第163話 戻ってくる声には、受け取る人の顔も映ってしまう
翌朝。
梅桜高校の空には、昨日まで校舎を包んでいた厚い雲がまだ残っていた。
雨は夜のうちに止んだらしい。
中央棟の窓ガラスには乾ききらない水滴が細く残り、朝の光を受けるたび、白い筋になって揺れていた。校庭には幾つもの水たまりがあり、登校してきた生徒たちは、それを避けるため普段とは少し違う歩き方をしている。
昇降口の前では。
大きく跳んで水たまりを越えようとした男子生徒が、着地した先で別の小さな水たまりを踏んだ。
「意味ないじゃん」
「今のは二段構えだった」
「負けてるけど」
「靴下までいった?」
「聞くな」
そんな会話と笑い声が、湿った朝の空気へ広がっていた。
二年商業科十一組の教室にも。
雨上がり特有の匂いが入り込んでいる。
濡れた地面。
湿った木の葉。
開けられた窓の近くへ置かれた雑巾から漂う、水気の残った布の匂い。
教室内では。
朝のホームルームが始まる前から、何人かの生徒が教室後方の棚へ集まっていた。
棚の上には。
昨日の放課後に作った、小さな記入用紙が置かれている。
『どこで迷いましたか?』
太く、大きすぎない文字。
その下には、自由に書ける空白。
右下の端には。
なつきが小さく書いた。
『ここから、十一組へ戻ります』
その一文は。
実際に記入する者へ見せるためではない。
作る側が。
この紙の役割を忘れないために残した言葉だった。
「やっぱり、これ小さすぎない?」
三浦が記入用紙を持ち上げた。
「何が?」
紅秋が尋ねる。
「紙」
「昨日、机の上に置くならこの大きさが邪魔にならないって決めたでしょう」
「でも、存在に気づいてもらえなかったら意味ない」
「大きくしたら案内より目立つ」
「意見を集める紙が主役になるな」
田辺が横から言った。
「主役じゃなくても、準主役くらい」
「いらない」
紅秋は即答した。
「そもそも、今日は本設置じゃないよ」
茜が言う。
彼女は棚の前ではなく、自分の机に座り、昨日の記録を読み返していた。
「設置場所の確認と、置いたときにどう見えるかを試すだけ。実際に一週間置くのは、先生と委員会の許可が出てから」
「許可、出るよな?」
「まだ分からない」
「昨日、先生は反対してなかった」
「反対しなかったことと、許可が出ることは同じじゃない」
「遠山、朝から厳しい」
「朝だから厳しいんじゃない」
「じゃあ昼は?」
「同じ」
「夜は?」
「学校にいない」
三浦は少し考え。
「確かに」
真剣に頷いた。
近くにいた生徒たちが笑う。
紅秋は呆れたように息を吐いたが。
その表情は、昨日までより柔らかかった。
「記入用紙を置く場所は、今日見てもらうんだよね」
なつきが尋ねた。
「うん」
茜が答える。
「昨日来てくれた一年生三人と、委員会の担当者。それから、可能なら先生にも見てもらう」
「また説明しないで?」
「場所によるかな」
「置いてあることまで気づくか見たいなら、説明しない方がいい」
春樹が言った。
彼は自分の席で本を閉じ、机の端へ置いていた。朝の読書時間が始まる前だったが、すでに数ページ読んでいたらしい。
「ただ、記入用紙は案内そのものじゃない。見つけられなくても、使う必要がある人だけ見つけられればいいかもしれない」
「誰でも見つけられる必要はない?」
なつきが首を傾げる。
「うん。案内を見て、困らなかった人には必要ないから」
「でも、困った人が見つけられなかったら?」
「それは問題」
「難しい」
なつきは記入用紙へ目を落とした。
目立ちすぎれば。
本来見てもらいたい案内の邪魔になる。
目立たなければ。
困った人に届かない。
その間の場所を探さなければならない。
「色を変える?」
三浦が言う。
「また色に意味が増える」
紅秋が止める。
