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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第17話 返す本と、近づく声



 放課後の図書室へ向かう廊下は、少しだけ空気が違う。


 スポーツ・商業棟の廊下は、放課後になると部活へ向かう生徒たちの声でいっぱいになる。


 レスリング部の田辺守が階段を駆け下りていく音。


 サッカー部の男子たちがスパイク袋を持って騒ぐ声。


 誰かが購買のパンを買い忘れたと嘆く声。


 女子たちが駅前へ寄るかどうか相談している声。


 そういう音が、校舎の中を賑やかに満たしている。


 けれど、特進棟へ向かう渡り廊下を越えると、その音は少しずつ遠くなる。


 廊下に貼られた模試の案内。


 大学説明会の掲示。


 自習室の利用時間。


 特進棟の空気は、同じ学校なのに少しだけ固い。


 横田なつきは、その廊下を歩きながら、胸の前で一冊の本を抱えていた。


 大國春樹にすすめられて借りた短編集。


 今日、それを返す。


 読み終えた。


 全部。


 時間はかかった。


 普段あまり本を読まないなつきにとって、短編集とはいえ、一冊をきちんと読むのは少しだけ大きなことだった。


 けれど、不思議と途中でやめたいとは思わなかった。


 春樹にすすめられたから。


 感想を言いたかったから。


 最初はそれが理由だった。


 でも、読み進めるうちに、本の中の静かな物語たちが、少しずつなつきの中に入ってきた。


 誰かを遠くから見る話。


 言葉にできないまま終わる気持ちの話。


 すれ違って、でも少しだけ救われる話。


 大きな事件はない。


 でも、読み終わったあとに胸の奥が静かになる。


 そんな話ばかりだった。


 なつきは本をぎゅっと抱えた。


 返すのが、少しだけ寂しい。


 図書室の本なのだから返すのは当たり前だ。


 でも、この本は春樹との会話のきっかけだった。


 なつきと春樹の間に、細い橋をかけてくれた本だった。


 返したら、その橋が少し遠くなるような気がしてしまう。


「なつき」


 隣を歩く遠山茜が、静かに声をかけた。


「また本を抱きしめてる」


「あ、ごめん」


「謝ることではないけど」


「なんか、返すの寂しくて」


「気に入ったなら、また借りればいい」


「それはそうなんだけど」


 なつきは本の表紙を見下ろした。


「でも、最初に借りたこの感じは一回だけだから」


 茜は少しだけ目を細めた。


 なつきの言葉を、笑わなかった。


 ただ、小さく頷く。


「そうね」


 その横で、伊藤亜衣が軽い足取りで歩いていた。


 亜衣は今日、図書委員の担当日ではない。


 けれど、なつきが返却へ行くと聞いて、茜と一緒についてきてくれることになった。


「なつき、今日ちゃんと感想言うんでしょ?」


「言う……つもり」


「つもりは禁止」


「みんなそれ言う」


「だってなつき、つもりって言うと五割くらい逃げるじゃん」


「五割も?」


「六割かも」


「増えた」


 亜衣は笑った。


 なつきも少し笑う。


 緊張していた胸が、少しだけほぐれた。


「でもさ」


 亜衣は少し声を柔らかくした。


「ちゃんと読んだんでしょ?」


「うん」


「じゃあ大丈夫。感想が上手いとか下手とかじゃなくて、読んだことがもう感想みたいなものじゃん」


「読んだことが感想?」


「うん。大國、そういうの分かるタイプだと思う」


 なつきは少しだけ春樹の顔を思い浮かべた。


 図書室のカウンターで、本を選んでくれた時の春樹。


 短く、でもちゃんと考えて答えてくれた。


 読み終わったら感想聞かせて。


 そう言ってくれた。


 あの時の言葉が、今も胸の中に残っている。


「……うん」


 なつきは頷いた。


「言う」


 茜が小さく言う。


「今のは、ちゃんと言えそうな声」


「ほんと?」


「うん」


「じゃあ頑張る」


「頑張りすぎなくていい」


「そこ難しい」


 なつきは苦笑した。


 図書室の扉が見えてきた。


 西棟の奥。


 放課後の静かな場所。


 一年前から、なつきが何度も春樹を見ていた場所。


 でも、今は少し違う。


 以前は、ただ見るだけだった。


 扉の外で立ち止まり、本棚の陰から春樹の姿を探していた。


 話しかける理由も勇気もなくて、何度もそのまま帰った。


 けれど今日は。


