第18話 二冊目の重さ
その日の夜、横田なつきは机の前に座っていた。
部屋の電気は少しだけ明るさを落としてある。
白すぎる光だと、気持ちまで急かされる気がしたからだ。
窓の外はもう暗い。
カーテンの隙間から、近所の家の灯りがぼんやり見える。
遠くで車の走る音がして、少し遅れて犬の鳴き声が聞こえた。
いつもの夜。
何も特別なことは起きていない。
けれど、なつきの机の上には、今日の放課後からずっと特別に見えているものがあった。
一冊の本。
大國春樹が選んでくれた、二冊目の本。
前に借りた短編集よりも少し厚い。
表紙の色は落ち着いていて、派手さはない。
タイトルも静かだった。
目立つ本ではない。
けれど、なつきにとっては、棚の中のどの本よりも意味があった。
春樹が選んでくれた。
自分のために。
そう思うだけで、表紙に触れる指先まで少し緊張した。
なつきは本の横に、桜色のしおりを置いた。
前の本を読むために買ったしおり。
最初はただの小物だった。
けれど今では、本を読む時間と春樹をつなぐ小さなお守りみたいになっている。
なつきはしおりを指で撫でた。
「二冊目……」
声に出すと、少し照れくさかった。
一冊目を返した時のことを思い出す。
図書室のカウンター。
春樹の腕章。
返却の音。
感想を言う時の緊張。
そして、春樹が聞いてくれた言葉。
『どうだった?』
『俺も、その話は痛いと思った』
『そういうの、好き』
その一つ一つが、まだ胸の中に残っている。
春樹は多くを話す人ではない。
けれど、本の話をしている時、少しだけ自分の内側を見せてくれた気がした。
静かな話が好き。
何も起きていないようで、心の中では変わっている話が好き。
それを知れたことが、なつきには嬉しかった。
ただの会話ではない。
春樹の好きなものへ、少し触れられた気がした。
でも、その図書室には、春樹だけではなかった。
桐谷蓮。
篠崎美優。
春樹の中学からの友達と、幼馴染。
なつきにとって、二人はもう完全に知らない存在ではない。
何度か見ている。
話もした。
それでも、春樹の周りにいる人たちだと思うと、やっぱり少しだけ胸がざわつく。
特に、美優。
篠崎さん。
嫌な子ではなかった。
それどころか、優しかった。
本の話も自然に聞いてくれた。
春樹が本の話をできる人が増えると嬉しいと思う、と言ってくれた。
その言葉は、なつきを遠ざけるものではなかった。
むしろ、少しだけ背中を押してくれるような言葉だった。
だからこそ、複雑だった。
「嫌な子だったら、楽だったのかな……」
なつきは小さく呟いて、すぐに首を振った。
そんなことを思う自分が嫌だった。
篠崎さんは何も悪くない。
春樹の幼馴染であることも。
春樹と自然に話せることも。
昔からの記憶を持っていることも。
全部、篠崎さんが悪いわけではない。
なのに、なつきは比べてしまう。
篠崎さんの方が春樹を知っている。
篠崎さんの方が春樹に近い。
篠崎さんの方が、春樹の隣に立つことが自然に見える。
そのたびに、自分の中で小さな棘が刺さる。
でも今日、図書室で少しだけ話して思った。
篠崎さんは、春樹の周りにいる人だから怖いのではない。
春樹のことを大事にしているように見えるから、怖いのだ。
それはたぶん、敵だからではない。
自分もそうなりたいと思ってしまうからだ。
なつきは机に頬杖をついた。
胸の中に、いろんな感情がある。
羨ましさ。
劣等感。
少しの悔しさ。
でも、篠崎さんを嫌いたくない気持ち。
そして、それ以上に。
春樹に近づきたい気持ち。
スマホが震えた。
なつきは少し驚いて画面を見る。
遠山茜からだった。
『本、開いた?』
なつきは思わず笑った。
見られていたわけでもないのに、タイミングが良すぎる。
『まだ表紙見てる』
送ると、すぐに返信が来た。
『予想通り』
『そんなに?』
『返すのが寂しいと言っていた人が、二冊目をすぐ開けるとは思ってない』
なつきは小さく笑った。
茜はなつきのことを本当によく分かっている。
『篠崎さんのこと考えてた』
少し迷ってから、そう送った。
既読がつく。
しばらく間があった。
それから返信。
『嫌だった?』
なつきは、スマホを見つめた。
嫌だった。
そう言うのは簡単だ。
でも、少し違う。
『嫌じゃない』
『でも複雑』
また少し間があく。
『それが一番正直ね』
なつきは頷く。
誰も見ていない部屋で、一人頷いた。
『篠崎さん、優しかった』
『うん』
『だから困る』
『うん』
『嫌いになれない』
『嫌いになる必要はないわ』
その言葉に、なつきは少しだけ息を止めた。
嫌いになる必要はない。
そうだ。
恋をしているからといって、誰かを嫌いにならなくてもいい。
羨ましくても。
苦しくても。
相手を悪者にしなくてもいい。
それはきっと難しい。
でも、そうありたいと思った。
