表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/121

第16話 知らない昼休み


 交流会の余韻は、思ったより長く教室に残っていた。


 ひたちなか海浜公園でのバーベキュー。


 午後の自由行動。


 観覧車の写真。


 帰りのバスの眠気。


 そして、学校に戻ってからの少しだけ苦い記憶。


 あの日から数日が過ぎても、二年十一組ではまだ、ふとした瞬間に交流会の話題が出る。


「田辺、あの焼きそば焦がした写真まだある?」


「消せよ、あんなの」


「いや、あれは残すべき」


「島中の肉持ってドヤ顔してるやつもあるよ」


「それは盛れてるから残していい」


「自分で言うな」


 朝の教室でも、昼休みでも、放課後でも。


 誰かがスマホを出せば、すぐに写真の話になる。


 そのたびに、なつきの胸も少しだけ反応した。


 自分のスマホにも、まだたくさん残っている。


 火起こしをする春樹。


 焼きそばを取り分ける春樹。


 観覧車の中で静かに外を見る春樹。


 そして、班写真の中で、なつきの隣に立つ春樹。


 何度も見返した。


 見返しすぎて、自分でも少し恥ずかしい。


 けれど、消すなんて考えられなかった。


 その写真たちは、なつきにとって、交流会がただのクラス行事ではなかった証拠だった。


 ただ。


 交流会が終わってからの学校生活は、楽しい余韻だけではなかった。


 島中良の言葉。


 田辺守の無自覚な一言。


 篠崎美優の存在。


 春樹の帰り道に自然に入っていく、幼馴染の距離。


 それらは、なつきの胸の奥にまだ小さく残っている。


 痛みとして。


 不安として。


 でも同時に。


 春樹が言ってくれた言葉も残っていた。


『横田さんに振る必要はない』


『嫌なら、嫌って言っていいと思う』


 それは、なつきの中で何度も繰り返されている。


 優しさだったのか。


 ただの正しさだったのか。


 春樹にとっては、困っている人を助けただけなのかもしれない。


 でも、なつきには十分だった。


 自分の気持ちを、少しだけ守ってもらえた気がした。


 そして、自分でも守っていいのだと思えた。


 その日。


 水曜日の昼休み。


 二年十一組の教室は、いつも通りの賑やかさに包まれていた。


 午前中の授業が終わり、昼食の時間になると、机をくっつける音や、弁当箱を開ける音、購買のパンを袋から出す音が一斉に広がる。


 窓の外はよく晴れていた。


 春の光が校庭に落ちて、砂の色を明るくしている。


 スポーツ・商業棟の三階にある十一組の教室からは、校庭の一部と体育館の横、そして外のバスケットゴールがよく見えた。


 梅桜高校には校舎とは別に体育館があり、その近くに昼休みだけ使える簡易のバスケットゴールが置かれている。


 部活の練習ほど本格的ではない。


 けれど、運動好きな男子たちが昼休みに軽くボールを回すには十分だった。


 なつきは、遠山茜と伊藤亜衣と机を寄せて昼食を取っていた。


 茜はいつも通り、きちんと弁当箱を広げている。


 亜衣は購買で買ったパンと、小さなパックジュース。


 なつきは家から持ってきたおにぎりと、卵焼きの入った小さな弁当だった。


「今日の数学、去年より難しくなってない?」


 亜衣がパンをかじりながら言った。


「二年生だからね」


 茜が答える。


「それは分かってるけどさぁ。先生、去年より容赦ない」


「去年は基礎が多かったから」


「茜、そういう冷静な分析いらない」


「必要でしょ」


「今ほしいのは共感」


「大変だったわね」


「急に雑」


 なつきは笑ってしまった。


「でも、私も今日ちょっと分からなかったかも」


「なつきも?」


「うん。途中の式で置いていかれた」


「仲間!」


 亜衣が嬉しそうに手を伸ばす。


 なつきは小さく笑って、その手に軽く触れた。


 茜は呆れた顔をしながらも、少しだけ口元を緩めている。


「二人とも、あとでノート見直しなさい」


「茜ちゃん先生」


「委員長だから」