 本を返す。


 感想を言う。


 春樹に会いに行く理由がある。


 なつきは深呼吸した。


「入るよ」


 茜が言う。


「うん」


 扉を開ける。


 図書室の空気が、静かに流れてきた。


 紙の匂い。


 木の棚の匂い。


 わずかに冷えた空気。


 窓から差し込む夕方の光。


 図書室には、数人の生徒がいた。


 奥の自習机では特進の生徒が参考書を開いている。


 本棚の間を歩く女子。


 カウンターの前で返却を待つ男子。


 そして。


 カウンターの内側に、大國春樹がいた。


 図書委員の腕章をつけている。


 隣には、今日の担当らしい別の女子生徒がいたが、少し離れた場所で返却本の整理をしている。


 亜衣の担当日ではないから、カウンターにいるのは春樹と、その女子だった。


 春樹は返却された本のバーコードを読み取り、分類番号を見て、丁寧に台車へ乗せていた。


 その手つきが静かで、落ち着いている。


 図書室にいる春樹は、やっぱり似合う。


 校庭でバスケをしていた春樹も、本当の春樹。


 教室で静かにノートを取る春樹も、本当の春樹。


 そして、この図書室で本を扱う春樹も。


 なつきの胸が、静かに高鳴った。


「なつき」


 亜衣が小声で言う。


「見すぎ」


「見てない」


「見てる」


「見てた……」


 素直に認めると、亜衣は満足そうに頷いた。


「よし、行こう」


「よしって何」


「勢い」


「今、勢いなくしたい」


「だめ」


 茜がなつきの背中を軽く押した。


 なつきは一歩、カウンターへ近づく。


 春樹が顔を上げた。


「横田さん」


 名前を呼ばれる。


 それだけで、胸が少し跳ねる。


「大國くん」


 なつきは本を両手で差し出した。


「返却、お願いします」


「うん」


 春樹が本を受け取る。


 その瞬間、少しだけ手が近づく。


 触れたわけではない。


 でも、近い。


 なつきは小さく息を止めそうになった。


 春樹はいつも通り、バーコードを読み取る。


 ピッ、という音が鳴った。


「返却完了」


「ありがとう」


 本が春樹の手元から台車へ移る。


 なつきの胸の中に、小さな寂しさが落ちる。


 返した。


 終わった。


 でも。


 ここから感想を言う。


 なつきは本を見つめていた視線を、ゆっくり春樹へ戻した。


「あの」


「うん」


「本、読んだよ。全部」


 春樹が少しだけ目を開いた。


「全部?」


「うん」


「早かったね」


「私にしては、頑張った」


 言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。


 春樹は嫌な顔をしなかった。


 むしろ、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。


「どうだった?」


 聞かれた。


 感想。


 なつきは、胸の前で手を握った。


 上手く言おうとしなくていい。


 亜衣が言ってくれた。


 読んだことが、もう感想みたいなものだと。


 でも、言葉にしたい。


 自分の言葉で。


「最初は」


 なつきはゆっくり話し始めた。


「大國くんに感想言わなきゃって思って読んでたの」


 春樹は黙って聞いている。


 茜も亜衣も、少し離れた場所で静かにしていた。


「でも、途中から、それだけじゃなくなった」


「うん」


「話が静かで、すごく大きなことが起きるわけじゃないのに、読み終わったあとにずっと残る感じがして」


 なつきは言葉を探す。


「特に最初の話。前にも言ったけど、やっぱり一番好きだった。好きな人のことを遠くから見てるだけの女の子の話」


 言った瞬間、少しだけ胸が熱くなる。


 自分に重なる。


 あまりにも。


 でも、もう逃げなかった。


「その子、何も言わないんだけど、見てる時にいっぱい考えてるのが分かって。言えないだけで、気持ちがないわけじゃないんだなって思った」


 春樹の視線が、静かにこちらへ向いている。


 なつきは続けた。


「それで……読んでて、少し痛かった。でも、嫌な痛さじゃなかった」


「嫌な痛さじゃない?」


「うん。なんか、自分の中にあるものを、そっと見つけられたみたいな感じ」


 上手く言えているか分からない。


 でも、今のなつきにはこれが精一杯だった。


 春樹はすぐには返事をしなかった。


 その沈黙に、なつきは少し不安になる。


 変なことを言ったかな。


