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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第162話 終わった後が長いなら、戻ってくる場所も必要になる


 午後の授業が始まってからも。


 二年商業科十一組の教室には、昼休みに広がった空気が残っていた。


 黒板には教師が書いた会計処理の手順が並び、教室の前方ではチョークが乾いた音を立てている。窓の外では相変わらず雨が降り続け、ガラスを伝う水滴が、灰色の景色を何度も細く切り分けていた。


 生徒たちは机へ向かっている。


 教科書も開いている。


 ノートへ数字を書き写している者もいる。


 けれど、昼休みに試作品を囲んでいた生徒たちの視線は、ときどき教室後方の棚へ向かっていた。


 そこには。


 授業が始まる直前、急いで片づけられた試作品が置かれている。


 何枚もの付箋。


 書き加えられた矢印。


 途中まで整理された意見の記録。


 昼休みが終わったため、一度作業を止めただけで。


 終わったわけではない。


 そのことを、教室のほとんど全員が分かっていた。


「横田」


 教師の声が飛んできた。


 なつきは肩を揺らし、正面へ顔を戻した。


「はい」


「今、どこを見ていた?」


 教師は怒っているわけではなかった。


 教卓の横に立ち、チョークを持ったまま、少しだけ呆れた表情をしている。


 なつきは正直に教室後方を指した。


「試作品です」


「見れば分かる」


 教室のあちこちから笑いが漏れた。


「授業中に確認しなければならないほど、急ぎの問題が見つかったのか?」


「いえ。今すぐじゃなくても大丈夫です」


「なら、今はこっちを見ろ」


「はい」


 なつきは背筋を伸ばした。


 教師は黒板へ向き直ったが、数歩進んだところで止まる。


「ただし」


 教室内が少し静かになった。


「授業が終わった後、どういう問題が見つかったのかは教えてくれ。昨日の会議では、かなり形になったと聞いている」


「分かりました」


「俺たちも聞いていいですか?」


 教室後方から男子生徒が言った。


「昨日まで、手伝ってなかった人も?」


「もちろん」


 教師は答えた。


「授業が終わった後ならな」


 その言葉で、また小さな笑いが起きる。


 なつきは今度こそ黒板へ視線を戻した。


 けれど。


 ノートへ数字を書きながら、昼休みに一年生たちが言っていた言葉を何度も思い出していた。


 円形に並んでいるから、一周するように見えた。


 色ごとに使う人が違うと思った。


 色には意味がないと思った。


 同じものを見ているのに。


 受け取る意味が違う。


 なつきたちは、色にも配置にも理由を持たせていた。


 何度も考えて。


 何度も選び直した。


 だからこそ。


 その理由が別の形で伝わることを、うまく想像できなかった。


 伝えるために加えたものが。


 迷う理由になることもある。


 その事実は。


 失敗として胸へ刺さるより先に。


 なつきの中へ、不思議な驚きとして残っていた。


 人の見方は。


 自分が思っていたより、ずっと自由なのかもしれない。


 自由だから。


 届くときもあれば。


 届かないときもある。


 届かなかったとき。


 説明した側が、相手の理解が足りないと決めてしまえば。


 そこで終わる。


 けれど。


 相手がどう見たのかを聞けば。


 その先へ進める。


 なつきはノートの端へ、小さく書いた。


『見え方が違ったら、戻って聞く』


 書き終えてから。


 授業中に別のことを書いたのを教師に見つからないよう、そっと手で隠した。


 その動きを、隣の席の紅秋が見ていた。


「何書いたの?」


 教師の声に重ならないよう、紅秋が小さく尋ねる。


「あとで」


「今見せられない内容?」


「授業と関係ないから」


「横田がそれを気にするんだ」


「さっき注意されたから」


「成長したね」


「すぐ忘れるかもしれない」


「成長を自分で戻さないで」


 紅秋は呆れながら、正面へ視線を戻した。


 なつきも小さく笑い、再び授業へ集中した。


 午後の授業は。


 いつもより少しだけ長く感じられた。


 まだ昼休みの続きを待っているからかもしれない。


 窓の外の空が暗く。


 時計の針まで、普段よりゆっくり進んで見えるからかもしれない。


 それでも。


