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『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


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第19話 中間テストという現実


 五月の空は、少しずつ色を濃くしていた。


 四月の始まりにあった、まだ柔らかい春の空気は薄れていき、校庭の木々は青さを増している。


 私立梅桜高等学校の校舎にも、少しだけ季節の変化が見え始めていた。


 廊下の窓を開けると、風はもう冷たくない。


 むしろ昼前になると、少し暑いくらいだった。


 スポーツ・商業棟の三階。


 二年十一組の教室では、一時間目の簿記の授業が始まろうとしていた。


 黒板の前には、簿記担当の先生が立っている。


 手には出席簿と、何枚かのプリント。


 そのプリントを見た瞬間、何人かの生徒が嫌な予感に顔をしかめた。


「先生、それ何ですか」


 教室の前方から男子の声が飛ぶ。


 先生は眼鏡を少し上げて、淡々と答えた。


「いい質問だ」


「いい質問ってことは、悪い知らせですね」


「察しがいいな」


 教室が少しざわつく。


 横田なつきは、自分の席でノートを開きかけた手を止めた。


 プリント。


 五月。


 この時期。


 嫌な予感しかしない。


 隣の遠山茜は、すでに筆箱から赤ペンを出している。


 何かを書き込む準備ができていた。


 なつきはその様子を見て、小声で言う。


「茜ちゃん、何でそんなに落ち着いてるの?」


「そろそろ来ると思っていたから」


「来るって……」


「中間テスト」


 その言葉だけで、なつきの背筋が少し伸びた。


 中間テスト。


 聞きたくない。


 でも、聞かなければならない言葉。


 高校二年生の一学期。


 商業科の授業も、一年の頃より少しずつ難しくなっている。


 簿記も、情報処理も、商業経済も。


 一年の時はまだ基礎が中心だった。


 けれど二年生になると、同じ商業科でも扱う内容に厚みが出る。


 去年と同じクラス。


 同じ顔ぶれ。


 けれど、授業の中身は少しずつ変わっている。


 同じように座っていても、置いていかれる速度が速くなっている気がした。


 先生が教卓にプリントを置いた。


「はい、静かに」


 ざわめきが少しずつ収まる。


 先生は黒板に大きく文字を書いた。


『中間考査 範囲表』


 その瞬間、教室から一斉に声が上がった。


「うわぁぁぁ……」


「来た……」


「知ってたけど来てほしくなかった」


「まだ五月じゃん」


「五月だからだよ」


「交流会で浮かれてたらこれだよ」


 先生は容赦なく言う。


「三週間後、中間考査だ。二年生最初の定期考査だからな。ここで気を抜くと後がきついぞ」


「先生、脅しですか」


「忠告だ」


「同じじゃないですか」


 少し笑いが起きる。


 けれど、その笑いは軽くなかった。


 本当に嫌な予感を抱えた笑いだった。


 先生は範囲表を配り始める。


 前の席から後ろへ。


 紙が回ってくる。


 なつきの机にも、白いプリントが置かれた。


 なつきは恐る恐る見る。


 簿記。


 商業経済。


 情報処理。


 数学。


 英語。


 現代文。


 家庭科。


 そして、提出物。


 小テスト再確認。


 範囲の細かいページ数。


 ずらりと並ぶ文字を見ただけで、少し目がくらんだ。


「多くない?」


 なつきは思わず呟いた。


 茜が横から覗き込む。


「普通ね」


「これで普通?」


「二年生だから」


「二年生って厳しい」


「今さら?」


「去年より増えてるよね」


「増えてる」


「やっぱり」


 なつきは小さくうなだれた。


 去年も中間テストはあった。


 同じクラスだった。


 同じように範囲表が配られて、同じように教室が騒いだ。


 でも、今ほど胃が重くなる感じはなかった。


 一年生の頃は、まだどこか「高校のテストってこんな感じなんだ」と受け身だった。


