はノートを覗き込もうと少し身を乗り出した。
なつきは反射的にノートへ手を添える。
自分のノートを勝手に見られたくなかった。
島中はその仕草に気づいたようだった。
少しだけ笑う。
「そんな隠さなくても」
「まだ途中だから」
「ふーん」
亜衣が横から言った。
「島中、何か用?」
「用ってほどじゃないけど」
島中は手にした問題集を軽く持ち上げた。
「俺も分かんないとこあったからさ。大國に聞こうかなって」
教室の空気が、少しだけ変わった。
なつきは一瞬、どう反応すればいいか分からなかった。
昨日まで、島中は勉強会に入ろうとしてしつこく聞いてきた。
場所を探ろうとしてきた。
断ると、嫌味を言った。
その島中が、今度は春樹に教わろうとしている。
春樹は少しも表情を変えなかった。
「どこ?」
ただ、そう聞いた。
島中は少し拍子抜けしたように見えた。
断られると思っていたのかもしれない。
冷たくされると思っていたのかもしれない。
けれど、春樹は普通に聞いた。
困っているなら見る。
それだけだった。
「ここ」
島中は問題集を開き、春樹の前に置いた。
なつきの机の横。
春樹、なつき、島中。
微妙な距離。
なつきは少しだけ身体を引いた。
島中が近い。
嫌というほどではない。
でも、落ち着かない。
春樹が問題文を見る。
「手形」
「見りゃ分かる」
島中がすぐに言った。
春樹は気にしない。
「ここ、仕訳が違う」
「違う?」
「うん」
「いや、これでもよくね?」
島中はすぐに返した。
その声には、教わるというより、反論する響きがあった。
春樹はノートを見て、淡々と言う。
「問題文に『支払いとして振り出した』ってある」
「だから支払手形だろ」
「支払手形は貸方」
「分かってる」
「でも島中は借方に書いてる」
「いや、買掛金減るからこっちに持ってきただけ」
「買掛金が借方」
「だから、それは分かってるって」
島中の声が少し強くなる。
なつきは胸がざわついた。
春樹は何も悪くない。
ただ間違いを指摘しているだけだ。
なのに島中は、認めたくないように言い返している。
春樹は感情を動かさず、島中のノートに小さく印をつけた。
「買掛金、借方。支払手形、貸方」
「……」
「ここを入れ替えれば合う」
島中はノートを見た。
少し黙る。
たぶん、春樹の言うことが正しいと分かっている。
でも、すぐには認めたくないのだろう。
「大國ってさ」
島中が言った。
「説明、淡々としすぎじゃね?」
難癖だった。
なつきはそう思った。
間違いを指摘されたことから、説明の態度へ話をずらしている。
春樹は静かに答える。
「分かりにくい?」
「いや、分からなくはないけど」
「ならよかった」
「そういうとこ」
「どこ?」
「真面目すぎ」
島中は笑った。
教室の一部がこちらを見ている。
なつきは少しだけ手に力を入れた。
亜衣の表情が険しくなる。
茜もじっと島中を見ている。
三浦は何か言うタイミングを見ているようだった。
でも、春樹は変わらない。
「そうかも」
短く言った。
島中が少しだけ言葉に詰まる。
煽りが、空振りした。
春樹は怒らない。
言い返してもこない。
真面目すぎ、と言われても、そうかもと受け止める。
島中が望んでいた反応ではなかったのだろう。
「……まあいいけど」
島中はノートを見下ろした。
「で、次は?」
「次は試算表」
「それは見りゃ分かる」
「じゃあやって」
「……」
島中は少しだけ眉を寄せた。
春樹の言葉に悪意はない。
本当に、分かるならやればいいと言っているだけ。
でも、それが島中には少し効いているようだった。
島中はシャーペンを動かし始めた。
春樹は黙って見ている。
なつきも、つい見てしまう。
島中は要領が悪いわけではない。
むしろ、理解は早い。
数分もすると、さっき指摘された箇所を直し、試算表の合計まで進めていた。
数字は一度ずれた。
でも、すぐに見直して直した。
