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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第171話 選ばなくても進める場所で、立ち止まる理由は変わっていく



 翌日の朝、梅桜高校の空には薄い雲が広がっていた。


 雨が降るほどではない。


 けれど、昨日までの強い日差しは少しだけ隠れ、校舎の白い壁も、中庭の木々も、柔らかな灰色の光に包まれている。正門をくぐる生徒たちの影は短く、輪郭も曖昧だった。


 風は涼しかった。


 夏の終わりが、本当に近づいている。


 なつきは昇降口へ向かいながら、何度か鞄の中へ意識を向けた。


 昨日作った新しい試作の記録。


 青い丸と黄色い三角を左右へ並べ、最初にどちらかを選んでもらう旧案。


 全員が青い丸から入り、必要な人だけ黄色い三角の追加説明へ進む新案。


 二つの試作を並べ、今日は再確認を行う。


 昨日協力してくれた三組の生徒に、変更後の案を見てもらう。


 さらに、今まで試作を見ていない生徒にも初見で使ってもらう。


 同じ人の変化。


 初めて見る人の反応。


 両方を確認してから、次の案内を決める。


 予定は頭に入っている。


 それでも、なつきの中には落ち着かないものが残っていた。


 昨日の新案は、本当に前より良くなったのだろうか。


 選ばなくても始められるようにした。


 自分がどちらの人間なのか、最初に決めなくてもいい。


 青い案内だけで目的地へ進める。


 もっと詳しく知りたいときだけ、黄色い追加説明を見る。


 考え方としては、昨日の試作より優しくなった気がする。


 けれど、選ばなくてもいいようにしたことで、今度は黄色い説明の存在へ気づかない人が増えるかもしれない。


 青だけで進めるなら、誰も黄色を見ないかもしれない。


 詳しく知りたい人が、詳しい説明があると分からないまま進んでしまう可能性もある。


 一つ直せば、別の場所が気になる。


 以前なら、それを失敗のように感じていた。


 今は少し違う。


 気になるところがあるから、確認する。


 確認して、利用者の反応を聞く。


 それでも、心配が消えるわけではなかった。


「おはよう」


 後ろから声を掛けられる。


 振り返ると、春樹が歩いてきた。


「おはよう」


「今日は考えながら上を見てないね」


「見てない」


「鞄を何回も触ってたけど」


「見てたの?」


「隣に来る前から見えた」


「春樹も私に詳しくなってきたね」


「分かりやすいから」


「またそれ」


 なつきは少し頬を膨らませた。


 春樹は笑いながら、歩調を合わせる。


「今日の再確認?」


「うん」


「不安?」


「少し」


「昨日の案、良くなったと思うけど」


「私も思う。でも、良くなったと思ってるのは作った側だから」


「確かに」


「昨日だって、選べるようにしたときは良いと思ってたでしょう」


「思ってた」


「でも、実際に使ってもらったら、選ぶ前で迷う人がいた」


「うん」


「だから今日も、良いって決めて見たら駄目かなって」


 春樹はすぐには答えなかった。


 昇降口の前には、登校する生徒が集まり始めている。生活委員の声や、友人を呼ぶ声が重なり、二人は少し端へ寄った。


「良いと思ってること自体は、駄目じゃないと思う」


 春樹が言う。


「本当に?」


「そう思って作ったんだから」


「でも、それに引っ張られるかもしれない」


「引っ張られることはある」


「じゃあ駄目じゃん」


「だから、一人で見ないんじゃない?」


 なつきは顔を上げた。


「僕が良いと思ったところと、なつきが気になるところは違うかもしれない。島中は矢印を見るし、蓮は選択の仕組みを見る。茜や美優も別のところを見る」


「みんなで見れば、自分の良いと思う気持ちが消える?」


「消えないけど、違う見方が入る」


「……うん」


「自分の考えをなくすために集まるんじゃなくて、増やすために集まるんだと思う」


 昇降口へ入り、二人は靴箱の前で別れる。


 なつきは上履きへ履き替えながら、春樹の言葉を繰り返した。


 自分の考えをなくすためではない。


 増やすため。


 昨日までの十一組ラボもそうだった。


 直したい気持ちを消さずに、待つ理由を増やした。


 選べる方が良いという考えを捨てずに、選ばなくても使える道を加えた。


 正解を一つへ細くするのではなく、見落としているものを少しずつ増やしていく。


 それなら、自分が新案を良いと思っていることも、隠さなくていいのかもしれない。


 朝のホームルーム前。


 教室へ入ると、茜がすぐに振り返った。


「今日、お願いした三組、全員来られるって」


「本当?」


「うん。一組目の男子は、また人に見られるのかって笑ってたけど」


「嫌がってなかった?」


「大丈夫。昨日より短いなら助かるって」


「昨日、長かったもんね」


「質問が多かったから」


 なつきは机へ鞄を置く。


「新しい人は?」


「普通科一年の男子一人と、商業科二年の女子二人組。紅秋が頼んでくれた」


「全部で六人?」


「昨日の三組が四人だから、新しい三人と合わせて七人」


「結構多いね」


「全員を一度に見ないよ。昼休みと放課後に分けるって」