「赤」
「警告に見える」
「黄色」
「注意に見える」
「青」
「案内本体と混ざる」
「白」
「今と同じ」
「透明」
「読めない」
「三浦君」
なつきが呼ぶ。
「何?」
「透明は、たぶん紙じゃなくなるよ」
「発想の自由」
「使えない自由はいらない」
茜が言った。
教室に笑いが起きる。
そのとき。
前扉が開いた。
担任教師が教室へ入ってくる。
まだホームルーム開始のチャイムまでは数分ある。
教師は教卓へ出席簿を置き。
教室後方の集まりへ目を向けた。
「朝から続きか」
「続きというか、確認です」
茜が答える。
「昨日作った記入用紙の設置場所を見たいので、昼休みに少し使わせてもらってもいいですか?」
「場所は?」
「昨日の試作品を置く予定の場所です」
「廊下か」
「はい」
教師は少し考え。
「昼休みならいい。ただし、通行の邪魔にはするな。濡れた傘を持った生徒も通る」
「分かりました」
「それから」
教師は、茜の手元の記録へ視線を向ける。
「今日、委員会の担当が来る予定だったな」
「はい」
「記入用紙を置く許可は、担当教師の確認が必要だ。お前たちだけで一週間の試験を始めるな」
「分かってます」
三浦が答えた。
教師は三浦を見る。
「お前が返事をすると不安になる」
「信用の積み重ねが逆方向に」
「自覚はあるんだな」
「はい」
「なら、今日は勝手に名前を増やすな」
「名前も許可制ですか?」
「お前の場合はな」
再び笑いが起きる。
教師は教卓の前へ立ち。
チャイムが鳴るまで、教室の様子を見ていた。
やがて。
朝のホームルームが始まる。
連絡事項。
提出物の確認。
雨上がりのため、体育の授業場所が変更になること。
校庭の一部がぬかるんでいるので、近づかないこと。
そんな話が続く中。
なつきは机の中へしまった記入用紙のことを考えていた。
戻ってくる道。
昨日は。
その言葉が、少し嬉しかった。
自分たちが作ったものへ。
誰かの見方が戻ってくる。
それをまた受け取り。
直せる。
終わった後も、続けられる。
けれど。
今朝。
教師が「許可」と言ったことで。
なつきは、初めて別のことを考えた。
戻ってくる声は。
いつも自分たちへ向けて書かれる。
だから。
そこには。
作った側への感情も混ざるのかもしれない。
昨日、教師が言っていた。
『分かりにくい』
『意味がない』
『使えない』
そう書かれて戻ってきたら。
言い方と内容を分ける。
困ったことへ変える。
頭では分かっている。
けれど。
実際に自分が読んだとき。
本当にできるのだろうか。
なつきは。
ノートの端へ小さく書いた。
『戻ってくるのは、意見だけ?』
その文字を見て。
自分でも意味が分からなくなり。
少し眉を寄せた。
隣の紅秋が、それに気づく。
「また授業と関係ないこと書いてる」
「まだホームルームだよ」
「関係ないことには変わらない」
「ちょっと思っただけ」
「何を?」
なつきはノートを紅秋へ少しだけ傾けた。
紅秋は。
『戻ってくるのは、意見だけ?』
という言葉を読み。
少し黙った。
「どういう意味?」
「まだ分からない」
「分からないことを書いたの?」
「忘れないように」
「何を忘れないためか分からないのに?」
「後で分かるかもしれないから」
紅秋は。
しばらく、なつきの顔を見た。
それから。
「横田らしい」
小さく言った。
「褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「よく分からない」
なつきは笑った。
その笑いを。
担任教師が教卓から見つけた。
「横田、板倉」
二人は同時に正面を向く。
「朝から楽しそうだな」
「すみません」
「何の話だ?」
なつきは一瞬迷った。
けれど。
「戻ってくるのは、意見だけなのかなって」