「合った」
島中が言った。
少し得意げに。
春樹は頷く。
「合ってる」
「まあ、こんなもんだろ」
島中は言った。
その口調には、さっきの難癖をなかったことにしたいような軽さがあった。
三浦が横から明るく言う。
「おー、島中やるじゃん」
「普通」
島中は肩をすくめる。
「俺、やればできるし」
「じゃあ最初からやればいい」
茜が静かに言った。
島中は少しだけ笑った。
「遠山、刺すね」
「事実だから」
「はいはい」
島中は問題集を閉じた。
春樹へ向き直る。
一瞬、何かを言いかけたように見えた。
ありがとう。
そう言うのかと思った。
でも、島中はその言葉を選ばなかった。
「まあ、分かりやすかったわ」
それだけ言った。
春樹は短く返す。
「そう」
「もうちょい愛想あれば完璧だけどな」
「必要?」
「いや、知らんけど」
島中は笑った。
また難癖。
でも、さっきより少し弱い。
春樹は何も言わなかった。
島中はその沈黙に、少しだけ居心地悪そうにした。
「じゃ」
軽く手を振り、自分の席へ戻っていく。
その背中を、なつきは見ていた。
島中は嫌な言い方をした。
難癖をつけた。
素直にありがとうと言わなかった。
春樹を認めたくないのが、見えた。
でも、勉強はできないわけではない。
むしろ、ちゃんと理解していた。
だからこそ、余計に面倒だった。
できないから春樹に反発しているのではない。
春樹を認めたくないから、反発している。
それが分かった。
亜衣が小さく呟く。
「めんどくさ」
かなり正直な一言だった。
三浦も苦笑する。
「島中、プライド高いからなぁ」
紅秋が静かに言った。
「大國くんに教わった、って形が嫌なんだと思う」
「それで難癖?」
亜衣が眉を寄せる。
「ださい」
「亜衣、それ本人の前で言わなくてよかったね」
なつきが言うと、亜衣は真顔で返した。
「次は言うかも」
「亜衣ちゃん」
茜が少しだけため息をつく。
「でも、今のは確かに良くない」
三浦が頷く。
「でも大國、よく怒らなかったな」
春樹は自分の問題集を閉じながら言った。
「怒るところあった?」
全員が一瞬黙った。
亜衣が目を丸くする。
「え、あったでしょ」
「説明聞いて、解けたならそれでいい」
「いや、態度」
「態度は別」
春樹は淡々と言った。
「問題が解けるかどうかとは関係ない」
なつきは、その言葉に胸を打たれた。
態度は別。
問題が解けるかどうかとは関係ない。
春樹は、島中の難癖に反応しなかったのではない。
見えていないわけでもない。
ただ、勉強を教えるという場面では、必要なことだけを見ていたのだ。
島中が嫌な言い方をしても。
素直じゃなくても。
春樹は、問題を解けるようにすることを優先した。
それは、簡単なことではない。
少なくとも、なつきにはできない。
嫌なことを言われたら、傷つく。
困る。
言葉が止まる。
でも春樹は、感情に流されない。
相手を突き放しもしない。
ただ、必要なことをする。
それが、すごいと思った。
「大國くん」
なつきは小さく呼んだ。
「うん」
「嫌じゃなかったの?」
「何が?」
「その……島中くんの言い方」
春樹は少しだけ考えた。
「いい言い方ではないと思った」
「うん」
「でも、分からないところを聞きに来たのは本当だと思ったから」
なつきは息を止める。
「だから教えたの?」
「うん」
「難癖つけてたのに?」
「間違いを認めにくい時はある」
春樹の声は静かだった。
「それでも、直せば解ける」
その言葉に、なつきの胸がまた揺れた。
春樹は、島中の嫌なところだけを見ていなかった。
分からないところを聞きに来たこと。
間違いを認めにくいこと。
それでも直せば解けること。
そういう部分を見ていた。
なつきは、また春樹を好きになる。
何度目だろう。
もう分からない。
でも、今日の好きは少し違った。
優しいから好き。
分かりやすく教えてくれるから好き。
それだけではない。
