第172話 案内を二つに分けたら、その間にも迷う場所ができる
翌日の放課後。
六時間目の終了を知らせるチャイムが鳴ったあとも、なつきはすぐには席を立たなかった。
教室の前方では、担当教師が提出物の期限を改めて確認している。窓際では運動部の生徒たちが落ち着かない様子で鞄へ教科書を押し込み、廊下側の席では、帰宅部の女子生徒が友人と寄り道の相談を始めていた。まだ教師が教室を出ていないにもかかわらず、放課後へ向かう空気はすでに教室中へ広がっている。
なつきはノートの端に書いた二つの印を見つめていた。
青い丸。
黄色い三角。
昨日までは、一枚の案内表示の中へ並べていたものだった。
けれど今日からは、役割を分ける。
廊下に置く青い案内は、目的地へ進むため。
第二実習室前に置く黄色い案内は、到着したあとに詳しく確認するため。
一つの案内へ全部を背負わせない。
必要な情報を、必要になる場所へ置く。
考え方としては、前よりも整理されたように思える。
それなのに、なつきの胸には朝から小さな不安が残っていた。
二つに分ければ、一つの紙に詰め込んでいたときより見やすくなる。
ただし。
青い案内を見て進んだ人が、第二実習室前の黄色い案内へ本当に気づけるのか。
二つが同じ流れの案内だと分かるのか。
廊下の途中で、つながりが切れないのか。
紙の上では矢印で結べる。
けれど実際の校舎には、曲がり角があり、扉があり、人の流れがある。
一つ目と二つ目の案内の間には、何も書かれていない距離が残る。
その距離を、利用者は迷わず歩けるのだろうか。
「横田」
教師に呼ばれ、なつきは反射的に顔を上げた。
「はい」
「今日は聞いてたな」
教室の何人かが笑う。
昨日まで何度か考え事をして注意されたことを、教師も覚えているらしい。なつきは少し恥ずかしくなりながらうなずいた。
「聞いてました」
「なら、提出は?」
「次の授業の最初です」
「よし。今日は合格」
「ありがとうございます……?」
どう返すのが正しいのか分からず、教室にもう一度笑いが広がった。
教師が出ていくと、茜がすぐに振り返る。
「成長したね」
「授業を聞いただけなんだけど」
「昨日までは、それが危なかったから」
「もう大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
「昨日も聞いた気がする」
茜は笑いながら机の中を確認し、委員会用のファイルを鞄へ入れた。
「今日は現地確認からだよね」
「うん。担当の先生も一緒」
「少し遅れるかも」
「委員会?」
「先生に頼まれた資料を職員室へ届けてから行く」
「分かった」
「先に決めないでね」
「何を?」
「黄色い案内の場所」
「決めないよ」
「なつき、早く置きたくなったら決めそう」
「決めません」
「島中と二人で、ここでいいって置きそう」
「しないって」
否定しながら、なつきは少しだけ自信がなかった。
場所を見れば、ここが良さそうだとすぐに思うかもしれない。
早く試したい気持ちが強くなり、全員が揃う前に話を進めたくなるかもしれない。
それを茜に見抜かれているようで、少し悔しかった。
「ちゃんと待つ」
「止まらずに?」
「待ってる間に測る」
「それならいいです」
委員長らしくうなずいた茜と教室を出る。
放課後の廊下は、いつものように多くの音で満ちていた。
階段へ向かう運動部の足音。
教室前で友人を呼ぶ声。
窓の外から響く掛け声。
吹奏楽部が音を合わせる、まだ曲になる前の短い音。
その中を、なつきと茜は十一組ラボの教室へ向かった。
途中、二回目回収用封筒の設置場所が見える。
封筒の横には、意見を受けて見直し中であることを伝える案内が残っていた。
現在の案内表示も、そのまま置かれている。
なつきは歩きながら視線を向ける。
一人の男子生徒が案内を見ている。
少し立ち止まり、表示の上から下へ目を動かしたあと、矢印の方向へ歩き出した。
迷ったかどうかは分からない。
けれど、明日以降は、この場所へ青い新案を置くかもしれない。
今までの案内が変わる。
その変化が本当に良いものか、今日の現地確認で考える。
「見すぎ」
茜が言う。
