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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第161話 十一組ラボの成果は、廊下を歩いてやって来る


 翌日の昼休み。


 梅桜高校中央棟二階の廊下には、朝から降り続いていた雨の匂いが残っていた。


 窓ガラスには細かな水滴が無数に張りつき、灰色の空から落ちてくる光を鈍く散らしている。換気のために少しだけ開けられた上部の窓からは、濡れた土と、校庭脇に植えられた木々の青臭い匂いが入り込み、教室から漏れてくる弁当や購買パンの匂いに混ざっていた。


 晴れていれば、昼食を終えた生徒たちが中庭や渡り廊下へ散っていく時間だった。


 けれど今日は、行き場を失った生徒の多くが校舎内に残っている。


 廊下の壁際でスマートフォンを囲む女子生徒たち。


 階段の踊り場で、窓の外を見ながら紙パックの飲み物を飲む男子生徒。


 教室の後方では、机を寄せた数人がカードゲームを始め、その周りに見物人まで集まっていた。


 いつもの昼休みより、人の声が近い。


 笑い声も。


 椅子を引く音も。


 誰かを呼び止める声も。


 雨音に押し戻されるように校舎の内側へ集まり、中央棟全体が普段より少しだけ狭くなったように感じられた。


 その中央棟二階。


 二年商業科十一組の教室では。


「……来ないね」


 三浦圭が、教室前方の時計を見上げた。


 右手には、食べ終えた焼きそばパンの袋が握られている。左手は窓際の机へ置かれ、落ち着きなく指先で一定の拍子を刻んでいた。


「まだ昼休みが始まって十二分しか経ってない」


 遠山茜は、自分の席に座ったまま答えた。


 膝の上には、十一組ラボの記録用紙を挟んだバインダーが置かれている。昼食はすでに片づけられていたが、机の端には飲みかけの麦茶が残っていた。


「十二分も、だよ」


「待つ側が時間を勝手に長くしないで」


「だってさ。昨日、あんな終わり方したんだぞ?」


 三浦は声を落とした。


 落としたつもりなのだろうが、もともとの声量が大きいため、近くにいた生徒たちには十分聞こえている。


 昨日の放課後。


 十一組ラボが作り直した案内用の試作品は、校内運営会議の確認を終えた。


 最初に提出したものとは、ほとんど別物になっていた。


 作る側が伝えたい情報を詰め込むのではなく、初めて見る側が迷わず動けることを優先した。


 説明を減らし。


 順番を変え。


 目立たせる場所を選び直し。


 あえて載せない情報を決めた。


 その過程で、失敗もした。


 一度目の試作品は、説明が多すぎた。


 二度目は、情報を減らしすぎて意味が通じなかった。


 三度目は、作った本人たちには分かるのに、初見の生徒には伝わらなかった。


 だから何度も止まり。


 何度も戻り。


 何度も意見がぶつかった。


 昨日、会議室へ運び込まれたのは、その全部を通った後の試作品だった。


 教師や委員会の生徒たちは、それを見てすぐに採用とは言わなかった。


 代わりに。


 実際に使用する予定の生徒へ、最後の確認を頼むことになった。


 それが今日だった。


「来なかったらどうする?」


 三浦が言った。


「来なかったら、午後の休み時間に確認する」


 茜は即答した。


「そうじゃなくて。見て、駄目だったから来ないとか」


「それなら先生から連絡が来るでしょう」


「連絡するほどでもないって判断された可能性は?」


「三浦」


「はい」


「不安を増やすためだけの可能性を並べるの、やめなさい」


 茜が静かな声で止めると、三浦は口を閉じた。


 けれど三秒ほどしか続かなかった。


「でも遠山も、さっきから同じページしか見てないよな」


 茜の指が止まった。


 膝の上に置かれたバインダーは開かれていたが、確かに紙は一度もめくられていない。


 周囲にいた生徒たちが、なるべく露骨にならない程度に茜へ視線を向けた。


「……確認しているの」


「何を?」


「記録を」


「同じ行を十二分?」


「三浦君」


 少し離れた席から、柔らかな声が飛んできた。


 横田なつきだった。


