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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第173話 迷った場所に印を置く前に、そこで何を探したのかを聞く



 翌日の昼休み。


 梅桜高校中央棟二階の廊下には、いつもより少しだけ強い風が通っていた。


 開け放たれた窓から入り込んだ空気が、壁際に掲示された進路案内の端を揺らしている。中庭では、弁当を持った生徒たちが木陰のベンチを探し、購買から戻ってきた者たちは紙袋を抱えたまま友人の教室へ急いでいた。


 昼休みの廊下は、立ち止まる者と急ぐ者が同時に存在する。


 教室前で話し込む者。


 次の場所へ向かう者。


 何かを探して周囲を見回す者。


 その流れの中へ案内表示を置くのだと、なつきは昨日よりも強く感じていた。


 紙だけを見ているときには、案内は利用者へ情報を渡すものに見える。


 実際の廊下へ出ると、それだけでは足りない。


 人の流れがある。


 別の掲示がある。


 安全のために空けなければならない場所がある。


 扉が開き、教師が通り、生徒が集まる。


 案内は、何もない場所へ置かれるわけではない。


 すでにたくさんの役割が重なっている校舎の中へ、あとから入れてもらうものだった。


「横田さん、そこだと通る人にぶつかるよ」


 春樹の声で、なつきは一歩壁際へ寄った。


「ごめん」


「考えてた?」


「うん」


「分かれ道?」


「分かる?」


「さっきから、左と右を交互に見てる」


 二人が立っているのは、昨日問題になった分かれ道から少し手前だった。


 最初の青い案内を置く予定の場所から、渡り廊下を通り、第二実習室へ向かう途中。


 正面へ続く廊下。


 左へ曲がる廊下。


 第二実習室は左。


 けれど、最初の青い案内だけでは、最初に右へ曲がったあと、次に左へ曲がることを覚えていなければならない。


 昨日までは、案内表示へ大きな矢印を一つ置けば分かりやすくなると思っていた。


 初見確認でも、大きな矢印は高く評価された。


 だが、一つの矢印で伝えられるのは、最初の方向だけだ。


 目的地までの道に曲がり角が増えれば、その後の進み方は利用者の記憶へ任せることになる。


「今日、何人に頼んだの?」


 春樹が尋ねる。


「昼休みは三人」


「一人ずつ?」


「うん。三人とも一人で歩いてもらう。放課後に二人組も見るって」


「昨日の案は見てない人?」


「三人とも初めて」


「条件は?」


「最初の青い案内だけ見て、第二実習室へ行ってもらう。途中には何も置かない」


「目的地を知ってる人は?」


「一度も行ったことがない人を紅秋が探してくれた」


「難しかっただろうね」


「同じ学校なのに、第二実習室へ行ったことがない人って意外と多いみたい」


 梅桜高校の校舎は広い。


 普通科、特進科、商業科。


 授業で使う棟や教室は学科によって違う。


 二年間通っていても、用事のない場所へ一度も行かない生徒は少なくない。


 なつき自身も、十一組ラボを始める前は、特進科がよく使う教室の位置をほとんど知らなかった。


「協力する人には何て説明する?」


「第二実習室まで行ってください。案内は最初の一枚だけです。途中で分からなくなったら、止まっても、戻っても、誰かに聞いても大丈夫です」


「迷うかもしれないとは言わない?」


「言わない。言うと、分かれ道があるって意識しちゃうから」


「でも、不安にならない?」


「だから、困ったら何をしてもいいって先に伝える」


 なつきは手元の記録用紙を見る。


 今日確認するのは、正しい道を覚えられるかだけではない。


 分かれ道へ着いたとき、利用者が何を見るのか。


 掲示を探すのか。


 周囲の生徒を見るのか。


 最初の案内を思い出そうとするのか。


 戻るのか。


 誰かへ聞くのか。


 その行動を見た後で、本人へ何を探したかを聞く。


 迷った場所へすぐ案内を増やす前に、その人がそこで必要としていたものを知る。


 昨日、紅秋が決めた確認方法だった。


「なつき」


「何?」


「今日は飛び出さない?」


「何それ」


「迷ってる人を見たら、教えに行きそうだから」


「行かないよ」


「本当に?」


「安全に問題がなければ、少し待つって決めたでしょう」


「分かってるならいいけど」


「春樹の方こそ、助けに行かないでよ」


「僕?」


「困ってる人を見ると、静かに近づいて教えそう」


「そんなことしないよ」


「する」


「どうして断言するの?」


「春樹だから」


「理由になってない」


「なってる」


 二人が小声で言い合っていると、分かれ道の向こうから島中が歩いてきた。


 手には小さなクリップボードを持っている。


「何、二人だけで始めてんの?」


「始めてないよ」


「春樹がなつきを止めてた」


「何を?」


「助けに行かないように」


「それは必要だな」


「島中まで」


 なつきが不満そうに言うと、島中は真面目な顔でうなずいた。


「横田、絶対動くから」


「動かないって」


「前にも動きかけた」


「あれは……」


「証拠あり」


「今日は大丈夫」


 なつきが言い切ると、島中は少し疑うような目を向けたあと、春樹へ顔を向けた。


「止めてくれ」


「僕も観察する側なんだけど」


「隣にいるだろ」


「それは関係ない」


「あるだろ」


「島中」


 田辺の声が後ろから飛んできた。


「観察前に人をからかうな」


「緊張ほぐしてる」


「自分が楽しんでるだけ」


 田辺、蓮、美優も合流する。


 紅秋と茜は、最初の協力者を迎えに行っていた。


 試作の青い案内は、最初の設置場所へ置かれている。


 大きな青い丸。


 第二実習室という目的地。


 最初に進む方向を示す大きな矢印。


 その下には、小さく一文だけ。


『詳しい確認は、第二実習室前でできます』


 昨日まで黄色い三角を同じ紙へ置いていたが、今日は外している。


 詳しい案内は目的地へ着いたあと。


 まずは行き先を伝える。


 ただし、曲がり角が二つあることは、まだ表示へ入れていない。


「本当に一個目の矢印だけでやるんだな」


 島中が、少し離れた位置から青い案内を見る。


「今の案がどこまで伝わるか知るため」


 蓮が答える。


「全員ここで止まったら?」


「次の案を考える」


「一人も止まらなかったら?」


「中継案内は必要ない可能性がある」


「三人だけで決める?」


「決めない。今日は最初の確認」


「分かってる」


 島中はそう答えたが、視線は分かれ道へ向いていた。


 早く結果を知りたいのだろう。


 以前なら、最初から中継案内を置こうと言っていたかもしれない。


 今は、置く必要があるかを見るために待っている。


 なつきはその変化を少し嬉しく思った。


「来た」


 美優が小さく言う。


 廊下の向こうから、紅秋と茜が一人の男子生徒を連れて歩いてくる。


 普通科一年。


 背は平均より少し低く、制服の袖をきちんと折らずに手首まで下ろしている。周囲にいる十一組ラボの人数を見て、少し緊張したように足を止めた。


「こんなにいるんですか?」


「ごめん」


 紅秋が苦笑する。


「なるべく視界へ入らないように分かれるから」


「後ろからついてくる?」


「少し離れて」


「怖いですね」


「迷子の監視じゃないから」


 島中が言う。


「島中、その言い方が一番怖い」


 田辺がすぐに止める。


 男子生徒は小さく笑った。


 少し肩の力が抜けたように見える。


 紅秋が改めて説明する。


「今から、第二実習室まで行ってください。最初の案内だけを見て、普段どおりに進んでください。途中で分からなくなったら、止まっても、戻っても、誰かへ聞いても大丈夫です」


