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『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


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第22話 誰にでも向けられる優しさ



 中間テストまで、あと二週間と少し。


 範囲表が配られてから、二年十一組の教室は少しずつ変わっていた。


 朝の雑談は、前より短くなった。


 昼休みにスマホを見ている生徒の横で、問題集を開く生徒が増えた。


 放課後も、すぐに部活や駅へ向かう者ばかりではなく、机に残ってノートを広げる者が何人かいる。


 もちろん、全員が真面目になったわけではない。


 島中良のグループは相変わらず賑やかだし、田辺守は部活の予定を気にしながらも「やべぇ」「終わった」を口癖のように繰り返している。


 三浦圭は毎朝「今日から本気」と言って、昼には「明日から超本気」に変わる。


 伊藤亜衣は「簿記が夢に出た」と言い、遠山茜に「それは少しは勉強した証拠」と返されていた。


 それでも、教室の空気は確かにテスト前になっていた。


 普段の二年十一組のままなのに、机の上に置かれるものが少し違う。


 教科書。


 問題集。


 赤ペン。


 付箋。


 範囲表。


 それらが、生徒たちの現実を静かに突きつけてくる。


 横田なつきも、その空気の中にいた。


 昼休みが終わり、五時間目まで少しだけ時間がある。


 教室にはまだざわめきが残っていた。


 購買の袋を片付ける音。


 椅子を引く音。


 友達同士の笑い声。


 遠くで誰かが「数学やばい」と叫んでいる。


 なつきは自分の席で、簿記の問題集を開いていた。


 昨日の空き教室勉強会で、春樹に教えてもらった手形の問題。


 その復習だった。


 空き教室の時間は、思っていたよりも濃かった。


 島中と田辺を振り切ってたどり着いた、普通科棟の空き教室。


 六人だけの机。


 黒板に書かれた今日の流れ。


 春樹の向かいの席。


 手形の図。


 受取手形と支払手形。


 春樹は、短い言葉で丁寧に説明してくれた。


 なつきはその説明をノートに写した。


 分かった。


 そう思った。


 けれど、翌日になってもう一度問題を見ると、やっぱり少し迷う。


 分かったはずなのに。


 文章が少し変わると、手が止まる。


「えっと……」


 なつきは問題文を指でなぞった。


『得意先より売掛金の回収として約束手形を受け取った』


 これは、受け取った。


 だから受取手形。


 売掛金が減る。


 借方が受取手形。


 貸方が売掛金。


 ここまでは分かる。


 次の問題。


『仕入先に対する買掛金の支払いとして約束手形を振り出した』


 振り出した。


 支払った側。


 支払手形。


 買掛金が減る。


 借方が買掛金。


 貸方が支払手形。


 たぶん。


 たぶん、合っている。


 でも、自信がない。


 なつきはシャーペンの先をノートの上で止めた。


 前なら、ここで諦めていたかもしれない。


 分からないから後でいいや。


 そう思って、別の問題へ逃げていた。


 でも今は、少し違う。


 春樹に教えてもらった。


 茜にも、分からないところに印をつけるよう言われた。


 だから、逃げずに考えたい。


 考えて、それでも分からなかったら聞く。


 そういうふうにしたい。


「横田さん」


 斜め後ろから声がした。


 なつきは少し驚いて振り返る。


 大國春樹だった。


 春樹は自分の席で昼食を片付けたあと、簿記の問題集を開いていたらしい。


 いつの間に見ていたのか、なつきのノートへ視線を向けていた。


「はい」


 なつきの声が少し上ずる。


 春樹は気にした様子もなく言った。


「そこ、逆」


「え?」


「二問目」


 春樹は立ち上がり、なつきの席の横へ来た。


 近い。


 昨日の空き教室でも向かい合っていた。


 けれど、今は普段の教室。


 いつもの席。


 周りにはクラスメイトがいる。


 その中で春樹が自分のノートを見ている。


 それだけで、なつきの心臓は少し忙しくなる。


「逆?」


 なつきはノートを見た。


「買掛金が減るから、借方は買掛金でいい」


「うん」


「でも、貸方は支払手形」


「あ、そう書いたよ?」


 なつきが指差すと、春樹は少しだけ首を傾げた。


「それ、漢字」


「え?」


 ノートを見る。


 なつきは『支払手形』と書いたつもりで、『受取手形』と書いていた。