『ありがとう』
なつきは送った。
茜からすぐ返事が来る。
『本、読みなさい』
『はい』
『大國くんが待ってるんでしょ』
その一文で、なつきの心臓が跳ねた。
待ってる。
図書室で春樹が言ってくれた言葉。
前も言ってくれた。
今日も言ってくれた。
また、読んだら感想言うね。
そう言ったなつきに、春樹は静かに頷いて。
『待ってる』
と言ってくれた。
その言葉を思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
春樹はただ、本の感想を待っているだけかもしれない。
いや、きっとそうだ。
それでも。
春樹が自分の言葉を待ってくれている。
そう思えることが嬉しかった。
なつきはスマホを机に置いた。
もう逃げられない。
いや、逃げたくない。
本を開く。
最初のページ。
紙の匂いがふわりと上がる。
なつきはゆっくり文字を追い始めた。
前の短編集とは少し違った。
今度の本は、一つの長い物語だった。
主人公は、地方の高校に通う女子生徒。
目立つわけではない。
成績も普通。
特別な才能があるわけでもない。
でも、その子はある日、図書室で一冊の古いノートを見つける。
そこには、何年も前の生徒が書き残した、誰にも言えなかった気持ちが綴られていた。
物語は静かに進んでいく。
大きな事件はまだ起きない。
でも、主人公がノートの中の言葉を読むたびに、自分の中にある言えない気持ちと向き合っていく。
なつきは、数ページで手を止めた。
「……また、こういうの」
思わず呟く。
春樹が選ぶ本は、静かだ。
でも、静かなだけではない。
心の奥に触れてくる。
自分では見ないふりをしていたものを、そっと机の上に置かれるような感じがする。
なつきは本に指を置いたまま、春樹のことを考えた。
どうしてこの本を選んだのだろう。
前の本を読んだ時、なつきは「言えない気持ち」の話が好きだと言った。
だからだろうか。
今度の本も、言えない気持ちの話だった。
春樹は、なつきの感想を聞いて、この本を選んだのかもしれない。
そう思った瞬間、胸がまた温かくなる。
読めそうだと思ったから。
春樹はそう言った。
読めそう。
それは、本の難しさだけではないのかもしれない。
なつきが、この物語の静かさを受け取れると思ってくれた。
そう考えるのは、都合がよすぎるだろうか。
でも、少しだけそう思いたかった。
なつきはまた読み進めた。
主人公は、ノートの持ち主が誰だったのかを探し始める。
けれど、その探索は冒険のように派手ではない。
古い卒業アルバムを見る。
図書室の先生に少し話を聞く。
廊下の掲示物に残った名前を探す。
小さな手がかりを拾う。
その途中で、主人公は自分のクラスにいる静かな男子のことを意識し始める。
彼は目立たない。
でも、いつも図書室にいる。
主人公がノートのことを調べている時、何度も同じ場所に現れる。
なつきはその場面で、思わず本を閉じた。
「……無理」
顔が熱い。
重なる。
重なってしまう。
図書室。
静かな男子。
目立たないけれど、いつもそこにいる人。
春樹を思い出さないわけがない。
なつきは椅子にもたれた。
心臓がうるさい。
本を読むと、春樹に近づける気がする。
でも同時に、本の中の言葉が自分の気持ちを暴いてくる。
それが恥ずかしくて、少し怖い。
でも。
読みたい。
なつきは本をまた開いた。
主人公は、静かな男子にノートのことを話す。
すると彼は、思ったより真剣に聞いてくれる。
自分から多くは話さない。
でも、必要な時に短く言葉をくれる。
なつきは春樹を思い出した。
嫌なら、嫌って言っていいと思う。
言いにくいなら、言える時でいいと思うけど。
でも、言っていい。
短い言葉。
でも、なつきの胸に残った言葉。
春樹は、相手の気持ちに大げさに寄り添うタイプではない。
優しい言葉をたくさん並べるわけでもない。
でも、ちゃんと見ている。
ちゃんと聞いている。
必要な時に、短く支えてくれる。
それが、なつきには強く響く。
スマホがまた震えた。
今度は亜衣だった。
『読んでる?』
なつきは本を開いたまま返信する。
『読んでる』
『どう?』
『大國くんが選びそうな本』
『それ感想として強い』
『静かで、ちょっと痛い』
『また?』
『また』
亜衣から笑っているスタンプが送られてきた。
その後に文章。
『大國、なつきに刺さる本選ぶの上手いね』
なつきはその文字を見て、しばらく止まった。
春樹が、なつきに刺さる本を選んでいる。
偶然かもしれない。
でも、もしそうなら。
春樹はなつきの感想をちゃんと聞いて、なつきに合う本を考えてくれたことになる。
その想像だけで、胸がいっぱいになった。
『うん』
なつきは送る。
『ちょっと刺さってる』
亜衣からすぐ返事。
『よし、そのまま読め』
『感想を大國に言うんだぞ』
