第21話 空き教室への道
勉強会初日の放課後。
二年十一組の教室には、いつもより少しだけ張りつめた空気があった。
中間テストまで、あと三週間を切っている。
昨日までは、まだ「そのうちやらなきゃ」という雰囲気だったクラスも、範囲表が配られ、提出物の話が出て、先生たちの口調が少しずつ厳しくなったことで、ようやく現実を見始めていた。
放課後の教室では、部活へ向かう生徒たちの声に混じって、問題集を開く音が聞こえる。
「英語、本文訳どこまで?」
「簿記の問題集、これ提出?」
「情報処理の実技って、何が出るの?」
「商業経済のプリントなくしたかも」
「それは終わり」
騒がしい。
でも、ただの騒がしさではない。
焦りを含んだ騒がしさだった。
横田なつきは、自分の席で鞄の中身を確認していた。
簿記の問題集。
数学のノート。
英語の教科書。
範囲表。
シャーペン。
消しゴム。
赤ペン。
付箋。
そして、春樹に借りた二冊目の本。
本は今日の勉強会には直接関係ない。
でも、鞄から出せなかった。
机の上に置いてあると、春樹との会話が少しだけ残っているような気がする。
重い。
でも、心細さを支えてくれる重さだった。
「なつき」
隣から遠山茜が声をかけた。
「持ち物、確認しすぎ」
「だって忘れ物したら困るし」
「簿記、数学、英語、範囲表。最低限それがあれば大丈夫」
「あと付箋」
「それもある」
「予備のシャーペン」
「ある」
「消しゴム」
「ある」
「心の準備」
「それは現地で」
「現地でできるかな」
「やるの」
茜は淡々と言いながら、自分の鞄を閉じた。
今日の茜は、いつも以上に委員長らしい。
勉強会の時間、場所、やる内容。
全部メモしている。
普通科棟二階の空き教室。
十六時から十七時半。
最初は簿記。
分からない問題を三つ以上持参。
使用後は机を戻し、消灯して、ゴミを持ち帰る。
先生からの許可も取ってある。
抜かりがない。
なつきはそんな茜を見て、少しだけ安心した。
でも、安心だけではない。
緊張もある。
春樹と同じ空き教室で勉強する。
それだけで、胸が少し落ち着かない。
前に簿記を教えてもらった時とは違う。
今回は六人。
なつき、茜、亜衣、春樹、紅秋、三浦。
勉強会。
ちゃんとした目的がある。
それでも、春樹がいると思うだけで、意識してしまう。
「なつき、顔」
茜が言った。
「え?」
「大國くんのこと考えてる顔」
「まだ何も言ってないのに」
「何も言ってないから分かる」
「怖い」
「分かりやすいだけ」
なつきは頬を押さえた。
すると、教室の入口付近から明るい声が飛んできた。
「おーい、生きてる?」
三浦圭だった。
三浦は片手に教科書を抱え、もう片方の手で範囲表を振っている。
いつも通り明るい。
けれど、範囲表には付箋がいくつも貼られていた。
本気で焦っているのが分かる。
「三浦くん、付箋すごいね」
なつきが言うと、三浦は胸を張った。
「昨日の夜、分からないところに付箋貼ったら、ほぼ全ページに貼ることになった」
「それは貼りすぎ」
茜が即答する。
「遠山さん、俺の努力を認めて!」
「努力は認めるけど、絞りなさい」
「はい」
三浦は素直に頷いた。
その後ろから、伊藤亜衣もやって来る。
亜衣は鞄を肩にかけ、少し疲れた顔をしていた。
「今日の六時間目、情報処理で心折れた」
「まだ勉強会前だよ」
なつきが言うと、亜衣は机に両手をついた。
「だから先に折っておいた。あとは組み立てるだけ」
「その発想は新しい」
「三浦、分かる?」
「分かる。折れた心は接着剤でつける」
「何の接着剤?」
「友情」
「急に青春」
亜衣と三浦のやり取りに、なつきは少し笑った。
こういう会話があると、緊張が少しほどける。
でも、教室の中心から向けられる視線に気づいた瞬間、また胸が固くなった。
島中良。
いつものグループの中にいる。
机に腰を預け、周りの男子と話しているように見える。
けれど、視線は時々こちらへ流れていた。
田辺守も近くにいる。
田辺は部活のバッグを持っているが、まだ帰る様子はない。
なつきは、範囲表を鞄にしまいながら、目を合わせないようにした。