「そっか」


「昼休みは昨日の三組。放課後は新しい三人」


 茜はそこで少し声を落とした。


「あと、昨日の二人目の一年生、黄色も見てみたいって言ってた」


「青を選んだ子?」


「うん。昨日は青しか見なかったから、変更後に黄色がどう見えるか気になるって」


「自分から?」


「そう」


 なつきは少し驚いた。


 協力をお願いした生徒は、初見確認へ参加しただけだった。


 十一組ラボの一員ではない。


 次も見てみたいと言う必要はない。


 それでも、自分が使った案内がどう変わるのか気にしてくれている。


「嬉しいね」


 なつきが言う。


「うん」


「見てもらって終わりじゃないんだ」


「昨日、自分の言ったことがどう使われたか知りたいんじゃないかな」


「ちゃんと伝えないとね」


「何を?」


「その子が青を選んだことを、青が正解だったって使ってないこと。黄色が怖く見えたって言ってくれたから、入口の意味を変えたこと」


 茜は静かにうなずいた。


「利用者へ結果を返す」


「うん」


「それも、おかえり会なのかもね」


「おかえり会?」


「意見をもらって終わりじゃなくて、その声がどこへ帰ってきたか伝える」


 なつきは少し考えた。


 十一組ラボでは、試したものが戻ってきた後に話し合う時間を、おかえり会と呼んでいる。


 利用者へ渡した試作。


 そこから戻ってきた意見。


 そして、意見を受けて変わった案。


 声もまた、一度受け取って終わりではない。


 形を変え、利用者のところへ帰っていく。


「今日、説明する時間あるかな」


「紅秋に聞いてみよう」


 一時間目。


 二時間目。


 授業は進んでいく。


 なつきは昨日よりも落ち着いて黒板を見ていた。


 もちろん、再確認のことは気になる。


 それでも、自分一人で答えを出すわけではないと思うと、少しだけ肩の力が抜けた。


 休み時間には、鞄から記録を取り出したくなった。


 けれど、授業のノートと混ざるため我慢する。


 前の席の茜が一度だけ振り返り、なつきが教科書を見ていることを確認すると、満足そうに前を向いた。


 監視されているようで少し不満だったが、自分が昨日まで授業中にも考え込んでいたことを思えば、仕方がない。


 昼休み。


 十一組ラボの教室へ入ると、新しい試作と昨日の試作が並べられていた。


 二つを見比べると、違いがよく分かる。


 旧案は、青い丸と黄色い三角が左右に並んでいる。


 見た瞬間に、どちらかを選ぶ形だ。


 新案は、青い丸が上にある。


 その下へ目的地と大きな矢印。


 さらに下に、黄色い三角と詳しい説明。


 最初は全員が同じ場所を見る。


 必要な人だけ、追加説明へ進む。


「新しい方、少し地味になったね」


 島中が腕を組んで言う。


「左右に色がないから?」


 美優が尋ねる。


「黄色が下にあるから、遠くからほとんど見えない」


「選ばせないために下げたから」


 蓮が答える。


「でも、詳しい説明があるって遠くから分からなくない?」


「遠くから詳しい説明を探す人はいる?」


「いるかもしれない」


「その確認も今日する」


「何でも確認だな」


「作る前に決めるよりいいだろ」


「分かってるよ」


 島中の返しに、以前のような苛立ちはなかった。


 問題を言われることへ、少しずつ慣れてきたように見える。


 田辺が新案の前へ立ち、少し離れたところから確認する。


「青と矢印は見える」


「黄色は?」


「形は少し見える。文字は読めない」


「近づいてから見るものだから、文字はそれでいい」


 美優が記録へ書く。


「存在だけは分かる?」


「黄色い印が下にあるのは分かる。でも何かは分からない」


「『詳しく見る』って遠くから読めた方がいい?」


 茜が聞く。


「読めなくても、近づけば分かるんじゃない?」


 なつきが答える。


「でも、青だけで進んだ人は近づかないかもしれない」


「案内自体には近づくでしょう」


「矢印が遠くから見えたら、そのまま曲がる人もいる」


 また新しい可能性が出る。


 紅秋が手を叩いた。


「先に再確認をしよう。予想で変えるのは、その後」


 最初に来たのは、昨日の普通科二年の男子生徒だった。


 教室へ入るなり、並べられた二つの試作を見て目を丸くする。


「もう変わってる」


「昨日の意見をもとに作り直した」


 紅秋が説明する。


「俺の?」


「あなた一人だけじゃない。昨日見てもらった三組全員の意見」


「俺、どっちも読んだって言った」


「その意見も入ってる」


「どこに?」


 男子生徒は新案へ近づこうとした。


 紅秋が慌てて止める。


「まだ見ないで。開始位置からお願い」


「もう少し見たけど」


「完全な初見じゃないから大丈夫。今日は昨日より使いやすくなったかを見る」


「正直に言えばいい?」


「うん」


「悪くなってても?」


「その方が助かる」


「分かった」


 昨日と同じ場所へ試作を設置する。


 同じ距離。


 同じ目的地。


 男子生徒は開始位置へ立つと、一度だけ周囲を見回した。


「昨日より緊張しない」


「一回やったから?」


「うん。今日は正解ないって分かってるし」


 その言葉も、紅秋は記録した。


 試作を見る前の緊張。