 けれど二年生になった今は違う。


 成績が進路に関わる。


 商業科の検定にもつながる。


 簿記や情報処理は、積み上げが効いてくる。


 分からないところを放置すると、後で本当に詰む。


 先生が黒板を叩いた。


「特に簿記。今回の範囲は一年の復習を含む。手形、売掛金、買掛金、試算表。ここを落とすと、今後の範囲が全部苦しくなる」


 なつきの胸が少しだけ沈む。


 手形。


 前に春樹に教えてもらったところだ。


 あの時は分かった。


 でも、テストで出るとなると、また別の緊張がある。


「横田」


 突然先生に名前を呼ばれ、なつきはびくっとした。


「はい!」


「前回の確認プリントは良くできていたな」


「あ、ありがとうございます」


「その調子で復習しておけ。分かったつもりが一番危ない」


「はい……」


 教室の何人かがなつきを見た。


 少しだけ恥ずかしい。


 でも、嫌な感じではなかった。


 春樹に教えてもらったおかげで、前回はちゃんとできた。


 それを先生に覚えてもらっていたことは、少し嬉しい。


 けれど同時に、プレッシャーでもある。


 次もできるとは限らない。


 斜め後ろの席に、大國春樹がいる。


 なつきは振り返らない。


 でも、意識してしまう。


 春樹はきっと、この範囲表を見ても動揺していない。


 いや、多少は思うことがあるのかもしれない。


 でも顔に出ない。


 落ち着いている。


 その落ち着きが、羨ましい。


 先生は説明を続ける。


「今回、提出物の遅れは減点対象にする。特に問題集。試算表のページは途中式、仕訳も残すこと。答えだけ写しても意味がないからな」


 教室の一部がざわつく。


「途中式って簿記にもあるんですか」


「仕訳が途中式みたいなものだ」


「先生、名言っぽい」


「名言ではない。現実だ」


 笑いが起きる。


 しかし、その笑いの後には、紙を見つめる沈黙が残った。


 現実。


 中間テスト。


 範囲表。


 なつきはプリントの端を指で押さえた。


 春樹の二冊目の本を読み始めたばかりなのに。


 恋のことで胸がいっぱいだったのに。


 学校は容赦なく現実を持ってくる。


 恋をしていても、テストは来る。


 当たり前だけど、少しだけ理不尽な気がした。


 一時間目の簿記は、そのままテスト範囲の復習に入った。


 先生は黒板に仕訳を書き、生徒たちはノートに写す。


 前回までの内容を確認しながら、先生は何度も言った。


「分かった気になるな」


「手形は流れで覚えろ」


「借方貸方を暗記だけで乗り切ろうとするな」


「問題文を読め」


 そのたびに、なつきは小さく頷いた。


 分かる。


 でも、実際に問題になると迷う。


 特に、文章が少し変わると不安になる。


 昼休みが来る頃には、教室全体が中間テストの話でいっぱいになっていた。


 普段なら購買の新作パンや、交流会の写真の話になるところが、今日は範囲表と提出物の話ばかりだった。


「英語の範囲広くない?」


「情報処理、実技も出るってマジ?」


「商業経済のプリントどこやったっけ」


「去年のノート残ってる?」


「中間ってこんなに重かったっけ」


 なつきは茜と亜衣と机を寄せながら、範囲表を広げた。


 亜衣はすでに顔を伏せている。


「終わった」


「まだ始まってない」


 茜が言う。


「始まる前から終わった」


「それは終わってない」


「茜、言葉の正しさが今はつらい」


 亜衣は机に額を乗せたまま言った。


 なつきも範囲表を見ながら、ため息をつく。


「私も、簿記が怖い」


「横田さん、前回できていたじゃない」


 茜が言う。


「でもテストだと緊張する」


「それは分かる」


「範囲も広いし……」


「早めに始めれば大丈夫」


「早めに始めるのが難しい」


「そこをやるの」


 茜は淡々としている。


 相変わらず強い。


 亜衣が顔だけを上げた。


「茜、今回も余裕?」


「余裕ではないけど、範囲が出たならやるだけ」


「そのやるだけができない人間もいるんです」


「それをできるようにするのが勉強」


「正論が痛い」


