第17話 返す本と、近づく声
放課後の図書室へ向かう廊下は、少しだけ空気が違う。
スポーツ・商業棟の廊下は、放課後になると部活へ向かう生徒たちの声でいっぱいになる。
レスリング部の田辺守が階段を駆け下りていく音。
サッカー部の男子たちがスパイク袋を持って騒ぐ声。
誰かが購買のパンを買い忘れたと嘆く声。
女子たちが駅前へ寄るかどうか相談している声。
そういう音が、校舎の中を賑やかに満たしている。
けれど、特進棟へ向かう渡り廊下を越えると、その音は少しずつ遠くなる。
廊下に貼られた模試の案内。
大学説明会の掲示。
自習室の利用時間。
特進棟の空気は、同じ学校なのに少しだけ固い。
横田なつきは、その廊下を歩きながら、胸の前で一冊の本を抱えていた。
大國春樹にすすめられて借りた短編集。
今日、それを返す。
読み終えた。
全部。
時間はかかった。
普段あまり本を読まないなつきにとって、短編集とはいえ、一冊をきちんと読むのは少しだけ大きなことだった。
けれど、不思議と途中でやめたいとは思わなかった。
春樹にすすめられたから。
感想を言いたかったから。
最初はそれが理由だった。
でも、読み進めるうちに、本の中の静かな物語たちが、少しずつなつきの中に入ってきた。
誰かを遠くから見る話。
言葉にできないまま終わる気持ちの話。
すれ違って、でも少しだけ救われる話。
大きな事件はない。
でも、読み終わったあとに胸の奥が静かになる。
そんな話ばかりだった。
なつきは本をぎゅっと抱えた。
返すのが、少しだけ寂しい。
図書室の本なのだから返すのは当たり前だ。
でも、この本は春樹との会話のきっかけだった。
なつきと春樹の間に、細い橋をかけてくれた本だった。
返したら、その橋が少し遠くなるような気がしてしまう。
「なつき」
隣を歩く遠山茜が、静かに声をかけた。
「また本を抱きしめてる」
「あ、ごめん」
「謝ることではないけど」
「なんか、返すの寂しくて」
「気に入ったなら、また借りればいい」
「それはそうなんだけど」
なつきは本の表紙を見下ろした。
「でも、最初に借りたこの感じは一回だけだから」
茜は少しだけ目を細めた。
なつきの言葉を、笑わなかった。
ただ、小さく頷く。
「そうね」
その横で、伊藤亜衣が軽い足取りで歩いていた。
亜衣は今日、図書委員の担当日ではない。
けれど、なつきが返却へ行くと聞いて、茜と一緒についてきてくれることになった。
「なつき、今日ちゃんと感想言うんでしょ?」
「言う……つもり」
「つもりは禁止」
「みんなそれ言う」
「だってなつき、つもりって言うと五割くらい逃げるじゃん」
「五割も?」
「六割かも」
「増えた」
亜衣は笑った。
なつきも少し笑う。
緊張していた胸が、少しだけほぐれた。
「でもさ」
亜衣は少し声を柔らかくした。
「ちゃんと読んだんでしょ?」
「うん」
「じゃあ大丈夫。感想が上手いとか下手とかじゃなくて、読んだことがもう感想みたいなものじゃん」
「読んだことが感想?」
「うん。大國、そういうの分かるタイプだと思う」
なつきは少しだけ春樹の顔を思い浮かべた。
図書室のカウンターで、本を選んでくれた時の春樹。
短く、でもちゃんと考えて答えてくれた。
読み終わったら感想聞かせて。
そう言ってくれた。
あの時の言葉が、今も胸の中に残っている。
「……うん」
なつきは頷いた。
「言う」
茜が小さく言う。
「今のは、ちゃんと言えそうな声」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ頑張る」
「頑張りすぎなくていい」
「そこ難しい」
なつきは苦笑した。
図書室の扉が見えてきた。
西棟の奥。
放課後の静かな場所。
一年前から、なつきが何度も春樹を見ていた場所。
でも、今は少し違う。
以前は、ただ見るだけだった。
扉の外で立ち止まり、本棚の陰から春樹の姿を探していた。
話しかける理由も勇気もなくて、何度もそのまま帰った。
けれど今日は。
本を返す。
感想を言う。
春樹に会いに行く理由がある。
