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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第159話 待つだけだった春樹君が、私の席まで来てくれました


 午後の授業が終わる少し前から、教室の空気には、朝とは違う落ち着かなさが混ざっていた。


 窓の外では、午後の陽射しが校庭の砂を白く照らしている。運動部の生徒たちが準備を始める姿が遠くに見え、校舎の廊下からは、別のクラスが一足先に授業を終えたらしい椅子の音と足音が聞こえてきた。


 二年十一組では、黒板の前に立つ教師が、今日の授業内容を最後まで説明していた。


「ここは次回、続きから確認する。今日のうちに分からないところへ印をつけておけよ」


 生徒たちが返事をする。


 なつきもノートへ最後の一文を書き写した。


 ただ、その視線は何度か、後ろの席へ向かいそうになっていた。


 振り返らなくても、春樹がそこにいることは分かっている。


 昼休みの最後。


 なつきは、春樹へ言った。


 話したい時は、私のところへ来てね。


 春樹は、分かりましたと答えた。


 約束です、とも言った。


 それから午後の授業中。


 春樹は一度も、なつきの席へ来ていない。


 当然だった。


 授業中なのだから。


 それでも、なつきの胸の中には、授業が終わったら春樹が自分のところへ来るかもしれない、という期待が残っていた。


 十一組ラボの作業がある。


 放課後の選択試験もある。


 春樹が声を掛ける理由はいくらでもある。


 けれど、なつきが待っているのは、作業のためだけの声ではなかった。


 話したいから来る。


 その言葉を、春樹が本当に行動へ変えてくれるのか。


 考えるたび、教師の声が少し遠くなる。


「横田」


 突然名前を呼ばれ、なつきは肩を揺らした。


「はい」


「今の説明、聞いてたか?」


「聞いてました」


「じゃあ、次回の最初に何を確認する?」


 なつきは黒板を見る。


 書かれている文字。


 ノートへ写した内容。


 茜が横で、何も言わずに最後の行を指差した。


「今日分からなかったところを、最初に確認します」


「そうだ。印をつけるだけで終わるなよ。自分で調べて、それでも分からなければ聞け」


「はい」


 教師は頷き、再び黒板へ向き直った。


 なつきは小さく息を吐く。


 茜が声を抑えて言った。


「危なかったね」


「聞いてたよ」


「半分くらいでしょう」


「春樹君が来るかなって考えてた」


「授業中には来ないよ」


「終わった後」


「約束したから?」


「うん」


「来なかったら?」


 なつきの手が止まる。


「来ないかな」


「大國君は、話したいだけで席を立つことに慣れてないから」


「でも、約束した」


「今日すぐできるとは限らないよ」


「じゃあ、待った方がいい?」


「少しは」


 茜は前を向いたまま続ける。


「なつきだって、同じことを何度も聞かないようにするって言ったでしょう」


「必要な時は聞いていい」


「来てほしいって、もう伝えたよね」


「うん」


「なら、次は大國君が動く番かも」


 なつきは、膝の上で指を組んだ。


 待つ。


 春樹が考える時間を待つ。


 春樹が自分から来られるようになるまで待つ。


 それは、これまでにも少しずつ覚えてきたことだった。


 ただ、待つことに慣れたわけではない。


 すぐに知りたい。


 今、何を考えているのか。


 約束を覚えているのか。


 来たいと思っているのか。


 聞けば、春樹は答えてくれる。


 けれど今日は、聞く前に来てほしい。


 なつきは、もう一度ノートへ視線を戻した。


 やがて、授業終了の鐘が鳴る。


 教師が教科書を閉じた。


「今日はここまで。提出物がある者は教卓へ置いてから帰れ」


 号令が終わる。


 教室の中が一斉に動いた。


 部活動へ向かう生徒たちは鞄を持ち、急いで廊下へ出ていく。昨日の選択試験へ参加する予定の者たちは、後方の十一組ラボへ視線を向けながら、自分の机を片づけ始めた。


 三浦は鞄の中から、昨日とは違う形の段ボールを二枚取り出した。


「見てくれ」


「何?」


 圭が覗き込む。


「仕切りの高さを変えた」


 一枚は、昨日までのものより少し低い。


 もう一枚は、逆に上部が斜めに切られていた。


「どっちが新しい案?」


「両方」


「家で作ったの?」


「昨日、段ボール探した」


「宿題より先に?」


「宿題の話は終わっただろ」


「今日の宿題は?」


「まだ出てない」


「出たよ」


 三浦の顔が止まる。


 圭が教室前方の黒板を指差す。


 端には、教師が書いた課題の範囲が残っていた。


「今、書く」


「消される前にね」


 三浦は慌ててノートを開いた。


 周囲から笑い声が起こる。


 紅秋は、その騒ぎを横目に見ながら、昼休みに作った説明用の紙を机へ並べていた。


「今日の参加者、名前を確認するよ」


 その声に、残る生徒たちが後方へ集まり始める。


 なつきは自分の席へ座ったまま、机の中へ教科書をしまった。


 すぐに十一組ラボへ向かってもいい。


 いつもなら、紅秋の声が聞こえた時点で立ち上がっている。


 けれど今日は、少しだけ待った。


 春樹が来るかもしれない。


 自分から声を掛けるのではなく、春樹が席を立つのを待つ。


 鞄の中を確認するふりをしながら、なつきは耳を澄ませた。


