第165話 開ける前の封筒には、まだ誰の言葉も決められていない
試験設置、二日目。
梅桜高校の朝は、昨日よりも明るかった。
雲はまだ空の大半を覆っていたが、東側だけが薄く白み、その隙間から落ちる光が、雨上がりの校庭をぼんやりと照らしている。水たまりは少し小さくなり、昨日まで泥へ沈んでいた白線も、ところどころ形を取り戻していた。
中央棟の廊下では。
窓を開けた教室から、湿気を含んだ空気がゆっくりと流れ出していた。
朝練を終えた生徒たちの足音。
昇降口から上がってくる話し声。
教室の前で提出物を思い出し、鞄の底を慌てて探る音。
普段と変わらない朝の中で。
二年商業科十一組の前に置かれた案内と、白い封筒だけが。
昨日からそこにいるものとして。
静かに、生徒たちの流れを受け止めていた。
「見ない」
三浦圭は。
教室へ入る前から、自分へ言い聞かせていた。
「絶対見ない。俺は見ない」
ただし。
声に出しながら、顔は封筒の方を向いている。
「見てる」
後ろを歩いていた板倉紅秋が言った。
「見てない」
「顔が向いてる」
「視界に入ってるだけ」
「首が曲がってる」
「人間の構造上、曲がる」
「まっすぐにして」
紅秋が、三浦の肩を軽く押す。
三浦は廊下の正面を向いたが。
そのまま横目だけで封筒を確認しようとした。
「目も戻す」
「板倉さん、監視が細かい」
「見張る人を見張ってるだけ」
「俺、まだ何もしてないよ?」
「しようとしてる」
「心の自由は?」
「行動に出そうな心は止める」
三浦は納得していない顔のまま教室へ入った。
その後ろから。
なつきと春樹が歩いてくる。
二人も。
教室へ入る直前。
一度だけ、案内の横へ置かれた封筒を見た。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ向き。
白い表面には。
何も書かれていない。
入口は細く開いている。
中までは見えない。
封筒の厚みも。
昨日と違うかどうか、分からない。
「見た?」
なつきが小さく尋ねた。
「見た」
春樹が答える。
「分かった?」
「何も」
「私も」
二人は。
立ち止まらずに教室へ入った。
教室内では。
すでに登校していた生徒たちが、普段どおりに朝の支度をしている。
けれど。
十一組の前扉が開くたび。
何人かが。
入ってきた生徒の顔を見る。
封筒を見たか。
何か変化に気づいたか。
誰も聞かない。
聞かないと決めている。
それでも。
無意識に。
その顔から何かを読み取ろうとしていた。
「みんな同じ顔してる」
なつきが言った。
「どんな顔?」
紅秋が、自分の席へ鞄を置きながら尋ねる。
「何か知ってる人いないかなって顔」
「横田も」
「私も?」
「教室へ入った瞬間、全員見たでしょう」
「見た」
なつきは正直に頷いた。
「でも、聞かなかったよ」
「それは偉い」
「褒められた」
「普通なら褒めないけど」
「残り半分は?」
「その言い方、気に入ったの?」
「紅秋ちゃんが使うから」
なつきが笑う。
紅秋も。
ほんの少しだけ口元を緩めた。
教室後方では。
三浦が田辺へ近づいていた。
「田辺、朝、封筒見た?」
「見た」
「何か変わってた?」
「分からない」
「本当に?」
「見ただけだ」
「昨日より膨らんでたとか」
「知らない」
「紙が減ってたとか」
「見てない」
「鉛筆の位置は?」
「三浦」
田辺が低い声で名前を呼ぶ。
「はい」
「聞かない約束だっただろ」
「確認じゃなくて、会話」
「内容が確認だ」
「会話の自由」
「さっき板倉にも止められてたな」
「みんな俺に厳しい」
「理由がある」
三浦は。
少し不満そうに口を閉じた。
だが。
十秒ほどすると。
「田辺は気にならない?」
また尋ねる。
「気になる」
田辺は答えた。
三浦の表情が明るくなった。
「だよな?」
「だから聞かない」
「そこまで同じじゃなかった」
教室に。
朝の笑い声が広がった。
茜は。
自分の机で、設置確認用の記録を開いていた。
昨日。
『設置初日 異常なし』
その一文だけが書かれている。
枚数は不明。
記入の有無も不明。
封筒を開けていないため。
何も分からない。
今日も。
放課後に机や紙の状態だけを確認する予定だった。
