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『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


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21/102

第21話 空き教室への道


 勉強会初日の放課後。


 二年十一組の教室には、いつもより少しだけ張りつめた空気があった。


 中間テストまで、あと三週間を切っている。


 昨日までは、まだ「そのうちやらなきゃ」という雰囲気だったクラスも、範囲表が配られ、提出物の話が出て、先生たちの口調が少しずつ厳しくなったことで、ようやく現実を見始めていた。


 放課後の教室では、部活へ向かう生徒たちの声に混じって、問題集を開く音が聞こえる。


「英語、本文訳どこまで?」


「簿記の問題集、これ提出?」


「情報処理の実技って、何が出るの?」


「商業経済のプリントなくしたかも」


「それは終わり」


 騒がしい。


 でも、ただの騒がしさではない。


 焦りを含んだ騒がしさだった。


 横田なつきは、自分の席で鞄の中身を確認していた。


 簿記の問題集。


 数学のノート。


 英語の教科書。


 範囲表。


 シャーペン。


 消しゴム。


 赤ペン。


 付箋。


 そして、春樹に借りた二冊目の本。


 本は今日の勉強会には直接関係ない。


 でも、鞄から出せなかった。


 机の上に置いてあると、春樹との会話が少しだけ残っているような気がする。


 重い。


 でも、心細さを支えてくれる重さだった。


「なつき」


 隣から遠山茜が声をかけた。


「持ち物、確認しすぎ」


「だって忘れ物したら困るし」


「簿記、数学、英語、範囲表。最低限それがあれば大丈夫」


「あと付箋」


「それもある」


「予備のシャーペン」


「ある」


「消しゴム」


「ある」


「心の準備」


「それは現地で」


「現地でできるかな」


「やるの」


 茜は淡々と言いながら、自分の鞄を閉じた。


 今日の茜は、いつも以上に委員長らしい。


 勉強会の時間、場所、やる内容。


 全部メモしている。


 普通科棟二階の空き教室。


 十六時から十七時半。


 最初は簿記。


 分からない問題を三つ以上持参。


 使用後は机を戻し、消灯して、ゴミを持ち帰る。


 先生からの許可も取ってある。


 抜かりがない。


 なつきはそんな茜を見て、少しだけ安心した。


 でも、安心だけではない。


 緊張もある。


 春樹と同じ空き教室で勉強する。


 それだけで、胸が少し落ち着かない。


 前に簿記を教えてもらった時とは違う。


 今回は六人。


 なつき、茜、亜衣、春樹、紅秋、三浦。


 勉強会。


 ちゃんとした目的がある。


 それでも、春樹がいると思うだけで、意識してしまう。


「なつき、顔」


 茜が言った。


「え?」


「大國くんのこと考えてる顔」


「まだ何も言ってないのに」


「何も言ってないから分かる」


「怖い」


「分かりやすいだけ」


 なつきは頬を押さえた。


 すると、教室の入口付近から明るい声が飛んできた。


「おーい、生きてる?」


 三浦圭だった。


 三浦は片手に教科書を抱え、もう片方の手で範囲表を振っている。


 いつも通り明るい。


 けれど、範囲表には付箋がいくつも貼られていた。


 本気で焦っているのが分かる。


「三浦くん、付箋すごいね」


 なつきが言うと、三浦は胸を張った。


「昨日の夜、分からないところに付箋貼ったら、ほぼ全ページに貼ることになった」


「それは貼りすぎ」


 茜が即答する。


「遠山さん、俺の努力を認めて!」


「努力は認めるけど、絞りなさい」


「はい」


 三浦は素直に頷いた。


