第160話 春樹君から先に届いた言葉は、待っていなかったのに嬉しかった
春樹から一緒に帰ろうと誘われた日の帰り道は、昨日までと同じ道を歩いているはずなのに、なつきには少しだけ違って見えた。
校門を出た後の歩道。
信号の手前にある小さな植え込み。
夕方になると、自転車で通り過ぎる生徒が増える交差点。
いつもなら、なつきが春樹の歩幅へ合わせているのか、春樹がなつきへ合わせているのか、あまり考えたことはなかった。
今日は、隣にいることそのものを何度も意識した。
春樹が自分から誘った。
なつきの席まで来た。
帰ろうと言った。
その事実が、言葉として胸の中へ残っている。
「横田さん」
春樹が隣から呼ぶ。
「何?」
「前を見てください」
「見てるよ」
「今、僕を見ていました」
「春樹君も、私を見たでしょう」
「横田さんが何度もこちらを見るので」
「嬉しいから」
なつきが迷わず答えると、春樹は少しだけ視線を前へ戻した。
夕方の光が、春樹の耳の端を赤く見せる。
「何回目?」
「何がですか?」
「今日、耳が赤くなったの」
「数えていません」
「私は多分、三回」
「何を数えているんですか」
「春樹君が照れた回数」
「照れているとは限りません」
「暑い?」
「それもあります」
「今日はそんなに暑くないよ」
なつきは空を見上げた。
昼間より雲が増え、陽射しは柔らかくなっている。風も少し冷たく、歩き続けても汗ばむほどではなかった。
「じゃあ、照れてる?」
「横田さん」
「何?」
「確認が多いです」
「必要な確認」
「今日は何回目ですか?」
「分からない」
「減らす話は、やはり難しそうですね」
「でも、春樹君も毎回答えてくれる」
「答えないと、また聞くと思うので」
「嫌?」
春樹は、少しだけ考えた。
「嫌ではありません」
「よかった」
「ただ」
「ただ?」
「横田さんが、同じ答えでも安心できるようになれば、回数は減るかもしれません」
なつきは、しばらく春樹の横顔を見る。
「同じ答えでも?」
「はい。僕の気持ちが、急に変わったわけではないと分かれば」
「でも、春樹君の答え、少しずつ増えてる」
「それは」
「最初は、作業しやすいから隣がいいって言った。次は安心するって言った。今日は顔を見たいって言った」
「覚えているんですね」
「嬉しかった言葉は、覚えてる」
春樹は、すぐには何も言わなかった。
なつきの言葉は、時々あまりにも真っ直ぐで、受け取るまでに時間が必要になる。
嬉しかった言葉。
自分が言ったことを、なつきは覚えている。
その事実を知ると、言葉を口にすることが以前より少し怖く、同時に少し嬉しくなる。
何気なく言ったことまで残るかもしれない。
けれど、大切に選んだ言葉も残る。
「僕も」
春樹はゆっくり言った。
「横田さんが言ったことを、覚えています」
「何を?」
「待っていたこと」
「うん」
「僕が来ると嬉しいこと」
「うん」
「話したい時は、まとまっていなくても来ていいこと」
なつきの表情が、少しずつ明るくなる。
「全部覚えてる?」
「はい」
「じゃあ、また来る?」
「努力します」
「約束じゃない」
「まだ慣れていないので」
「でも、今日はできた」
「はい」
「次も、できるかもしれない」
「そうですね」
「できなかったら?」
「次の日に、もう一度考えます」
なつきは嬉しそうに頷いた。
「それ、十一組ラボと同じだね」
「何がですか?」
「一回でできなくても、失敗じゃない」
「はい」
「次に変えられる」
「はい」
「春樹君も、選び直し期間?」
「僕を試作品のように言わないでください」
「でも、まだ変われるでしょう」
「人は、ずっと変わるものだと思います」
「じゃあ、期間はずっと?」
「そうかもしれません」
「私も?」
「はい」
「茜ちゃんも?」
「おそらく」
「三浦君も?」
春樹は少し考えた。
「宿題を忘れなくなれば」
「そこ?」
「今日も忘れかけていました」
「でも、帰ったら先にやるって言ってた」