なつきは深呼吸した。
「入るよ」
茜が言う。
「うん」
扉を開ける。
図書室の空気が、静かに流れてきた。
紙の匂い。
木の棚の匂い。
わずかに冷えた空気。
窓から差し込む夕方の光。
図書室には、数人の生徒がいた。
奥の自習机では特進の生徒が参考書を開いている。
本棚の間を歩く女子。
カウンターの前で返却を待つ男子。
そして。
カウンターの内側に、大國春樹がいた。
図書委員の腕章をつけている。
隣には、今日の担当らしい別の女子生徒がいたが、少し離れた場所で返却本の整理をしている。
亜衣の担当日ではないから、カウンターにいるのは春樹と、その女子だった。
春樹は返却された本のバーコードを読み取り、分類番号を見て、丁寧に台車へ乗せていた。
その手つきが静かで、落ち着いている。
図書室にいる春樹は、やっぱり似合う。
校庭でバスケをしていた春樹も、本当の春樹。
教室で静かにノートを取る春樹も、本当の春樹。
そして、この図書室で本を扱う春樹も。
なつきの胸が、静かに高鳴った。
「なつき」
亜衣が小声で言う。
「見すぎ」
「見てない」
「見てる」
「見てた……」
素直に認めると、亜衣は満足そうに頷いた。
「よし、行こう」
「よしって何」
「勢い」
「今、勢いなくしたい」
「だめ」
茜がなつきの背中を軽く押した。
なつきは一歩、カウンターへ近づく。
春樹が顔を上げた。
「横田さん」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸が少し跳ねる。
「大國くん」
なつきは本を両手で差し出した。
「返却、お願いします」
「うん」
春樹が本を受け取る。
その瞬間、少しだけ手が近づく。
触れたわけではない。
でも、近い。
なつきは小さく息を止めそうになった。
春樹はいつも通り、バーコードを読み取る。
ピッ、という音が鳴った。
「返却完了」
「ありがとう」
本が春樹の手元から台車へ移る。
なつきの胸の中に、小さな寂しさが落ちる。
返した。
終わった。
でも。
ここから感想を言う。
なつきは本を見つめていた視線を、ゆっくり春樹へ戻した。
「あの」
「うん」
「本、読んだよ。全部」
春樹が少しだけ目を開いた。
「全部?」
「うん」
「早かったね」
「私にしては、頑張った」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
春樹は嫌な顔をしなかった。
むしろ、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。
「どうだった?」
聞かれた。
感想。
なつきは、胸の前で手を握った。
上手く言おうとしなくていい。
亜衣が言ってくれた。
読んだことが、もう感想みたいなものだと。
でも、言葉にしたい。
自分の言葉で。
「最初は」
なつきはゆっくり話し始めた。
「大國くんに感想言わなきゃって思って読んでたの」
春樹は黙って聞いている。
茜も亜衣も、少し離れた場所で静かにしていた。
「でも、途中から、それだけじゃなくなった」
「うん」
「話が静かで、すごく大きなことが起きるわけじゃないのに、読み終わったあとにずっと残る感じがして」
なつきは言葉を探す。
「特に最初の話。前にも言ったけど、やっぱり一番好きだった。好きな人のことを遠くから見てるだけの女の子の話」
言った瞬間、少しだけ胸が熱くなる。
自分に重なる。
あまりにも。
でも、もう逃げなかった。
「その子、何も言わないんだけど、見てる時にいっぱい考えてるのが分かって。言えないだけで、気持ちがないわけじゃないんだなって思った」
春樹の視線が、静かにこちらへ向いている。
なつきは続けた。
「それで……読んでて、少し痛かった。でも、嫌な痛さじゃなかった」
「嫌な痛さじゃない?」
「うん。なんか、自分の中にあるものを、そっと見つけられたみたいな感じ」
上手く言えているか分からない。
でも、今のなつきにはこれが精一杯だった。
春樹はすぐには返事をしなかった。
その沈黙に、なつきは少し不安になる。
