第170話 選べるようにしたのに、選ぶ前で立ち止まる人がいる
翌日の昼休み。
十一組ラボの教室には、普段よりも早い時間から人が集まっていた。
昼休みを知らせるチャイムが鳴ってから、まだ五分も経っていない。中央棟の廊下には購買へ向かう生徒たちの足音が残り、開け放たれた窓からは、中庭へ弁当を持っていく生徒たちの笑い声が聞こえている。
教室の前方には、昨日作った試作案内が立てられていた。
上部には、遠くからでも見えるよう少し大きくした青い丸と黄色い三角。
青い丸の下には、落ち着いて情報を確かめたい人へ向けた説明。
黄色い三角の下には、時間がないときに目的地と進む方向だけを確認できる短い説明。
そして、二つの入口の先には、同じ方向を示す大きな矢印が置かれている。
昨日までの案内と比べれば、見た目はかなり変わっていた。
情報を一か所へ集めるのではなく、見る人が自分に合う入口を選べるように分けた。
青い丸から見てもいい。
黄色い三角から見てもいい。
最初に矢印へ目が向いても、根元に置かれた二つの印から説明へ戻れるようにした。
どこから見ても、最後には同じ場所へ進める。
昨日は、それが一番良い形に思えた。
けれど、今日実際に初見の人へ見てもらうと思うと、なつきの胸は朝から落ち着かなかった。
「また見てる」
試作の前で立ち止まっていたなつきへ、茜が声を掛ける。
「見てないよ」
「見てるでしょう」
「確認してるだけ」
「朝も確認してたよね」
「朝は朝の光で見たから」
「一時間目の休み時間も来てたでしょう」
「人が通ってるときに見たかったから」
「二時間目の後も?」
「……角度が気になって」
茜は少し呆れたように笑った。
「それ、全部見てるって言うんだよ」
「だって、昨日は良いと思ったのに、朝見ると丸と三角が大きすぎる気がしてきて」
「私は今くらいでいいと思うけど」
「でも、案内より印の方が目立ってない?」
「遠くから入口を見つけてもらうためでしょう」
「そうなんだけど」
なつきは試作から三歩下がった。
青い丸と黄色い三角は、確かに先に目へ入る。
そのために大きくした。
けれど、先に目へ入りすぎることで、何かを強制しているようにも感じられる。
どちらかを選んでください。
早く決めてください。
そう言われているように見えないだろうか。
「なつき」
茜が隣へ並ぶ。
「今、何が気になってる?」
「選べるようにしたこと」
「それが目的だったよね?」
「うん。でも」
教室の後方では、島中と田辺が机を動かしている。
紅秋は初見確認に協力してくれる生徒へ渡す説明用紙を確認し、美優は観察記録の欄を作っていた。蓮は試作の高さをもう一度測り、昨日決めた位置から動いていないことを確かめている。
春樹はまだ来ていなかった。
図書室の当番を終えてから参加すると聞いている。
「選べるって、良いことだと思ってた」
なつきは試作を見たまま言った。
「今も思ってるけど、選ばなきゃいけないって思わせたら、負担になるかもしれない」
「青か黄色かで迷うってこと?」
「うん。どっちが自分に合うか、最初から分かる人ばかりじゃないでしょう」
茜はすぐに答えなかった。
試作へ目を向け、青い丸と黄色い三角を順番に見る。
「確かに、私は青かなってすぐ思ったけど」
「どうして?」
「急いでないし、ちゃんと読みたいから」
「でも、急いでるかどうかって、そのときによって違うよね」
「そうだね」
「それに、急いでるけど間違えたくない人もいる」
「短く確認したいけど、情報は欲しい人?」
「うん。二つに分けたら分かりやすくなると思ったけど、人を二つに分けることにもなるのかなって」
なつきが口にすると、茜の表情も少し真剣になった。
青を選ぶ人。
黄色を選ぶ人。
昨日までは、それぞれ違う見方を認めるための入口だった。
けれど入口をはっきり分けたことで、利用者へ自分がどちらかを決めるよう求めている。
すぐに選べる人もいるだろう。
迷う人もいるかもしれない。
どちらにも当てはまらないと感じる人もいる。
「もう始める前から直す話?」
後ろから島中の声が飛んでくる。
「直すって決めてないよ」
「横田の顔が、直したいときの顔」
「そんな顔ある?」
「ある」
「みんな私の顔に詳しすぎる」
「分かりやすいんだよ」
島中は机を置き終えると、試作の前まで来た。
「で、何が気になる?」
「丸と三角を選ぶことが負担にならないかなって」
「二つしかないぞ」
「二つでも迷う人はいるでしょう」
「そのために説明書いてあるじゃん」
「説明を読む前に、どっちか選ぶように見えない?」
島中は試作を見た。
少し離れる。
また近づく。
腕を組みながら、青い丸と黄色い三角へ交互に視線を動かした。
「俺は黄色」
「島中はそうだと思う」
「決めつけるなよ」
「絶対短い方でしょう」
「まあ、短い方だけど」
田辺が近づいてくる。
「でも島中、説明読んだ?」
「読んだ」
「何て書いてある?」
島中の動きが止まった。
