第20話 入ってこようとする人
翌日の二年十一組は、昨日よりも少しだけ重かった。
中間テストの範囲表が配られた翌日。
まだテストまで三週間ある。
そう考えれば、焦るには早いのかもしれない。
けれど、範囲表という紙が鞄の中に一枚入っているだけで、教室の空気は変わる。
朝の会話にも、どこか現実が混ざる。
「昨日、勉強した?」
「範囲表を机に置いた」
「それは勉強じゃない」
「問題集開いたら眠くなった」
「分かる」
「情報処理のプリント、どこにしまったか分からん」
「それはまず探せ」
そんな声があちこちで聞こえる。
交流会の写真の話題は、まだ完全には消えていない。
けれど、昨日までよりも明らかに少ない。
黒板の隅には、担任が書いた文字が残っていた。
『中間考査 三週間前』
『提出物確認』
横田なつきは、その文字を見るたびに少しだけ胃が重くなる気がした。
恋をしていても、テストは来る。
昨日そう思ったばかりなのに、今日になるとその現実はさらに近くなっていた。
机の上には、昨日の範囲表。
赤ペンで茜が書いてくれた印がいくつかある。
簿記。
数学。
英語。
情報処理。
特に注意。
なつきはその文字を見て、小さく息を吐いた。
放課後には、勉強会の場所を確認することになっている。
メンバーは、なつき、遠山茜、伊藤亜衣、大國春樹、板倉紅秋、三浦圭。
四班に三浦が加わった形。
場所は空き教室を第一候補にする。
だめなら図書室。
それでも難しければ、休日に図書館。
昨日の昼休みに決めたことを思い返すだけで、なつきの胸には二種類の感情が浮かんだ。
ひとつは、不安。
本当に勉強についていけるのか。
簿記でまた分からなくなったらどうしよう。
春樹に聞きたい。
でも、聞きすぎて迷惑にならないだろうか。
もうひとつは、期待。
春樹と一緒に勉強できるかもしれない。
前に簿記を教えてもらった時のように、隣でノートを見ながら説明してもらえるかもしれない。
その想像だけで、テストへの不安の中に小さな灯りがともる。
けれど、その灯りを邪魔するように、昨日の放課後の記憶がよみがえる。
『勉強会やんの?』
『俺も入れてよ』
『横田、俺、同じ中学だし』
『大國効果?』
島中良の笑顔。
田辺守の無自覚な顔。
あの二人は、きっとまだ諦めていない。
少なくとも島中は。
その予感が、なつきの中にあった。
「なつき」
隣から茜が声をかけた。
「また範囲表を見て固まってる」
「あ、ごめん」
「謝る必要はないけど、顔が暗い」
「テストが怖い」
「それは分かる」
「あと……」
「島中くんたち?」
茜はすぐに言った。
なつきは小さく頷く。
「うん」
「昨日の感じだと、また来るわね」
「だよね」
「来る」
茜の断言に、なつきは少しだけ肩を落とした。
「田辺はまだ、本当に勉強困ってるのかもしれないけど」
「田辺くんはそうね」
「でも島中くんは……」
「意図がある」
茜の声は静かだった。
「なつきに近づきたいのもあるし、大國くんがいる場に入りたいのもあると思う」
「大國くんに?」
「対抗心みたいなものはあるでしょうね」
なつきは机の端を指でなぞった。
島中はクラスの中心にいる。
明るくて、声が大きくて、周りを動かす。
一年生の頃からそうだった。
商業科は一クラスしかないから、同じ顔ぶれで一年以上過ごしている。
島中が中心にいる空気は、ずっと変わらない。
けれど最近、その明るさの裏にあるものが少しずつ見えるようになってきた。
自分の思い通りにならない時。
春樹が絡む時。
なつきが島中の方へ流れない時。
その時、島中の笑顔は少しだけ違う色になる。
「嫌なら、また断ればいい」
茜が言った。
「うん」
「昨日、言えたでしょ」
「言えたけど、すごく疲れた」
「分かる」
「何回も言わなきゃいけないのかな」
「相手による」
茜は範囲表を折りたたみながら言った。
「一回で引く人もいる。何度も言わないと分からない人もいる。何度言っても分からない人もいる」
「怖い分類」
「でも現実」
「茜ちゃん、現実担当だね」
「なつきが想像担当だから」
「私、そんな担当だったの?」
