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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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192/201

第192話 何も届かない日は、誰も困っていないと決めつけない



 正式設置から三日目。


 梅桜高校の朝は、前日より少しだけ空気が重かった。


 曇り空のせいで校舎全体が薄い灰色に包まれ、窓から入る光も柔らかい。中庭では風が弱く、木々の葉はほとんど揺れていなかった。遠くから聞こえる運動部の掛け声だけが、静かな朝の校舎へ規則的に響いている。


 なつきは、昇降口で上履きへ履き替えながら、昨日と同じように一度だけ職員室側を見た。


 正式設置の許可を待っていた頃は、教師が通るたびに返事が来たのではないかと気にしていた。


 今は違う。


 結果はもう出た。


 案内は正式に置かれた。


 だから、何か新しい連絡を待っているわけではない。


 それでも。


 なぜか。


 毎朝少しだけ、何かが来る気がする。


 案内についての意見。


 学校側からの確認。


 状態異常。


 誰かの困り声。


 昨日は何もなかった。


 今日も。


 今のところ。


 何もない。


「また見た」


 隣から春樹が言った。


 なつきはすぐに振り返る。


「何を?」


「職員室」


「見てない」


「見た」


「春樹も見たでしょう」


「見た」


「じゃあ同じ」


 昨日とほとんど同じやり取り。


 でも、昨日と完全に同じではない。


 なつきは少し笑いながら階段へ向かった。


「今日、朝確認誰?」


「島中と学校側」


「じゃあ私たちは?」


「普通に登校」


「変な感じ」


「何が?」


「案内あるのに確認しなくていい」


「当番制だから」


「知ってる」


「毎日全員で見たら、学校管理へ移した意味ない」


「それも分かってる」


 春樹は少しだけ笑った。


「分かってること多いね」


「でも気になることも多い」


「それも分かる」


 階段を上がり、二階へ出る。


 最初の青い案内。


 今日も。


 そこにある。


 島中が、施設管理担当の職員と一緒に確認していた。


 田辺も少し離れたところから見ている。


「位置ずれなし」


 島中が言う。


「端浮きもなしです」


「承認表示は?」


「見えます」


「記録お願いします」


 職員が管理表へ書く。


 昨日までの島中なら、なつきたちを見つけた瞬間に大きく手を振ったかもしれない。


 今日は。


 確認を終えるまで振り向かなかった。


 そのことに。


 なつきは少しだけ嬉しくなる。


「真面目」


 春樹が小さく言う。


「失礼」


「褒めてる」


「田辺もいるから」


「監視?」


「補助」


 二人で笑う。


 確認終了。


 島中が管理表へ署名。


 職員へ返す。


 そこで初めて。


 なつきたちを見る。


「おはよう」


「おはよう」


「どうだった?」


 なつきが聞く。


「異常なし」


「中継?」


「昨日の結露もほぼなし」


「黄色?」


「問題なし」


「良かった」


 島中は。


 少しだけ。


 胸を張る。


「俺、ちゃんとやった」


「見てた」


「何が?」


「確認終わるまでこっち見なかった」


「当たり前だろ」


 田辺がすぐに言う。


「褒めてもらってるんだからいいだろ」


「当たり前を褒められる段階は終わった」


「厳しい」


 でも。


 田辺も。


 少し笑っている。


 朝の確認。


 異常なし。


 それだけ。


 なつきたちはそのまま教室へ戻る。


 一時間目。


 二時間目。


 三時間目。


 何も起きない。


 昼休み。


 十一組ラボ。


 机の上には。


 また。


 管理表の控え。


『正式設置三日目 朝確認 異常なし』


 それだけ。


 島中が弁当を開きながら。


「三日連続異常なし」


 と言う。


「良いこと」


 美優。


「良いことなんだけど」


「何?」


「何もない」


 島中は。


 少しだけ。


 物足りなそうな顔。


「また?」


 田辺が笑う。


「昨日よりは平気」


「でも?」


「何か来てもいい」


 教室が少し静かになる。


 なつきも。


 その言葉に。