 なつきは苦笑した。


 その時、後ろから明るい声が聞こえた。


「中間テストってさ、名前がもう嫌だよな!」


 三浦圭だった。


 三浦は購買のパンを片手に持ち、範囲表をもう片方の手でひらひらさせながら近づいてきた。


 いつものように明るい。


 でも、その顔には少しだけ本気の焦りがあった。


「三浦くんも範囲見た?」


 なつきが聞くと、三浦は大げさに頷いた。


「見た。そして絶望した。俺の未来が黒板消しの粉みたいに消えた」


「例えが分かりにくい」


 茜が言う。


「遠山さん、そこ突っ込む?」


「分かりにくかったから」


「事実の刃!」


 三浦は胸を押さえる。


 亜衣が少し笑った。


「三浦、簿記どうなの?」


「聞くな」


「ダメじゃん」


「いや、まだダメと決まったわけじゃない。今の俺は、まだ始まっていないだけだ」


「それ、さっき私も言った」


「伊藤さん、同志!」


 三浦が亜衣へ手を差し出す。


 亜衣は軽くその手にタッチした。


「始まってない同盟」


「響きが最悪ね」


 茜が冷静に言う。


 三浦は範囲表を机に置き、なつきたちの机の近くに少し身を屈めた。


「でもマジでどうする? 二年の中間、去年より重いよな」


「それは思う」


 なつきが頷く。


「商業科は一クラスだから、みんな去年から顔ぶれ変わってないけどさ」


 三浦が言う。


「授業の内容だけ急に大人になってない?」


「分かる」


 亜衣が即答する。


「去年の延長だと思ってたら、急に現実が来た」


「そう。交流会で肉焼いてたのに、急に試算表だぞ」


「落差がひどい」


 なつきは笑った。


 三浦がいると、重い話題も少しだけ軽くなる。


 でも、軽くして終わらせるわけではない。


 三浦も本気で困っているのだろう。


 顔の奥に焦りがある。


「大國くんと板倉くんは?」


 亜衣が斜め後ろを見る。


 春樹は自分の席で弁当を食べながら範囲表を見ていた。


 紅秋も近くにいて、すでに何か計画を立てているようにノートに書き込んでいる。


 亜衣が声をかけた。


「大國、板倉くん、今回やばくない?」


 紅秋が顔を上げる。


「範囲は広いね」


 春樹も範囲表から視線を上げる。


「今からやれば大丈夫」


 亜衣が机に突っ伏した。


「出た。できる人の言葉」


 三浦も肩を落とす。


「今からやれば大丈夫って言う人、大体今からやれる人なんだよな」


「三浦くんもやればいい」


 紅秋が言う。


「板倉、正論で俺を包囲するな」


「包囲してない」


「気持ち的に包囲されてる」


 紅秋は少し笑った。


 春樹は静かに範囲表を見ている。


 なつきは、その様子を見ながら少しだけ思った。


 春樹はやっぱり落ち着いている。


 でも、完全に他人事ではなさそうだった。


 範囲表に目を通して、必要なところを確認している。


 焦らない。


 けれど、油断もしない。


 そういう感じだった。


「大國くん」


 なつきは少しだけ勇気を出して声をかけた。


 春樹がこちらを見る。


「簿記、今回難しいかな」


「人による」


「う……」


 正直な返答。


 春樹らしい。


 亜衣が横から言う。


「大國、そこは『大丈夫』って言って」


「大丈夫にするには勉強が必要」


「結局そうなる!」


 三浦が天を仰いだ。


 紅秋が範囲表を指差す。


「簿記は手形と試算表を押さえれば、点は取れると思う。商業経済は暗記。情報処理は実技と用語。英語と数学は早めにやらないと積む」


「積むって言った」


 亜衣が震える。


「板倉くんが積むって言った」


「事実だから」


「遠山さんみたいになってきた」


「それは褒め言葉?」


 茜が聞く。


「たぶん」


 亜衣が曖昧に答えた。


 三浦が両手を合わせた。


「よし。ここは優秀な皆さんにお願いがあります」


「何?」


 茜が見る。


「勉強会しない?」


 その言葉に、机の周りが少し静かになった。


 勉強会。


 なつきの胸が少しだけ反応する。


 春樹と勉強。


 前に簿記を教えてもらった時のことを思い出す。


