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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第164話 最初の一枚は、何も書かれていない時間まで連れてくる


 試験設置の初日。


 朝から、二年商業科十一組の教室は妙に落ち着かなかった。


 普段どおりに登校してきた生徒たちは、自分の席へ鞄を置き、友人と話し、提出物を出している。窓際では、昨日までの雨で湿った校庭を眺めながら、体育の授業が外で行われるかどうかを気にしている男子生徒もいた。


 それでも。


 教室へ入ってきた者の多くが。


 最初に一度。


 後方の棚へ目を向けていた。


 棚の上には。


 今日から設置する記入用紙と。


 それを固定するための小さな台。


 鉛筆。


 回収用の薄い箱。


 十一組側で使う記録台紙が、順番に並べられている。


 昨日までは試作品の一部だったものが。


 今日からは、本当に誰かの手へ触れる。


 実際に使われ。


 実際に迷った人の声が。


 そこへ置かれるかもしれない。


「まだ設置してないよな?」


 三浦が棚の前に立ち、記入用紙を持ち上げた。


「見れば分かるでしょう」


 紅秋が答える。


「いや、朝のうちに誰かが書いてたらどうしようと思って」


「教室の棚に置いてあるのに?」


「十一組の誰かが試し書き」


「それは昨日やった」


「じゃあ先生」


「先生が勝手に書くと思う?」


「書きそうじゃない?」


「何を?」


「『授業中に後ろを見ないでください』」


 近くにいた生徒たちが笑った。


 なつきも笑いながら。


 自分の鞄を机の横へ掛けた。


「それは試作品の意見じゃないよ」


「でも十一組への戻ってくる声」


「戻す場所が違う」


 茜が出席簿を教卓へ運びながら言った。


「三浦、まだ触らないで。鉛筆の紐も、設置場所でもう一度長さを確かめるから」


「はい」


 三浦は記入用紙を元の位置へ戻した。


 ただし。


 その場から離れない。


 紙を見たまま。


 腕を組む。


「……誰か書くかな」


 昨日までの冗談混じりの声とは違い。


 その言葉だけは。


 少し小さかった。


 紅秋も。


 すぐには答えなかった。


「書く人がいるから置くんじゃないの?」


 三浦が尋ねる。


「困る人がいるかもしれないから置く」


「同じじゃない?」


「困っても、書かない人もいる」


 紅秋は言った。


「紙に気づかない人もいるし。気づいても面倒で書かない人もいる。書こうと思ったけど、時間がなくてやめる人もいる」


「じゃあ、何も来なかったら?」


「何も来なかった理由を考える」


「分かりにくい場所がなかった可能性は?」


「それもある」


「俺たちの案内が完璧だった可能性」


「低い」


「言い切るなよ」


 紅秋は少し笑った。


「昨日まで散々見つかったでしょう」


「夢くらい見てもいいじゃん」


「試験中に夢で判断しないで」


 その会話を聞きながら。


 なつきは棚の上の記入用紙を見た。


『迷った場所を教えてください』


『いただいた意見は、より分かりやすく直すために使います』


 白い紙。


 その下には。


 まだ何も書かれていない空白が広がっている。


 昨日。


 その空白を見たとき。


 なつきは。


 いつか誰かの困った時間が、そこへ置かれるのだと思った。


 今朝になってみると。


 まだ何もないことまで。


 妙に気になった。


 書かれていない。


 それは。


 困った人がいなかったということなのか。


 まだ誰も見ていないということなのか。


 見たけれど書かなかったのか。


 紙へ近づいたが、やめたのか。


 何もない空白には。


 いくつもの可能性がある。


 けれど。


 どれが本当かは分からない。


「なつき」


 茜が呼んだ。


「何?」


「朝のうちに、設置場所へ運ぶよ。先生が来る前に廊下の通行幅だけ確認したい」


「うん」


「板倉と大國にも声かけて」


「分かった」


 なつきは紅秋の肩へ軽く触れた。


「紅秋ちゃん、運ぶって」


「聞こえてた」


「春樹君は?」


「まだ来てない」


 春樹の席を見る。


 本は置かれていない。


 鞄もない。


 普段なら。


 この時間にはすでに登校し、窓際の席で本を開いていることが多い。


「珍しいね」


 なつきが言った。


「遅刻するほどじゃないでしょ」


 紅秋は時計を見上げた。


「まだホームルームまで十五分ある」


「でも春樹君、早いから」


「横田、毎日何分に来てるか見てるの?」