正直に答えた。
教師は。
少しだけ目を細めた。
「どういう意味だ?」
「まだ分かりません」
「分からないまま話してたのか」
「はい」
教室のあちこちから笑いが漏れる。
教師も呆れた顔をした。
けれど。
「分かったら、後で教えろ」
そう言って。
ホームルームを続けた。
昼休み。
昨日とは違い。
空は少し明るくなっていた。
雲の切れ間から薄い光が差し込み、濡れた廊下の窓枠へ白く反射している。
中央棟二階。
二年十一組の教室前には。
試作品を置くための机が用意されていた。
ただし。
本番の設置ではない。
位置を確かめるため。
教室から運んできた机の上へ、試作品を仮置きしているだけだった。
通行の邪魔にならないよう、壁際へ寄せる。
廊下を歩く生徒の視線が、自然にどこへ向くのか確認する。
照明の反射。
窓から入る光。
人が立ったときに隠れる場所。
雨の日に傘を持って歩く生徒の幅。
昨日まで。
机の上だけで考えていたことを。
実際の場所へ置いて確かめる。
「近すぎると、通る人がぶつかりそう」
田辺が机の位置を見て言った。
「でも壁に寄せすぎると、右側が見えない」
紅秋が答える。
「斜めに置く?」
三浦が机の端へ手をかけた。
「それだと廊下へ出る」
茜が止める。
「じゃあ試作品を立てる?」
「どうやって?」
「箱」
「風で倒れる」
「重り」
「何を使うの?」
「田辺」
「俺を物として使うな」
田辺の低い声に。
近くにいた生徒たちが笑った。
その向こうから。
昨日来た一年生三人が歩いてくる。
今日は昨日より表情が柔らかい。
先頭の女子生徒は。
なつきたちを見つけると、小さく手を上げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
なつきも手を上げる。
三人の後ろには。
校内運営委員会の担当らしい二年生の女子生徒と。
眼鏡をかけた男性教師が続いていた。
「十一組の皆さん」
女子生徒が声をかける。
「昨日の確認内容を聞きに来ました」
「ありがとうございます」
茜が前へ出る。
「こちらが、昨日見つかった修正候補です。それと、使用後の意見を集める方法も試したいと思っています」
「意見を集める方法?」
男性教師が聞き返す。
「はい」
茜は。
記入用紙を差し出した。
『どこで迷いましたか?』
その下の空白。
小さく書かれた。
『ここから、十一組へ戻ります』
男性教師は紙を受け取った。
最初に大きな文字を読み。
次に。
右下の小さな一文へ目を止める。
「この言葉は?」
なつきの肩が小さく揺れた。
「私が書きました」
「利用者へ見せるためか?」
「いえ」
「では、何のために?」
「私たちが忘れないためです」
なつきは答えた。
「何を?」
「この紙に書かれたことが、誰かの不満だけじゃなくて。私たちがまた考えるために戻ってくるものだって」
男性教師は。
しばらくなつきを見た。
それから。
「この言葉も、そのまま設置するつもりか?」
「邪魔なら消します」
「邪魔とは言っていない」
男性教師は紙を茜へ返した。
「ただ、書く側が見つけたら、十一組に直接言っている気持ちになるかもしれない」
なつきは。
朝、ノートに書いた言葉を思い出した。
『戻ってくるのは、意見だけ?』
「直接言ってる気持ち」
小さく繰り返す。
「そうだ」
男性教師は続ける。
「匿名でも。相手がいると分かれば、言葉は変わる」
「優しくなる?」
一年生の女子生徒が尋ねた。
「なる人もいる」
「ならない人も?」
「いる」
「厳しくなる人もいるんですか?」
「いるだろう」
男性教師の答えは。
穏やかだったが。
曖昧ではなかった。
「相手がいるから丁寧に書く人もいる。相手がいるから、強く伝えなければ動いてもらえないと思う人もいる。作った人へ申し訳なく感じて、困っていても何も書かない人もいる」