 説明の仕方によって、利用者の動きが変わる可能性がある。


 案内だけを比べたいが、全く同じ心理状態にすることはできない。


「じゃあ、お願いします」


 男子生徒が歩き出す。


 昨日は、五メートルほど離れたところで青と黄色を見比べた。


 今日は、最初に青い丸へ目を向ける。


 すぐにその下の目的地を見る。


 大きな矢印を確認する。


 歩みは止まらなかった。


 案内の前まで近づき、黄色い三角へ一度視線を落とす。


 そのまま正しい方向へ進んだ。


「ここまでで大丈夫」


 紅秋が声を掛ける。


 男子生徒は振り返り、少し驚いたような表情をしていた。


「早かった?」


「昨日より」


「迷わなかった?」


「最初は迷わなかった」


 なつきは、その言い方が気になった。


「最初は?」


「黄色いのが下にあったから、見た方がいいのかなとは思った」


「見た?」


「一応、最初の一行だけ」


「どうして?」


「昨日、両方読んだから。今日も何か違うこと書いてあると思って」


「昨日の経験があったから?」


「そう。初めてだったら、見なかったかもしれない」


 男子生徒は新案の黄色い三角を指した。


「青と矢印だけで場所は分かるから」


「じゃあ、詳しい説明はいらない?」


「俺には今日は要らなかった」


「今日は?」


「目的地を知ってたから。昨日、一回行ってるし」


 条件が同じではない。


 昨日と同じ目的地を使ったため、男子生徒はすでに場所を知っていた。


 案内の分かりやすさだけでなく、記憶も助けになっている。


「別の目的地で試した方が良かった?」


 島中が小声で言う。


「比較するなら同じ目的地がいいと思ったけど」


 蓮も少し眉を寄せる。


「同じ人に同じ目的地を頼むと、案内を見なくても行ける」


「じゃあ比較できない?」


「全くできないわけじゃない。入口で迷わなかったことは見えた。でも目的地の理解は比べにくい」


 男子生徒は十一組ラボの会話を聞き、少し困ったように笑った。


「俺、失敗した?」


「してない」


 なつきがすぐに答えた。


「私たちの条件の考え方が足りなかっただけ」


「なら良かった」


「黄色は選びにくくなかった?」


「昨日よりは選ぶ感じしなかった」


「どう見えた?」


「場所は青で分かる。黄色は、気になる人が読むもの」


「自分がどういう人か決める感じは?」


「それはなかった」


 昨日の迷いは、一つ減っている。


 青か黄色か。


 自分がどちらの人間か。


 その判断は求められなかった。


 新案の目的は、少なくともこの男子生徒には伝わっている。


 けれど、黄色の説明が必要なときに本当に使われるかは、まだ分からない。


 次に来たのは、昨日青い丸だけを選んだ商業科一年の女子生徒だった。


 彼女は新案をまだ見ていない。


 美優が朝、見せないように伝えていたため、設置場所へ来るまで試作から視線を逸らしていた。


「本当に見てません」


「疑ってないよ」


「でも、気になって少し見そうになりました」


「ありがとう」


 なつきは、昨日の意見がどう反映されたか、確認の前に伝えるべきか迷った。


 先に伝えれば、使い方へ影響する。


 けれど、何も言わずにもう一度試してもらうだけでは、自分の声がどう扱われたか分からない。


 紅秋も同じことを考えていたらしく、女子生徒へ説明する。


「先に新しい案を使ってもらって、その後で、昨日の意見をどう使ったか伝えてもいい?」


「はい」


「使う前に聞きたい?」


 女子生徒は少し考え、首を横に振った。


「先に見ると、正解が分かっちゃいそうなので」


「分かった」


 開始位置へ立つ。


 女子生徒は昨日と同じように、遠くから青い丸へ視線を向けた。


 歩調を緩めずに近づく。


 青い丸。


 目的地。


 大きな矢印。


 その順に見る。


 昨日は黄色い三角をほとんど見なかった。


 今日は、矢印を確認した後に下へ視線を落とした。


 黄色い三角の前で少し立ち止まる。


 説明を最後まで読む。


 それから正しい方向へ歩いた。


「どうだった?」


 紅秋が尋ねる。


「昨日より、分かりやすかったです」


「どこが?」


「最初に青を見ればいいって分かったところ」


「昨日も青を見たよね?」


「昨日は、青を選びました」


「今日は?」


「青から始めました」


 言葉の違い。


 選んだ。


 始めた。


 なつきには、その差が大きく感じられた。


「黄色はどう見えた?」


「続き」


「怖くなかった?」


「昨日よりは」


「どうして?」


「最初に行く場所が分かった後だったから。黄色を見ても、違う場所へ行くわけじゃないって分かりました」


「昨日は?」


「黄色を選んだら、青とは違う人になる感じがしました」


 女子生徒は恥ずかしそうに笑った。


「変な言い方ですけど」


「変じゃないよ」


 なつきが答える。


「その言葉で、昨日の案を変えたから」


 女子生徒が目を見開く。


「私の言ったことで?」


「あなた一人だけじゃない。でも、黄色い三角が特別な人の入口に見えたって言ってくれたから、左右に並べるのをやめた」


「そうなんですか」


「青を普通、黄色を特別に見せたくなかった。だから、最初はみんな青から入って、もっと知りたいときだけ黄色を見る形にした」