「見てるっていうか」


 なつきは言葉を止めた。


 春樹が教室にいること。


 窓際で本を読んでいること。


 なつきが登校したとき。


 顔を上げる日と。


 気づかずに読み続けている日があること。


 その違いまで。


 意識して覚えている。


 けれど。


 それを言うのは。


 少し恥ずかしかった。


「いるかどうかは分かるよ」


「それを見てるって言うんじゃない?」


 紅秋の声は。


 からかうというより。


 静かに確かめるようだった。


「紅秋ちゃんだって、三浦君がいなかったら分かるでしょう?」


「うるさくないから分かる」


「ひどいな」


 少し離れた場所から三浦が返す。


「聞いてたの?」


「自分の名前には反応する」


「便利」


「褒めてる?」


「半分」


 紅秋が言う。


「残り半分は?」


「面倒」


「割合おかしくない?」


 教室の空気が。


 少し軽くなる。


 そのとき。


 前扉が開いた。


 春樹が教室へ入ってくる。


 右肩には鞄。


 左手には。


 透明な袋へ入れられた、薄い板のようなものを持っていた。


「春樹君」


 なつきがすぐに呼ぶ。


 春樹は。


 教室へ入って二歩ほど進んだところで、なつきを見た。


「おはよう」


「おはよう。今日、少し遅かったね」


「家を出る前に、これ探してた」


 春樹は左手の袋を持ち上げた。


 中に入っているのは。


 透明なプラスチック製の板だった。


 端には。


 折り曲げられた支えの部分がある。


「何それ?」


 三浦が近づく。


「本を立てるやつ?」


「図書室で、案内を置くときに使ってる台」


 春樹が答える。


「昨日、机の上へ紙を置くと、通る人の位置から見えにくかったから。立てた方がいいかと思って」


「持ってきていいの?」


 茜が尋ねる。


「図書委員の先生に聞いた。今日だけ試すならいいって」


「借りたんだ」


「うん」


 春樹は袋から台を取り出し。


 棚の上の記入用紙を置いてみた。


 紙が。


 ほぼ垂直に近い角度で立つ。


 机の上へ平らに置いていたときより。


 少し離れた場所からでも文字が見える。


「これなら、案内より下に置いても見えるかも」


 紅秋が言った。


「でも反射する」


 田辺が窓側から見る。


 透明な台の表面へ。


 朝の光が白く映り込んでいる。


「廊下の向きなら、窓が正面じゃない」


 春樹は台を少し傾けた。


「蛍光灯は?」


「設置してから見る」


「鉛筆置く場所ないね」


 三浦が言う。


「横に小さい箱をつける?」


「勝手に加工できない」


「借り物だし」


「じゃあ紐で」


「紐をどこへ固定する?」


 また。


 一つの道具を置いただけで。


 新しい課題が増えていく。


 なつきは。


 少しだけ可笑しくなった。


「完成しないね」


「何が?」


 春樹が尋ねる。


「置くものが一つ増えるたびに、考えることも増えるから」


「嫌になった?」


「ううん」


 なつきは首を横へ振った。


「前より、慣れたかも」


「何に?」


「終わらないことに」


 春樹は。


 少し考えた後。


「それは慣れていいのかな」


「分からない」


「でも、急いで決めなくなった」


 紅秋が二人の会話へ入る。


「前なら、今日置くんだから今すぐ決めようってなってた」


「茜ちゃんが?」


「全員」


 紅秋は棚の上の道具を見る。


「今は、今日試して、駄目なら戻すって考えられる」


「戻れる場所があるから?」


 なつきが尋ねる。


「たぶん」


 紅秋は答えた。


 昨日まで。


 失敗は。


 期限を遠ざけるものだった。


 終わりを遅らせるもの。


 やり直しを増やすもの。


 けれど今は。


 戻って考える日を、最初から作っている。


 だから。


 その場で決めきらなくてもいい。


 試して。


 見て。


 戻す。


 そう思えるだけで。


 同じ迷いの中にいても。


 息苦しさが少し違った。


「じゃあ、運ぼう」


 茜が言った。


「先生が来る前に、位置だけ確認する」


 試作品。


 記入用紙。


 透明な台。


 鉛筆。


 紐。


 記録台紙。


 それぞれを分担して持ち。


 十一組の生徒たちは教室前の廊下へ出た。


 朝の廊下には。


 まだ登校途中の生徒が行き交っている。


 鞄を肩へ掛けたまま友人を待つ者。


 教室を間違えた一年生へ、場所を教える二年生。


 部活動の朝練を終え、髪を濡らしたまま急いで戻ってくる生徒。


 十一組の前に机を出すと。