「スマートフォンで調べても?」


「学校の中の場所は出ないと思うけど、使ってもいいよ」


「先生に聞いても?」


「大丈夫」


「正解は?」


「正しい場所へ着くことは目的だけど、どう進んだかを見たいから、迷っても失敗ではない」


「分かりました」


 男子生徒は少し離れた開始位置へ立つ。


 十一組ラボのメンバーは、決めた場所へ分かれた。


 最初の案内付近。


 渡り廊下。


 問題の分かれ道。


 第二実習室前。


 なつきは春樹と一緒に、分かれ道から少し離れた掲示板の前へ立った。


「また同じ組」


 なつきが小声で言う。


「嫌?」


「嫌じゃない」


「ならいいけど」


「春樹は?」


「嫌じゃない」


「それだけ?」


「今、確認中だから」


「ずるい」


「何が?」


 言い返す前に、遠くで紅秋が開始の合図を出した。


 なつきは口を閉じ、男子生徒へ視線を向ける。


 男子生徒は青い案内へ近づいた。


 遠くから大きな青い丸を見る。


 案内の前で立ち止まる。


 目的地名。


 大きな矢印。


 下の小さな一文。


 上から下まで一度読んだ。


 その後、矢印の方向へ歩き出す。


 最初の曲がり角を右へ曲がる。


 渡り廊下へ入る。


 歩く速度は一定だった。


 周囲をきょろきょろ見る様子もない。


 案内の内容を覚えているようにも見える。


 分かれ道へ近づく。


 なつきの胸が速くなる。


 男子生徒は歩調を緩めた。


 正面を見る。


 左を見る。


 もう一度正面を見る。


 足が止まった。


 なつきは無意識に指先へ力を入れた。


 教えたい。


 左。


 第二実習室は左。


 たった一言で済む。


 けれど、今その一言を渡せば、彼が何を探すのか分からなくなる。


 男子生徒は分かれ道の中央まで進み、壁の掲示を見る。


 避難経路図。


 行事予定。


 部活動の募集。


 どれも第二実習室を案内するものではない。


 次に、左の廊下を覗く。


 正面の廊下も見る。


 通りかかった二人組の女子生徒へ視線を向ける。


 声を掛けようとしたのか、一度口が動いた。


 けれど、女子生徒たちは会話を続けたまま通り過ぎる。


 男子生徒は少し迷った後、左へ一歩進んだ。


 正しい方向。


 なつきは胸の奥で小さく息を吐いた。


 だが男子生徒は、二歩目で止まった。


 振り返る。


 正面の廊下を見る。


 そして、最初の案内があった方向へ戻り始めた。


「戻る」


 なつきが小さく言う。


「うん」


 春樹も見ている。


 男子生徒は渡り廊下の手前まで戻った。


 そこで再び立ち止まる。


 最初の案内まで完全には戻らない。


 何かを思い出そうとするように、視線を上へ向けている。


 矢印は右。


 右へ曲がった。


 その後は書かれていなかった。


 自分が見落としたと思っているのかもしれない。


 男子生徒は少し考え、今度は通りかかった教師へ声を掛けた。


「あの、第二実習室ってどこですか?」


「この先の分かれ道を左」


「ありがとうございます」


 教師へ頭を下げ、再び分かれ道へ向かう。


 今度は迷わず左へ曲がり、第二実習室へ着いた。


 紅秋が確認終了の声を掛ける。


 男子生徒が少し恥ずかしそうに笑った。


「迷いました」


「ありがとう」


 紅秋はすぐに礼を言った。


「何を探したか聞いてもいい?」


「案内です」


「どこで?」


「分かれ道」


「どんな案内?」


 男子生徒は少し考える。


「第二実習室って書いてあるもの」


「矢印?」


「矢印でも、教室名でも」


「避難経路図は見た?」


「見ました」


「そこに教室名があると思った?」


「校舎の地図かなって」


「左へ一度進んだよね」


「何となく、こっちな気がしたので」


「どうして戻ったの?」


「自信なかったから」


「最初の案内をもう一度見ようと思った?」


「はい。でも全部戻るのも遠いから、途中で誰かに聞きました」


「最初の案内で、二回曲がることを覚えてた?」


 男子生徒は首を横に振った。


「最初に右は分かりました。その後も何か書いてあったかもしれないけど、覚えてないです」


「小さな地図があったら見たと思う?」


「最初は見るかもしれないです。でも、歩いてる間に忘れるかも」


「写真は?」


「分かれ道の写真?」


「うん」


「同じ場所に着いたとき、思い出すかもしれない」


「床や窓を目印にする案内は?」


「それも書いてあれば」


「何が一番あると助かる?」


 質問が重なりかけ、紅秋が手を上げた。


「一度に聞かない」


 島中が口を閉じる。


 男子生徒は少し笑った。


「俺も、何が一番か分からないです」


「迷ったときは、何が欲しかった?」


 なつきが尋ねた。


 男子生徒は分かれ道を振り返る。


 掲示板。


 避難経路図。


 左右へ続く廊下。


 その場所を見ながら、ゆっくり答えた。


「ここで合ってるって分かるもの」


「方向じゃなくて?」


「方向も欲しいけど」


 男子生徒は左の廊下を指す。


「左かなって思ったんです。でも、間違ってたら嫌だから戻りました。左で合ってるって分かれば、そのまま行けたと思います」


