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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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191/201

第191話 残った案内の前で、私たちは次に何を見るのかを考え始めた


 正式設置の翌朝。


 梅桜高校中央棟二階の廊下には、まだ一日の熱が入りきっていなかった。窓から差し込む朝日は昨日より少し弱く、白い床へ長く伸びた窓枠の影も輪郭が柔らかい。夜のあいだに気温が下がったのか、開けられた上部窓から入る風にはわずかな涼しさがあり、早い時間に登校してきた生徒たちの制服の裾を静かに揺らしていた。


 いつもの朝だった。


 けれど、なつきには、昨日までと同じ廊下には見えなかった。


 中央棟二階。第二実習室へ向かう最初の分岐。その壁際に、青い丸と大きな右向き矢印を持つ案内が残っている。


『第二実習室』


『青い丸が目印です』


『次は大きな窓』


 昨日、十一組ラボと学校側が一緒に設置したものだ。もう試験ではなく、仮置きでもない。右下には学校の管理番号が入り、『校内正式掲示』の表示が付いている。


 そこまで分かっているのに、なつきは案内の少し手前で立ち止まった。


「……ちゃんとある」


 口から出た言葉に、自分でも少し笑いそうになった。


 正式設置したのだから、一晩でなくなっていたら困る。頭では分かっている。けれど、これまでの案内は、確認が終わるたびに十一組ラボへ戻ってきた。


 窓から剥がされ、机へ置かれ、記録の横に並べられて、また次の修正を待つ。


 だから。


 朝になっても、ここにある。


 それが思っていた以上に不思議だった。


「おはよう」


 背後から聞き慣れた声がして、なつきは振り返った。


 春樹が、少しだけ眠そうな目をしながらこちらへ歩いてくる。今日は二人とも普段より早い。移行確認期間の朝点検があるため、登校時間を合わせたわけではないが、結果としてほとんど同じ時間になっていた。


「おはよう。春樹も早いね」


「なつきも」


「私は今日、朝確認あるから」


「知ってる。茜とだよね」


「うん」


 そこで春樹は、なつきの視線の先へ目を向けた。


「見てた?」


「何を?」


「案内」


 すぐに当てられて、なつきは少しだけ眉を寄せた。


「見てたけど」


「僕もさっき下から見えた時、ちょっと見た」


「まだあるって?」


「それも」


 二人は、通行の邪魔にならないよう窓側へ少し寄った。


 青い案内は、朝の柔らかい光の中に静かに収まっている。昨日は周囲に十一組ラボの全員と教師、施設管理の担当者までいて、誰もが位置や角度や固定状態を気にしていた。


 今日は違う。


 朝練を終えた普通科らしい男子生徒が二人、汗を拭きながら歩いてくる。一人が案内を見て、「第二実習室こっちだって」と言った。もう一人はほとんど案内を見ず、「はいよ」とだけ答えて友人の後ろについていく。