 教師の説明は続き。


 問題演習が始まり。


 指名された生徒が黒板へ答えを書き。


 途中で三浦が計算を間違え。


 田辺に小声で教えられた答えまで、なぜか別の数字へ書き換えて間違えた。


「どうして正解を聞いてから間違えるんだ」


 教師が真剣に尋ねる。


「自分の可能性を信じました」


「信じる場所を選べ」


 教室に大きな笑いが広がった。


 張りつめていた空気が、一度軽くなる。


 三浦は間違えた数字を消しながら、教室後方の試作品へ目を向けた。


「でも先生」


「なんだ」


「間違えたら、どうして間違えたか聞くの大事ですよね」


「今、昼休みの話と自分の計算ミスを一緒にしたな」


「応用です」


「お前の場合は、途中式を見れば分かる。余計なことを考えた」


「見方が違った可能性は?」


「計算方法は自由に見なくていい」


 再び笑いが起きた。


 紅秋は額へ手を当て。


 茜は笑いをこらえながらノートへ視線を落とし。


 なつきは、三浦もまだ昼休みのことを考えていたのだと気づいた。


 言い方は、三浦らしかった。


 けれど。


 間違えた理由を聞く。


 その部分だけは。


 今の十一組にとって、大切な言葉になり始めていた。


 やがて。


 授業終了のチャイムが鳴った。


 教師が教科書を閉じる。


「今日の範囲はここまで。次回、小テストをする」


 教室内から、一斉に不満の声が上がった。


「範囲は今日の内容だけだ」


「それが一番覚えてません」


 三浦が言う。


「今やったばかりだ」


「だからです。まだ俺の中に定着してない」


「定着する前に逃がすな」


 教師は教卓の上の資料をまとめた。


 それから。


 教室後方の棚へ目を向ける。


「それで。昼休みに見つかった問題というのは?」


 その言葉を待っていたように。


 何人もの生徒が一斉に後ろを振り返った。


 茜が立ち上がる。


「簡単に説明します」


「簡単にできるか?」


「努力します」


「遠山がそう言うなら聞こう」


 教師は教卓の横へ立ったまま、教室全体を見渡した。


 茜は棚から試作品を取り出した。


 紅秋が、記録用紙と付箋を持ってその隣へ立つ。


 三浦も立とうとしたが。


「三浦は座ってて」


 紅秋に止められた。


「なんで?」


「説明が長くなるから」


「補足役」


「不要」


「盛り上げ役」


「もっと不要」


「じゃあ、後ろで空気作る」


「座ってるだけでできる」


 三浦は不満そうに席へ戻った。


 けれど、その直後。


「必要になったら呼ぶから」


 茜が言う。


 三浦は少しだけ機嫌を直した。


「了解」


 茜は前方の机へ試作品を広げた。


 昼休みに一年生が書き加えた矢印や言葉が、教室の生徒たちにも見えるように向きを変える。


「今日の昼休み、一年生三人に試作品を見てもらいました」


 教室内の視線が集まる。


「私たちは最初に、使い方を説明していません。正しい答えも伝えず、何を見て、どう考えたかを話してもらいました」


「途中で、最初に見る場所が分かりにくいという意見が出ました」


 紅秋が続けた。


「文字自体は書いてあったんですけど、私たちはそこを見ると知っていたので、見えにくさに気づけませんでした」


 教師は腕を組み、試作品を見ている。


「それ以外にも、円形の配置が順番の循環に見えたり、色分けが利用者の種類を表しているように見えたりしました」


「意図とは違う受け取られ方をした、ということか」


「はい」


「それを失敗と考えている?」


 教師の問いに。


 茜は少し黙った。


 昨日までなら。


 迷わせたのだから失敗だと答えていたかもしれない。


 けれど。


 昼休みに見たものは。


 単純に失敗という言葉だけでは、うまく収まらなかった。


「直す必要はあると思っています」


 茜は慎重に答えた。


「ただ、受け取った一年生が間違えたとは思っていません。そう見える可能性を、私たちが見つけられていなかったということだと思います」


「なるほど」


 教師は短く頷いた。


 それから、一年生が書き加えた矢印へ指を向ける。


「これは?」


「一年生の提案です」


「直接書いてもらったのか」


「はい」


 教室の一部が小さくざわめいた。


 昨日、会議へ提出した試作品へ。


 今日初めて見た一年生が、直接書き込んだ。


 それを初めて知った生徒もいた。


「嫌じゃなかった?」


 女子生徒の一人が尋ねた。