 近い距離。


 ノート。


 春樹の短い説明。


 分かりやすい言葉。


 もし勉強会をするなら、また春樹に教えてもらえるかもしれない。


 そう思った瞬間、テストへの不安の中に、少しだけ別の感情が混ざった。


「勉強会か」


 紅秋が考えるように言った。


「悪くないと思う。範囲も広いし、早めに確認した方がいい」


「場所は?」


 茜がすぐに現実的な質問をする。


「教室だと放課後は人が多いし、部活前の男子が騒ぐわね」


「図書室は?」


 亜衣が言う。


「静かだけど、人数多いと迷惑かな」


「空き教室なら使えるかも」


 紅秋が言う。


「先生に許可を取れば」


 三浦が指を鳴らす。


「俺、空き教室賛成! 図書室だと俺の魂が静寂に負ける」


「静かにすればいいだけ」


 茜が言う。


「遠山さん、俺を過大評価しないで」


「してない」


「してなかった!」


 亜衣が笑った。


 春樹が静かに言う。


「最初は空き教室でいいと思う」


 全員が春樹を見る。


「教室?」


「放課後に使えるなら。分からないところを声に出して確認できる」


「確かに、図書室だと喋りにくいもんね」


 なつきが言うと、春樹は頷いた。


「静かな確認なら図書室。最初は多分、声に出した方がいい」


「大國くん、先生みたい」


 亜衣が言う。


「先生ではない」


「でも分かりやすい」


「そう?」


「うん」


 なつきも思わず頷いた。


「大國くん、説明分かりやすい」


 言ってから少しだけ恥ずかしくなる。


 でも、事実だった。


 春樹は少しだけ視線を落とした。


「なら、よかった」


 その短い返事に、なつきの胸が少し温かくなる。


 三浦がすぐに場を回す。


「よし! じゃあメンバーは?」


 亜衣が指を折る。


「なつき、茜、あたし、大國、板倉くん、三浦」


「六人か」


 紅秋が言う。


「多すぎるほどではないね」


「四班+三浦って感じだね」


 亜衣が言った。


 三浦が胸を張る。


「俺、追加戦士枠!」


「戦隊ものみたい」


 なつきが笑う。


「追加戦士は人気出るからな」


「三浦くん、勉強会で人気を取りにいくの?」


「まず赤点を回避したい」


「現実的」


 茜が頷いた。


 空気が少しだけ明るくなる。


 中間テストの重さは消えない。


 でも、一人で抱えなくていいかもしれないと思えた。


 勉強会。


 四班のメンバー。


 そこに三浦。


 楽しそう。


 いや、勉強だから楽しいだけではない。


 でも、少し安心できる。


 春樹もいる。


 茜もいる。


 亜衣もいる。


 紅秋もいる。


 三浦が場を明るくしてくれる。


 それなら、頑張れる気がした。


「放課後、先生に空き教室使えるか聞いてみる」


 茜が言った。


「委員長、頼れる」


 三浦が両手を合わせる。


「拝むな」


「尊敬の形」


「いらない」


 亜衣が笑う。


「じゃあ、今日はまず範囲表確認だけ?」


 紅秋が頷く。


「各自、苦手なところを洗い出す。明日か明後日から始められるといい」


「早い」


 三浦が震える。


「三週間あるからって油断すると、一週間前に地獄を見る」


「板倉の言葉、怖いけど正しい」


「去年それで死にかけた人いるでしょ」


 紅秋がさらっと言う。


 三浦が目を逸らす。


「誰とは言わないけど」


「俺を見るな」


「見てない」


「心で見てる!」


 教室に笑いが起きる。


 なつきも笑った。


 その笑いの中で、ふと視線を感じた。


 教室の中心側。


 島中良がこちらを見ていた。


 なつきは一瞬、胸が固くなる。


 島中はいつものグループの中にいた。


 笑っている。


 隣には田辺守もいる。


 田辺は何かを食べながら、島中の話に反応している。


 でも、島中の視線はなつきたちの机の方へ向いていた。


 勉強会の話が聞こえたのかもしれない。


 春樹の名前。


 なつきの名前。


 四班。


 そういう言葉に反応したのかもしれない。


 島中はなつきと目が合うと、軽く笑った。


 なつきは反射的に視線を逸らした。