 重すぎたかな。


 感想としておかしかったかな。


 けれど、春樹はやがて小さく頷いた。


「分かる」


 なつきは目を上げる。


「本当?」


「うん。俺も、その話は痛いと思った」


「大國くんも?」


「うん」


「そっか……」


 同じだった。


 完全に同じかは分からない。


 でも、春樹も痛いと思った。


 それだけで、胸が温かくなる。


「静かな話って」


 春樹が言った。


「何も起きてないようで、ちゃんと何か起きてることがあるから」


 なつきはその言葉を聞き逃さないようにした。


「うん」


「その話も、告白とか事件とかはないけど、主人公の中では変わってる」


「うん」


「そういうの、好き」


 春樹が自分の好きなものを話している。


 なつきは息を止めそうになった。


 春樹は普段、自分のことを多く話さない。


 好き嫌いも、あまり大きく言わない。


 でも今、少しだけ教えてくれた。


 静かな話が好き。


 何も起きていないようで、心の中では変わっている話が好き。


 それは、春樹自身にも少し重なる気がした。


「私も」


 なつきは小さく言った。


「そういうの、好きかも」


「そっか」


 春樹は短く返した。


 でも、その声は少し柔らかかった。


 亜衣が少し離れた場所で、口元を押さえている。


 からかいたいのを我慢している顔だ。


 茜は本棚の背表紙を見ているふりをしている。


 絶対に聞いている。


 なつきは少し恥ずかしくなった。


「また」


 春樹が言った。


「読む?」


「え?」


「別の本」


 なつきの心臓が大きく鳴った。


 別の本。


 また、すすめてくれるのだろうか。


「読みたい」


 今度は、すぐに答えられた。


「大國くんのおすすめなら」


 言ってから、また少しだけ恥ずかしくなる。


 でも、春樹は変に受け取らなかった。


 少し考えるように本棚の方を見る。


「じゃあ、今度は少し長めでもいい?」


「うん。たぶん」


「たぶん?」


「読みたい気持ちはある。でも読むの遅いから」


「遅くていい」


「本当?」


「うん。本は速く読むものじゃないし」


 その言葉が、なつきには優しく聞こえた。


 遅くていい。


 自分のペースでいい。


 春樹はそう言ってくれているように思えた。


「じゃあ、お願いします」


 なつきが言うと、春樹はカウンターから出ようとした。


 その時。


 図書室の扉が開いた。


「春樹ー、いる?」


 明るい男子の声。


 なつきの肩が少し揺れる。


 桐谷蓮だった。


 特進科の制服を着て、片手に数冊の参考書を持っている。


 その後ろから、篠崎美優も入ってきた。


 美優も制服姿。


 手には薄いノートと文庫本を持っている。


 図書室の空気に自然に溶けるような立ち方だった。


 なつきの胸が、少しだけざわつく。


 でも、交流会の時よりは落ち着いていた。


 昨日までに何度も考えたからかもしれない。


 篠崎さんは、春樹の幼馴染。


 桐谷くんは、中学からの友達。


 春樹の周りに昔からある人たち。


 それは事実。


 でも、今ここにいる自分も、春樹にすすめられた本の感想を言えた。


 その事実も、ちゃんとある。


「桐谷くん、篠崎さん」


 亜衣が先に声をかけた。


「あ、伊藤さん。今日担当じゃないよね?」


 蓮が笑う。


「今日は付き添い」


「付き添い?」


 蓮の視線がなつきへ向く。


 なつきは少し緊張して、軽く頭を下げた。


「こんにちは」


「横田さんだよね。春樹と同じクラスの」


「はい」


「交流会の写真撮ってた人?」


「え?」


 なつきは驚いた。


 蓮はにっと笑う。


「春樹が写真見てたからさ。珍しいなと思って」


 春樹がすぐに言う。


「蓮」


「いいじゃん、事実だし」


「必要ない」


「照れるな照れるな」


「照れてない」


 春樹の返しに、蓮は楽しそうに笑った。


 なつきは胸の奥が少し温かくなった。


 春樹が、写真を見ていた。


 それを桐谷くんが知っている。


 つまり、春樹はあの写真を誰かの前でも見ていたということだ。


 それが嬉しい。


 でも、恥ずかしい。


 美優がなつきへ視線を向けた。


「横田さん、写真係だったんだよね。春樹から聞いた」


「あ、はい」


 また敬語になりそうになる。


 けれど、同級生だ。


 なつきは少しだけ言い直した。