「一回しか見てない」
「歩く速度が落ちた」
「利用者がいたから」
「声掛けたくなった?」
「少し」
「今日は観察じゃないよ」
「分かってる」
なつきは前を向き直った。
十一組ラボの教室へ入ると、紅秋、美優、蓮がすでに来ていた。
教卓の前には、大きな青い丸と矢印を使った廊下用の試作。
机の上には、黄色い三角を使った詳しい案内の下書き。
そして、巻き尺、養生テープ、メモ用紙、簡易の譜面台が並んでいる。
「島中たちは?」
なつきが尋ねる。
「用具室」
紅秋が答える。
「黄色い案内を置けそうな台を借りに行った」
「先生は?」
「第二実習室の担当の先生が、十分後に来る」
「春樹は図書室?」
「うん。終わったら現地へ直接来るって」
なつきは一瞬だけ教室の扉へ視線を向けた。
昨日、春樹に聞いた。
いつか、自分のことをどう思っているか聞いてもいいか。
春樹は、いいよと答えた。
今すぐではない。
答えもまだ知らない。
けれど、聞ける場所が残った。
そのことを思い出すと、胸の奥が静かに温かくなる。
「横田さん」
美優に呼ばれ、なつきは慌てて机の方へ向いた。
「黄色い案内、昨日のあとで少し直したの」
「どこ?」
「詳しい説明を三つに分けた」
机の上の試作には、黄色い三角の下へ三つの短い見出しが並んでいた。
『入る前に確認』
『使うときに確認』
『困ったときに確認』
それぞれの下へ、必要な内容を短く置く形になっている。
「全部読む必要はない?」
なつきが尋ねる。
「必要なところだけ」
「また選ばせることにならない?」
口にした瞬間、教室が少し静かになった。
美優は試作へ視線を落とし、すぐには否定しなかった。
「私もそこは考えた」
「でも三つに分けた?」
「全部を一つの文章にすると長くなったから」
「選ぶのは情報であって、自分じゃないなら大丈夫?」
蓮が腕を組む。
「前の青と黄色は、自分がどちらの人か決めさせていた。今回は、今何を知りたいかを選ぶ」
「でも、何を知ればいいか分からない人もいるよね」
なつきは三つの見出しを順番に見る。
「入る前に何か必要って知らない人は、どこを見ればいいか分からない」
「だから最初に、『初めての人は上から確認』を置こうと思ってる」
美優が別の小さな紙を見せる。
「それだと、初めての人は全部読む?」
「たぶん」
「時間がかかる」
島中の声が廊下から聞こえた。
振り返ると、田辺と一緒に細い展示台を運び込んでいる。
「また全部読ませる案内に戻ってない?」
「全部じゃないよ」
美優が答える。
「初めての人だけ」
「初めてかどうかを、自分で決めるの?」
「自分で分かるでしょう」
「一回来たけど覚えてない人は?」
「それは……」
「島中、今日は細かいね」
なつきが言う。
「蓮に鍛えられた」
「僕のせいにしないで」
蓮はそう言いながらも、少しだけ口元を緩めた。
「でも、島中の指摘は必要だと思う。初めての人だけ別の読み方を求めるなら、また人を分けることになる」
「じゃあどうする?」
美優が少し困ったように尋ねる。
「全員が最初に見る一文を置く」
田辺が展示台を壁際へ寄せながら言った。
「そのあと、必要なところだけ」
「最初の一文に何を書く?」
「第二実習室を使う前に必要なこと?」
「長い」
「『まずここ』」
「短すぎる」
「『入る前に一つ確認』」
「一つだけ?」
「一つに絞るなら」
会話が重なり始める。
なつきは黄色い案内の前へ立ち、少し離れて見た。
廊下用の青い案内は、行き先を伝えるだけだから、以前よりかなり簡単になった。
そのぶん、詳しい情報は黄色い案内へ移る。
けれど移した情報をそのまま全部並べれば、今度は第二実習室前で読む負担が増える。
一つの案内へ全部を背負わせない。
そう決めたはずなのに、役割を分けた先で、黄色い案内へ別の全部を背負わせようとしているのかもしれない。
「黄色い案内も、一枚じゃなくていいんじゃない?」
なつきが言った。
全員の視線が集まる。
「どういうこと?」
紅秋が尋ねる。
「第二実習室前に、一枚だけ置くって決めてたけど」
なつきは三つの見出しを指す。
「入る前に必要なことは、扉の手前。使うときに必要なことは、中に入った後。困ったときのことは、困った場所の近くに置く」