「本当にやれば、変わったことになります」
「明日、聞いてみよう」
「確認するんですか?」
「必要な確認」
二人は同時に少し笑った。
帰り道の途中で、いつもの別れ道へ着く。
昨日は、ここで「また後で」と言った。
その後、春樹から本の感想が届いた。
今日は、夜に連絡する約束をしていない。
十一組ラボのことを話してもいい。
帰宅したことを伝えてもいい。
けれど、何も送らなくても不自然ではない。
なつきは、そのことへ気づいた瞬間、少しだけ立ち止まった。
「横田さん?」
「何でもない」
「何か考えていますか?」
「今日、連絡する約束してないなって」
「はい」
「春樹君、送る?」
聞いた直後。
なつきは、少しだけ後悔した。
自分から来てほしいと頼んだばかりなのに。
連絡まで先に聞けば、春樹が自分で決める前に答えを求めることになる。
「ごめん」
「何がですか?」
「今の、聞かない方がよかった」
「どうしてですか?」
「春樹君が送りたい時に送ってほしかったから」
春樹は、なつきの顔を見る。
「聞かれたので、送りたくなくなるわけではありません」
「本当?」
「はい」
「じゃあ、送る?」
「今、決めなければいけませんか?」
「決めなくていい」
なつきはすぐに答えた。
「来たら嬉しい。でも、来なくても明日会える」
「はい」
「だから、春樹君が送りたいと思ったら送って」
「分かりました」
「待ってる、とは言わない方がいい?」
「言われても困りません」
「でも、待たないでいる」
「どういう意味ですか?」
「端末をずっと見ない」
「それが普通だと思います」
「でも、通知が鳴ったらすぐ見るかも」
「それも普通では」
「春樹君からだったら、すぐ見たい」
春樹はまた少しだけ視線を下げた。
「では」
「うん」
「送るかもしれません」
「かもしれない?」
「はい」
「分かった」
なつきは笑った。
「待ってないけど、来たら嬉しい」
「矛盾していませんか?」
「待つって決めてないだけ。嬉しいのは決まってる」
春樹は、その言葉を頭の中で一度整理した。
返事を求められているわけではない。
送ることを約束したわけでもない。
それでも、送れば喜んでもらえる。
「また明日」
春樹が言う。
「うん。また明日」
「気をつけて帰ってください」
「春樹君も」
二人は別々の道へ進む。
なつきは、今日はすぐに振り返らなかった。
春樹から来てほしい。
そう思うなら、自分が先に全部確かめない時間も必要なのかもしれない。
十歩ほど歩いてから、そっと振り返る。
春樹は、少し先で同じように振り返ったところだった。
目が合う。
どちらが先かは分からない。
二人は小さく手を上げ、今度こそ互いの帰り道へ戻った。
帰宅後。
なつきは制服から着替え、鞄の中身を机へ出した。
明日提出するものはない。
今日の授業で分からなかったところへ印をつけ、少しだけ教科書を読み返す。
十一組ラボの記録板も開く。
説明なしの組。
図だけの組。
質問まで読んだ組。
最初に選んだ部品と、試した後に残した部品。
自分の記録には、何人かの手の動きと、選び直すまでの時間を書いていた。
全部選んだ生徒は、使い始めてすぐに端末支えを外した。
何も選ばなかった生徒は、後から印を足した。
仕切りを選んだ生徒は、高さを変えた。
最初に選んだものが、そのまま最後まで残るとは限らない。
けれど、最初に選んだからこそ、何が違うか分かることもある。
「春樹君も」
なつきは小さく呟いた。
待つ側から、来る側へ。
最初から来られたわけではない。
なつきが頼んだ。
春樹が考えた。
そして今日、試した。
次は、約束がなくても来るかもしれない。
話題がまとまっていなくても来るかもしれない。
顔を見たいという理由だけで、席まで来る日があるかもしれない。
そこまで考えたところで、机の上に置いたスマートフォンが震えた。
なつきの肩が小さく跳ねる。
時計を見る。
まだ七時を少し過ぎたばかりだった。