なつきが少し笑うと、茜もほんの少しだけ笑った。
その時、教室の入口から明るい声がした。
「おはよー!」
伊藤亜衣だった。
いつも通りの声。
でも今日は、手に範囲表と問題集を持っている。
少しだけ本気の顔だった。
「亜衣ちゃん、おはよう」
「おはよ。昨日、問題集開いた?」
「少し」
「えらい」
「亜衣ちゃんは?」
「開いた」
「おお」
「閉じた」
「早い」
「表紙が強敵だった」
茜が呆れたように言う。
「表紙に負けないで」
「今日から本気出す」
「昨日も言ってた」
「昨日は宣言。今日は実行」
亜衣は椅子に座るなり、なつきの机に身を寄せた。
「で、空き教室どうする?」
「放課後に先生へ聞く予定」
茜が答える。
「担任?」
「たぶん。空き教室の利用は担任経由が一番早いと思う」
「さすが」
「ただし、勉強目的であることと、人数を明確にする必要があるわね」
「人数は六人?」
「そう」
亜衣は少しだけ教室の中心側を見た。
島中のグループが朝から騒いでいる。
田辺もそこにいる。
島中はまだこちらを見ていない。
けれど、亜衣は声を少し落とした。
「人数、増やさないってことでいいよね」
「うん」
なつきは頷く。
昨日、自分で言った。
今回は少人数でやるから。
それを崩したくなかった。
「場所、絶対言わない方がいい」
亜衣が言った。
「島中、普通に聞き出そうとしてきそう」
「来ると思う」
茜が同意する。
「田辺は悪気なく聞きそう」
「田辺は『どこでやんの?』って普通に聞いてきそうだね」
「そして言ったら島中に伝わる」
「ある」
なつきは小さくうなずいた。
不安は増える。
でも、亜衣と茜が同じように感じてくれていることが救いだった。
自分だけが過剰に気にしているわけではない。
ちゃんと嫌なものは嫌だと思っていい。
そう思える。
朝のホームルームが終わり、授業が始まった。
中間テスト前の授業は、どの先生も少しだけ厳しくなる。
簿記では、試算表の確認。
数学では、一次関数と文章題の復習。
英語では、本文訳と文法。
情報処理では、関数と表計算の確認。
なつきは午前中だけで、頭の中がいっぱいになりそうだった。
ノートには、自分でも読めるか怪しい字でメモが増えていく。
分からないところには小さく星印をつけた。
茜に言われた通りだ。
分からない場所を分からないままにしない。
そのために、まず分からないところを見つける。
簡単そうで難しい。
昼休み。
いつものように、なつき、茜、亜衣は机を寄せた。
少し遅れて三浦圭がやって来る。
三浦は片手に購買の焼きそばパン、もう片方に数学の教科書を持っていた。
「俺は今日から変わる」
開口一番、そう言った。
亜衣がパンを見て言う。
「焼きそばパン持ちながら?」
「腹が減っては戦はできぬ」
「それはそう」
茜が三浦の教科書を見る。
「数学?」
「昨日開いたら寝たから、今日は昼に開く」
「偉い」
三浦が目を見開く。
「遠山さんに褒められた!」
「開いただけではまだ褒めてない」
「撤回が早い!」
なつきは笑った。
そこへ、板倉紅秋と春樹も近づいてきた。
紅秋は手にメモ帳を持っている。
春樹は範囲表と簿記の問題集。
それを見ただけで、なつきは少しだけ背筋が伸びた。
「場所の件」
紅秋が言った。
「放課後、担任に聞くなら、利用希望日と時間を出した方が早いと思う」
「確かに」
茜が頷く。
「今日聞いて、明日から使えるといいわね」
「明日から!?」
三浦が声を上げる。
「早くない?」
春樹が答える。
「早くない」
「大國の早くないは、俺にとって早い」
「三週間しかない」
「現実を突きつけるな!」
亜衣が苦笑する。
「でも明日からやるのは賛成。私、早く始めないと絶対やばい」
「私も」
なつきも頷いた。
「簿記、早めにやりたい」
春樹がなつきを見る。
「星印つけた?」
「え?」
「分からないところ」
「あ、うん。つけた」
「なら、そこから」
その短い言葉に、なつきは少しだけ安心した。
春樹は、昨日言ったことを覚えている。
手形は前にやったところ。
そこから。
そう言ってくれた。
なつきは小さく頷く。
「うん」