「さらに分ける?」
島中が目を丸くする。
「分けすぎじゃない?」
「かもしれない」
「管理するもの増えるぞ」
「うん」
「どこに何があるか分からなくなるかも」
「うん」
「じゃあ駄目じゃん」
「でも、一枚に全部置くと、必要じゃない情報まで読むことになる」
なつきは黄色い案内を見つめる。
「詳しい案内って、一つの場所に集めることじゃないのかもしれない」
教室の空気が静かになる。
紅秋はすぐに答えず、机の上の三つの見出しへ視線を落とした。
「現地を見よう」
やがて言った。
「今ここで分ける数を決めても、置く場所がなければ意味がない」
「先生も来る?」
「そろそろ」
その直後、廊下側の扉から教師が顔を出した。
「十一組ラボ、ここで合ってるか?」
「はい。お願いします」
紅秋が立ち上がる。
第二実習室を担当しているのは、商業科の男性教師だった。
四十代半ばほどで、普段は声が大きく、実習中の指示もはっきりしている。今日は腕に何冊かのファイルを抱え、なつきたちの試作を興味深そうに見ていた。
「ずいぶん増えたな」
「案内を二段階に分けたいと思ってます」
紅秋が説明する。
「廊下では目的地だけ。第二実習室前で詳しい案内」
「なるほど」
「置ける場所と、通行の邪魔にならない位置を一緒に見ていただきたいです」
「分かった。教室は今、別の先生が使ってるから、中へ入る前に声掛けるぞ」
試作と道具を持ち、全員で第二実習室へ向かう。
十一組ラボの教室から、案内表示の設置場所を通り、渡り廊下を抜ける。
なつきは実際に利用者になったつもりで歩いた。
青い案内が置かれる予定の場所。
そこから矢印に従い、右へ曲がる。
渡り廊下を進む。
途中に別の教室の扉が二つ。
掲示板。
階段へ下りる分かれ道。
そして、第二実習室へ続く短い廊下。
「ここ」
なつきが足を止めた。
「何?」
島中が振り返る。
「分かれ道」
渡り廊下を抜けた先には、まっすぐ進む廊下と、左へ曲がる廊下がある。
第二実習室は左。
現在の案内表示には、そこまでの進路が小さく書かれている。
新しい青い案内を簡単にしすぎると、最初の大きな矢印だけでは、この二つ目の曲がり角が分からない。
「矢印、一個じゃ足りない」
島中が呟く。
「最初の案内から第二実習室、見えないもんね」
茜も少し遅れて合流し、分かれ道を見た。
「ここにもう一枚必要?」
「中継の案内」
美優が言う。
「青い丸を置けば、最初の案内とつながる」
「案内を二つに分けたら、三つになった」
田辺が淡々と言う。
教室にいたときなら笑いが起きたかもしれない。
けれど今は、全員が分かれ道を見つめたままだった。
青い案内。
途中の案内。
黄色い案内。
一つに全部を背負わせないために分けた。
分けたことで、その間をつなぐ新しい役割が必要になった。
「これ、前の案内なら書いてあった?」
島中が尋ねる。
「小さいけど、曲がり角の図があった」
蓮が記録を確認する。
「文字が多くなった原因の一つ」
「消したら、ここで迷う」
「そうなる」
なつきは分かれ道の中央へ立った。
正面の廊下。
左の廊下。
どちらにも生徒が歩いている。
壁にはいくつかの掲示物があり、初めて来た人が第二実習室を探すとき、青い丸がなければ何を手掛かりにすればいいか分からない。
「案内を簡単にするって、情報を消すことじゃないんだね」
なつきが言う。
「必要な場所へ移すこと」
春樹の声が後ろから聞こえた。
図書室の当番を終えて追いついたらしい。
「春樹」
「遅れてごめん」
「ちょうど問題見つけた」
「見れば分かる」
春樹は分かれ道を見て、小さくうなずいた。
「途中にも必要だね」
「また一枚増える」
島中が言う。
「増えたら悪い?」
春樹が聞き返す。
「管理が増える」
「でも、一枚に全部入れるより、見る場所では簡単になる」
「増やすことが分かりやすさになる場合もある?」
「必要な場所にあるなら」
担当教師が腕を組みながら廊下を見回した。
「ここに置くなら、壁へ直接貼るのは難しいな」
「どうしてですか?」
美優が尋ねる。