回収は明日。
それまで。
封筒の中身には触れない。
「茜ちゃん」
なつきが机の横へ来た。
「何?」
「今日も異常なしだけ書くの?」
「問題がなければ」
「封筒がすごく膨らんでたら?」
「見ない」
「見なくても分かるくらいだったら?」
茜は。
一度、ペンを置いた。
「それは」
少し考える。
「入口から紙が出ていたら、担当の先生に報告する」
「中は見ない?」
「見ない。紙が落ちそうなら、先生と一緒に封筒ごと交換する」
「じゃあ、いっぱいでも開けないんだ」
「回収日は明日だから」
「長いね」
「一日だけ」
「待ってると長い」
なつきは。
記録用紙を見た。
昨日の一行。
たったそれだけの記録なのに。
その向こうには。
朝から放課後までの一日がある。
誰かが案内を見たかもしれない。
迷ったかもしれない。
紙へ何か書いたかもしれない。
鉛筆を持ったまま、やめたかもしれない。
その全部が。
『異常なし』
という一言の外側に残っている。
「今日も何も分からない日?」
「そうなると思う」
茜が答える。
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
なつきは少し考えた。
「昨日より、想像が増えた」
「何を?」
「封筒の中」
「予想しない約束」
「枚数じゃなくて」
「内容も予想しない方がいい」
「どうして?」
「予想した言葉と違ったら、その違いに引っ張られるから」
茜は記録用紙を閉じた。
「優しい意見が来ると思っていて、強い言葉が来たら。必要以上に傷つくかもしれない。逆に、厳しいことが書かれていると思い込んでいたら、普通の言葉まで悪く見えるかもしれない」
「顔が映るから?」
「読む側の?」
「うん」
「そう」
茜は頷いた。
「だから、開ける前に中身を決めない」
「決めない」
なつきは小さく繰り返した。
封筒の中には。
まだ。
何かが書かれているかもしれない。
何もないかもしれない。
優しいかもしれない。
強いかもしれない。
短いかもしれない。
長いかもしれない。
そして。
開けるまでは。
そのどれでもない。
「難しいね」
なつきが言う。
「また?」
茜が少し笑った。
「うん。でも」
「でも?」
「今度の難しいは、何もしない難しさ」
茜は。
その言葉を聞き。
少しだけ黙った。
「そうかも」
作るときは。
手を動かした。
紙を切り。
文字を書き。
配置を変え。
試した。
迷ったら。
何かをすることで。
先へ進める気がした。
けれど今は。
開けない。
見ない。
決めない。
待つ。
何もしないことが。
一番必要な作業になっている。
「記録する?」
なつきが尋ねる。
「何を?」
「何もしない難しさ」
「まだ早い」
「どうして?」
「本当に必要だったかは、明日分かる」
「明日?」
「開けた後」
茜は言った。
「待ったことで、どう読めたか。そのとき考えよう」
「待った意味も、後から分かるんだ」
「たぶん」
「何でも後からだね」
「先に全部分かったら、ラボはいらないでしょう」
なつきは笑った。
「それもそうだね」
朝のホームルームが始まる。
担任教師が教室へ入り。
普段どおりに連絡事項を話す。
提出物。
校内行事の予定。
体育館使用時間の変更。
昼休みに委員会の呼び出しがある生徒。
その間も。
廊下には。
案内と記入用紙と封筒が置かれている。
生徒たちの声が。
扉の向こうを流れていく。
何度か。
前扉の近くで足音が止まった。
十一組の生徒たちの何人かが。
一瞬だけ顔を上げた。
誰かが案内を見ているのかもしれない。
ただ友人を待っているだけかもしれない。
教師に呼び止められたのかもしれない。
確かめない。
それが。
今日の決まりだった。
「三浦」
担任教師が呼んだ。
三浦は。
廊下側へ傾いていた顔を正面へ戻す。
「はい」
「今、何を見ていた?」
「何も見てません」
「何もない方向へ、そこまで首は曲がらない」
「音がしたので」
「聞くのは止められない。見るな」
「はい」
「気になるか?」
三浦は。
少し迷った後。
「気になります」
正直に答えた。
教師は。
教卓の上の出席簿へ手を置き。
教室全体を見た。
「他もか?」
何人かが。
小さく頷いた。
「全員?」