なつきたちは。
黙って聞いていた。
紙を置けば。
そこに、事実だけが書かれると思っていた。
どこで迷ったか。
何が見えなかったか。
どの言葉が分からなかったか。
けれど。
書く人は。
ただ試作品だけを見ているわけではない。
それを作った誰かを想像する。
苦労したかもしれない。
先輩かもしれない。
怒るかもしれない。
傷つくかもしれない。
そうしたことまで考えた上で。
書くか。
書かないか。
どんな言葉を選ぶか。
決める。
「じゃあ」
紅秋が記入用紙を見る。
「十一組へ戻るって書かない方が、意見は集まりやすいですか?」
「分からない」
男性教師は答えた。
「書かないことで、どこへ届くのか分からず、書く意味を感じない人もいる」
「どっちが正しいんですか?」
三浦が尋ねる。
「どちらも正しくないかもしれない」
「また難しい答え」
「簡単な答えが必要なら、意見を集める仕組みは作らない方がいい」
三浦は口を閉じた。
男性教師の声は。
厳しくはなかった。
けれど。
作るなら。
簡単ではないものを受け取る覚悟が必要だと。
その言葉は、はっきり伝わってきた。
「昨日」
先頭の一年生が言った。
「私たち、分からないって言うの、ちょっと怖かったです」
全員が彼女を見る。
「上級生が作ったものだったから?」
茜が尋ねる。
「はい。それもあります。でも」
彼女は。
試作品へ視線を向けた。
「皆さんが、すごく真剣に見てたから。分からないって言ったら、悪いことしたみたいになるかなって」
なつきは。
昨日。
一年生三人を見つめていた教室の空気を思い出した。
十一組の生徒たちは。
答えを言わないよう。
声を出さないよう。
真剣に見ていた。
けれど。
その真剣さが。
相手にとっては。
間違えてはいけない試験のように見えたのかもしれない。
「ごめんなさい」
なつきが言った。
「謝らないでください」
一年生は慌てる。
「今は、ちゃんと分かったから」
「何が?」
「分からないって言っても、大丈夫だったこと」
彼女は少し笑った。
「最初に、皆さんが説明してくれたから。間違えるんじゃなくて、作り方に直す場所があるって」
茜は。
昨日、自分が言った言葉を思い出した。
あのとき。
男子生徒から。
『失敗したら、僕たちのせいになりませんか』
と聞かれた。
だから。
なりませんと答えた。
分からなかったなら。
分かるように作れなかった自分たちの責任だと。
「紙だけだと」
春樹が言う。
「その説明ができない」
記入用紙へ視線が集まる。
確かに。
『どこで迷いましたか?』
とだけ書かれた紙には。
書いた人が悪いわけではない。
分からなかったことを責めない。
そのことは書かれていない。
「説明を足す?」
なつきが尋ねる。
「長くなる」
紅秋が答える。
「でも、一言なら」
茜は紙の余白を見る。
「『分からなかったことは、失敗ではありません』」
「少し固い」
三浦が言う。
「『迷ってくれてありがとう』」
「意味が変」
「でも、気持ちは近い」
なつきが小さく笑う。
「『迷った場所を教えてください』は?」
田辺が言った。
「今と同じじゃない?」
「今は『どこで迷いましたか』。聞かれてる感じが強い」
紅秋が二つの言葉を口の中で比べる。
「『教えてください』の方が、お願いに見える」
「それなら」
春樹が続ける。
「下に小さく、『直すために使います』」
茜が紙へ書いてみる。
『迷った場所を教えてください』
『いただいた意見は、より分かりやすく直すために使います』
全員で見る。
「長い?」
三浦が言う。
「少し」
「でも、目的は分かる」
「十一組へ戻るって書かなくても、届く先は想像できる」
「作った人へ言う感じも弱くなるかも」