変なことを言ったかな。
重すぎたかな。
感想としておかしかったかな。
けれど、春樹はやがて小さく頷いた。
「分かる」
なつきは目を上げる。
「本当?」
「うん。俺も、その話は痛いと思った」
「大國くんも?」
「うん」
「そっか……」
同じだった。
完全に同じかは分からない。
でも、春樹も痛いと思った。
それだけで、胸が温かくなる。
「静かな話って」
春樹が言った。
「何も起きてないようで、ちゃんと何か起きてることがあるから」
なつきはその言葉を聞き逃さないようにした。
「うん」
「その話も、告白とか事件とかはないけど、主人公の中では変わってる」
「うん」
「そういうの、好き」
春樹が自分の好きなものを話している。
なつきは息を止めそうになった。
春樹は普段、自分のことを多く話さない。
好き嫌いも、あまり大きく言わない。
でも今、少しだけ教えてくれた。
静かな話が好き。
何も起きていないようで、心の中では変わっている話が好き。
それは、春樹自身にも少し重なる気がした。
「私も」
なつきは小さく言った。
「そういうの、好きかも」
「そっか」
春樹は短く返した。
でも、その声は少し柔らかかった。
亜衣が少し離れた場所で、口元を押さえている。
からかいたいのを我慢している顔だ。
茜は本棚の背表紙を見ているふりをしている。
絶対に聞いている。
なつきは少し恥ずかしくなった。
「また」
春樹が言った。
「読む?」
「え?」
「別の本」
なつきの心臓が大きく鳴った。
別の本。
また、すすめてくれるのだろうか。
「読みたい」
今度は、すぐに答えられた。
「大國くんのおすすめなら」
言ってから、また少しだけ恥ずかしくなる。
でも、春樹は変に受け取らなかった。
少し考えるように本棚の方を見る。
「じゃあ、今度は少し長めでもいい?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「読みたい気持ちはある。でも読むの遅いから」
「遅くていい」
「本当?」
「うん。本は速く読むものじゃないし」
その言葉が、なつきには優しく聞こえた。
遅くていい。
自分のペースでいい。
春樹はそう言ってくれているように思えた。
「じゃあ、お願いします」
なつきが言うと、春樹はカウンターから出ようとした。
その時。
図書室の扉が開いた。
「春樹ー、いる?」
明るい男子の声。
なつきの肩が少し揺れる。
桐谷蓮だった。
特進科の制服を着て、片手に数冊の参考書を持っている。
その後ろから、篠崎美優も入ってきた。
美優も制服姿。
手には薄いノートと文庫本を持っている。
図書室の空気に自然に溶けるような立ち方だった。
なつきの胸が、少しだけざわつく。
でも、交流会の時よりは落ち着いていた。
昨日までに何度も考えたからかもしれない。
篠崎さんは、春樹の幼馴染。
桐谷くんは、中学からの友達。
春樹の周りに昔からある人たち。
それは事実。
でも、今ここにいる自分も、春樹にすすめられた本の感想を言えた。
その事実も、ちゃんとある。
「桐谷くん、篠崎さん」
亜衣が先に声をかけた。
「あ、伊藤さん。今日担当じゃないよね?」
蓮が笑う。
「今日は付き添い」
「付き添い?」
蓮の視線がなつきへ向く。
なつきは少し緊張して、軽く頭を下げた。
「こんにちは」
「横田さんだよね。春樹と同じクラスの」
「はい」
「交流会の写真撮ってた人?」
「え?」
なつきは驚いた。
蓮はにっと笑う。
「春樹が写真見てたからさ。珍しいなと思って」
春樹がすぐに言う。
「蓮」
「いいじゃん、事実だし」
「必要ない」
「照れるな照れるな」
「照れてない」
春樹の返しに、蓮は楽しそうに笑った。
なつきは胸の奥が少し温かくなった。
春樹が、写真を見ていた。
それを桐谷くんが知っている。
つまり、春樹はあの写真を誰かの前でも見ていたということだ。
それが嬉しい。
でも、恥ずかしい。
美優がなつきへ視線を向けた。
「横田さん、写真係だったんだよね。春樹から聞いた」
「あ、はい」