「時間がないとき」
「その下」
「短く確認」
「その下」
「……何かあった?」
「目的地と進む方向を確認できます」
「それ」
「読んでるじゃん」
「今思い出しただろ」
「意味は分かったからいいんだよ」
田辺はなつきへ顔を向けた。
「島中みたいに、印だけで自分の方を決めて、説明をほとんど読まない人はいると思う」
「俺を悪い例にするなよ」
「実例だから」
「初見確認、俺で終わった?」
「島中は作った側だから駄目」
紅秋が前方から言った。
「自分で作った意味を知ってる人は、初見にはならない」
「今、説明覚えてなかったけど」
「それは別の問題」
教室に小さな笑いが起きる。
なつきも笑ったが、気になっていたものは消えなかった。
初見確認に協力してくれる生徒は三人。
一人目は、普通科二年の男子生徒。
二人目は、商業科一年の女子生徒。
三人目は、特進科一年の女子生徒と、その友人の二人組。
同じ見方へ偏らないよう、紅秋と美優が声を掛けた。
ただし、普段から十一組ラボへ関わっている生徒は避けている。
試作の意味や、これまでの話し合いを知らない人。
初めて見たときに、どこへ目を向けるか。
どちらを選ぶか。
そもそも選べることに気づくか。
そこを確認する。
「来たよ」
廊下側の扉から美優が入ってきた。
その後ろには、最初に協力してくれる男子生徒がいる。
背が高く、少し緊張したように教室内を見回していた。
「お願いしておいて何だけど、人多くない?」
男子生徒が苦笑する。
「ごめん」
紅秋が答える。
「なるべく見ないようにするから」
「それ、余計怖くない?」
「全員で背を向ける?」
「もっと怖い」
男子生徒の言葉に笑いが起き、教室の空気が少し柔らかくなる。
初見確認は、教室内ではなく、実際の設置場所に近い廊下で行うことになっていた。
ただし、現在の案内表示を使っている生徒の邪魔にならないよう、少し離れた空きスペースを借りている。
試作を運び、決めた高さへ設置する。
十一組ラボのメンバーは、昨日の観察と同じように少し離れた場所へ分かれた。
なつきは春樹と一緒になる予定だったが、まだ到着していない。
そのことを少し残念に思いながら、茜と美優の近くへ立つ。
紅秋が男子生徒へ説明した。
「今から、この案内を初めて見たつもりで使ってください。正解を当てるものではありません。分からないところがあれば、そのまま止まって大丈夫です」
「目的地は?」
「第二実習室」
「分かった」
「普段どおりでいいよ」
「人に見られて普段どおりは難しいって」
男子生徒は笑いながら、試作から少し離れた開始位置へ立った。
そこから案内へ向かって歩く。
なつきの胸が速くなる。
昨日まで、何度も自分たちで歩いた。
島中も、茜も、春樹も、利用者のつもりになって試した。
けれど本当に初めて見る人が近づく姿は、それまでとは全く違って見えた。
男子生徒は、案内から五メートルほど離れたところで歩調を緩めた。
青い丸と黄色い三角へ視線を向ける。
そのまま近づく。
立ち止まった。
最初に黄色い三角を見る。
次に青い丸。
もう一度黄色へ戻る。
なつきは無意識に息を止めた。
男子生徒は、十秒ほどその場に立っていた。
そして、青い丸の説明を読み始めた。
途中で黄色い三角へ目を移す。
最後に大きな矢印を確認し、正しい方向へ歩いた。
「ここまでで大丈夫」
紅秋が声を掛ける。
男子生徒が振り返った。
「どうだった?」
「行く方向は分かった」
「迷ったところは?」
「最初」
その答えに、なつきの胸が少し沈む。
「丸と三角?」
「うん。どっちを見ればいいのかなって」
「説明は読んだ?」
「読んだ。最初に黄色を見て、時間ないわけじゃないから青かなと思った。でも青の説明は少し長そうに見えて、黄色でもいいのかなって」
「最後はどうして青を選んだの?」
「選んだっていうか、両方読んだ」
「両方?」
「どっちかしか見ちゃ駄目とは書いてなかったから」
男子生徒は試作へ戻り、青い丸と黄色い三角を指した。
「二つあると、どっちか選ぶんだと思った。でも、違いが分からなかったから両方見た。結果的には分かったけど、最初に選ぶ時間が少しかかった」
「使いにくかった?」
島中が尋ねる。
「使えないほどではない」
「分かりやすかった?」
「方向は分かりやすい。矢印大きいから」
島中の顔が少し明るくなる。
「でも、丸と三角は?」
「形より、書いてある言葉を見たかな」
「色は?」
「青と黄色なのは分かったけど、色の意味は説明を読むまで分からなかった」
紅秋が記録を取る。
なつきは男子生徒の言葉を頭の中で繰り返していた。
どちらかを選ぶと思った。
違いが分からないから、両方読んだ。
使えないわけではない。
けれど、最初に選ぶ時間がかかった。
自分が朝から気にしていたことが、そのまま目の前で起きた。
「ありがとう」
確認を終えた男子生徒へ、紅秋が頭を下げる。
「これ、今後本当に置くの?」
「まだ分からない。今日の意見をもとに考える」