 二人はそのまま右へ曲がり、渡り廊下へ消えた。


 拍手は起きない。


 記録も取らない。


 誰も「使えた」と喜ばない。


 ただ、生徒が目的地へ向かっていく。


「普通だね」


 なつきが言うと、春樹は少しだけ笑った。


「正式設置って、そうなるんじゃない?」


「昨日はすごかったのに」


「島中が叫んだし」


「それだけじゃなくて。みんな案内見てたでしょう」


「うん」


「今日は誰も特別に見てない」


 そこまで言って、なつきは少し寂しくなった。


 もちろん、それを望んでいた。


 案内を使うたびに誰かが十一組ラボへ感謝しなくてもいい。作った人間を知らなくてもいい。必要な時に、必要な人が、普通に使える。


 そのために正式設置した。


 でも。


 昨日までずっと自分たちの中心にあったものが、今日はすでに学校の日常の一部になり始めている。


 嬉しい。


 その気持ちは消えない。


 けれど、そのすぐ隣に小さな寂しさがある。


「春樹は寂しくない?」


 なつきが尋ねると、春樹はすぐには答えなかった。


 廊下の向こうへ目を向けたまま、少し考えている。遠くでは、教室の鍵を開けた教師と、生徒が何かを話していた。


「少しは」


「やっぱり?」


「昨日まで、案内が僕たちの方を向いてた感じがした」


「今日は?」


「もう僕たちを見てない」


 その言い方が、なつきには妙にしっくりきた。


 案内が人を見るはずはない。それでも、昨日までは確かに、自分たちが作り、自分たちが直し、自分たちが確かめるものだった。


 今日は。


 通る人へ向いている。


 最初からそうするために作ったはずなのに、実際にそうなってみると、少しだけ置いていかれたような感覚がある。


「でも、その方がいいんだよね」


 なつきが言う。


「うん」


「私たちの方ばっかり向いてたら意味ない」


「うん」


「分かってるんだけど」


「寂しい?」


「少し」


 春樹はなつきの顔を見た。


「僕も同じ」


 それだけで、なつきは少し安心した。


 正しい感情かどうか。


 そんなことを決めなくていい。


 嬉しいのに寂しい。


 その両方があっていい。


 最近、そう思えることが増えた。


 廊下の先から、茜が管理表を持って歩いてくる。


「おはよう。二人とも早いね」


「おはよう」


「なつき、先に見てた?」


「見てた」


「状態?」


「それもあるけど、普通に」


 茜は青い案内を見て、少し笑った。


「分かる。私も階段上がってきた時、見た」


「まだあるって?」


「それも」


 同じ答えに、なつきと春樹が顔を見合わせた。


 茜が不思議そうに二人を見る。


「何?」


「同じこと話してた」


「正式設置の翌朝あるある?」


「まだ三人しかいないから分からない」


 そんなことを話しているうちに、施設管理担当の職員がこちらへ来た。


「おはようございます」


「おはようございます」


 三人とも自然に姿勢を正す。


 今日から二週間は移行確認期間だ。朝の簡易確認を、十一組ラボ側一名と学校側一名が一緒に行う。なつきは今日の十一組ラボ側担当で、茜は引き継ぎ確認のため同行することになっていた。


「では、最初の表示から確認しましょう」


「はい」


 昨日までなら、十一組ラボの誰かが中心になって確認した。


 今は違う。


 学校側の管理表。


 学校側の基準。


 十一組ラボが作った機能維持基準。


 それらを一つずつ重ねて見る。


 なつきは少し離れ、まず全体を確認した。


「位置ずれ、ありません」


「固定は?」


「端の浮きなしです」


「汚損」


「見える範囲ではありません」


「文字と矢印」


「どちらも読めます」


「承認表示」


「問題ありません」


 職員は管理表へチェックを入れる。


 簡単な作業。


 昨日までの最終通し確認と比べれば、拍子抜けするほど短い。


「次、中継を見ましょう」


 渡り廊下へ進む。


 朝の風が、昨日より少し強く入っていた。窓の外では、濡れた木々の葉が陽射しを反射している。


 大きな窓。


 青い中継案内。


 そこへ近づいて、なつきは一瞬だけ眉を寄せた。


「窓、少し曇ってます」


 茜も近づく。


「本当だ」


 案内の周囲。


 窓面に軽い結露。


 ただし。


 文字や矢印へはかかっていない。


 青い丸も見える。


 職員は少し角度を変えて確認した。


「表示内容への影響は?」


「ありません」


 なつきは右側から。


 次に左。


 利用者が近づく方向。


「どこから見ても大丈夫です」


「では」


 職員は管理表へ書く。


『窓面に軽微な結露あり。表示への影響なし』


 なつきは、その一行を見た。


「それも書くんですか?」


「はい」


「問題ないのに?」


「問題がないことも状態ですから」


 職員は当たり前のように答えた。


「正式管理では、異常が起きた時だけ書くと、その前がどうだったか分からなくなります。昨日はなかった。今日は少し結露した。でも表示には影響しなかった。明日増えたら比較できます」