 質問を向けられた茜は。


 すぐには答えなかった。


 試作品へ目を落とす。


「少しだけ」


 正直に言った。


「最初は、少しだけ嫌でした」


 教室が静かになる。


 茜は普段、迷いを見せることが少ない。


 委員長として。


 十一組ラボの進行役として。


 できるだけ公平に。


 できるだけ落ち着いて。


 何か問題が起きれば、先に整理してから口にする。


 そんな茜が。


 迷ったことを、隠さずに話している。


「昨日まで、完成させるために何度も直してきたから。ようやくここまで来たものへ、すぐに書き加えられるのを見て、一瞬だけ止めたくなりました」


 紅秋も。


 三浦も。


 なつきも。


 その瞬間を覚えていた。


 茜の指が。


 試作品の端へ触れたまま。


 ほんの少しだけ止まった。


「でも」


 茜は続ける。


「私たちが守りたいのは、昨日完成した形じゃなくて、使う人が迷わないことです。そう考えたら、書き込まれることは壊されることじゃないと思いました」


「じゃあ、嬉しかった?」


 今度は別の生徒が聞く。


「すぐには」


 茜は少し笑った。


「嬉しいと思うより先に、直す場所が増えたって思った」


 教室に小さな笑いが起きる。


 茜も肩の力を抜いた。


「でも、今は。意見を言ってもらえてよかったと思ってる」


「横田は?」


 教師が尋ねた。


「え?」


 突然名前を呼ばれ、なつきが目を丸くする。


「お前は、どう思った?」


 なつきは自分のノートを見た。


 端に書いた。


『見え方が違ったら、戻って聞く』


 その言葉が目に入る。


「私は」


 なつきは、ゆっくり立ち上がった。


「最初、困ってるのを見て、答えを言いたくなりました」


「言ったのか?」


「紅秋ちゃんに止めてもらいました」


「正解」


 教師が答え。


 紅秋が小さく頷く。


「でも、分からないって言われた後も、一年生の三人は帰らなかったんです。どうしたら分かりやすいか、一緒に考えてくれました」


 なつきは机の上の試作品を見る。


「私たちが作ったものなのに、途中から、三人も作る側に入ってきたみたいでした」


「作る側に?」


「はい。だから」


 なつきは一度言葉を止めた。


 自分の中にある感覚を。


 うまく文章へ変えようとする。


「完成して終わりじゃなくて。使う人の見方を聞いて、また戻って直す場所が必要なんだと思いました」


 教師の表情が変わった。


 わずかに目を細め。


 なつきを見る。


「戻って直す場所」


「はい」


「それは、この教室のことか?」


 なつきは教室内を見回した。


 机。


 椅子。


 黒板。


 後方の棚。


 二週間、段ボールや色紙が積まれていた場所。


 意見がぶつかり。


 失敗が置かれ。


 作り直した紙が何枚も重なった場所。


「たぶん」


 なつきは答えた。


「ここだけじゃなくてもいいと思うんですけど。何かあったときに、終わったからもう触れません、じゃなくて。戻ってきて、話せる場所があった方がいいです」


「それ、必要かも」


 教室後方から声が上がった。


 発言したのは、これまで十一組ラボへほとんど参加していなかった女子生徒だった。


 机の上には、授業のノートと教科書がまだ開かれている。


「私、昼休みの話を聞くまで、昨日で終わったと思ってた」


「俺も」


「採用されるかどうか待つだけだと思ってた」


 別の生徒たちも続く。


「でも、使う人が増えたら、また違う意見が出るよな」


「設置する場所でも見え方変わるし」


「雨の日と晴れの日でも違うかも」


「廊下、暗い場所あるからな」


「人が多いと近づけないかもしれない」


 意見が教室のあちこちから出始める。


 茜はそれを聞きながら。


 試作品ではなく、教室全体を見ていた。


 二週間前。


 十一組ラボは。


 会議から持ち帰った課題を解決するために、教室の一角で始まった。


 参加する者は限られていた。


 茜。


 紅秋。


 なつき。


 三浦。


 春樹。


 途中から、何人かの生徒が意見を出すようになった。


 それでも。


 基本的には、決まった数人が中心だった。


 だが今。


 昨日まで作業へ参加していなかった生徒まで。


 完成後のことを考え始めている。


「先生」


 茜が教師を見る。


「放課後、少し時間をもらえますか?」


「修正するのか?」