 なつきは窓際に近い自分の席で、両手に小さな紙コップを持っていた。昼食後に購買前の自動販売機で買った温かい飲み物を、板倉紅秋と分けてきたらしい。


「茜ちゃんをからかうのは、そのくらいにした方がいいと思う」


「横田、今の俺、からかってたように見えた?」


「うん」


 なつきは迷わず頷いた。


「すごく自然に」


「自然ならいいか」


「よくないよ」


 なつきの隣で、紅秋が呆れた顔をした。


 彼女は紙コップを受け取ると、自分の席へ座らず、そのまま教室前方へ歩いてきた。茜の机の横で立ち止まり、バインダーへ視線を落とす。


「心配なのは全員同じでしょ。三浦だけじゃない」


「俺は心配じゃなくて、状況を盛り上げようと」


「一番いらない」


「板倉さん、今日も判断が速い」


「二週間、あんたの思いつきを処理してきたから」


 紅秋の返事に、近くから小さな笑いが起きた。


 十一組ラボへ直接参加していなかった生徒たちも、今では事情の大半を知っている。


 放課後になると教室の一角に段ボールや色紙が積まれ、何人かが机を囲んで議論を始める。


 途中で三浦の大声が響き。


 茜が止め。


 紅秋が修正し。


 なつきが初見役として首を傾げ。


 大國春樹が、説明する側ではなく見る側の立場から短い意見を置いていく。


 そうした光景が二週間近く続けば、関心を持つなという方が難しい。


 最初は遠巻きに眺めていた生徒も、やがて試作品へ意見を言うようになった。


 文字が小さい。


 順番が分かりにくい。


 色が多すぎる。


 ここは逆に目立たせた方がいい。


 自分ならこの説明を読み飛ばす。


 たった一言の意見で、作業が一時間戻ったこともあった。


 それでも。


 昨日、試作品を教室から運び出したとき。


 十一組の生徒たちは、まるで自分たちの提出物を見送るように、その後ろ姿を眺めていた。


「大國は?」


 紅秋が教室内を見回した。


「図書室」


 なつきが答えた。


「今日、昼休みの当番だったみたい。終わったら来るって言ってたよ」


「間に合う?」


「たぶん。返却が多くなければ」


「雨の日の図書室は混むぞ」


 教室後方から声を挟んだのは田辺守だった。


 彼は複数の机をつなげた場所で、部活動仲間らしい男子生徒たちと弁当を食べていた。大きな弁当箱はすでに空になっており、現在は二つ目らしいおにぎりの包装を開けている。


「外に出られないからな。体育館も昼は部活で使えないし、静かな場所へ行くやつが増える」


「田辺が図書室の混雑を知ってることに驚いた」


 三浦が言うと、田辺は無言で手に持っていたおにぎりを見た。


 それから三浦を見る。


「俺も本くらい読む」


「何読むの?」


「筋力トレーニングの理論書」


「裏切らないなあ」


「何を期待してたんだ」


 また教室内に笑いが広がった。


 昨日まで続いていた張りつめた空気が、少しだけ緩む。


 けれど。


 笑いが収まると、何人もの視線が再び時計へ向かった。


 今日、試作品を確認するのは。


 この学校へ入学して、まだ三か月ほどしか経っていない一年生たちだった。


 中央棟や商業棟の位置関係に慣れきっておらず、委員会活動の流れにも詳しくない。


 だからこそ、今回の試作品を確かめる相手として選ばれた。


 すでに校内を知っている二年生や三年生が見ても、本当に初めて見る人間のつまずきは分からない。


 なつきたちが何度も初見役を立てたのも、そのためだった。


 だが。


 完全な初見を、自分たちだけで作ることはできない。


 一度覚えてしまった情報を、知らなかった状態へ戻すことはできないからだ。


「緊張するね」


 なつきが、小さな声で言った。


 紅秋が隣を見る。


 なつきは笑っていた。


 ただし、紙コップを包む両手には少し力が入っている。


「横田でも緊張するんだ」


「するよ」


「昨日の会議室では、途中から普通にお菓子見てたけど」


「あれは、机にあったから」


「食べたかったの?」


「ううん。包装の開け口がどこか気になって」


「会議中に?」


「うん」


「横田らしいな」


 三浦が感心したように頷く。


 なつきは少し困った顔をしてから、紙コップの中身へ視線を落とした。


「でも、今日は昨日より緊張するかも」