「じゃあ、俺が迷ったからって全部変えなくてもいいから」
男子生徒は少し気まずそうに笑った。
「俺、案内見るの苦手だし」
なつきはその言葉に反応した。
「苦手って?」
「選択肢があると、どっちも見た方がいいかなって思う。たぶん俺の性格」
「性格だから、案内の問題じゃないって思う?」
「そこまでは分からない」
男子生徒は肩をすくめた。
「でも、他の人はすぐ選ぶかもしれないだろ」
自分の意見だけで決めないでほしい。
そう言われたように感じた。
けれど、その人が迷ったことを、性格の一言で片づけてもいいのだろうか。
なつきには分からなかった。
二人目の女子生徒が来るまでの短い時間、十一組ラボのメンバーはその場で話し合わなかった。
先の人の意見に引っ張られた状態で次を見ると、同じところばかり注目してしまう。
紅秋がそう判断したからだった。
なつきは記録用紙へ、見た事実だけを書いた。
黄色を見る。
青を見る。
黄色へ戻る。
両方読む。
矢印で方向を確認する。
その行動の意味は、後で考える。
今は決めない。
二人目の商業科一年の女子生徒は、小柄で、案内を見る前から少し緊張していた。
「本当に間違ってもいいんですか?」
「間違って大丈夫」
美優が優しく答える。
「むしろ分からなかったら、そのまま教えてほしい」
「頑張ります」
「頑張らなくていいよ」
周囲から笑いが起きる。
女子生徒もつられて笑い、少し肩の力が抜けたようだった。
開始位置から歩き出す。
案内へ近づく。
彼女は遠くから青い丸へ視線を向けた。
黄色い三角はほとんど見ない。
青い丸の前まで来ると、その下の説明を上から順番に読む。
途中で指先を小さく動かし、文字を追っている。
その後、大きな矢印を見る。
正しい方向へ一歩進み、紅秋に止められて振り返った。
「どうだった?」
「分かりました」
「迷ったところは?」
「特にないです」
なつきは少し驚いた。
同じ試作。
最初の男子生徒は、入口を選ぶところで迷った。
今の女子生徒は、ほとんど迷わず青い丸へ進んだ。
「どうして青を見たの?」
美優が尋ねる。
「丸だったから」
「色じゃなくて?」
「青も見えましたけど、丸の方が安心する感じがして」
「安心?」
女子生徒は少し恥ずかしそうに笑った。
「三角は注意みたいに見えたので」
教室側から見ていた島中が、わずかに眉を上げる。
「黄色い三角が、警告に見えた?」
蓮が確認する。
「警告というほどではないです。でも、急ぐ人とか、何か特別な人が使う方なのかなって」
「説明を読もうとは思わなかった?」
「青で分かったから、黄色は見ませんでした」
「時間がなかったら黄色を見る?」
「分からないです。たぶん青を見ると思います」
女子生徒はもう一度試作を見る。
「青の方が普通で、黄色が急ぐ人用に見えました」
青が普通。
黄色が特別。
その言葉に、なつきは小さく息を呑んだ。
自分たちは、二つを同じ価値の入口として置いたつもりだった。
どちらが上でも下でもない。
必要な情報量が違うだけ。
けれど色と形によって、普通と特別に見えている。
青い丸は穏やか。
黄色い三角は注意。
形や色が持つ印象まで、十分には考えていなかった。
「青を選んで嫌な感じはしなかった?」
なつきが聞く。
「しないです」
「黄色を選ぶのは?」
「少し勇気がいるかも」
「勇気?」
「急いでますって、自分で言うみたいだから」
誰に向けて言うわけでもない。
ただ紙の上の入口を選ぶだけ。
それでも、見られている場所では、自分がどういう人か表すように感じる。
なつきは昨日の自分たちの話し合いを思い出した。
必要な人が選べるようにする。
その考えは、優しいものだと思っていた。
けれど選んだことが周囲から見えるなら、それは利用者へ小さな名札を付けることにもなり得る。
ゆっくり確認する人。
時間がない人。
自分からそう示すことに抵抗がある人もいる。
「ありがとう」
紅秋が女子生徒へ礼を言う。
彼女は教室へ戻る前に、なつきたちへ小さく頭を下げた。
「役に立ちましたか?」
「すごく」
なつきが答える。
「なら良かったです」
女子生徒が離れた後、島中は試作の黄色い三角を見つめていた。
「これ、そんなに怖いか?」
「島中は怖くないんだろうね」
田辺が言う。
「黄色い三角、道路標識でも注意に使うだろ」
「でもこれは黄色だぞ」
「黄色だからだよ」
「丸にする?」
「青も丸。二つとも丸だと形で分けられない」
「四角?」
「四角も案内っぽい」
「案内なんだからいいだろ」
紅秋が手を上げ、話を止めた。
「まだ三組目がある。今は決めない」
島中は言い足りなそうだったが、口を閉じた。
三組目は、特進科一年の女子生徒二人だった。
友人同士で話しながら使う状況を見るため、一緒に協力してもらう。
「相談していいんですか?」
「普段どおりで」
「どっちか一人が分かったら教えてもいい?」
「いいよ」
「じゃあ余裕」
一人が自信ありげに言い、もう一人が笑う。