「修正もします。でも、その前に決めたいことがあります」


「何を?」


「完成後の意見を、どうやって集めるかです」


 教室が静かになる。


 教師は、すぐに答えなかった。


 茜の言葉の先を待つ。


「使ってもらった後、分かりにくかった場所があっても、私たちへ届かなければ直せません。だから、意見を戻してもらう方法が必要です」


「意見箱でも置く?」


 三浦が言った。


「それも候補」


 茜は否定しなかった。


「他には?」


「定期的に聞きに行く」


 紅秋が答える。


「でも、全員に聞くのは無理」


「委員会の人から報告してもらう?」


 別の生徒が言う。


「使う場所ごとに担当を決めるとか」


「一年生にも協力してもらえないかな」


「今日来た三人だけじゃ負担になるよ」


「じゃあ、学年ごとに何人か」


「先生経由だと、言いにくい意見もあるかも」


「匿名の方がいい?」


「匿名だと、どういう状況で迷ったか聞き返せない」


 教室が。


 再びラボになっていく。


 机を囲んでいるわけではない。


 段ボールも広げていない。


 それでも。


 一つの課題へ。


 誰かが答えを置き。


 別の誰かが問題を見つけ。


 また別の誰かが、違う方法を出す。


 教師は、しばらく黙ってその様子を見ていた。


 やがて。


「放課後、三十分だけなら教室を使っていい」


 教室内が一度静かになった。


「ただし」


 教師は続ける。


「今の意見を全部採用しようとするな。集める方法を増やしすぎると、管理できなくなる」


「はい」


 茜が頷く。


「誰が確認するのか。どのくらいの間隔で見るのか。どこまで直すのか。始める前に決めろ」


「分かりました」


「それから」


 教師は机の上の試作品へ視線を落とした。


「完成後に戻ってくる場所を作るなら、戻ってきた意見を否定しないための決まりも必要だ」


 茜が僅かに眉を寄せた。


「否定しないための決まり?」


「自分たちが苦労して作ったものほど、批判されたと感じやすい。今日、お前が少し嫌だったと言ったようにな」


 茜は黙って頷く。


「今は一年生三人が目の前にいた。どうしてそう見えたのか、直接聞けた。だが、紙に『分かりにくい』とだけ書かれて戻ってきたらどうする?」


 教室内の空気が変わった。


 意見を集める方法ばかり考えていた。


 けれど。


 戻ってくる言葉が。


 いつも丁寧とは限らない。


 理由まで書かれているとは限らない。


『分からない』


『見づらい』


『意味がない』


『使えない』


 短い言葉だけが戻ってきたとき。


 二週間かけて作った側は。


 冷静に受け取れるのか。


「たぶん、腹立つ」


 三浦が言った。


 教室の何人かが、思わず笑いかけた。


 けれど。


 三浦の顔は真剣だった。


「理由もなく『使えない』って書かれたら、俺は腹立つと思う。ちゃんと考えて作ったのにって」


「私も」


 紅秋が認めた。


「言い方によるけど」


「俺、言い返しそう」


「それは止める」


「だから、止める決まりが必要ってこと?」


「決まりだけで止まる?」


 田辺が言った。


「感情は出るだろ」


「じゃあ、最初に一人で読まない方がいい?」


 女子生徒が提案する。


「何人かで確認するとか」


「でも、みんなで見たら、ひどい意見に全員で腹立つかも」


「三浦君が先に読むのは駄目だね」


 なつきが言う。


「なぜ俺だけ具体的に」


「言い返すって言ったから」


「正直者が損してる」


「言い返さない人が先に読む?」


「遠山?」


「茜ちゃんも、さっき嫌だったって言ってたよ」


「横田は?」


 紅秋が聞く。


 なつきは少し考えた。


「悲しくなるかも」


「言い返さないけど?」


「たぶん、すぐ直そうとする」


「全部?」


「うん」


「それも危ない」


 紅秋は真剣な顔で言った。


「意見が一つ来るたびに全部変えてたら、形がなくなる」


「そっか」


「誰か一人で受け取るんじゃなくて、まず何が書いてあるかだけ整理する人が必要かも」


 春樹が言った。


 いつの間にか。


 図書室から戻った後の授業を終え、教室前方へ来ていた。


 彼は試作品と。


 黒板の前に立つ茜たちを見ながら続ける。


「直すかどうかは、後で決める。最初に読む人は、その場で判断しない」


「分類するだけ?」


 茜が尋ねる。


「うん。見えにくい。順番が分からない。言葉が難しい。そういう種類に分ける」