 女子生徒は新案をもう一度見た。


 青い丸。


 大きな矢印。


 黄色い三角。


 ゆっくり視線を動かす。


「それなら、私が黄色を読んでも、何か特別には見えないですか?」


「私たちは、そうならないようにしたつもり」


「周りの人からも?」


 なつきはすぐに答えられなかった。


 作った側は意味を知っている。


 黄色は特別な人のためではない。


 詳しく知りたいときの追加説明。


 けれど、初めて見る周囲の人が同じように受け取るかは分からない。


「そこは、まだ確認したい」


 正直に言う。


 女子生徒は少し考え、うなずいた。


「でも私は、昨日より見やすいです」


「ありがとう」


「私の言ったこと、なくならなかったんですね」


 その言葉に、なつきの胸が静かに締めつけられた。


 なくならなかった。


 利用者は、自分の意見が正しい形で採用されることだけを求めているのではないのかもしれない。


 少なくとも、この女子生徒は、自分の言葉が聞かれたことを確かめたかった。


 黄色い三角をなくしたわけではない。


 形は残っている。


 意味を変えた。


 その変化の中に、自分の声があったと伝わった。


「なくしたくなかったから」


 なつきが言う。


「でも、全部そのまま入れたわけじゃない」


「はい」


「他の人の意見もあったから、みんなが使える形を考えた」


「それでいいと思います」


 女子生徒は小さく笑った。


「私だけの案内じゃないので」


 その言葉も、紅秋が記録へ残した。


 自分だけの案内ではない。


 一つの声が強くても、その人一人のためだけに作るものではない。


 けれど、一人の声だからといって薄めてもいけない。


 他の声と重ねながら、その声が見ていたものを残す。


 十一組ラボが今、しようとしていることだった。


 三組目の特進科一年の女子生徒二人は、昨日と同じように会話をしながら開始位置へ立った。


「今日はどっち選ぶの?」


 一人が聞く。


「選ばない形になったらしいよ」


「聞いたの?」


「見てないけど、紅秋先輩が変えたって言ってた」


「それ、少し情報入ってない?」


「変えたことしか知らない」


 紅秋は少し悩んだが、そのまま続けることにした。


 完全な同条件にはならない。


 それでも、昨日使った人がどう違いを感じるかを見る。


 二人が歩き出す。


 遠くから青い丸を見る。


「青から?」


「行き先ここ」


「第二実習室」


「矢印右」


 二人とも立ち止まらない。


 案内の前まで来ると、一人が黄色い三角へ気づいた。


「詳しく見る、だって」


「見る?」


「時間あるし」


「じゃあ見る」


 二人で黄色の説明を読む。


「昨日より短い?」


「昨日は青と黄色、両方説明あった」


「今日は青に場所、黄色に詳しいのだけ」


「こっちの方が楽」


 正しい方向へ進む。


「どうだった?」


「昨日より迷わなかった」


 一人が答える。


「青と黄色で相談しなくてよかった」


「黄色は二人で読んだね」


「そこは読むか相談した」


「昨日と同じじゃない?」


 島中が聞く。


「違います」


 女子生徒は即座に答えた。


「昨日は、自分たちがどっちを使う人か決めた。今日は、説明をもっと読むか決めた」


「そんなに違う?」


「違うよね?」


 友人へ聞く。


「違う。今日は黄色を見なくても、行く場所は分かってたから」


「見ないで進んでもいいと思った?」


「思った」


「黄色を見たのは?」


「気になったから」


「必要だった?」


 二人は顔を見合わせる。


「必要ではなかったかも」


「でも、見ても邪魔ではなかった」


「時間がなかったら見ない」


「時間があっても、面倒なら見ない」


「雑な人に見えるとは思わなかった?」


 なつきが尋ねる。


 昨日、一人が黄色を選ぶと雑に見えそうだと言っていた。


「今日は思わなかった」


「どうして?」


「黄色を選んだわけじゃないから」


 また同じ答えへ戻る。


 選ぶのは自分ではなく、情報。


 昨日、春樹が言った言葉だった。


 新案では、少なくとも昨日の三組にとって、その違いが伝わっている。


 昼休みの再確認が終わると、協力してくれた生徒たちへ礼を伝えた。


 一組目の男子生徒は、昨日と同じ目的地だったため十分に比較できなかった。


 二組目の女子生徒は、昨日より分かりやすいと答えた。


 三組目の二人は、自分たちを選ぶ感覚がなくなったと言った。


 改善している部分はある。


 けれど、それで完成とは言えない。


 黄色い追加説明が、本当に必要な人へ見つけてもらえるか。


 初めて見る人が、青から始めればいいと理解できるか。


 昨日の案を知っているから、今日の違いが分かりやすかった可能性もある。


 放課後の初見確認が残っている。


 教室へ戻ると、全員が弁当箱を開きながら記録を共有した。


「前より良い」


 島中が言った。


「少なくとも、三組とも選ぶところでは迷ってない」


「一組目は、同じ目的地を覚えてた」


 蓮が指摘する。


「そこは条件の問題」


「でも黄色を見るかは少し迷った」


「黄色は選択じゃなくて追加だから、迷ってもいいんじゃない?」