二人は開始位置へ並んだ。
歩き出す。
案内から少し離れたところで、一人が青い丸を指した。
「こっちじゃない?」
もう一人は黄色い三角を見る。
「急いでるならこっちじゃない?」
「別に急いでないでしょ」
「でも短い方が楽」
「間違えたら嫌だから青」
「どっちでも同じ矢印じゃない?」
その言葉で、二人とも大きな矢印へ視線を向けた。
「本当だ」
「じゃあ矢印だけ見ればよくない?」
「でも何か違いあるんじゃない?」
二人は案内へ近づいた。
青と黄色の説明をそれぞれ読む。
「青は説明多い」
「黄色は場所だけ」
「第二実習室に行くだけなら黄色でいいじゃん」
「でも、何か持っていくものあるかもしれない」
「それはここに書いてなくない?」
「じゃあ黄色」
「うん」
二人は黄色い三角を選び、矢印へ進んだ。
紅秋が声を掛ける。
「使ってみてどうだった?」
「友達と一緒なら分かりやすかった」
一人が答える。
「一人だったら?」
「少し迷うかも」
「どこで?」
「青と黄色の違い」
「でも話したらすぐ分かった」
もう一人が続ける。
「矢印が同じだから、どっちを選んでも場所は合ってるって分かったし」
「最初に矢印だけ見ればいいと思った?」
「思いました」
「それだと、青と黄色は必要ない?」
二人は顔を見合わせた。
「時間ないときは黄色、は分かりやすいです」
「でも、急いでなくても黄色を選んでいいのか分からない」
「短い方が好きな人もいるよね」
「いる。でも、それなら『短く見る』だけでよくない?」
「時間がないときって書くから、急いでる人しか使えない感じがする」
なつきは記録へ目を落とした。
急いでいなくても、短い説明を選びたい人がいる。
自分たちは、情報量の違いと、利用者の時間の違いを同じものとして扱っていた。
時間がある人は詳しく。
時間がない人は短く。
けれど、時間があっても短く知りたい人はいる。
急いでいても詳しく知りたい人もいる。
入口を選ぶ理由は、時間だけではなかった。
「青と黄色を選んでるところ、人に見られるのは気になる?」
美優が尋ねる。
「少し」
一人が答えた。
「何を選んだかで、性格見られてるみたい」
「私は気にしない」
もう一人は肩をすくめる。
「でも、一人だったら黄色選びにくいかも」
「どうして?」
「雑な人に見えそう」
短い案内を選ぶ。
ただそれだけで、自分が雑に見えるかもしれない。
利用者は、案内の中身だけを見ているわけではない。
選ぶ自分が周囲からどう見えるかも感じている。
初見確認が終わる頃には、なつきのノートは細かな文字で埋まっていた。
一人目。
選択肢の違いが分からず、両方読んだ。
二人目。
青い丸を安心と感じ、黄色い三角を特別な入口と受け取った。
三組目。
相談することで選べた。
矢印が同じだと気づいた。
時間の有無と、欲しい情報量は一致しなかった。
選んだ入口によって、自分がどう見られるか気になった。
試作は、使えなかったわけではない。
三組とも最終的には正しい方向へ進めた。
大きな矢印は分かりやすいと言われた。
青と黄色の説明も、読めば意味は伝わっていた。
成功している部分は確かにある。
けれど、その前で新しい立ち止まりが生まれていた。
どちらを選ぶか。
どう見られるか。
自分はどちらの人間なのか。
案内を使う前に、利用者へ余計な判断を求めている。
協力してくれた生徒たちへ礼を伝え、十一組ラボのメンバーは教室へ戻った。
昼休みは残り十五分ほどだった。
机を囲む。
試作を中央へ置く。
誰もすぐには話し始めなかった。
昨日は、二つの入口が最後に一つの矢印へつながる形を見て、全員が少し前へ進めた気持ちになった。
今は、その青い丸と黄色い三角が、昨日とは違って見える。
「失敗?」
島中が口を開いた。
声は、いつもより小さかった。
「使えたから、全部失敗ではないと思う」
美優が答える。
「三組とも場所には行けた」
「でも全員、入口で何か迷ってた」
「二人目は迷ってない」
「青しか見なかったからだろ」
「青しか見なくても使えたなら、それは成功じゃない?」
「黄色が必要なかっただけかもしれない」
島中は黄色い三角を指先で軽く叩いた。
「俺、これ良いと思ったんだけどな」
「良いところはあるよ」
茜が言う。
「短く確認できる入口があること自体は、三組目の二人も分かりやすいって言ってた」
「でも選びにくい」
「うん」
「じゃあ駄目じゃん」
「良いところと駄目なところが一緒にある」
昨日までなら、島中はすぐに直そうと言っていたかもしれない。
今日はしばらく試作を見つめたまま、次の言葉を出さなかった。
自分の案に近い大きな矢印は評価された。
けれど、その矢印へつなげる入口で、利用者が迷った。
喜んでいいのか、悔しがるべきなのか、自分でも決められないように見えた。
「一つ、はっきりしたと思う」
蓮が記録用紙を机へ置く。
「選択肢を作ることと、選択を求めることは違う」
なつきは顔を上げた。
「どう違う?」