 その後ろから、伊藤亜衣もやって来る。


 亜衣は鞄を肩にかけ、少し疲れた顔をしていた。


「今日の六時間目、情報処理で心折れた」


「まだ勉強会前だよ」


 なつきが言うと、亜衣は机に両手をついた。


「だから先に折っておいた。あとは組み立てるだけ」


「その発想は新しい」


「三浦、分かる?」


「分かる。折れた心は接着剤でつける」


「何の接着剤?」


「友情」


「急に青春」


 亜衣と三浦のやり取りに、なつきは少し笑った。


 こういう会話があると、緊張が少しほどける。


 でも、教室の中心から向けられる視線に気づいた瞬間、また胸が固くなった。


 島中良。


 いつものグループの中にいる。


 机に腰を預け、周りの男子と話しているように見える。


 けれど、視線は時々こちらへ流れていた。


 田辺守も近くにいる。


 田辺は部活のバッグを持っているが、まだ帰る様子はない。


 なつきは、範囲表を鞄にしまいながら、目を合わせないようにした。


 昨日、場所は言わないと決めた。


 今日も言わない。


 でも、島中はきっと聞いてくる。


 そう思っただけで、手のひらが少し冷たくなる。


「大丈夫」


 亜衣が小声で言った。


 なつきは驚いて亜衣を見る。


「顔に出てた?」


「出てた」


「そんなに?」


「島中方面を見て、すぐ鞄の中整理し始めた」


「分かりやすい……」


「でも大丈夫。今日は絶対言わない」


 亜衣の声は頼もしかった。


 茜も頷く。


「移動は時間をずらすわ。まず私と板倉くんが先に行って教室を開ける。そのあと三浦くん。少し遅れて亜衣となつき。最後に大國くん」


「ほんとに秘密基地みたい」


 三浦が言う。


「ふざけている場合じゃない」


 茜は真面目に返した。


 でも、その表情は少しだけ柔らかい。


「全員で一緒に出ると目立つから」


「なるほど」


 なつきは頷いた。


 春樹と一緒に行けないのは少し残念。


 でも、今は仕方ない。


 この勉強会を守るためだ。


 その時、斜め後ろから静かな声がした。


「準備できた?」


 春樹だった。


 なつきは振り返る。


 春樹は鞄を持ち、問題集を一冊手にしていた。


 いつも通り落ち着いている。


 その隣には板倉紅秋。


 紅秋もノートとメモ帳を持っている。


「できた」


 茜が答える。


「では予定通り。私と板倉くんが先に行く」


 紅秋が頷く。


「鍵は職員室で借りた方がいいんだよね」


「担任が事務室に話を通してくれているから、職員室で確認すれば大丈夫」


「了解」


 春樹はなつきを見た。


「問題、選んだ?」


「うん。三つ……のつもりが、五つになった」


「多くてもいい」


「本当?」


「時間内に全部できなくても、優先順位をつければいい」


「優先順位……」


「あとで見る」


 あとで見る。


 その言葉だけで、なつきの胸が少しだけ跳ねた。


 春樹が自分の問題を見てくれる。


 勉強の話。


 ただそれだけ。


 でも、嬉しい。


「うん」


 なつきは頷いた。


「お願いします」


 春樹は短く頷いた。


「うん」


 三浦が横で口を開きかけた。


 たぶん何かをからかおうとした。


 けれど、亜衣がさっと視線を向けると、三浦は口を閉じた。


 そして親指を立てるだけにした。


 なつきは気づかなかった。


 茜は気づいて、ほんの少しだけ目を細めた。


 最初に、茜と紅秋が教室を出た。


 二人は自然な様子で職員室へ向かう。


 誰かに聞かれても、委員長と副委員長が先生のところへ行くだけに見える。


 数分後、三浦が立ち上がった。


「俺、ちょっとトイレ」


 そう言って、範囲表と問題集を抱えて教室を出る。


 荷物が明らかに多い。


 けれど、三浦は堂々としていた。


「トイレに問題集持っていくの?」


 近くの男子が笑う。


 三浦は振り返り、真顔で言った。