 なつきは管理表を見る。


 一行。


 たったそれだけ。


 でも。


 昨日とは違う。


「何も起きなかった記録も必要なんですね」


「むしろ、何も起きない日の方が多いです」


「地味」


 思わず口にすると、職員が笑った。


「管理は大体地味ですよ」


 茜が横で笑う。


「十一組ラボ向きかも」


「どういう意味?」


「最近、なつき地味な改善好きって言ってたでしょう」


「言ったけど」


「大きいもの作るより、位置一つ変える方が好きって」


「そこまで言ってない」


「近い」


 なつきも笑った。


 確かに。


 今の案内改善は。


 最初に想像していたよりずっと地味なところへ着地した。


 大きな新案内。


 派手な色。


 目立つ情報。


 そういうものではなく。


 少し短い一行。


 既存表示の横。


 つや消し枠。


 学校の承認印。


 管理基準。


 それで。


 利用者が少し迷いにくくなる。


「じゃあ、これも十一組ラボらしいのかな」


 なつきが言う。


「何が?」


 茜。


「何もなかったって書くこと」


「それ、いいね」


 中継。


 異常なし。


 到着後表示。


 異常なし。


 正式承認表示。


 異常なし。


 朝の簡易確認が終わった。


「十一組ラボ側確認者の署名をお願いします」


 職員から管理表を渡される。


 昨日は島中が書いた。


 今日は。


 なつき。


 ペンを持つ。


 少しだけ手が緊張した。


 書くのは、自分の名前だけ。


 横田なつき。


 たった五文字。


 それなのに。


 昨日までの試験記録へ名前を書く時とは少し違った。


「緊張する?」


 茜が小声で尋ねる。


「少し」


「どうして?」


「学校の記録だからかな」


「昨日から学校の案内」


「知ってる」


「でも今日の方が実感する?」


「する」


 なつきは署名を終え、管理表を職員へ返した。


「ありがとうございます。明日は別の担当ですね」


「はい」


「今日の状態を簡単に伝えてください。特に結露」


「分かりました」


「問題はありません。ただ、比較できるように」


「はい」


 職員が離れていく。


 なつきは、その背中をしばらく見た。


 自分たちが来なくても。


 学校の人が。


 案内を見る。


 状態を見る。


 記録する。


 そのことが。


 少しだけ寂しく。


 それ以上に。


 少し安心した。


「なつき」


 茜が隣で言う。


「何?」


「今、寂しいと安心の両方?」


「何で分かるの」


「顔」


「最近みんな顔で分かりすぎ」


「長く一緒にいるから」


 茜は中継案内を見る。


「私も安心するよ」


「学校が見てくれるから?」


「うん。私たちが休んでも、案内は残る」


「卒業しても」


「そう」


 そこまで言うと。


 少しだけ。


 言葉が止まった。


 卒業。


 まだ先のこと。


 でも。


 正式設置と学校管理。


 その話をするたび。


 自然に。


 自分たちがいなくなる未来が入ってくる。


「寂しい?」


 なつきが聞き返す。


 茜は少し考えてから笑った。


「少しね。でも、ずっと私たちしか守れない方が怖いかな」


 なつきはその言葉を胸の中でゆっくり受け取った。


 守る。


 抱える。


 同じではない。


 自分たちだけで持ち続けることが、責任ではない。


 誰かへ渡せる形にすること。


 それも責任だった。


「行こう」


 春樹が少し離れたところから呼ぶ。


「もうチャイム近い」


「本当?」


「あと五分」


「早い」


 三人で教室へ戻る。


 その途中。


 朝の生徒が増えてきた。


 普通科一年らしい三人組が青い最初の案内へ近づく。


 一人が。


「第二実習室、こっちじゃん」


 と言う。


 もう一人が。


「青いの見ればいいんだろ」


 と返す。


 三人目は。


 会話を聞きながらついていく。


 右。


 渡り廊下。


 大きな窓。


 左。


 なつきは。


 記録用紙を持っていない。


 追わない。


 声も掛けない。


 ただ。


 通り過ぎる。


「使ってる」


 茜が言う。


「普通に」


「うん」


 なつきは。


 それだけ答えた。


 以前なら。


 誰かが使うたび。


 記録した。


 確認した。


 聞いた。