「選択肢があるだけなら、必要な人が使える。でも今の試作は、最初に青か黄色かを決めないと先へ進めないように見える」
「選べるようにしたんじゃなくて、選ばせてる?」
「そう見えた人がいた」
蓮は青い丸と黄色い三角の間へ指を置いた。
「どちらでもいいと伝わってない。自分に正しい方を選ばないといけないと思わせてる」
「でも、違いを説明しないと選べないだろ」
島中が言う。
「違いは必要。ただ、入口にしなくてもいいかもしれない」
「どういうこと?」
「最初は一つにする」
蓮は試作の上部を指した。
「全員が同じ大きな入口から案内へ入る。その中で、詳しく見るか、短く見るかを選べるようにする」
「後から分ける?」
美優が聞き返す。
「うん。利用する前に、自分がどの人間か決めさせない。案内へ入った後で、欲しい情報を選んでもらう」
紅秋が黒板へ向かい、大きな四角を一つ描いた。
その下へ、二つの枝を伸ばす。
「最初は共通?」
「例えば、『行き先を確認』」
春樹の声が廊下側から聞こえた。
図書室の当番を終え、少し遅れて教室へ入ってきたところだった。
「遅れてごめん」
「ちょうど今、初見確認終わった」
なつきが答える。
「どうだった?」
「使えたけど、入口で迷った」
春樹は試作を見た。
青い丸と黄色い三角。
昨日、自分も一緒に作ったものだ。
「三組とも?」
「迷い方は違ったけど」
なつきは記録を春樹の前へ置いた。
春樹は立ったまま、内容へ目を通す。
教室には、しばらく紙をめくる音だけが残った。
「選ぶところを見られるのが気になる」
春樹が小さく読み上げる。
「そこ、私も考えてなかった」
なつきが言う。
「誰にも見られずに使うなら平気かもしれない。でも、廊下だと後ろに人がいるし、友達もいる」
「選ぶことが、説明を読む方法じゃなくて、自分を説明することになった」
春樹の言葉に、なつきは胸を突かれた。
青を選ぶ。
黄色を選ぶ。
それだけのはずだった。
けれど利用者には、自分が慎重な人か、急ぐ人か、詳しく読む人か、短く済ませる人かを表明するように感じられた。
「じゃあ、入口は一つ」
紅秋が黒板の四角を指す。
「その中で、必要な情報量を選べる形にする」
「選ぶのは残すんだな」
島中が言う。
「完全になくしたら、また全部読ませる案内へ戻る」
蓮が答える。
「でも、最初に人を二つへ分けない」
「表示の中に、短い案内と詳しい案内を置く?」
茜が尋ねる。
「まず大きな矢印と目的地」
春樹が試作の中央を指した。
「それだけ見れば、急いでる人も、短く知りたい人も進める」
「じゃあ詳しい説明は?」
「その下か横に、『もう少し確認する』みたいな入口を置く」
「青と黄色は?」
島中が聞く。
「なくす?」
誰もすぐには答えなかった。
三枚目の意見では、色を先に見た人がいた。
色は、見つけやすい入口になっていた。
ただし、青と黄色へ人を分けることで、新しい迷いも生まれた。
「色を人の種類に使わなければいいんじゃない?」
なつきが言った。
全員がこちらを見る。
「目的を分けるためじゃなくて、見る順番を示すために使う」
「順番?」
美優が聞く。
「最初に見るところを青。次に見るところを黄色」
「青い丸と黄色い三角を、選択肢じゃなくて番号みたいにする?」
「うん。青を見る人、黄色を見る人に分けないで、全員が青から入る。急いでる人は青だけ見れば進める。詳しく知りたい人は、その後に黄色を見る」
なつきは黒板へ近づき、紅秋からチョークを借りた。
一つ目。
大きな青い丸。
『第二実習室はこちら』
大きな矢印。
二つ目。
その下へ黄色い三角。
『場所や使い方を詳しく確認する』
「これなら、青か黄色か選ばなくていい」
なつきは振り返った。
「最初は全員同じ。青だけで分かる人は進む。もっと知りたい人は黄色を見る」
「黄色が詳しい方なら、三角が注意に見えるのも使えるかも」
田辺が言う。
「注意が必要な説明じゃなくて、確認したい人が見る場所」
「でも黄色い三角を、詳しい人用って思わせない?」
茜が尋ねる。
「自分がどういう人かじゃなくて、今もう少し知りたいかどうかだけ」
「それなら、状況で変えられる」
美優がうなずく。
「急いでる人でも、必要なら黄色を見る。時間がある人でも、青だけで足りれば進める」
「選ぶのは情報であって、自分じゃない」
春樹が言った。
その言葉に、教室が静かになった。
選ぶのは情報。
自分ではない。
なつきは黒板へ書いた青い丸と黄色い三角を見る。
同じ二つの印でも、意味が変わった。
昨日は、利用者を二つの入口へ分ける印だった。
今日は、同じ利用者が必要に応じて見る順番を示す印になろうとしている。
「これ、試したい」
島中が立ち上がる。
「今からは無理」
紅秋が時計を見る。
昼休み終了まで、あと五分しかない。
「放課後」
「初見の人、また頼める?」
「今日の三組には、同じ人をもう一度見てもらいたい」
蓮が言う。
「初見じゃなくなるよ」
美優が返す。