 椅子を引く音。


 話し声。


 机の間を歩く足音。


 どれが春樹なのかは分からない。


「なつき」


 茜が隣で呼ぶ。


「何?」


「行かないの?」


「少し待ってる」


「何を?」


「春樹君」


 茜は後ろを見る。


 春樹は自分の席に座り、ノートと記録用紙を見比べている。


「まだ何か書いてるよ」


「来ないかな」


「作業が始まったら、どちらにしても後ろへ来るよ」


「それだと、私のところに来たことにならない」


「厳しいね」


「話したい時に来てって言ったから」


「作業の話をしに来るのは?」


「それも嬉しいけど」


「けど?」


「春樹君から、私に話したいことがあって来てほしい」


 茜は少しだけ目を細めた。


「それ、大國君に伝えた?」


「話したい時に来てって言った」


「今の全部は?」


「言ってない」


「なら、大國君は作業の時に行けば約束を守ったと思うかも」


 なつきは考える。


 確かに、春樹は言葉をそのまま受け取る。


 曖昧な部分を、自分に都合よく広げたりはしない。


 なつきが「話したい時に来て」と言ったから、話したいことがある時に来る。


 今、春樹に個人的な話題がなければ、席へ来ないのも不思議ではない。


「じゃあ、私が何を待ってるか、分からない?」


「たぶんね」


「言った方がいい?」


「今日は待つんでしょう」


「うん」


「なら、少しだけ待ってみたら?」


 茜が自分の鞄を持ち上げる。


「私は先に行くね」


「一人にするの?」


「教室に人はいるよ」


「そうじゃなくて」


「大國君が来やすいように」


 茜は小さく笑い、教室後方へ向かった。


 なつきは席へ残る。


 春樹も、まだ動かない。


 時計を見る。


 授業終了から二分ほどしか経っていない。


 それなのに、長く感じる。


 待つと言っても、どのくらい待てばいいのか分からない。


 五分。


 十分。


 作業が始まるまで。


 なつきは机の上へ手を置き、指先を見つめた。


 後ろでは、紅秋が参加者の組分けを始めている。


「説明なしの組は三人。図だけを見る組も三人。質問まで読む組は四人」


「俺は?」


 三浦が尋ねる。


「三浦君は試験する側」


「選ぶ側もやりたい」


「昨日から何回も部品を見てるから、初めて選ぶ試験には向かない」


「経験者枠?」


「そう」


「何か格好いいな」


「都合よく受け取らないで」


 教室の後方から笑いが起こる。


 なつきは振り返りたくなった。


 十一組ラボが始まっている。


 自分も行かなければならない。


 けれど、春樹がまだ来ていない。


 もしかすると、すでに後方へ向かっているのだろうか。


 そう思い、そっと後ろを見る。


 春樹は席にいなかった。


 なつきの胸が小さく跳ねる。


 教室後方を見る。


 紅秋の横にはいない。


 三浦たちの近くにもいない。


「横田さん」


 すぐ近くから声がした。


 なつきは驚いて前へ向き直った。


 春樹が、自分の机の横に立っている。


 記録用紙を一枚持ち、少し緊張したような表情でこちらを見ていた。


「春樹君」


「はい」


「来た」


「来ました」


「いつからいたの?」


「今です」


「後ろ見てた」


「横田さんが後ろを見た時、ちょうど席を立ちました」


「すれ違ったんだ」


「同じ教室なので、すれ違ったとは言わないと思います」


「でも、見えなかった」


「はい」


 なつきは春樹を見上げる。


 春樹の手にある記録用紙。


 作業のために来たのかもしれない。


 それでも、春樹が自分の席まで来てくれた。


「何か話すことある?」


 なつきが尋ねる。


 春樹は、すぐには答えなかった。


 手元の紙を見る。


「選択試験の記録方法について」


「やっぱり作業?」


「それもあります」


「それも?」


 春樹は少しだけ息を吸った。


「昼休みに、横田さんが言ったことを考えていました」


「私が?」


「僕から来てくれたら嬉しい、と」


 なつきの顔が明るくなる。


「覚えてた?」


「覚えています」


「それで来たの?」


「はい」


「話したいことがあった?」


「来る前に考えました」


「何を?」


「横田さんが、待っているかもしれないと思いました」


 なつきの胸の奥へ、ゆっくり温かいものが広がる。


「待ってたよ」


「そうですか」


「すごく」


「すごく、ですか」


「うん。茜ちゃんに、少し待ってみたらって言われた」


「遠山さんは?」


「春樹君が来やすいように、先に行った」


 春樹が教室後方を見る。


 茜は紅秋の横で資料を並べている。


 こちらへ露骨に視線は向けていない。


 それでも、春樹となつきが話していることには気づいているだろう。


「横田さん」


「うん」


「待たせて、すみません」


「謝らなくていいよ」


「すぐに来た方がよかったですか?」


「早く来てくれたら、もっと早く嬉しかった」


「では、遅かったですか?」


「遅くない」


 なつきは少し考えてから言い直す。


「待ってた時間も、嫌じゃなかった」


「どうしてですか?」


「春樹君が来てくれるかもって考えてたから」


「来なかったら?」


「少し寂しかったと思う」


 春樹の表情が固くなる。


「やはり、早く来た方が」


「でも来たでしょう」


「はい」


「だから、今は嬉しい」