「避難経路の掲示がある。近くへ別の案内を増やすと、緊急時に見づらくなる」
壁を見る。
確かに、分かれ道の正面には避難経路図が掲示されている。
その横へ青い案内を置けば、普段は目立つ。
けれど火災や地震のとき、本当に必要な避難経路図へ視線が届きにくくなる可能性がある。
「じゃあ置けない?」
島中が聞く。
「壁は避けたい。床置きも通行の邪魔になる」
「天井から吊るす?」
「学校の許可が必要。簡単にはできない」
「扉へ貼る?」
「ここには扉がない」
選択肢が少しずつ消えていく。
なつきは分かれ道を何度も見た。
必要な場所は分かった。
けれど、必要な場所へ置けるとは限らない。
案内の内容だけでなく、校舎の決まりや安全も考えなければならない。
利用者のために分かりやすくすることが、別の安全を損なってはいけない。
「床に線を引くのは?」
田辺が言った。
「青いテープで、第二実習室まで」
「常設は難しい」
教師が答える。
「掃除やワックスがけで剥がれる。色の線を使うなら、他の案内との区別も必要だ」
「矢印だけ床に?」
「同じ問題だな」
「じゃあ、青い丸を小さく柱へ?」
茜が分かれ道の端にある柱を指す。
避難経路図とは反対側。
通行の邪魔にもならない。
ただし、最初の案内から歩いてくる方向では、少し横を向かないと見えない。
「実際に歩いて見よう」
紅秋が言った。
一人ずつ、最初の案内位置から分かれ道まで歩く。
柱の位置を見る。
青い丸を仮に紙で貼り、遠くから気づけるか確認する。
最初に歩いた島中は、分かれ道の直前で青い丸へ気づいた。
「遅い?」
「曲がる前には気づいた」
「人がいたら?」
田辺が柱の前へ立つ。
青い丸が隠れる。
「見えない」
「田辺、そこに立つ必要ある?」
「掲示板を見る人がいるかもしれない」
「確かに」
次になつきが歩く。
渡り廊下を抜ける。
前方には避難経路図。
左には柱。
青い丸へ気づこうと意識しているため、すぐに見つけてしまう。
「これ、私はもう知ってるから確認にならない」
「初見の人に頼む?」
美優が言う。
「今日、急には難しい」
「先生に歩いてもらう?」
島中が担当教師を見る。
「毎日ここ通ってるぞ」
「初見じゃない」
「役に立たないみたいに言うな」
教師が笑い、全員も少しだけ笑った。
緊張が和らぐ。
けれど、置き場所の問題は残っている。
「案内を増やさずに、最初の青で二回曲がることを伝える?」
蓮が試作を持ち上げる。
「大きな矢印を二つ置く。最初に右、その後左」
「また情報が増える」
「でも中継を置けないなら必要」
「地図に戻る?」
「小さな地図は、最初の意見で見づらいって言われた」
「大きくする?」
「目的地と矢印が小さくなる」
堂々巡りのように感じる。
以前の案へ戻る。
問題が再び現れる。
なつきは青い案内を見つめた。
一つの大きな矢印は、初見確認で高く評価された。
分かりやすい。
すぐ進める。
けれど、目的地まで曲がり角が一つとは限らない。
矢印を増やせば、見る順番の問題へ戻る。
「利用者に全部の道を覚えてもらおうとしてる?」
春樹が静かに言った。
「どういうこと?」
なつきが尋ねる。
「最初の案内で、二回曲がることを全部伝えようとしてる」
「中継が置けないから」
「案内じゃなくて、場所そのものを目印にできないかな」
「場所?」
春樹は分かれ道の左側を見る。
第二実習室へ続く廊下の入口には、他の場所にはない大きな窓がある。
窓の外には中庭の桜の木。
今は葉が茂っているが、春には花がよく見える場所だった。
「桜の見える窓を左?」
島中が言う。
「それ、季節で変わる」
「木は残る」
「夜は見えにくい」
「放課後ならまだ明るい」
「冬は暗くなるの早い」
また問題が出る。
春樹は別の場所へ目を向けた。
左の廊下の床だけ、中央棟とは違う薄い灰色の素材になっている。
「床の色が変わるところを左」
「色が見えにくい人は?」
「形も違う。継ぎ目がある」
「足元を見ない人もいる」
「でも、案内を置かなくても残る目印ではある」
蓮が腕を組む。
「建物の特徴を使う案内」
「位置が変わらないもの」
美優が記録する。
「窓、床、柱」
