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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第15話 近づく声を遮る人


 月曜日の朝。


 二年十一組の教室は、まだ交流会の余韻を残していた。


 いつもの朝より、少しだけ声が明るい。


 机の上には教科書ではなく、スマホを置いて写真を見せ合う生徒が何人もいる。


「これ見て、田辺の顔やばくない?」


「島中、肉持ってる写真ばっかじゃん」


「観覧車乗った班いいなー」


「バーベキューまたやりたい」


「先生が一番楽しそうだったよね」


 笑い声があちこちで弾む。


 窓の外は晴れていた。


 昨日の休日を挟んで、空は少しだけ夏に近づいたようにも見える。


 桜の花はほとんど散り、校庭の木々には緑が増えていた。


 横田なつきは、自分の席に座りながら、スマホを両手で握っていた。


 画面には、四班のグループ。


 昨日の夜、なつきが送った写真に、みんなが反応してくれた。


 亜衣は絵文字だらけで褒めてくれた。


 茜は「いい記録になった」と言ってくれた。


 紅秋は「構図が良い」と真面目に感想をくれた。


 そして春樹は。


『写真ありがとう』


『これ良かった』


 そう言って、観覧車前の五人の写真を選んでくれた。


 なつきは昨夜から、そのメッセージを何度も見返している。


 春樹が選んだ写真。


 春樹が「良かった」と言ってくれた写真。


 それはただの班写真なのに。


 なつきにとっては、何度見ても胸が温かくなる一枚だった。


 だから今日は、直接言いたかった。


 写真、見てくれてありがとう。


 良かったって言ってくれて嬉しかった。


 たったそれだけ。


 でも、なつきには大きい。


 朝、教室に来る前からずっと考えていた。


 どう言うか。


 どのタイミングで言うか。


 春樹が席に座った直後か。


 朝のホームルーム前か。


 一時間目の後か。


 考えれば考えるほど、言葉は難しくなっていく。


「なつき」


 遠山茜が席の横に来た。


「スマホ、見すぎ」


「うん……」


「また大國くんのメッセージ?」


「……うん」


 素直に認めると、茜は小さく息を吐いた。


「今日、言うんでしょ」


「言いたい」


「言いたい、じゃなくて言う」


「言う……予定」


「予定は未定になりやすいわよ」


「厳しい」


「なつきにはこれくらいでちょうどいい」


 茜の声はいつも通り淡々としている。


 でも、突き放す冷たさではない。


 背中を押してくれている。


 なつきはスマホを机に伏せた。


「写真ありがとうって言うだけなのに、なんでこんなに緊張するんだろう」


「好きだからでしょ」


「朝から直球……」


「回り道しても同じところに戻るから」


「そうだけど」


 なつきは机の端を指でなぞった。


 春樹はまだ来ていない。


 斜め後ろの席は空いている。


 その空席を見るだけで、胸が少しそわそわする。


 ここに春樹が座る。


 今日も。


 自分の斜め後ろに。


 それだけで、月曜日の朝が少し違って感じる。


「亜衣は?」


 茜が聞いた。


「あ、まだ来てないかも」


「来たらまた騒ぐわね」


「うん。でも、亜衣ちゃんがいると心強い」


「それはそう」


 茜が頷いた時、廊下から明るい声が聞こえた。


「おはよー!」


 伊藤亜衣だった。


 教室に入ってくるなり、何人かに声をかけられている。


「亜衣、写真見たよ!」


「あれめっちゃ盛れてた!」


「なつき写真上手くない?」


「分かる。班写真いい感じだった」


 その声に、なつきは少しだけ顔を上げた。


 自分の写真を褒められるのは、少し恥ずかしい。


 でも嬉しい。


 亜衣はそのままなつきの席へ来た。


「なつき、おはよ」


「おはよう、亜衣ちゃん」


「昨日の写真、最高だったよ」


「ありがとう」


「大國のやつもめっちゃ良かった」


「声が大きい」


「小声小声」


 亜衣は笑いながら、なつきの机に軽く手を置いた。


「で、今日は言うんでしょ」


「みんなそれ言う……」


「だって言わなきゃ。大國が珍しく『これ良かった』って言ったんだから」


「珍しいの?」


「珍しいよ。あいつ、良いと思ってもわりと黙ってるタイプじゃん」


「うん……」


「だから言お。『見てくれてありがとう』って」