なつきも。
茜も。
紅秋も。
田辺も。
春樹も。
少しずつ反応する。
教師は。
それを確認してから。
「なら、今日の帰りのホームルームで、気になった回数を書け」
教室に。
一瞬、間が落ちた。
「回数?」
三浦が聞き返す。
「封筒を見たいと思った回数。中身を想像した回数。誰か書いたか聞きたくなった回数」
「全部数えるんですか?」
「正確でなくていい。多い。少ない。ほとんど忘れていた。それくらいでいい」
「何のためですか?」
茜が尋ねる。
「受け取る前の自分たちを記録するためだ」
教師は答えた。
「昨日、お前たちは、読む側の顔も言葉へ映ると話していただろう」
なつきは。
少し驚いて顔を上げた。
教師は続ける。
「なら、開ける前に。今の自分たちが、どんな気持ちで待っているか残しておけ」
「開けた後じゃ駄目なんですか?」
「開けた後は、中身を知った自分が、待っていたときの気持ちを説明することになる」
「変わる?」
「変わる」
教師は即答した。
「例えば、優しい言葉が入っていたら。自分は最初から落ち着いて待っていたと思いたくなるかもしれない。厳しい言葉が入っていたら、開ける前から嫌な予感がしていたと言いたくなるかもしれない」
教室が静かになる。
まだ知らないときの自分。
知った後に思い出す自分。
同じではない。
結果を知ると。
その前の時間まで。
結果へつながるように並べ替えたくなる。
「開ける前の記録」
春樹が言った。
「そうだ」
教師は頷く。
「封筒の中身だけを記録しても、受け取った側がどう読んだかは分からない。今回は、お前たち自身も試験の中にいる」
「俺たちも?」
三浦が聞く。
「意見を集める仕組みを作ったのはお前たちだ。戻ってきた言葉をどう扱えるかも、試す必要がある」
「試される側になった」
なつきが呟く。
「最初からそうだ」
教師は言った。
「ただ、お前たちが今、気づいただけだ」
ホームルームが続く。
その後。
一時間目。
二時間目。
授業の合間。
十一組の生徒たちは。
自分がどれだけ封筒を気にしているかを。
初めて意識し始めた。
数学の問題を解いている途中。
廊下で足音が止まり。
三浦が顔を上げる。
すぐに。
「あ、今一回」
小さく呟く。
「数えなくていい」
紅秋が言う。
「気づいたから」
「授業に集中して」
「でも記録」
「多い、で十分」
「今のところ多い」
「知ってる」
昼休み前の授業では。
なつきが。
教科書をめくりながら。
ふと。
昨日、一年生が言った。
『紙に預ける感じ』
という言葉を思い出した。
誰かが。
今日。
何かを紙へ預けたかもしれない。
そう思った瞬間。
封筒の中に。
折られた紙が一枚ある姿を想像した。
すぐに。
決めない。
と自分へ言い聞かせる。
紙は。
ないかもしれない。
一枚ではないかもしれない。
折られていないかもしれない。
想像したことに気づき。
なつきは。
ノートの隅へ小さく丸をつけた。
「何?」
隣の紅秋が尋ねる。
「今、想像した」
「封筒?」
「うん」
「私もさっきした」
「何を?」
「紙が一枚入ってるところ」
「同じ」
「でも言わない方がよかった」
「どうして?」
「二人で一枚って思うと、本当に一枚な気がしてくる」
「あ」
「決めない」
「決めない」
二人は。
小さな声で繰り返し。
正面へ視線を戻した。
昼休み。
十一組の教室には。
昨日より多くの生徒が残っていた。
廊下へ出ると。
封筒が視界に入る。
だから。
購買へ行く者は。
なるべく教室後方の扉から出ようとする。
「みんな後ろから出るな」
三浦が言った。
「前を通ると見ちゃうから」
女子生徒が答える。
「俺たちの教室、出口の使い方変わってる」
「一週間だけ」
「これ、他のクラスから見たら変じゃない?」
「もう変だと思われてる」
田辺が言う。
実際。
十一組後方の扉から。
次々に生徒が出てくるため。
廊下を歩いていた他クラスの生徒が。
「今日、前の扉使えないの?」
と尋ねた。
「使える」
「じゃあ何で全員こっち?」
「事情がある」
三浦が答える。
「どんな?」
「見ないため」
「何を?」
「前を見るなって言われてる」
「何したの?」
相手は。
三浦が教師から何か注意を受けたのだと思ったらしい。