 ここで合っている。


 なつきはその言葉を記録へ書いた。


 自分たちは、分かれ道へ矢印を置くかどうかを考えていた。


 左。


 第二実習室はこちら。


 進む方向を伝えるもの。


 けれど、男子生徒が探していたのは、方向だけではなかった。


 ここまで来た道が間違っていないという確認。


 最初の案内から、自分が外れていないと分かる印。


 進ませる案内ではなく、安心させる案内。


「ありがとう」


 なつきが言う。


「迷ったのに?」


「迷ったから分かったことがあった」


「それなら良かったです」


 男子生徒は照れたように笑い、紅秋と一緒に教室へ戻っていった。


 二人目の協力者が来るまで、十一組ラボのメンバーは分かれ道付近で待機した。


 今の結果について話し合いたくなる。


 中継案内が必要。


 ここで合っているという印。


 青い丸だけでも置く。


 言葉がいくつも浮かぶ。


 けれど、まだ一人。


 先に結論を決めれば、次の人も同じ見方で観察してしまう。


「話すの我慢するの、きついな」


 島中が小声で言う。


「思ったことだけメモして」


 紅秋が答える。


「口にしたら駄目?」


「他の人を引っ張るから」


「みんな同じこと思ってるかもしれない」


「違うことを思ってるかもしれない」


「分かった」


 島中はクリップボードへ勢いよく何かを書いた。


 田辺が横から覗こうとすると、すぐに紙を隠す。


「見るな」


「見てない」


「今見た」


「字が汚くて読めなかった」


「読めないならいい」


「いいんだ」


 小さな笑いが起きる。


 緊張が少し和らいだ。


 二人目は、商業科一年の女子生徒だった。


 小柄で、手にはまだ食べ終えていない紙パックの飲み物を持っている。


「これ、持ったままでいいですか?」


「普段どおりなら」


 紅秋が答える。


「いつも移動中に飲んでる?」


「昼休みは」


「じゃあ、そのままで」


「こぼしたら?」


「止まって飲んでもいいよ」


 女子生徒は笑い、ストローを一度口へ運んだ。


 開始位置へ立つ。


 青い案内へ近づく。


 彼女は遠くから青い丸へ気づいた。


 案内の前で立ち止まり、大きな矢印を見る。


 下の小さな文には、ほとんど視線を向けない。


 そのまま右へ曲がる。


 渡り廊下を歩く。


 途中で紙パックを飲み、窓の外へ一度視線を向けた。


 分かれ道へ近づく。


 足が止まる。


 女子生徒は正面を見る。


 左を見る。


 紙パックのストローを口から離す。


 周囲の掲示へは目を向けなかった。


 代わりに、床を見る。


 正面の廊下。


 左の廊下。


 床材の色と継ぎ目を見比べる。


 次に左側の大きな窓を見る。


 そして、迷わず左へ曲がった。


 第二実習室へ着く。


 紅秋が終了を告げた。


「迷わなかった?」


「少し迷いました」


「どこで?」


「分かれ道」


「どうして左へ行ったの?」


 女子生徒は少し考える。


「商業棟っぽかったから」


「商業棟っぽい?」


「床が違うし、窓の向こうの景色が、商業科の教室から見える方と似てたので」


「第二実習室が商業棟にあるって知ってた?」


「何となく。名前が実習室だから」


「案内を探した?」


「探してないです」


「どうして?」


「ないと思ったから」


 なつきは少し驚いた。


「ないと思った?」


「学校の中って、教室の前には名前があるけど、途中にはあまり案内ないので」


「最初の案内があったのに?」


「あれは特別に置いてある感じでした」


「途中にも同じ青い丸があるかもとは思わなかった?」


「思わなかったです」


「もしあったら?」


「見れば分かりやすいと思います」


「なくても行けた?」


「今回は」


「どうして行けたと思う?」


「学校の雰囲気?」


 女子生徒は少し恥ずかしそうに笑った。


「説明しづらいです」


「床と窓?」


「それもあるし、廊下の感じ」


 建物の特徴を使った。


 けれど、最初の案内に書かれていたからではない。


 学校で過ごしてきた経験から、自分で判断した。


 商業棟らしさ。


 床の違い。


 窓から見える景色。


 それらを手掛かりにした。


「初めてこの学校へ来た人だったら?」


 蓮が尋ねる。


「分からないと思います」


「一年生の最初なら?」


「たぶん迷います」


「今は学校に慣れてるから行けた?」


「はい」


 同じ一年生でも、校舎で過ごした時間が助けになっている。


 案内だけの力ではない。


 利用者がすでに持っている知識。


 建物の雰囲気。


 経験。


 それらと案内が重なって、目的地へたどり着く。


 案内だけを見て評価してはいけない。


「何か途中に置くなら、何がいい?」


 紅秋が尋ねる。


「青い丸」


「矢印は?」


「青い丸が左にあれば、そっちかなって思う」


「文字は?」


「第二実習室ってあれば確実」


「大きい必要ある?」


「近づいたら見えるくらいでいいです」


「どうして?」


「分かれ道まで来たら、見る時間あるから」


 最初の案内では、遠くから見える大きさが必要だった。


 分かれ道では、すでに立ち止まる可能性が高い。