「初見じゃないから分かることもある。前の案より迷わなくなったか比較できる」
「別の初見の人も必要」
紅秋が黒板へ書き足す。
「同じ三組に再確認。新しい人にも初見確認。両方する」
「人数増えるね」
茜が言う。
「一日で全部やらなくてもいい」
「また待つ?」
島中が聞く。
その声には、以前のような不満はなかった。
むしろ、自分で確かめるような響きだった。
「待つ」
紅秋は迷わず答える。
「ただし、今日の放課後に試作は作る。明日の昼休みに再確認できるよう準備する」
「止まらずに待つ」
なつきが呟く。
「そう」
紅秋がうなずいた。
予鈴が鳴る。
全員が慌てて資料を片付け始めた。
試作は教室の奥へ移動し、黒板の案は消さずに残す。
青と黄色を選ばせる案。
青から入り、必要なら黄色へ進む案。
二つを並べて、放課後に比較する。
教室を出ると、生徒たちが授業へ戻る流れで廊下を急いでいた。
なつきと春樹は、途中の階段まで並んで歩く。
「ごめんね」
なつきが言う。
「何が?」
「昨日、春樹が考えた案、変えることになりそう」
「僕だけが考えたわけじゃないよ」
「でも、どこから見ても同じ矢印へ行けるって、最初に言ったのは春樹」
「今も同じだと思う」
「入口、一つになるよ?」
「青から入って、必要なら黄色を見る。どこまで見るかは違っても、最後は同じ矢印へ行く」
「そうだけど」
「案が変わっても、考えたことが全部消えるわけじゃないよ」
春樹は歩きながら、少し前を見た。
「昨日の案があったから、今日の迷いが見えた。今日の迷いがあったから、次の案が出た」
「失敗じゃない?」
「完成ではなかったと思う」
「それ、優しい言い方?」
「本当にそう思ってる」
階段の踊り場へ着く。
窓から入る昼の光が、二人の間へ落ちていた。
「私、三組とも正しい方向へ行けたから、成功って思ってもいいのかなって途中で思った」
なつきは手すりへ軽く触れた。
「でも、話を聞いたら、行く前にいろいろ迷ってた。場所に着けたら、それでいいわけじゃないんだね」
「目的だけなら、着ければ成功かもしれない」
「でも十一組ラボは、それだけじゃない?」
「たぶん」
「使う前も、選ぶときも、伝え方も考えてきたから」
「うん」
「選ぶ前で苦しくなるなら、そこも見ないと駄目なんだ」
春樹は小さくうなずいた。
「選べることは大事だけど、選ばなくても使える方がいいのかもしれない」
「選ばなくても?」
「最初の青だけで進める。必要な人は黄色を見る。どっちを選んだか決めなくても、途中で変えてもいい」
「途中で変えてもいい」
なつきはその言葉を繰り返した。
最初は短く見ようと思った。
でも不安になって詳しく見る。
最初は詳しく読もうと思った。
途中で十分だと感じて進む。
人の気持ちは、案内を見る前から決まっているわけではない。
その場で変わる。
状況によって変わる。
だから入口で一度決めたら戻れないような作りにしない方がいい。
「春樹」
「何?」
「私、今日も隣にいてくれて良かった」
春樹は一瞬だけ視線を逸らした。
「毎日言うの?」
「思ったら言うって昨日言ったでしょう」
「そうだった」
「嫌じゃないんでしょう?」
少しだけ意地悪く聞いてみる。
春樹は困ったように黙った。
廊下を通る生徒たちの声。
階段を上がる足音。
窓の外から聞こえる運動部の笛。
その間に置かれた短い沈黙を、なつきは急かさず待った。
「嫌じゃない」
春樹が小さく答える。
「じゃあいいよね」
「良くない」
「どうして?」
「毎回、返し方に困るから」
「同じでいいよ」
「同じ?」
「僕もって」
言った後で、自分の顔が熱くなる。
春樹は目を見開いた。
なつきも、自分で何を言ったのか改めて理解して、視線を下げる。
「今のは忘れて」
「無理だと思う」
「茜みたいなこと言わないで」
「聞いたから」
「忘れてよ」
「横田さんは、僕が言ったこと忘れられる?」
問い返され、なつきは口を閉じた。
昨日、春樹が言った。
横田さんが来る場所を残しておく。
今日も、その言葉を何度も思い出した。
忘れられるはずがない。
「無理」
「なら僕も無理」
春樹の耳が赤くなっている。
なつきはそれを見て、恥ずかしさの中に少しだけ嬉しさを感じた。
「授業、行こうか」
「うん」
二人は階段の途中で別れた。
午後の授業中、なつきは午前中よりも集中してノートを取った。
頭の中には初見確認の光景が残っている。
黄色と青を交互に見る男子生徒。
青い丸を安心と感じた女子生徒。
友人と相談し、短い方を選んだ二人。
三組とも、正しい方向へ進めた。
それでも、同じ案内の前で全く違う迷い方をした。
分かりやすさは、目的地へ着けるかだけでは測れない。
選ぶときに自分を説明させられないか。
周囲の目を気にせず使えるか。
途中で気持ちが変わっても戻れるか。
そこまで考える必要がある。
放課後。
十一組ラボの教室では、すぐに新しい試作づくりが始まった。
昨日の青い丸と黄色い三角を、左右に並べるのではなく、上下へ並べる。