「どのくらいなら?」


 美優が尋ねる。


「何が?」


「黄色を見るか迷う時間。二秒ならいい? 十秒なら困る? 見ない人がいてもいい? 全員に見てほしい?」


 島中は口を閉じる。


 なつきも、すぐには答えられなかった。


 黄色い説明は、必要な人だけが見る。


 なら、全員が見なくてもいい。


 けれど、必要な人が自分で必要だと気づけるだろうか。


「黄色の説明は、何のためにある?」


 紅秋が全員へ聞いた。


「場所の特徴とか、使い方を詳しく知りたい人のため」


 茜が答える。


「それを知らないと困る人もいる?」


「第二実習室へ行くだけなら、青だけで足りる」


 春樹が言う。


「でも、中へ入った後に何をするかまで案内するなら、黄色が必要」


「今の目的は、目的地へ案内すること?」


 紅秋が黒板へ問いを書いた。


 その瞬間、教室が静かになった。


 なつきたちは案内表示を改善している。


 けれど、その案内がどこまでを担うのか。


 目的地へ着ければ終わりなのか。


 着いた後に困らないところまで伝えるのか。


 そこが曖昧なまま、情報量だけを増減させていたのかもしれない。


「最初の案内は、何のために作った?」


 紅秋が続ける。


「迷った人が、どこへ行けばいいか分かるため」


 島中が答える。


「それだけ?」


「行った後に、何を使うか選べるように」


 美優が言う。


「青と黄色の印は、確認の仕方を選ぶためだった」


「じゃあ、目的地だけでは足りない?」


「足りない人もいる」


「誰?」


 答えが止まる。


 誰か特定の人を決めつけない。


 必要な人が使えるようにする。


 そう考えてきた。


 けれど、誰が必要とするかを曖昧にしたまま、情報を置いている。


「黄色を詳しい説明じゃなくて、次の案内への入口にしたら?」


 なつきが言った。


「次の案内?」


「ここでは目的地まで。詳しく知りたい人は、第二実習室の前にある別の案内を見る」


「案内を二段階に分ける?」


 美優が聞き返す。


「うん。廊下で立ち止まる案内に全部入れない。今いる場所では行き先だけ。着いた後に、使い方を確認する」


「それなら黄色は、この紙に必要ない」


 蓮が言う。


「なくす?」


 島中が黄色い三角を見る。


「三枚目の意見を書いた人は、色を先に見たんだぞ」


「色をなくしたら、その声を消すことになる?」


 茜がなつきへ尋ねる。


 なつきは迷った。


 昨日の女子生徒は、自分の意見がなくならなかったことを喜んでくれた。


 黄色い三角の意味を変え、試作の中へ残した。


 けれど、声を残すことと、形をそのまま残すことは同じではない。


「色を見つけやすい入口にするっていう声は、残せると思う」


 なつきはゆっくり答えた。


「この紙じゃなくても」


「第二実習室の前の案内に色を使う?」


「うん。遠くからは大きな青い丸と矢印で行き先を示す。着いた後、詳しく確認する場所を黄色い三角で示す」


「色の役割を場所で分ける」


 春樹が言う。


「青は進むため。黄色は到着後に確認するため」


「それだと、青と黄色に上下ができない?」


 蓮が聞く。


「順番はできる」


「順番と優劣は違う」


 なつきは黒板を見る。


「先に行く場所が分からないと、詳しい説明も使えない。だから青が先。着いた後に必要なら黄色を見る」


「全員が黄色を見る必要は?」


「ない。でも、必要な人が着いた場所で見つけられる」


「廊下で選ばせない」


「うん」


 教室に少しずつ納得の空気が広がる。


 ただし、すぐに決定とはならなかった。


「案内を二つに分けると、管理も二つになる」


 紅秋が言う。


「片方だけ直して、片方が古いままになる可能性もある」


「第二実習室の前に置く許可も必要」


 美優が続ける。


「人が集まったら邪魔にならない場所を確認しないと」


「行き先だけで、本当に青の案内が足りるかも確認する」


 蓮が記録へ書く。


「放課後の初見確認は、今の新案でやる?」


 島中が尋ねる。


 紅秋は少し考えた。


「やる。今の案が初見の人にどう見えるか確認する。二段階案は、その結果を見てから作る」


「今すぐ分けない?」


「また作る側の想像だけで進めることになるから」


「分かった」


 島中は素直にうなずいた。


 その返事に、なつきは少し驚いた。


「何?」


 島中が気づく。


「すぐ直そうって言わないんだなって」


「言ったら蓮に止められる」


「僕のせい?」


「でも、今は見てからの方がいいって分かる」


 島中は箸を置き、黒板を見た。


「昨日の案、俺は良いと思ってた。今日の案も良いと思った。でも、使う人に見てもらうと、俺が見てたのと違うところで止まる」


「うん」


「だったら、止まる場所を見てから直した方が早い」


「早い?」


「やり直しが減る」


 田辺が笑う。


「結局、早く直したいんだな」


「悪いかよ」


「悪くない」


 教室に笑いが起きる。


 待つことと、早く直すこと。


 島中の中でも、以前ほど喧嘩しなくなっている。


 早く直すために、先に見る。


 待つことが、遅れることではなくなってきた。


 昼休みが終わり、午後の授業が始まる。