家族からの連絡かもしれない。
クラスの連絡グループかもしれない。
十一組ラボの件で、紅秋から来たのかもしれない。
待っていない。
そう決めた。
それでも、画面を開く手は早かった。
表示された名前は。
大國春樹。
なつきは一度、息を止める。
すぐに文章を開いた。
『こんばんは。
先ほど帰宅しました。
今日は、横田さんの席まで行くことができてよかったです。
来る前は、作業の話だけをすればいいと思っていました。
でも、横田さんが待っていたと言ってくれたので、自分から行ったことにも意味があったのだと思いました。
また話したいことがある時は、行ってみます。
今日は一緒に帰れて嬉しかったです』
なつきは、最初から最後まで一度読んだ。
そして、すぐにもう一度読んだ。
昨夜の本の感想より短い。
けれど、今日の文章は、本を通さずに春樹自身のことが書かれている。
席まで行けてよかった。
自分から行ったことに意味があった。
また行ってみる。
一緒に帰れて嬉しかった。
なつきは、端末を両手で持ったまま、椅子の背へゆっくり寄りかかった。
胸の奥が、何度も温かくなる。
約束していなかった。
送ってと頼んでいない。
送るかもしれないとは言っていた。
それでも、春樹は自分で考えて、自分から送った。
「来た」
小さく声にする。
「春樹君から、先に来た」
連絡を待っていたわけではない。
少なくとも、昨夜のように時計を見てはいなかった。
何時までに来るかも決めていない。
だからこそ、画面へ春樹の名前が出た瞬間の嬉しさは、昨日と少し違っていた。
待っていた言葉が来た嬉しさではない。
待っていなかったところへ、春樹が自分から置いてくれた言葉。
なつきは返信欄を開いた。
『こんばんは。
春樹君から先に連絡が来て、すごく嬉しかった。
今日は送る約束してなかったから、来ると思ってなかった。
でも、来たら嬉しいって言ったことを覚えててくれたのかなって思った。
私も、春樹君が席まで来てくれて嬉しかった。
一緒に帰ろうって言ってくれたのも嬉しかった。
次も、話したい時に来てね。
話すことがまとまってなくても待つよ』
そこまで書き、なつきは一度読み返した。
嬉しかった、が何度も入っている。
少し多いかもしれない。
けれど、どれも違う嬉しさだった。
連絡が来たこと。
席まで来たこと。
一緒に帰ろうと言われたこと。
一つにまとめる必要はない。
なつきは、そのまま送信した。
既読がつくまで、机の上へ端末を置く。
昨日は画面を見つめ続けた。
今日は、一度視線をノートへ戻す。
春樹は考える。
すぐに返事が来なくても、不安にならなくていい。
そう思っていたが、端末は一分もしないうちに震えた。
『覚えていました。
横田さんが、来たら嬉しいと言っていたことも、連絡が来たら嬉しいと言っていたことも覚えています。
ただ、送る内容がまとまるまで少し考えました。
話す時も、同じように考えてから行くと思います』
なつきは笑った。
『来てから考えてもいいよ』
『沈黙が長くなるかもしれません』
『待つ』
『横田さんは、途中で別の話を始めるかもしれません』
『それはあるかも』
『僕が考えていたことを忘れる可能性があります』
『じゃあ、メモしてきて』
『それでは、まとまってから行くことになります』
なつきは、画面を見ながら声を出して笑った。
春樹も、いつもより返事が早い。
文章が短いためだろうか。
それとも、今日自分から席へ来たことで、連絡でも少し話しやすくなったのだろうか。
『半分だけ考えて、残りは私のところで考える』
『半分の基準が分かりません』
『春樹君が、今なら行けると思った時』
少し間が空く。
春樹が考えている。
なつきは、今度は端末を見たまま待った。
『分かりました。
全部まとまっていなくても、行けると思った時に行きます』
『約束?』
『努力します』
『今日と同じ』
『必ずできるとは限らないので』
『できなかったら?』
『次に選び直します』