「どうして?」


 茜が尋ねた。


 なつきはすぐには答えなかった。


 雨粒が窓へ当たり、細い筋になって下へ流れていく。校庭の向こう側は白く霞み、普段なら見える体育倉庫の輪郭もぼやけていた。


「昨日は、作ったものを説明する人がいたでしょう?」


「うん」


「先生もいたし、分からなかったら質問できた。でも今日は、たぶん最初に何も説明しないで見てもらうんだよね」


「その予定」


「じゃあ、私たちが横から助けたら駄目なんだよね」


 茜が、ゆっくりと頷いた。


「うん。困っていても、すぐには答えを教えない」


「それが、ちょっと怖い」


 なつきの言葉に、教室前方へ集まっていた生徒たちが静かになった。


 作っている途中なら。


 相手が迷えば説明できる。


 違う意味で受け取られれば、言い直すこともできる。


 けれど、本当に使われる場面では。


 作った人間が、いつも隣にいるわけではない。


 案内は、自分だけで相手へ届かなければならない。


 なつきが怖いと言ったのは、失敗を指摘されることではなかった。


 目の前で誰かが迷っているのに、助けずに見ていなければならないことだった。


「……それを確かめるための今日だよ」


 茜が言った。


 委員長らしく整った言葉だったが、その声は普段より柔らかかった。


「迷わせないために作った。でも、迷う場所が残っているなら、今のうちに見つけないといけない。今日なら、まだ直せるから」


「うん」


「横田が助けたくなったら、私が止める」


「私も止める」


 紅秋が続けた。


「三浦が説明し始めたら?」


「全員で止める」


 茜が答えると、三浦は両手を広げた。


「俺への信用だけ低すぎない?」


「これまでの実績」


「三浦君、途中で答え言っちゃうから」


「横田まで」


「でも、いいところもあるよ」


 なつきが慌てて付け足した。


「どこ?」


「えっと」


「そこで考えるのやめてくれる?」


 笑い声が重なった。


 今度の笑いは先ほどより大きかった。


 教室の反対側にいた生徒まで振り返り、内容を聞いていなかった者も周囲につられて笑う。


 その直後だった。


 廊下側の前扉が、二度軽く叩かれた。


 教室の空気が止まる。


 誰かが椅子を引きかけた音も。


 紙パックのストローを吸う音も。


 窓の外の雨音まで、一瞬だけ遠くなったように感じられた。


 扉の向こうには。


 一年生の女子生徒が二人、男子生徒が一人立っていた。


 三人とも胸元の校章の色が、二年生とは違う。


 一人は、透明なファイルを胸の前で抱えている。


 もう一人は、細長く丸めた紙を両手で持っていた。


 男子生徒は廊下の後ろを気にするように何度か振り返り、教室内から一斉に注がれた視線へ気づくと、少しだけ肩を引いた。


「あの……」


 先頭の女子生徒が口を開いた。


「二年十一組で、合ってますか?」


「はい」


 茜がすぐに立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦る音が響く。


「入ってください。待ってました」


「お邪魔します」


 三人が遠慮がちに教室へ入ってくる。


 入口近くにいた生徒たちが、自然に道を空けた。


 けれど、視線までは外さない。


 三人の一年生は、予想していた以上に多くの生徒が見ていることへ戸惑ったらしい。足取りが少し遅くなり、互いの顔を確かめるように目を合わせた。


「ごめんなさい」


 茜が教室内を振り返った。


「みんな、自分たちも関わった気持ちになってるから」


「実際、途中から全員関わってたしな」


 田辺が言う。


「気にしないで。見てるだけだから」


 紅秋が続けた。


「見られてるのが気になるんじゃない?」


 三浦の小声に、紅秋は肘で軽く脇腹を押した。


「痛っ」


「静かにする」


 一年生たちの表情が、少しだけ緩んだ。


 茜は教室前方に用意していた机へ三人を案内した。


 机の上には、昨日完成した試作品と同じものが置かれている。


 実際に校内へ設置することを想定した案内用紙。


 目的ごとに分けられた表示。


 必要な情報へたどり着くための順序。


 すべてが、十一組ラボで最後まで残した形のまま並べられていた。