「俺はトイレでも成長する男」


「意味分かんねぇ」


「俺も分からん!」


 笑いを残して出ていく。


 空気を変えるのが本当に上手い。


 なつきは少しだけ感心した。


 次は、なつきと亜衣。


 茜からメッセージが来た。


『鍵、借りた。普通科棟へ向かう』


 亜衣がそれを確認して、なつきへ小さく頷く。


「行こ」


「うん」


 なつきは鞄を持った。


 できるだけ自然に。


 ただ帰るだけのように。


 教室を出ようとした、その時だった。


「横田」


 背後から声がした。


 足が止まる。


 島中良。


 来た。


 なつきはゆっくり振り返った。


 島中は笑っている。


 隣には田辺もいる。


「もう帰んの?」


「うん」


 なつきは短く答えた。


「勉強会じゃないの?」


 その言葉に、胸がきゅっとなる。


 亜衣がすぐに横から言う。


「今日は用事」


「伊藤には聞いてないけど」


「私はなつきと一緒にいるから答えた」


 亜衣は笑顔だった。


 でも、声は少し固い。


 島中はなつきへ視線を戻す。


「用事って何?」


「……ちょっと」


「ちょっと?」


「島中」


 亜衣が一歩前に出る。


「そこまで聞く必要ある?」


「いや、普通に聞いただけじゃん」


「普通にしつこい」


 亜衣の言葉に、周りの何人かが少し反応する。


 島中は笑った。


「伊藤、最近俺に当たり強くね?」


「最近の島中がしつこいから」


「きつ」


 島中は軽く笑う。


 田辺が横から言った。


「なつき、勉強会なら俺も行きたいんだけど。先生に聞くの、なんか行きづらいし」


 田辺の声は本当に困っているようにも聞こえた。


 なつきは少しだけ胸が痛んだ。


 でも、ここで流されてはいけない。


「田辺」


「ん?」


「昨日も言ったけど、今回は少人数でやるから」


「いや、でも俺も本気でやるって」


「ごめん」


「なつきー」


 田辺は少し情けない声を出した。


 中学から知っている声。


 昔から、こういうふうに頼んでくることがあった。


 なつきはつい甘くなってしまいそうになる。


 でも、今日は違う。


 島中がすぐ横にいる。


 ここで許したら、きっと島中も来る。


 それだけではない。


 自分たちが決めた勉強会の形が壊れる。


「先生に聞こう?」


 なつきは言った。


「私もまだ、人に教えられるほどできないから」


「大國に教えてもらうんだろ?」


 島中が言った。


 なつきの胸が冷える。


 その言い方。


 何でもないようで、わざと刺してくる。


「それなら俺らも一緒でよくない?」


 島中は笑っている。


「大國、教えるのうまいんだろ?」


 亜衣が低い声で言う。


「島中、ほんとしつこい」


「だから勉強したいって言ってるだけだろ」


「だったら先生に聞きなよ」


「なんでそんなに拒否るの?」


 島中の声が少しだけ変わった。


 軽さの中に、苛立ちが混ざる。


「別に邪魔するつもりないし」


 なつきは言葉に詰まる。


 邪魔するつもりはない。


 でも、今までもずっと邪魔になっていた。


 春樹に聞こうとした時。


 交流会の時。


 写真の時。


 美優の話をわざと持ち出した時。


 勉強会の場所を聞いてくる今も。


 島中は、なつきが春樹に近づこうとすると入ってくる。


 それを「邪魔するつもりはない」と言う。


 その言葉が、なつきにはとても苦しかった。


「島中くん」


 なつきは小さく言った。


 声が震えそうになる。


 でも、逃げない。


「今回は、来ないでほしい」


 教室の空気が少し止まった。


 田辺が目を丸くする。


 島中の笑顔も、一瞬だけ消えた。


 なつきは続ける。


「勉強したいから。ちゃんとやりたいから。人数増えると、たぶん集中できなくなる」