なつきの指が止まる。
春樹が、自分からその言葉を使った。
今日の十一組ラボで何度も話したこと。
最初に合わなくても、失敗ではない。
違うと分かったら、次に選び直す。
『春樹君、十一組ラボみたい』
『横田さんが、何度も僕を試作品のように言うからです』
『嫌だった?』
『少し違います』
『どう違う?』
春樹の返事は、今度は少し時間が掛かった。
『試作品は、使う人に合わせて形を変えます。
僕が変わる時は、横田さんに合わせるだけではなく、自分がそうしたいと思った時もあるからです』
なつきは、その文章をゆっくり読む。
自分がそうしたいと思った時。
春樹は、なつきに頼まれたから席へ来ただけではない。
来てみてよかったと思った。
また行ってみたいと思った。
今日、連絡を送ったのも。
なつきが嬉しいと言ったからだけではなく、春樹自身が送りたいと思ったからなのだろう。
『今日の連絡も?』
なつきは送る。
『何がですか?』
『私が来たら嬉しいって言ったからだけじゃなくて、春樹君が送りたいと思った?』
既読がつく。
少し長い沈黙。
なつきは、胸の前で端末を持つ。
聞きすぎただろうか。
でも、知りたい。
頼まれたからではなく。
春樹自身が望んでくれたのか。
やがて、返事が届いた。
『はい。
今日、自分から横田さんの席へ行けたことを、横田さんに伝えたくなりました。
一緒に帰れて嬉しかったことも、伝えたいと思いました』
なつきの目が、少し熱くなる。
泣くほどのことではない。
悲しいわけでもない。
ただ、胸の中に広がる嬉しさが大きくて、どこへ置けばいいのか分からない。
春樹が伝えたいと思った。
自分へ。
学校の外でも。
頼まれていないのに。
なつきは、返信欄へ何度か文字を打った。
消す。
また打つ。
春樹へ分かるように、今の気持ちをまとめたい。
けれど、うまくまとまらない。
それでも送っていいと、自分が春樹へ言ったばかりだった。
『春樹君。
今、すごく嬉しい。
うまくまとまらないけど、春樹君が自分から伝えたいと思ってくれたことが嬉しい。
私に言いたいって思ってくれたことが嬉しい。
今日、席まで来てくれた時より、今もっと嬉しくなった』
送信する。
春樹の返事は、すぐには来なかった。
なつきは、待つ。
今、春樹が何度も読み返しているかもしれない。
どう答えるか考えているかもしれない。
学校なら、春樹の赤くなった耳が見えた。
少し伏せた目も。
答えを探す間の呼吸も。
今は見えない。
けれど、それを想像する時間も、昨日より不安ではない。
数分後。
短い文章が届いた。
『伝えてよかったです』
なつきは、その一文を何度も読む。
春樹も、送ってよかったと思った。
なら次も。
また伝えたいと思ってくれるかもしれない。
『また送ってね』
『はい』
『約束?』
『送りたいと思った時に送ります』
なつきは一瞬だけ口を尖らせ、その後で笑った。
春樹らしい。
毎日送るとは約束しない。
必ずとは言わない。
けれど、送りたいと思った時には送る。
それは、言われたから送るより嬉しいかもしれない。
『分かった。
毎日じゃなくてもいい。
春樹君が伝えたいって思った時に送って』
『横田さんも』
『私も?』
『伝えたいと思った時に送ってください』
『多いかも』
『時間は守ってください』
『十時まで』
『はい』
『授業中は送らない』
『はい』
『すぐ返事がなくても待つ』
『はい』
『でも、嬉しい時は何回も送るかも』
春樹の返事が少し遅れる。
『分けすぎないでください』
『何通まで?』
『内容によります』
『三通?』
『決めなくて大丈夫です』
『春樹君、少し慣れたね』
『何にですか?』
『私の話が途中で増えること』
『まだ増えると思っているので』
『知ってるんだ』
『知っています』
なつきは、声を抑えながら笑った。
しばらく、今日の選択試験についても話す。
裏返せる印。
斜めの仕切り。
仮選択期間。
部品をなくさないための管理方法。