 なつきは黒板を見ながら、二段階の案内を考えていた。


 一つに全部を背負わせない。


 以前から十一組ラボで繰り返してきたことだった。


 使う前。


 選ぶとき。


 伝えるとき。


 一枚の案内だけで全部を解決しようとしない。


 廊下では、行き先を伝える。


 目的地では、必要な情報を伝える。


 役割を分ける。


 それなら、黄色い説明が遠くから見えない問題もなくなる。


 黄色を見た人が、詳しく読む人だと周囲へ示す必要もない。


 目的地へ着いた人が、必要なら近くで確認できる。


 ただし。


 案内が二つになることで、途中でつながりが切れる可能性がある。


 青い丸で進んだ人が、到着後の黄色い三角を同じ案内だと分からないかもしれない。


 また、新しい問題が出る。


 けれど、以前のように嫌ではなかった。


 問題が見えることは、次に確認する場所が見えることでもある。


 放課後。


 新しく協力してくれる三人が、十一組ラボの教室へ集まった。


 普通科一年の男子生徒一人。


 商業科二年の女子生徒二人組。


 全員、昨日までの試作を見ていない。


 昼休みとは違い、完全な初見確認に近い。


 最初の男子生徒は、口数が少なく、説明を聞く間も何度か足元へ視線を落としていた。


「分からなくても、そのままで大丈夫」


 紅秋が言う。


「はい」


「声に出して考えなくてもいいよ」


「はい」


「終わった後で、見たところだけ聞くから」


「分かりました」


 開始位置へ立つ。


 男子生徒が歩き出す。


 案内から四メートルほどのところで青い丸を見る。


 次に大きな矢印。


 歩調をほとんど変えず、正しい方向へ曲がった。


 黄色い三角は見ていないように見えた。


「ここまでで大丈夫」


 声を掛けられ、男子生徒が振り返る。


「分かった?」


「はい」


「どこを見た?」


「青い丸と、第二実習室と、矢印」


「黄色い三角は?」


「ありました?」


 全員の視線が試作へ向かう。


 黄色い三角は、確かにある。


 青い案内の下。


 近づけば読める位置。


 けれど男子生徒は、目的地と方向が分かった時点で進んだ。


「今見てもらっていい?」


 男子生徒が試作へ戻る。


 黄色い三角へ近づき、説明を読む。


「これは、あった方がいい?」


「俺は使わないと思います」


「どうして?」


「場所だけ分かればいいから」


「でも、使い方が分からなかったら?」


「着いてから誰かに聞きます」


 島中が小さく眉を寄せた。


「案内より人に聞く?」


「はい」


「人がいなかったら?」


「そのとき見るかもしれません」


「黄色があるって気づかなかったけど」


 男子生徒は少し困ったように試作を見る。


「最初に矢印見えたので」


 青と大きな矢印が分かりやすくなったことで、黄色は視界から外れた。


 目的地へ進むという役割だけなら成功。


 追加説明へ気づいてもらうという役割では失敗。


 どちらを重く見るかは、案内の目的によって変わる。


「二段階に分ける案、やっぱり必要かも」


 美優が小声で言う。


「着いた後なら、この人も見る?」


 なつきが尋ねる。


「誰かに聞くかもしれない」


「案内があっても?」


「人へ聞く方が早いと思う人もいる」


 人へ聞けるなら、それでもいい。


 案内を必ず使わせることが目的ではない。


 けれど、人へ聞くのが苦手な人のために案内は必要になる。


 利用者によって、求めるものは違う。


 次の女子生徒二人組は、開始前から試作へ興味を示していた。


「青い丸、目立つね」


「まだ見ないで」


 美優が笑いながら止める。


「見えちゃった」


「遠くから見えるかも確認だから、それは大丈夫」


 二人は開始位置へ並ぶ。


 歩き出す。


 一人は青い丸を見る。


 もう一人は、その下の黄色い三角へ視線を向けた。


「あれ、下にもある」


「先に青じゃない?」


「でも黄色、詳しくって書いてある」


「第二実習室は右」


「じゃあ右」


 二人はほとんど立ち止まらず、正しい方向へ進んだ。


「どうだった?」


「分かりやすかった」


「私は黄色が気になった」


「どうして?」


「下にあるから、何か続きがあるのかなって」


「読んだ?」


「最初の『詳しく』だけ」


「全部は?」


「行く場所分かったから読まなかった」


 もう一人も同じように、黄色の説明は最後まで読んでいない。


「詳しい説明が必要だったら戻る?」


 紅秋が尋ねる。


「何が必要かによる」


「第二実習室に着いてから困ったら?」


「ここまで戻るのは面倒」


「じゃあ目的地に説明があった方がいい?」


「その方がいい」


 二人ともすぐに答えた。


「ここは行く方向だけでいい」


「詳しいことは、着いたところにあった方が読む」


 新しい二人も、二段階の案内を支持する形になった。


 ただし、まだ質問が残る。


「青と黄色が別の場所にあっても、同じ案内だって分かる?」


 なつきが尋ねる。


「同じ色と形なら分かるかも」


「青で行って、黄色で詳しく見る?」


「でも、青と黄色で色が変わると、別の案内に見えるかも」


「同じ印にした方がよくない?」


 友人同士で意見が分かれる。