「うん。班の記録係だったから」


 美優は柔らかく微笑んだ。


「いいな。うちのクラス、写真係が途中で遊びに夢中になっちゃって、ちゃんとした写真少なかったんだ」


「そうなんだ」


「うん。陶芸体験だったんだけど、粘土まみれの写真ばっかり」


 蓮が横から笑う。


「それはそれで面白いだろ」


「面白いけど、まともなのも欲しかった」


「篠崎さんのクラス、笠間行ったんだよね」


 亜衣が言った。


「そう。笠間。楽しかったけど、海浜公園のバーベキューも羨ましかった」


「うちも楽しかったよ。大國が火起こし職人になってた」


 亜衣が言うと、美優が目を少し丸くした。


「春樹、火起こししたの?」


「うん」


 春樹が短く答える。


「珍しい」


「珍しくない」


「だって学校行事でそういうのやるイメージない」


「必要だったから」


「それ、春樹らしい」


 美優が笑う。


 なつきの胸が少しだけちくりとした。


 春樹らしい。


 その言葉を、美優は自然に言える。


 春樹が何をどうすれば春樹らしいのかを、知っている。


 でも、さっきほど苦しくはない。


 なつきも昨日、火起こしをする春樹を見た。


 そして写真に残した。


 美優が知らない春樹の昨日を、自分は見たのだ。


 そう思うと、ほんの少しだけ立っていられた。


 蓮がカウンターに参考書を置いた。


「春樹、これ返却。あと、予約してたやつ来てる?」


「確認する」


 春樹はカウンターへ戻り、端末で確認する。


 図書委員としての春樹。


 蓮も美優も、その姿を見慣れているようだった。


 でも、なつきももう少しだけ知っている。


 本をすすめてもらった。


 感想を聞いてもらった。


 また別の本をすすめてもらうところだった。


 その事実が、なつきを支える。


「横田さんは、今日返却?」


 美優が聞いた。


「うん。大國くんにすすめてもらった本」


「春樹が?」


 美優が少しだけ意外そうに春樹を見る。


「珍しい」


「そう?」


 春樹が端末を見ながら答える。


「春樹、自分から本すすめるの、相手選ぶじゃん」


 その言葉に、なつきの心臓が跳ねた。


 相手を選ぶ。


 春樹が、自分にすすめてくれた。


 それは、ただ図書委員だからではなかったのだろうか。


 なつきは一瞬、春樹を見る。


 春樹は少しだけ顔を上げた。


「読めそうだと思ったから」


 短い答え。


 それはなつきへ向けた説明なのか、美優への返事なのか分からなかった。


 でも、胸が温かくなった。


 読めそうだと思ってくれた。


 なつきのことを少し考えて、選んでくれた。


 そう思ってもいいだろうか。


「どうだった?」


 美優がなつきに聞いた。


 なつきは少しだけ迷った。


 美優と感想を話す。


 少し緊張する。


 でも、美優の表情は純粋に興味を持っているように見えた。


「静かな話で、よかった」


「静かな話?」


「うん。大きな事件はないんだけど、気持ちが少しずつ動く感じで」


 美優は少し頷いた。


「春樹が好きそう」


 なつきは小さく笑った。


「うん。私も、そう思った」


 それから、少しだけ勇気を出す。


「読んでみたら、私も好きだった」


 美優は柔らかく笑った。


「そっか。そういう本に会えると嬉しいよね」


「うん」


 短い会話だった。


 でも、なつきは少しだけ驚いていた。


 美優と話せた。


 しかも、嫌な感じではなかった。


 劣等感はある。


 羨ましさもある。


 でも、美優の言葉は優しかった。


 美優を嫌いになるのは、やっぱり難しそうだ。


 蓮が横から明るく言った。


「春樹のおすすめ本って、たまに渋いんだよな」


「渋い?」


 亜衣が聞く。


「うん。前に『読みやすいのある?』って聞いたら、静かすぎる短編渡されて、俺三ページで寝た」


「蓮が寝ただけ」


 春樹が言う。


「いや、あれは眠気誘導装置だった」


「違う」


「でも、春樹が好きそうなのは分かった」


 蓮は笑いながら言った。


「横田さんが読めたならすごいよ。俺、今度もう一回挑戦しようかな」


「無理しなくていい」


「春樹、友達への期待が低い」


「事実」


「ひどい」


 蓮の明るさに、場が和らぐ。


 亜衣も楽しそうに笑っていた。


「桐谷くんって、大國くんに遠慮ないね」


「中学からだからね。遠慮は中二くらいで捨てた」


「何それ」