春樹は、先生へ見せる資料に必要な部分を文章でまとめていた。
『板倉さんが、明日か明後日に先生へ見せると言っていました』
『明日になった?』
『今日の結果を入れれば、明日の放課後に確認をお願いできると思います』
『先生、どう言うかな』
『問題点は指摘されると思います』
『怒られる?』
『怒られることではありません』
『完成してないって言われる?』
『完成前の確認です』
『緊張する』
『横田さんが説明する部分もあります』
なつきの指が止まる。
『私も?』
『今日の選び直せる説明は、横田さんの言葉がきっかけです』
『板倉さんが説明すると思ってた』
『板倉さんだけに任せるのですか?』
なつきは画面を見つめる。
以前なら。
紅秋がまとめる。
春樹が正確に説明する。
茜が補足する。
自分は、聞かれたら答える。
そんな形を自然に選んでいたかもしれない。
けれど、十一組ラボは皆で作ってきた。
自分が気づいたこともある。
最初に合わなくても失敗ではない。
戻ってきてもいい。
選び直せるなら、最初の選択は少し怖くなくなる。
それは、なつき自身が先生へ伝えてもいいことだった。
『私も話す』
送る。
『はい』
『春樹君、隣にいる?』
『説明する時ですか?』
『うん』
『板倉さんが立つ位置を決めると思います』
『春樹君の隣がいい』
既読。
少し間が空く。
『僕も、横田さんの近くにいます』
『隣?』
『できるだけ』
『約束?』
『配置が分からないので、約束はできません』
『じゃあ、努力する?』
『はい』
『私も、春樹君の近くに行く』
『説明中に移動しないでください』
『始まる前に』
『それなら大丈夫です』
なつきは満足して、端末を机へ置いた。
時計を見る。
九時半を少し過ぎている。
まだ話したい。
春樹へ送られた最初の連絡について、何度でも嬉しいと言いたい。
明日の先生確認についても、もっと相談したい。
けれど、今日も終わりを決めなければならない。
全部を今夜話さなくていい。
明日も会える。
『春樹君』
『はい』
『そろそろ終わりにする』
『分かりました』
『まだ話したいけど、明日話す』
『はい。明日、聞きます』
『春樹君から来てね』
送った後。
なつきは、少しだけ考えた。
また頼んでしまった。
しかし、すぐに春樹から返事が来る。
『話したいことがあれば、行きます』
頼まれたから必ず行く、ではない。
自分が話したい時に行く。
今日の春樹らしい答えだった。
『待ってる』
『はい』
『おやすみ、春樹君。また明日』
『おやすみなさい、横田さん。また明日』
昨日と同じ終わりの言葉。
けれど、その前に積み重なった会話は違う。
なつきは端末を閉じ、机の上へ置いた。
待っていなかったのに届いた言葉。
頼んでいなかったのに、春樹が自分から伝えてくれた気持ち。
その嬉しさは、画面を閉じた後も残った。
翌朝。
なつきは、昨日と同じくらいの時間に家を出た。
空はよく晴れていた。
青い空の高いところへ薄い雲が伸び、道路脇の木々には朝の光が差している。
茜と合流すると、なつきは挨拶の直後から昨日の連絡について話し始めた。
「春樹君から来た」
「何が?」
「連絡」
「昨日も連絡したの?」
「春樹君から先に来た」
茜の歩幅が少しだけ遅くなる。
「約束してた?」
「してない」
「何て?」
「席まで行けてよかったって。一緒に帰れて嬉しかったって」
「大國君から?」
「うん」
「自分から?」
「うん」
なつきの返事は何度聞かれても嬉しそうだった。
「それは、すごいね」
「すごいでしょう」
「なつきじゃなくて、大國君がね」
「分かってる」
「返事、長くした?」
「少し」
「少し?」
「春樹君が自分から伝えたいと思ってくれたのが嬉しいって送った」
「それだけ?」
「あと、また送ってって」
「大國君は?」
「送りたいと思った時に送るって」
「毎日って約束しなかったんだ」
「うん。でも、その方がいいかも」
茜が少し驚いたようになつきを見る。