 少し共感した。


「意見?」


 茜が尋ねる。


「うん」


「悪い意見でも?」


「それは嫌」


「じゃあ良い意見?」


「それなら嬉しい」


「でも」


 蓮が言う。


「意見が来ないことを、良い状態と決めていい?」


 島中が止まる。


 なつきも。


 少しだけ。


 姿勢が変わった。


「どういうこと?」


 島中。


「昨日」


 蓮は管理表を見る。


「案内に異常なし」


「うん」


「今日も異常なし」


「うん」


「でも利用者の困りは?」


「意見箱に来てない」


「それだけ」


 教室が。


 静かになる。


「困ってない?」


 島中が尋ねる。


「分からない」


 蓮。


「書かなかっただけかもしれない」


「気づかなかった」


 美優。


「困ったけど、そのまま行った」


 茜。


「人に聞いた」


 田辺。


「意見箱の場所を知らない」


 春樹。


 なつきは。


 ゆっくり。


 自分の弁当箱の蓋へ手を置く。


「何も届かないって」


「うん」


 紅秋がこちらを見る。


「何も起きてない、じゃない」


「そう」


 蓮。


「少なくとも、何も届いていない」


「そこまでしか言えない」


 なつきが続ける。


「うん」


 以前。


 意見が来た。


 強い否定。


 肯定。


 迷い。


 その時。


 届いた声をどう扱うか考えた。


 今は。


 届かない。


 その状態を。


 どう見るか。


 新しい課題だった。


「観察する?」


 島中が言う。


 すぐに。


 紅秋が。


 少しだけ手を上げる。


「何のため?」


「困ってないか」


「誰を?」


「通る人」


「また試験みたいに?」


 島中は。


 止まる。


「……それは違う?」


「正式設置した」


 紅秋。


「日常利用へ移した」


「うん」


「なのに、毎日利用者を追ったら」


「試験と同じ」


「そう」


「じゃあ」


 島中が困る。


「何も見ない?」


「それも違う」


 美優が言う。


「状態は見る」


「うん」


「意見箱」


「うん」


「自然に届いた声」


「うん」


「あと」


 少し考える。


「学校側からの相談」


「先生とか?」


「清掃担当とか」


「教室側の先生」


「利用者だけじゃない」


 なつきは。


 以前の言葉を思い出す。


 案内を見る人だけが利用者ではない。


 窓を使う人。


 清掃する人。


 管理する人。


 そこ。


 正式設置後なら。


 もっと重要。


「じゃあ」


 茜が言う。


「待つ?」


 島中が。


 「また」


 と苦笑する。


「でも」


 少しだけ。


 前より自然に。


「待つ」


 と答えた。


 田辺が。


 何も言わず。


 少し笑う。


「ただ」


 蓮が続ける。


「何も届かない状態を、都合よく成功扱いしない」


「うん」


 なつき。


「意見ゼロだから完璧、は言わない」


「そう」


「逆に」


 春樹。


「声が来ないから何か悪い、とも決めない」


「うん」


 紅秋。


「届いた時に受け取れる状態を保つ」


 その言葉。


 なつきは。


 少し好きだと思った。


「保つ」


「うん」


「待つだけじゃなくて」


「入口を残す」


 意見箱。


 案内についての意見も受け付けている一文。


 変更記録。


 学校管理。


 それら。


「何か」


 島中が言う。


「正式設置後の方が」


「うん」


「見るの難しくない?」


 美優が笑う。


「今気づいた?」


「試験は聞けた」


「うん」


「今は聞きすぎちゃ駄目」


「うん」


「でも困りは知りたい」


「うん」


「難しい」


「それが日常」


 紅秋が答える。


 島中は。


 少しだけ。


 納得したような。


 してないような顔。


「日常、難しい」


「今さら」


 教室に笑いが起きる。


 昼食。


 活動。


 今日の予定。


 移行確認。


 意見箱状態。


 学校保管用ファイルの最終確認。


 それだけ。


「また早く終わる」


 島中。


「良いでしょう」


 紅秋。


「昨日話したから」


「今日は?」


「今日も話す?」


「何を」


「何でも」


 少し。


 空気が柔らかくなる。


 午後。


 授業。


 なつきは。