「柱は案内を貼らなくても、二本目の柱を左とか?」
茜が言う。
「数える負担がある」
「でも、最初の案内に『灰色の床を左』って書けば」
「灰色の床って、今いる場所も灰色じゃない?」
「少し色違うけど、言葉にすると分かりにくい」
「写真を使う?」
なつきが言った。
全員がこちらを見る。
「最初の青い案内に、この分かれ道の写真を小さく置く」
「また情報増える」
島中が言う。
「地図よりは、実際の景色と同じだから分かるかも」
「写真だけ見て、今いる場所だと気づける?」
「分かれ道へ来たときに思い出す」
「覚えてもらうことには変わらない」
「でも矢印二つよりは」
言いながら、なつき自身も自信がなくなっていく。
写真。
目印。
中継。
どれも一長一短がある。
教師はしばらく黙って話を聞いていたが、やがて第二実習室側の廊下へ歩き出した。
「一度、目的地まで行こう」
「分かれ道は?」
島中が尋ねる。
「戻ってくればいい。先に黄色を置く場所を見る」
全員で左へ曲がり、第二実習室へ向かう。
廊下の奥に、実習室の扉が見える。
扉の横には、授業予定表。
反対側には消火器。
少し離れた壁には、作品展示用の掲示板。
人が立ち止まれる空間は、思っていたより狭かった。
第二実習室の中から、生徒たちの声と機械を操作する音が聞こえる。
担当教師が扉を開け、授業中の教師へ短く声を掛けた。
許可を得て、扉の前を確認する。
「ここに置くと、出入りの邪魔になる」
教師が扉のすぐ横を指す。
「授業開始前は、生徒が並ぶこともある」
「黄色い案内を見る人と、入る人が重なる」
美優が言う。
「反対側は消火器」
「塞げない」
「掲示板のところは?」
茜が尋ねる。
「扉から少し離れる」
「詳しい案内を見てから戻る?」
「距離は三メートルくらい」
「でも、掲示板を見る人と重なる」
また、置き場所がない。
教室の中へ置けば、入る前に必要な情報は見られない。
扉の前へ置けば、出入りを妨げる。
少し離せば、目的地へ着いた人が案内に気づかないかもしれない。
「教室の前に詳しい案内を置けばいいって、簡単に考えてた」
なつきが呟く。
「場所があると思ってたから」
春樹が隣で言う。
「紙の上にはあった」
「現実には、人が通る」
「扉も開く」
「安全のものもある」
消火器。
避難経路。
掲示板。
授業へ入る生徒。
出てくる生徒。
案内だけを置くための空白は、校舎の中にはほとんどない。
空いているように見える場所にも、別の役割がある。
「中へ入った後の机に置く?」
島中が言う。
「入る前の確認はできない」
「入る前に必要なことって何?」
田辺が尋ねる。
全員が黄色い案内の下書きを見る。
『入る前に確認』
その下には、利用目的に合った場所かどうか、必要な持ち物があるか、担当者へ声を掛ける必要があるかが書かれている。
「これ、廊下の青い案内に必要じゃない?」
蓮が言った。
「目的地へ行く前に知らないと、着いてから戻ることになる」
「でも青を簡単にするために移した」
「移した場所で読めないなら、戻すしかない」
「また一枚に増える」
島中が額へ手を当てた。
「分けた意味なくない?」
「全部戻すわけじゃない」
美優が答える。
「行く前に必要なことだけ青へ戻す。使うときの説明は中へ置く。困ったときの案内は、困る場所の近く」
「三つに分ける?」
なつきが聞く。
「さっき、なつきが言った形」
「でも管理が増える」
「役割が違うなら、分けた方がいい」
「途中の分かれ道もある」
「そこは別で考える」
問題が増え続けているように見える。
けれど、美優の言葉を聞いて、なつきは少しだけ整理できた。
案内を二つに分ける。
そう決めたこと自体へこだわっていた。
青と黄色。
二段階。
その形を守ろうとして、必要な情報を無理に二つへ押し込んでいた。
本当に必要なのは、二つにすることではない。
情報が必要になる場面へ分けること。
場面が三つなら、案内も三つになるかもしれない。
場所へ行く前。
途中。
到着後。
使っている最中。
困ったとき。
全部を一枚へ入れない。
でも、二枚へも決めつけない。
「私たち、二つに分けるって決めた後、二つに収めることが正解になってたね」