「感情的な書き方だったら?」


「言い方と内容を分ける」


 春樹は少し考えた。


「例えば『全然意味分からない』なら、意味が分からなかった場所がある、って記録する」


「勝手に優しく直すの?」


 三浦が聞く。


「優しくするんじゃなくて、直せる形にする」


「直せる形」


「怒ってる言葉を、そのまま受け取ると、作った側も怒る。でも、何に困ったかへ変えれば、考えられる」


 教室が静かになる。


 春樹は、少し言いにくそうに視線を下げた。


「ただ、全部を変えすぎたら、本当に強く困ってたことまで弱く見えるかもしれないけど」


「そこも残した方がいいね」


 茜が言う。


「内容と、困り方の強さを分けて記録する」


 紅秋がすぐに記録用紙へ書く。


『意見をそのまま判断しない』


『困った内容と、困り方の強さを分ける』


『最初に読む人は修正を決めない』


 紙の上へ。


 新しい決まりの候補が並んでいく。


「じゃあ」


 なつきが小さく手を上げた。


「意見を戻す場所と。戻ってきた意見を受け取る場所、両方いるんだね」


「同じじゃないの?」


 三浦が尋ねる。


「違うと思う」


 なつきは机の上の付箋を見た。


「意見を戻す場所は、書くところ。でも、受け取る場所は、私たちが話すところ」


「ここ?」


 三浦が教室を見回す。


「うん」


「また十一組ラボ?」


「たぶん」


「やっぱり終わった後が長いじゃん」


 三浦が嬉しそうに言う。


 紅秋はため息をついたが。


 今回は否定しなかった。


 茜も。


 教室全体を見渡してから。


「長くなるなら」


 静かに言った。


「続け方を決めよう」


 その一言で。


 教室内の視線が集まった。


「毎日集まるのは無理。全員が参加する必要もない。意見が来るたびに、その場で作り直すのもやめる」


 茜は黒板の空いている場所へ。


 チョークで大きく書いた。


『戻ってくる日』


「週に一度」


 その下へ続ける。


「集まった意見を確認する日を決める。その日に、直す必要があるか話し合う」


「曜日は?」


「委員会と部活を確認してから」


「時間は?」


「放課後三十分」


「参加者は?」


「固定しない。ただし、記録役は必要」


「俺、名前つける役」


 三浦が手を上げる。


「不要」


 紅秋が即答する。


「でも『戻ってくる日』って、ちょっと普通じゃない?」


「分かりやすい」


「十一組リターンデー」


「却下」


「ラボ帰還日」


「却下」


「おかえり会」


 なつきが言った。


 教室が一瞬、静かになる。


「なつき?」


 茜が振り返る。


「意見が戻ってくるから」


 なつきは少し恥ずかしそうに笑った。


「戻ってきたものを、怒らないで迎える日なら。おかえりって言うの、いいかなと思って」


「横田が名前つける側に来た」


 三浦が驚いた顔をする。


「俺の役割が」


「取ってないよ」


「でも、今の強い」


 紅秋は黒板の文字を見る。


『戻ってくる日』


 その横に。


 小さく。


『おかえり会』


 と書き加えた。


「正式名称は戻ってくる日」


 紅秋が言う。


「教室内では、おかえり会でもいい」


「採用?」


 なつきの目が少し明るくなる。


「仮採用」


「三浦案は?」


「全部不採用」


「差が大きい」


「日頃の積み重ね」


 教室に笑いが広がった。


 その笑いの中で。


 教師は、黒板へ書かれた二つの名前を見ていた。


「一つだけ確認する」


 全員が教師を見る。


「その会は、直すことを前提にするな」


 茜が首を傾げる。


「直さない意見もあるということですか?」


「ある」


 教師ははっきり答えた。


「誰か一人が分かりにくいと言っても、他の多くの人には分かりやすい場合がある。直したことで、別の人が分からなくなることもある」


「じゃあ、どう決めるんですか?」


 なつきが尋ねる。


「簡単には決められない」


「先生でも?」


「先生でも」


 教師の即答に。


 なつきは少し驚いた。


 教師なら。


 正しい答えを知っているように感じる。


 けれど。


 今の課題には。


 一つだけの正解がない。


「だから、意見を集める」


 教師は続ける。


「一人の声を無視しない。ただし、一人の声だけで全部を変えない。どんな状況で困ったのかを確認する。直すことで、誰に影響が出るかも考える」