 なつきは真っ直ぐ春樹を見た。


「春樹君が、自分から私の席まで来てくれた」


「約束しましたから」


「約束がなかったら、来なかった?」


 春樹は言葉を止める。


 以前の自分なら。


 作業の確認がなければ、なつきの席へ行かなかったかもしれない。


 話したいと思っても、理由がないと考えていた。


 しかし今は、なつきが待っているかもしれないと思った。


 そのこと自体が、席を立つ理由になった。


「今日は」


 春樹は慎重に答える。


「約束があったから、来ようと思えました」


「うん」


「でも、来てみたら」


「来てみたら?」


「横田さんが嬉しそうなので、来てよかったと思いました」


 なつきの笑顔が、さらに大きくなる。


「じゃあ、次は約束がなくても来られる?」


「すぐには分かりません」


「考える?」


「はい」


「でも、来たいって思ったら来て」


「分かりました」


「私が待ってるか分からなくても」


「はい」


「話したいことが、まとまってなくても」


 春樹は少しだけ眉を寄せる。


「それは難しいです」


「私、まとまってないまま行くよ」


「知っています」


「また言った」


「事実です」


 なつきは笑った。


「じゃあ、春樹君も一回やってみて」


「まとまっていないまま話すことをですか?」


「うん」


「横田さんのように?」


「私より少しだけまとまっててもいい」


「基準が分かりません」


「来てから考える」


「それでは、横田さんを長く待たせるかもしれません」


「待つよ」


「どのくらいですか?」


「春樹君が考え終わるまで」


 春樹は、なつきの言葉を静かに受け取った。


 自分の席で考えるのではなく。


 なつきの近くへ来てから、考えてもいい。


 沈黙ができても。


 すぐに言葉が出なくても。


 なつきは、そこにいて待つ。


「分かりました」


 春樹は小さく頷く。


「次は、もう少し早く来ます」


「約束?」


「努力します」


「約束じゃないんだ」


「必ずできるか分からないことを、約束にはできません」


「春樹君らしい」


「悪い意味ですか?」


「いい意味」


「そうですか」


「でも、努力するって言ってくれたのも嬉しい」


 春樹の表情が、少しだけ緩む。


 後方から紅秋の声が届いた。


「二人とも、そろそろ始めるよ」


「今行く」


 なつきが答える。


 椅子から立ち上がり、春樹の横へ並ぶ。


「一緒に行く?」


「はい」


「今度は、春樹君が迎えに来たみたい」


「迎えに来たわけでは」


「でも、私の席まで来た」


「はい」


「一緒に行く」


「はい」


 二人は並んで教室後方へ向かった。


 茜が、その姿を見る。


「来たね」


 なつきへ小さく言う。


「うん」


「待ってよかった?」


「よかった」


「大國君は?」


 春樹が尋ねられ、少し戸惑う。


「何がですか?」


「自分から行って」


「緊張しました」


「それでも行けた?」


「はい」


「なら、よかったね」


「はい」


 春樹は、静かに頷いた。


 教室後方には、選択試験の準備が整っていた。


 三つの机が横に並ぶ。


 一つ目には、説明のない基本台座と追加部品。


 二つ目には、簡単な図だけを置く。


 三つ目には、図と三つの質問、そして選び直せることを書いた説明書を置く。


 少し離れた場所には、一度選んだ後で試すための机が並べられている。


「今日は、最初に選んでもらうところから見ます」


 紅秋が参加者へ説明する。


「正解はありません。自分が使いやすそうだと思うものを選んでください」


「選んだ後、変えてもいい?」


 一人の男子生徒が尋ねる。


「使う前は、そのまま。一度使った後なら変えていい」


「最初に間違えたら?」


 別の女子生徒が聞く。


 紅秋は、昼休みに作った紙を指差した。


「間違いではないよ。使う前に分かることと、使った後に分かることは違うから」


「でも、変える人が多かったら、説明が悪いってこと?」


「その可能性もあるし、使わないと分からないものなのかもしれない」


「どっちかを見る試験?」


「そう」


 参加者たちが頷く。


 紅秋は三つの組へ分け、選択を始めさせた。


 説明のない組。


 目の前には、基本台座。


 左右につけられる仕切り。


 青と黄色の角印。


 二種類の端末支え。


 参加者たちは、部品を手に取りながら考える。


「これ、何に使うの?」


 一人が端末支えを持ち上げる。


「今は説明しない」


 紅秋が答える。


「形を見て選ぶの?」


「そう」


「分からないものは選ばなくていい?」


「自分で決めて」


 参加者たちは顔を見合わせる。


 一人は、全部の部品を基本台座の横へ置いた。


「全部?」


 三浦が思わず尋ねる。


「質問しないで」


 紅秋に止められる。


 別の一人は、仕切りだけを選ぶ。


 もう一人は、何も選ばなかった。


「どうして何もつけない?」


 試験前の質問として、春樹が尋ねる。


「何に使うか分からないから。分からないものをつけると邪魔かもしれない」


「全部選んだ人は?」


「あとで使えるかもしれないから」


 三浦が小さく頷く。


「分かる」


「三浦君は黙って記録して」


「はい」


 図だけを見る組では、反応が少し違った。


『場所を決めたい時』


『物を分けたい時』