「俺らがいたら集中できないってこと?」


 島中の声が少し低くなる。


「そういう意味じゃ……」


 言いかけて、なつきは止まった。


 ここで曖昧にしたら、また戻る。


 だから、言い直す。


「うん」


 自分でも驚くくらい、小さく、でもはっきり言った。


「私は、集中できないと思う」


 田辺が少し傷ついたような顔をした。


 それを見ると胸が痛む。


 でも、島中は違った。


 島中は、笑った。


「へぇ」


 軽く。


 でも、冷たい笑いだった。


「横田、変わったな」


 またその言葉。


 なつきの胸が少し痛む。


 変わった。


 まるで悪いことのように。


「大國と関わるようになってから?」


 亜衣がすぐに言った。


「それ、やめなって言ったよね」


「冗談だって」


「笑えないから」


「伊藤が笑う気ないだけじゃん」


「笑えないこと言ってるから」


 二人の間に、少し険しい空気が流れる。


 その時、教室の後ろから静かな声がした。


「島中」


 春樹だった。


 まだ教室に残っていた。


 最後に出る予定だったからだ。


 春樹は鞄を持ち、ゆっくりこちらへ来た。


 表情は変わらない。


 でも、なつきには分かった。


 春樹は、今の話を聞いていた。


「何?」


 島中が春樹を見る。


「横田さんは断った」


 春樹は短く言った。


「だから?」


「それ以上聞く必要はない」


 静かな声。


 でも、空気が少し締まる。


 島中の目が細くなる。


「大國、毎回出てくるな」


「毎回しつこいから」


 春樹の返しに、教室の一部が小さく息を飲んだ。


 春樹がここまではっきり言うのは珍しい。


 なつきも驚いていた。


 でも、それ以上に胸が熱くなった。


 春樹が、また気づいてくれた。


 守ってくれた。


 島中は笑顔を保とうとしている。


 けれど、完全には保てていない。


「しつこいって、ひどくない?」


「事実」


「へぇ」


 島中の声に、少しだけ苛立ちが滲む。


 田辺が慌てて言った。


「いや、俺はマジで勉強したいだけで……」


「田辺」


 亜衣が言う。


「その気持ちは分かった。でも今は引いて」


「……おう」


 田辺はようやく少し下がった。


 島中はまだ春樹を見ている。


 その視線は、なつきへ向けるものとは違う。


 対抗心。


 苛立ち。


 面白くなさ。


 そういうものが混ざっている。


「まあいいや」


 島中はまた言った。


 けれど、今回は前よりもずっと冷たかった。


「そんなに秘密にしたいなら、勝手にすれば」


 そして、軽く手を振る。


「行こうぜ、田辺」


「お、おう」


 二人は離れていった。


 なつきは、その背中を見送りながら、膝の力が抜けそうになった。


 でも、立っていた。


 亜衣がすぐに小声で言う。


「なつき、大丈夫?」


「うん……」


 大丈夫。


 いつもの言葉。


 でも今日は、本当に少し大丈夫だった。


 震えている。


 怖かった。


 疲れた。


 それでも、言えた。


 今回は来ないでほしい。


 私は集中できないと思う。


 言えた。


 春樹が近くで言った。


「行こう」


 なつきは春樹を見る。


「うん」


 それ以上言わなくても、伝わる気がした。


 亜衣がなつきの背中を軽く押す。


「行こ。茜たち待ってる」


 三人で教室を出る。


 廊下に出た瞬間、なつきは小さく息を吐いた。


 放課後の廊下は騒がしい。


 部活へ向かう生徒。


 階段を走るスポーツ特待の生徒。


 普通科棟へ移動する生徒。


 その中で、なつきたちは少しだけ早足で歩いた。


 春樹は少し後ろを歩いている。


 亜衣はなつきの隣。


 誰もすぐには話さなかった。


 廊下の窓から夕方の光が差し込む。


 校舎の影が床に伸びている。


 階段を下り、渡り廊下へ。