 何人かが歩きながら視線を向けた。


「何置くの?」


「昨日のやつ?」


「今日から?」


 答えを求めるというより。


 気になったことを口にして、そのまま通り過ぎる声。


 なつきたちは。


 通行の邪魔にならないよう壁際へ机を寄せ。


 試作品を置いた。


 その右下。


 少し離れた位置へ。


 透明な台に立てた記入用紙を置く。


「教室から出てくる人がぶつかる」


 田辺が言った。


 前扉を開け。


 実際に教室から出る動きをする。


 扉が開くと。


 記入用紙の台まで、まだ距離はある。


 けれど。


 二人が同時に出た場合。


 一人が机の横へ広がる可能性がある。


「もう少し奥」


 茜が言う。


「案内から離れるけど」


「離れすぎると関係ない紙に見える」


「台だけ壁側へ寄せる?」


「鉛筆を取るとき腕が当たる」


「じゃあ案内の下?」


「見つけにくい」


 何度も動かす。


 数センチ。


 右。


 左。


 前。


 後ろ。


 それだけなのに。


 見る位置が変わると。


 印象まで変わる。


「ここ」


 春樹が言った。


 試作品の右端から。


 手のひら一つ分ほど空けた場所。


 教室の扉からも離れ。


 廊下を歩く人から見れば。


 案内を確認した後。


 視線を少し右へ動かすと入る位置。


「近すぎない?」


 紅秋が廊下の奥から見る。


「案内の一部に見えるかも」


「でも、同じものとして見た方が、迷った人には分かりやすい」


「案内へ書き込む紙だと勘違いしない?」


「台を変える?」


「色は増やさない」


「枠だけ?」


「まだ決めない」


 茜が止めた。


「今日は、この位置で一度見てもらう。問題が出たら、おかえり会で考える」


「本当に戻す前提になったな」


 三浦が言う。


「悪い?」


「いや」


 三浦は。


 記入用紙を見ながら。


 少しだけ笑った。


「前より、遠慮なく置ける」


「失敗しても?」


「失敗したら、戻ってくる理由になる」


「珍しくいいこと言った」


 紅秋が答える。


 三浦の顔が明るくなる。


「今の記録して」


「調子に乗るからしない」


「褒めた意味」


「ちゃんと残ってる」


「どこに?」


「私の中」


「見えない」


「見えなくていい」


 そのやり取りへ。


 朝の廊下を歩いていた生徒たちが笑いながら振り返る。


 十一組の前に人が集まり始める前に。


 担任教師が教室へ来た。


「もう出したのか」


「位置の確認だけです」


 茜が答える。


「担当の先生が来るまで、設置は始めません」


 教師は。


 机の横を歩き。


 廊下の奥から近づき。


 一度通り過ぎ。


 反対側から戻ってきた。


「何か気づきましたか?」


 三浦が尋ねる。


「お前たちが見すぎている」


「そこ?」


「今、この廊下を通った生徒のほとんどが、紙ではなくお前たちを見た」


 十一組の生徒たちは。


 互いの顔を見た。


 確かに。


 机の周囲へ六人以上が集まり。


 設置場所を真剣に見つめている。


 それだけで。


 通る人は。


 何があるのかより。


 何をしている集団なのかを気にする。


「離れた方がいい?」


 なつきが尋ねる。


「実際に見る反応を確かめるならな」


「でも、今は位置確認」


「なら構わない。ただ、本番になってから全員で遠くから見守るな」


 教師は三浦を見る。


「特にお前」


「俺だけ?」


「誰かが書きそうになるたびに近づくだろ」


 三浦は否定しようとして。


 少し考え。


「……たぶん」


 正直に答えた。


「やめろ」


「努力します」


「書く側が逃げる」


「声かけないですよ」


「見られているだけで書きにくい」


 昨日。


 一年生が言っていた。


 皆が真剣に見ていたから。


 分からないと言うのが怖かった。


 なつきたちは。


 また同じことをしようとしていた。


 今度は。


 紙へ書く誰かを。


 遠くからでも見張るように。


「じゃあ」


 茜が教室の全員を見る。


「設置後、休み時間に様子を見に来るのは禁止」


「禁止?」


 三浦の声が大きくなる。


「見に来たら、書く人が気づく」


「偶然通るのは?」


「普通に通るのはいい。でも立ち止まらない」


「教室前なのに?」


「窓から見るのも駄目」


 三浦は。


 廊下側の窓を見る。


 教室の中から。


 机の位置がちょうど見える。


「先に言われた」


「考えてたでしょう」


「確認しようと思っただけ」


「その確認が見張りになる」