また敬語になりそうになる。
けれど、同級生だ。
なつきは少しだけ言い直した。
「うん。班の記録係だったから」
美優は柔らかく微笑んだ。
「いいな。うちのクラス、写真係が途中で遊びに夢中になっちゃって、ちゃんとした写真少なかったんだ」
「そうなんだ」
「うん。陶芸体験だったんだけど、粘土まみれの写真ばっかり」
蓮が横から笑う。
「それはそれで面白いだろ」
「面白いけど、まともなのも欲しかった」
「篠崎さんのクラス、笠間行ったんだよね」
亜衣が言った。
「そう。笠間。楽しかったけど、海浜公園のバーベキューも羨ましかった」
「うちも楽しかったよ。大國が火起こし職人になってた」
亜衣が言うと、美優が目を少し丸くした。
「春樹、火起こししたの?」
「うん」
春樹が短く答える。
「珍しい」
「珍しくない」
「だって学校行事でそういうのやるイメージない」
「必要だったから」
「それ、春樹らしい」
美優が笑う。
なつきの胸が少しだけちくりとした。
春樹らしい。
その言葉を、美優は自然に言える。
春樹が何をどうすれば春樹らしいのかを、知っている。
でも、さっきほど苦しくはない。
なつきも昨日、火起こしをする春樹を見た。
そして写真に残した。
美優が知らない春樹の昨日を、自分は見たのだ。
そう思うと、ほんの少しだけ立っていられた。
蓮がカウンターに参考書を置いた。
「春樹、これ返却。あと、予約してたやつ来てる?」
「確認する」
春樹はカウンターへ戻り、端末で確認する。
図書委員としての春樹。
蓮も美優も、その姿を見慣れているようだった。
でも、なつきももう少しだけ知っている。
本をすすめてもらった。
感想を聞いてもらった。
また別の本をすすめてもらうところだった。
その事実が、なつきを支える。
「横田さんは、今日返却?」
美優が聞いた。
「うん。大國くんにすすめてもらった本」
「春樹が?」
美優が少しだけ意外そうに春樹を見る。
「珍しい」
「そう?」
春樹が端末を見ながら答える。
「春樹、自分から本すすめるの、相手選ぶじゃん」
その言葉に、なつきの心臓が跳ねた。
相手を選ぶ。
春樹が、自分にすすめてくれた。
それは、ただ図書委員だからではなかったのだろうか。
なつきは一瞬、春樹を見る。
春樹は少しだけ顔を上げた。
「読めそうだと思ったから」
短い答え。
それはなつきへ向けた説明なのか、美優への返事なのか分からなかった。
でも、胸が温かくなった。
読めそうだと思ってくれた。
なつきのことを少し考えて、選んでくれた。
そう思ってもいいだろうか。
「どうだった?」
美優がなつきに聞いた。
なつきは少しだけ迷った。
美優と感想を話す。
少し緊張する。
でも、美優の表情は純粋に興味を持っているように見えた。
「静かな話で、よかった」
「静かな話?」
「うん。大きな事件はないんだけど、気持ちが少しずつ動く感じで」
美優は少し頷いた。
「春樹が好きそう」
なつきは小さく笑った。
「うん。私も、そう思った」
それから、少しだけ勇気を出す。
「読んでみたら、私も好きだった」
美優は柔らかく笑った。
「そっか。そういう本に会えると嬉しいよね」
「うん」
短い会話だった。
でも、なつきは少しだけ驚いていた。
美優と話せた。
しかも、嫌な感じではなかった。
劣等感はある。
羨ましさもある。
でも、美優の言葉は優しかった。
美優を嫌いになるのは、やっぱり難しそうだ。
蓮が横から明るく言った。
「春樹のおすすめ本って、たまに渋いんだよな」
「渋い?」
亜衣が聞く。
「うん。前に『読みやすいのある?』って聞いたら、静かすぎる短編渡されて、俺三ページで寝た」
「蓮が寝ただけ」
春樹が言う。
「いや、あれは眠気誘導装置だった」
「違う」
「でも、春樹が好きそうなのは分かった」
蓮は笑いながら言った。
「横田さんが読めたならすごいよ。俺、今度もう一回挑戦しようかな」
「無理しなくていい」
「春樹、友達への期待が低い」
「事実」
「ひどい」
蓮の明るさに、場が和らぐ。
亜衣も楽しそうに笑っていた。