 胸の奥に、小さな嫌な予感が生まれる。


 前回、島中は春樹と美優の話をわざと持ち出した。


 なつきが困るように。


 春樹を揺さぶるように。


 もし勉強会のことを知ったら。


 来るかもしれない。


 勝手に。


 田辺も、無自覚についてくるかもしれない。


 それを考えると、せっかく少し明るくなった気持ちが、また少し重くなった。


「なつき?」


 亜衣が小声で呼ぶ。


「今、島中見た?」


「うん」


 亜衣もちらりと中心グループを見る。


 島中はもう別の男子と話している。


 でも、こちらに意識を向けているような気配は残っていた。


 亜衣の表情が少しだけ真面目になる。


「聞こえてたかもね」


「勉強会?」


「うん」


 茜も静かに言う。


「場所はまだ言わない方がいいかもしれない」


 三浦が少しだけ声を落とした。


「あー……島中、来そう?」


「来そう」


 亜衣が即答した。


 三浦は口元を引きつらせる。


「田辺もセット?」


「たぶん」


 なつきは小さく頷いた。


 田辺は悪気なく来る。


 島中は、たぶん意図的に来る。


 その違いが、もう分かるようになってしまった。


 春樹も少しだけ島中の方を見た。


 表情は変わらない。


 でも、黙っていた。


 紅秋が落ち着いた声で言う。


「メンバーを決めてやるなら、最初に線を引いた方がいい」


「線?」


 三浦が聞く。


「誰でも参加可にするのか、この六人でやるのか」


 茜が頷く。


「今回はこの六人でいいと思う。人数が増えると、教える側の負担が大きくなる」


「それ言いやすい」


 亜衣が言う。


「人数増えると効率悪いって」


「実際そう」


 春樹が短く言った。


「勉強する気があるなら別だけど、雑談目的なら無理」


 その言葉が、なつきの胸に少しだけ響いた。


 春樹は、はっきりしている。


 嫌なものは嫌。


 必要ないものは必要ない。


 その線引きが、なつきには少し羨ましい。


「じゃあ、この六人で」


 茜が言った。


「まずは明日の放課後、空き教室が取れるか確認。取れなければ図書室か、別の日にする」


「休日に図書館もありじゃない?」


 亜衣が言った。


「水戸の図書館とか」


「休日かぁ」


 三浦が少し考える。


「俺、土曜なら行けるかも」


「休日に勉強って、なんか本気感あるね」


 なつきが言うと、茜が答える。


「本気でやらないと間に合わないから」


「現実……」


 亜衣が机に伏せる。


 紅秋が言う。


「平日で基礎確認、休日にまとめて演習。そういう形でもいいと思う」


「板倉くん、もう計画できてる」


 三浦が震える。


「こわい。でも助かる」


 春樹は範囲表を見ながら言った。


「簿記は最初にやった方がいい」


「簿記……」


 なつきの声が少し弱くなる。


 春樹がこちらを見る。


「手形は前にやったところ」


「うん」


「覚えてる?」


「少し」


「なら、そこから」


 そこから。


 その言葉が、なつきには優しく聞こえた。


 できないところではなく、覚えているところから始めればいい。


 春樹はそう言っているようだった。


「うん」


 なつきは頷いた。


「頑張る」


「うん」


 春樹は短く返した。


 その小さなやり取りを、亜衣が横で見ている。


 でも、今回はからかわなかった。


 テストの話だからかもしれない。


 それとも、なつきが本気で不安そうだったからかもしれない。


 昼休みが終わる頃、勉強会の基本方針は決まっていた。


 メンバーは、なつき、茜、亜衣、春樹、紅秋、三浦。


 場所は、まず空き教室を先生に確認。


 だめなら図書室。


 必要なら休日に市内の図書館。


 教科は、簿記、数学、英語を優先。


 暗記科目は各自で進め、分からないところを共有。


 茜が紙に簡単なメモを取り、紅秋がそれを見て補足する。


 三浦は「俺、もう勉強した気になってきた」と言って茜に睨まれた。


 亜衣は「始まる前から達成感ある」と言って紅秋に「危険」と言われた。