近くにいた紅秋が。
「違う」
と説明した。
「案内の横に、意見を書く紙が置いてあるでしょう。私たちが作ったものだから、誰か書いてないか気にしすぎないようにしてるだけ」
「そこまで?」
「そこまで」
「見たら駄目なの?」
「見るだけならいい。でも立ち止まったり、中を確認したりはしない」
「大変だね」
他クラスの生徒は。
案内の方を見た。
「俺、さっき見たよ」
十一組の空気が。
一瞬だけ止まった。
「何を?」
三浦が聞きそうになる。
紅秋が。
すぐに三浦の腕をつかんだ。
「聞かない」
「でも」
「聞かない」
他クラスの男子生徒は。
二人の反応を見て。
少し笑った。
「案内を見ただけ。封筒は知らない」
「そう」
紅秋が答える。
「使って分かりにくいところがあったら、紙に書いて」
「それも言っていいの?」
三浦が尋ねる。
茜が。
少し離れた場所から会話を聞いていた。
「お願いはしていい」
「見張らなければ?」
「うん。ただし、困ったところを探してとは言わない」
「分かった」
三浦は男子生徒へ向き直った。
「困ったら書いて」
「分かった。困らなかったら?」
「そのまま行って」
「雑」
「それでいいんだよ」
なつきが笑いながら言った。
他クラスの男子生徒も。
少し笑い。
「じゃあ、困ったら戻る」
そう言って。
廊下を離れていった。
「戻るって言った」
なつきが嬉しそうに言う。
「でも、戻ってこない方がいい場合もある」
紅秋が答える。
「分かってる」
「寂しい?」
「少し。でも、今は」
なつきは。
案内が置かれている方を見ないまま。
「困らないで行ける方がいいと思う」
「昨日より変わったね」
「何が?」
「待ち方」
紅秋は言った。
昨日は。
何か書かれていてほしいと思う気持ちが強かった。
紙が使われたと分かりたい。
仕組みが届いたと確かめたい。
けれど。
今は。
何も書かれないことにも。
別の意味があると分かり始めている。
「でも」
なつきは続けた。
「明日、空だったら。たぶん落ち込む」
「今から認めるんだ」
「隠さない方がいいんでしょう?」
「うん」
「落ち込んでから考える」
「それならいい」
「紅秋ちゃんは?」
「空だったら」
紅秋は少し考えた。
「仕組みが使われなかった可能性を考える」
「やっぱり真面目」
「でも、その前に」
「うん?」
「少し、悔しいと思う」
なつきは。
紅秋を見る。
紅秋は。
自分からそう言うことが少ない。
いつも。
先に問題を整理し。
感情を後ろへ置く。
「悔しいんだ」
「ここまで考えたから」
「うん」
「使われなかったら、届かなかった気がする」
「同じだね」
「だから」
紅秋は。
なつきの目を見る。
「明日、空でも。先に悔しいって言う」
「その後に考える?」
「うん」
「じゃあ私も」
「横田は、悲しいじゃない?」
「悔しいもある」
「欲張り」
「感情は何個でもいいでしょう?」
「まあね」
二人は。
少しだけ笑った。
昼休みの終わり。
前扉から。
一年生の女子生徒が顔を出した。
昨日まで確認へ来てくれた三人のうちの一人だった。
「すみません」
茜が近づく。
「どうしたの?」
「あの紙」
十一組の生徒たちの何人かが。
反応しそうになり。
自分で止まった。
「はい」
茜は。
なるべく普段どおりの声で答える。
「書き方について、聞きたいことがあります」
「どうぞ」
「一人で二つ迷った場合、二枚使っていいですか?」
教室内の空気が。
僅かに変わった。
二つ。
二枚。
その言葉から。
何かが書かれたのではないかと。
想像しそうになる。
けれど。
質問しているだけかもしれない。
自分ではなく、誰かに聞かれたのかもしれない。
まだ書いていないのかもしれない。
決めない。
茜は。
一度息を置いてから答えた。
「二枚使って大丈夫です。一枚に二つ書いてもいいです」
「どっちがいいですか?」
「書きやすい方で」
「分かりました」
「質問は、それだけ?」
三浦が言いそうになり。
紅秋が睨む。
三浦は。
口を閉じた。
一年生の女子生徒は。
その様子へ少し笑った。
「皆さん、本当に聞かないんですね」
「聞きたい」
三浦が答えた。
「でも聞かない」
「偉いですね」
「褒められた」