 頭では分かっていたのに、手が勝手に一問目につられていた。


「あっ」


 なつきは顔が熱くなった。


「ほんとだ……」


「考え方は合ってる」


 春樹はすぐに言った。


 その声が、なつきを少し落ち着かせた。


「書き間違い?」


「たぶん」


「なら大丈夫。問題文は読めてる」


 春樹はなつきのノートの端に、昨日と同じように小さく矢印を書いた。


 受け取る。


 振り出す。


 それぞれの下に、受取手形、支払手形。


「この二つだけ最初に確認するといい」


「受け取るか、振り出すか」


「うん」


「それで決める」


「そう」


 なつきは頷きながらメモを取る。


 春樹の説明は、やっぱり分かりやすい。


 短いけれど、必要なところを外さない。


 間違えたことを責めない。


 できているところを先に言ってくれる。


 考え方は合ってる。


 その一言が、なつきにはとても大きかった。


 できないと思っていたものが、少しだけできるかもしれないと思える。


 それが嬉しかった。


「ありがとう」


 なつきは小さく言った。


「うん」


 春樹は短く返す。


 そのまま自分の席へ戻るかと思ったが、春樹は少しだけノートを見て言った。


「次の試算表も見る?」


「えっ」


「星、ついてる」


「あ、うん。そこも分からなくて」


「時間あるなら」


 五時間目までは、まだ少しだけある。


 なつきは頷いた。


「お願いします」


 春樹は近くの椅子を少し引き、なつきの机の横に座った。


 なつきの心臓が一瞬で大きく跳ねる。


 近い。


 春樹が、自分の横に座っている。


 教室で。


 自然に。


 勉強を教えるために。


 ただそれだけ。


 でも、なつきにはただそれだけではなかった。


 ノートを挟んで並ぶ距離。


 春樹のシャーペンが紙に触れる音。


 制服の袖が机に少し擦れる音。


 近くで聞こえる、静かな声。


 全部が、いつもより鮮明に感じられる。


「試算表は」


 春樹が言う。


「まず仕訳を間違えないこと」


「うん」


「次に、勘定科目ごとに合計する」


「そこで混ざる」


「混ざるなら、線を引く」


「線?」


「こう」


 春樹はなつきのノートに、科目ごとに区切り線を引いた。


「売掛金、買掛金、現金、受取手形、支払手形。最初に場所を作る」


「場所を作る……」


「あとから探すと間違える」


「確かに」


「横田さんは、書く順番が少し迷子になるから」


「迷子……」


 なつきは少し恥ずかしくなった。


 でも、春樹の言い方は責めるものではなかった。


 ただ、ノートの癖を見て言ってくれている。


 自分のノートをちゃんと見てくれている。


 それが嬉しい。


「迷子にならないように、先に道を作る」


「道」


「うん」


「それ、分かりやすい」


 なつきは思わず笑った。


 春樹もほんの少しだけ目元を柔らかくした。


「ならよかった」


 その瞬間。


「なつきー」


 聞き慣れた声が割り込んできた。


 なつきの肩が少しだけ固まる。


 田辺守だった。


 田辺は部活のバッグを肩にかけたまま、問題集を片手に持って近づいてきた。


 顔には焦りがある。


 でも、距離の詰め方はいつも通り雑だった。


「何してんの?」


 田辺はなつきの机を覗き込む。


「簿記」


「お、俺もそれ分かんねぇ」


 なつきは少しだけ困った。


 今、春樹に教えてもらっている。


 やっと自然に。


 教室で、春樹が隣に座ってくれて。


 こんなに近くで。


 もう少し、この時間を独り占めしたかった。


 そう思ってしまった。


 でも、その気持ちを口に出すわけにはいかない。


 田辺はなつきの気持ちなど知らない。


 悪気なく、ただ困っている。


「田辺、部活は?」


「今日は少し遅れても平気。先生に質問行こうと思ったけど、職員室混んでてさ」


 田辺は春樹を見る。


「大國、教えてんの?」


「うん」


「俺にも教えて」


 あまりにも真っ直ぐなお願いだった。


 なつきは一瞬、胸の中に小さな不満が生まれるのを感じた。


 今なの。


 せっかく大國くんと。


 そう思ってしまった。


 でも、春樹は少しも嫌な顔をしなかった。


「どこ?」


 短く聞いた。


 田辺は少し驚いた顔をした。


「え、いいの?」


「時間あるなら」


「ある!」


「問題」


「これ」


 田辺は問題集を開いて、春樹の前に置いた。


 春樹はなつきのノートを一度指で押さえながら言った。


「横田さん、今のところ、区切り線引いて続きやってみて」


「あ、うん」


「分からなかったら止めて」