「最初に、お願いがあります」


 茜は三人の正面ではなく、少し横へ立った。


「これから見てもらうものについて、私たちは基本的に説明しません。正しい使い方を当てる試験でもないので、分からなかったら分からないままで大丈夫です」


 三人が真剣な顔で頷く。


「思ったことは、そのまま口に出してください。途中で間違えたと思っても、言い直さなくて大丈夫です。私たちは、皆さんがどう考えたのかを確認したいので」


「質問してもいいですか?」


 男子生徒が手を小さく上げた。


「はい」


「これ、失敗したら、僕たちのせいになりませんか?」


 教室内の何人かが息を止めた。


 男子生徒は冗談で言ったのではない。


 本気で心配している顔だった。


 頼まれて来ただけなのに、自分たちの反応によって上級生が作ったものを否定してしまうかもしれない。


 その不安は、なつきたちが考えていなかったものだった。


 茜はすぐに答えようとして。


 けれど、一度口を閉じた。


 軽い調子で否定しても、相手には届かないと思ったのだろう。


「なりません」


 少し間を置いてから、はっきりと言った。


「分からなかったとしたら、分かるように作れなかった私たちの責任です。皆さんが間違えるんじゃなくて、私たちの作り方に直す場所があるということです」


「本当に?」


「本当に」


 茜は頷いた。


「むしろ、分からないのに分かったふりをされる方が困ります。直す場所を見失うから」


 男子生徒は、隣の二人を見た。


 二人も小さく頷く。


「分かりました」


「ありがとうございます」


 茜が頭を下げた。


 十一組の生徒たちは静かに見守っていた。


 いつもなら、誰かの発言へすぐに反応する教室だった。


 けれど今は、余計な声を出す者はいない。


 茜が少し離れた位置へ移動する。


 紅秋が記録用紙を手に取り。


 三浦も、珍しく何も言わずにペンを構えた。


 なつきは三人の一年生を見た後、自分の両手を胸の前で組んだ。


 助けない。


 説明しない。


 困っている顔を見ても、待つ。


 分かってはいる。


 それでも身体は、すぐに動けるように少し前へ傾いていた。


「では、始めてください」


 茜の声が落ちる。


 三人の一年生は、机の上へ視線を向けた。


 最初の女子生徒が、案内用紙を持ち上げる。


 隣の女子生徒は、少し離れた場所に置かれた表示を見た。


 男子生徒は、二人の様子を確認してから、机の右端へ置かれた紙へ手を伸ばした。


 数秒。


 誰も話さなかった。


 時計の秒針が進む音が聞こえる。


 窓の外では雨が降り続いている。


 廊下を走った誰かが、教師に注意される声が遠くで響いた。


「……これって」


 最初の女子生徒が、案内用紙を指でなぞった。


「最初に、自分が何をしたいか選ぶんだよね?」


「たぶん」


 もう一人が答える。


「でも、こっちにも同じ言葉がある」


「本当だ」


「先にこっちを見るんじゃない?」


「どっちだろう」


 三人の視線が、二つの表示の間を行き来する。


 なつきの指先へ力が入った。


 説明したい。


 最初は左ではなく、中央。


 そこを見れば、次に選ぶ場所が分かる。


 だが、口には出さない。


 横を見ると、茜も唇を結んでいた。


 紅秋のペンが紙の上を走る。


 三浦は何か言いそうになり、自分の口元を手で押さえた。


「こっちじゃない?」


 男子生徒が、中央の表示を指した。


「上に『最初に』って書いてある」


「あ、本当だ」


「さっき見えなかった」


「文字が薄いのかな」


 紅秋のペンが止まった。


 教室の後方で見ていた生徒たちの間に、ごく小さなざわめきが走る。


 薄い。


 試作品を作っている間、何度も見てきた自分たちには、はっきり見えていた文字だった。


 最初に見る場所だと知っていたから。


 そこに書かれていると分かっていたから。


 見落とす可能性を、最後まで完全には消せていなかった。


「じゃあ、最初にここを見る」


 女子生徒が中央の表示へ指を置く。


「私がしたいのは、これだから……次は青?」


「青って、こっち?」


「うん」


「でも矢印は下向いてる」


「下に行くってこと?」