 亜衣は簡単に言う。


 でも、その簡単さに少し救われる。


 難しく考えすぎているのは自分だ。


 ただのお礼。


 それだけ。


「でも、タイミングが……」


 なつきが言いかけた時だった。


「なつきー」


 前方から、田辺守の声が飛んできた。


 なつきの肩が少しだけ落ちる。


 また。


 朝から。


 悪気がないのは分かっている。


 でも、このタイミングで来る。


 田辺はいつも、なつきが春樹のことを考えている時に限って声をかけてくる。


 守は机の間を大股で歩いてきた。


 まだ朝なのに、もう部活帰りみたいな雰囲気がある。


「昨日の写真、俺にも送って」


「田辺、四班じゃないよね」


「でも俺写ってたろ? バーベキューのとこ」


「写ってたっけ?」


「たぶん」


「たぶん?」


「俺、なつきの班に行ったし」


「来たけど、撮ってないかも」


「なんで!」


 守は本気で驚いた顔をした。


 亜衣が横から言う。


「田辺、自分の班の写真は?」


「あるけど、ぶれてる」


「じゃあ撮った人に文句言いな」


「いや、なつきの写真の方がちゃんとしてそうじゃん」


「なつきは四班の記録係」


「まだ言ってる」


「まだ言う」


 亜衣は軽く返す。


 守は不満そうにしながらも、なつきの机に少し身を乗り出した。


「なつき、見せてよ。スマホ」


「え、今?」


「今。見たい」


「後ででいい?」


「なんで」


「今ちょっと……」


 春樹が来たら、お礼を言いたい。


 そう言いたかった。


 でも、言えなかった。


 守は当然分かっていない。


「ちょっとって何?」


「田辺くん」


 茜が静かに割って入った。


「横田さんのスマホを勝手に見ようとしない」


「勝手じゃない。見せてって言った」


「断られているでしょ」


「まだ断られてない」


「後ででいい? は今は無理という意味」


「そうなの?」


 守はなつきを見る。


 なつきは少し困りながら頷いた。


「うん。後でなら」


「じゃあ後で」


 守はあっさり引いた。


 そこは悪い人ではない。


 ただ、距離感が近い。


 そして、タイミングが悪い。


 亜衣が小声で呟く。


「無自覚って厄介」


「聞こえてるぞ、伊藤」


「聞こえるように言った」


「ひでぇ」


 守は笑っている。


 なつきも少し笑った。


 でも、心の中には焦りが残る。


 春樹が来る前に、また空気が別の方向へ流れてしまった。


 その時。


 教室の入口が少し静かになった。


 大國春樹が入ってきた。


 隣には板倉紅秋。


 二人はいつものように、派手な挨拶もなく教室に入ってくる。


 けれど、なつきの中では一気に音が消えたように感じた。


 春樹は制服姿に戻っていた。


 昨日の私服ではない。


 いつもの梅桜高校の制服。


 でも、なつきには昨日の春樹が重なって見えた。


 ネイビーのパーカー。


 火起こしをしている姿。


 観覧車の中で、遠くを見るといいと言ってくれた声。


 楽しい、と言ってくれたこと。


 なつきは息を吸った。


 今。


 言う。


 春樹が席へ向かう。


 斜め後ろへ。


 なつきは椅子から少し立ち上がりかけた。


 その瞬間。


「おー、大國」


 島中良の声が教室に響いた。


 なつきの身体が止まる。


 島中は中心グループから歩いてきて、春樹の前に立った。


 笑顔だった。


 でも、その笑顔には、朝から少しだけ嫌な軽さがあった。


「昨日、美優ちゃんと帰ってたじゃん」


 教室の空気が、わずかに揺れた。


 なつきの胸が凍る。


 その名前を、ここで出すのか。


 島中は何でもないような顔をしている。


 でも、なつきには分かった。


 これは、わざとだ。


 少なくとも、少しは分かって言っている。


 春樹は表情を変えない。


「美優ちゃん?」


 亜衣が少し眉を寄せる。


 島中は笑う。


「ほら、昨日校門に来てた子。特進の。大國の幼馴染なんだっけ?」


 何人かの生徒が反応する。


「あー、いたいた」


「私服可愛かった子?」


「大國、幼馴染いたんだ」


 ざわめきが小さく広がる。


 なつきは机の下で手を握った。


 美優。


 昨日の痛みが、また胸に戻ってくる。


 せっかく。


 今日は写真のお礼を言おうと思っていたのに。


 朝から春樹と話す勇気を出そうとしていたのに。


 島中は、その空気ごと踏みつけるように美優の名前を出した。