『端末を立てたい時』


 短い言葉と図を見た参加者は、自分の机の使い方を思い出しながら選び始める。


「私は印」


「仕切りじゃなくて?」


「物を分けたいわけじゃなくて、筆箱を戻す場所が欲しい」


「私は端末支えも」


「大きさ、どっち?」


「分からない」


「実際に置く?」


「今は選ぶだけだから、端末の大きさ見せてもらえる?」


 そこで迷いが生まれる。


 図だけでは、二種類の支えの違いが分からない。


 参加者は、細い支えと広い支えを何度も見比べた。


「小さい端末なら細い方?」


「たぶん」


「ケースが厚いから、広い方かな」


「高さは同じ?」


「少し違う」


 紅秋が、その会話を細かく記録する。


 質問まで読む組では、さらに選び方が変わった。


「机の上の物の場所が決まっている方が落ち着きますか」


 一人が声に出して読む。


「私は、はい」


「じゃあ印?」


「隣の物が見えない方が集中できますか。これは、いいえ」


「なら仕切りはなし」


「端末は使う?」


「授業による」


「必要な時だけつけられるんだよね」


「そう書いてある」


 参加者たちは、説明書を読みながら、自分に必要な部品を絞っていく。


 すべてを選ぶ者はいなかった。


 何も選ばない者も少なかった。


 ただ、一人の女子生徒が、質問を最後まで読んだ後も、迷ったように手を止めていた。


「決まらない?」


 なつきが尋ねる。


「うん」


「どこで迷ってる?」


「場所が決まってる方が落ち着く気はする。でも、印があると、そこに戻さないといけない感じがしそう」


「戻せなかったら嫌?」


「少し。自分で決めた場所なのに、守れなかったって思うかも」


 なつきは、すぐに答えなかった。


 昨日までは、印があれば場所が分かりやすいという意見を中心に考えていた。


 けれど、人によっては、印があることが新しい決まりへ見える。


 守らなければならない線。


 ずれたら直さなければならない場所。


「印を使わない方がいい?」


 なつきが尋ねる。


「でも、場所が決まってないと探す時がある」


「じゃあ、薄い印?」


「薄いと見えないかも」


「必要な時だけ見えるようにできないかな」


「どうやって?」


 なつきは角印を手に取る。


 黄色。


 青。


 どちらも台座へ貼れば、常に見える。


 春樹が隣へ来た。


「取り外せるようにしますか?」


「印を?」


「貼るのではなく、薄い板を差し込む形にする」


「使いたい時だけ?」


「はい。ただ、部品が増えます」


「なくしそう」


 女子生徒が言う。


「印の上に、透明な蓋みたいなものをつける?」


 三浦が口を挟む。


「見たくない時は閉じる」


「それだと厚くなる」


 圭が答える。


「机の上で邪魔になると思う」


「じゃあ、裏返す?」


 なつきが言う。


「印の板を裏返したら、何も書いてない面になる」


「板自体は残ります」


 春樹が考える。


「でも、線が見えなければ、決まりの感じは減るかもしれません」


「外すより、なくしにくい」


「回転させる構造が必要です」


「難しい?」


「試作品なら、テープで蝶番のようにできます」


 紅秋が会話を聞きながら近づいてくる。


「今すぐ作る?」


「選択試験の途中だけど」


「新しい意見だから、簡単な形だけ作ってみよう」


「また部品増える?」


 三浦が尋ねる。


「増やすかどうかを試すために作る」


「完成が遠くなるな」


「完成へ近づいたから、細かい違いが見えてるんだよ」


 紅秋は、材料箱から薄い板を取り出した。


 なつきと春樹が並んで作業台へ向かう。


「また一緒に作るね」


 なつきが言う。


「はい」


「春樹君から来た後だから、昨日より嬉しい」


「作業は同じです」


「でも、始まる前が違った」


「そうですね」


 春樹は薄い板を定規へ合わせる。


 なつきが切る位置へ印をつける。


「ここ?」


「もう少し内側です」


「これくらい?」


「はい」


「押さえて」


「分かりました」


 二人の指先が近づく。


 昨日までと同じ作業。


 けれど、なつきの胸には、少し前に春樹が自分の席まで来てくれたことが残っている。


 待っていた。


 春樹は来た。


 約束があったから。


 そして、なつきが嬉しそうだったから、来てよかったと言った。


 その言葉だけで、隣に立つ時間の意味が少し変わる。


「横田さん」


「うん」


「印がずれています」


「見てた?」


「作業中なので」


「私の顔じゃなくて?」


 春樹の手が止まる。


「今は、板を見ています」


「今は?」


「横田さん」


「少しだけ聞いただけ」


「印を直してください」


「はい」


 なつきが笑いながら線を引き直す。


 周囲では、選択を終えた参加者たちが、使うための机へ移動していた。


 説明なしで全部を選んだ男子生徒は、基本台座へ仕切り、印、端末支えをすべて取りつけようとしている。


「置く場所、足りない」


 本人が言った。


「全部つけるって選んだでしょう」


 三浦が答える。


「選んだけど、こんなに狭くなると思わなかった」


「何を外したい?」


 紅秋が尋ねる。


「端末支え。今日は端末使わない」


「仕切りは?」


「最初は欲しいと思ったけど、筆箱を置いたら邪魔」


「印は?」


「場所が分かるから残す」


 全部を選んだ者は、一度使っただけで二つを外した。