なつきが言った。
紅秋がこちらを見る。
「利用者のために分けたのに、いつの間にか青と黄色を完成させることを考えてた」
「形が先になってた?」
茜が尋ねる。
「うん。二段階案を良くするために考えてた。でも、本当は利用者がどこで何を必要とするかを考えるんだった」
「二段階を捨てる?」
島中が聞く。
「捨てない」
なつきはすぐに答えた。
「青で目的地へ進んで、必要な場所で黄色を見る考えは残せる。でも、黄色を一枚にしなくてもいい」
「黄色が何枚も?」
「同じ黄色い三角を、必要な場所に置く」
「案内が散らばる」
「でも、同じ印ならつながる」
春樹が言う。
「青は進む印。黄色は確認する印。その役割だけ共通にする」
「内容は場所ごとに違う」
美優が続ける。
「扉の前へ置けないなら、入る前の確認は青へ残す。使い方は室内の机。困ったときは、担当者を呼べる場所」
「黄色い三角を見れば、詳しく確認できるって分かるようにする」
茜がうなずく。
「一枚の続きじゃなくて、必要なところに現れる目印」
「ゲームの案内みたい」
島中が言う。
「必要な場所に同じ印が出る」
「ゲームで例えると急に分かりやすくなるんだね」
田辺が呆れたように言い、少し笑いが起きた。
教師も試作を見ながらうなずく。
「室内の机なら、置ける場所はある。授業の内容に合わせて差し替えることもできる」
「先生が管理するんですか?」
紅秋が尋ねる。
「最初から全部は難しい。十一組ラボで案を作って、担当教員と確認する形なら」
「生徒だけで変えない」
「そうだな。実習内容は授業ごとに変わるから、古い情報が残る方が危ない」
管理の問題が、また一つ具体的になった。
案内は作って終わりではない。
内容が変わる。
場所が変わる。
誰が更新するか決めなければ、分かりやすかった案内が、いつか間違った案内になる。
「引き継ぎまで考えないと」
紅秋が記録へ書く。
「十一組ラボが終わった後も使うなら、担当を決める」
「案内を増やすほど、更新するものも増える」
蓮が言う。
「だから必要な数まで減らす」
「減らすって、情報を消すんじゃなくて?」
なつきが尋ねる。
「役割が重なるものをまとめる。必要な場面が違うものは分ける」
「何枚が正解かじゃない」
「そう」
担当教師と一緒に、第二実習室の中も確認した。
入口近くの机。
機器の横。
教師の説明を聞く位置。
生徒が困りやすい場所。
授業中の生徒たちへ邪魔にならない範囲で動線を見る。
実習室の中は、廊下よりもさらに多くのものが置かれていた。
机。
椅子。
機器。
配線。
教材。
収納棚。
案内を置く余白は限られている。
ただし、廊下と違い、使う人は一度立ち止まる。
着席する。
教師の説明を待つ。
その時間を使えば、必要な案内を読める可能性がある。
「入口の机に、黄色い三角だけ置く?」
美優が言う。
「『詳しい確認はこちら』」
「その先に案内がある?」
「机の上に置く」
「三角が案内そのものじゃなくて、案内の場所を示す?」
「うん」
「印が増えない?」
「一つだけ」
「机に案内を直接置けば、三角だけ別にいらない」
島中が言う。
「確かに」
「黄色い三角を案内の上に付ける」
「それなら一つ」
少しずつ形が見えてくる。
入る前に必要な情報は、青い廊下案内へ短く残す。
途中の分かれ道は、置ける案内を無理に増やさず、最初の案内で曲がり角をどう伝えるか改めて考える。
実習室へ着いた後の詳しい案内は、室内の入口机へ置く。
黄色い三角を共通の印として使う。
困ったときの案内は、担当者を呼ぶ方法だけを、室内の見える場所へ置く。
まだ完成ではない。
分かれ道の問題が残っている。
青い案内へ、入る前の情報をどこまで戻すかも決めていない。
それでも、二段階という形へ無理に収めることはやめられた。
「今日はここまでにしよう」
紅秋が言った。
「先生、ありがとうございました」
「こちらこそ。こういうふうに見てもらうと、普段気づかないところが分かるな」
担当教師は第二実習室の扉と廊下を見比べる。
「俺たちは、案内を貼るなら空いてる壁を探す。でも生徒がどこで立ち止まるかまでは、あまり見てなかった」