「委員長って何でもできるんだね」


「何でもはできない」


 茜の返しに、亜衣が笑う。


 こういう時間が、なつきは好きだった。


 最近、三人でいる時間が自然になってきた。


 一年生の頃から同じクラスだった。


 商業科は一クラスしかないから、顔ぶれは変わらない。


 去年も同じ教室で、同じ授業を受けて、同じ行事を過ごしてきた。


 でも、同じクラスだからといって、全員と深く話すわけではない。


 一年の頃のなつきは、茜とはよく一緒にいたけれど、亜衣とは今ほど近くなかった。


 亜衣は明るくて、どのグループにも自然に入れる子だった。


 なつきにとっては、少し眩しい存在でもあった。


 それが今は、同じ机でパンを食べながら、春樹の話をからかわれるくらいには近くなっている。


 それも、交流会がくれた変化の一つだった。


「そういえばさ」


 亜衣が何かを思い出したように窓の外を見た。


「昼休み、外でバスケやってるっぽくない?」


「また?」


 茜が弁当箱の蓋を少しずらしながら言う。


「去年もこの時期、よく男子がやってたわね」


「そうそう。去年、三浦が変な転び方して先生に怒られてたやつ」


「あった」


 茜が即答した。


 なつきも思い出す。


 去年の昼休み。


 校庭で男子たちがバスケをしていて、三浦圭が派手に滑って転んだ。


 怪我はしなかったけれど、その後、調子に乗りすぎるなと先生に注意されていた。


 三浦は笑いながら「地面と友達になっただけです」と言って、さらに怒られていた。


 その場面は、クラス中でしばらく話題になった。


「三浦くん、あの時もすごかったよね」


 なつきが言うと、亜衣が笑った。


「三浦は基本、体が先に動くからね。あと口も先に動く」


「去年の文化祭でも、急に踊ってたわよね」


 茜が言った。


「あー、廊下でブレイクダンスしてたやつ!」


「先生に止められてた」


「でも上手かった」


 なつきも頷いた。


 三浦圭。


 同じ二年十一組。


 明るくて、おしゃべりで、クラスの空気を軽くできる男子。


 島中ほど中心を支配する感じではない。


 田辺ほど距離感が雑でもない。


 どちらかといえば、誰の輪にも入れて、誰かが困っているとふざけながら空気を変えるようなタイプだった。


 特技はブレイクダンス。


 去年の文化祭準備中、廊下で軽く披露していた時は、普通科の生徒まで見に来ていた。


 なつきは三浦と深く話したことは少ない。


 でも、同じクラスとして一年以上見てきたから、どんな人かは何となく分かっていた。


 明るい。


 うるさい。


 でも、空気は読める。


 嫌がられると、すぐ引く。


 そういう男子だった。


 亜衣が窓際へ身を乗り出す。


「あ、やっぱり三浦いる」


「本当?」


 なつきもつられて窓の外を見た。


 校庭のバスケットゴール付近に、男子が数人集まっている。


 ボールをついているのは三浦圭だった。


 茶色がかった短髪が、陽射しに少し明るく見える。


 制服のシャツの袖を軽くまくり、ネクタイを緩めている。


 昼休みの遊びに全力を出す気満々の姿だった。


 その近くに、板倉紅秋がいた。


 紅秋は上着を脱いで、シャツ姿で立っている。


 いつもより少しだけ動きやすそうにしていて、三浦に何か言われて軽く笑っていた。


 そして。


 その少し後ろに。


 大國春樹がいた。


 なつきの心臓が、すぐに反応した。


「……大國くん」


 声が小さく漏れる。


 亜衣が隣でにやりとする。


「いたね」


「見つけるの早い」


 茜が言う。


「今のは自然に視界に入っただけ」


「自然に大國くんだけ見つけたのね」


「茜ちゃん」


 なつきは頬を赤くした。


 けれど、視線は窓の外から離れない。


 春樹も上着を脱いでいた。


 白いシャツに、少し緩めたネクタイ。


 袖は軽くまくられている。


 交流会の私服とも、教室で本を読んでいる時とも違う。


 けれど、完全に初めて見る姿ではなかった。


 去年の体育や球技大会でも、春樹が運動できることは何となく知っていた。