最上部には、大きな青い丸。
『まず、行き先を確認』
その下へ、目的地と大きな矢印。
さらに下へ、小さな黄色い三角。
『もう少し詳しく確認する』
黄色の下には、場所の特徴や、利用するときの手順を短い文章で置く。
「黄色見なくても進める?」
島中が少し離れたところから確認する。
「青だけで目的地と矢印は分かる」
美優が答える。
「じゃあ黄色は完全に追加情報」
「うん」
「短く見る人用って書かない?」
「書かない」
蓮がはっきり言う。
「人を分けないための変更だから」
「でも、青だけ見る人が短く見る人だろ」
「結果としてそうなる。でも本人へ名乗らせない」
「難しいな」
島中は頭を掻いた。
「やってることは似てるのに、意味が全然違う」
「そこが大事なんじゃない?」
なつきが紙の位置を直しながら言う。
「青だけで行ってもいいし、黄色まで見てもいい。途中で戻ってもいい。誰にも、自分はこっちですって示さなくていい」
「案内って、そんなところまで考えるものなんだな」
田辺が呟く。
「俺、今まで矢印があればいいと思ってた」
「島中もまだ思ってる」
「思ってない。少ししか」
「少しは思ってるんだ」
教室に笑いが起きる。
春樹は、表示の高さを調整していた。
青い丸が一番上へ移ったことで、前に人が立った場合でも入口が見えやすくなっている。
ただし、黄色い三角は下部へ置かれたため、人の身体に隠れやすい。
「黄色が見えない」
茜が後ろから言う。
「詳しく見たい人は、前の人が動いてから近づけばいいんじゃない?」
島中が答える。
「それだと待つことになる」
「詳しく見るなら時間あるだろ」
「時間があるかどうかで分けないって、今話したでしょう」
「あ」
「もう忘れたの?」
「考えること多いんだよ」
島中が額を押さえると、全員が笑った。
けれど、指摘は残った。
黄色い追加情報が下にあることで、前に人が立つと見えない。
青だけで進む人には問題がない。
詳しく見たい人には、近づく前に黄色の存在が分からない可能性がある。
「黄色を横へ出す?」
美優が提案する。
「でも左右に並べると、また二つから選ぶように見える」
「青の近くへ小さく置く」
春樹が紙を動かした。
「青の下に『続きがあります』と書いて、黄色へ線をつなぐ」
「線、増えるよ」
「一本だけ」
「それなら順番に見えるかも」
なつきは少し離れた。
青い丸。
目的地。
矢印。
その横に、小さく『詳しく見る』。
黄色い三角へ続く一本の線。
以前よりも、入口が一つに見える。
選ぶのではなく、必要なら先へ進む形になった。
「階段みたい」
茜が言う。
「青で足りたら、そのまま行く。もっと知りたい人だけ一段下がる」
「下がるって言うと悪く聞こえる」
田辺が言う。
「横へ進む?」
「紙の中で?」
「言い方の話」
「道みたいでもある」
なつきが言った。
「同じところから始まって、必要な人だけ寄り道できる」
「寄り道しても、最後は同じ矢印へ戻る」
春樹が続ける。
二人の言葉が自然につながった。
なつきは隣を見る。
春樹もこちらを見ていた。
ほんの一瞬、教室の声が遠くなる。
けれど島中がすぐに口を挟んだ。
「二人で良い感じにまとめてるけど、試さないと分からないからな」
「分かってるよ」
なつきは慌てて試作へ視線を戻す。
「何だよ、その反応」
「島中、手動かして」
「動かしてる」
「口の方が動いてる」
田辺の指摘に、また笑いが起きた。
作業は日が傾くまで続いた。
新しい試作は、昨日よりも見た目が静かになった。
青と黄色が競うように並んでいない。
最初に大きな青い丸と目的地が目へ入り、その後、必要な人だけが黄色い追加説明へ進む。
大きな矢印は残した。
三組すべてが分かりやすいと答えた部分だからだ。
良かったものは残す。
迷いを生んだところは変える。
全部を作り直す必要はない。
けれど、使えたという結果だけを見て、迷った過程を無視してもいけない。
片付けの前、紅秋が新旧二つの試作を黒板の前へ並べた。
昨日の案。
青い丸と黄色い三角を左右へ並べ、利用者が入口を選ぶ形。
今日の案。
青い丸から全員が入り、必要なら黄色い説明へ進む形。
「明日の再確認では、どっちが正解か決めない」
紅秋が言った。
「え、決めないの?」
島中が聞き返す。
「一回で決めない。どこで迷ったか、何が残ったかを見る」
「また声を待つ?」
「そう」
紅秋は全員を見回した。
「ただし、今度は待つ理由が前よりはっきりしてる。選択肢が悪いのか、選ばせ方が悪いのか、それとも言葉の問題なのか。そこを確かめる」
蓮がうなずく。
「比較する条件もそろえた方がいい」
「同じ場所。同じ距離。同じ目的地」
美優が記録へ書き足す。
「一人で見る人と、二人で見る人も必要」
茜が言う。
「今日の三組に頼めるか、私が聞く」
「新しい人は?」
「紅秋と相談して探す」
役割が決まっていく。
なつきは二つの試作を見つめた。