「紙の下じゃない?」


 三人は相談しながら、ゆっくりと進んでいく。


 一度、違う表示へ手を伸ばした。


 途中で戻った。


 書かれている言葉を声に出して読み、意味を確かめた。


 十一組の生徒たちは、その一つ一つを見逃さないように目で追った。


 作ったものが。


 自分たちの手を離れ。


 知らない誰かの中で、別の形になっていく。


 想定どおりに進んだ部分もある。


 思っていたより早く理解された場所もある。


 反対に、絶対に迷わないと思っていた場所で、三人が同時に止まることもあった。


「あれ?」


 二人目の女子生徒が首を傾げた。


「これ、次どこ?」


「赤じゃない?」


「でも赤は、さっき終わったよ」


「じゃあ緑?」


「緑は違うと思う」


「最初に戻る?」


 三人が、最初の表示へ視線を戻す。


 なつきの喉が動いた。


 そこは。


 昨日、最後まで意見が分かれた場所だった。


 紅秋は矢印を追加した方がいいと言った。


 三浦は、矢印が増えると逆に視線が散ると反対した。


 茜は一度保留にし。


 春樹が、矢印ではなく余白で流れを作れないかと提案した。


 最終的には、情報量を増やさないことを優先し、矢印を追加しなかった。


 何度も自分たちで確かめた。


 十一組の別の生徒にも見てもらった。


 全員、進むことができた。


 けれど。


 それは一度、全体の目的を聞いた後だった。


 目の前の三人は聞いていない。


「……分かりません」


 最初の女子生徒が顔を上げた。


 申し訳なさそうな声だった。


 その表情を見た瞬間。


 なつきは一歩だけ前へ出かけた。


 その袖を。


 隣にいた紅秋が、そっとつかんだ。


 強く引いたわけではない。


 ただ、そこにいると伝える程度の力だった。


 なつきは紅秋を見る。


 紅秋は試作品を見たまま、小さく首を横へ振った。


 なつきは唇を結び。


 前へ傾いていた身体を戻した。


「ありがとうございます」


 茜が一年生へ言った。


「今、どこまでは分かりましたか?」


「ここまでは来られました」


 女子生徒が途中の表示を指す。


「その後、赤を見るのかなと思ったんですけど、赤は一回見たので。同じところへ戻るのか、それとも別の色へ行くのか分からなくなりました」


「戻る可能性も考えたんですね」


「はい。この紙が丸く並んでるから、順番も一周するのかなって」


 茜の目が僅かに見開かれた。


 円形に近い配置。


 柔らかく見えるように。


 圧迫感を減らすために。


 それぞれの項目が独立していると伝えるために選んだ形だった。


 だが、見る人によっては。


 順番が一周するように見える。


「私は、色ごとに別の人が使うのかと思いました」


 二人目の女子生徒も言った。


「だから、自分の色だけ追えばいいのかなって。でも途中で色が変わったから、違うのかなって」


「僕は、色に意味はないと思いました」


 男子生徒が続ける。


「見やすくするために変えてるだけだと思って。だから文字だけ読んでました」


 三人とも。


 同じものを見ていた。


 けれど、受け取った意味は違っていた。


 なつきたちは、誰もすぐに言葉を返せなかった。


 色を分けた理由。


 形を選んだ理由。


 文字の大きさを変えた理由。


 作った側には、すべて意味がある。


 けれど、見た側がその意味を同じように受け取るとは限らない。


 むしろ。


 意味を持たせたことで、別の意味が生まれていた。


「すごいね」


 なつきが呟いた。


 声を出してから、説明しない約束を思い出し、慌てて口元を押さえる。


 一年生の三人が顔を上げた。


「ご、ごめんなさい。答えじゃないから」


 なつきは両手を振った。


「皆さんがすごいなと思って。同じものなのに、こんなに違って見えるんだって」


「俺たち、間違ってました?」


 男子生徒が尋ねる。


「違うよ」


 なつきはすぐに答えた。


 今度は、茜も止めなかった。


「間違ってない。たぶん、どれもそう見えるんだと思う。私たちは作ってる間に、これが何の色で、どっちへ進むか覚えちゃったから。皆さんみたいには、もう見られなくなってた」