「難しいですね」


 茜が言う。


「難しい」


 教師は認めた。


「だが、最初から完璧なものを作ろうとするよりは現実的だ。作って、使ってもらって、戻ってきた声を聞く。それを繰り返す」


「終わらないですね」


 三浦が呟く。


「終わらない」


 教師は答えた。


「ただし、ずっと同じ人間が抱える必要はない」


 教室内の空気が変わる。


「引き継げる形にしろ」


 その言葉は。


 茜の中へ深く落ちた。


「引き継ぐ?」


「お前たちは来年も学校にいる。だが、その次は卒業する。この案内が続くなら、見る人も作る人も変わる」


 昨日まで。


 なつきたちは。


 採用されるところまでしか考えていなかった。


 今日。


 完成後も意見を集めることを考えた。


 そして今。


 自分たちがいなくなった後のことまで。


 教師の言葉によって、初めて視界へ入ってくる。


「戻ってくる場所を作るなら」


 教師は黒板を見た。


「誰かがいなくなっても、その場所が残るようにしろ」


 教室に。


 長い沈黙が落ちた。


 外の雨音が。


 急に近く聞こえる。


 窓へ当たる粒が。


 細かく。


 一定の音を重ねている。


 なつきは。


 春樹の横顔を見た。


 春樹も黒板を見ている。


 茜は。


 チョークを持ったまま動かなかった。


 紅秋のペンも止まっている。


 三浦でさえ。


 何も言わなかった。


 卒業。


 今すぐではない。


 まだ一年以上先。


 けれど。


 確実に来る。


 自分たちが教室を離れ。


 十一組ではなくなる日。


 この机も。


 この棚も。


 次の誰かが使うようになる。


 そのとき。


 十一組ラボという名前だけが残っても。


 自分たちしか分からないやり方では。


 続かない。


「記録が必要だね」


 春樹が言った。


 静かな声だった。


「何を作ったかだけじゃなくて。どうしてそうしたか。どうやって意見を集めたか。直さなかった理由も」


「失敗も?」


 なつきが尋ねる。


「失敗こそ」


 春樹は答えた。


「成功した形だけ残したら、次の人がまた同じところで迷うかもしれない」


 紅秋が。


 ゆっくりとペンを動かし始める。


『引き継げる記録』


『変更した理由』


『変更しなかった理由』


『試したこと』


『うまくいかなかったこと』


 書かれていく言葉を。


 茜はじっと見ていた。


「昨日までの記録」


 茜が言う。


「全部、残ってる?」


「途中の案も?」


 紅秋が確認する。


「捨ててない」


 三浦が答えた。


「段ボールの下にまとめてある」


「どうして?」


「いつか展示できると思って」


「また勝手に考えてたの?」


「失敗の歴史展」


「名前はともかく」


 茜は少し笑った。


「残してあってよかった」


 三浦は目を見開く。


「今、褒められた?」


「たぶん」


「全員聞いた?」


「騒ぐなら取り消す」


「静かに喜びます」


 三浦は両手を強く握り。


 声を出さずに天井を見上げた。


 その姿へ。


 教室中から笑いが起きる。


 長く続いた緊張が。


 少しだけ解けた。


 茜は黒板へ向き直る。


『戻ってくる日』


『おかえり会』


 その下へ。


 新しく書いた。


『引き継げる形にする』


「今日の放課後」


 茜が言う。


「試作品の修正を始める前に、戻ってきた意見の受け取り方を決める」


「全部今日やるの?」


 紅秋が尋ねる。


「全部は無理」


「珍しく分かってる」


「私だって分かる」


「昨日まで、締切前に全部やろうとしてたから」


「反省してる」


「本当に?」


「少し」


「少しなんだ」


 茜は紅秋の視線から逃げるように。


 黒板へ向き直った。


「今日は、意見を集める方法を一つ決める。受け取るときの決まりを三つまで決める。記録の形式は次回」


「次回って」


 三浦が口を挟む。


「もう次のラボ決まってる?」


「戻ってくる日」


「おかえり会?」


 なつきが言う。


 茜は少しだけ迷い。


「……おかえり会」


 そう答えた。


 教室のあちこちから。


 小さな笑いと。


 何人かの拍手が起きた。


 大きな拍手ではない。


 誰かが冗談のように二度手を叩き。


 別の誰かが続き。


 気づけば。


 教室全体へ、柔らかな音が広がっていた。