「回収日まで見ない?」


 なつきが尋ねた。


「紙が減ったかも?」


「それも見ない」


「箱の中へ入ったら見えない」


「回収用の箱、透明じゃない方がいいね」


 紅秋が言う。


「最初、残ってる枚数を確認できるよう透明にしようとしてた」


「変える?」


「変えよう」


 まだ設置も始まっていないのに。


 また一つ。


 変更が決まる。


 透明な回収箱は。


 中が見えない紙箱へ変えることになった。


「俺、購買でもらってくる」


 三浦が言う。


「何を?」


「お菓子の箱」


「大きすぎる」


「ティッシュの箱」


「入口が広い」


「小さい菓子箱」


「色が派手」


「何ならいいんだ」


「教室に封筒ある」


 紅秋が棚の中を探す。


 委員会資料を入れるために使っていた。


 無地の大きな封筒。


 上部を開けたまま。


 簡単な台紙へ貼れば。


 紙を差し込める。


 中は見えない。


「これでいい」


 茜が言う。


「回収するときも、封筒ごと持てる」


「最初からこれにすればよかった」


 三浦が呟く。


「最初から分かったら、試す必要ないでしょう」


 紅秋が答える。


「透明な箱、考えた時間も無駄じゃない」


「どうして?」


 なつきが尋ねる。


「見えたら、私たちが気にするって分かったから」


「書いた人じゃなくて、私たちが?」


「うん」


 紅秋は封筒を手に持ち。


 中の見えない白い表面を見る。


「意見が来たか気にしすぎるのも、受け取る側の問題だから」


 なつきは。


 少しだけ胸を突かれた。


 朝から。


 自分も気にしていた。


 何か書かれるか。


 誰が書くか。


 どんな言葉が来るか。


 空白を見ながら。


 まだ始まってもいない声を。


 何度も想像していた。


 回収日まで開けない。


 中に何枚あるかも見ない。


 それは。


 書く人を守るだけではない。


 待つ側が。


 待ちすぎて。


 何もない時間まで悪い意味へ変えてしまわないための決まりなのかもしれない。


「何も来なかったら」


 なつきが言った。


「どうする?」


「最終日に見る」


 茜が答える。


「その前には?」


「考えない」


「できるかな」


「できなくても、開けない」


「厳しいね」


「必要だから」


 茜は。


 封筒へ視線を落とした。


「何も来ない時間まで、勝手に失敗にしたくない」


 教室前の廊下へ。


 一瞬。


 静かな間が落ちた。


 昨日まで。


 戻ってきた声をどう受け取るか考えていた。


 だが。


 戻ってこない時間にも。


 受け取り方がある。


 何も来ない。


 それを。


 無視されたと考えるのか。


 問題がなかったと考えるのか。


 仕組みが使いにくかったと考えるのか。


 どれも。


 確認する前に決めてはいけない。


「記録しておく?」


 春樹が言った。


「何を?」


「回収前に、枚数を予想しない」


「それ、決まりにする?」


「予想はすると思う」


 三浦が言う。


「俺、十枚」


「もうしてる」


 紅秋が呆れる。


「三浦は予想禁止」


「俺だけ?」


「全員、口に出さない」


 茜が言った。


「心の中は?」


「止められない」


「正直」


「ただ」


 茜は続ける。


「予想した数と違っても、その理由を勝手に決めない」


「一枚しかなくても?」


「うん」


「ゼロでも?」


「うん」


「二十枚でも?」


「多いけど、同じ」


「二十枚来たらさすがに焦る」


「焦っても、先に読むだけ。すぐ直さない」


「我慢ばっかりだな」


 三浦は言った。


「意見を集めるって、もっと、来た、読んだ、直した、で終わると思ってた」


「私も」


 なつきが答える。


「でも、待つ時間も入ってるんだね」


 春樹が。


 記入用紙と封筒を見る。


「書く人が言葉を置くまで待つ。回収日まで待つ。読んでから修正を決めるまで待つ」


「待ちすぎじゃない?」


 三浦が言う。


「急いだら、誰かの言葉を自分たちの都合へ変えるかもしれない」


 春樹は静かに答えた。


「すぐ直すのも?」


「すぐ直せば、聞いたことにはなる。でも、考えたことにはならないかもしれない」


「深いな」


 三浦が感心する。


「今の記録して」


「自分で書けば?」


「俺が書くと、俺の名言みたいになる」


「ならない」


 紅秋が即答した。


 そのとき。


 校内運営委員会の担当教師と。


 昨日来た二年生の女子生徒が廊下の向こうから歩いてきた。


「準備できていますか?」


「はい」