 ただ、あの頃のなつきは、遠くから見ていただけだった。


 今年になって、春樹の動き一つ一つが、前より鮮明に見えるようになった。


 好きになってしまったから。


 春樹の姿だけ、周りより少し濃く見える。


 校庭には、特進棟の方から来た男子もいた。


 桐谷蓮。


 春樹の中学からの友達。


 蓮は一年生の時から、時々スポーツ・商業棟の近くにも顔を出していた。


 なつきも存在は知っている。


 商業科の生徒たちの間でも、「大國くんの特進の友達」として知られていた。


 明るくて人懐っこく、春樹に遠慮なく絡める男子。


 その蓮が、校庭で三浦と何やら話している。


「桐谷くんもいるね」


 茜が言った。


「大國くんと中学から一緒の人だよね」


 なつきは頷く。


「うん」


「特進でも目立つ方らしいよ」


 亜衣が言った。


「たまに駅で見るけど、ずっと誰かと喋ってる」


「亜衣ちゃん、電車組とも顔広いよね」


「たまたまだって。雨の日とか水戸線乗ることあるし」


 水戸線。


 その言葉に、なつきの胸が少しだけ反応する。


 春樹たちの帰り道。


 なつきの知らない帰り道。


 でも、今日はその痛みよりも、校庭の方が気になった。


 三浦がボールを片手に持ち、春樹へ向かって何か叫んだ。


 窓を少し開けていたせいで、声が少しだけ届く。


「大國ー! 去年の球技大会の借り、今日返すからな!」


 教室の窓際にいた何人かが反応した。


「三浦、また言ってる」


「去年も負けてたよね」


「大國くん、運動できるからな」


 なつきの胸が少しだけ弾む。


 去年の球技大会。


 春樹は目立つように騒いではいなかった。


 でも、バスケの時に無駄のない動きでパスを通して、何度か点を決めていた。


 なつきはその時も見ていた。


 見ていたけれど、今ほど胸を鳴らしてはいなかったかもしれない。


 いや。


 あの頃から、もう見ていた。


 ただ、それを恋だとはっきり認めていなかっただけだ。


 春樹が三浦に何か返した。


 声は小さい。


 でも、三浦の反応でだいたい分かる。


「覚えてないって言うな! 俺は覚えてんの!」


 校庭で笑いが起きる。


 蓮が三浦の肩を叩いている。


「三浦くん、ほんと賑やか」


 なつきが言うと、亜衣が笑った。


「三浦はああ見えて空気読むからね。島中とはまた違う」


「それは分かる」


 茜が静かに頷く。


「三浦くんは、相手が嫌がったら引く」


「そこ大事だよね」


 亜衣の声が少しだけ真面目になる。


 なつきも分かった。


 最近、島中の絡み方が少し重くなっている。


 明るさで押し切る。


 なつきが困っても、軽い冗談で流そうとする。


 それに比べると、三浦の賑やかさは違う。


 うるさいけれど、圧はない。


 そういう違いを、なつきは最近ようやく分かるようになってきた。


 校庭では、男子たちがチームを分け始めていた。


 春樹、紅秋、蓮、三浦。


 それに、特進の男子が二人ほど。


 商業科の男子も一人混ざっている。


 昼休みの短い時間だから、きっちりした試合ではない。


 ただボールを回して、軽く点を取り合うだけ。


 それでも、周りには何人か見物する生徒が集まり始めていた。


 特進棟の方から、篠崎美優も歩いてきた。


 なつきは、すぐに気づいた。


 篠崎さん。


 春樹の幼馴染。


 特進二組。


 制服姿の美優は、交流会の日の私服ほど柔らかい印象ではない。


 けれど、やっぱり整っている。


 髪をきちんとまとめ、手には飲み物を持っている。


 美優はプレイヤーとして混ざるのではなく、校庭の端、日陰に近い場所で立ち止まった。


 そこから春樹たちを見ている。


 誰かと一緒に来ているわけではなさそうだった。


 ただ、春樹たちを見に来た。


 そんな自然さがあった。


 なつきの胸が、少しだけざわつく。


 でも、交流会の帰りほど強い痛みではなかった。


 あの時は、春樹の隣を持っていかれたような気がした。


 今日は違う。


 昼休みの校庭。


 バスケ。


 声援。