 一人は、役割が違うから色を変えた方がいい。


 もう一人は、同じ流れだから同じ印にした方がいい。


 初見確認を終えた後、十一組ラボの教室には、昼休み以上の記録が集まった。


 新案は、目的地へ進む案内としては分かりやすい。


 青から始めることも伝わっている。


 利用者を二つへ分ける負担も減っている。


 しかし、黄色い追加説明は見落とされやすい。


 目的地へ向かう途中で詳しい説明を置いても、進み始めた人は立ち止まらない。


 必要な説明は、必要になる場所へ置いた方がいい。


 その考えが強くなった。


「二段階に分けよう」


 紅秋が言った。


 今回は、反対の声がすぐには出なかった。


「廊下の案内は、青い丸と目的地と矢印だけ」


「黄色は第二実習室の前」


「使い方や、詳しい確認はそこで」


 美優が黒板へ書く。


「でも、青から黄色へつながってることをどう伝える?」


 蓮が尋ねる。


「青い案内に、『詳しい説明は到着後』って書く?」


 茜が提案する。


「文字増えない?」


 島中が言う。


「一行だけ」


「遠くから読ませない?」


「近づいた人だけ読めればいい」


 春樹が黒板へ短い文を書く。


『詳しい案内は、入口前にあります』


「入口前?」


 なつきが尋ねる。


「第二実習室の入口前」


「ここだけ読んで分かる?」


「目的地名の下に置く」


「『第二実習室の詳しい案内は、入口前にあります』」


「少し長い」


「『詳しい案内は室前へ』」


「短すぎる」


「『続きは第二実習室前』」


「続き?」


 言葉を何度も変える。


 長すぎず。


 意味が切れず。


 目的地へ進む邪魔をせず。


 到着後に次の案内があると分かる表現。


 最終的に、青い案内には小さく次の一文を置くことになった。


『詳しい確認は、第二実習室前でできます』


「できます、なら見なくてもいい感じがある」


 美優が言う。


「見てください、じゃない」


「必要なら使える」


「強制しない」


 なつきはその文を見つめた。


 できます。


 使わなければならない、ではない。


 見てもいい。


 見なくてもいい。


 必要になったときに、その場所がある。


 利用者へ選択肢を渡しながら、選択を迫らない。


 昨日から考えてきたことが、その短い言葉にもつながっていた。


 次に、第二実習室前の黄色い案内を作る。


 そこには、詳しい使い方。


 確認の順番。


 必要な人が、自分の速度で読める情報。


 ただし、一度に全部を置かない。


 立ち止まる場所があるか。


 通行の邪魔にならないか。


 教師の許可を取れるか。


 実際の場所を確認してから決める。


「今から見に行く?」


 島中が立ち上がる。


「先生へ先に聞く」


 紅秋が止める。


「場所だけ見るならいいだろ」


「使ってる教室だから、勝手に集まらない」


「分かった」


「明日の放課後、担当の先生と一緒に確認する」


「また待つ」


 島中が呟く。


 けれど、すぐに続けた。


「今日は青の案だけ直せる」


「うん」


「止まらずに待つ」


 なつきが言うと、島中は少し照れたように顔を逸らした。


「毎回それ言うなよ」


「島中ができるようになったから」


「前からできた」


「できてなかった」


 田辺が即答し、教室に笑いが広がった。


 片付けが終わる頃には、窓の外の空が薄い橙色へ変わっていた。


 雲の隙間から夕日が差し込み、中庭の木々の一部だけを明るく照らしている。


 旧案。


 新案。


 そして、これから作る二段階案。


 三つの形が机の上に並んでいた。


 最初の案を見れば、今でも良いところはある。


 左右へ分かれた色と形は遠くから見つけやすい。


 二つ目の案は、選ぶ負担を減らした。


 青から始めることで、目的地へ進みやすくなった。


 三つ目の案は、案内へ一つに全部を背負わせない。


 場所によって役割を分ける。


 どれも、前の案がなければ生まれなかった。


「捨てない方がいいね」


 なつきが旧案を見ながら言う。


「使わないのに?」


 島中が尋ねる。


「記録として」


「失敗の?」


「途中の」


 なつきは二枚を重ねず、並べたままにした。


「これがあったから、選ぶ前で迷う人がいるって分かった。次の案が良くなっても、前の案が無駄だったことにはならないと思う」


「残すと場所取るぞ」


「写真にする?」


 美優が提案する。


「試作の写真と、変えた理由を一緒に残す」


「それなら引き継げる」


 紅秋がうなずく。


「次に案内を作る人が、同じところで迷わなくて済む」


「失敗記録?」


 島中がまた聞く。


「判断記録」


 蓮が答える。


「何を見て、なぜ変えたか」


「名前硬い」


「じゃあ島中が考える?」


「……判断記録でいい」


 田辺が笑う。


 なつきも笑いながら、旧案をファイルへ収めた。


 帰り支度を終え、教室を出る。


 春樹も隣にいる。


 今日は譜面台を返す必要がない。


 それでも、二人は自然に並んで歩き始めた。


「今日は持つものないね」


 なつきが言う。


「鞄は持ってる」


「そうじゃなくて」


「譜面台?」


「うん」


「なくても一緒に歩けるよ」