 なつきは。


 黒板の文字を見る。


『おかえり会』


 少し変な名前かもしれない。


 会議の正式な名前には向かないかもしれない。


 けれど。


 戻ってきた意見を。


 責められた言葉として閉じず。


 また考えるための材料として迎える。


 その場所の名前としては。


 悪くないように思えた。


 放課後。


 雨は、まだ止まなかった。


 教室の蛍光灯が点き。


 窓の外は、授業が終わったばかりとは思えないほど暗くなっていた。


 部活動へ向かう生徒たちの足音が廊下を流れていく。


 体育館へ急ぐ者。


 傘を取りに昇降口へ向かう者。


 迎えの車を待つため、スマートフォンを見ながら階段を下りる者。


 その中で。


 十一組の教室には。


 十数人の生徒が残っていた。


 最初からラボへ関わっていた生徒だけではない。


 昼休みの一年生の反応を見た者。


 授業後の話を聞いて興味を持った者。


 試作品へ意見を言った責任を少し感じている者。


 理由は、それぞれだった。


「まず、意見を集める方法」


 茜が黒板の前へ立つ。


「候補は三つ。紙の意見箱。委員会からの定期報告。実際に使っている人へ聞きに行く」


「三つ全部は駄目?」


 三浦が尋ねる。


「管理できる?」


「頑張れば」


「頑張る前提は却下」


 紅秋が答える。


「続けるなら、無理しない方法にする」


「じゃあ、意見箱?」


「紙だけだと、状況が分からない」


「でも、言いやすい」


「定期報告は?」


「委員会の人に負担が増える」


「聞きに行くのは?」


「毎週は無理」


 意見が重なる。


 昼休みとは違い。


 今度は茜が、発言を一つずつ整理していく。


 良いところ。


 続けにくいところ。


 誰に負担がかかるか。


 必要な情報が集まるか。


 黒板へ表が作られ。


 丸と三角が増えていく。


「組み合わせる?」


 なつきが言った。


「どうやって?」


「いつでも書ける紙を置いて。週に一回、委員会の人に、何か困ったことがなかったかだけ聞く」


「二つになるよ?」


「でも、毎回詳しく報告してもらわなくてもいいでしょう?」


 なつきは考えながら続ける。


「紙が来てなかったら、委員会の人に聞かない。何か書いてあったときだけ、その場所の人に状況を聞く」


「最初は紙」


 春樹が整理する。


「必要なときだけ、詳しく聞きに行く」


「それなら毎週全員へ聞かなくていい」


 紅秋が頷く。


「意見箱というより、気づいたことを書く紙?」


「箱だと大げさかも」


「案内の横へ、小さい記入用紙を置く?」


「なくなりそう」


「鉛筆も必要」


「持ってる人だけ書いてもらう?」


「それだと書けない人がいる」


「二次元コードは?」


「校内で個人スマートフォン使用できる場所、限られてる」


「じゃあ、各教室に一枚?」


「管理が増える」


 また。


 簡単には決まらない。


 一つ便利にすると。


 別の負担が増える。


 一人が使いやすくなると。


 別の人には使いにくくなる。


 けれど。


 誰も急いで結論を出そうとはしなかった。


 昨日までなら。


 時間がなくなることを恐れ。


 どこかで無理に決めていたかもしれない。


 今は。


 終わった後も続けると決めたから。


 今日一日で、すべてを完成させる必要がない。


「試してみる?」


 田辺が言った。


「また?」


 三浦が聞く。


「考えても分からないなら、短期間だけやる」


「仮で?」


「一週間」


 田辺は黒板を見る。


「紙の意見欄を置く。何も来なかったら、書きにくいのか、本当に問題がないのかを確認する。来すぎたら、整理できる量か見る」


「それなら」


 茜が頷く。


「方法を決めるための試験になる」


「試作品のための試作品?」


 なつきが首を傾げる。


「意見を集める仕組みの試作品」


 春樹が言う。


「全部、試すんだね」


「たぶん、仕組みも使ってみないと分からない」


 なつきは笑った。


「じゃあ、これも初見確認がいる?」


「いるかも」


「誰に?」


「意見を書く人」


「また一年生?」


「今度は先生にも書いてもらう?」


「先生の意見、長そう」


 三浦が言った瞬間。


 教室前扉が開いた。


 先ほど授業をしていた教師が立っていた。


「誰の意見が長い?」


 三浦は固まった。


 教室中が笑いをこらえる。