「調子に乗らない」
紅秋が止める。
一年生は。
「じゃあ、失礼します」
と頭を下げ。
教室を離れた。
その姿が見えなくなった後。
十一組の教室には。
長い沈黙が落ちた。
「二つ」
三浦が呟く。
「言わない」
茜が止める。
「二枚」
「言わない」
「書いたのかな」
「言わない」
「誰が?」
「三浦」
「俺しか言ってない」
「みんな思ってる」
紅秋が答える。
実際。
教室にいる全員が。
同じことを考えていた。
二つ迷った人がいるのか。
二枚使おうとしているのか。
質問した本人なのか。
別の誰かなのか。
もう書いたのか。
これから書くのか。
「決めない」
なつきが言った。
自分へ。
周囲へ。
両方へ聞かせるように。
「うん」
春樹が答える。
「でも、何もないって想像は難しくなった」
「そうだね」
「質問が来たから」
「でも、質問が来たことだけが事実」
「書いたかは分からない」
「うん」
「二つ迷った人がいるかも分からない?」
「自分の想像で聞いただけかもしれない」
「そっか」
なつきは。
少しだけ息を吐いた。
「分からないまま増えた」
「何が?」
「分からないこと」
「昨日も言ってた」
「今日はもっと」
春樹は。
少しだけ笑った。
「回収前が一番長いかも」
「明日までなのに?」
「知らないから」
「知ったら短くなる?」
「今度は、考える時間が長くなる」
「ずっと長いね」
「終わった後が長いから」
二人の会話へ。
三浦が反応する。
「それ、俺の言葉」
「もう十一組の言葉」
紅秋が答える。
「役割を奪われた」
「名前をつける以外も考えなさい」
予鈴が鳴る。
昼休みが終わった。
午後の授業。
清掃。
帰りのホームルーム。
一日は。
昨日と同じように。
封筒の中身を知らないまま進んでいった。
帰りのホームルームで。
担任教師は。
黒板へ三つの項目を書いた。
『封筒を見たいと思った』
『中身を想像した』
『誰かへ聞きたくなった』
「多い。少ない。ほとんどない。この三段階で、それぞれ書け」
生徒たちへ。
小さな紙が配られる。
名前は書かなくていい。
集計するためではなく。
自分で確認するための記録。
十一組の生徒たちは。
少し考えながら、丸をつけ始めた。
なつきは。
『封筒を見たいと思った』
多い。
『中身を想像した』
多い。
『誰かへ聞きたくなった』
少ない。
そこへ丸をつけ。
少し考え直す。
一年生が来たとき。
本当は。
何か書いたのか尋ねたかった。
だから。
少ないではなく。
多いかもしれない。
けれど。
聞かなかった。
聞きたいと思った回数と。
実際に聞いた回数は違う。
なつきは。
多いへ丸をつけ直した。
隣では。
紅秋が。
三つとも多いへ丸をつけている。
「全部?」
なつきが小さく尋ねる。
「全部」
「紅秋ちゃんも?」
「思うだけなら」
「少ないかと思った」
「私も」
紅秋は。
紙を見たまま答える。
「でも、思った回数を数えたら多かった」
「我慢してただけ?」
「うん」
「同じだね」
「三浦と同じにしないで」
「私と」
「ああ」
紅秋は。
少しだけ笑った。
前方では。
三浦が。
「全部多い」
と大きく書き。
「丸でつけろ」
教師に注意されていた。
「気持ちを強調しました」
「様式を守れ」
「こういうところにも見る側が」
「今はお前が直せ」
教室に笑いが広がる。
教師は。
全員が書き終えたのを確認し。
「その紙は、自分で持っておけ」
と言った。
「明日、封筒を開けた後にもう一度見る」
「回収しないんですか?」
茜が尋ねる。
「今回は、自分のための記録だ」
「比べない?」
「今はな」
「今は?」
「おかえり会で必要なら、話したい者だけ話せばいい」
教師は。
教卓へ両手を置いた。
「他人より気にしていた。気にしていなかった。そういう比較を始めると、正しい待ち方を競うことになる」
「正しい待ち方」
なつきが呟く。
「そんなものはない」
教師は言った。
「気になってもいい。怖くてもいい。何か来てほしいと思ってもいい。何も来ない方がいいと思ってもいい。重要なのは、それを中身の意味にしないことだ」
「中身の意味に?」