 茜が答える。


「いくつか変更しました」


 透明な台。


 記入用紙。


 無地の封筒。


 鉛筆の紐。


 設置位置。


 昨日から変えたことを。


 順番に説明する。


 担当教師は。


 廊下の両側から位置を確認し。


 教室の扉を開閉し。


 実際に案内の前へ立った。


「封筒の入口」


 教師が言う。


「狭くないか?」


「紙を二つ折りにすれば入ります」


 茜が答える。


「折る必要があると、面倒では?」


 全員が封筒を見る。


 記入用紙は。


 そのままでは少し幅が広い。


 角度を変えれば入るが。


 一度手を止めて。


 入口を確かめなければならない。


「広げる?」


 三浦が言う。


「封筒を切る?」


「切っていい?」


「これは学校の備品?」


「教室の余り」


「なら加工はできる」


 紅秋が鋏を持ってくる。


 封筒の上部を。


 少しだけ横へ広げる。


 紙をそのまま差し込める幅へ。


「試します」


 昨日来た一年生の女子生徒が。


 今日も確認役として来ていた。


 彼女は記入用紙へ何も書かず。


 白紙のまま、封筒へ入れてみる。


 紙は。


 引っかからず。


 中へ落ちた。


「入れやすいです」


「取り出せる?」


 茜が尋ねる。


 封筒を台から外し。


 上から覗かずに逆さへ向ける。


 白紙が一枚。


 机の上へ滑り落ちた。


「大丈夫」


「じゃあ」


 担当教師が。


 時計を見る。


「今日の昼休みから、試験設置を始めます」


 十一組の生徒たちが。


 少しだけ息を止めた。


「期間は一週間。回収は三日目と最終日。回収時は二人以上。担当教師へ報告してから開封すること」


「はい」


「安全に関わる内容があれば、即時報告。それ以外は、最終日の話し合いまで案内本体を変更しない」


「はい」


「休み時間に見張らない」


 教師は。


 三浦へ視線を向けた。


「はい」


 三浦が答える。


「窓から確認しない」


「はい」


「偶然通っても、封筒を触らない」


「はい」


「声が小さい」


「はい!」


「大きすぎる」


 周囲から笑いが起きる。


 担当教師も。


 僅かに口元を緩めた。


「では、設置してください」


 その言葉で。


 試作品。


 記入用紙。


 封筒。


 鉛筆。


 全てが。


 廊下の壁際へ。


 正式に置かれた。


 大きな式があるわけではない。


 拍手もない。


 始まりを知らせる札もない。


 数人の教師と。


 十一組の生徒たちが。


 位置を確認し。


 机から手を離しただけだった。


 それでも。


 なつきは。


 少しだけ胸が落ち着かなくなった。


「始まったね」


 小さく言う。


「うん」


 春樹が答える。


 記入用紙には。


 まだ何も書かれていない。


 封筒の中も空。


 案内の前を。


 一人の男子生徒が通り過ぎる。


 ちらりと見る。


 立ち止まらない。


 次に。


 二人組の女子生徒が歩いてくる。


 一人が案内へ視線を向け。


 もう一人が話しかけ。


 そのまま通り過ぎる。


 十一組の全員が。


 見ていた。


「戻ろう」


 茜が言った。


 誰もすぐには動かなかった。


「見張らない約束」


「今は設置直後だから」


 三浦が言う。


「今から見張り」


「一分だけ」


「駄目」


 茜が先に教室へ戻る。


 紅秋が続く。


 田辺は。


 まだ机を見ていた三浦の肩をつかみ。


 教室へ押し戻した。


「自分で歩ける」


「歩かないから」


「最後に一回だけ」


「駄目だ」


 春樹も。


 一度だけ記入用紙を見た後。


 教室へ入る。


 なつきは。


 最後まで残りかけた。


 白い記入欄。


 空の封筒。


 廊下を行き交う生徒。


 誰かが。


 今日。


 そこへ何か置くかもしれない。


 でも。


 今はまだ。


 何もない。


「横田」


 春樹が教室の中から呼ぶ。


「うん」


 なつきは。


 記入用紙へ小さく頭を下げそうになり。


 自分でも変だと思ってやめた。


 そして。


 教室へ戻った。


 昼休み。


 十一組の生徒たちは。


 普段より教室内に残っていた。


 購買へ行く者もいる。


 図書室へ向かう者もいる。


 委員会の仕事へ出る者もいる。


 それでも。


 廊下側の窓へ近づく者はいなかった。


 正確には。


 近づこうとして。


 途中で思い直す者が何人もいた。


 三浦は。


 教室後方の棚から廊下側の窓まで三歩の位置へ行き。