昨日、場所は言わないと決めた。
今日も言わない。
でも、島中はきっと聞いてくる。
そう思っただけで、手のひらが少し冷たくなる。
「大丈夫」
亜衣が小声で言った。
なつきは驚いて亜衣を見る。
「顔に出てた?」
「出てた」
「そんなに?」
「島中方面を見て、すぐ鞄の中整理し始めた」
「分かりやすい……」
「でも大丈夫。今日は絶対言わない」
亜衣の声は頼もしかった。
茜も頷く。
「移動は時間をずらすわ。まず私と板倉くんが先に行って教室を開ける。そのあと三浦くん。少し遅れて亜衣となつき。最後に大國くん」
「ほんとに秘密基地みたい」
三浦が言う。
「ふざけている場合じゃない」
茜は真面目に返した。
でも、その表情は少しだけ柔らかい。
「全員で一緒に出ると目立つから」
「なるほど」
なつきは頷いた。
春樹と一緒に行けないのは少し残念。
でも、今は仕方ない。
この勉強会を守るためだ。
その時、斜め後ろから静かな声がした。
「準備できた?」
春樹だった。
なつきは振り返る。
春樹は鞄を持ち、問題集を一冊手にしていた。
いつも通り落ち着いている。
その隣には板倉紅秋。
紅秋もノートとメモ帳を持っている。
「できた」
茜が答える。
「では予定通り。私と板倉くんが先に行く」
紅秋が頷く。
「鍵は職員室で借りた方がいいんだよね」
「担任が事務室に話を通してくれているから、職員室で確認すれば大丈夫」
「了解」
春樹はなつきを見た。
「問題、選んだ?」
「うん。三つ……のつもりが、五つになった」
「多くてもいい」
「本当?」
「時間内に全部できなくても、優先順位をつければいい」
「優先順位……」
「あとで見る」
あとで見る。
その言葉だけで、なつきの胸が少しだけ跳ねた。
春樹が自分の問題を見てくれる。
勉強の話。
ただそれだけ。
でも、嬉しい。
「うん」
なつきは頷いた。
「お願いします」
春樹は短く頷いた。
「うん」
三浦が横で口を開きかけた。
たぶん何かをからかおうとした。
けれど、亜衣がさっと視線を向けると、三浦は口を閉じた。
そして親指を立てるだけにした。
なつきは気づかなかった。
茜は気づいて、ほんの少しだけ目を細めた。
最初に、茜と紅秋が教室を出た。
二人は自然な様子で職員室へ向かう。
誰かに聞かれても、委員長と副委員長が先生のところへ行くだけに見える。
数分後、三浦が立ち上がった。
「俺、ちょっとトイレ」
そう言って、範囲表と問題集を抱えて教室を出る。
荷物が明らかに多い。
けれど、三浦は堂々としていた。
「トイレに問題集持っていくの?」
近くの男子が笑う。
三浦は振り返り、真顔で言った。
「俺はトイレでも成長する男」
「意味分かんねぇ」
「俺も分からん!」
笑いを残して出ていく。
空気を変えるのが本当に上手い。
なつきは少しだけ感心した。
次は、なつきと亜衣。
茜からメッセージが来た。
『鍵、借りた。普通科棟へ向かう』
亜衣がそれを確認して、なつきへ小さく頷く。
「行こ」
「うん」
なつきは鞄を持った。
できるだけ自然に。
ただ帰るだけのように。
教室を出ようとした、その時だった。
「横田」
背後から声がした。
足が止まる。
島中良。
来た。
なつきはゆっくり振り返った。
島中は笑っている。
隣には田辺もいる。
「もう帰んの?」
「うん」
なつきは短く答えた。
「勉強会じゃないの?」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
亜衣がすぐに横から言う。
「今日は用事」
「伊藤には聞いてないけど」
「私はなつきと一緒にいるから答えた」
亜衣は笑顔だった。
でも、声は少し固い。
島中はなつきへ視線を戻す。
「用事って何?」
「……ちょっと」
「ちょっと?」
「島中」
亜衣が一歩前に出る。
「そこまで聞く必要ある?」
「いや、普通に聞いただけじゃん」
「普通にしつこい」
亜衣の言葉に、周りの何人かが少し反応する。
島中は笑った。
「伊藤、最近俺に当たり強くね?」
「最近の島中がしつこいから」
「きつ」
島中は軽く笑う。
田辺が横から言った。