三浦が二人を見て、少しだけ口を開きかけた。
何か言いそうになったが、すぐに飲み込む。
代わりに焼きそばパンをかじった。
なつきは気づかなかった。
けれど、亜衣は見ていた。
三浦が何かを察して、あえてからかわなかったことを。
そこが、三浦の空気を読めるところだった。
昼休みの半分ほどを使って、勉強会の仮予定が決まった。
明日の放課後、十六時から十七時半。
まずは簿記。
次に数学。
時間が余れば英語の本文確認。
メンバーは六人。
場所は空き教室を希望。
担任に許可を取るのは茜。
補足説明は紅秋。
なつきと亜衣と三浦は、まず今日のうちに分からない範囲をまとめる。
春樹は簿記の確認問題をいくつか選んでくる。
なつきはその役割分担を聞きながら、少しだけ胸が軽くなった。
具体的になると、不安は少し小さくなる。
漠然と「テストが怖い」と思っている時よりも、「明日は簿記をやる」と決まった方が、まだ頑張れる気がする。
しかし。
その明るさは、長くは続かなかった。
昼休みの終わり頃。
島中良が、いつもの笑顔でこちらへ近づいてきた。
隣には田辺守。
昨日と同じ組み合わせ。
なつきの肩が自然と固くなる。
亜衣がすぐに気づいて、少しだけ身体の向きを変えた。
茜はメモを閉じる。
紅秋は静かに視線を上げる。
春樹は表情を変えない。
三浦は焼きそばパンの最後の一口を飲み込み、内心で「来たな」と思ったような顔をした。
「何、また勉強会の話?」
島中が言った。
明るい声。
でも、昨日よりさらに踏み込みが早い。
「うん」
亜衣が答える。
短く。
島中は笑った。
「で、場所決まった?」
なつきの胸がぎゅっとする。
来た。
やっぱり聞いてきた。
田辺が普通に続ける。
「どこでやんの? 教室?」
悪気のない顔。
それが余計に困る。
茜が答えた。
「まだ決まっていないわ」
「決まってないの?」
田辺が首を傾げる。
「さっきめっちゃ話してたじゃん」
「候補を出していただけ」
「候補どこ?」
「田辺くん」
茜の声が少し低くなる。
「何?」
「昨日も言ったけど、今回は少人数でやる予定なの」
「分かってるって」
「なら、場所を聞く必要はないわよね」
「え、でも気になるじゃん」
「気にしなくていい」
「遠山、厳しいな」
田辺は苦笑した。
でも、本当に分かっていない顔だった。
島中が田辺の横から、少しだけなつきへ視線を向けた。
「横田も、場所言えない感じ?」
その聞き方が嫌だった。
まるで、なつきが秘密にしていることを責めるような言い方。
なつきは手元の範囲表を握った。
「まだ決まってないから」
「決まったら教えてよ」
「……今回は、少人数だから」
「それ昨日も聞いた」
島中は笑う。
「でもさ、テスト勉強なんだし、困ってる人いたら助け合えばよくない?」
正論のように聞こえる。
けれど、なつきには違うように感じた。
島中は「助け合い」という言葉を使っている。
でも本当に助け合いたいわけではない。
自分たちの輪へ入ってきたいだけ。
春樹のいる場所へ。
なつきのいる場所へ。
「助け合いは大事」
紅秋が静かに言った。
「でも、勉強会の形はそれぞれでいいと思う」
「板倉、また真面目だな」
「真面目な話だから」
紅秋の声は柔らかい。
でも引かない。
島中は少しだけ笑顔を細める。
「じゃあ、俺らが別でやればいいってこと?」
春樹が言った。
「そう」
短い。
はっきり。
島中の視線が春樹へ向く。
「大國って、ほんとそういうとこあるよな」
「どういうとこ?」
「冷たいっていうか」
その言葉に、なつきの胸が少しだけざわついた。
春樹は冷たくない。
線を引いているだけだ。
でも島中は、その線を「冷たい」と言う。
自分が入れないことを、相手のせいにするように。
「冷たいんじゃなくて、目的が違うだけ」
亜衣が言った。
「うちらは勉強するために集まるの。人数増やして雑談したいわけじゃない」
「俺らが雑談するって決めつけ?」
「今の流れだと、そう見える」
亜衣は軽く言ったが、目は笑っていなかった。
島中は少し黙った。
田辺が慌てたように言う。
「いや、俺はマジで勉強したいって」