 春樹の言葉に、なつきは少しだけ足を緩めた。


「それ、先に言うのずるい」


「何が?」


「私が言おうと思ってた」


「毎回同じだね」


「春樹が先に言うから」


「じゃあ次は待つ」


「本当に?」


「なつきが言うまで」


「それは困る」


「どうして?」


「言えなかったら、ずっと何も言わないでしょう」


「言えるようになるまで待つ」


「待ちすぎ」


「じゃあ、少しだけ」


 二人は窓際の廊下を歩く。


 外の空気は昨日より涼しく、開いた窓から入る風が制服の袖を揺らした。


「今日の人たち」


 なつきが言う。


「うん」


「同じ場所へ行く案内でも、見てるもの違ったね」


「青だけの人。黄色も見た人」


「人に聞く方がいいって人もいた」


「案内を作れば全員が使うわけじゃない」


「少し寂しい?」


「どうして?」


「頑張って作ったのに、人に聞くって言われたから」


 春樹は少し考える。


「案内を使わなくても、その人が困らなければいいんじゃないかな」


「そうだね」


「でも、人へ聞けない人には案内が必要」


「うん」


「全員が使うものを作るんじゃなくて、必要なときに使えるものを作る」


「場所を残すみたい」


「また戻ったね」


 春樹が笑う。


 意見を入れる封筒。


 まだ届いていない声のための場所。


 選ばなくても使える案内。


 必要な人が、必要になったときに見られる説明。


 十一組ラボが作っているのは、誰かを必ず通らせる一本の道ではない。


 困ったときに、そこへ行ける場所なのかもしれない。


「恋愛も?」


 なつきは昨日の会話を思い出し、少しだけ勇気を出して聞いた。


 春樹の歩みがわずかに遅くなる。


「また急だね」


「昨日の続き」


「何が?」


「選ばなくても始められるって話」


「うん」


「今は一緒に歩く。それで、もっと知りたくなったら先へ進む」


「昨日、そう言った」


「でも、もっと知りたいって思ったときに、その場所がなかったら困るよね」


 春樹は何も言わない。


 なつきも、すぐには続きを言えなかった。


 廊下の向こうから、部活動を終えた生徒たちが歩いてくる。二人は少し端へ寄り、通り過ぎるのを待った。


「場所って?」


 春樹が尋ねる。


「聞いてもいい場所」


「何を?」


「春樹が、私のことをどう思ってるか」


 声は思っていたより小さくなった。


 けれど、言葉にはなった。


 春樹は目を見開き、しばらく何も言わなかった。


 なつきは胸が速くなるのを感じながら、その沈黙を待つ。


 急かさない。


 答えを今すぐ求めない。


 ただ、聞ける場所があるか知りたい。


「今、聞きたい?」


 春樹がようやく言う。


 なつきは迷った。


 聞きたい。


 でも、今答えを受け取る準備ができているかは分からない。


「今すぐ答えじゃなくて」


「うん」


「いつか聞いてもいい?」


 春樹は視線を下げた。


 少しだけ頬が赤い。


「いいよ」


 短い返事だった。


 なつきの胸の奥へ、ゆっくり温かさが広がる。


「嫌じゃない?」


「嫌なら、隣を歩いてない」


「それだけ?」


「今は、それだけ」


 逃げたような答えにも聞こえる。


 けれど、なつきには十分だった。


 今は、一緒に歩く。


 いつか聞いてもいい。


 答えを置く場所は、なくなっていない。


「じゃあ、待つ」


「止まる?」


「止まらない」


 なつきは少し笑った。


「明日も一緒に歩く」


「うん」


「明後日も」


「予定が合えば」


「そこは、うんって言ってよ」


「図書委員があるかもしれない」


「終わるまで待つ」


「待ちすぎない?」


「さっき春樹が言ったでしょう。言えるまで少し待つって」


「少しだけね」


 二人は並んで階段を下りた。


 今日の再確認で、立ち止まる理由は変わった。


 昨日は、自分がどちらの人間なのか選ぶために立ち止まった。


 今日は、追加の情報を見るかどうか考えるために立ち止まった。


 同じ立ち止まりでも、意味は違う。


 すべての立ち止まりをなくせばいいわけではない。


 利用者が自分に必要なものを考えるための時間なら、そこには意味がある。


 ただし、案内を使う前に自分を決めさせるような立ち止まりは減らしたい。


 必要な情報が、必要な場所にないための立ち止まりも減らしたい。


 明日は、第二実習室前で新しい場所を確認する。


 青い案内で進み。


 黄色い案内で、必要な人が詳しく知る。


 二つの場所をつなぐ形が、本当に使いやすいかはまだ分からない。


 また別の迷いが生まれるかもしれない。


 それでも、十一組ラボは前の案を捨てず、次の案へ進む。


 迷った場所を記録する。


 変えた理由を残す。


 誰かの声が形を変えても、なくならないようにする。


 夕暮れの校舎を出ると、雲の隙間から差し込んだ光が、校門までの道を細く照らしていた。


 なつきと春樹は、その光の上を並んで歩く。


 答えを聞く日は、まだ決まっていない。


 けれど、いつか聞いてもいい場所は残った。


 今はそれだけで、昨日より少し先へ進めた気がした。

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