 言いながら。


 なつき自身が、その意味をゆっくりと受け取っていた。


 初見の人を見る。


 分からない人を想像する。


 これまで何度も使ってきた言葉だった。


 けれど本当の初見は。


 想像の外側から歩いてくる。


 自分たちが考えもしなかった見方を持って。


 作ったものの前へ立つ。


「横田」


 教室の扉の方から声がした。


 なつきが振り返る。


 大國春樹が、前扉の近くに立っていた。


 図書委員の腕章を外したばかりらしく、片手に折り畳んだ腕章を持っている。雨で湿った空気の中を急いできたのか、前髪が普段より少し乱れていた。


「春樹君」


「遅くなった」


「今ね、すごいところ」


 三浦が小声で手招きする。


「どこまで進んだ?」


「途中で止まった。俺たちが通ると思ってた場所で」


 春樹は一年生たちの邪魔にならないよう、教室の壁際を通ってなつきの隣まで来た。


 机の上の試作品へ目を向ける。


 一年生の三人は、茜からもう一度、分からなくなった場所まで自由に戻っていいと伝えられ、再び表示を見比べていた。


「見え方が、みんな違ったの」


 なつきが春樹へ囁く。


「色にも、形にも、私たちが考えてなかった意味ができてた」


「うん」


「春樹君が言ってたこと、こういうことだったんだね」


「何を?」


「作る側の目と、見る側の目は違うってこと」


 春樹はすぐには返事をしなかった。


 目の前の三人を見つめる。


 それから、記録用紙へ書き込み続けている紅秋と茜。


 口を開きそうになるたびに自分で止めている三浦。


 教室のあちこちから見守る十一組の生徒たちへ、静かに視線を動かした。


「俺も、分かったつもりだっただけかもしれない」


 春樹は言った。


「え?」


「見る側を考えるって言っても、結局は作ってる俺たちが想像した『見る側』だった。本当に初めて見る人が、何を考えるかまでは決められない」


「決められないなら、どうするの?」


「聞くしかないんだと思う」


 春樹の答えは短かった。


 けれど、迷いなく置かれた言葉ではなかった。


 自分でも確かめるように、一度息を置いてから続ける。


「分かってもらえるように作る。でも、分からなかった人を責めない。想像と違う見方をされたら、その人の見方を聞く。たぶん、完成した後も」


「完成した後も?」


「うん。使われ始めたら、また違う人が見るから」


 なつきは試作品を見た。


 二週間をかけて。


 何度も作り直して。


 昨日、ようやく会議室まで運んだ。


 それでも。


 完成したら終わりではない。


 使う人が変われば。


 場所が変われば。


 周囲の状況が変われば。


 また、見え方は変わる。


「大変だね」


 なつきが言った。


「うん」


「でも」


 なつきは、一年生たちへ視線を戻した。


 先ほど分からないと言った三人は、今も試作品を見ている。


 頼まれたから形だけ確認して帰ることもできたはずだった。


 けれど、三人は互いに意見を出し合い。


 ここなら見える。


 この言葉なら分かる。


 色より番号の方がいいかもしれない。


 番号だけでは冷たい感じがする。


 矢印が一つあれば進めそう。


 ここは矢印より、「次へ」と書いた方が分かりやすい。


 自分たちの言葉で、次々に話してくれている。


「ちょっと、嬉しいかも」


 なつきが言った。


「直すところが見つかったのに?」


「うん」


「どうして?」


「使おうとしてくれてるから」


 春樹がなつきを見る。


 なつきは気づかないまま続けた。


「分からないって言って終わりじゃなくて、どうしたら分かるか一緒に考えてくれてる。私たちが作ったものなのに、もう私たちだけのものじゃないみたい」


 机を囲む一年生と。


 記録する二年生と。


 周囲から見守りながら、ときどき小声で意見を交わす十一組の生徒たち。


 その間に置かれた試作品は。


 昨日までとは違って見えた。


 教室の一角で、自分たちだけが守るように作っていたものではない。


 誰かが触れ。


 誰かが迷い。