 一方、何も選ばなかった生徒は、基本台座だけで教科書と筆箱を使い始める。


 最初の数分は問題なかった。


 しかし消しゴムを使い、定規を出し、筆箱を動かした後。


「どこに戻すか迷う」


「何が必要そう?」


 茜が尋ねる。


「仕切りほどじゃない。印が欲しい」


「最初に何も選ばなかったのは?」


「分からないものをつけたくなかった。でも、使ってからなら分かる」


「説明があっても、最初は選ばなかったと思う?」


「たぶん。自分が困るか分からなかったから」


 紅秋が記録する。


 説明だけで分かる人。


 使ってみなければ分からない人。


 何も説明されないと、すべて選ぶ人。


 逆に、何も選ばない人。


 同じ台座を使うとしても、選び方は大きく違った。


「説明書だけで、全部決めてもらうのは無理だね」


 圭が言う。


「そうだね」


 紅秋が頷く。


「でも、説明があると不要なものを減らせる人は多い」


「じゃあ、説明して、一度使って、変える?」


 なつきが作業台から戻りながら尋ねる。


「その流れがよさそう」


「最初に完成形を決めなくていい?」


「仮の選択にする」


「仮?」


「まず選ぶ。でも、一週間は試用期間。使った後で、何度でも部品を変えられる」


「一週間後に決定?」


「決定と言っても、その後に変えられないわけじゃない。でも、一度記録する区切りは必要だから」


「最初の一週間は選び直し期間」


 三浦が言う。


「名前つける?」


「作戦名?」


「何でも作戦名にしないで」


 茜が止める。


「でも、試用期間って固くない?」


「お試し週間」


 なつきが言う。


「そのままだね」


 圭が笑う。


「分かりやすいよ」


「十一組ラボ選び直し週間」


「長い」


「何度でも変えていい七日間」


「広告みたい」


 三浦が次々に案を出し、周囲が笑う。


 紅秋は少し考えてから、記録用紙へ書いた。


「仮選択期間、でいいと思う」


「固い」


 三浦が言う。


「先生へ出す資料はこれ。クラスへ説明する時は、お試し期間でもいい」


「両方使う?」


「相手に合わせて」


 なつきが言った。


 紅秋が顔を上げる。


「昼休みの話、覚えてたんだ」


「うん。同じ内容でも、伝え方は変えていい」


「そうだね」


「先生には仮選択期間。三浦君には、お試し期間」


「俺だけ?」


「三浦君は固い言葉を読まないから」


「読むよ」


「朝の宿題は?」


「それは文字の問題じゃない」


 教室に笑いが広がる。


 試験は続く。


 図だけを見て仕切りを選んだ女子生徒は、使い始めてすぐに高さが気になると言った。


「隣の物は見えなくていい。でも、相手の顔まで見えにくい」


「低い仕切りに変える?」


 なつきが尋ねる。


「試したい」


 三浦が持ってきた低い段ボール仕切りへ交換する。


 今度は机の上の物だけが隠れ、隣に座った相手の顔は見える。


「こっちの方がいい」


「斜めの方は?」


 三浦がもう一枚を差し込む。


 手元側は低く、奥へ向かうほど高くなっている。


「物は見えにくい。でも、手を伸ばすところは邪魔にならない」


「話す時は?」


 圭が隣の席へ座る。


「顔は見える」


「三浦君の案、使えるかも」


 なつきが言う。


 三浦の顔が明るくなる。


「本当?」


「斜めの仕切り」


「俺、昨日から考えた」


「宿題より先に」


「その話はもういい」


 参加者たちも、三浦の仕切りを順番に試す。


「高い方が落ち着く」


「私は斜め」


「低い方で十分」


 意見はまた分かれた。


「仕切りも三種類?」


 茜が尋ねる。


「増えすぎない?」


 紅秋が紙を見る。


「高い、低い、斜め」


「高い仕切りが必要な人は少ないかも」


 圭が記録を数える。


「今日の参加者だと一人」


「斜めは?」


「四人」


「低いのは三人」


「仕切りなしもいる」


 三浦が腕を組む。


「全部残したら四種類」


「仕切りなしは基本台座だから、部品としては三種類」


「それでも多い?」


「端末支えが二種類、印が二色」


「組み合わせが増える」


「でも、全部の人が全部から選ぶわけじゃない」


 なつきが言った。


「仕切りが必要な人だけ、三種類から選ぶ」


「端末を使う人だけ、支えを二種類から選ぶ」


 春樹が続ける。


「選択肢を一度に見せない?」


 紅秋が尋ねる。


「最初に、何が必要かを決める。その後で、必要な部品の種類を選ぶ」


「段階を分けるんだ」


 茜が頷く。


「最初から全部並べると多く見えるけど、必要なものだけなら少ない」


「一つ目は、仕切りが必要か」


「必要なら、高い、低い、斜めを試す」


「印が必要なら、色を試す」


「端末支えも、実際に置く」


 三浦が納得したように頷く。


「説明書も、一枚に全部書かなくていいな」


「それも段階を分ける」


「最初に必要なもの。次に種類」


「試した後に、選び直す」


 紅秋は新しい流れを紙へ書いていく。


 一、普段の使い方を思い出す。


 二、必要な機能を選ぶ。


 三、必要な部品だけ試す。


 四、数日使う。


 五、合わなければ変える。


「五番があるの、いいね」


 なつきが言う。


「最後に戻れる」


「戻るというより、続き」


 春樹が答える。


「選び直すことも、使う過程の一つです」


「最初に決めて終わりじゃない」