 同じ大きさの案内である必要はない。


 場所によって役割だけでなく、見せ方も変わる。


「ありがとうございました」


「これ、役に立った?」


「すごく」


「床見たことも?」


「それが一番意外だった」


「普通だと思ってました」


「私たち、写真を使うとか、床を目印にするとか考えてたから」


「じゃあ床でいいんじゃないですか?」


「色が分かりにくい人もいる」


「ああ」


 女子生徒はもう一度床を見る。


「じゃあ、青い丸があればいいと思います」


 短い答え。


 けれど、その人が何を見て進んだかを聞いた後では、重さが違う。


 三人目は、特進科二年の女子生徒だった。


 背が高く、歩く速度が速い。


 昼休み終了まで時間がないため、少し急いでいると最初に伝えられた。


「本当に今やる?」


 紅秋が尋ねる。


「大丈夫です。次の授業は同じ階なので」


「急いでるなら、途中で終わってもいいよ」


「普段もこのくらいで歩くから、ちょうどいいと思います」


 急いでいる人を演じてもらうのではない。


 本当に少し時間を気にしている利用者。


 その状態で青い案内がどう使われるかを見る。


 女子生徒は開始位置へ立つ。


 合図。


 歩き出す。


 青い案内へ視線を向ける。


 速度をほとんど落とさない。


 大きな青い丸。


 第二実習室。


 右向きの矢印。


 その三つだけを見る。


 小さな一文は読まない。


 右へ曲がる。


 渡り廊下を速い歩調で進む。


 分かれ道へ着く。


 足は止まらなかった。


 そのまま正面へ進む。


 間違った方向。


 なつきの身体が動きかける。


 けれど、女子生徒は数歩進んだところで速度を緩めた。


 周囲を見る。


 教室の扉に書かれた名前を確認する。


 第二実習室ではない。


 立ち止まる。


 振り返る。


 そこまでで、紅秋が声を掛けた。


「確認終了。戻ってきて大丈夫」


 女子生徒が分かれ道まで戻る。


「間違えました」


「分かれ道、気づいた?」


「気づきました。でも、まっすぐだと思いました」


「どうして?」


「最初の矢印が右だったので、一回曲がった後は、そのままだと思った」


「左の廊下は見た?」


「見えました。でも、そっちへ曲がる理由がなかったです」


「案内を探した?」


「急いでたので、探してません」


「床や窓は?」


「見てません」


「何があれば左へ曲がった?」


「大きい矢印」


「青い丸だけでも?」


「丸だけだと、何だろうって思うかもしれない」


「第二実習室って文字は?」


「小さいと読まないです」


「じゃあ大きな矢印と教室名?」


「どっちか一つなら矢印」


 島中がわずかにうなずいた。


 自分が最初から大きな矢印を重視していたためだろう。


 けれど、すぐに口を挟まなかった。


 最後まで聞く。


「間違ったと気づいたのは?」


「教室名を見たから」


「そのまま進み続けることはなかった?」


「たぶん、もう少し先で人に聞いたと思います」


「戻るのは嫌だった?」


「少し。急いでたので」


「最初の案内へ二回曲がることが書いてあったら覚えた?」


 女子生徒は少し考える。


「矢印が二つ並んでたら見るかもしれない。でも急いでると、一つ目しか覚えないかも」


「地図は?」


「見ないです」


「写真は?」


「たぶん見ない」


「分かれ道に印が必要?」


「私はあった方がいいです」


「どんな?」


「見た瞬間、左って分かるもの」


 最初の男子生徒は、ここで合っていると確認できるものを求めた。


 二人目の女子生徒は、青い丸と教室名があれば安心すると言った。


 三人目の女子生徒は、見た瞬間に左だと分かる大きな矢印を求めた。


 同じ場所で迷っても、必要としているものが違う。


「ありがとうございました」


 紅秋が礼を言う。


「授業、間に合う?」


「大丈夫です」


「急いでるところ、本当にありがとう」


「案内できたら、次から迷わないので」


 女子生徒は笑い、早足で自分の教室へ戻っていった。


 昼休み終了の予鈴まで、あと七分。


 十一組ラボのメンバーは急いで教室へ戻った。


 机を囲む時間はない。


 廊下脇の空きスペースで、事実だけを短く確認する。


 一人目。


 分かれ道で案内を探した。


 左へ進みかけたが、自信がなく戻った。


 ここで合っているという確認を求めた。


 二人目。


 分かれ道で床と窓を見た。


 校舎で過ごした経験から左を選んだ。


 中継案内がなくても進めた。


 三人目。


 急いでおり、分かれ道で止まらなかった。


 正面へ進み、教室名を見て間違いに気づいた。


 見た瞬間に左と分かる矢印を求めた。


「中継案内は必要」


 島中が言った。


 今度は誰もすぐには反対しなかった。


「少なくとも、ない状態で三人中二人が迷った」


 蓮が記録を見る。


「一人は経験で進めた。でも初めて学校へ来た人なら分からないと言ってた」


「じゃあ置く?」


 茜が尋ねる。


「置く場所の問題がある」


 美優が分かれ道の図を広げる。


「避難経路図の近くは駄目。床置きも駄目。柱は人が立つと隠れる」


「天井は許可が必要」