「春樹が無口すぎて、遠慮してたら会話が終わるんだよ」


「分かる」


 亜衣が即答した。


 春樹が少しだけ眉を寄せる。


「分からなくていい」


「大國、無口だけど聞いてるからね」


「そうそう」


 蓮が頷く。


「聞いてないふりして聞いてる」


「聞いてるふりじゃない」


 春樹が言う。


「聞いてる」


「ほら」


 亜衣が笑った。


 なつきもつられて笑った。


 春樹の周りの人たち。


 蓮。


 美優。


 亜衣。


 紅秋はいないけれど、いつものクラスの距離。


 そこに今日は、自分も少しだけ混ざっている。


 完全に輪の中に入れたわけではない。


 でも、外から見ているだけではない。


 図書室の同じカウンターの前で、同じ会話を聞いている。


 それが、不思議だった。


 春樹が端末を確認し終えた。


「蓮、予約本来てる。少し待って」


「了解」


 春樹は棚の奥へ向かった。


 なつきは、その背中を目で追う。


 すると、美優が隣で小さく言った。


「横田さん」


「はい……じゃなくて、うん」


 慌てて言い直す。


 美優は少し笑った。


「春樹のおすすめ、また借りるの?」


「うん。そのつもり」


「そっか」


 美優は少しだけカウンターの向こうを見る。


「春樹、本の話できる人が増えると嬉しいと思う」


「そうかな」


「うん。あまり顔には出ないけど」


 その言葉は、優しかった。


 美優は春樹のことをよく知っている。


 それは、なつきにとって少し痛い。


 でも、その知識を使ってなつきを遠ざけようとしているわけではない。


 むしろ、少しだけ教えてくれているように感じた。


「私、本を読むの遅いんだけど」


「いいんじゃない?」


 美優は言った。


「春樹も、速く読めって言わなそう」


「言われた。遅くていいって」


「やっぱり」


 美優が笑う。


 その笑顔は、少しだけ羨ましいくらい自然だった。


 でも、なつきはその笑顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。


「篠崎さんは、本読むの好き?」


「うん。好き」


「どんな本読むの?」


「いろいろ読むけど、最近は少し軽めのミステリーとかかな。重いのはテスト前に読むと引きずるから」


「分かる気がする」


「横田さんは?」


「私は、最近読み始めたところ」


「じゃあ、これから増えるね」


「うん」


 会話が続いた。


 美優と。


 思っていたより普通に。


 それが少し嬉しくて、少し複雑だった。


 嫌な子だったら、楽だったかもしれない。


 でも、美優は嫌な子ではない。


 だから苦しい。


 けれど、嫌いになれないからこそ、自分もちゃんとしていたいと思った。


 春樹が棚の奥から戻ってきた。


 手には、蓮の予約本と、もう一冊。


 なつきへ向けて、そのもう一冊を差し出す。


「これ」


「え?」


「次、どうかなと思って」


 なつきは本を受け取った。


 前より少し厚い。


 表紙は落ち着いた色で、タイトルは静かな響きだった。


「少し長いけど、話は読みやすいと思う」


「ありがとう」


 なつきは本を両手で持った。


 また、春樹が選んでくれた。


 自分のために。


 そう思うと、胸がいっぱいになる。


「借りる?」


「借りたい」


「分かった」


 春樹が貸出処理をする。


 バーコードの音。


 生徒番号。


 返却期限。


 前と同じ流れ。


 でも、前より少しだけ緊張が少ない。


 それでも、嬉しさは変わらない。


「返却期限は二週間後」


「うん」


「読めなかったら、延長できる」


「頑張る」


「頑張らなくてもいい」


「でも、読みたいから頑張る」


 春樹は少しだけ黙った。


 それから、短く言った。


「なら、いいと思う」


 その言葉が、なつきの胸に静かに残った。


 蓮が横から本を受け取りながら言う。


「春樹、横田さんには優しいな」


 なつきの心臓が跳ねる。


 春樹は即答した。


「普通」


「出た、普通」


 亜衣が笑う。


「大國くんの普通は信用できないやつ」


「みんなそれ言う」


 春樹が少しだけ困ったようにする。


 美優も笑った。


「春樹の普通は、人によっては優しいって言うと思うよ」


 春樹は何も言わなかった。


 なつきは本を抱えながら、顔が熱くなるのを感じた。


 優しい。


 春樹が自分に優しいかどうかは分からない。