 昼の話を少し引きずっていた。


 何も届かない。


 それを。


 良いことにしたい気持ち。


 ある。


 正式設置したばかり。


 困ったという声がない。


 嬉しい。


 でも。


 届いてないだけかもしれない。


 そう思うと。


 少し不安。


 授業終了。


 放課後。


 十一組ラボへ。


 教室前。


 意見箱。


 昨日置いた一文。


『第二実習室案内についてのご意見も、十一組ラボの意見箱で受け付けています』


 その横。


 意見箱。


 何か。


 入っている。


 なつきは。


 足を止めた。


「……ある」


 春樹も。


 後ろで止まる。


「紙?」


「うん」


 意見箱の中。


 白い紙。


 一枚。


 胸が。


 少し強く鳴る。


「島中呼ぶ?」


「みんな揃ってから」


「うん」


 勝手に開けない。


 ルール。


 全員。


 集まる。


 島中。


 一番に気づく。


「入ってる!」


「声大きい」


 田辺。


「だって!」


「一枚」


「一枚でも!」


 昨日。


 何も届かない。


 今日。


 届いた。


 でも。


 中身。


 分からない。


「開ける?」


 島中。


「手順」


 紅秋。


「はい」


 机。


 全員。


 座る。


 意見箱。


 教室内へ。


 回収記録。


 日時。


 枚数。


 一枚。


 紅秋が。


 封筒ではなく。


 折られた紙を。


 取り出す。


 全員。


 少し緊張する。


「読むよ」


 うなずく。


 紙。


 開く。


 文字。


 短い。


 紅秋が。


 声に出す。


「『第二実習室の案内、分かりやすかったです。前より行きやすくなりました』」


 教室が。


 静かになる。


 島中の顔。


 すぐに。


 明るくなる。


「良い意見!」


「うん」


 茜。


「正式設置後」


 美優。


「初めて」


 なつきも。


 嬉しい。


 胸。


 温かい。


「誰?」


 島中。


「無記名」


「学年?」


「書いてない」


「いつ使った?」


「書いてない」


「何が分かりやすかった?」


「書いてない」


 島中の。


 明るかった顔が。


 少しずつ。


 変わる。


「……分からない」


 田辺が。


 笑いを堪える。


「褒められたのに不満?」


「嬉しいよ!」


「顔」


「でも」


 島中は。


 紙を見る。


「何が良かったか知りたい」


 全員。


 少し笑う。


 成長。


 以前なら。


 良い意見。


 それだけで。


 大喜び。


 今は。


 嬉しい。


 でも。


 次。


 理由。


 そこも見たい。


「これは」


 なつきが言う。


「そのまま受け取っていいんじゃない?」


 島中がこちらを見る。


「理由なくても?」


「うん」


「でも」


「自由記述」


「うん」


「書きたいことだけ書いた」


「うん」


「それ以上聞けない」


「うん」


 春樹も。


 「良かったって声自体」


 と続ける。


「記録になる」


「何が?」


「少なくとも」


 少し考える。


「前より行きやすいと感じた人がいた」


「それだけ」


「それだけでいい」


 島中は。


 紙を見る。


「そっか」


「良い声まで」


 なつき。


「詳しく説明させなくていい」


「うん」


「前」


「何?」


「良いって言われたら」


「うん」


「何が?どこが?って」


「俺聞いてた?」


「結構」


「……聞いてた」


 笑い。


「でも」


 なつきは。


 紙を見る。


「今日は」


「うん」


「ありがとうでいいと思う」


 静か。


 島中が。


 少し。


 笑う。


「ありがとう」


 紙へ。


 言う。


「本人いない」


 田辺。


「いいだろ」


「うん」


 茜も笑う。


「いいと思う」


 最初の。


 正式設置後意見。


 肯定。


 それだけ。


「変更する?」


 蓮が尋ねる。


 島中。


 即座に。


「しない」


 全員。


 少し笑う。


「どうして?」


 蓮。


「良いって言われた一枚だけで」


「うん」


「今の案内が全員に良いって決めない」


「うん」


「でも」


 少し。