「はい」


 なつきは、春樹の言葉を聞きながら、先ほど彼が自分の席まで来たことを思い出した。


 春樹は、これまで待つ側だった。


 なつきが行く。


 春樹が待つ。


 それが、二人の自然な形になっていた。


 けれど今日。


 春樹は、自分から席を立った。


 最初からそうできたわけではない。


 なつきが来てほしいと伝えた。


 春樹が考えた。


 そして、一度試してみた。


「春樹君」


「はい」


「今日、私の席に来たのも、選び直したの?」


 突然尋ねられ、春樹は少し驚く。


「何をですか?」


「待つ方から、来る方へ」


 周囲の何人かが、また二人へ視線を向ける。


 春樹は、すぐには答えなかった。


「選び直したというより」


「うん」


「別の方法も試した、に近いです」


「来る方は、どうだった?」


「緊張しました」


「使いにくかった?」


「人を部品のように聞かないでください」


「でも、試した感想」


 春樹は少しだけ困った後、なつきの表情を見る。


 自分が来た時。


 なつきは、分かりやすいほど嬉しそうに笑った。


 待っていたと言った。


 来てくれたから、今は嬉しいと言った。


「悪くありませんでした」


「それだけ?」


「次も」


 春樹は、一度言葉を止めた。


「話したいことがあれば、行ってみようと思います」


 なつきの目が輝く。


「本当?」


「はい」


「何もなくても?」


「何もない時に行く理由が」


「顔を見たい時」


 春樹の言葉が止まる。


 教室後方の空気も、わずかに止まった。


 三浦がまた口元を押さえる。


 圭は、もう止める必要もないと考えたのか、黙って二人を見ていた。


「私」


 なつきは続ける。


「春樹君の顔を見たい時、春樹君のところへ行ってるよ」


「毎回ですか?」


「話したい時もある。聞きたい時もある。近くにいたい時もある」


「近くに」


「うん」


 なつきは、当然のことのように答えた。


「春樹君も、私の顔を見たい時は来ていいよ」


 春樹は、返事を急がなかった。


 なつきの言葉は真っ直ぐすぎる。


 それをそのまま受け取ると、自分の中にあるものまで見えてしまいそうになる。


 今朝。


 なつきの髪を見た。


 昼休み。


 なつきが笑う顔を見たいと思った。


 先ほど、自分の席からなつきの後ろ姿を見ていた時。


 待っているかもしれないと思った。


 それだけではない。


 振り返ってほしいとも思った。


「あります」


 春樹が小さく言った。


「何が?」


「横田さんの顔を見たいと思う時」


 なつきは、息を止めたように動きを止める。


 春樹も、言った後で視線を下げた。


「いつ?」


 なつきが尋ねる。


「今ですか?」


「今も?」


「今も、見ています」


 なつきの頬が赤くなる。


 春樹自身も、耳まで赤くなっていた。


「じゃあ」


 なつきは少しだけ声を小さくする。


「何もなくても、来ていいね」


「はい」


「顔を見たいから、でいい」


「はい」


「私も行く」


「はい」


 二人の間へ、短い沈黙が落ちる。


 今度の沈黙は、言葉に困っただけではなかった。


 互いに、今聞いたことを胸の中へ置くための時間だった。


 三浦が小声で圭へ言う。


「見守るって、すごいな」


「何が?」


「黙ってるだけで、話がどんどん進む」


「三浦が口を出さないからじゃない?」


「俺、今すごく役に立ってる?」


「たぶん、今までで一番」


「褒められてる気がしない」


 周囲から小さな笑いが起こり、止まっていた空気がまた動き始めた。


 紅秋は記録用紙を持ち直す。


「二人の確認が終わったなら、試験の続きに戻るよ」


「終わった」


 なつきが答える。


 春樹も、少し遅れて頷く。


「はい」


 新しく作った、裏返せる角印を先ほどの女子生徒へ渡す。


 薄い板の片面には黄色い角。


 反対側は無地。


 小さなテープで片側を固定し、めくるように裏返せる。


「使いたい時だけ、印を見せられる」


 なつきが説明する。


「戻さなくてもいい時は、裏返していい?」


「うん」


「決まりじゃなくて、助けが欲しい時だけ使える?」


「そう」


 女子生徒は、実際に筆箱を置いて試した。


 最初は印を見せる。


 使った物を戻す時には、角の間へ筆箱を置く。


 その後、印を裏返す。


 無地の板だけが残り、場所を示す線は見えなくなる。


「これ、いいかも」


「厚さは気になる?」


「少し。でも、筆箱の下に入るから、そんなに」


「毎回裏返すのは面倒?」


「ずっと場所を決めたい時は、そのままでいい。決まりっぽく感じた時だけ消せるなら安心する」


「安心」


 なつきがその言葉を繰り返す。


「使いやすい、じゃなくて?」


「使いやすいのもある。でも、守れなかった時に消せるって思える方が大きい」


 紅秋が記録する。


 機能だけではない。


 見えること。


 消せること。


 戻せること。


 自分で選べること。


 それらが、使う人の安心へつながっている。


「全部を便利にするだけじゃないんだね」


 なつきが言う。


「気持ちの負担も減らす?」


 春樹が答える。


「決まりがあると安心する人もいます。決まりがあると苦しくなる人もいます」


「同じ印なのに」


「使う人によって、意味が違います」


「じゃあ、変えられる形にしたのは正解だった?」