 なつきは、そのやり取りを見ながら少しだけ笑った。


 不安はある。


 かなりある。


 でも、一人ではない。


 そう思えるだけで、少しだけ息ができた。


 五時間目。


 英語の授業でも、中間テストの範囲が説明された。


 六時間目。


 情報処理でも、実技確認があると言われた。


 そのたびに教室は小さく悲鳴を上げた。


 放課後になる頃には、二年十一組全体が中間テストの現実に押しつぶされかけていた。


「帰って勉強する?」


「今日くらい休む」


「今日休んだら明日も休むやつ」


「やめて」


「提出物どこからだっけ」


「範囲表見ろ」


 なつきは鞄に教科書をしまいながら、机の上の範囲表をもう一度見た。


 テスト。


 勉強会。


 春樹。


 島中。


 田辺。


 いろいろなものが頭の中で混ざる。


 すると、背後から声がした。


「横田」


 島中だった。


 なつきの肩が少しだけ強張る。


 茜がすぐに視線を向ける。


 亜衣も鞄を持つ手を止めた。


 島中はいつものように笑っている。


 その横には、田辺守もいた。


 田辺は範囲表をぐしゃっと持っている。


「聞こえたんだけどさ」


 島中が言った。


「勉強会やんの?」


 なつきの胸に、昼休みの嫌な予感がそのまま落ちてきた。


 来た。


 早い。


 まだ場所も日程も決まっていないのに。


「えっと……」


 なつきが言葉に詰まる前に、亜衣が答えた。


「まだ相談中」


「ふーん」


 島中はなつきではなく、亜衣を見る。


「誰で?」


「少人数」


「いや、だから誰?」


 少しだけしつこい言い方。


 亜衣の眉がわずかに動く。


「まだ決定じゃないから」


 島中は笑った。


「隠すこと?」


 その言葉が、少し空気を重くする。


 田辺が無邪気に言う。


「勉強会なら俺も入れてよ。簿記やばいし」


 島中がすぐ続ける。


「俺も。横田、前よりできるようになってたしさ。一緒にやればいいじゃん」


 なつきは言葉が出ない。


 島中の言い方は、明るい。


 でも、どこか逃げ道を塞ぐようだった。


 田辺は本気で勉強に困っているのかもしれない。


 でも、島中は違う。


 なつきにはそう感じた。


 春樹が鞄を持ったまま、少し離れた席からこちらを見ている。


 紅秋も立ち上がっていた。


 三浦は教室の後方から状況に気づき、「あー……」という顔をしている。


 茜が静かに口を開いた。


「島中くん、田辺くん」


「何?」


「今回の勉強会は、まだ人数も場所も決まっていないの」


「だから入れてって言ってるんだけど」


 島中が笑う。


「人数が増えると効率が落ちるから、少人数で考えている」


「俺ら入っても変わらなくない?」


「変わる」


 茜は即答した。


 島中の笑顔が少しだけ固まる。


 田辺は少し驚いた顔をした。


「遠山、そんなバッサリ?」


「勉強会だから」


 亜衣も続ける。


「田辺は本気でやるなら先生に聞いた方がいいよ。島中も、自分のグループでやれば?」


「伊藤、冷たくね?」


「冷たいんじゃなくて、効率の話」


 島中は少しだけ笑う。


「効率効率って、みんなでやった方が楽しいじゃん」


 その言葉に、春樹が静かに言った。


「楽しいのが目的じゃない」


 教室の空気が少し止まる。


 島中が春樹を見る。


「大國」


「勉強会だから」


 春樹の声は低くない。


 でも、はっきりしていた。


「勉強する気があるなら、それぞれでやればいい」


「それ、俺らは来るなってこと?」


「人数を増やすと効率が悪いって話」


 春樹は表情を変えない。


 島中は少しだけ目を細めた。


「へぇ」


 その短い声に、なつきの胸が少しだけ冷える。


 田辺が慌てたように言う。


「いや、俺はマジで簿記やばいんだけど」


「それは先生に聞くか、自分の班でやりなさい」


 茜が言う。


「遠山、厳しい」


「テスト前だから」


「なつきは?」


 田辺がなつきを見る。


「なつきはいいよな? 俺、同じ中学だし」


 その言葉に、なつきは少しだけ息を止めた。


 同じ中学。