「何か来てほしいと思っていたから、書かれた意見を必要以上に喜ぶ。怖がっていたから、普通の指摘を攻撃だと受け取る。そうしないために、自分の状態を知っておけ」
なつきは。
自分の紙を見る。
三つとも。
多い。
自分は。
期待している。
気にしている。
聞きたいと思っている。
明日。
何か入っていたら。
紙が使われたことを、まず嬉しいと思うかもしれない。
内容を見る前に。
届いたというだけで。
それを良い意見だと決めたくなるかもしれない。
逆に。
空だったら。
仕組みが失敗したと思いたくなるかもしれない。
だから。
今の自分を。
先に残しておく。
「明日」
教師が言う。
「放課後、担当教師立ち会いで一回目の回収をする」
教室が静かになる。
「開封するのは?」
茜が尋ねる。
「お前たちで決めろ。ただし、二人以上」
何人かが。
互いの顔を見る。
「全員で見てもいいですか?」
三浦が聞く。
「構わない。ただ、全員で一枚を囲むと、書いた側が想像した以上に大きな反応になるかもしれない」
「書いた人はいないのに?」
「いなくても、読む側の空気は強くなる」
「じゃあ、少人数?」
紅秋が言う。
「最初に二人か三人で整理して。その後、内容だけ教室へ共有する」
「隠すみたいにならない?」
なつきが尋ねる。
「隠すんじゃなくて」
春樹が言った。
「最初に、直せる形へ分ける」
「でも、言い方の強さも残すんでしょう?」
「残す。ただ、教室全体で最初から読むかは考えた方がいい」
「誰が読む?」
三浦が言う。
「遠山と板倉?」
「いつも同じ二人になる」
田辺が答える。
「固定しない約束」
「じゃあ抽選?」
「遊びじゃない」
「公平ではある」
「読みたい人?」
「読みたくない人も必要かも」
「どうして?」
なつきが尋ねる。
田辺は。
少し考えてから答えた。
「読みたい人だけだと、期待してる側に寄る」
教室が静かになる。
「じゃあ、読みたくない人が読むの?」
三浦が聞く。
「嫌がってる人へ押しつけるのは違う」
紅秋が言う。
「期待してる人。怖い人。どちらでもない人」
春樹が言った。
「違う気持ちの人が一緒に読む?」
「できれば」
「自分がどれか、分かる?」
なつきが尋ねる。
「今の紙を見る」
春樹は答えた。
なつきは。
自分の紙へ視線を落とす。
三つとも多い。
期待している。
怖くもある。
どちらでもないとは言えない。
「私は」
茜が言った。
「最初に読む役から外れる」
教室が少しざわめいた。
「遠山が?」
三浦が驚く。
「どうして?」
「今、私が一番、仕組みの成功を確認したいと思ってるから」
茜は。
手元の紙を見せた。
三つとも。
多い。
「委員長として、ここまで進めてきた。だから、何か入っていてほしいと思ってる。空だったら、設置方法が悪かったとすぐ決めたくなると思う」
「でも、茜ちゃんがいた方が整理できる」
なつきが言う。
「後から参加する。最初は別の人に読んでもらう」
「誰?」
「立候補してほしい」
教室に。
沈黙が落ちた。
読む。
その役割は。
昨日までなら。
ただ紙を開くだけに見えたかもしれない。
今は。
少し違う。
戻ってきた最初の声を。
最初に受け取る。
書き方が強ければ。
傷つくかもしれない。
何も書かれていなければ。
空の封筒を持つことになる。
一枚でも。
十枚でも。
その意味を。
最初に決めないようにしなければならない。
「俺」
三浦が手を上げた。
全員が。
少し驚いた顔で彼を見る。
「三浦?」
茜が確認する。
「読みたい気持ちは多い。でも」
三浦は。
自分の紙を持ち上げた。
全部。
多い。
「俺、何か入ってたら、たぶん最初に喜ぶ。空なら、すぐ失敗って言うと思う」
「それで立候補するの?」
紅秋が尋ねる。
「する」
「どうして?」
「分かってるから」
三浦は答えた。
「自分がそうなるって。だから、一人じゃ読まない。誰か止めてくれる人と読む」
教室が。
少し静かになった。
冗談の多い三浦。
すぐに口を出し。
すぐに名前をつけ。
思ったことを、そのまま言葉へする。
だからこそ。
自分が何を感じるかを。
隠さずに出せる。
「俺は」
三浦は続けた。
「こういうの、落ち着いて読む役じゃないと思われてるの分かってる。でも、ずっと落ち着いてる人だけが読むと。俺みたいな人が後で見たとき、急に喜んだり怒ったりするかもしれない」