 スポーツ・商業棟から普通科棟へ向かう道。


 普段、なつきはあまり通らない。


 同じ学校なのに、棟が変わるだけで空気が少し違う。


 普通科棟は、スポーツ・商業棟より少し静かだった。


 部活へ急ぐ生徒もいるが、商業棟ほど賑やかではない。


 掲示板には、模試案内や進路資料のポスターが貼られている。


 なつきは鞄の肩紐を握り直した。


 空き教室へ向かっている。


 島中たちを振り切って。


 自分たちの勉強会へ。


 そのことが、少しだけ特別に感じた。


「横田さん」


 後ろから春樹が声をかけた。


「はい」


 なつきは振り返る。


「さっき」


「うん」


「ちゃんと言えてた」


 胸がきゅっとなった。


 春樹の言葉は短い。


 でも、その一言が、なつきの中で大きく響く。


「……ありがとう」


「うん」


「怖かったけど」


「うん」


「でも、言えてよかった」


「そう思う」


 春樹は静かに頷いた。


 亜衣が横で少しだけ目を細める。


 からかわなかった。


 ただ、嬉しそうだった。


 普通科棟二階の廊下の奥。


 茜と紅秋、そして三浦が空き教室の前で待っていた。


 三浦はドアの横で、なぜか直立不動になっている。


「遅いぞ、諸君」


「三浦くん、何してるの?」


 なつきが聞くと、三浦は真顔で言った。


「秘密基地の番人」


「目立つからやめなさい」


 茜が即座に言う。


「はい」


 三浦はすぐに普通の姿勢に戻った。


 紅秋がなつきたちを見て、少しだけ表情を確認する。


「大丈夫?」


 なつきは頷いた。


「うん」


 亜衣が代わりに言う。


「島中と田辺に絡まれた」


 三浦が眉を上げる。


「やっぱ来たか」


「なつき、ちゃんと断ったよ」


 亜衣が言う。


 茜がなつきを見る。


「本当?」


「うん」


「そう」


 茜は短く言った。


 でも、その目は柔らかかった。


「よく言えたわね」


「うん……疲れた」


「今日はその分、勉強は軽めにしましょう」


 三浦がすぐに手を上げる。


「賛成!」


「あなたはしっかりやる」


「俺だけ厳しい!」


 少し笑いが起きた。


 その笑いで、ようやく空気がほどける。


 茜が鍵を開ける。


 空き教室の扉が、がらりと音を立てて開いた。


 中には、誰もいない。


 窓から夕方の光が入っている。


 使われていない机と椅子が整然と並んでいる。


 黒板には何も書かれていない。


 少しだけ埃っぽい匂い。


 でも、静かで落ち着いている。


 なつきは教室に一歩入った。


 いつもの二年十一組ではない。


 騒がしい島中の声も、田辺の無遠慮な声もない。


 ここには、六人だけ。


 茜。


 亜衣。


 春樹。


 紅秋。


 三浦。


 そして、なつき。


 胸の奥で、少しだけほっとした。


「机、向かい合わせにする?」


 亜衣が聞く。


 紅秋が頷く。


「六人なら、三つずつ向かい合わせがいいと思う」


「先生みたい」


 三浦が言う。


「勉強会だから」


「俺、どこ座ればいい?」


「どこでも」


 春樹が言う。


 三浦は少し考えた。


「じゃあ俺は黒板側。逃げ道を断つ」


「何から逃げるの?」


 なつきが聞く。


「勉強」


「逃げちゃだめ」


「そう。だから黒板側」


 亜衣が笑った。


 机を動かす音が、空き教室に響く。


 普段の教室よりも、その音が少し大きく聞こえた。


 六人で机を並べ、鞄を置く。


 席は自然に決まった。


 片側に、茜、なつき、亜衣。


 向かい側に、紅秋、春樹、三浦。


 なつきの向かいは春樹だった。


 気づいた瞬間、心臓が少し跳ねる。


 向かい。


 近い。


 勉強会だから、当然向かい合わせになることもある。


 でも、いざそうなると落ち着かない。