「少なくとも、固定するよりは多くの人が使えます」


「でも、選ぶのが大変」


「だから、試せる場所と期間が必要です」


「十一組ラボに戻ってこられる」


「はい」


 試験が終わる頃には、窓の外の陽射しが少し傾いていた。


 参加者たちは、自分が最初に選んだ部品と、最後に残した部品を紙へ書く。


 説明なしで全部を選んだ者は、印だけを残した。


 何も選ばなかった者も、最後には印を選んだ。


 図だけで仕切りを選んだ者は、斜めの仕切りへ変えた。


 質問を読んでも迷っていた者は、裏返せる印を選んだ。


 最初と最後が同じ者もいる。


 変わった者もいる。


 何度も変えた者もいる。


「変えた回数、多いと悪い?」


 一人の生徒が尋ねた。


「悪くないよ」


 紅秋が答える。


「自分に合うものを探した回数だから」


「最初から合ってた人の方が、選ぶの上手い?」


「そうとは限らない」


 春樹が言う。


「偶然合っていた可能性もあります。使い方が変われば、後で違うと感じることもあります」


「じゃあ、今合ってても、また変えていい?」


「はい」


「いつまで?」


 紅秋が説明書を指差す。


「最初の一週間は、毎日でも変更できるようにする。その後も、十一組ラボへ持ってくれば変えられるようにしたい」


「壊れた時も?」


「もちろん」


「なくした時は?」


「部品の管理方法を考える必要があるね」


 三浦が手を挙げる。


「部品に番号つける」


「誰の番号?」


「使う人」


「貸し出し記録が必要になる」


「箱を分ける?」


「印は小さいからなくなりそう」


「袋に入れる?」


 試験が終わっても、次の課題が次々に出てくる。


 紅秋は全部をその場で決めようとせず、意見だけを記録していった。


「今日はここまでにする」


「溝は?」


 三浦がすぐに尋ねる。


「斜めの仕切りで試したでしょう」


「固定部分」


「明日」


「忘れない?」


「覚えてる」


「言ってほしかった」


「何度言わせるの?」


 周囲から笑いが起こる。


 三浦は満足そうに段ボールを持ち上げた。


「じゃあ、明日」


「宿題も忘れないで」


 圭が言う。


「帰ったら先にやる」


「本当に?」


「今日は十一組ラボの案より先」


「成長したね」


「俺も選び直せるから」


 三浦の言葉に、また笑いが広がった。


 片づけが始まる。


 部品を分ける者。


 記録用紙を集める者。


 机を戻す者。


 なつきは、裏返せる印を小さな袋へ入れていた。


 春樹は、その隣で袋に名前と日付を書く。


「今日も隣だね」


 なつきが言う。


「はい」


「春樹君から来てくれた後も、ずっと近くにいた」


「作業が同じだったので」


「それだけ?」


 春樹は、ペンを持ったままなつきを見る。


「横田さん」


「何?」


「今日は、同じことを何回聞きましたか?」


「分からない」


「減らすと言っていました」


「必要だった」


「全部ですか?」


「うん」


「なぜですか?」


「春樹君が、少しずつ違う答えをくれるから」


 春樹の手が止まる。


「違う答えですか?」


「最初は、作業しやすいから隣がいいって言った」


「はい」


「次は、安心するからって言った」


「はい」


「今日は、顔を見たい時があるって言った」


 なつきは、一つずつ大切に確かめるように口にした。


「同じことを聞いてるようでも、春樹君の中で増えてるでしょう」


 春樹は、すぐには返事をしなかった。


 なつきが同じ質問を繰り返すたび。


 自分は、前より少しだけ深いところまで答えるようになっている。


 最初から全部を言えたわけではない。


 聞かれる。


 考える。


 答える。


 その後で、自分の中にあった気持ちへ気づく。


「そうかもしれません」


 春樹は静かに認めた。


「じゃあ、また聞いていい?」


「必要なら」


「顔を見たいから来てくれたら嬉しい?」


「今、その質問ですか?」


「必要」


「どうしてですか?」


「さっきは、私が来ていいって言っただけだったから」


「僕は、横田さんの顔を見たい時があると答えました」


「来たら、私は嬉しい?」


「横田さんがですか?」


「うん」


「それは、僕が決めることでは」


「春樹君は、嬉しいと思って来てくれる?」


 春樹は、なつきの言葉を頭の中で整理する。


 自分がなつきの顔を見たいと思う。


 なつきの席へ行く。


 なつきが嬉しそうにする。


 その顔を見て、自分も嬉しくなる。


「はい」


 春樹は答えた。


「横田さんが嬉しそうなら、僕も嬉しいと思います」


 なつきは、袋を持ったまま笑った。


「今日と同じだね」


「はい」


「春樹君が来た。私が嬉しかった。春樹君も来てよかったって思った」


「はい」


「じゃあ、次もできる」


「必ず同じになるとは限りません」


「違ったら、また考える」


 なつきは、今日作った説明書を指差す。


「最初に合わなくても、失敗じゃない」


 春樹は、その言葉を見た。


「そうですね」


「春樹君が来た時、私が忙しかったら?」


「後で話せるか聞きます」


「私がうまく答えられなかったら?」


「また来ます」


「本当?」


「はい」


「私も、また行く」


「知っています」


「また言った」


「もう分かっていますから」


 なつきは嬉しそうに笑った。