 守はそれをよく使う。


 悪気はないのかもしれない。


 でも、今はそれが少し重い。


 同じ中学だから、優先しなければいけないわけではない。


 なつきは、春樹の言葉を思い出した。


 嫌なら、嫌って言っていい。


 言いにくいなら、言える時でいい。


 でも、言っていい。


 なつきは手を握った。


「田辺」


「ん?」


「今回は、少人数でやるから」


 声は少し震えた。


 でも、言えた。


「ごめん」


 田辺は目を丸くする。


「え、マジ?」


「うん」


「そっか……」


 田辺は少し残念そうにした。


 その顔を見ると、少しだけ罪悪感がある。


 でも、なつきは言葉を引っ込めなかった。


 島中が笑った。


「横田も言うようになったな」


 その言い方には、棘があった。


「大國効果?」


 なつきの胸が少しだけ揺れる。


 その言葉が嫌だった。


 前にも似たようなことを言われた。


 なつきが頑張ったことを、春樹の影響だけにされる感じ。


 亜衣がすぐに言った。


「島中、それダサいって前も言ったよね」


「またダサい?」


「うん。二回目だからもっとダサい」


 教室の近くにいた何人かが、少しだけ笑いをこらえる。


 島中は一瞬、表情を固くした。


 それから肩をすくめる。


「冗談だって」


「冗談で人を嫌な気持ちにさせるなら、冗談が下手なんじゃない?」


 三浦の声だった。


 いつの間にか、三浦が近くに来ていた。


 いつもの明るい笑顔。


 でも、目は少しだけ真面目だった。


 島中が三浦を見る。


「三浦まで?」


「いやー、今のはちょっと空気重かったからさ。軽くする係として出てきました」


「軽くなってないけど」


「じゃあ俺の実力不足。反省します」


 三浦は軽く頭を下げてから、にっと笑った。


「でも勉強会の人数増やすとマジで収拾つかなくなるから、今回は少人数でやらせて。俺、赤点回避に必死なんで」


 その言い方は軽い。


 でも、ちゃんと線を引いていた。


 島中はしばらく三浦を見ていた。


 そして、笑った。


「分かったよ。そんなみんなで拒否んなくてもいいだろ」


 言葉は軽い。


 でも、少しだけ不機嫌だった。


 田辺はまだ残念そうだったが、なつきを見て言った。


「じゃあ、分かんないとこあったら後で聞いていい?」


「私も分からないと思うから、先生に聞いた方がいいよ」


「そっか」


 田辺は今度こそ引いた。


 島中も田辺の肩を軽く叩く。


「行くぞ」


「おう」


 二人は教室の中心へ戻っていった。


 なつきは、ゆっくり息を吐いた。


 疲れた。


 ただ断っただけなのに、全身に力が入っていた。


 茜がそっと言う。


「よく言えたわね」


「うん……」


 亜衣も頷く。


「えらい。てか島中、やっぱしつこい」


 三浦が少し肩をすくめる。


「次も来るかもな」


「来ると思う」


 紅秋が言った。


 春樹も静かに頷く。


「場所、言わない方がいい」


 なつきは春樹を見る。


 春樹の表情はいつも通りだった。


 でも、なつきの不安を分かってくれている気がした。


「うん」


 なつきは頷いた。


「そうする」


 中間テスト編は、まだ始まったばかりだった。


 範囲表。


 勉強会。


 春樹との距離。


 そして、島中と田辺のしつこい絡み。


 きっと、ここからもっと大変になる。


 でも、なつきは少しだけ思った。


 怖い。


 面倒。


 逃げたい。


 そう思うことはある。


 でも、今回は一人ではない。


 茜がいる。


 亜衣がいる。


 紅秋がいる。


 三浦がいる。


 そして春樹がいる。


 だから、逃げずに向き合いたい。


 中間テストという現実にも。


 島中たちのしつこさにも。


 自分の気持ちにも。


 なつきは鞄の中に範囲表をしまった。


 紙一枚が、やけに重く感じる。


 けれどその重さの中に、少しだけ前へ進む理由も入っている気がした。

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