 美優は春樹のそばに立っているわけではない。


 少し離れて、見ている。


 それでも、距離は近い。


 春樹の昼休みを、当たり前のように見に来られる距離。


 それが少し羨ましかった。


「篠崎さんも来たね」


 茜が言った。


 なつきは頷く。


「うん」


「大丈夫?」


 茜の声は小さい。


 なつきは少し考えてから答えた。


「昨日よりは」


「そう」


「でも、ちょっとだけ胸がざわざわする」


「それは自然だと思う」


 茜は窓の外を見たまま言った。


「ただ、今日は篠崎さんが何かを奪いに来たわけではないわ」


「うん」


「昼休みに声をかけてるだけ」


「分かってる」


 分かっている。


 だからこそ、今日はちゃんと見ていられる。


 羨ましさはある。


 でも、美優を悪者にしたくはない。


 なつきはそう思った。


 校庭でゲームが始まる。


 最初にボールを持ったのは蓮だった。


 蓮は軽いドリブルから三浦へパスを出す。


 三浦は受け取るなり、大げさに身体を揺らした。


「見ろよ、俺の華麗なステップ!」


 次の瞬間、紅秋が横から軽くボールを弾いた。


「華麗だった?」


 紅秋の声が窓まで少し届いた。


 三浦が叫ぶ。


「板倉! そういう冷静なカットやめろ!」


 周囲が笑う。


 紅秋はさらっと春樹へパスを出した。


 春樹がボールを受け取る。


 ドリブル。


 速すぎない。


 でも、無駄がない。


 蓮が前に出る。


「春樹、今日は手加減なしな!」


「昼休みに全力出す意味」


「ある!」


「また?」


「俺が勝ちたい!」


「それ、さっき三浦も言ってた」


「俺たちは同じ志を持っている!」


「迷惑」


 春樹がそう言って、軽くパスを出した。


 紅秋が受け取り、すぐに春樹へ戻す。


 その間に、春樹は空いた位置へ動いている。


 ボールが戻る。


 シュート。


 リングに触れずに入った。


 校庭に小さな歓声が上がる。


 窓際で見ていた女子たちも少し反応した。


「大國くん、やっぱ運動できるよね」


「去年の球技大会も地味にすごかった」


「地味にっていうか、普通に上手い」


 なつきは、そんな声を聞きながら春樹を見ていた。


 去年も知っていた。


 春樹が運動できることは。


 でも、今見える春樹は、去年とは違う。


 自分の心が変わったから。


 同じ動きでも、前より細かく見えてしまう。


 ボールを受ける指先。


 シュート後にすぐ戻る足。


 蓮に何か言われて、少しだけ目を細める表情。


 クラスではあまり見ない笑い方。


 それら全部が、なつきの胸に残っていく。


「なつき、箸止まってる」


 亜衣が言った。


「あ」


 なつきは弁当を見る。


 卵焼きを持ったまま、ずっと止まっていた。


「食べな。午後眠くなるよ」


「うん」


 口に入れる。


 でも、視線は窓の外へ戻ってしまう。


 亜衣は呆れたように笑った。


「重症」


「亜衣ちゃん、それ最近よく言う」


「だって重症なんだもん」


 茜も少しだけ笑う。


「今日は否定しないのね」


「……できない」


 なつきは小さく答えた。


 校庭では三浦がボールを持っていた。


 今度こそ春樹を抜こうとしている。


「大國! 去年の俺とは違うぞ!」


「去年も同じこと言ってた」


「覚えてるじゃん!」


「そこだけ」


「なんでそこだけ!」


 三浦が叫びながらドリブルする。


 春樹は少し下がる。


 無理に奪いにいかない。


 三浦がフェイントを入れる。


 春樹の足が半歩動く。


 進路が塞がる。


 三浦が止まる。


「あ、詰んだ」


 蓮が横で笑う。


「三浦、パス!」


「分かってる!」


 三浦が紅秋の方へパスを出そうとした瞬間、春樹が手を伸ばしてコースをずらす。


 ボールがこぼれる。


 紅秋が拾う。


「華麗なステップは?」


 紅秋が静かに聞く。


 三浦が膝に手をついて叫んだ。


「心の中で踊ってた!」


「見えなかった」