 春樹は気にしていない様子で、問題集を開いている。


 それがまた春樹らしい。


 三浦がなつきと春樹の位置を見て、少しだけ口を開きかけた。


 すぐに、亜衣が机の下で三浦の足を軽く蹴った。


「痛っ……くない」


 三浦はすぐに言い直した。


 なつきは不思議そうに見る。


「どうしたの?」


「心の中で転んだ」


「大丈夫?」


「大丈夫。俺は強い」


 亜衣が小さく笑いをこらえている。


 茜は気づいていたが、何も言わなかった。


 紅秋は見ていないふりをしていた。


 春樹だけが少し首を傾げていた。


 勉強会が始まる。


 茜が黒板に今日の流れを書いた。


『一、簿記 分からない問題確認』


『二、数学 例題復習』


『三、英語 時間があれば』


 三浦が黒板を見て言った。


「本格的だ……」


「本格的にしないと来た意味がない」


 茜が言う。


「はい」


「まず各自、分からない問題を出して」


 なつきは問題集を開いた。


 付箋を貼った場所。


 手形の仕訳。


 試算表。


 売掛金と買掛金の処理。


 五つ選んだ中から、最初の一つを出す。


「私、これ」


 小さく言うと、春樹が問題集を覗いた。


 近い。


 机越しとはいえ、春樹が自分の問題集を見る。


 なつきは少しだけ背筋を伸ばした。


 春樹は問題文を読み、すぐに言った。


「これは前にやった手形のところ」


「うん。だけど、文章が変わると迷う」


「まず、誰が手形を受け取ったかを見る」


「受け取った人」


「うん。横田さんはここで、支払手形と受取手形が混ざってる」


「あ……」


 春樹はシャーペンで、なつきのノートの端に小さく図を書いた。


 会社A。


 会社B。


 矢印。


 受け取る側。


 支払う側。


 説明は短い。


 でも、分かりやすい。


 なつきは必死に頷きながらメモを取る。


「じゃあ、この場合は」


「受取手形?」


「うん」


「借方?」


「受取手形」


「貸方は?」


「売掛金?」


「そう」


 春樹が頷く。


 たったそれだけ。


 でも、なつきは胸の中で小さくガッツポーズをしたくなった。


 分かった。


 春樹の説明で。


 前より少しだけ。


「できた」


 なつきが小さく言うと、春樹は短く返した。


「うん」


 その「うん」が、少しだけ優しかった。


 亜衣が横で自分の問題集を見ながら言う。


「大國先生、こっちもお願いします」


「先生じゃない」


「じゃあ大國くん先生」


「増えた」


 三浦が手を上げる。


「俺も! 俺も手形に裏切られてる!」


「手形は裏切らない」


 紅秋が言う。


「俺が理解してないだけ?」


「そう」


「現実!」


 空き教室に笑いが起きる。


 その笑いは、いつもの教室とは違っていた。


 邪魔される心配のない笑い。


 勉強の中にある、少しだけ安心できる笑い。


 なつきはその空気を感じながら、シャーペンを握り直した。


 ここまで来られた。


 島中と田辺を振り切って。


 自分で断って。


 春樹が後押ししてくれて。


 みんなが待っていてくれて。


 この空き教室に、今いる。


 その事実が、なつきに少しだけ自信をくれた。


 窓の外では、夕方の光がさらに薄くなっている。


 普通科棟の空き教室。


 六人だけの勉強会。


 中間テストへの不安は、まだ消えていない。


 島中たちのしつこさも、きっとこれで終わりではない。


 でも。


 今日、この場所だけは守れた。


 なつきはノートに新しい仕訳を書きながら、胸の中でそっと思った。


 逃げなかった。


 そして今。


 春樹の向かいで、ちゃんと勉強している。


 それだけで、今日の自分を少しだけ褒めてもいい気がした。

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