「最初の青い案内を変える案も残る」


「でも、最初に全部覚えられないって二人が言った」


 なつきが言う。


「急いでる人は一つ目しか見ないかもしれない。地図も写真も見ない」


「中継が一番確実」


 島中がうなずく。


「でも何を置く?」


 紅秋が問いかける。


「青い丸」


 なつきが答える。


「大きな矢印」


 島中が続く。


「第二実習室という文字」


 蓮が言う。


「全部?」


 田辺が尋ねる。


 三人の利用者が求めたものを全部入れる。


 青い丸。


 左向きの矢印。


 第二実習室。


 情報量は多くない。


 それでも、どれを一番大きくするか。


 どこへ置くか。


 また考える必要がある。


「最初の案内と同じ形にする?」


 美優が聞く。


「青い丸を一番上。第二実習室。大きな矢印」


「分かれ道では、遠くから見つける必要ある?」


 茜が尋ねる。


「急いでる人は止まらない」


 島中が答える。


「だから遠くから矢印が見えた方がいい」


「青い丸より矢印を大きくする?」


「最初の案内と見た目が変わる」


「役割が違うなら変えていい」


 蓮が言う。


「最初は案内の入口だから青い丸。途中は進む方向だから矢印」


「青い丸は、同じ流れだと確認するために残す」


 なつきが続ける。


「文字は?」


「左へ曲がる直前なら、近づけば読めるくらい」


「急いでる人は読まない」


「矢印で進める」


「自信がない人は文字で確認する」


「青い丸で、最初の案内から続いてると分かる」


 役割が少しずつ分かれていく。


 青い丸。


 つながり。


 大きな矢印。


 進む方向。


 第二実習室という文字。


 確認。


 三人の利用者が探していたものを、一つへ平均にするのではなく、それぞれ別の役割として残す。


「でも置き場所」


 紅秋が言った。


 全員の表情が少し沈む。


 内容が決まっても、置けなければ使えない。


「小さい旗みたいにできない?」


 島中が言う。


「柱から横へ出す」


「通行に当たる」


「高い位置」


「設置許可」


「窓に貼る?」


 なつきが左側の大きな窓を思い出す。


「窓?」


「分かれ道の左に大きな窓があるでしょう。その窓の内側へ、青い丸と矢印を貼る」


「避難経路図と重ならない」


 美優が図を見る。


「床にも置かない」


「外からの光で見えにくくならない?」


 蓮が尋ねる。


「時間帯による」


「窓の開閉は?」


「固定の窓なら動かない」


「掃除は?」


「剥がせるものにする」


「防火上は?」


「先生へ確認」


 置ける可能性が見えた。


 ただし、まだ可能性。


 実際に仮置きし、昼と放課後の光で見えるか確認する必要がある。


「放課後、試作して窓に仮置き」


 紅秋が決める。


「担当の先生と、施設管理の先生にも聞く」


「今日中に?」


「許可が取れれば」


「止まらずに待つ」


 島中が自分から言った。


 なつきは思わず笑う。


「もう島中の言葉みたいになったね」


「俺が最初から言ってた」


「言ってない」


「気持ちはあった」


「今作ったでしょう」


 予鈴が鳴る。


 全員がそれぞれの教室へ戻り始める。


 なつきと春樹も、途中の階段まで並んで歩いた。


「今日、動かなかったね」


 春樹が言う。


「何が?」


「最初の人が迷ったとき」


「動きたかったけど」


「我慢した?」


「うん」


「偉い」


「子ども扱いしないで」


「でも、前は動きかけた」


「春樹だって、身体少し前に出てたよ」


「見てたの?」


「隣にいたから」


「……少しだけ」


「ほら」


「でも動かなかった」


「私も」


 二人で小さく笑う。


 同じように助けたくなった。


 同じように待った。


 困っている人を放っておいたわけではない。


 必要ならすぐ声を掛けられる位置にいた。


 それでも、本人が何を探し、どう判断するのかを見るために、少しだけ距離を残した。


「今日の三人、同じ場所で迷ったのに違ったね」


 なつきが言う。


「一人は安心できる確認」


「一人は学校の雰囲気」


「一人は大きな矢印」


「案内を置くなら、誰に合わせる?」


「一人に合わせない」


 春樹が答える。


「でも全部入れると、また見づらくなる」


「役割を分ける」


「青い丸、矢印、文字?」


「うん」


「三つで足りるかな」


「それはまた見てもらう」


「終わらないね」


「終わらせようと思えば終わるよ」


 春樹の言葉に、なつきは少し驚いた。


「どうやって?」


「今日の三人中二人が迷った。だから大きな矢印を置く。そこで完成にする」


「それでいいの?」


「決めれば終われる」


「でも、青い丸を探す人も、文字で確認したい人もいる」


「だから終わらせないんでしょう?」


 階段の踊り場で、二人は少し端へ寄った。


 授業へ戻る生徒たちが、急いで階段を上がっていく。


「終わらないんじゃなくて、終わらせてない?」


 なつきが尋ねる。


「見えた声を置いていきたくないから」


「うん」


「でも、いつかは決めないと置けない」


「うん」


「どこで決める?」