「ただの幼馴染」


 春樹が短く言った。


「ただの、ねぇ」


 島中は笑う。


「めっちゃ自然に帰ってたじゃん。彼女かと思ったわ」


 教室が少しざわつく。


 なつきの胸がきゅっと縮む。


 彼女。


 昨日も聞いた言葉。


 その言葉が、また春樹と美優の後ろ姿を呼び戻す。


「違う」


 春樹の声は低くも高くもない。


 ただ、はっきりしていた。


「ふーん」


 島中は肩をすくめる。


「まあ、幼馴染って強いよな。昔から知ってるってやつ?」


 春樹は答えなかった。


 紅秋が一歩前に出る。


「島中くん、朝からそれを聞く必要ある?」


 紅秋の声は穏やかだった。


 でも、少しだけ冷たい。


 島中は紅秋を見る。


「別にいいじゃん。雑談だろ」


「相手が答えたくなさそうなら、雑談でもやめた方がいいと思う」


「板倉って、そういうとこ真面目だよな」


「真面目というより、普通」


「普通ね」


 島中は笑った。


 でも、目は笑っていなかった。


 田辺守が横から入ってくる。


「でもあの子可愛かったよな。なつきも見たろ?」


 なつきの心臓が跳ねた。


 守。


 今、それを自分に振るのか。


 悪気はない。


 それは分かる。


 でも、だからこそきつい。


 田辺は本気で、ただ昨日の話をしているだけなのだ。


「あ……うん」


 なつきは曖昧に頷いた。


 声が小さくなる。


「だよな。俺、特進にあんな子いるの知らなかったわ」


「田辺」


 茜の声が鋭くなった。


 守はきょとんとする。


「何?」


「今、その話を横田さんに振る必要ある?」


「え?」


「ないわよね」


「いや、見たかなって」


「見たかどうかを確認してどうするの」


「どうするって……」


 守は言葉に詰まる。


 島中が少し笑いながら言った。


「遠山、朝から怖いって」


「怖くて結構」


 茜は島中を見た。


「島中くんも。昨日の帰りの話をしたいなら、本人に失礼のない言い方をしなさい」


「俺、失礼なこと言った?」


「彼女かと思った、という言い方は軽すぎる」


「そんな大げさな」


「大げさじゃない」


 茜の声は静かだった。


 でも教室の一部が、少しだけ黙った。


 亜衣もなつきの横に立った。


「島中、朝からダル絡みしすぎ」


「伊藤まで?」


「まで、じゃなくて普通にダルい」


「きっつ」


「言い方の問題。大國も困ってるし、なつきも困ってる」


 亜衣が「なつき」の名前を出した瞬間、島中の視線がなつきへ向いた。


 なつきはその視線を受けて、少しだけ固まる。


 島中は笑った。


「横田、困ってんの?」


 その聞き方が嫌だった。


 困っているのに。


 困っていると言いづらい聞き方。


 周りが見ている。


 春樹もいる。


 美優の話題が出て、胸が痛い。


 でも、ここで「困ってる」と言えば、自分の気持ちが露骨に見えてしまう気がする。


 なつきは言葉に詰まった。


 その沈黙を、島中は見ていた。


 まるで、なつきが何も言えないことを分かっているみたいに。


「別に、普通に話してるだけだろ?」


 島中は軽く言った。


 その軽さが、今日は少し怖かった。


 春樹が静かに口を開いた。


「島中」


 その声で、空気が少し止まる。


 島中が春樹を見る。


「何?」


「俺の話なら俺に聞けばいい」


 春樹は表情を変えずに言った。


「横田さんに振る必要はない」


 なつきは息を止めた。


 春樹が。


 自分のことを。


 守るように言ってくれた。


 そんなふうに感じた。


 島中の笑顔が、一瞬だけ消えた。


 教室のざわめきも小さくなる。


 紅秋は黙って春樹を見ている。


 亜衣が少しだけ目を丸くした。


 茜も、わずかに表情を緩めた。


「……へぇ」


 島中は短く笑った。


「大國、意外と言うじゃん」


「必要なら」


「横田に優しいね」


 その言葉には棘があった。


 なつきの胸がまた揺れる。


 でも、春樹は動じなかった。


「困ってる人に同じことを言う」


「ふーん」


 島中は面白くなさそうに笑った。


 その時、チャイムが鳴った。


 朝のホームルームの予鈴。


 担任が来る前の音。


 空気が少しだけほどける。


 島中は肩をすくめた。


「まあいいや。朝から悪かったな」


 謝罪のようで、軽かった。


 本当に悪いと思っているのか分からない。