「なつきが、そう言うんだ」
「毎日来たら嬉しいよ」
「うん」
「でも、約束したから送るより、春樹君が送りたいと思って送ってくれた方が嬉しい」
「昨日の連絡がそうだったから?」
「うん」
なつきは、歩きながら端末の入った鞄へ触れる。
「待ってない時に来るの、すごく嬉しかった」
「でも、これからは待つんじゃない?」
「少しは」
「結局待つんだ」
「でも、何時までって決めない」
「端末をずっと見ない?」
「見ないようにする」
「できる?」
「努力する」
「大國君みたい」
「できなかったら選び直す」
「十一組ラボみたい」
二人は顔を見合わせて笑った。
教室へ着く。
扉の前で、なつきは昨日までより短い時間だけ足を止めた。
春樹がいる。
おそらく待っている。
そして今日は。
春樹が自分から来るかもしれない。
なつきは扉を開けた。
教室の中には、すでに何人かの生徒がいた。
紅秋は机で昨日の記録をまとめている。
三浦は、自分の席で珍しく教科書を開いていた。
圭がその横へ立ち、何かを確認している。
「本当に宿題やったんだ」
「朝、聞こうと思ってた」
なつきが言うと、三浦が顔を上げる。
「帰ってすぐやった」
「成長したね」
「俺も選び直した」
「何を?」
「十一組ラボの案を先に考える生活から、宿題を先にやる生活へ」
「一日だけじゃ分からないよ」
圭が言う。
「続ける」
「約束?」
「努力する」
なつきが笑う。
「春樹君と同じ」
「俺も大國に近づいてる?」
「そこは違うと思う」
茜が答え、周囲に笑いが広がる。
なつきは春樹の席を見る。
春樹は、いつものように本を開いていた。
ただし、扉が開いた時から、こちらを見ている。
目が合う。
なつきは、自分から春樹の席へ行こうとして。
一歩だけ進んだところで、止まった。
春樹が本を閉じた。
席を立つ。
こちらへ歩いてくる。
昨日より迷いが短い。
なつきの笑顔が、少しずつ大きくなる。
「おはようございます、横田さん」
「おはよう、春樹君」
「昨日は」
春樹は一度、言葉を整える。
「連絡を返してくれて、ありがとうございました」
「春樹君から送ってくれて、ありがとう」
「はい」
「今日も来てくれた」
「話したいことがあったので」
「何?」
「昨日の先生確認についてです」
なつきの顔に、少しだけ残念そうなものが浮かぶ。
春樹はそれに気づいた。
「それだけではありません」
「ほかにもある?」
「横田さんが来るところを見て」
春樹は、少しだけ視線を下げる。
「昨日、嬉しかったと言っていたので、今日も自分から行こうと思いました」
なつきの表情が、一瞬で明るくなる。
「昨日より早かった」
「はい」
「緊張した?」
「少し」
「でも来た?」
「はい」
「来てよかった?」
春樹は、なつきの笑顔を見る。
「はい」
「私も、来てくれて嬉しい」
「分かりました」
「昨日より、少し慣れた?」
「まだ二回目です」
「三回目もある?」
「話したい時に」
「顔を見たい時も?」
春樹は、周囲を一度見た。
三浦が教科書を開いたまま、完全に手を止めている。
圭がその肩を小さく叩く。
紅秋と茜は、すでに会話を聞いているが、何も言わない。
「はい」
春樹は答えた。
「顔を見たい時も、行きます」
なつきは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙は、答えに困ったからではない。
嬉しさを、すぐに次の言葉で流したくなかった。
「待ってる」
なつきが言う。
「はい」
「でも、私からも行く」
「知っています」
「今日も?」
「はい」
「じゃあ、どっちが先か分からないね」
「そうですね」
「途中で会うかも」
「同じ教室なので」
「席と席の真ん中で」
春樹は、その場面を想像したように、少しだけ笑った。
「その時は、そこで話しましょう」
「うん」
二人の会話が落ち着いたところで、紅秋が資料を持って近づいてきた。