昨日の自分たちは、選べることを増やせば、利用者を置いていかないと思っていた。
今日、選択肢そのものが人を立ち止まらせることを知った。
選べるようにするだけでは足りない。
選ばなくても使えること。
途中で変えられること。
何を選んだかで、自分がどういう人間か示さなくていいこと。
そこまで考えて、ようやく利用者へ選択肢を渡せる。
「なつき」
茜に呼ばれ、顔を上げる。
「帰らない?」
「うん」
「春樹は譜面台返すって」
教室の後方を見ると、春樹が昨日と同じ譜面台を畳んでいた。
なつきは少しだけ笑う。
「手伝ってくる」
「そう言うと思った」
「何、その顔」
「別に」
茜は楽しそうに笑い、紅秋たちへ挨拶して教室を出た。
なつきは春樹のところへ行き、譜面台の反対側を持つ。
「一人で持てるよ」
「知ってる」
「昨日と同じ」
「今日も手伝いたいから」
「隣を歩きたいから?」
先に言われ、なつきは言葉に詰まった。
春樹は少しだけ笑っている。
「それ、私が言う予定だった」
「昨日聞いたから」
「覚えてたんだ」
「忘れられないって言ったでしょう」
胸の奥が温かくなる。
二人で教室を出る。
放課後の廊下には、昼休みよりも長い影が伸びていた。
譜面台を間に挟み、歩幅を合わせる。
「今日の試作、どう思う?」
なつきが尋ねる。
「前より好き」
「どうして?」
「選ばなくても始められるから」
「春樹も選ぶの苦手?」
「場合による」
「恋愛とか?」
口にしてから、自分で驚いた。
あまりにも直接的だった。
春樹の足が一瞬止まり、譜面台が小さく揺れる。
「ごめん。今のなし」
「なしにできる?」
「して」
「難しい」
「難しくても」
なつきは前を向いたまま、顔が熱くなるのを感じていた。
春樹も、しばらく何も言わなかった。
二人の足音。
譜面台の金属が触れる小さな音。
遠くから聞こえる吹奏楽部の練習。
沈黙が長くなる。
けれど、逃げ出したいほど嫌ではなかった。
「選ぶのは苦手かもしれない」
春樹が静かに言った。
なつきは顔を向ける。
「恋愛?」
「今、それを聞いたんでしょう」
「うん」
「選んだら、それ以外を全部なくすように感じるから」
「なくなる?」
「今までの関係とか、普通に話せる時間とか」
春樹は譜面台の端を持ち直した。
「変わるのが怖いのかもしれない」
なつきはすぐに答えられなかった。
自分も同じだった。
春樹の隣にいたい。
特別になりたい。
けれど、名前を付けたことで今の距離が壊れるのは怖い。
選ばなければ、何も変わらない。
でも、選ばなければ進めないようにも感じる。
「じゃあ」
なつきはゆっくり言葉を探した。
「今の試作みたいにできないかな」
「どういうこと?」
「最初に決めなくても、一緒にいられる」
「……うん」
「途中で、もう少し知りたくなったら、そっちを見る」
「黄色い三角?」
「例えだから」
春樹が小さく笑う。
「分かってる」
「選ばなくても始められる。でも、何もしないわけじゃない」
「隣を歩く?」
「うん」
「待つ?」
「うん。でも、止まらない」
昨日まで十一組ラボで話してきた言葉が、二人の間へ少しずつ重なる。
待つ。
場所を残す。
選べるようにする。
選ばなくても始められる。
途中で変えてもいい。
それは案内表示の話でありながら、今の二人にも似ていた。
「それなら」
春樹が言う。
「今は、これでいいかもしれない」
「これ?」
「一緒に歩くこと」
なつきは少しだけ笑った。
「うん」
答えを決めたわけではない。
関係へ名前を付けたわけでもない。
それでも、隣にいることを選んでいる。
選んだことで、他のすべてが消えるわけではない。
今の時間を残したまま、少しずつ先へ進むこともできるのかもしれない。
音楽室へ譜面台を返し、二人は昇降口へ向かった。
窓の外では、夕暮れの空が薄い橙色に染まっている。
今日の初見確認で、十一組ラボの試作は完成しなかった。
選べるようにしたのに、選ぶ前で立ち止まる人がいた。
その立ち止まりは、失敗を知らせるものではなかった。
自分たちがまだ見ていなかった負担を教えてくれる時間だった。
利用者へ選択肢を渡すなら、その人が選ばなくても困らない場所も残しておく。
選んだ後で変えられる道も残しておく。
どちらを選んだかで、その人自身を決めつけない。
明日の再確認では、また別の声が届くだろう。
今日の案より分かりにくいと言われるかもしれない。
選ばなくてよくなった分、情報の違いが見えにくくなるかもしれない。
それでも、今は怖くなかった。
迷った人がいたから、次の案を作ることができた。
立ち止まった時間を、遅れとしてではなく、見直すための声として受け取ることができた。
十一組ラボの教室には、二枚の試作が並んで残っている。
一枚は、選べる案内。
もう一枚は、選ばなくても始められる案内。
どちらが正しいかは、まだ決まっていない。
けれど、利用者が立ち止まった場所を置き去りにせず、次の日へ持っていく準備だけはできていた。