「見せたら勝てる!」


「じゃあ次見せて」


「バスケ中にブレイクダンスは無理!」


 校庭が笑いに包まれる。


 教室の窓際でも笑いが起きた。


「三浦くん、ほんと面白い」


 なつきも笑ってしまう。


「でも、ちゃんと空気作ってるよね」


 亜衣が言った。


「みんな楽しそう」


「うん」


 なつきは頷いた。


 三浦がいることで、春樹や紅秋の空気も少し違って見える。


 蓮の明るさとも違う。


 三浦はクラスの中にいる明るさ。


 蓮は春樹の中学時代から続いている明るさ。


 そこに紅秋の冷静さが混ざり、春樹の静けさがある。


 バランスが良かった。


 楽しそうだった。


 美優が校庭の端から声をかける。


「大國くん、昼休み終わる前に戻ってねー」


 美優は学校では、周りに合わせて春樹を苗字で呼ぶことが多い。


 昨日の帰り道では自然に名前で呼んでいた。


 でも、校庭で他の生徒もいる場では「大國くん」だった。


 その使い分けが、また少し大人っぽく見える。


 春樹が答える。


「分かってる」


「本当に?」


「分かってる」


「去年もそう言って、午後の授業ぎりぎりだったよね」


 蓮が横から笑う。


「あったあった。春樹、昼休み終わり五秒前に教室滑り込んだやつ」


 春樹は少しだけ眉を寄せた。


「間に合った」


「ギリギリだったけどな」


 三浦がすかさず手を上げる。


「それ俺も見た! 去年、廊下で先生に『大國が走ってるの初めて見た』って言われてたやつ!」


「やめて」


 春樹が短く言う。


 その言い方に、また笑いが起きる。


 なつきも笑った。


 去年のこと。


 自分も何となく覚えている。


 昼休み明け、春樹が珍しく少し急いで教室に入ってきた日があった。


 あの時、教室の何人かが「大國くんが走ってる」と小さく騒いでいた。


 なつきも見ていた。


 ただ、その時は今ほど意味を持っていなかった。


 今になって、その記憶がつながる。


 春樹は去年から春樹だった。


 静かで。


 でも、こういうふうに友達にからかわれることもあって。


 なつきはそれを知らなかったわけではない。


 ただ、見落としていただけ。


 今は、好きだから拾ってしまう。


 一つずつ。


 細かく。


 大事に。


 校庭のゲームは、さらに賑やかになった。


 三浦が本当にブレイクダンスのような動きを少し入れて、すぐに蓮から「バスケしろ」と突っ込まれる。


 紅秋が笑いながらもボールを奪う。


 春樹が静かにパスを通す。


 蓮が「春樹、そこ通すのずるい」と笑う。


 特進の男子たちも楽しそうに混ざっている。


 美優は日陰から時々声をかけるだけ。


 その声は明るくて、邪魔をしない。


 応援というより、見守りに近かった。


 なつきはその美優の立ち位置を見て、胸の奥で少しだけ思う。


 羨ましい。


 でも、嫌ではない。


 美優は春樹の時間を奪っているわけではない。


 春樹の周りにある、昔から続く空気の一部なのだと思った。


 それは強い。


 なつきにはないもの。


 でも、なつきがこれから作るものも、きっとある。


 そう思いたかった。


「横田」


 不意に、近くの女子が声をかけてきた。


 同じクラスの女子だった。


「大國くんたち、楽しそうだね」


「うん」


「三浦くんがいると、何か笑えるよね」


「分かる」


 なつきは自然に答えた。


 その女子は窓の外を見ながら言う。


「去年から思ってたけど、大國くんって静かなだけで、別にノリ悪いわけじゃないんだよね」


 なつきは少しだけ驚いた。


 他の人も、そう見ていたのか。


「うん」


 なつきは小さく頷く。


「そうだと思う」


 静かなだけ。


 ノリが悪いわけじゃない。


 春樹は自分から前には出ない。


 でも、誰かと一緒にいる時に拒むわけではない。


 楽しむ時は楽しむ。


 ただ、それを大きく見せないだけ。


 そのことを、今日は改めて見た気がした。


 チャイムが鳴った。


 昼休み終了五分前を知らせる予鈴。