『逃げるなよ』
なつきは笑った。
『逃げない』
そう送ってから、自分で少し驚いた。
前なら「逃げないかも」とか「頑張る」と書いたと思う。
でも今は。
逃げない。
そう書けた。
本を読むことから。
感想を言うことから。
春樹に近づくことから。
少しずつ逃げない自分になりたい。
なつきはスマホを置き、本に戻った。
物語はゆっくり進んでいく。
主人公が古いノートを読むたびに、過去の誰かの片想いが少しずつ見えてくる。
その誰かは、気持ちを伝えられなかった。
卒業まで。
最後まで。
ただ、ノートの中にだけ言葉を残した。
なつきは読みながら、胸が苦しくなった。
伝えられなかった気持ち。
誰にも届かなかった言葉。
それは悲しい。
でも、少しだけ分かる。
好きだと言えない。
話したくても話せない。
遠くから見るだけで精一杯。
一年前の自分がそうだった。
図書室の外から春樹を見ていた。
本棚の影から、窓際の席を見ていた。
声をかける勇気がなくて、何度も何度も何も借りずに帰った。
あの頃のなつきの気持ちは、誰にも届いていなかった。
でも今は違う。
少しだけ届いている。
春樹に本の感想を言えた。
写真のお礼も言えた。
嫌なことを嫌と言えるようになってきた。
まだ告白なんて遠すぎる。
でも、あの頃よりは確かに進んでいる。
なつきはページの上に指を置いた。
胸が熱くなる。
「私も……変わってるのかな」
声に出す。
部屋の中に、小さく響く。
変わっている。
そう思いたい。
春樹のことを好きになってから。
ただ見ているだけだった自分が、少しずつ言葉を持ち始めている。
それは怖い。
傷つくことも増えた。
篠崎さんを見て苦しくなる。
島中の言葉に傷つく。
田辺の無自覚な一言に疲れる。
でも、嬉しいことも増えた。
春樹が本を選んでくれる。
待ってると言ってくれる。
写真を見てくれる。
困っていることに気づいてくれる。
恋は、嬉しいだけではない。
苦しいだけでもない。
どちらも抱えて進んでいくものなのかもしれない。
なつきは、桜色のしおりを今読んだページに挟んだ。
今日はここまでにしよう。
一気に読み進めたい気持ちもある。
でも、この本は急いで読みたくなかった。
春樹が言ってくれた。
本は速く読むものじゃない。
だから、自分のペースで読みたい。
ちゃんと感じながら。
ちゃんと考えながら。
なつきは本を閉じた。
表紙に手を置く。
少し厚い二冊目の本。
その重さは、前の本とは違う。
ただの本の重さではない。
春樹が選んでくれたこと。
篠崎さんと話したこと。
自分がこれから感想を言うこと。
いろんなものが、その一冊に重なっている。
スマホを見る。
茜と亜衣からのメッセージが残っている。
四班のグループにも、今日の放課後の話題が少しだけ流れていた。
紅秋が図書室で借りた本の返却期限について確認していて、亜衣が「委員長みたい」と返していた。
春樹はまだ何も言っていない。
でも、それでいい。
なつきは新しいメッセージを打つか迷った。
春樹に。
もちろん個人では送れない。
そんな勇気はない。
グループにも、今送る理由はない。
だから、送らない。
その代わり、胸の中で言う。
読み始めたよ。
少しだけ刺さったよ。
でも、読みたいよ。
ちゃんと読んで、また感想を言うね。
待ってるって言ってくれたから。
なつきは椅子から立ち上がり、窓を少しだけ開けた。
夜の空気が部屋に入ってくる。
少し冷たい。
でも、気持ちがいい。
遠くの道路の音。
家々の灯り。
いつもの水戸の夜。
その中で、なつきは本を胸に抱えた。
春樹と同じ学校にいる。
同じクラスにいる。
同じ図書室で話した。
同じ本の話をした。
まだ遠い。
でも、もう何もない場所ではない。
小さな言葉がある。
小さな約束がある。
次に話す理由がある。
それだけで、明日が少し楽しみになる。
なつきはそっと窓を閉めた。
机の上に本を置き、しおりの位置を確認する。
そして、明日の教科書を鞄に入れようとして、ふと手が止まった。
中間テスト。
そういえば、そろそろ先生が範囲を配る時期だった。
現実が少しだけ顔を出す。
恋だけでは学校は回らない。
勉強もある。
簿記もある。
数学もある。
きっとまた分からないところが出てくる。
その時、春樹に聞けるだろうか。
そんなことを考えて、なつきは少しだけ笑った。
また話す理由が増えるかもしれない。
不純だと思いながらも、少し嬉しい。
「明日も、頑張ろ」
なつきは小さく呟いた。
二冊目の本が、机の上で静かに待っている。
春樹も、感想を待っていると言ってくれた。
だから。
なつきは、今日より少しだけ前を向いた気持ちで、部屋の灯りを落とした。
恋は、まだ苦しい。
でも、今日の苦しさは、少しだけ優しい。
手の中に次の物語があるから。
春樹へ続く言葉が、まだ残っているから。