 その問いに、なつきはすぐには答えられなかった。


 意見を待つ。


 初見確認をする。


 現地を見る。


 迷う場所を聞く。


 続ければ続けるほど、新しい声が増える。


 すべての人へ確認することはできない。


 全員が一度も迷わない案内も作れないかもしれない。


 いつかは、今ある声をもとに決めなければならない。


「分からない」


 なつきは正直に答えた。


「春樹は?」


「僕も分からない」


「珍しい」


「僕だって分からないことあるよ」


「いっぱいありそう」


「ひどい」


「でも、いつも考えてから話すから、分かってるように見える」


「分からないから考えてる」


 春樹は少しだけ笑った。


「今日のおかえり会で話すことになるんじゃないかな」


「どこまで声を集めたら決めるか?」


「うん。案内の形だけじゃなくて、決める条件」


「また難しい話増えた」


「増えたね」


 予鈴の後、もう一度チャイムが鳴る。


 二人は階段の途中で別れた。


 午後の授業中、なつきの頭には「ここで合っている」という言葉が残っていた。


 左へ進む方向は、何となく分かっていた。


 けれど自信がないから戻った。


 必要だったのは、進ませる強い命令ではない。


 今までの道が間違っていないと伝える、小さな確認。


 案内は、行き先を示すだけではない。


 途中で不安になった人へ、ここまでで合っていると伝えることもできる。


 それは春樹との関係にも、少し似ているように思えた。


 答えはまだ先。


 どこへたどり着くかは分からない。


 それでも、今一緒に歩いていることが間違いではないと分かる言葉があれば、戻らずに進める。


 昨日、春樹は言った。


 逃げないようにする。


 確実な答えではない。


 けれど、今の道が途切れていないと感じられる言葉だった。


 放課後。


 十一組ラボの教室では、すぐに中継案内の試作づくりが始まった。


 大きさは、最初の青い案内の半分ほど。


 上部の左端に青い丸。


 中央に大きな左向きの矢印。


 矢印の下へ、『第二実習室』。


 さらに小さく、『この道で合っています』という一文を置く案が出た。


「これ、必要?」


 島中が最後の一文を指す。


「一人目の人が求めてた」


 なつきが答える。


「青い丸と教室名があれば分かるんじゃない?」


「分かる人もいる」


「文字増える」


「小さくする?」


「小さいと読まれない」


「安心の言葉だから、近づいた人だけ読めればいい」


 美優が言う。


「急いでる人は矢印。自信がない人は文字」


「青い丸はつながり」


 蓮が三つを指す。


「役割は分かれてる」


「『この道で合っています』って、少し長い」


 田辺が言う。


「『ここまで合っています』」


「その先は?」


「左」


「『左で合っています』」


「方向と確認が一緒になる」


「それ、いいかも」


 なつきは紙へ書く。


『左で合っています』


 大きな矢印の下。


 第二実習室という文字の横。


 少し離れて見る。


「変じゃない?」


 茜が首を傾げる。


「誰かに話しかけられてるみたい」


「それが安心になるかも」


「でも右へ行こうとしてる人に、左で合っていますって?」


「矢印見れば分かる」


「『第二実習室は左です』でよくない?」


 島中が言う。


 教室が静かになる。


 簡単。


 目的地。


 方向。


 確認。


 一文に全部入っている。


「確かに」


 なつきは少し笑った。


「私たち、安心させる言葉を作ろうとして、普通の案内から離れてた」


「『第二実習室は左です』なら、ここで合ってることも分かる」


 美優がうなずく。


「大きな矢印と同じ内容を文字でも伝える」


「重複?」


 蓮が尋ねる。


「入口ごとに同じ意味を置く話、前にしたでしょう」


 春樹が言う。


「矢印を見る人。文字を読む人。青い丸を追う人。どこから見ても左へつながる」


「第169話で考えた形」


 なつきが言う。


「戻ってきた」


「理由が増えて戻った」


 美優が以前と同じ言葉を口にする。


 形は似ている。


 けれど、なぜ必要なのかを今は知っている。


 矢印を大きくしたいから。


 文字も入れた方が親切そうだから。


 青い丸が目印だから。


 それだけではない。


 三人が同じ場所で、それぞれ違うものを探した。


 その声を、別々の入口として残す。


 中継案内の試作ができると、全員で分かれ道へ向かった。


 窓の内側へ養生テープで仮置きする。


 午後の光が差し込んでいる。


 白い紙は少し明るくなりすぎ、文字が見えにくい。


「逆光」


 島中が言う。


「昼はもっと強いかも」


 美優が目を細める。


「青い丸は見える」


「矢印も形は分かる」


「文字は読みにくい」


「窓じゃ駄目?」


 なつきが落胆する。


「紙の色を変える?」


 茜が尋ねる。


「白じゃなくて、薄い灰色」


「青い丸が沈む」


「枠を付ける」


「窓の下半分なら逆光弱い?」


「人に隠れる」


 また問題。


 それでも、全員の表情は以前ほど重くなかった。


 置ける可能性がある。


 なら、素材や位置を変えて試す。