「田辺くんは先生に聞いたら?」
茜が言う。
「先生かぁ」
「簿記なら放課後に質問受けるって言っていたわ」
「そうなの?」
「ホームルームで言ってた」
「聞いてなかった」
「まずそこから」
三浦が笑いをこらえながら言う。
「田辺、先生の話聞かないとテスト範囲も危ないぞ」
「三浦に言われたくない」
「確かに!」
三浦は自分で認めて、場を少しだけ軽くした。
しかし、島中の視線はまだ消えない。
「横田」
島中が言った。
「もし分かんないところあったら、俺にも聞いていいから」
なつきは困った。
島中は何を教えるつもりなのだろう。
勉強ができないわけではない。
島中は要領がいい。
テスト前だけ詰めて、そこそこ点を取るタイプだ。
でも、なつきが聞きたいのは春樹だった。
それを言うわけにはいかない。
「ありがとう」
なつきは一度そう言った。
でも、そこで終わると流される。
だから続けた。
「でも今回は、決めたメンバーでやるから」
島中の笑顔が少し固まる。
「ふーん」
「ごめんね」
「横田、最近けっこうはっきり言うね」
その言葉には、褒める響きはなかった。
なつきは少しだけ喉が詰まる。
まただ。
自分が何かを言うと、島中はそれを「変わった」と言う。
まるで、前の流されやすい自分の方が良かったと言われているようだった。
春樹が静かに口を開く。
「はっきり言った方が誤解がない」
島中が春樹を見る。
「大國には聞いてないけど」
「横田さんが困ってるから」
教室の空気が、一瞬だけ止まった。
なつきの胸も止まりそうになる。
春樹の声は静かだった。
でも、その言葉ははっきりしている。
横田さんが困ってるから。
また、春樹が気づいてくれた。
島中は笑顔のまま、少しだけ目を細める。
「へぇ」
その一音に、嫌な感情が滲んでいた。
三浦がすぐに間へ入った。
「はいはい、ここで昼休み終了の予鈴が鳴る五秒前くらいの空気になってきました」
「まだ鳴ってないけど」
亜衣が言う。
「心の予鈴です」
「何それ」
「解散の合図」
三浦はにっと笑って、田辺の肩を軽く叩いた。
「田辺、先生に質問行くなら俺も付き合うわ。俺も簿記やばいし」
「マジ?」
「マジ。俺らは俺らで生き残ろうぜ」
「お、いいじゃん」
田辺は少し乗り気になった。
島中は三浦を見た。
「三浦、そっち行くの?」
「いや、俺はこっちの勉強会参加するけど、質問くらいなら先生に聞きに行くよ。赤点回避は人類共通の課題だから」
「なんだそれ」
「名言」
「自分で言うな」
三浦の軽さで、田辺は少し笑った。
島中は面白くなさそうだったが、これ以上続ける空気ではないと判断したのか、肩をすくめた。
「まあいいや」
その言い方は、昨日と同じだった。
引く。
でも、納得はしていない。
そういう声。
「じゃあ、決まったら教えてよ」
最後に島中はそう言った。
なつきは答えなかった。
答えないことも、ひとつの返事だと思った。
島中と田辺が離れていく。
なつきはゆっくり息を吐いた。
全身に入っていた力が少し抜ける。
「しつこい」
亜衣が小さく言った。
いつもの明るい声ではなかった。
「かなり」
茜も頷く。
三浦が苦笑する。
「いやー、空気重かったな。俺の軽さでも浮ききらなかった」
「助かった」
なつきは小さく言った。
三浦は少し目を丸くした。
「横田がそう言うなら、出てきた甲斐あったわ」
「ありがとう」
「どういたしまして。まあ、俺も勉強会を守らないと赤点が近づくからな」
「三浦くん、それ本音?」
「八割本音」
「残り二割は?」
「空気読んだ」
三浦は笑った。
なつきも少しだけ笑う。
その笑いで、胸の重さが少しだけ和らいだ。
放課後。
茜と紅秋は担任のところへ向かった。
なつき、亜衣、春樹、三浦は教室で待つことになった。
放課後の教室は、部活へ向かう生徒や、友達と帰る生徒でざわついている。
島中のグループもまだ残っていた。
なつきは、その方向を見ないようにした。
見れば、また気になってしまう。
三浦は机に座るのではなく、椅子を少し横向きにして座り、数学の教科書を開いていた。
「なあ、大國」