「桐谷くんって、大國くんに遠慮ないね」
「中学からだからね。遠慮は中二くらいで捨てた」
「何それ」
「春樹が無口すぎて、遠慮してたら会話が終わるんだよ」
「分かる」
亜衣が即答した。
春樹が少しだけ眉を寄せる。
「分からなくていい」
「大國、無口だけど聞いてるからね」
「そうそう」
蓮が頷く。
「聞いてないふりして聞いてる」
「聞いてるふりじゃない」
春樹が言う。
「聞いてる」
「ほら」
亜衣が笑った。
なつきもつられて笑った。
春樹の周りの人たち。
蓮。
美優。
亜衣。
紅秋はいないけれど、いつものクラスの距離。
そこに今日は、自分も少しだけ混ざっている。
完全に輪の中に入れたわけではない。
でも、外から見ているだけではない。
図書室の同じカウンターの前で、同じ会話を聞いている。
それが、不思議だった。
春樹が端末を確認し終えた。
「蓮、予約本来てる。少し待って」
「了解」
春樹は棚の奥へ向かった。
なつきは、その背中を目で追う。
すると、美優が隣で小さく言った。
「横田さん」
「はい……じゃなくて、うん」
慌てて言い直す。
美優は少し笑った。
「春樹のおすすめ、また借りるの?」
「うん。そのつもり」
「そっか」
美優は少しだけカウンターの向こうを見る。
「春樹、本の話できる人が増えると嬉しいと思う」
「そうかな」
「うん。あまり顔には出ないけど」
その言葉は、優しかった。
美優は春樹のことをよく知っている。
それは、なつきにとって少し痛い。
でも、その知識を使ってなつきを遠ざけようとしているわけではない。
むしろ、少しだけ教えてくれているように感じた。
「私、本を読むの遅いんだけど」
「いいんじゃない?」
美優は言った。
「春樹も、速く読めって言わなそう」
「言われた。遅くていいって」
「やっぱり」
美優が笑う。
その笑顔は、少しだけ羨ましいくらい自然だった。
でも、なつきはその笑顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「篠崎さんは、本読むの好き?」
「うん。好き」
「どんな本読むの?」
「いろいろ読むけど、最近は少し軽めのミステリーとかかな。重いのはテスト前に読むと引きずるから」
「分かる気がする」
「横田さんは?」
「私は、最近読み始めたところ」
「じゃあ、これから増えるね」
「うん」
会話が続いた。
美優と。
思っていたより普通に。
それが少し嬉しくて、少し複雑だった。
嫌な子だったら、楽だったかもしれない。
でも、美優は嫌な子ではない。
だから苦しい。
けれど、嫌いになれないからこそ、自分もちゃんとしていたいと思った。
春樹が棚の奥から戻ってきた。
手には、蓮の予約本と、もう一冊。
なつきへ向けて、そのもう一冊を差し出す。
「これ」
「え?」
「次、どうかなと思って」
なつきは本を受け取った。
前より少し厚い。
表紙は落ち着いた色で、タイトルは静かな響きだった。
「少し長いけど、話は読みやすいと思う」
「ありがとう」
なつきは本を両手で持った。
また、春樹が選んでくれた。
自分のために。
そう思うと、胸がいっぱいになる。
「借りる?」
「借りたい」
「分かった」
春樹が貸出処理をする。
バーコードの音。
生徒番号。
返却期限。
前と同じ流れ。
でも、前より少しだけ緊張が少ない。
それでも、嬉しさは変わらない。
「返却期限は二週間後」
「うん」
「読めなかったら、延長できる」
「頑張る」
「頑張らなくてもいい」
「でも、読みたいから頑張る」
春樹は少しだけ黙った。
それから、短く言った。
「なら、いいと思う」
その言葉が、なつきの胸に静かに残った。
蓮が横から本を受け取りながら言う。
「春樹、横田さんには優しいな」
なつきの心臓が跳ねる。
春樹は即答した。
「普通」
「出た、普通」
亜衣が笑う。
「大國くんの普通は信用できないやつ」
「みんなそれ言う」
春樹が少しだけ困ったようにする。
美優も笑った。
「春樹の普通は、人によっては優しいって言うと思うよ」
春樹は何も言わなかった。