 今は。


 しない。


 利用者は。


 利用者として。


 普通に使う。


 それが。


 少しずつ。


 正式設置というものなのだと感じ始めた。


 午前の授業。


 一時間目。


 二時間目。


 三時間目。


 四時間目。


 案内のことを。


 思い出す。


 でも。


 以前ほど。


 授業の途中で試作案を考えたりはしない。


 修正するものが。


 今は。


 ない。


 それが。


 逆に。


 落ち着かない時もあった。


 昼休み。


 十一組ラボの教室。


 机の中央には。


 昨日までのように。


 試作品がない。


 青い丸も。


 黄色い三角も。


 透明板も。


 白い厚紙も。


 全部。


 ない。


 その代わり。


 朝の管理表の控え。


『正式設置二日目 朝確認 異常なし。中継窓面に軽微な結露あり。表示への影響なし』


 その文章だけ。


 島中が。


 弁当を食べる前から。


 じっと見ていた。


「何見てるの?」


 田辺が尋ねる。


「これ」


「管理表」


「地味」


「昨日も言ってた」


「でも昨日より」


 島中は少し考える。


「今日の方が正式設置した感じする」


「何で?」


 なつきが尋ねる。


「昨日は、置く日だったから」


「うん」


「イベントだった」


「うん」


「今日は」


 管理表を指差す。


「朝からあった」


 なつきは。


 すぐに理解した。


「私も思った」


「だろ?」


「一晩置いたまま」


「俺らが今日貼らなくても」


「ある」


 春樹が続ける。


「それ」


 島中が嬉しそうに頷く。


「俺らがいなくても、昨日の続きが始まってる」


 誰もすぐには話さなかった。


 紅秋が。


 少しだけ笑う。


「正式設置って」


「何?」


 島中。


「置いた瞬間より」


 紅秋は管理表を見る。


「翌日もそこにあることの方が、大事なのかもしれない」


 美優が弁当箱の蓋を閉じながら。


「その次の日も」


 と続ける。


 蓮も。


「一週間後も」


 と言う。


 田辺は。


「誰も特別に見なくなっても」


 と足す。


 なつきは。


「必要な人が使える」


 と言った。


 春樹が。


「壊れたら管理する」


 と続ける。


 最後に。


 島中が。


「声が来たらまた見る」


 と言った。


 全員。


 少し。


 笑った。


「何か今」


 島中が言う。


「みんなで一文作ったみたいだった」


「一文じゃない」


 田辺。


「細かい」


「いつも通り」


 笑い。


 昼食。


 会話。


 そして。


 活動。


 今日の予定は。


 昨日より少ない。


 移行期間記録。


 常設意見受付の案内。


 学校保管用変更履歴。


 それだけ。


 島中が黒板を見て。


「二時間もいらない」


 と言った。


「終わるなら早く終わればいい」


 紅秋が返す。


「その後?」


「帰る?」


 島中の箸が止まった。


「え」


「何?」


「早く帰る?」


「駄目?」


「いや」


 本当に困った顔をした。


 教室中。


 笑い。


「何すればいい?」


「帰ればいい」


 田辺が即答する。


「家で?」


「普通に」


「宿題」


「終わってる」


「ゲーム」


「昨日やった」


「友達」


「ここにいる」


「重い」


「違うって!」


 また。


 笑い。


 でも。


 なつきには。


 島中の気持ちが。


 少しだけ。


 分かった。


 自分も。


 朝。


 春樹へ。


「次は何を見るのかな」


 と聞いた。


 正式設置。


 達成。


 その後。


 急に。


 空いた。


 時間。


 頭。


 教室の机。


 今まで。


 何かしら置いてあった。


 試作品。


 意見。


 記録。


 今日は。


 少ない。


「島中」


 茜が言う。


「何もしない日があってもいいんじゃない?」


「ラボなのに?」


「ラボでも」


「活動する場所だろ」


「話すだけでも活動になるでしょう」


「何を話す?」


 茜が。


 少し考える。


「ここまでとか」


 島中が。


 微妙な顔。


「振り返り?」


「嫌?」


「嫌じゃないけど」


「すぐ次やりたい?」


「……少し」