「先生も?」
島中が少し驚く。
「教師だから全部分かるわけじゃない」
「蓮みたいなこと言う」
「どういう意味だ」
蓮が眉を寄せ、教室に小さな笑いが起きた。
第二実習室を離れ、分かれ道へ戻る。
先ほどよりも、そこが大きな問題に見えた。
目的地の前ばかり考えていたときは、通過するだけの場所だった。
今は、青い案内と黄色い案内の間にある、声の届かない場所に見える。
「ここ、どうする?」
島中が尋ねる。
「今日は決めない」
紅秋が答える。
「明日の昼休み、初見の人に今の青い案内を見てもらって、どこまで覚えられるか確認する」
「分かれ道に何も置かない状態で?」
「うん」
「迷ったら?」
「迷った場所を知る」
「その場で助ける?」
「安全に問題がなければ、少し待つ。間違った方向へ進み続ける前には止める」
なつきは分かれ道を見る。
迷うかもしれないと分かっていて、見守る。
以前なら、それが利用者を困らせることのように感じた。
今も、完全には慣れない。
けれど、どこで迷うかを知らずに案内を作れば、もっと多くの人が同じ場所で迷うかもしれない。
「協力してくれる人に、途中で迷うかもしれないって伝える?」
なつきが聞く。
「伝えたら、分かれ道を意識する」
美優が答える。
「正解を教えない範囲で、不安になったら止まっていいとは伝える」
「迷ったら戻ってもいい?」
「もちろん」
「途中で聞いてもいい?」
「それも記録する」
利用者がどう動くか。
迷ったとき、戻るか。
誰かへ聞くか。
掲示を見るか。
その全部が、案内だけでは分からない声になる。
十一組ラボの教室へ戻る頃には、外の光がかなり赤くなっていた。
机の上へ、青い案内と黄色い案内を並べる。
現地で見つけた問題を付箋へ書き、それぞれの周囲へ貼っていく。
途中の分かれ道。
避難経路図。
柱の見え方。
扉前の混雑。
消火器。
室内の机。
更新担当。
授業ごとの内容変更。
試作の周囲は、付箋で埋まった。
「案内より付箋の方が多い」
島中が言う。
「問題が見えた数」
田辺が答える。
「喜んでいい?」
「現地に置く前で良かった」
「それなら喜んでいいか」
島中は少し疲れたように椅子へ座った。
「二つに分けたら簡単になると思った」
「私も」
なつきも隣の席へ座る。
「でも間が増えた」
「案内と案内の間」
「作る人と使う人の間」
春樹が向かい側から言う。
「今決めたことと、更新する人の間」
紅秋が記録を閉じる。
「分けると、つなぐ役割が必要になる」
「つなげられないなら、分けない方がいい?」
茜が尋ねる。
「場合による」
蓮が答える。
「一つにまとめる負担と、分けたものをつなぐ負担を比べる」
「また両方」
島中が笑う。
「でも今なら分かる」
「何が?」
「どっちかが正解じゃないってこと」
教室が少し静かになる。
島中は照れたように鼻の下を擦った。
「何だよ」
「成長したね」
なつきが言う。
「横田に言われたくない」
「私も成長してる」
「授業聞いただけで褒められてた人が?」
「それは別」
笑いが広がる。
疲れていた空気が少し軽くなった。
今日、完成したものはない。
二段階案は、現地で三つ以上の役割へ分かれた。
置こうとした場所には、別の役割があった。
簡単にした青い案内では、途中の曲がり角を伝えられない可能性が見つかった。
それでも、机の上だけで完成させるより、ずっと良かった。
利用者が歩く場所へ行った。
人が立つ場所を見た。
扉が開く幅を測った。
安全の掲示を確認した。
案内のためだけに校舎があるわけではないと知った。
片付けを終えた後、茜と美優は職員室へ担当教師との確認内容を届けに向かった。
紅秋、島中、田辺、蓮は道具を用具室へ返す。
なつきは黄色い案内の下書きをファイルへ入れていた。
「帰る?」
春樹が声を掛ける。
「うん」
「今日は持つものないよ」
「案内持つ」
「それは紅秋が保管するんじゃない?」
「じゃあ何もない」
「何もなくても一緒に歩けるって、昨日言った」
「覚えてた?」
「忘れられないこと増えてるから」
春樹は少しだけ困ったように笑った。
なつきも笑いながら鞄を持つ。
二人で教室を出る。