相手の嫌な態度に引きずられず、必要なことを見失わないところが好き。
その強さに、惹かれた。
「大國くんって」
なつきは言いかけて、少し迷った。
でも、言う。
「やっぱりすごいね」
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
「すごくはない」
「すごいと思う」
「普通」
「また普通」
亜衣が横から言った。
「大國の普通、毎回レベル高いんだって」
三浦も頷く。
「それな。俺なら途中で『じゃあ自分でやれ』って言ってる」
「私も言うかも」
亜衣が言う。
茜も静かに頷いた。
「私も、態度が悪ければ切る可能性があるわ」
「遠山さんは即切りそう」
三浦が言う。
「必要なら」
「怖いけど正しい」
紅秋が春樹を見る。
「春樹は、昔からそういうところあるね」
「そう?」
「ある。相手の態度と、やるべきことを分ける」
春樹は少しだけ困ったようにした。
「意識してない」
「だからすごいんだと思うよ」
紅秋の言葉に、春樹は返事をしなかった。
少しだけ視線を落とす。
その横顔を、なつきは見つめてしまった。
春樹は褒められるのが得意ではないのかもしれない。
すごいと言われても、普通と言う。
優しいと言われても、たぶん首を傾げる。
でも、その普通の中に、なつきが惹かれるものがたくさんある。
なつきはノートを見る。
春樹が直してくれた試算表。
合った数字。
その横に、小さく自分で印をつけた。
今日のことも、きっと忘れない。
島中が難癖をつけたこと。
春樹が怒らなかったこと。
それでも島中が問題を解けるようになったこと。
ありがとうとは言わなかったけれど、分かりやすかったと言ったこと。
そして、春樹が「態度は別」と言ったこと。
昼休み終了の予鈴が鳴る。
教室にいた生徒たちが、少しずつ席へ戻り始める。
島中も自分の席に戻っていた。
いつものグループの中で笑っている。
でも、なつきには少しだけ分かった。
さっきの島中の笑いは、いつもより薄かった。
春樹に教わった。
それを完全にはなかったことにできないのだと思う。
田辺は部活でいない。
島中は一人で来て、難癖をつけて、解けるようになって、礼を言わずに戻った。
面倒な人。
でも、ただの悪い人とも言い切れない。
そこがまた、難しい。
五時間目の先生が来る前、なつきはもう一度春樹に言った。
「大國くん」
「うん」
「さっきの説明、私も分かりやすかった」
「試算表?」
「うん。それもだけど」
なつきは少しだけ笑った。
「問題と態度は別ってところ」
春樹は少しだけ不思議そうにした。
「説明だった?」
「私には、そう聞こえた」
「そう」
春樹は短く返した。
それだけ。
でも、なつきには十分だった。
先生が教室に入ってくる。
ざわめきが収まり、生徒たちが席につく。
なつきも前を向いた。
ノートの端には、また小さな文字が増えている。
『態度は別』
それは簿記とは関係ない。
テストにも出ない。
でも、なつきにとっては大事な言葉だった。
好きな人を見ていると、勉強とは関係ないことまで学んでしまう。
どう人を見るか。
どう線を引くか。
どう優しくするか。
どう怒らずにいるか。
春樹の隣にいるわけではない。
まだ、特別な存在でもない。
それでも、春樹の言葉や行動が、なつきの中に少しずつ積もっていく。
その積もったものが、恋をもっと深くしていく。
なつきはシャーペンを握った。
中間テストは近い。
簿記はまだ難しい。
島中の絡みは、きっとこれからも続く。
でも今日、また一つ知った。
春樹の強さ。
春樹の普通。
自分には普通じゃない優しさ。
授業が始まる。
先生の声が黒板に向かって響く。
なつきはノートを開き、さっき書いた小さな言葉を一度だけ見た。
難癖の向こう側で、春樹のことをまた少し好きになった。
それは、誰にも言えない。
でも、確かにそこにある気持ちだった。