 島中は中心グループへ戻っていく。


 守はまだ少し状況が分かっていない顔で、なつきを見た。


「なつき、俺なんかまずかった?」


 その無自覚な問いに、なつきは少しだけ疲れた。


 でも、守の目は本当に分かっていない。


 茜が答えた。


「まずかった」


「マジか」


「マジ」


「えっと……悪い」


 守は少しだけ頭を下げた。


「俺、普通に昨日の話しただけだった」


「うん」


 なつきは小さく頷く。


「分かってる」


「でも嫌だった?」


 守が聞いた。


 今度は少しだけ慎重だった。


 なつきは迷った。


 言うべきか。


 流すべきか。


 前なら、きっと流していた。


 大丈夫と言っていた。


 でも。


 今日は、春樹が言ってくれた。


 横田さんに振る必要はない。


 茜も亜衣も守ってくれた。


 なら、自分も少しだけ言わなきゃいけない。


「ちょっと」


 なつきは小さく言った。


「ちょっとだけ、言われたくなかった」


 守は目を丸くした。


 数秒黙る。


 それから、少し気まずそうに頭をかいた。


「そっか。悪かった」


「うん」


「次、気をつける」


「ありがとう」


 守は少しだけしゅんとした様子で前の席へ戻っていった。


 その背中を見て、なつきは小さく息を吐いた。


 言えた。


 嫌だった、とまでは言えなかったけれど。


 言われたくなかった。


 そう言えた。


 胸が少しだけ軽くなる。


「なつき」


 亜衣が小声で言った。


「えらい」


「……ありがとう」


 茜も頷く。


「今のは大事」


「うん」


 なつきは頷きながら、斜め後ろを見た。


 春樹が席につくところだった。


 まだ、お礼を言えていない。


 でも、言いたいことが増えた。


 写真のこと。


 そして、さっきのこと。


 助けてくれてありがとう。


 言いたい。


 でも、ホームルームが始まる。


 担任が教室に入ってきた。


「はい、席つけー。交流会の余韻は分かるが、今日は普通に授業だぞ」


 教室から小さな不満の声が上がる。


「えー」


「休みにしてほしい」


「筋肉痛です」


「それは運動不足」


 担任が軽く返すと、笑いが起きた。


 なつきも席へ戻る。


 けれど、心はまだ少し揺れていた。


 島中の言葉。


 田辺の無自覚な一言。


 春樹の静かな声。


 横田さんに振る必要はない。


 それが、何度も胸の中で繰り返される。


 一時間目が始まっても、なつきは少し集中できなかった。


 教科書を開く。


 ノートを取る。


 先生の声を聞く。


 でも、頭のどこかに春樹の声が残っている。


 助けてもらった。


 そう思うと嬉しい。


 でも同時に、島中の視線を思い出すと少し怖い。


 島中は明るい。


 クラスの中心。


 みんなの前で笑う。


 でも、なつきが春樹に近づこうとすると、わざとその道を塞ぐようなことを言う。


 今日の美優の話題もそうだ。


 なつきが傷つくと分かっていたのか。


 それとも、春樹を揺さぶりたかったのか。


 どちらにしても、嫌だった。


 昼休み。


 教室は再び交流会の話題で盛り上がった。


 写真を見せ合う生徒。


 バーベキューの失敗談を話す生徒。


 午後の自由行動で何に乗ったかを話す生徒。


 その中で、なつきは弁当を開きながら、少しだけ斜め後ろを気にしていた。


 春樹は席で昼食を取っている。


 紅秋と何か話している。


 今なら。


 言えるかもしれない。


 でも、島中のことがあったせいで、朝よりさらに緊張している。


 亜衣が弁当を持ってなつきの席へ来た。


「なつき」


「うん」


「行くなら今」


「どこに?」


「大國にお礼」


「……やっぱり?」


「やっぱり」


 茜も隣で頷く。


「写真のことも、朝のことも。言いたいなら早めに言った方がいい」


「うん」


「言えそう?」


「分からない」


「なら、近くまで行く?」


「子どもみたい」


「必要なら付き添う」


「ありがとう。でも……自分で行く」


 なつきは箸を置いた。


 胸がまた速くなる。


 でも、朝とは違う。


 春樹に言わなきゃ。


 言いたい。


 そう思った。


 椅子を引く。


 立ち上がる。


 斜め後ろへ向かう。


 その数歩が、やっぱり長い。


 紅秋が先に気づいた。


「横田さん」


「あ、板倉くん」