 紅秋に見つかり。


 自分の席へ戻された。


 田辺は。


 教室の前扉から出ようとして。


「トイレ」


 と先に申告した。


「誰も止めてない」


 茜が言う。


「見張りと勘違いされたくない」


「普通に行って」


「帰りも止まらない」


「報告しなくていい」


 教室内に笑いが起きる。


 なつきは。


 自分の席で弁当を食べていた。


 向かいには紅秋。


 隣には春樹。


 少し離れた机へ茜と三浦がいる。


「気になる?」


 春樹が尋ねた。


「すごく」


 なつきは即答した。


「何か書いた人いるかな」


「見に行かないで」


 紅秋が釘を刺す。


「行かないよ」


「窓も見ない?」


「見ない」


「今、見ようとしたでしょう」


「外の天気を」


「廊下側の窓から?」


「……癖」


「そんな癖ない」


 なつきは。


 少しだけ肩を落とした。


「何も来なかったら、寂しいかも」


「寂しい?」


 春樹が聞き返す。


「うん」


「失敗だと思うんじゃなくて?」


「それも少し。でも」


 なつきは箸を止めた。


「昨日、戻ってくる声を待ちたいと思ったから。誰も帰ってこなかったみたいに感じるかもしれない」


「帰ってくる場所を作ったから?」


「うん」


 紅秋は。


 自分の弁当箱へ視線を落としたまま言った。


「でも、帰ってこない方がいい人もいるんじゃない?」


「どういうこと?」


「迷わなかった人」


「あ」


「その人は、何も書かずに先へ行く。それでいい」


 なつきは。


 箸の先を見た。


 誰も戻ってこない。


 それは。


 誰も困らなかった可能性もある。


 道を使い。


 迷わず進み。


 そのまま自分の場所へ行けた。


 それなら。


 帰ってこないことは。


 悪いことではない。


「おかえり会なのに、帰ってこない方がいい場合もあるんだ」


「全員を帰らせる会じゃないから」


 紅秋が答える。


「困ったときに戻れるようにするだけ」


「待つけど、呼ばない?」


 春樹が言う。


「たぶん」


 なつきは頷いた。


「何か書いてくださいって見に行ったら、困ってない人まで困ったこと探しそう」


「それもある」


「じゃあ」


 三浦が少し離れた席から会話へ入った。


「今の俺たち、玄関でずっと外見てる家族みたいじゃない?」


「誰を待ってるの?」


 なつきが尋ねる。


「意見」


「意見は家族じゃない」


「例え」


「玄関に全員いたら帰りにくい」


 紅秋が言う。


「だから教室にいるんだろ」


「三浦君、珍しく話が戻った」


「俺、普段も戻してる」


「脱線して戻ってきてるだけ」


 また笑いが広がる。


 笑っている間だけ。


 廊下のことを忘れられた。


 だが。


 笑いが収まると。


 誰かが時計を見る。


 誰かが耳を澄ます。


 紙へ鉛筆が走る音など。


 教室まで聞こえるはずがない。


 封筒へ紙が落ちる音も。


 昼休みのざわめきへ消える。


 それでも。


 十一組の生徒たちは。


 何か小さな変化が起きた気がするたび。


 一瞬だけ。


 廊下へ意識を向けた。


 予鈴が鳴る。


 昼休みが終わる。


「見ないで戻ってくる生徒、偉いな」


 三浦が言う。


「私たちは最初から教室にいた」


 茜が答える。


「心が戻ってきた」


「どこから?」


「廊下」


「行ってないでしょう」


「心だけ行ってた」


「それは分かる」


 茜は。


 少しだけ笑った。


 午後。


 授業中も。


 試験設置のことは。


 完全には頭から離れなかった。


 ただ。


 授業は進む。


 教師の説明。


 ノート。


 教科書。


 問題演習。


 生徒の声。


 いつもの時間が。


 十一組を廊下から遠ざけていく。


 一時間目が終わる。


 二時間目が始まる。


 清掃時間。


 帰りのホームルーム。


 気づけば。


 放課後になっていた。


「今日は開けない」


 茜が。


 帰りのホームルーム後。


 教室全体へ言った。


「分かってると思うけど、封筒には触らないで」


「見た目だけなら?」


 三浦が尋ねる。


「触らない」


「膨らんでるか、遠くから」


「見ない」


「机が倒れてないか」


「それは確認する」


「じゃあ行ける?」


「私と板倉が見る」


「俺は?」


「教室で待つ」


「信用」


「積み重ね」


 三浦は机へ突っ伏した。


 茜と紅秋が。


 廊下へ出る。


 なつきは。


 教室内から見ないよう。


 窓へ背を向けた。