「今日の放課後、先生に確認をお願いできることになった」
「今日?」
なつきが聞き返す。
「昼休みに一度、資料を見せる。先生の時間が取れれば、放課後に試作品も見てもらう」
「誰が説明する?」
三浦が尋ねる。
「私が全体を説明する。大國君が試験結果。横田さんが、選び直せる仕組みについて」
「私、本当に話すんだ」
「昨日、話すって言ったでしょう」
「言った」
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
「遠山さんは説明書。圭君は端末支え。三浦君は仕切り」
三浦が胸を張る。
「俺の斜め仕切り」
「採用決定ではないからね」
「でも、先生へ見せる」
「比較案として」
「十分」
なつきは資料を受け取り、自分が話す部分を見る。
『最初に合わなくても、失敗ではない』
『試用後も部品を変更できる』
『迷った時や変えたい時は、十一組ラボへ戻れる』
昨日、自分が口にした言葉が、説明用の資料へ整えられている。
「緊張する」
なつきが言う。
「横田さんでも、緊張するんですね」
春樹が少し驚いたように尋ねる。
「するよ」
「普段は、思ったことをすぐ話します」
「先生に説明するのは違う」
「何がですか?」
「ちゃんと伝えないといけない」
「途中で別の話へ行かないように?」
「それも」
「では、順番を決めましょう」
「春樹君、手伝ってくれる?」
「はい」
「隣で?」
「できるだけ」
「今は約束できない?」
「先生へ説明する位置によります」
「じゃあ、近くにいて」
「はい」
「私が止まったら?」
「資料の次の行を指します」
「言葉が出なかったら?」
「待ちます」
「長くなったら?」
「必要なら、僕が補足します」
「春樹君らしい」
「悪い意味ですか?」
「安心する意味」
なつきは資料を両手で持ち、春樹の隣へ立ったまま読み始めた。
「最初に選んだ部品が合わなくても、それは失敗ではありません」
「少し速いです」
「速い?」
「はい。最初の一文なので、もう少しゆっくり」
「もう一回」
なつきは深く息を吸う。
「最初に選んだ部品が、使ってみて合わなかったとしても。それは、失敗ではありません」
「今の方が伝わります」
「次」
「はい」
「使う前には分からなかったことが、使ったから分かったということです」
「いいと思います」
「春樹君、先生みたい」
「確認しているだけです」
「褒めてくれる?」
「今の部分は、分かりやすかったです」
「嬉しい」
「では、続けてください」
春樹の声は、普段より少し柔らかかった。
教室後方で、三浦が圭へ小声で言う。
「大國、横田専用の先生みたいになってない?」
「聞こえるよ」
「褒めて伸ばしてる」
「三浦も練習したら?」
「俺は本番に強い」
紅秋が斜め仕切りを持ち上げる。
「じゃあ、今説明して」
三浦の表情が止まる。
「今?」
「本番に強いんでしょう」
「準備は必要」
「さっき大國君が、横田さんとやってたよ」
「俺にも誰かついて」
「圭君」
「俺?」
圭が困った顔をする。
「三浦君が話を逸らしたら戻して」
「普段と同じだね」
「いつもの役目」
三浦は不満そうにしながらも、仕切りを持って説明を始める。
教室のあちこちで、放課後の確認へ向けた小さな練習が始まった。
紅秋は全体の流れ。
茜は説明書。
圭は端末支え。
三浦は斜め仕切り。
なつきは選び直せる仕組み。
春樹は、試験結果の違いを整理する。
十一組ラボが始まった頃。
ここまで多くの生徒が役割を持ち、先生へ説明する日が来るとは、誰も考えていなかった。
最初は、使いにくい机の上を少し変えようとしただけだった。
作ってみる。
失敗する。
別の案を試す。
誰かが意見を言う。
また変える。
その繰り返しが、少しずつクラス全体の活動へ広がっていった。
なつきは資料を読みながら、途中で一度顔を上げた。
隣に春樹がいる。
春樹は、自分の資料へ視線を落としている。
昨日までなら、なつきが来るのを待っていた人。