「最初から混ぜる?」
春樹が尋ねる。
「うん。俺が先に変な意味つけたら、止めて」
「自分で変って言うんだ」
「自覚あるから」
紅秋は。
三浦をじっと見た。
「じゃあ、私も読む」
「板倉さん?」
「止める人が必要なんでしょう」
「信用」
「ただし」
紅秋は続ける。
「私も、強い言葉が来たら、書き方に腹を立てると思う」
「板倉さんも?」
「人間だから」
「俺だけじゃなかった」
「同じにしないで」
「さっきから板倉さん、そこだけ厳しい」
「だから」
紅秋は。
自分の紙を机へ置いた。
「もう一人。私たちと違う人が必要」
教室の視線が。
ゆっくり動く。
「大國」
田辺が言った。
春樹が顔を上げる。
「俺?」
「お前、期待してるけど。二人より、言葉をすぐ外へ出さない」
「それがいいとは限らない」
春樹は言った。
「黙って意味を決めるかもしれない」
「じゃあ、そのとき言う」
なつきが答えた。
春樹が。
なつきを見る。
「横田が?」
「私は最初に読まない。でも、外から見て。春樹君が黙りすぎてたら聞く」
「それ、読んでるところ見てる?」
「同じ教室にいるなら」
「見張りじゃない?」
「少し違う」
なつきは笑った。
「受け取る人を、一人にしないため」
春樹は。
少し考え。
「分かった」
と答えた。
「三浦。板倉。俺の三人」
「決まり?」
茜が確認する。
三人は。
それぞれ頷いた。
「最初に、枚数だけ確認」
紅秋が言う。
「次に、一枚ずつ読む」
「三浦は声に出さない」
春樹が言う。
「俺だけ?」
「最初の反応が教室全体へ広がるから」
「顔は?」
「止められない」
「じゃあ顔で」
「大きく動かさないで」
「難しい」
「無理なら後ろ向いて」
「それ、読めない」
教室に笑いが起きる。
緊張が。
少しだけほどけた。
「読んだ後」
茜が言う。
「内容を分類する。困った場所。困り方の強さ。確認が必要か」
「修正は決めない」
紅秋が続ける。
「明日は分類まで」
「空だったら?」
三浦が尋ねる。
教室が。
少し静かになる。
「空だったら」
茜は。
一度考え。
「空だったことだけ記録する」
「理由は?」
「決めない」
「感情は?」
なつきが聞く。
「言う」
「悲しいとか?」
「うん」
「悔しいとか?」
「うん」
「嬉しいはないか」
三浦が言う。
「迷った人がいなかった可能性を考えれば、嬉しいもある」
春樹が答える。
「でも決めない」
「難しい」
「それでも」
茜は言った。
「空の封筒にも、何もなかったという結果だけじゃなくて。書かれなかった一日がある」
「前の記録と同じ」
なつきが言う。
「紙に書かれていない時間を、勝手に決めない」
「そう」
茜は頷いた。
教師は。
十一組の生徒たちが。
自分たちで決めるのを待っていた。
そして。
話が一度落ち着いたところで。
「明日の開封前」
と口を開いた。
「今日書いた紙を、もう一度見る。その後に封筒を開けろ」
「気持ちを確認してから?」
紅秋が尋ねる。
「そうだ」
「読んだ後にも?」
「もう一度書く」
「同じ項目?」
「それに加えて」
教師は黒板へ書いた。
『嬉しい』
『怖い』
『腹が立った』
『悲しい』
『何も感じなかった』
『よく分からない』
「複数選んでいい」
三浦が言う。
「全部ありそう」
「全部でもいい。ただし、感情と修正判断を分けろ」
「腹が立ったから直さない、は駄目」
春樹が言う。
「嬉しかったから採用、も駄目」
紅秋が続ける。
「空で悲しかったから、設置場所が悪いと決めるのも駄目」
茜が言う。
「そういうことだ」
教師は頷いた。
話が終わり。
帰りのホームルームが終わる。
生徒たちは。
明日の回収を意識しながら。
帰り支度を始めた。
今日も。
封筒は開けない。
設置状態だけを確認する。
担当は。
昨日とは違う二人。
田辺と、教室後方に座る女子生徒が選ばれた。
「行ってくる」
田辺が言う。
「報告は異常だけ」
茜が確認する。
「分かってる」
「膨らみは?」
三浦が聞く。
「言わない」
「まだ見てないのに」
「見ても言わない」
「強い」
二人が教室を出る。
残った生徒たちは。
昨日と同じように。
廊下側を見ないようにする。