放課後の廊下には、部活動へ向かった生徒たちの声が遠くから響いていた。窓の外では、夕日が雲の下を赤く染めている。風は昨日よりも冷たく、夏の匂いの中へ少しだけ秋が混じっていた。
「今日、難しかったね」
なつきが言う。
「うん」
「二つに分けたら、分かりやすくなると思った」
「場所ごとに分ける考えは良かったと思う」
「でも間ができた」
「間があることに気づけた」
「春樹、何でも良い方に言うね」
「悪い方も考えてるよ」
「例えば?」
「案内が増えすぎたら、誰も更新できなくなる」
「うん」
「途中の分かれ道で迷う人が多かったら、最初の青い案内をまた複雑にする必要があるかもしれない」
「うん」
「黄色い印が場所ごとに違う内容を示したら、何の印か分からなくなるかもしれない」
「やっぱりいっぱいあるね」
「でも、それを今考えられる」
階段の踊り場で、二人は少し速度を落とした。
下から部活動帰りの生徒が上がってくる。
道を譲り、すれ違う。
「人と人の間も同じ?」
なつきが尋ねた。
「何が?」
「分けると、つなぐものが必要になるって」
春樹は少し考えた。
「離れてる人同士?」
「うん。言葉にしたことと、言ってないことの間とか」
昨日、聞ける場所を残した。
春樹が自分をどう思っているか。
いつか聞いてもいい。
それだけで少し前へ進んだ気がした。
けれど、聞く日までの間には何もないわけではない。
一緒に歩く。
話す。
待つ。
少しずつ言葉を渡す。
その時間が、今といつかをつなぐ。
「つなぐものがないと、別の話に見えるかもしれない」
春樹が言った。
「昨日まで隣を歩いてたのに、急に答えだけ聞いたら?」
「驚く」
「うん」
「じゃあ、今歩いてるのがつないでる?」
「たぶん」
「毎日?」
「毎日じゃなくても」
「でも私は毎日がいい」
言った後で、なつきは少しだけ恥ずかしくなった。
春樹は歩みを止めなかった。
ただ、耳がわずかに赤くなる。
「予定が合えば」
「またそれ」
「図書委員があるから」
「終わるまで待つ」
「待ってる間は?」
「自分のことする」
「止まらない?」
「止まらない」
なつきは笑った。
「でも、来たら一緒に歩く」
「うん」
「それで、いつか聞く」
「うん」
「逃げない?」
春樹は少しだけ黙った。
なつきは答えを急かさなかった。
階段を下りる足音。
窓から入る風。
遠くの部活動の声。
沈黙の間にも、二人は同じ速度で歩いている。
「逃げないようにする」
やがて春樹が答えた。
「ようにする?」
「怖くないとは言えないから」
「私も怖い」
「じゃあ、お互い?」
「うん」
「それでも聞く?」
「いつか」
「分かった」
完全な約束ではない。
必ず答えるとも、必ず同じ気持ちだとも言っていない。
それでも、今といつかの間に、短い言葉が一つ置かれた。
逃げないようにする。
その言葉が、二人の間の中継案内のように感じられた。
答えはまだ先。
けれど、進む方向は見失わない。
昇降口へ着き、上履きを履き替える。
外へ出ると、夕方の空気はさらに涼しくなっていた。
今日、案内を二つに分けたことで、その間に新しい迷いが見つかった。
分ければ簡単になるとは限らない。
分けたものをつなぐために、新しい役割が必要になる。
ただし、その間を見なかったことにして一つへ戻すのでもない。
どこで切れたのかを知る。
どこへ目印が必要かを考える。
置けないなら、別の方法を探す。
十一組ラボは、また完成から遠ざかったように見える。
けれど本当は、紙の上の完成から、利用者が歩く現実へ近づいていた。
明日の初見確認では、青い案内だけで第二実習室まで進んでもらう。
途中の分かれ道で、誰が止まるのか。
何を見るのか。
戻るのか。
尋ねるのか。
その立ち止まりを、新しい失敗ではなく、案内と案内の間にある声として受け取る。
校門へ向かう道で、なつきと春樹の影が夕日に長く伸びていた。
二つの影は少し離れている。
けれど、同じ方向へ並んで続いている。
その間には、何もないように見えて。
同じ歩幅。
交わした言葉。
次も一緒に歩くという小さな約束。
今といつかをつなぐものが、確かに残っていた。