今朝は、自分からなつきのところへ来た。
昨夜は、自分から連絡を送った。
大きく変わったわけではない。
考えてから話す。
言葉を選ぶ。
約束できないことは、努力すると伝える。
その春樹らしさは、何も失われていない。
ただ。
待つだけではなくなった。
伝えたい時に、伝える方法を選べるようになった。
それは、十一組ラボの台座と同じだった。
基本の形は残っている。
そこへ、必要なものが一つ増えた。
使ってみて、合えば残す。
違えば、また変える。
完成とは、変わらなくなることではない。
今の自分たちに合う形を、一度決めること。
その後も、必要なら変えていい。
なつきは資料の最後の行を見る。
『迷った時や、変えてみたい時は、十一組ラボへ来てください』
「春樹君」
「はい」
「これ、先生に言う時も好きかも」
「最後の文ですか?」
「うん。来てくださいって」
「相談してください、より入りやすいと話しました」
「春樹君も、来てって言われた方が来やすい」
「はい」
「でも、いつか言われなくても来る?」
春樹は、朝の教室でなつきのところへ来た自分を思い返す。
昨日は約束があった。
今日は、なつきが喜ぶと知っていた。
次は。
何も言われなくても、話したいと思った時に席を立てるだろうか。
「そうなりたいです」
春樹は答えた。
「なれるよ」
「なぜですか?」
「二回できたから」
「二回で決めるんですか?」
「最初は一回だった」
「はい」
「一回が二回になった。なら、三回もあるかもしれない」
「横田さんらしい考え方ですね」
「悪い意味?」
「いい意味です」
「じゃあ、春樹君もできる」
「努力します」
「私も、先生に説明する」
「はい」
「途中で間違えても?」
「言い直せます」
「止まっても?」
「待ちます」
「ちゃんと伝わらなかったら?」
「別の言葉で説明します」
「選び直せる?」
「はい」
春樹は静かに頷いた。
「言葉も、一度で伝わらなければ選び直せます」
なつきの表情が、少しずつ柔らかくなる。
「それなら、怖くないかも」
「緊張はすると思います」
「春樹君が近くにいるから大丈夫」
「僕も緊張するかもしれません」
「じゃあ、私も近くにいる」
「はい」
二人は、互いの資料を持ったまま頷いた。
朝のホームルームを知らせる予鈴が鳴る。
生徒たちが自分の席へ戻っていく。
紅秋は資料を一度まとめ、昼休みまでに直す部分を確認した。
「これで、先生に見せる」
「今日、形になるかな」
三浦が尋ねる。
「許可が出れば、次の材料を使える」
「完成?」
「まだ」
「また完成しない」
「でも、先生へ見せられるところまでは来た」
紅秋は棚に並ぶ試作品を見る。
「一つの区切りだよ」
なつきも、その言葉を聞きながら棚へ視線を向けた。
一つの区切り。
最後ではない。
ここまでやってきたことを、一度誰かへ見せる。
その後で、また変えるかもしれない。
先生から問題を指摘されるかもしれない。
作り直す部品もあるだろう。
それでも、ここまで来たことは消えない。
春樹が自分から席へ来たことも。
昨夜、自分から連絡を送ったことも。
今日、顔を見たい時にも行くと答えたことも。
一度できたことは、二人の間へ残る。
次にできなかった日があっても。
また選び直せる。
なつきは自分の席へ戻る。
春樹も後ろの席へ向かう。
途中。
二人は、机と机の間で一度だけ足を止めた。
なつきの席へ行く春樹。
春樹の席へ行こうとするなつき。
今日は、ちょうど真ん中で向かい合った。
「途中で会った」
なつきが笑う。
「はい」
「さっき話した通り」
「偶然です」
「でも、嬉しい」
「僕もです」
短い言葉を交わし、二人はそれぞれの席へ戻る。
教室の真ん中。
どちらか一方だけが歩いたのではない場所。
互いに近づいた結果として出会った場所。
そこには、名前も印もない。
けれど二人にとっては。
待つことと、会いに行くことの間に新しく生まれた、小さな選択肢のようだった。