 校庭にいた生徒たちが一斉に反応する。


「あ、やば」


「戻るぞ」


「汗拭け汗」


 三浦が一番大きな声で叫んだ。


「よし! 今日は引き分けってことで!」


 蓮が即座に返す。


「負けてただろ」


「心は勝ってた!」


 紅秋がボールを拾いながら言う。


「得点は?」


「聞くな!」


 春樹が静かに言った。


「戻る」


「大國くん正論!」


 三浦が叫びながらも、ちゃんとボールを片付けに行く。


 美優が少し離れた場所から言った。


「大國くん、タオルある?」


「ある」


「飲み物は?」


「ある」


「ならよし」


 そのやり取りに、蓮が笑う。


「篠崎、春樹の管理係みたいになってる」


「去年も戻るの遅かったからでしょ」


「信用ないな、春樹」


「間に合ってる」


「ぎりぎりは信用じゃない」


 美優の言葉に、三浦が拍手した。


「篠崎さん、正論強い!」


「三浦くんも早く戻って」


「俺まで管理された!」


 校庭がまた笑いに包まれる。


 春樹は少しだけ困ったような顔をした。


 なつきはその表情を見て、胸がくすぐったくなった。


 クラスではあまり見ない顔。


 でも、去年からきっとあった顔。


 自分が今まで見逃していただけの顔。


 それを今日、少しだけ拾えた。


 男子たちが校舎へ戻ってくる。


 春樹と紅秋は、特進の蓮たちと別れてスポーツ・商業棟へ向かった。


 美優は特進棟の方へ戻る。


 その別れ方も自然だった。


 また後で、というほどでもない。


 でも、また会うのが当たり前の距離。


 なつきは窓の外からその様子を見ていた。


 胸は少し痛い。


 でも、交流会の時ほど沈まない。


 今日見た春樹は、楽しそうだった。


 それが嬉しかった。


 自分の知らない輪の中で笑っていることが寂しくないわけではない。


 でも、その輪を見られたことが嬉しかった。


 矛盾している。


 けれど、その矛盾ごと、今の自分なのだと思った。


「なつき」


 亜衣が声をかけた。


「どうだった?」


「どうって?」


「大國くんの昼休み」


 なつきは少しだけ考えた。


 箸を置いて、窓の外を見る。


 もう校庭には誰もいない。


 ボールも片付けられている。


 さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、昼休みの終わりの空気が広がっていた。


「……クラスではあまり見ない顔だった」


 なつきは言った。


「でも、たぶん去年からあったんだよね」


 茜が静かに頷く。


「そうね」


「私が見てなかっただけかも」


「今は見える?」


「うん」


 なつきは小さく笑った。


「見えすぎて困るくらい」


 亜衣がにやっとした。


「それ、好きってことじゃん」


「……うん」


 今度は否定しなかった。


 亜衣が少しだけ驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑う。


「おお。なつきが素直」


「今日はもう隠せない気がした」


「重症だね」


「それも否定できない」


 茜が少しだけ笑った。


 予鈴が鳴ったことで、教室の生徒たちが少しずつ席へ戻り始める。


 なつきも机を元の位置へ戻し、弁当箱を片付けた。


 数分後、春樹と紅秋が教室へ戻ってきた。


 春樹は少しだけ汗をかいていた。


 でも、息は乱れていない。


 タオルで軽く首元を拭きながら、自分の席へ向かう。


 その姿に、なつきはまた少しだけ視線を奪われる。


 春樹が席へ座る直前、三浦も教室に戻ってきた。


「いやー、今日の俺、惜しかった!」


 大きな声。


 クラスの何人かが笑う。


「三浦、また負けたの?」


「負けてない! 心は勝った!」


「それ負けてるやつじゃん」


「違う! 芸術点は俺!」


 そう言いながら、三浦はなつきたちの近くを通った。


 そこで、ふと足を止める。


「お、横田たち見てた?」


「見てたよ」


 亜衣が答える。


「どうだった? 俺の華麗なステップ」