「何?」
「数学って、どこからやればいい?」
「分からないところ」
「全部分からない場合は?」
「最初から」
「遠い道のり!」
亜衣が笑う。
「三浦、私と同じこと言ってる」
「伊藤さんも全部?」
「全部ではない。七割」
「俺は八割」
「勝った」
「負けた気がしない」
春樹は問題集を開きながら、静かに言った。
「まず範囲の最初の例題」
「大國先生」
「先生じゃない」
「でも教えて」
「分かるところなら」
三浦は素直に頷いた。
「助かる」
そのやり取りを見て、なつきは少しだけ安心した。
春樹は三浦にも普通に答える。
特別ではない。
でも、冷たくもない。
必要なことを、必要なだけ。
それが春樹らしい。
しばらくして、茜と紅秋が戻ってきた。
茜の手には、空き教室利用の簡単な許可メモ。
「使えるって」
その一言に、全員の表情が少し明るくなった。
「明日から?」
亜衣が聞く。
「明日と明後日、放課後十六時から十七時半。場所は普通科棟二階の空き教室。使用後に机を戻して、ゴミを持ち帰ること」
「普通科棟?」
三浦が少し首を傾げる。
「スポーツ・商業棟じゃないんだ」
「この棟は部活前の生徒が多くて騒がしいから、担任が普通科棟を取ってくれた」
紅秋が説明する。
「いい判断だと思う」
「普通科棟なら、島中たちも来にくいかも」
亜衣が言う。
「場所、言わなければね」
茜が釘を刺す。
なつきは頷いた。
「うん」
「明日は、授業が終わったら各自時間をずらして移動しましょう」
「時間をずらす?」
なつきが聞く。
「全員でぞろぞろ動くと目立つから」
茜は真面目に言った。
亜衣が少し笑う。
「なんか秘密基地みたい」
「実際、秘密にした方がいい」
「それはそう」
三浦が手を上げる。
「じゃあ俺、自然に踊りながら移動する」
「一番目立つからやめて」
全員がほぼ同時に言った。
三浦が胸を押さえる。
「一致団結!」
なつきは笑った。
久しぶりに、心から少し笑えた気がした。
場所は決まった。
明日から始まる。
普通科棟二階の空き教室。
六人だけの勉強会。
島中と田辺には言わない。
そのことに少し罪悪感がないわけではない。
特に田辺には。
でも、自分たちの時間を守るためには必要だ。
春樹が範囲表を鞄にしまいながら言った。
「明日は簿記から」
「はい……」
亜衣が小さく返事する。
三浦も真顔で頷く。
「簿記と戦う」
「戦うというより、理解する」
紅秋が言う。
「板倉、戦う前から俺の剣を折るな」
「剣じゃなくてシャーペン」
「現実!」
茜がメモをまとめる。
「各自、今日のうちに分からない問題を三つ以上出してくること」
「三つ?」
亜衣が聞く。
「多い?」
「少ないかも」
三浦が呟く。
「俺、三十個くらいある」
「まず三つに絞る練習からね」
「そこから!?」
なつきは範囲表を見た。
自分も、星印を三つ選ぼう。
手形。
試算表。
数学の文章題。
春樹に聞けるかもしれない。
茜に確認してもらえるかもしれない。
亜衣と一緒に悩めるかもしれない。
三浦が場を明るくしてくれるかもしれない。
紅秋が整理してくれるかもしれない。
そう思うと、テストの不安が少しだけ形を変えた。
怖い。
でも、やることがある。
教室の外は夕方になっていた。
窓から差し込む光が、机の上の範囲表を淡く照らしている。
島中たちのしつこさは、きっとこれで終わらない。
明日、また何か言ってくるかもしれない。
田辺も、場所を聞いてくるかもしれない。
でも。
今日は、ちゃんと守れた。
自分たちの勉強会を。
自分の気持ちを。
なつきは鞄を持ち、茜と亜衣と一緒に教室を出た。
廊下には、部活へ向かう生徒たちの声が響いている。
いつもの放課後。
でも、なつきの中では少しだけ違う。
明日から始まる。
テスト勉強。
そして、春樹と過ごす新しい時間。
不安と期待が、同じくらいの重さで胸にあった。
なつきは小さく息を吸った。
逃げない。
勉強からも。
島中たちのしつこさからも。
春樹に近づきたい自分の気持ちからも。
明日の空き教室へ向かう道は、まだ見えない。
でも、確かに少しずつ始まっていた。