「うん」


 春樹は田辺の問題集へ視線を移した。


 なつきの胸に、複雑な感情が広がる。


 少し寂しい。


 でも、嫌ではなかった。


 春樹はなつきを放り出したわけではない。


 ちゃんと今やることを置いてくれた。


 その上で、田辺にも教えている。


 誰かが困っていたら、普通に見る。


 相手が田辺でも。


 それが、春樹だった。


「田辺」


 春樹が言う。


「うん」


「まず問題文、最後まで読んだ?」


「読んだ」


「本当に?」


「……半分」


「読む」


「はい」


 田辺が素直に問題文を読み始めた。


 その様子に、なつきは少し驚いた。


 田辺が春樹の言葉を素直に聞いている。


 いつもなら、なつきや茜に言われても少し茶化す。


 でも春樹に言われると、意外とちゃんと従った。


「これ、手形?」


 田辺が聞く。


「そう」


「受け取った?」


「問題文」


「えーっと……『仕入先に対する買掛金の支払いとして、約束手形を振り出した』」


「振り出した」


「支払手形?」


「うん」


「借方は?」


「えー……支払手形?」


「違う」


「もう違う!?」


「買掛金が減る」


「あ、そっちか!」


 田辺は頭をかいた。


「これ、マジで混ざるな」


「横田さんも同じところで迷ってた」


 春樹が言う。


 なつきは少しだけ顔を上げる。


 田辺がこちらを見る。


「なつきも?」


「うん」


「じゃあ俺だけじゃないんだな」


 田辺は少しほっとした顔をした。


 その顔が、なつきの小さな不満を少しだけ薄めた。


 田辺は本当に困っていたのかもしれない。


 今は、ただ教えてほしいだけなのかもしれない。


 少なくとも、この瞬間の田辺は、邪魔をしようとしているわけではない。


 春樹は田辺のノートにも、なつきに書いたのと似た図を書いた。


「受け取る、振り出す。まずそこ」


「おう」


「次に、何が減るか」


「買掛金」


「そう」


「じゃあ借方、買掛金。貸方、支払手形」


「合ってる」


「おお!」


 田辺が少し嬉しそうな声を出した。


 その声に、近くの数人が振り返る。


 亜衣も少し離れた席からこちらを見ていた。


 茜も気づいている。


 三浦は後方で数学の問題を見ながら、耳だけこちらに向けているようだった。


「大國、分かりやすいな」


 田辺が素直に言った。


 春樹は表情を変えない。


「問題文読めば分かる」


「その問題文が読めてねぇんだよ」


「読んで」


「はい」


 田辺はなぜか敬語になった。


 なつきは思わず少し笑ってしまった。


 田辺が気づく。


「笑うなよ、なつき」


「ごめん」


「いや、でもちょっと分かったわ」


「よかったね」


「おう」


 田辺は本当に少し嬉しそうだった。


 その様子を見て、なつきの胸の中に、また違う温かさが生まれた。


 春樹は、なつきだけに優しいわけではない。


 田辺にも教える。


 相手を見て態度を変えない。


 困っているなら、必要なことを教える。


 それは少しだけ寂しい。


 自分だけ特別ではないと感じるから。


 でも、それ以上に。


 その公平さが、春樹らしくて。


 なつきは、もっと好きだと思ってしまった。


 自分だけに優しいから好きなのではない。


 誰にでも、必要な分だけちゃんと向き合えるところが好きなのだ。


 それを知って、胸の中が静かに震えた。


「横田さん」


 春樹が声をかける。


「え?」


「続き、できた?」


「あ、うん。ここまで」


 なつきは慌ててノートを見せた。


 春樹は田辺の問題を見つつ、なつきのノートも確認する。


「合ってる」


「本当?」


「うん」


「やった」


 思わず声が出た。


 春樹は小さく頷いた。


「次、同じ形でやればいい」


「うん」


 田辺が横から言う。


「なつき、俺にも見せて」


「え?」


「区切り線のやつ。分かりやすそう」


「あ、いいよ」


 なつきはノートを少し田辺の方へ向けた。


 田辺は覗き込んで、感心したように言う。


「おお。きれいに分けてる」


「大國くんが教えてくれた」


「大國すげぇな」


 田辺は素直に言った。


 その時、教室の中心側から少しだけ視線を感じた。


 島中だった。


 島中は自分の席の近くで、男子たちと話しながらもこちらを見ていた。


 なつき、春樹、田辺。


 三人が机を囲んでいる様子。


 春樹が田辺にも教えている様子。


 それを、島中は見ていた。


 表情は笑っている。


 でも、目元はあまり笑っていなかった。