「透明の板に、青い丸と矢印だけ貼る?」


 春樹が言う。


「背景が窓の景色になる」


「文字がもっと読みにくい」


「文字だけ白い枠」


「作れる?」


「印刷したものをラミネートすれば」


「ラミネート、光反射しない?」


「するかも」


「また確認」


 島中が笑う。


「終わらないな」


「でも前より、何を確認するか分かる」


 なつきが答える。


 白い紙。


 薄い灰色の紙。


 透明板。


 三つを試す。


 昼と放課後。


 人が前に立った状態。


 急いで歩く状態。


 初見の利用者。


 確認項目が決まっていく。


「明日、また頼む?」


 田辺が尋ねる。


「今日の三人には、結果を返したい」


 なつきが言った。


「特に一人目。ここで合ってるものが欲しいって言ってたから」


「新しい人にも必要」


 蓮が続ける。


「一度迷った人は、場所を覚えてる」


「両方」


 紅秋が決める。


「同じ人に再確認。初見の人にも確認」


「人数増える」


「一日で全部やらない」


「また待つ」


 島中が言い、今度は自分で笑った。


 教室へ戻る頃には、外の空が赤く染まり始めていた。


 窓の試作は一度外し、先生の許可が取れるまで保管する。


 現地へ勝手に残さない。


 案内を置くことが、別の利用者や安全の邪魔にならないようにする。


 おかえり会では、今日の三人の反応を改めて共有した。


「中継案内を置く方向でいいと思う」


 紅秋が言う。


「ただし、完成条件を決めたい」


 黒板へ新しい題が書かれる。


『何を確認したら、試験設置へ進むか』


 教室が少し静かになる。


「全員が迷わなくなったら?」


 島中が言う。


「全員って何人?」


 蓮が尋ねる。


「確認した人全員」


「三人で全員になってもいい?」


「……少ない」


「十人?」


「数字だけ増やしても、同じ見方の人ばかりなら意味がない」


 美優が言う。


「一人で歩く人。二人で歩く人。急ぐ人。立ち止まる人」


「学校に慣れてる人と、慣れてない人」


 茜が加える。


「文字を見る人。矢印を見る人」


 なつきも言う。


「全部そろえる?」


 田辺が尋ねる。


「全部は無理」


「じゃあどこまで?」


 また答えが止まる。


 完成条件。


 決めるための条件。


 これまで、何度も確認を重ねてきた。


 けれど、何人へ聞けば十分なのか。


 どの程度迷わなければ試していいのか。


 そこは曖昧だった。


「ゼロを目指さない方がいい」


 春樹が言った。


「迷う人をゼロに?」


「うん。ゼロになるまで確認したら、たぶんずっと置けない」


「でも迷う人がいるまま置く?」


 なつきが尋ねる。


「迷ったときに戻れるかも見る」


「戻れる?」


「案内を見落としても、間違った方向へ進んだときに気づける。誰かに聞ける。最初の案内へ戻れる。全部失敗しない道を作るんじゃなくて、途中で直せる道も残す」


「案内だけで全部助けない?」


「うん」


「でも人に聞けない人は?」


「中継案内を見つけられる形を作る」


「見落としたら?」


「最初の案内に、途中にも青い丸があるって書く?」


 新しい案が出る。


 青い丸を追ってください。


 最初の案内に一言加える。


 それなら、中継案内を探す理由ができる。


「でも覚えること増えない?」


 島中が言う。


「『青い丸を追う』なら短い」


 美優が答える。


「矢印二つを覚えるより簡単かも」


「青い丸が見えない場所にあったら?」


「置き方を確認する」


「結局そこ」


「だから完成条件に入れる」


 紅秋が黒板へ書く。


 一つ。


 最初の案内から、次の青い丸を探すことが伝わる。


 二つ。


 分かれ道で、立ち止まる人と急ぐ人の両方が中継案内へ気づける。


 三つ。


 矢印、文字、青い丸のどこから見ても、左へ進むことが分かる。


 四つ。


 案内を見落とした場合でも、危険な場所へ進まず、戻るか尋ねることができる。


 五つ。


 避難経路や通行を妨げない。


「これ全部確認できたら、試験設置?」


 島中が尋ねる。


「まず短期間」


 紅秋が答える。


「一日か二日」


「また意見回収?」


「必要」


「封筒増える?」


「今の二回目回収が終わってから」


「意見が混ざる」


 蓮が言う。


「今の封筒は、現在の案内について。新しい案は別の回収」


「記録も分ける」


 美優が書き足す。


 少しずつ、決める条件が形になる。


 全員が迷わないことではない。


 違う見方の人が、必要な入口を見つけられること。


 迷っても、戻れること。


 安全を損なわないこと。


 そして、短期間試してから改めて声を受け取ること。


 完成ではない。


 試してよい状態。


 そこを目指す。


「完璧になるまで待つんじゃないんだね」


 なつきが言う。


「利用者に見せても危なくないところまで」


 紅秋が答える。


「その後は、使ってもらわないと分からない」


「怖い?」


 春樹が隣から尋ねる。


「少し」


「僕も」


「春樹も?」


「作ったものを外へ出すのは怖いよ」


「でも出す?」


「出さないと、作った側の正解のままになる」