 言ってから。


 自分で。


 笑う。


「やっぱ俺だな」


 蓮が。


 「でも」


 と入る。


「すぐ次を探すと」


「何?」


「終わったことを終わったと感じる時間がなくなる」


 島中が。


 少し。


 黙る。


 なつきにも。


 その言葉が。


 刺さった。


「それ」


 なつきが言う。


「私もやってたかも」


「次探す?」


 春樹が尋ねる。


「朝」


「うん」


「案内残ってるの見たら」


「うん」


「次何するんだろって」


「うん」


「何か空いたところを、すぐ埋めようとしてた」


 紅秋は。


 全員を見る。


「じゃあ」


「何?」


 島中。


「今日の作業が終わったら」


「うん」


「次を決める会議はしない」


 少し。


 静か。


「じゃあ?」


 なつき。


「ここまでを話す」


「おかえり会?」


 美優。


「案内は帰ってこないけど」


 茜。


 そこ。


 少しだけ。


 寂しい。


 でも。


 紅秋は笑った。


「なら今日は」


 黒板へ書く。


『正式設置までを振り返る』


「私たちのおかえり会?」


 島中。


「どこから帰ってきたの」


 田辺。


「案内改善から」


「それ、終わってるみたい」


「正式設置後もある」


「だから変」


「細かい」


 また。


 笑う。


 その笑いが。


 なつきには。


 心地よかった。


 何か。


 次の大きな問題。


 起きていない。


 それでも。


 物語は。


 続いている。


 午後。


 授業。


 放課後。


 十一組ラボ。


 必要な作業から始める。


 意見箱近くへ置く短い案内。


『第二実習室案内についてのご意見も、十一組ラボの意見箱で受け付けています』


 それ以上。


 増やさない。


「正式設置しました、は?」


 島中が聞く。


「変更記録へ」


 美優。


「案内横にお知らせ?」


「置かない」


 なつき。


「情報増やさない」


「分かってる」


「確認しただけ?」


「うん」


「成長」


「今日はまだ言う?」


「言う」


 学校保管用の変更履歴。


 最初の意見から。


 正式設置。


 照会。


 管理基準。


 全部。


 要約。


 でも。


 理由。


 消さない。


 不採用案。


 全部は載せない。


 ただ。


 主要なもの。


 なぜ使わなかったか。


 次の人が。


 同じ案を考えた時。


 その理由へ戻れる程度。


「終わった」


 美優が。


 ファイルを閉じる。


 時計。


 いつもなら。


 まだ。


 ここから。


 議論。


 試作。


 確認。


 そんな時間。


 でも。


 今日は。


 終わった。


「……早い」


 島中が。


 壁の時計を見る。


「本当に?」


「本当に」


 紅秋。


「何か他に」


「ない」


「状態確認」


「朝した」


「昼も」


「必要以上に触らない」


「じゃあ」


「座る」


 田辺が。


 島中の肩を押す。


「本当に?」


「何回聞くんだ」


 机を。


 囲む。


 試作品。


 なし。


 大量の資料。


 なし。


 小さな飲み物。


 誰かが持ってきた菓子。


 それだけ。


 夕方の光が。


 机の上へ。


 大きく広がる。


「こんな机だったんだね」


 茜が言う。


「何?」


 島中。


「広かった」


「前から」


「紙で見えなかった」


「確かに」


 なつきも笑う。


 空いた机。


 今朝。


 空いた時間。


 空白。


 それを。


 少し怖いと思った。


 でも。


 今。


 みんなで囲むと。


 悪くなかった。


「じゃあ」


 紅秋が。


 飲み物を一口飲む。


「一人一個」


「何を?」


「正式設置までで、今一番覚えてること」


「一個?」


 島中。


「今浮かんだものでいい」


「一番じゃないかも」


「それでいい」


 最初。


 茜。


 少し。


 考える。


「私は」


 視線を机へ。


「最初の意見が、全部同じ方向じゃなかった時」


「一回目?」


 なつき。


「うん」


「良いって人と」


「嫌って人」


「どっちを優先するか」


「そう」


 茜は。


 少し笑う。