 なつきは少しだけ胸がざわついた。


 田辺が教わっていることを、島中はどう思っているのだろう。


 自分が入れなかった勉強会。


 でも田辺は、自然に春樹から教わっている。


 島中はそれを面白く思っていないかもしれない。


 けれど、今は島中がこちらへ来ることはなかった。


 たぶん、田辺が本当に勉強をしているから。


 そして春樹が堂々と教えているから。


 無理に割り込む理由がないのだ。


 五時間目の予鈴が鳴った。


 田辺が慌てて問題集を閉じる。


「やべ、戻るわ。大國、ありがとな」


「うん」


「なつきもノート見せてくれてありがと」


「うん」


「あとでまた聞くかも」


 なつきは少し迷った。


 また、という言葉に少し身構える。


 でも、田辺はすぐに付け加えた。


「空いてる時に。無理ならいい」


 その一言で、少しだけ印象が変わった。


 田辺なりに、前より気をつけているのかもしれない。


 なつきは頷いた。


「うん。分かるところなら」


「おう」


 田辺は席へ戻っていった。


 春樹も自分の席へ戻ろうとする。


 その前に、なつきは小さく声をかけた。


「大國くん」


「うん」


「ありがとう」


「さっきも聞いた」


「ううん。私に教えてくれたこともだけど、田辺にも教えてくれて」


 春樹は少しだけ不思議そうにした。


「困ってたから」


「うん」


「分かるところなら教える」


「うん」


 なつきは春樹を見た。


 その真っ直ぐすぎるほど普通の答えが、胸に刺さる。


「そういうところ、すごいと思う」


 言ってから、顔が熱くなった。


 少し踏み込みすぎただろうか。


 でも、春樹は黙っていた。


 驚いたようでもあり、考えているようでもあった。


 やがて、短く言う。


「普通だと思う」


「大國くんの普通は、たぶん普通じゃないよ」


 なつきは、気づけば亜衣みたいなことを言っていた。


 春樹は少しだけ目を瞬かせた。


 そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「それ、最近よく言われる」


「うん」


「そう」


 春樹は自分の席へ戻っていった。


 なつきはその後ろ姿を見ながら、胸に手を当てた。


 心臓が速い。


 でも、嫌な速さではない。


 好きだと思った。


 また。


 強く。


 誰にでも向けられる優しさ。


 自分だけではないことが少し寂しい。


 でも、その優しさが本物だから、好きになる。


 春樹は、自分を特別扱いしたわけではない。


 田辺にも同じように教えた。


 でも、なつきのこともちゃんと見ていた。


 途中で放置せず、次にやることを置いてくれた。


 できたことを確認してくれた。


 合ってると言ってくれた。


 それで十分だった。


 五時間目の先生が教室に入ってくる。


 生徒たちが席へ戻る。


 ざわめきが少しずつ収まっていく。


 なつきはノートを閉じる前に、春樹が書いてくれた矢印を見た。


 受け取る。


 振り出す。


 受取手形。


 支払手形。


 小さな図。


 ただの簿記のメモ。


 でも、なつきには大切に見えた。


 その横に、自分で小さく書く。


『問題文を最後まで読む』


 田辺にも言っていた言葉。


 自分にも必要な言葉。


 それから、もう一つだけ。


 誰にも見えないくらい小さく。


『普通じゃない優しさ』


 書いてしまってから、なつきは慌てて手で隠した。


 恥ずかしい。


 でも、消さなかった。


 春樹には見せられない。


 茜や亜衣にも見せられない。


 けれど、今の気持ちを少しだけ残しておきたかった。


 授業が始まる。


 先生の声が教室に響く。


 なつきは前を向いた。


 中間テストは怖い。


 簿記もまだ不安。


 島中の視線も気になる。


 田辺の距離感も、まだ完全には安心できない。


 でも今日、ひとつ分かったことがある。


 春樹の優しさは、特別扱いではなくても、ちゃんと温かい。


 誰にでも向けられるからこそ、信じられる。


 そのことに気づいたら、なつきの中の恋はまた少しだけ深くなった。


 授業中、なつきはノートに視線を落とす。


 春樹の書いた矢印が、まだそこにある。


 その線を見ながら、なつきは静かに思った。


 もっと知りたい。


 春樹の普通を。


 自分にはまだ普通じゃない、その優しさを。


 中間テストの範囲よりも、ずっと難しくて。


 でも、ずっと知りたいものが、また一つ増えてしまった。

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