ただ。
今日は。
昨日より静かだった。
明日。
開ける。
そのことが。
すでに教室の中へ置かれている。
なつきは。
自分の紙を見た。
三つとも多い。
それを。
小さく折り。
筆箱の中へ入れた。
「持って帰るの?」
春樹が尋ねる。
「なくしたくないから」
「明日使う」
「うん」
「家でも見る?」
「見ない方がいい?」
「決まりじゃない」
「じゃあ、たぶん見る」
「何回?」
「多い」
二人は。
少し笑った。
廊下へ出ていた二人が戻ってくる。
「異常なし」
田辺が言った。
「机。紙。鉛筆。封筒。全部設置されたまま」
「中は?」
三浦が言いかける。
「見てない」
田辺は先に答えた。
「聞く前に」
「分かってるから」
女子生徒が。
確認用記録へ書いた。
『設置二日目 異常なし』
また。
それだけ。
昨日と同じ一行。
けれど。
昨日とは違う一日が。
その外側にある。
質問へ来た一年生。
見ないために後ろの扉を使った昼休み。
何度も封筒を想像した授業。
待つ側の気持ちを記録した紙。
明日、最初に読む三人。
全部が。
『異常なし』
には書かれていない。
「明日」
三浦が言った。
「開けるんだな」
「うん」
茜が答える。
「逃げたくなったら?」
「言って」
「開けたくなくなったら?」
「それも言って」
「俺、たぶん直前に怖くなる」
「今も?」
「今は楽しみの方が大きい」
「記録しておいて」
「紙に?」
「自分の中でも」
三浦は。
少しだけ真剣な顔で頷いた。
生徒たちは。
一人ずつ教室を出る。
前扉を通る者も。
今日は。
封筒を見ても。
昨日ほど長く視線を残さなかった。
開けるのは明日。
今は。
まだ決めない。
それが。
少しずつ。
十一組の中へ馴染み始めていた。
最後に。
なつきと春樹が教室を出る。
案内。
記入用紙。
鉛筆。
白い封筒。
昨日と同じ形で並んでいる。
なつきは。
歩きながら。
一度だけ見た。
「明日だね」
「うん」
「中に何があると思う?」
春樹は。
すぐには答えなかった。
「決めないんじゃなかった?」
「今、聞きたくなった」
「記録する?」
「多い」
「俺も」
「春樹君も予想してる?」
「してる」
「何を?」
「言わない」
「どうして?」
「横田の予想と混ざるから」
「そっか」
二人は。
廊下を進む。
少し離れた後。
なつきが。
また口を開いた。
「開ける前の封筒って」
「うん」
「まだ、誰の言葉も決められてないんだね」
「入ってても?」
「うん」
「書いた人は決めてる」
「でも私たちは知らないでしょう?」
「そうだね」
「だから今は」
なつきは。
振り返らずに言った。
「優しくもないし。怖くもないし。正しくもないし。間違ってもない」
「ただ、閉じてる」
「うん」
「明日、開けたら?」
「言葉になる」
「最初から言葉では?」
「私たちの中では」
なつきは。
自分でも確かめるように。
ゆっくり続けた。
「明日、初めて届く」
春樹は。
少しだけ歩みを緩めた。
それから。
「届く前に、形を決めない」
と答えた。
「うん」
「覚えておく?」
「明日まで?」
「明日、開ける直前まで」
「その後は?」
「届いた言葉を見てから考える」
なつきは。
小さく笑った。
「やっぱり、全部後から」
「その方がいいこともある」
「待つのに慣れた?」
「少し」
「私はまだ」
「それでいい」
「どうして?」
「待てないって分かってる人の方が、勝手に開けないように気をつけるから」
「三浦君みたい」
「横田も」
「私も?」
「うん」
「じゃあ」
なつきは。
少し考え。
「明日、勝手に開けないように。春樹君の隣にいる」
「俺が止める?」
「一緒に待つ」
「読むのは俺だけど」
「開けるまでは一緒」
春樹は。
一度だけ。
なつきの顔を見た。
「分かった」
階段へ向かう二人の後ろ。
十一組の前に置かれた白い封筒は。
今日も。
閉じられたままだった。
中にあるかもしれない紙は。
まだ。
誰にも読まれていない。
誰にも喜ばれていない。
誰にも傷つけられていない。
誰にも意味をつけられていない。
ただ。
見られなかった時間と。
書いたかもしれない誰かの迷いと。
待っていた十一組の一日を。
静かに抱えていた。