「委員長だから、まとめたくなった」


「一つに?」


「うん」


「でもできなかった」


「うん」


「最後まで」


 美優が言う。


「できなかったね」


「でも」


 茜は。


 「できなくて良かった」


 と答えた。


 なつきは。


 その言葉を。


 静かに受け取る。


「同じ答えにしなかったから」


 茜。


「青も黄色も」


「うん」


「矢印も文字も」


「うん」


「役割分けた」


「うん」


「だから私は」


 笑う。


「まとめるって、一つにすることじゃないんだって覚えてる」


 次。


 美優。


「透明板」


 すぐに言った。


 全員が笑う。


「失敗」


 島中。


「今なら言っていい」


「反射?」


「違う。背景へ沈んだ方」


「ああ」


「窓を塞がないって、すごく良いと思った」


「うん」


「でも」


「使う人から見たら」


「見えない時があった」


「うん」


 美優は。


 空いた机へ指先を置く。


「作る側にとって良いことと、利用者にとって良いことが、同じじゃないこと」


「透明板で?」


「一番分かりやすかった」


 次。


 蓮。


「僕は」


 少し考える。


「見落としゼロを諦めた時」


 島中が。


「俺、嫌だった」


「知ってる」


「今は分かる」


「何で?」


「昨日まで」


 島中は。


 正式設置された中継の方向へ。


 何となく。


 視線を向ける。


「見ない人は見ない」


「うん」


「文字増やしても」


「うん」


「大きな窓って書いても」


「うん」


「読まない人は読まない」


 少し。


 沈黙。


「でも」


 島中。


「戻れる」


「うん」


「教室番号」


「うん」


「友達」


「うん」


「知らない人」


「うん」


「だから」


 蓮が。


 少しだけ。


 笑う。


「見落としと失敗は同じじゃない」


 島中が。


「今なら分かる」


 と答えた。


 次。


 田辺。


 田辺は。


 ほとんど迷わず。


 島中を見る。


「絶対俺じゃん」


 島中。


「まだ何も言ってない」


「顔」


「お前も顔で分かるようになったか」


「何?」


「お前が『今は記録』って言った時」


 教室に。


 大きな笑い。


「結局俺!」


「お前」


「何でそれ?」


 田辺は。


 笑いながら。


「変わったと思ったから」


「そんなに?」


「最初なら絶対」


「うん」


「『今直そう』だった」


「……そうかも」


「それが」


 田辺は。


 少し声を落とす。


「自分で止めた」


「うん」


「俺」


 島中が。


 少し照れる。


「覚えてない」


「俺は覚えてる」


「何で」


「ずっと止めてたから」


「苦労かけました」


「本当に」


 笑い。


 でも。


 田辺の目は。


 優しかった。


 次。


 島中。


 今度は。


 すぐには。


 答えない。


「俺」


 机の上の何もない場所を見る。


「正式設置の許可出た日」


「最近」


 茜。


「うん」


「何で?」


「最初」


 島中は。


 少し笑う。


「文字大きくすれば終わると思ってた」


「何回目その話」


 田辺。


「今日は許せ」


「はい」


「でも」


 島中は続ける。


「めちゃくちゃ待った」


 誰も。


 笑わない。


「嫌だった」


「うん」


 紅秋。


「今も待つの嫌」


「うん」


「でも」


 少し。


 指先で。


 机を叩く。


「待ってる間に」


「うん」


「理由増えた」


「何の?」


 なつき。


「何でこれでいいか」


 島中。


「何でこれは変えないか」


「うん」


「何でここは直すか」


「うん」


「だから」


 少し。


 笑う。


「許可も嬉しかったけど」


「うん」


「申請書読まれて、質問来た時」


「うん」


「俺らがやったこと、ちゃんと向こうに届いた感じした」


 静かな。


 良い言葉だった。


「島中」


 なつき。


「何」


「今日一番」


「何が?」


「成長」


「今日は言われてもいい」


 田辺も。


 「俺もそう思う」


 と答える。


「やめろ」


 島中は笑いながら。


 少しだけ。


 目を逸らした。