 笑う。


「嬉しいから残す」


「それでいい」


 美優。


 記録。


『正式設置後意見 1件』

『前より行きやすくなった、分かりやすかったとの肯定意見』

『具体的要素は不明。変更判断なし』


「最後」


 島中。


「固い」


「記録」


「でも本人に返すなら?」


 なつき。


「変更記録へ」


 『ご意見ありがとうございます』


 それだけ。


 採用しました。


 でも。


 改善します。


 でもない。


 ありがとう。


 受け取った。


 それを。


 返す。


「今日」


 茜が言う。


「昼に何も届かない話したばっかり」


「うん」


 なつき。


「放課後来た」


「待った」


 島中。


「一日も待ってない」


 田辺。


「気持ち」


「短い」


「でも来た」


 笑い。


 その後。


 意見箱。


 他は。


 なし。


 状態確認。


 異常なし。


 正式設置三日目。


 終わり。


「一枚」


 島中。


「良かったな」


 田辺。


「うん」


「でも」


「何」


「明日また来るかな」


「期待する?」


 島中が。


 少し。


 考える。


「少し」


 なつきが。


 春樹を見る。


 春樹も。


 笑っている。


「少し」


 最近。


 みんな。


 この言葉を使う。


 期待しすぎない。


 でも。


 期待しないわけでもない。


「明日来なかったら?」


 茜。


「待つ」


 島中。


「その次?」


「待つ」


「一週間?」


「……待つ」


「成長」


 田辺。


「今日は言え」


 笑い。


 教室。


 夕方。


 空いた机。


 今日は。


 その中央に。


 一枚。


 紙。


 正式設置後。


 初めて届いた声。


『分かりやすかったです』


 短い。


 でも。


 それで。


 十分。


 なつきは。


 その紙を見ながら。


 少し前の自分なら。


 もっと知りたかったと思う。


 何が。


 どこが。


 どうして。


 全部。


 でも。


 今は。


 書いた人が。


 そこまでしか書かなかったなら。


 そこまで。


 受け取る。


 それ以上。


 取りに行かない。


 それも。


 正式設置後の距離。


 なのかもしれない。


 活動終了。


 帰り道。


 校門。


 なつきと春樹。


 二人。


 夕方。


 少し。


 風。


「今日」


 なつき。


「うん」


「良かったね」


「意見?」


「うん」


「嬉しかった」


「僕も」


「何が良かったか知りたかった?」


「少し」


「私も」


「でも」


「聞けない」


「うん」


「追いかけない」


「うん」


 少し歩く。


 人が減る。


 手を。


 つなぐ。


「何も届かない日」


 なつきが言う。


「うん」


「誰も困ってないって」


「決めない」


「うん」


「でも」


「うん」


「誰か困ってるって」


「決めつけない」


「うん」


「届いたら」


「受け取る」


「うん」


「届かなかったら」


「入口を残す」


「うん」


 なつきは。


 少し笑う。


「難しい」


「最近そればっか」


「春樹もでしょう」


「うん」


「でも」


「何?」


「前より好き」


「何が?」


「分からないまま待つこと」


 春樹が。


 少し。


 驚いた顔。


「なつきが?」


「何」


「言うようになった」


「私も成長」


「うん」


「好き?」


 春樹。


 少し。


 黙る。


「急に」


「今いい流れだった」


「何の?」


「褒めたから」


「じゃあ」


 少しだけ。


 照れた顔。


「好き」


 なつきの胸。


 また。


 少し跳ねる。


「私も」


 二人。


 笑う。


 正式設置三日目。


 案内に。


 大きな問題はない。


 学校管理。


 順調。


 そして。


 一枚。


 良い声。


 届いた。


 何も届かない日も。


 声が届く日も。


 どちらも。


 すぐに答えへ変えない。


 十一組ラボは。


 少しずつ。


 正式設置後の距離を。


 覚え始めていた。

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