「なつき、勉強会なら俺も行きたいんだけど。先生に聞くの、なんか行きづらいし」
田辺の声は本当に困っているようにも聞こえた。
なつきは少しだけ胸が痛んだ。
でも、ここで流されてはいけない。
「田辺」
「ん?」
「昨日も言ったけど、今回は少人数でやるから」
「いや、でも俺も本気でやるって」
「ごめん」
「なつきー」
田辺は少し情けない声を出した。
中学から知っている声。
昔から、こういうふうに頼んでくることがあった。
なつきはつい甘くなってしまいそうになる。
でも、今日は違う。
島中がすぐ横にいる。
ここで許したら、きっと島中も来る。
それだけではない。
自分たちが決めた勉強会の形が壊れる。
「先生に聞こう?」
なつきは言った。
「私もまだ、人に教えられるほどできないから」
「大國に教えてもらうんだろ?」
島中が言った。
なつきの胸が冷える。
その言い方。
何でもないようで、わざと刺してくる。
「それなら俺らも一緒でよくない?」
島中は笑っている。
「大國、教えるのうまいんだろ?」
亜衣が低い声で言う。
「島中、ほんとしつこい」
「だから勉強したいって言ってるだけだろ」
「だったら先生に聞きなよ」
「なんでそんなに拒否るの?」
島中の声が少しだけ変わった。
軽さの中に、苛立ちが混ざる。
「別に邪魔するつもりないし」
なつきは言葉に詰まる。
邪魔するつもりはない。
でも、今までもずっと邪魔になっていた。
春樹に聞こうとした時。
交流会の時。
写真の時。
美優の話をわざと持ち出した時。
勉強会の場所を聞いてくる今も。
島中は、なつきが春樹に近づこうとすると入ってくる。
それを「邪魔するつもりはない」と言う。
その言葉が、なつきにはとても苦しかった。
「島中くん」
なつきは小さく言った。
声が震えそうになる。
でも、逃げない。
「今回は、来ないでほしい」
教室の空気が少し止まった。
田辺が目を丸くする。
島中の笑顔も、一瞬だけ消えた。
なつきは続ける。
「勉強したいから。ちゃんとやりたいから。人数増えると、たぶん集中できなくなる」
「俺らがいたら集中できないってこと?」
島中の声が少し低くなる。
「そういう意味じゃ……」
言いかけて、なつきは止まった。
ここで曖昧にしたら、また戻る。
だから、言い直す。
「うん」
自分でも驚くくらい、小さく、でもはっきり言った。
「私は、集中できないと思う」
田辺が少し傷ついたような顔をした。
それを見ると胸が痛む。
でも、島中は違った。
島中は、笑った。
「へぇ」
軽く。
でも、冷たい笑いだった。
「横田、変わったな」
またその言葉。
なつきの胸が少し痛む。
変わった。
まるで悪いことのように。
「大國と関わるようになってから?」
亜衣がすぐに言った。
「それ、やめなって言ったよね」
「冗談だって」
「笑えないから」
「伊藤が笑う気ないだけじゃん」
「笑えないこと言ってるから」
二人の間に、少し険しい空気が流れる。
その時、教室の後ろから静かな声がした。
「島中」
春樹だった。
まだ教室に残っていた。
最後に出る予定だったからだ。
春樹は鞄を持ち、ゆっくりこちらへ来た。
表情は変わらない。
でも、なつきには分かった。
春樹は、今の話を聞いていた。
「何?」
島中が春樹を見る。
「横田さんは断った」
春樹は短く言った。
「だから?」
「それ以上聞く必要はない」
静かな声。
でも、空気が少し締まる。
島中の目が細くなる。
「大國、毎回出てくるな」
「毎回しつこいから」
春樹の返しに、教室の一部が小さく息を飲んだ。
春樹がここまではっきり言うのは珍しい。
なつきも驚いていた。
でも、それ以上に胸が熱くなった。
春樹が、また気づいてくれた。
守ってくれた。
島中は笑顔を保とうとしている。
けれど、完全には保てていない。
「しつこいって、ひどくない?」
「事実」
「へぇ」
島中の声に、少しだけ苛立ちが滲む。
田辺が慌てて言った。
「いや、俺はマジで勉強したいだけで……」
「田辺」
亜衣が言う。
「その気持ちは分かった。でも今は引いて」
「……おう」
田辺はようやく少し下がった。