 次。


 春樹。


 春樹は。


 少し考える。


「最終通しの八人目」


 なつきは。


 すぐ分かった。


「知らない人が教えた時?」


「うん」


「どうして?」


「案内って」


 春樹は。


 言葉を選ぶ。


「紙だけじゃないんだと思った」


「案内を見た人に残った?」


「うん」


「その人が別の人へ」


「うん」


「教える」


「うん」


 島中が。


「しゃべる矢印」


 と言った。


 全員。


 少し笑う。


「その言い方は変だけど」


 春樹も笑った。


「でも」


「うん」


「十一組ラボも似てると思った」


「どこが?」


 茜。


「最初に誰かが言ったこと」


「意見?」


「うん」


「それを僕たちが受け取って」


「うん」


「別の形にして」


「うん」


「それを見た別の人が、また何か言う」


 春樹は。


 なつきを見る。


「声って、人の中に残る」


 なつきの胸へ。


 その言葉が。


 静かに入る。


「だから」


 春樹。


「正式設置して」


「うん」


「僕たちが卒業しても」


「うん」


「全部なくなるわけじゃないかもしれない」


 なつきは。


 少しだけ。


 目の奥が熱くなる。


 次。


「なつき」


 茜が言う。


「何?」


「最後」


「紅秋いる」


「紅秋が最後」


「私先?」


「うん」


 なつきは。


 何を選ぶか。


 迷った。


 たくさん。


 ある。


 春樹と。


 恋人になったこと。


 それも。


 この活動の途中。


 でも。


 今。


 十一組ラボとして。


 一番浮かんだもの。


「最初の意見」


 なつきが言った。


「最初?」


 美優。


「一枚目」


「強い否定」


「うん」


 教室の空気が。


 少し。


 静かになる。


「あれ」


 なつき。


「本当に嫌だった」


 誰も。


 「そんなことない」


 とは言わない。


「怖かった」


「うん」


 茜。


「私たちがやろうとしてること」


「うん」


「全部駄目って言われた気がした」


「うん」


「でも」


 なつきは。


 今。


 空になった机を見る。


「今考えると」


「うん」


「あれなかったら」


 少し。


 息を吐く。


「今の案内、ないかもしれない」


「うん」


 春樹。


「嫌な意見って」


 島中が言う。


「必要?」


「必要なこともある」


「好きになれる?」


「ならない」


 即答。


 島中が。


 少し笑う。


「そこはならないんだ」


「だって嫌だったから」


「うん」


「でも」


 なつきは。


 自分の手元へ目を落とす。


「嫌なまま受け取っていいんだと思う」


 静か。


「嫌だった」


「うん」


「でも必要だった」


「うん」


「両方」


「うん」


「前なら」


 少し笑う。


「どっちかにしたかった」


「今は?」


 春樹。


「しなくていい」


 春樹が。


 ゆっくり。


 うなずく。


 最後。


 紅秋。


 紅秋は。


 全員の顔を。


 一人ずつ。


 見る。


「私は」


 少し間。


「今かな」


「今?」


 島中。


「うん」


「何もない机?」


 なつき。


「それも」


 紅秋は。


 夕方の光が広がる机へ。


 手を置く。


「終わったら」


「うん」


「すぐ次へ行かなきゃいけないと思ってた」


「紅秋も?」


 なつき。


「少しね」


「意外」


「進行役だから」


「次決める?」


「そう」


 でも。


 今日は。


 決めない。


「正式設置して」


「うん」


「机から案内なくなって」


「うん」


「やること減って」


「うん」


「みんなが」


 少し笑う。


「それでも来てる」


 島中が。


 「俺は来る」


 と即答。


「知ってる」


 紅秋も笑った。


「活動があるからいるだけじゃないんだなって」


 誰も。


 すぐには。


 何も言わない。


 グラウンド。


 夕方。


 運動部の声。


 遠く。


 吹奏楽部。


 机。


 飲み物。


 菓子。


 仲間。


 それだけ。


「だから」


 紅秋。


「今日はこれでいいと思ってる」


「次決めない?」