 春樹も。


 本を開いたが。


 ページは進んでいない。


「気になる?」


 なつきが尋ねる。


「うん」


「春樹君も?」


「気になる」


「見たくならない?」


「なる」


「でも見ない?」


「約束だから」


「すごいね」


「横田も見てない」


「私は」


 なつきは。


 机の上へ頬杖をついた。


「見たら、何枚か分かっちゃう気がするから」


「封筒の中は見えない」


「でも、鉛筆の位置とか。紙の減り方とか」


「確かに」


「何も変わってなかったら、落ち込むかもしれない」


「変わってなくても、書いた人が紙を戻した可能性はある」


「そうだね」


「変わってても、風かもしれない」


「分からないね」


「分からないようにしてるから」


「待つために?」


「たぶん」


 二人は。


 廊下を見ないまま。


 小さな声で話した。


 やがて。


 茜と紅秋が戻ってくる。


「机は大丈夫」


 茜が言う。


「紙も鉛筆もある」


「封筒は?」


 三浦が顔を上げる。


「見てない」


「本当に?」


「中は見てない」


「膨らみは?」


「三浦」


「はい」


「聞かない」


「はい」


 紅秋は。


 棚の上へ。


 確認用の記録紙を置いた。


『設置初日 異常なし』


 その一文だけ。


 意見の枚数は。


 書かれていない。


 書かれているかどうかも。


 確認していない。


「初日は終わり?」


 なつきが尋ねる。


「うん」


「何も分からないまま?」


「それが決まり」


 茜は答えた。


 なつきは。


 少しだけ笑った。


「変な初日」


「何か起きると思ってた?」


「もっと」


 なつきは言葉を探した。


「書いた人が来て。私たちが気づいて。でも見ないふりして。帰った後に少し喜ぶみたいな」


「完全に見張ってる」


 紅秋が言う。


「想像では」


「想像でも怖い」


「でも実際は」


 なつきは。


 教室の時計を見た。


「朝からずっと待ってたのに。何が起きたか、何も分からなかった」


「それでいい」


 春樹が言った。


「どうして?」


「書いた人の時間は、俺たちのために起きるんじゃないから」


 なつきは。


 春樹を見る。


「俺たちが見てないときに迷って。俺たちが知らないまま紙へ書いて。俺たちが授業してる間に帰る」


「うん」


「その人の時間だから」


 春樹は。


 閉じた本の表紙へ指を置いた。


「回収日まで、俺たちの話にはならない」


 なつきは。


 すぐには答えなかった。


 案内を使う人。


 迷う人。


 書く人。


 その全ては。


 十一組ラボのために動くわけではない。


 自分の用事があり。


 自分の時間の中で。


 たまたま案内を見て。


 たまたま困り。


 書くかどうかを決める。


 十一組は。


 その時間を。


 最初から最後まで見ることはできない。


 戻ってきた紙の一部だけを。


 後から受け取る。


「じゃあ」


 なつきが言った。


「紙に書かれてない時間も、一緒に戻ってくるのかな」


「書かれてない時間?」


「その人が、どこから来て。何をしようとして。どこで止まって。書こうか迷った時間」


「全部は分からない」


「うん」


「でも、あると思って読むことはできる」


 春樹は答えた。


「分からない部分があるって、忘れないように」


 なつきは。


 教室後方の棚を見る。


 十一組側の記録台紙。


『戻ってくる声には、書いた人と、読む人の両方がいる』


 その下へ。


 新しい言葉を加えたくなった。


「茜ちゃん」


「何?」


「記録していい?」


「何を?」


「紙に書かれていない時間もある」


 茜は。


 少し考えた。


「どういう意味?」


 なつきは。


 春樹と話したことを。


 ゆっくり説明した。


 書いた人が。


 どこから来たか。


 何をしようとしていたか。


 どのくらい急いでいたか。


 書く前に迷ったか。


 その全部は。


 紙に書かれていないかもしれない。


 だから。


 短い一言だけを見て。


 その人の全てを決めない。


「それは」


 紅秋が言う。


「内容を勝手に補わないってことにも近いね」


「想像しすぎない?」


 なつきが尋ねる。


「想像はする。でも、事実みたいに扱わない」


「難しい」


「また難しい」


 三浦が言った。


「この活動、難しいが多すぎる」


「簡単なところもあるよ」


 なつきが答える。


「どこ?」


「待つ」


「待つのが一番難しい」


 三浦は即答した。