島中はまだ春樹を見ている。
その視線は、なつきへ向けるものとは違う。
対抗心。
苛立ち。
面白くなさ。
そういうものが混ざっている。
「まあいいや」
島中はまた言った。
けれど、今回は前よりもずっと冷たかった。
「そんなに秘密にしたいなら、勝手にすれば」
そして、軽く手を振る。
「行こうぜ、田辺」
「お、おう」
二人は離れていった。
なつきは、その背中を見送りながら、膝の力が抜けそうになった。
でも、立っていた。
亜衣がすぐに小声で言う。
「なつき、大丈夫?」
「うん……」
大丈夫。
いつもの言葉。
でも今日は、本当に少し大丈夫だった。
震えている。
怖かった。
疲れた。
それでも、言えた。
今回は来ないでほしい。
私は集中できないと思う。
言えた。
春樹が近くで言った。
「行こう」
なつきは春樹を見る。
「うん」
それ以上言わなくても、伝わる気がした。
亜衣がなつきの背中を軽く押す。
「行こ。茜たち待ってる」
三人で教室を出る。
廊下に出た瞬間、なつきは小さく息を吐いた。
放課後の廊下は騒がしい。
部活へ向かう生徒。
階段を走るスポーツ特待の生徒。
普通科棟へ移動する生徒。
その中で、なつきたちは少しだけ早足で歩いた。
春樹は少し後ろを歩いている。
亜衣はなつきの隣。
誰もすぐには話さなかった。
廊下の窓から夕方の光が差し込む。
校舎の影が床に伸びている。
階段を下り、渡り廊下へ。
スポーツ・商業棟から普通科棟へ向かう道。
普段、なつきはあまり通らない。
同じ学校なのに、棟が変わるだけで空気が少し違う。
普通科棟は、スポーツ・商業棟より少し静かだった。
部活へ急ぐ生徒もいるが、商業棟ほど賑やかではない。
掲示板には、模試案内や進路資料のポスターが貼られている。
なつきは鞄の肩紐を握り直した。
空き教室へ向かっている。
島中たちを振り切って。
自分たちの勉強会へ。
そのことが、少しだけ特別に感じた。
「横田さん」
後ろから春樹が声をかけた。
「はい」
なつきは振り返る。
「さっき」
「うん」
「ちゃんと言えてた」
胸がきゅっとなった。
春樹の言葉は短い。
でも、その一言が、なつきの中で大きく響く。
「……ありがとう」
「うん」
「怖かったけど」
「うん」
「でも、言えてよかった」
「そう思う」
春樹は静かに頷いた。
亜衣が横で少しだけ目を細める。
からかわなかった。
ただ、嬉しそうだった。
普通科棟二階の廊下の奥。
茜と紅秋、そして三浦が空き教室の前で待っていた。
三浦はドアの横で、なぜか直立不動になっている。
「遅いぞ、諸君」
「三浦くん、何してるの?」
なつきが聞くと、三浦は真顔で言った。
「秘密基地の番人」
「目立つからやめなさい」
茜が即座に言う。
「はい」
三浦はすぐに普通の姿勢に戻った。
紅秋がなつきたちを見て、少しだけ表情を確認する。
「大丈夫?」
なつきは頷いた。
「うん」
亜衣が代わりに言う。
「島中と田辺に絡まれた」
三浦が眉を上げる。
「やっぱ来たか」
「なつき、ちゃんと断ったよ」
亜衣が言う。
茜がなつきを見る。
「本当?」
「うん」
「そう」
茜は短く言った。
でも、その目は柔らかかった。
「よく言えたわね」
「うん……疲れた」
「今日はその分、勉強は軽めにしましょう」
三浦がすぐに手を上げる。
「賛成!」
「あなたはしっかりやる」
「俺だけ厳しい!」
少し笑いが起きた。
その笑いで、ようやく空気がほどける。
茜が鍵を開ける。
空き教室の扉が、がらりと音を立てて開いた。
中には、誰もいない。
窓から夕方の光が入っている。
使われていない机と椅子が整然と並んでいる。
黒板には何も書かれていない。
少しだけ埃っぽい匂い。
でも、静かで落ち着いている。
なつきは教室に一歩入った。
いつもの二年十一組ではない。
騒がしい島中の声も、田辺の無遠慮な声もない。
ここには、六人だけ。
茜。
亜衣。
春樹。
紅秋。
三浦。
そして、なつき。
胸の奥で、少しだけほっとした。
「机、向かい合わせにする?」
亜衣が聞く。
紅秋が頷く。
「六人なら、三つずつ向かい合わせがいいと思う」
「先生みたい」