 誰かが言葉を足したことで。


 初めて、校内を歩き始めたように見えた。


「横田」


「うん?」


「その言い方、記録しておいた方がいいかも」


「私の?」


「使う人と一緒に作り続けるってこと」


「そんな立派なこと言ったかな」


「言ってない」


 春樹は僅かに笑った。


「今のは俺がまとめた」


「じゃあ、春樹君の言葉だよ」


「元は横田」


「半分ずつ?」


「それでいい」


 二人の会話を聞いていた紅秋が、記録用紙から顔を上げた。


「何を半分にしてるの?」


「言葉」


 なつきが答える。


「お菓子かと思った」


 三浦が振り返る。


「横田ならあり得る」


「今はお菓子の話してないよ」


「今は、ってことは後でする?」


「三浦」


 茜が名前を呼ぶ。


「はい、記録に戻ります」


 一年生の三人が笑った。


 その笑いにつられ、教室の空気も再び緩む。


 最初に入ってきたときの緊張は、もう三人の顔にはほとんど残っていなかった。


「これ、もう一回最初からやってもいいですか?」


 先頭の女子生徒が尋ねる。


「もちろん」


 茜が答える。


「今度は、私たちが思った変更を、紙の上に置いてみたいです」


「変更を?」


「はい。書き込んだら駄目ですか?」


 茜は一瞬、試作品を見た。


 昨日、完成したものとして会議室へ持っていった形。


 二週間かけて、何度も修正したもの。


 教室の全員が、ようやく守りきったと思っていたもの。


 それへ。


 今日初めて見た一年生が、直接書き込もうとしている。


 茜は試作品の端へ指を触れた。


 ほんの僅かに迷う間があった。


 それから。


「お願いします」


 ペンを差し出した。


「遠慮なく書いてください」


 女子生徒は両手でペンを受け取った。


 机の上へ身を乗り出し、迷っていた場所へ小さな矢印を描く。


 男子生徒が、その矢印では別の場所を指しているように見えると言った。


 もう一人の女子生徒が、矢印の横へ短い言葉を書き足す。


 三人で少し離れて見て。


 また近づいて直す。


 その様子を見ていた田辺が立ち上がった。


「もう少し離れた位置からも見た方がいいんじゃないか」


「田辺君?」


「実際に使うとき、机の前まで来てから見るとは限らないだろ。廊下を歩きながら目に入るなら、離れたところから文字が見えるか確認した方がいい」


 一年生たちが田辺を見る。


 大柄な上級生に突然話しかけられ、少し驚いた顔をした。


 田辺はその反応に気づいたらしく、おにぎりの包装を持ったまま一歩下がった。


「……別に、近くで見るならいいけど」


「やってみます」


 男子生徒が答えた。


「廊下から見てもいいですか?」


「うん」


 田辺が扉を開ける。


 三人は一度廊下へ出て、数メートル離れた。


 教室内に残った生徒たちも、表示が見えるように机の位置を調整する。


 田辺だけではない。


 後方にいた女子生徒が、照明の反射で文字が見えにくくなる角度を指摘した。


 入口近くの男子生徒が、雨の日は傘を持ったまま見る人もいるから、片手で紙をめくらなくて済む方がいいと言った。


 カードゲームをしていた生徒たちまで席を立ち。


 一人は色の見分けにくさを。


 一人は文字数を。


 もう一人は、急いでいるときにどこまで読めるかを話し始めた。


「待って、待って」


 紅秋が声を上げた。


「一気に言われると記録できない。一人ずつ」


「じゃあ、発言する人は手を挙げよう」


 茜が言う。


「委員長、これ昼休み中に終わる?」


 三浦が聞く。


「終わらない」


「即答」


「午後も使う。先生には私から相談する」


「ラボ延長?」


 三浦の目が輝く。


「勝手に名前をつけないで」


「十一組ラボ第二期」


「採用前の修正」


「十一組ラボ・リターンズ」


「却下」


「十一組ラボ、新たなる初見」


「三浦君」


 なつきが呼ぶ。


「うん?」


「今、たぶん、みんな本気で考え始めたから」


 なつきは笑っていた。


 けれど、その声は不思議と教室の奥まで届いた。