 片づけが終わり、教室へ残る生徒も少なくなった。


 三浦と圭は先に帰り、紅秋と茜は記録用紙を職員室へ持っていく準備をしている。


「なつき、帰る?」


 茜が尋ねる。


「うん」


「大國君も?」


「帰ります」


「今日は一緒のところまで?」


 なつきが春樹を見る。


「はい」


「じゃあ、先に行ってるね」


 茜は紅秋と一緒に教室を出る。


 なつきは鞄を持ち上げた。


 春樹も本をしまう。


 二人だけになった教室には、夕方の光が静かに差し込んでいた。


 昼間は多くの生徒が囲んでいた十一組ラボの机も、今は元の位置へ戻っている。


 棚には、今日使った部品が袋ごとに並べられていた。


 最初に選んだもの。


 最後に残したもの。


 途中で外したもの。


 それぞれが記録され、明日へ残されている。


「春樹君」


 なつきが教室の出口へ向かいながら呼ぶ。


「はい」


「今日、私の席まで来てくれたでしょう」


「はい」


「帰る時も、春樹君から言ってほしい」


「何をですか?」


「一緒に帰りましょうって」


 春樹の足が止まる。


「今からですか?」


「うん」


「もう一緒に帰る流れになっています」


「でも、言って」


「なぜですか?」


「春樹君から誘ってほしい」


 なつきは、教室の扉の前で待った。


 春樹は、少し離れた場所に立っている。


 これまでは。


 なつきが声を掛けた。


 一緒に帰るか聞いた。


 春樹が頷いた。


 今日の朝から、なつきは春樹が自分から来ることを待っている。


 席まで来た。


 話しかけた。


 次は、帰ることも自分から言ってほしいのだろう。


 春樹は鞄の持ち手を握り直した。


 言葉は難しくない。


 ただ、それを口にする意味を考えると、胸が少し落ち着かなくなる。


 一緒に帰りたい。


 自分から誘う。


 それは、作業のためではない。


 委員会の予定でもない。


 同じ道を歩きたいという、自分の希望を伝えることになる。


「横田さん」


「うん」


「一緒に帰りませんか」


 春樹は、ゆっくりと言った。


 なつきの表情が、すぐに明るくなる。


「帰る」


「はい」


「春樹君が言ってくれた」


「言ってほしいと言われたので」


「でも、言いたくなかった?」


 春樹は、一度だけ視線を落とした。


「言いたくなければ、理由を聞いたと思います」


「じゃあ、帰りたかった?」


「はい」


「私と?」


「横田さんと」


 なつきは笑った。


「私も、春樹君と帰りたかった」


 二人は教室を出る。


 廊下には、夕方の空気が流れていた。


 窓の外から運動部の掛け声が聞こえ、階段の下では、部活動へ向かう生徒たちが何人か話している。


 大きな変化ではない。


 昨日も一緒に帰った。


 今日も、同じ道を歩く。


 ただ今日は、春樹から誘った。


 待つだけだった春樹が、自分からなつきの席へ行き。


 自分から、一緒に帰ろうと伝えた。


 選んだ方法が一つ増えた。


 なつきが来るのを待つ。


 それだけではなく。


 自分から会いに行く。


 自分から声を掛ける。


 自分から、隣を選ぶ。


 まだ慣れてはいない。


 毎回できるとも限らない。


 次はまた、なつきが先に来るかもしれない。


 それでも、一度できたことは、春樹の中へ残る。


 今日の試験で選び直した部品と同じように。


 最初の方法が間違っていたわけではない。


 待つことが悪かったわけでもない。


 なつきが来てくれることは、今も嬉しい。


 ただ、それだけでは足りない時があると分かった。


 顔を見たい時。


 話したい時。


 一緒に帰りたい時。


 その気持ちを持ったまま待つのではなく、自分から近づいてもいい。


 二人は並んで階段を下りる。


 なつきは、隣を歩く春樹を何度も見た。


「横田さん」


「何?」


「さっきから見すぎです」


「春樹君が誘ってくれたから」


「歩く時は前も見てください」


「嬉しい顔、見てほしい?」


「僕がですか?」


「うん」


「もう見ました」


「いつ?」


「教室で誘った時」


「どうだった?」


 春樹は少し考えた。


「分かりやすかったです」


「嬉しそうだった?」


「はい」


「春樹君も?」


「はい」


「同じだね」


「同じです」


 二人の声が、夕方の廊下へ静かに重なる。


 最初に選んだ形が、最後の形とは限らない。


 使ってみて。


 相手の反応を見て。


 自分の気持ちを知って。


 必要なら、また選び直せる。


 待つことも。


 会いに行くことも。


 どちらか一つだけが正しいわけではない。


 なつきが来る日がある。


 春樹が行く日がある。


 二人が同時に近づいて、教室の途中で出会う日もあるかもしれない。


 そうやって、その時に合う距離を選んでいく。


 そのために必要なのは。


 最初から間違えないことではなく。


 違うと感じた時に、もう一度動けること。


 そして。


 戻ってきてもいい。


 来てくれたら嬉しい。


 そう伝え合えることだった。


 春樹が初めて自分からなつきの席へ来た日の帰り道。


 二人の距離は、昨日と同じように並んでいた。


 けれど、その隣はもう。


 なつきだけが選んだ場所ではなかった。

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