 教室に笑いが起きる。


 茜は。


 記録台紙へ書いた。


『紙に書かれていない時間を、勝手に決めない』


 その文字を。


 全員で見る。


「もう一つ」


 茜が続ける。


『書かれていない時間があることは、忘れない』


「反対みたい」


 三浦が言う。


「勝手に決めない。でも、ないことにもしない」


 春樹が答える。


「そういうこと」


「分かったような、分からないような」


「今はそれでいい」


 茜はペンを置いた。


「回収日は明後日。それまでは、設置状態だけ確認する」


「明日も開けない?」


 三浦が尋ねる。


「開けない」


「明後日の何時?」


「放課後」


「長い」


「授業は受けて」


「気になって集中できないかも」


「小テストあるよ」


「集中します」


 三浦の返事が速い。


 紅秋が呆れながら笑う。


 十一組の生徒たちは。


 それぞれ帰り支度を始めた。


 部活動へ向かう者。


 委員会へ行く者。


 電車やバスの時間を気にしながら教室を出る者。


 机の間を。


 普段どおりの放課後が流れていく。


 なつきも。


 鞄へ教科書を入れ。


 立ち上がった。


「帰る?」


 春樹が尋ねる。


「うん」


「廊下、見ないで行ける?」


「それは無理」


「見るだけならいい」


「立ち止まらない」


「うん」


 二人は。


 教室を出る。


 すぐ横に。


 試験設置された机がある。


 案内。


 記入用紙。


 鉛筆。


 無地の封筒。


 なつきは。


 歩く速さを変えずに。


 一度だけ見た。


 封筒の中は見えない。


 記入用紙の枚数も。


 朝と同じか分からない。


 鉛筆は。


 少しだけ斜めになっている。


 誰かが使ったのか。


 風で動いたのか。


 通りかかった鞄が触れたのか。


 分からない。


 なつきは。


 立ち止まらなかった。


「どうだった?」


 廊下を少し進んだところで。


 春樹が尋ねる。


「何も分からなかった」


「うん」


「でも」


 なつきは。


 前を向いたまま。


 少しだけ笑った。


「朝より、何も分からないことが増えた」


「嫌?」


「少し落ち着かない」


「それだけ?」


「楽しみもある」


「何が?」


「明後日」


「何か書かれてるか?」


「ううん」


 なつきは首を横へ振った。


「私たちが、どんな顔で開けるか」


 春樹は。


 なつきの横顔を見る。


「そっち?」


「だって」


 なつきは言った。


「戻ってくる声には、読む人の顔も映るんでしょう?」


「うん」


「今の私たち。たぶん、期待しすぎてる」


「三浦は特に」


「私も」


「俺も」


「春樹君も?」


「何もない方がいいと思う気持ちと。何かあってほしい気持ち、両方ある」


「どうして?」


「何もなければ、迷った人がいなかったかもしれない。でも何かあれば、紙がちゃんと使われたって分かる」


「同じ」


 なつきは。


 少し安心したように笑った。


「じゃあ、明後日までに」


「うん」


「何があっても、すぐ決めつけない顔を作らないと」


「顔は作らなくていい」


「でも怒って見えたら」


「怒ったら、怒ったって言えばいい」


「悲しかったら?」


「それも」


「嬉しかったら?」


「それも」


「全部言う?」


「言ってから考える」


 春樹は答えた。


「隠して冷静なふりするより」


 なつきは。


 少しだけ歩みを遅くし。


 春樹の言葉を受け取った。


「おかえり会って」


「うん」


「意見だけじゃなくて。読む側の気持ちも戻す場所なのかも」


「どこから?」


「我慢して隠したところから」


「それ、遠くない?」


「近いけど、戻りにくい場所」


 春樹は。


 一度だけ黙った。


 それから。


「記録しておく?」


「明後日、覚えてたら」


「忘れたら?」


「戻ってきたときに思い出す」


「何が?」


「分からない」


「また半分だけ?」


 なつきは笑った。


「残りは、明後日」


 階段の前。


 二人の後ろを。


 部活動へ向かう生徒たちが通り過ぎていく。


 十一組の教室前。


 白い封筒は。


 静かに置かれたままだった。


 中に。


 何か入っているのか。


 まだ空なのか。


 誰も知らない。


 けれど。


 そこには。


 十一組が見ていなかった一日が。


 少しずつ。


 折り重なり始めていた。

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