 春樹も顔を上げる。


「横田さん」


 その呼び方だけで、胸が少し落ち着く。


 なつきは小さく息を吸った。


「あの」


「うん」


「昨日、写真見てくれてありがとう」


 まず一つ。


 言えた。


 春樹は頷いた。


「良かった」


「本当?」


「うん」


「観覧車の写真?」


「それも。あと、バーベキューの写真も」


「あ……うん」


「火起こしのやつ、紅秋に送られた」


 紅秋が横で笑う。


「いい写真だったから」


「何に使うの」


「記念」


「ならいいけど」


 なつきは少し笑った。


 その笑いで、緊張が少しだけほどける。


「あと」


 なつきはもう一度、言葉を探した。


 朝のこと。


 言うなら今。


「朝、ありがとう」


 春樹は少しだけ目を瞬かせた。


「朝?」


「島中くんが……その、美優さんの話をして、田辺が私に振った時」


 名前を出すと、少し胸が痛む。


 でも、逃げなかった。


「大國くん、私に振る必要ないって言ってくれたから」


 春樹は静かに聞いていた。


 なつきは続ける。


「助かった」


 声は小さかった。


 でも、ちゃんと届いたと思う。


 春樹は少しだけ黙った。


 それから言った。


「困ってるように見えたから」


 なつきは息を止める。


 見えていた。


 春樹に。


 困っていることが。


「見えてた?」


「うん」


「そっか」


「嫌なら、嫌って言っていいと思う」


 春樹の言葉は短い。


 でも、真っ直ぐだった。


 なつきは少しだけ胸が熱くなった。


「うん」


「言いにくいなら、言える時でいいと思うけど」


「うん」


「でも、言っていい」


 その言葉が、胸の奥に残った。


 言っていい。


 嫌なことを嫌だと。


 困っていると。


 春樹がそう言ってくれた。


「ありがとう」


 なつきはもう一度言った。


 春樹は頷いた。


「うん」


 会話はそこで一度終わりそうになった。


 でも、紅秋が穏やかに言った。


「横田さん、昨日の写真、春樹けっこう見てたよ」


「紅秋」


 春樹がすぐに反応する。


 紅秋は気にしない。


「珍しく、全部スクロールしてた」


「普通に見ただけ」


「春樹にしてはちゃんと見てた」


「普通」


「春樹の普通は信用できない」


 どこかで聞いたような会話に、なつきは笑ってしまった。


 春樹も少しだけ目を細める。


 その空気が柔らかい。


 朝の嫌な空気が、少しずつ薄れていく。


「また」


 なつきは言った。


「写真撮ったら送るね」


「うん」


 春樹が答える。


「見る」


 その一言に、なつきの胸が跳ねた。


 見る。


 春樹が。


 自分が撮った写真を。


 また。


「うん」


 なつきは小さく頷いた。


 席へ戻ると、亜衣と茜が待っていた。


 亜衣はにやにやしている。


 茜は少しだけ安心したような顔をしていた。


「言えた?」


 亜衣が聞く。


「うん」


「写真のお礼?」


「それと、朝のことも」


「えらい」


 亜衣は小さく拍手した。


 茜も頷く。


「よかった」


「うん」


 なつきは席に座りながら、胸に手を当てた。


 まだ少しドキドキしている。


 でも、朝の苦しさとは違う。


 ちゃんと言えた。


 春樹が聞いてくれた。


 言っていい、と言ってくれた。


 その事実が、胸の中に残っている。


 その日の放課後。


 島中が再びなつきに近づこうとした。


「横田、朝はなんか悪かったな」


 そう言いながらも、声は軽かった。


「別にさ、変な意味じゃなくて」


 なつきは少しだけ身構える。


 島中は続ける。


「大國って、意外と女関係あるんだなって思っただけ」


 その言葉に、なつきの胸が冷える。


 女関係。


 言い方が嫌だった。


 美優のことを、そんなふうに言うのも嫌だった。


 春樹のことを、そんなふうに見るのも嫌だった。


「島中くん」


 なつきは小さく言った。


 島中が笑顔で見る。


「何?」


「そういう言い方、よくないと思う」


 自分でも驚くほど、声は震えていなかった。


 島中の笑顔が一瞬止まる。


「え?」


「美優さんにも、大國くんにも失礼だと思う」


 教室の近くにいた何人かが、少しだけこちらを見る。


 なつきは怖かった。


 でも、言った。


 春樹が言ってくれたから。


 言っていい、と。