 誰にでもそうなのかもしれない。


 困っている人にはそうするだけなのかもしれない。


 でも、今はそれでもよかった。


 自分に向けられた優しさを、ちゃんと受け取りたかった。


 しばらく図書室で話した後、蓮と美優は自習室へ向かうと言って先に出ていった。


「じゃあね、横田さん、遠山さん、伊藤さん」


 美優が柔らかく手を振る。


「また」


 蓮も軽く手を上げる。


「またね。春樹、帰り忘れんなよ」


「忘れない」


「篠崎さんに怒られる前に出てこいよ」


「分かってる」


「分かってるは信用されてないやつ」


「うるさい」


 蓮は笑いながら出ていった。


 美優も少し笑って、その後に続く。


 図書室の扉が静かに閉まる。


 なつきはその扉を少しだけ見つめた。


 今日は、胸が痛いだけではなかった。


 美優と話せた。


 蓮とも話した。


 春樹の周りの人たちが、少しだけ輪郭を持った。


 遠くから見て怖がっていた存在が、言葉を交わす相手になった。


 それは、なつきにとって大きなことだった。


「なつき」


 亜衣が小声で言った。


「どうだった?」


「……緊張した」


「それ以外」


「篠崎さん、優しかった」


「うん」


「桐谷くん、明るかった」


「うん」


「大國くん、また本すすめてくれた」


「そこが一番嬉しそう」


 亜衣がにやっとする。


 なつきは否定できなかった。


「うん」


 素直に頷く。


「嬉しい」


 茜が本を見た。


「今度は少し厚いわね」


「うん。でも読みたい」


「なら読めるわ」


「そうかな」


「読める」


 茜ははっきり言った。


 なつきは本を胸に抱えた。


 春樹が選んでくれた二冊目の本。


 新しい会話のきっかけ。


 新しい橋。


 返す本は少し寂しかったけれど、代わりに新しい本が手の中にある。


 それだけで、また少し前へ進める気がした。


 帰り際、なつきはカウンターの春樹を見た。


「大國くん」


「うん」


「また、読んだら感想言うね」


「うん」


 春樹は静かに頷いた。


「待ってる」


 待ってる。


 その言葉が、前よりも少しだけ自然に胸に届いた。


 なつきは本を抱きしめそうになるのをこらえて、笑った。


「うん」


 図書室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。


 特進棟の静けさ。


 遠くから聞こえる部活の声。


 どこかで吹く風の音。


 なつきは本を両手で持ちながら、茜と亜衣と並んで歩いた。


 胸の中にあるのは、嬉しさだけではない。


 美優への小さな羨ましさ。


 蓮と春樹の距離への眩しさ。


 自分はまだそこには入れていないという感覚。


 でも。


 今日は話せた。


 同じ図書室で、同じ本の話をした。


 春樹がまた本を選んでくれた。


 美優とも、少しだけ言葉を交わせた。


 遠くに見えていた場所へ、ほんの一歩だけ近づいた。


 それは確かだった。


「なつき」


 茜が言う。


「今日はよく頑張ったわね」


「うん」


 亜衣も笑う。


「恋の階段、一段上った感じ?」


「階段なの?」


「たぶん」


「じゃあ、まだ一段?」


「いや、今日は二段くらい」


「少ないような、多いような」


 三人で小さく笑った。


 なつきは、胸に抱えた本を見下ろす。


 春樹が選んでくれた本。


 二週間後、また返しに行く。


 また感想を言う。


 また、春樹と話す理由ができた。


 図書室から離れても、紙の匂いがまだ少しだけ残っている気がした。


 なつきはその匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、静かに思った。


 好きな人の周りにいる人たちを知るのは、少し怖い。


 比べてしまうから。


 羨ましくなるから。


 でも、知らないままでいるよりは、きっといい。


 春樹の世界を、少しずつ知っていく。


 その中で、自分の場所も少しずつ作っていけたら。


 なつきはそう願った。


 夕方の廊下を歩きながら、手の中の本が少し重く感じる。


 でもそれは、嫌な重さではなかった。


 新しい物語の重さ。


 新しい会話の重さ。


 そして、少しずつ近づいていく恋の重さだった。

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