なつきは本を抱えながら、顔が熱くなるのを感じた。
優しい。
春樹が自分に優しいかどうかは分からない。
誰にでもそうなのかもしれない。
困っている人にはそうするだけなのかもしれない。
でも、今はそれでもよかった。
自分に向けられた優しさを、ちゃんと受け取りたかった。
しばらく図書室で話した後、蓮と美優は自習室へ向かうと言って先に出ていった。
「じゃあね、横田さん、遠山さん、伊藤さん」
美優が柔らかく手を振る。
「また」
蓮も軽く手を上げる。
「またね。春樹、帰り忘れんなよ」
「忘れない」
「篠崎さんに怒られる前に出てこいよ」
「分かってる」
「分かってるは信用されてないやつ」
「うるさい」
蓮は笑いながら出ていった。
美優も少し笑って、その後に続く。
図書室の扉が静かに閉まる。
なつきはその扉を少しだけ見つめた。
今日は、胸が痛いだけではなかった。
美優と話せた。
蓮とも話した。
春樹の周りの人たちが、少しだけ輪郭を持った。
遠くから見て怖がっていた存在が、言葉を交わす相手になった。
それは、なつきにとって大きなことだった。
「なつき」
亜衣が小声で言った。
「どうだった?」
「……緊張した」
「それ以外」
「篠崎さん、優しかった」
「うん」
「桐谷くん、明るかった」
「うん」
「大國くん、また本すすめてくれた」
「そこが一番嬉しそう」
亜衣がにやっとする。
なつきは否定できなかった。
「うん」
素直に頷く。
「嬉しい」
茜が本を見た。
「今度は少し厚いわね」
「うん。でも読みたい」
「なら読めるわ」
「そうかな」
「読める」
茜ははっきり言った。
なつきは本を胸に抱えた。
春樹が選んでくれた二冊目の本。
新しい会話のきっかけ。
新しい橋。
返す本は少し寂しかったけれど、代わりに新しい本が手の中にある。
それだけで、また少し前へ進める気がした。
帰り際、なつきはカウンターの春樹を見た。
「大國くん」
「うん」
「また、読んだら感想言うね」
「うん」
春樹は静かに頷いた。
「待ってる」
待ってる。
その言葉が、前よりも少しだけ自然に胸に届いた。
なつきは本を抱きしめそうになるのをこらえて、笑った。
「うん」
図書室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。
特進棟の静けさ。
遠くから聞こえる部活の声。
どこかで吹く風の音。
なつきは本を両手で持ちながら、茜と亜衣と並んで歩いた。
胸の中にあるのは、嬉しさだけではない。
美優への小さな羨ましさ。
蓮と春樹の距離への眩しさ。
自分はまだそこには入れていないという感覚。
でも。
今日は話せた。
同じ図書室で、同じ本の話をした。
春樹がまた本を選んでくれた。
美優とも、少しだけ言葉を交わせた。
遠くに見えていた場所へ、ほんの一歩だけ近づいた。
それは確かだった。
「なつき」
茜が言う。
「今日はよく頑張ったわね」
「うん」
亜衣も笑う。
「恋の階段、一段上った感じ?」
「階段なの?」
「たぶん」
「じゃあ、まだ一段?」
「いや、今日は二段くらい」
「少ないような、多いような」
三人で小さく笑った。
なつきは、胸に抱えた本を見下ろす。
春樹が選んでくれた本。
二週間後、また返しに行く。
また感想を言う。
また、春樹と話す理由ができた。
図書室から離れても、紙の匂いがまだ少しだけ残っている気がした。
なつきはその匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、静かに思った。
好きな人の周りにいる人たちを知るのは、少し怖い。
比べてしまうから。
羨ましくなるから。
でも、知らないままでいるよりは、きっといい。
春樹の世界を、少しずつ知っていく。
その中で、自分の場所も少しずつ作っていけたら。
なつきはそう願った。
夕方の廊下を歩きながら、手の中の本が少し重く感じる。
でもそれは、嫌な重さではなかった。
新しい物語の重さ。
新しい会話の重さ。
そして、少しずつ近づいていく恋の重さだった。