「途中でボール取られてた」


 茜が正直に言った。


 三浦は胸を押さえる。


「遠山さん、正確すぎる刃物!」


「事実だから」


「事実って痛い!」


 なつきは思わず笑った。


 三浦はその笑いに気づき、少し安心したように笑う。


「横田は? 見てた?」


「うん。見てた」


「俺、かっこよかった?」


 冗談っぽく言う。


 嫌な圧はない。


 なつきは少し考えてから答えた。


「面白かった」


「かっこいいじゃなくて?」


「面白かった」


「くっ……でも褒め言葉として受け取る!」


 亜衣が笑う。


「三浦は空気作るの上手いよね」


「お、伊藤さん分かってる。俺、場の潤滑油だから」


「自分で言うと急に胡散臭い」


「ひどい!」


 三浦は大げさに泣く真似をした後、ふっと少しだけ声を落とした。


「まあでも、昼休みくらい楽しくないとな」


 その言い方は、さっきまでより少しだけ普通だった。


「大國も板倉も、放っとくと静かすぎるし」


「大國くん、楽しそうだったね」


 なつきは思わず言った。


 言ってから、少しだけ焦る。


 でも、三浦はからかわなかった。


 ただ、春樹の方をちらっと見て、にっと笑った。


「大國はあれで結構楽しんでるよ。去年からそう。顔に出にくいけど、ちゃんとノってくる」


「そうなんだ」


「球技大会の時もそうだったじゃん。最初『別に』みたいな顔して、最後めっちゃいいパス出すし」


 なつきは頷いた。


「覚えてる」


「お、横田も見てたんだ」


「うん」


 言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。


 でも、三浦はそこを深掘りしなかった。


 気づいたかもしれない。


 でも、言わない。


 その空気の読み方が、島中とも田辺とも違った。


 三浦は軽く手を振る。


「んじゃ、午後も生き残ろうぜ。数学あったら死んでたけど、次は現代文だしまだいける」


「現代文も寝ないでね」


 茜が言う。


「努力します!」


「努力じゃなくて起きる」


「遠山さん、先生より厳しい」


 三浦は笑いながら自分の席へ戻っていった。


 なつきはその背中を見て、少しだけ思った。


 三浦くんは、ちゃんと見ている人だ。


 明るくて、ふざけていて、うるさい。


 でも、踏み込みすぎない。


 それが分かると、少し安心できた。


 午後の授業が始まる。


 春樹は斜め後ろの席で、何事もなかったように教科書を開いていた。


 昼休みの校庭で笑っていた春樹と、教室で静かに座る春樹。


 どちらも同じ春樹。


 なつきはそれを、少し不思議な気持ちで受け止めた。


 去年から同じクラスだった。


 同じ教室にいた。


 でも、まだ知らない角度がある。


 それは、春樹が遠すぎるからではなく。


 自分が少しずつ近づいているから、見えるものが増えているのかもしれない。


 授業中、なつきはノートに視線を落としながら、昼休みの光景を思い出した。


 校庭。


 ボール。


 三浦の声。


 蓮の笑い声。


 紅秋の落ち着いたパス。


 美優の声援。


 そして、春樹の控えめな笑み。


 胸はまだ少しざわついている。


 でも、それは嫌なざわつきだけではない。


 もっと知りたい。


 もっと見たい。


 去年から同じクラスにいた春樹を。


 これまで見落としていた春樹を。


 これから少しずつ、自分の目で。


 なつきはシャーペンを握り直した。


 窓の外では、昼休みの賑やかさが嘘のように静かになった校庭が光っている。


 その校庭に、さっきまで春樹がいた。


 クラスではあまり見ない顔で笑っていた。


 それだけで、今日の昼休みは特別になった。


 なつきは心の中で、そっと呟く。


 私はまだ、春樹の全部を知らない。


 でも。


 知らないから、近づきたい。


 知らないから、見つけたい。


 そう思えることが、少しだけ嬉しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