 島中。


「決めない」


「明日は?」


「明日考える?」


「それも決めない?」


「うん」


 島中は。


 背もたれへ身体を預けた。


「……今日はいいや」


 なつきは。


 その言葉に。


 少し笑った。


 活動が。


 大きく進まない日。


 何かを。


 新しく作らない日。


 でも。


 こういう日も。


 必要なのかもしれない。


 正式設置まで。


 ずっと。


 次。


 次。


 次。


 だった。


 今日は。


 一度。


 止まる。


 戻る。


 見る。


 誰が何を覚えているのか。


 自分が何を感じていたのか。


 その時間。


 終わったからこそ。


 持てる。


 おかえり会が終わる。


 いつもより。


 少し早い。


 教室を出る。


 島中が。


 紅秋へ。


「明日、何もなかったらどうする?」


「朝確認」


「その後?」


「授業」


「放課後」


「来たいなら来れば」


「活動なくても?」


「話したいなら」


「じゃあ来る」


 田辺が。


「俺も」


 と言う。


「何で?」


「お前一人だとうるさい」


「そこ?」


 笑い。


 階段。


 昇降口。


 校門。


 一人。


 また一人。


 別れる。


 最後。


 なつきと春樹。


 二人。


 夕方。


 風が。


 少し冷たい。


「今日」


 なつきが言う。


「うん」


「良かった」


「何が?」


「机」


「空だった」


「うん」


「最初、寂しかったけど」


「今は?」


「少し好き」


「机が?」


「何もない時間」


 春樹は。


 少し考える。


「僕も」


「本当?」


「うん」


「何で?」


「話せたから」


「何を?」


「みんなが覚えてること」


「うん」


「普段なら」


「うん」


「次の確認して終わってた」


「確かに」


 少し歩く。


 人が減る。


 なつきは。


 自然に。


 手を近づける。


 春樹も。


 気づく。


 つなぐ。


「春樹が覚えてた話」


「八人目?」


「うん」


「好き」


 春樹が。


 少し。


 こちらを見る。


「話が?」


「うん」


「先に言って」


「分かるでしょう」


「分かるけど」


「春樹も好き」


 今度は。


 春樹の足が。


 ほんの少し。


 遅くなる。


「なつき」


「何?」


「最近急に入れる」


「何を?」


「好き」


「恋人だから」


「そうだけど」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「好き?」


 春樹は。


 少し。


 顔を赤くする。


「好き」


 なつきも。


 まだ。


 毎回。


 胸が跳ねる。


「私も」


 二人。


 笑う。


 歩く。


「次」


 なつきが言った。


「活動?」


「うん」


「まだ決めなくていい」


「春樹ずっとそれ言う」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「じゃあ」


「待つ?」


「うん」


「前より得意?」


「少し」


「私も」


 夕暮れの道。


 つないだ手。


 今日。


 大きな事件は。


 何も起こらなかった。


 案内は。


 壊れなかった。


 新しい困り声も。


 まだ届かない。


 学校から。


 追加の照会もない。


 それでも。


 正式設置の翌日。


 確かに。


 一つ。


 変わった。


 案内を作る側だった十一組ラボが。


 案内が残っていることを。


 見守る側へ。


 少しずつ。


 移り始めた。


 そして。


 何か新しいものを。


 すぐに作るのではなく。


 空いた机を。


 空いた時間を。


 怖がらず。


 そのまま置いておくことも。


 少しずつ。


 覚え始めていた。


 次の声が届くまで。


 次の困りが見えるまで。


 今は。


 正式に残った案内と。


 そこまで来た自分たちを。


 もう少しだけ。


 見ていてもいい。


 なつきは。


 春樹の隣を歩きながら。


 初めて。


 そんなふうに思えていた。

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