なつきは。
右下の小さな言葉を見る。
『ここから、十一組へ戻ります』
消した方がいいのかもしれない。
記入する人が。
自分たちを意識しすぎるなら。
言いにくくなるなら。
戻ってくる道は。
見えない方がいいのかもしれない。
「横田」
紅秋が呼ぶ。
「消す?」
なつきは。
すぐには答えなかった。
自分が書いた言葉だった。
十一組が忘れないために。
戻ってきた意見を。
責められた言葉ではなく。
また考えるためのものとして受け取るために。
けれど。
紙へ置くことで。
書く側へ別の気持ちを持たせてしまうなら。
残す場所を変えた方がいい。
「紙からは消す」
なつきは言った。
「でも」
記入用紙の下へ置かれた。
十一組用の記録台紙を指す。
「こっちに書きたい」
「受け取る側の紙?」
「うん」
「書く人には見えない場所」
「そう」
なつきは頷いた。
「戻ってくる道は。書く人に歩いてもらうものじゃなくて。私たちが、ここまで来た言葉をちゃんと迎えるために覚えておくものかもしれない」
男性教師が。
なつきを見た。
「朝の答えは出たか?」
「朝?」
「戻ってくるのは意見だけか、と言っていただろう」
なつきは目を見開いた。
ホームルームで話したことを。
教師が覚えていた。
「たぶん」
なつきは。
記入用紙と。
その周囲にいる人たちを見た。
「書いた人の気持ちも戻ってくるんだと思います」
廊下が。
少し静かになった。
遠くでは。
別の教室から笑い声が聞こえる。
階段を下りる足音。
購買袋を揺らしながら歩く生徒。
窓の外では。
水たまりを踏んだ靴が、濡れた音を立てていた。
「それから」
なつきは続ける。
「受け取る私たちの気持ちも、そこに映ると思います」
「映る?」
「同じ言葉でも。怒って読んだら、怒ってる言葉に見えるかもしれない。悲しいときに読んだら、責められてるみたいに見えるかもしれない」
朝。
自分でも意味が分からなかった言葉が。
少しずつ形になっていく。
「だから」
なつきは。
記録台紙の上へ。
小さく書いた。
『ここから、十一組へ戻ります』
その下へ。
もう一つ。
『最初に、困ったことを受け取る』
「言い方より先に?」
春樹が尋ねる。
「うん」
「怒ってる言葉でも?」
「すぐには無理かもしれない」
なつきは正直に答えた。
「でも、先に怒らないようにするんじゃなくて。何に困ったかを、先に探す」
「昨日、俺が言ったことに近い」
春樹が言う。
「言い方と内容を分ける」
「うん。でも」
なつきは春樹を見る。
「分ける前に、受け取る人が怒ってるって気づかないと駄目なんだと思う」
春樹は。
少しだけ目を見開いた。
それから。
ゆっくり頷いた。
「そうかも」
「怒ってるのに、冷静なふりして分けたら?」
三浦が尋ねる。
「後で爆発する」
紅秋が答える。
「誰が?」
「三浦」
「具体的すぎる」
「でも、ありそう」
なつきが言う。
「横田まで」
教室前の廊下に。
柔らかな笑いが広がった。
昨日より。
一年生三人も自然に笑っている。
男性教師は。
記録台紙へ書かれた二つの言葉を見て。
「記入用紙は、利用する側のために簡単にする」
そう言った。
「受け取り方の決まりは、十一組側の記録へ残す。それなら、役割が混ざらない」
「役割」
茜が繰り返す。
「書く人が安心して伝えるための紙と。受け取る人が冷静に考えるための紙」
「そうだ」
男性教師は頷いた。
「同じ場所に置いても、必要な言葉は違う」
茜は。
記入用紙から。
右下の小さな一文を消した。
消しゴムが紙を擦る。
なつきが書いた文字は。
白い消し跡の中へ、少しずつ薄くなっていく。
けれど。
なくなったわけではない。
記録台紙の上へ。
役割を変えて残っている。
「じゃあ、最終案」
紅秋が新しい紙を出す。