「名前を考えるの、あとにしよう」


 三浦は周囲を見た。


 一年生たちは廊下から表示を確認し。


 田辺は机を少しずつ動かし。


 紅秋は増えていく意見を、必死に分類している。


 茜は教卓の上から追加の紙と付箋を取り出し。


 春樹は窓から入る光の反射を確かめるため、表示の角度を変えていた。


 十一組の生徒たちも。


 昼休みが終わりに近づいていることを忘れたように、机の周囲へ集まっている。


「……了解」


 三浦は素直に頷いた。


「名前は、終わってからにする」


「考えること自体はやめないんだ」


 紅秋が呆れる。


「そこは俺の役割だから」


「誰が決めたの?」


「俺」


「一番弱い決定ね」


 教室に笑いが起きる。


 その笑いの向こうで。


 昼休み終了五分前を知らせる予鈴が鳴った。


 廊下にいた生徒たちが、それぞれの教室へ戻り始める。


 十一組の前を通る者たちは、開いた扉の内側に集まる人の多さへ気づき、歩きながら中を覗き込んでいった。


「何してるの?」


「十一組ラボじゃない?」


「まだやってたの?」


「昨日、終わったって聞いたけど」


「終わってないみたい」


「一年生もいる」


 そんな声が廊下を流れていく。


 なつきは、その言葉を聞いて。


 机の上に置かれた試作品へ目を向けた。


 昨日。


 会議室へ運び込んだとき。


 これで一つの区切りだと思っていた。


 採用されれば成功。


 戻されれば修正。


 そういう、分かりやすい終わりが来るのだと思っていた。


 けれど実際には。


 採用へ近づいたからこそ、新しい迷いが見つかった。


 誰かに使ってもらおうとしたからこそ、自分たちだけでは分からなかったことが教室へ運ばれてきた。


 終わらなかったのではない。


 続けられる場所まで来たのだ。


「なつき」


 茜が呼んだ。


「一年生の三人を、午後の休み時間にも案内できるか確認してもらっていい?」


「うん」


「無理なら、放課後に別の形で意見を聞く。授業を優先してもらうことも伝えて」


「分かった」


 なつきは三人のもとへ歩き出した。


 その途中。


 春樹の横を通る。


「春樹君」


「うん?」


「昨日まで、私たちがこれを会議室へ運んでたでしょう?」


「うん」


「今日は、向こうから来たね」


「向こう?」


「見る人の考えが」


 春樹は、廊下に立つ一年生たちを見た。


 それから教室内に増えていく付箋と。


 試作品へ新しく書き加えられた矢印へ目を向ける。


「そうだね」


「歩いて来た」


「三人で?」


「うん。廊下を歩いて」


 なつきは嬉しそうに笑った。


 春樹も、小さく笑う。


「じゃあ、ちゃんと迎えないと」


「うん」


 なつきは頷き。


 一年生たちのところへ向かった。


 窓の外では、まだ雨が降っている。


 灰色の空。


 濡れた校庭。


 閉じられた窓の向こうに重なる雨粒。


 校舎の中に残された昼休みは、もうすぐ終わる。


 それでも十一組の教室では。


 昨日まで完成品だったものが。


 もう一度、試作品へ戻っていた。


 誰かに壊されたのではない。


 誰かと一緒に。


 もう少し遠くまで届く形へ変わるために。


 机の上には、新しい付箋が一枚置かれた。


 そこには、紅秋の整った字で。


 短い言葉が記されていた。


『使用する人の見方を、完成後も聞き続ける』


 その下へ。


 三浦が小さく付け足す。


『十一組ラボは、終わった後が長い』


 紅秋はそれを見て、すぐに消そうとした。


 だが。


 一度だけ手を止めた。


「……まあ」


 小さく息を吐く。


「今日だけは、残してもいいか」


 その呟きを聞いた三浦が、声を上げそうになる。


 茜となつきが同時に彼を見る。


 三浦は自分で口を押さえた。


 そして。


 声を出さないまま。


 両手で大きく、勝利の印を作った。

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