 なつきは黒板の条件を見つめた。


 すべてを確かめてから出すことはできない。


 けれど、何も確かめずに出すわけでもない。


 今ある声を受け取り、危険や大きな迷いを減らす。


 その上で、利用者へ渡す。


 返ってきた声から、また直す。


 終わらせるのではなく、次へ渡せるところで一度決める。


「じゃあ、明日の確認で条件を満たしたら」


 なつきはゆっくり言った。


「試験設置へ進む?」


 紅秋は全員を見回した。


 島中。


 田辺。


 蓮。


 美優。


 茜。


 春樹。


 そして、なつき。


「進む」


 はっきり答えた。


 教室の空気が少し変わった。


 まだ決まったわけではない。


 明日の確認で問題が見つかれば、また直す。


 許可が下りなければ、置き方を変える。


 それでも、初めて終わりではなく、外へ渡すための目印ができた。


 帰り道。


 なつきと春樹は、いつものように並んで校門へ向かっていた。


 夕方の風は涼しく、校舎の影が長く伸びている。


「決める条件って、必要なんだね」


 なつきが言う。


「ないと、ずっと不安なところを探せるから」


「探しちゃ駄目?」


「探してもいい。でも、全部直してからじゃないと進めないと思うと、進めなくなる」


「恋愛も?」


 春樹が少しだけ足を止めた。


「今日は春樹から言った」


「なつきが言いそうだったから」


「先に取った?」


「少し」


「ずるい」


 二人はまた歩き出す。


「恋愛にも完成条件ある?」


 なつきが聞く。


「分からない」


「また分からない」


「すぐ決めたら怒るでしょう」


「怒らないけど」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


 同じ言葉を返され、なつきは笑った。


「でも、全部不安じゃなくなってから聞こうとしたら、ずっと聞けないかも」


 春樹は黙って聞いている。


「怖くない日を待ってたら、来ないかもしれない」


「うん」


「じゃあ、どこまでなら聞いていいんだろう」


 春樹はすぐには答えなかった。


 なつきも、沈黙を急かさず歩く。


 校門へ向かう生徒たちの声。


 自転車置き場の金属音。


 遠くのグラウンドから聞こえる掛け声。


 その中で、春樹はゆっくり口を開いた。


「聞いた後も、話せると思えたら」


「答えが違っても?」


「怖いけど」


「うん」


「聞いたことで、今までの全部がなくなるわけじゃないって思えたら」


 なつきは胸の奥が少し痛くなるのを感じた。


 違う答え。


 その可能性はある。


 聞けば、嬉しい答えだけが返ってくるとは限らない。


 それでも、今まで歩いた時間が消えるわけではない。


 話したこと。


 待ったこと。


 隣にいたこと。


 それらは、答えのためだけにあったわけではない。


「じゃあ、まだ少し怖い」


「僕も」


「でも、前よりは聞けそう」


「僕は前より、答えることを考えてる」


 なつきは足を止めた。


 春樹も数歩先で止まり、振り返る。


「今、何て?」


「答えることを考えてる」


「私への?」


 春樹の耳が赤くなる。


 それでも視線を逸らさなかった。


「他に誰がいるの?」


 胸が強く跳ねた。


 今すぐ聞きたい。


 聞いてしまいたい。


 けれど、春樹の顔には、まだ迷いも残っている。


 なつきは一度息を吸った。


「今日は聞かない」


 春樹が少し驚く。


「いいの?」


「うん」


「どうして?」


「聞ける場所があるって分かったから」


「……うん」


「それに、春樹も考えてるって分かった」


「うん」


「ここまでで合ってる?」


 なつきは少し笑って尋ねた。


 今日の男子生徒が探していた言葉。


 春樹も、その意味に気づいたように目を細める。


「合ってる」


「戻らなくていい?」


「いいよ」


「じゃあ、今日はここまで進む」


「うん」


 二人は再び並んで歩き出した。


 答えはまだ聞いていない。


 けれど、今いる場所が間違っていないと分かった。


 進む方向だけを示す強い矢印ではなく。


 ここまで歩いてきた道を肯定してくれる、小さな確認。


 それがあれば、次の分かれ道まで進める。


 明日。


 十一組ラボは、中継案内の再確認を行う。


 青い丸。


 大きな左向きの矢印。


 第二実習室という文字。


 違うものを探す人たちが、どこから見ても同じ道へ進めるように。


 そして条件を満たせたなら、初めて新しい案内を利用者のいる場所へ渡す。


 完璧だからではない。


 迷いが一つもなくなったからでもない。


 迷ったときに戻れること。


 違う見方が残っていること。


 安全に試せること。


 返ってきた声を、また受け取れること。


 そこまで準備できたから、一度外へ出す。


 夕暮れの道に、二人の影が並んで伸びている。


 途中には、まだ何度も分かれ道があるだろう。


 それでも、今は戻らなくていい。


 ここまでで合っている。


 その言葉を胸に残しながら、なつきは春樹の隣を歩き続けた。

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