 島中は少しだけ黙った。


 それから笑う。


「横田、今日は強いね」


「強いとかじゃなくて」


「大國に言われたから?」


 その一言で、空気がまた尖りそうになる。


 でも、今回はなつきが黙る前に、亜衣が入った。


「島中」


 声が低い。


「それ以上はダサい」


 島中が亜衣を見る。


「ダサい?」


「うん。めっちゃダサい」


「伊藤、きついな」


「だってダサいもん。なつきがちゃんと嫌だって言ってるのに、そこを茶化すのはダサい」


 茜も立ち上がった。


「同意」


 島中は周囲を見る。


 少しだけ笑いに逃げようとした。


 でも、近くの女子たちはあまり笑っていなかった。


 男子の何人かも、少し気まずそうにしている。


 島中は舌打ちこそしなかったが、明らかに面白くなさそうな顔をした。


「分かったよ。悪かったって」


 軽い謝罪。


 でも、朝よりは少しだけ形になっていた。


 なつきは小さく頷く。


「うん」


 島中はそれ以上言わず、グループの方へ戻っていった。


 田辺が途中で近づいてきたが、茜がすぐに言った。


「田辺くん」


「はい」


「今日は余計なことを言わない」


「まだ何も言ってない」


「言いそうな顔をしている」


「俺そんな顔してんの?」


「してる」


 守は少しだけ口を閉じた。


 そして、なつきに向かって言った。


「なつき」


「うん」


「朝はマジで悪かった」


「うん。もう大丈夫」


「次から気をつける」


「ありがとう」


「でも写真は見せて」


「田辺」


「ごめん、今じゃなくていい」


 なつきは思わず笑ってしまった。


 守も苦笑する。


 うざい。


 確かにうざい。


 でも、守はまだ謝れる。


 少なくとも、島中のように嫌なところを刺してくる感じではない。


 その違いが、今日ははっきり分かった。


 放課後の教室に、少しずつ静けさが戻る。


 部活へ行く生徒。


 帰る生徒。


 写真をまだ見返している生徒。


 なつきは鞄を持ちながら、斜め後ろを見た。


 春樹は紅秋と一緒に教室を出ようとしていた。


 その前に、ふとこちらを見た。


 目が合う。


 なつきは少しだけ迷ってから、小さく頭を下げた。


 ありがとう。


 声には出さなかった。


 でも、伝えたかった。


 春樹は小さく頷いた。


 そして、教室を出ていった。


 それだけ。


 でも、今日のなつきには十分だった。


 朝は苦しかった。


 島中の言葉に傷ついた。


 田辺の無自覚な一言にも疲れた。


 でも。


 自分で言えた。


 嫌だったと。


 よくないと思うと。


 そして、春樹にありがとうも言えた。


 それは、昨日の交流会とは違う一歩だった。


 楽しいだけではない。


 苦しいだけでもない。


 自分の気持ちを、少しずつ自分で守る一歩。


 なつきは鞄を肩にかけた。


 亜衣が隣で笑う。


「なつき、今日かなり頑張ったね」


「うん……疲れた」


「でもかっこよかったよ」


「私が?」


「うん」


 茜も頷く。


「ちゃんと言えた」


「二人のおかげもあるよ」


「それでも、言ったのはなつき」


 茜の言葉に、なつきは少しだけ笑った。


 窓の外は夕方になっていた。


 昨日見た海浜公園の空とは違う。


 いつもの学校の空。


 でも、昨日より少しだけ、広く見えた。


 なつきは胸の奥で、春樹の言葉を思い出す。


 言っていい。


 その言葉を、大事にしまう。


 そして思った。


 春樹に近づくということは、ただ話すだけじゃない。


 自分の気持ちを、ちゃんと自分で持つことでもあるのかもしれない。


 嬉しいことも。


 苦しいことも。


 嫌なことも。


 好きという気持ちも。


 全部、誰かに流されないように。


 なつきは教室を出る前に、もう一度だけ斜め後ろの空席を見た。


 春樹の席。


 そこに、今日もたくさんの感情が残っている。


 昨日の余韻。


 朝の痛み。


 昼のありがとう。


 放課後の小さな頷き。


 それらを抱えて、なつきは茜と亜衣と一緒に教室を出た。


 月曜日の廊下には、いつもの学校の匂いがした。


 でも、なつきの中では確かに何かが変わっていた。


 ほんの少しだけ。


 昨日より、自分を好きでいられる気がした。

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