『迷った場所を教えてください』
『いただいた意見は、より分かりやすく直すために使います』
その下へ。
自由記入欄。
名前は書かなくていい。
全て埋めなくていい。
一言でもいい。
余計な色は使わない。
案内本体より目立たせない。
けれど。
困った人が探したときには見つけられる位置へ置く。
「今度は」
茜が一年生三人を見る。
「これを、何も説明せずに見てもらってもいいですか?」
「はい」
三人は頷いた。
茜たちは。
記入用紙を。
試作品の右下へ置いた。
近すぎず。
離れすぎず。
案内の流れを邪魔しない位置。
三人の一年生は。
一度廊下の奥へ戻った。
そこから。
普段歩く速さで近づいてくる。
最初は。
試作品を見る。
目的の場所を探す。
昨日書き加えた修正候補を確認する。
一人が。
途中で少し首を傾げた。
別の一人が。
右下の記入用紙へ視線を向ける。
「これ」
先頭の女子生徒が言った。
「迷ったら書いていいんだ」
「うん」
男子生徒が答える。
「名前いらないみたい」
「直すために使うって書いてある」
三人は。
互いの顔を見る。
「これなら」
最初の女子生徒が言った。
「昨日より、言っていい感じがします」
「昨日より?」
茜が尋ねる。
「昨日は、皆さんに直接言う感じだったから」
「今日は?」
「紙に預ける感じ」
なつきは。
その言葉を聞き。
記入用紙を見た。
紙に預ける。
十一組へ投げるでもなく。
作った人へぶつけるでもなく。
一度。
小さな紙へ置く。
そして。
それを受け取る側も。
すぐに言い返さず。
一度、記録台紙の上へ置く。
その間が。
必要なのかもしれない。
「紙に預ける」
紅秋が記録する。
「いい言葉」
「じゃあ名前に」
三浦が言いかける。
「しない」
茜と紅秋が同時に止めた。
三浦は口を閉じる。
「まだ何も言ってない」
「言おうとした」
「顔で分かる」
「俺、そんなに分かりやすい?」
「かなり」
一年生たちも笑った。
その笑いの中で。
男性教師は。
試作品。
記入用紙。
十一組側の記録台紙。
三つを順番に見た。
「一週間の試験設置」
茜たちが静かになる。
「条件付きで認める」
三浦が声を上げそうになり。
自分で口元を押さえた。
「条件は三つ」
男性教師は指を一本立てる。
「毎日回収しない。回収日は二回まで。意見が来るたびに反応しないためだ」
二本目。
「誰が先に読むかを固定しない。ただし、一人では読まない」
三本目。
「試験終了まで、記入内容を理由に案内本体を変更しない。まず集める。修正は、その後の会議で決める」
「すぐ直したくなっても?」
なつきが尋ねる。
「我慢しろ」
「危ない内容だったら?」
「通行や安全に関わる場合は、すぐ担当教師へ報告する。それ以外は待つ」
「分かりました」
茜が答える。
「回収日は?」
「週の中間と最終日」
「読む人は?」
「その日に残れる人の中から二人以上」
「記録は?」
「内容。困り方の強さ。書いた側へ確認が必要か。まだ修正判断は書かない」
昨日まで考えていた決まりが。
少しずつ。
実際に使える形へ整っていく。
完璧ではない。
きっと。
一週間後には。
また直す場所が見つかる。
それでも。
初めて。
戻ってくる声を受け取るための仕組みが。
教室の外へ出ようとしていた。
「ありがとうございました」
茜が頭を下げる。
「まだ始まっていない」
男性教師は言った。
「試験が終わった後に礼を言え」
「はい」
「ただ」
男性教師は。
記録台紙に書かれた。
『最初に、困ったことを受け取る』
という言葉を見る。
「受け取る側の決まりを先に作ったのは、悪くない」
茜の表情が。
少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます」