「……詳しい、という意味です」


「今、言い換えたな」


「直せる形にしました」


「都合よく学ぶな」


 教師は呆れながら教室へ入ってくる。


 机の上に広げられた資料を見た。


「進んだか?」


「一週間だけ、簡単な記入用紙を置く案になりました」


 茜が答える。


「その後、書きやすかったかも確認します」


「誰が回収する?」


「当番を決めます」


「どこへ置く?」


「今、候補を決めているところです」


「記入用紙に何を書く?」


 教室が静かになった。


 そこまでは。


 まだ決まっていなかった。


「分かりにくかった場所」


 紅秋が言う。


「いつ使ったか」


 春樹が続ける。


「どこで困ったか」


 田辺。


「どう見えたか」


 なつき。


「直してほしいこと」


 三浦。


 教師は一つずつ聞いた後。


「多い」


 短く言った。


「ですよね」


 茜が苦笑する。


「書く側の負担を考えろ。全部埋めないといけない用紙に見えたら、誰も書かない」


「一つだけなら?」


 なつきが尋ねる。


「『どこで困りましたか』」


「困ってない人は書かない」


「じゃあ、『気づいたこと』」


「広すぎる」


「難しい」


「だから試すんだろう」


 教師は言った。


「最初から完璧な質問を作ろうとするな」


 なつきたちは。


 一瞬、互いの顔を見た。


 試作品へ。


 最初から完璧を求めて。


 何度も苦しくなった。


 今度は。


 意見を集める紙にまで。


 同じことをしようとしていた。


「一番聞きたいことは何だ?」


 教師の問いに。


 茜は黒板を見た。


「迷った場所」


「なら、それを聞け」


「一つだけ?」


「一つで始めろ」


 茜は頷いた。


 白い紙の上へ。


 太い文字で書く。


『どこで迷いましたか?』


 その下に。


 自由に書ける空白を作る。


 名前は不要。


 全部書かなくてもいい。


 一言でもいい。


 余計な説明は載せない。


 それを。


 全員で少し離れて見る。


「分かりやすい」


「でも、迷ってない人は何も書けない」


「今回は迷った場所を探す試験だから、それでいい」


「文字、大きすぎない?」


「遠くから読むものじゃない」


「鉛筆は紐でつなぐ?」


「紐、書きにくくない?」


「短すぎると届かない」


「長いと絡まる」


「それも試す?」


 三浦が言う。


 紅秋が笑った。


「全部試作品ね」


「十一組ラボ、対象が広がりすぎてない?」


「でも」


 なつきは。


 机の上の小さな記入用紙を見た。


「戻ってくる道みたい」


「道?」


「意見が、ここまで帰ってくるための」


 なつきは教室内を見回した。


 黒板。


 机。


 付箋。


 途中の案。


 失敗した紙。


 笑い声。


 意見がぶつかった後の沈黙。


 ここは。


 完成品を作る場所ではなくなっていた。


 作ったものが。


 誰かのところへ行き。


 違う見え方を持って戻ってきたとき。


 もう一度、受け取る場所になろうとしている。


「じゃあ」


 三浦がペンを持ち上げた。


「道の名前も必要だな」


「いらない」


 紅秋が即答する。


「おかえりロード」


「却下」


「リターンライン」


「却下」


「意見帰還路」


「もっと却下」


 三浦は諦めず。


 次の案を考えようとした。


 その前に。


 なつきが、記入用紙の端へ小さく書いた。


『ここから、十一組へ戻ります』


「なつき?」


 茜が覗き込む。


「書いた人には見えなくてもいいんだけど」


 なつきは少し照れたように笑った。


「私たちが忘れないために」


 茜は。


 その小さな文字を見つめた。


 それから。


 消さずに残した。


 窓の外では。


 長く降り続いていた雨が。


 ようやく少し弱くなっていた。


 厚い雲の向こうから。


 白い光が僅かに戻り。


 濡れた校庭の一部を、淡く照らしている。


 雨はまだ止んでいない。


 試作品も。


 意見を集める方法も。


 おかえり会の決まりも。


 何一つ完成していない。


 それでも。


 十一組の教室には。


 戻ってくるための小さな道が。


 確かに一本。


 作られ始めていた。

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