三浦が言う。
「勉強会だから」
「俺、どこ座ればいい?」
「どこでも」
春樹が言う。
三浦は少し考えた。
「じゃあ俺は黒板側。逃げ道を断つ」
「何から逃げるの?」
なつきが聞く。
「勉強」
「逃げちゃだめ」
「そう。だから黒板側」
亜衣が笑った。
机を動かす音が、空き教室に響く。
普段の教室よりも、その音が少し大きく聞こえた。
六人で机を並べ、鞄を置く。
席は自然に決まった。
片側に、茜、なつき、亜衣。
向かい側に、紅秋、春樹、三浦。
なつきの向かいは春樹だった。
気づいた瞬間、心臓が少し跳ねる。
向かい。
近い。
勉強会だから、当然向かい合わせになることもある。
でも、いざそうなると落ち着かない。
春樹は気にしていない様子で、問題集を開いている。
それがまた春樹らしい。
三浦がなつきと春樹の位置を見て、少しだけ口を開きかけた。
すぐに、亜衣が机の下で三浦の足を軽く蹴った。
「痛っ……くない」
三浦はすぐに言い直した。
なつきは不思議そうに見る。
「どうしたの?」
「心の中で転んだ」
「大丈夫?」
「大丈夫。俺は強い」
亜衣が小さく笑いをこらえている。
茜は気づいていたが、何も言わなかった。
紅秋は見ていないふりをしていた。
春樹だけが少し首を傾げていた。
勉強会が始まる。
茜が黒板に今日の流れを書いた。
『一、簿記 分からない問題確認』
『二、数学 例題復習』
『三、英語 時間があれば』
三浦が黒板を見て言った。
「本格的だ……」
「本格的にしないと来た意味がない」
茜が言う。
「はい」
「まず各自、分からない問題を出して」
なつきは問題集を開いた。
付箋を貼った場所。
手形の仕訳。
試算表。
売掛金と買掛金の処理。
五つ選んだ中から、最初の一つを出す。
「私、これ」
小さく言うと、春樹が問題集を覗いた。
近い。
机越しとはいえ、春樹が自分の問題集を見る。
なつきは少しだけ背筋を伸ばした。
春樹は問題文を読み、すぐに言った。
「これは前にやった手形のところ」
「うん。だけど、文章が変わると迷う」
「まず、誰が手形を受け取ったかを見る」
「受け取った人」
「うん。横田さんはここで、支払手形と受取手形が混ざってる」
「あ……」
春樹はシャーペンで、なつきのノートの端に小さく図を書いた。
会社A。
会社B。
矢印。
受け取る側。
支払う側。
説明は短い。
でも、分かりやすい。
なつきは必死に頷きながらメモを取る。
「じゃあ、この場合は」
「受取手形?」
「うん」
「借方?」
「受取手形」
「貸方は?」
「売掛金?」
「そう」
春樹が頷く。
たったそれだけ。
でも、なつきは胸の中で小さくガッツポーズをしたくなった。
分かった。
春樹の説明で。
前より少しだけ。
「できた」
なつきが小さく言うと、春樹は短く返した。
「うん」
その「うん」が、少しだけ優しかった。
亜衣が横で自分の問題集を見ながら言う。
「大國先生、こっちもお願いします」
「先生じゃない」
「じゃあ大國くん先生」
「増えた」
三浦が手を上げる。
「俺も! 俺も手形に裏切られてる!」
「手形は裏切らない」
紅秋が言う。
「俺が理解してないだけ?」
「そう」
「現実!」
空き教室に笑いが起きる。
その笑いは、いつもの教室とは違っていた。
邪魔される心配のない笑い。
勉強の中にある、少しだけ安心できる笑い。
なつきはその空気を感じながら、シャーペンを握り直した。
ここまで来られた。
島中と田辺を振り切って。
自分で断って。
春樹が後押ししてくれて。
みんなが待っていてくれて。
この空き教室に、今いる。
その事実が、なつきに少しだけ自信をくれた。
窓の外では、夕方の光がさらに薄くなっている。
普通科棟の空き教室。
六人だけの勉強会。
中間テストへの不安は、まだ消えていない。
島中たちのしつこさも、きっとこれで終わりではない。
でも。
今日、この場所だけは守れた。
なつきはノートに新しい仕訳を書きながら、胸の中でそっと思った。
逃げなかった。
そして今。
春樹の向かいで、ちゃんと勉強している。
それだけで、今日の自分を少しだけ褒めてもいい気がした。