「だから、まだ礼は早い」
「今のは、褒められたことへの礼です」
「遠山、細かいな」
「先生に言われたくありません」
周囲から。
少し驚いた笑いが起きた。
茜が教師へ言い返すことは珍しい。
教師も。
一瞬だけ目を見開き。
それから。
「それくらいでいい」
小さく笑った。
昼休みの終わりが近づく。
一年生三人は。
自分たちの教室へ戻っていく。
委員会の女子生徒も。
試験設置の日時を確認し。
担当教師と一緒に廊下を離れた。
残された十一組の生徒たちは。
机の上の三つの紙を見る。
案内の試作品。
意見を預ける記入用紙。
受け取る側の記録台紙。
「増えたね」
なつきが言った。
「紙が?」
紅秋が尋ねる。
「考えること」
「まだ増えると思う」
「終わった後が長いから?」
三浦が聞く。
なつきは。
廊下の向こうへ去っていく一年生たちの背中を見る。
それから。
記入用紙へ視線を戻した。
「うん。でも」
少し考えてから。
「長い方が、戻ってきた人を待てるのかも」
「人?」
春樹が尋ねる。
「意見を書いた人」
「匿名だから、誰か分からない」
「分からなくても」
なつきは言った。
「その人が困った時間は、紙の中に残るでしょう?」
春樹は。
記入欄の白い空白を見た。
まだ。
何も書かれていない。
誰の声もない。
誰の困った時間もない。
けれど。
数日後。
そこへ。
短い言葉が置かれるかもしれない。
優しい言葉かもしれない。
強い言葉かもしれない。
理由の分からない一言かもしれない。
読む側を傷つける言い方かもしれない。
それでも。
その奥には。
誰かが。
どこかで立ち止まった時間がある。
「待つための一週間か」
春樹が言った。
「うん」
「横田、また言葉が半分しか出てなかった?」
「今回は、最初から全部言ったよ」
「そう?」
「たぶん」
「自信ないんだ」
「後で増えるかもしれない」
「横田の言葉も、完成後が長いね」
なつきは。
一瞬、意味を考え。
それから笑った。
「じゃあ、戻ってきたら直す」
「どこへ?」
「春樹君のところ」
「俺?」
「今の言葉、春樹君が受け取ったから」
春樹は。
少しだけ困った顔をした。
けれど。
「分かった」
と答えた。
「戻ってきたら聞く」
予鈴が鳴る。
十一組の生徒たちは。
机と紙を教室内へ戻し始める。
通行のために空けられていた廊下へ。
また生徒たちの足音が流れ込む。
机の上の紙は。
まだ仮のものだった。
試験設置は。
数日後。
そこへ。
本当に何かが書かれるかは分からない。
誰も書かないかもしれない。
想像していたより多くの言葉が戻ってくるかもしれない。
十一組の誰かが。
受け取った言葉へ腹を立てるかもしれない。
悲しくなるかもしれない。
すぐに直したくなるかもしれない。
その全部を。
今の自分たちは。
まだ知らない。
だから。
記録台紙の一番上には。
新しい一文が加えられた。
『戻ってくる声には、書いた人と、読む人の両方がいる』
書いたのは。
茜だった。
その下へ。
紅秋が線を引き。
春樹が日付を書き。
三浦が余白へ何か付け足そうとして止められ。
田辺が。
「今回は、書くな」
と低い声で言った。
三浦は不満そうにペンを置く。
なつきは。
その様子を見ながら。
白い記入欄へ、まだ置かれていない誰かの言葉を想像していた。
それが。
どんな形で戻ってきても。
すぐに正しく受け取れるとは思わない。
傷つかないとも思わない。
怒らないとも言えない。
けれど。
受け取れなかったとき。
もう一度戻って話せる場所はある。
十一組の教室。
おかえり会。
失敗した紙も。
言いすぎた言葉も。
消した文字も。
全部を置き直せる場所。
だから。
なつきは。
少しだけ。
戻ってくる声を待ってみたいと思った。




