第158話 最初に選んだものが違っても、選び直せるなら怖くない
四時間目の授業が終わる少し前から、二年十一組の教室には、昼休みを待つ空気がゆっくりと広がっていた。
窓の外には薄い雲が残っていたが、朝よりも光は明るくなっている。校庭では体育の授業を終えた生徒たちが用具を片づけ、遠くから笛の音と、教師に急かされる声が聞こえていた。
教室の中では、教師が黒板へ最後の要点を書きながら、提出課題について説明している。
「今日の範囲は、次回の小テストにも出す。ノートを見直しておくように」
生徒たちは返事をしながら、少しずつ教科書を閉じる準備をしていた。
三浦は教師の視線が黒板へ向いた瞬間、机の中から弁当袋を少しだけ引き出す。
その動きに気づいた圭が、隣から肘で軽く押した。
「まだ終わってないよ」
「準備してるだけ」
「朝も同じこと言ってたよね」
「昼休みを一秒も無駄にしないため」
「さっき、宿題を一時間目の直前までやってた人が言うと説得力ないな」
「宿題と昼飯は別だろ」
三浦が小声で言い返すと、教師が振り返った。
「三浦」
「はい」
「弁当は逃げない」
「分かっています」
「なら、しまえ」
「準備だけです」
「準備も早い」
教室から笑いが起こる。
三浦は仕方なく弁当袋を机の中へ押し戻した。
その少し前の席で、なつきはノートを閉じながら、教室後方へ視線を向けた。
昼休みには、十一組ラボのまとめがある。
昨日決まった基本台座。
必要に応じて追加する仕切り。
物の場所を示す角の印。
大きさによって二種類に分ける端末支え。
どれを使うか、実際の使用者がどう選ぶのか。
今日の昼休みは、その説明方法を考える予定だった。
朝、春樹と一緒に三つの質問を作った。
机の上の物の場所が決まっている方が落ち着くか。
隣の物が見えない方が集中できるか。
物を取り出す時に、仕切りが邪魔だと感じるか。
最後には、一度選んだ後でも変更できると書いた。
なつきは、その一文が気に入っていた。
一度選んだ後でも、使いにくければ変更できます。
最初から正しいものを選ばなくてもいい。
使ってみて違うと分かったら、もう一度考えればいい。
その言葉があるだけで、選ぶ時の怖さが少し減る気がする。
「なつき」
茜が横から小さく呼んだ。
「何?」
「また後ろ見てる」
「昼休みのこと考えてた」
「大國君じゃなくて?」
「春樹君もいるよ」
「それは分かってる」
「朝、先に文章で送ってくれたでしょう」
なつきは声を少し落とした。
「最初は私のこと、少し苦手だったって」
「うん」
「でも、今は次に何を話すか知りたいって」
「聞いた」
「嬉しかった」
「それも見れば分かったよ」
「でも、最初は苦手だったんだね」
なつきは責めるような声ではなく、まだ少し不思議そうに言った。
「なつきも、大國君のことを本を読んでる静かな人だと思ってたんでしょう」
「うん」
「お互い、最初は見えてるところが少なかっただけじゃない?」
「春樹君も、同じようなこと言ってた。変わったんじゃなくて、見えるものが増えたって」
「それなら、いい答えだったんじゃない?」
「うん」
なつきは頷いた。
「でも、もっと見えたら、また違うと思うこともあるかな」
「あるかもしれないよ」
「嫌なところも?」
「人なんだから、全部好きなところだけってことはないでしょう」
「茜ちゃんにも?」
「あるよ」
「私の嫌なところ?」
「朝の準備が遅いところ」
「今日は早かった」
「今日だけね」
「ほかは?」
「話を聞いてる途中で、別のことを思いついて質問が増えるところ」
「春樹君にも言われた」
「でも、それで助かることもある」
「じゃあ、直さなくていい?」
「全部そのままでいいとは言ってない」
「春樹君と同じ答え」
「大國君と考え方が近くなってきたのかも」
茜が笑う。
なつきは一瞬だけ考えた後、嬉しそうにした。
「それ、いいね」
「どうして?」
「茜ちゃんと春樹君が、私のことで同じこと考えてるから」
「私たちが仲良くなったみたいに言わないで」
「仲悪いの?」
「悪くないよ」
「じゃあ、仲良い?」
「普通」
「春樹君も普通って言いそう」
「そういうところ」
茜が小さく息を吐いたところで、授業終了の鐘が鳴った。
教師が教科書を閉じる。
「それでは、今日はここまで。課題を忘れないように」
号令が終わった瞬間、教室の空気が大きく動いた。
三浦が今度こそ弁当袋を引き出し、椅子を引く。
「昼だ」
「まだ先生いるよ」
圭が言ったが、教師はすでに苦笑しながら教室を出ていった。
購買へ向かう生徒たちは、財布を手に廊下へ急ぐ。
弁当を持って友人の席へ集まる者。
部活動の打ち合わせを始める者。
窓を少し開け、教室へ風を入れる者。
昼休み特有のざわめきが一気に広がった。
「ラボのまとめ、先にする?」
なつきが紅秋へ尋ねる。
「食べながらでもいいけど、資料を汚したくない」
「じゃあ、最初に十五分だけやる?」
「みんな、それで大丈夫?」
紅秋が周囲へ声を掛ける。
春樹、茜、三浦、圭がそれぞれ頷いた。
昨日の試験へ参加していた何人かも、話を聞きたいと教室後方へ集まる。
「昼飯前に頭使うのか」
三浦が弁当袋を持ったまま言う。
「嫌なら食べてていいよ」
紅秋が答える。
「参加する」
「即答だね」
「俺の案もあるから」
今朝持ってきた仕切り用の溝の案を思い出したらしい。
三浦は弁当袋を自分の席へ置き、教室後方へ向かった。
机を二つ寄せ、その上へ資料を広げる。
昨日の試験結果。
朝、なつきと春樹が作った三つの質問。
基本台座と追加部品を描いた簡単な図。
紅秋は全員が見えるように紙の向きを整えた。
「今日決めたいのは、使う人が部品をどう選ぶか」
紅秋が話し始める。
「今までは、試験する側が条件を決めて渡してた。でも実際に使う時は、本人が仕切りや印、端末支えを選ぶことになる」
「全部欲しいって人もいるんじゃない?」
三浦が言う。
「いるかもしれない。でも、本当に必要かは分からない」
「最初から全部つけた方が得じゃない?」
「何が得なの?」
「部品が多い」
「使わない部品は邪魔になるでしょう」
「もらえるなら持っておきたい人もいる」
「それは使いやすさじゃなくて、所有欲の話だよ」
圭が言うと、周囲から笑いが起こった。
「でも、三浦君みたいな選び方をする人がいるのは考えた方がいいかも」
茜が記録用紙を見ながら言う。
「選べるものを全部選ぶ人」
「俺を例にするなよ」
「分かりやすいから」
「じゃあ、最初は一個だけ選ぶ決まりにする?」
なつきが尋ねる。
春樹がすぐに首を横へ振った。
「必要な部品が二つある人もいます」
「仕切りと端末支え?」
「はい。印と端末支えの組み合わせもあります」
「じゃあ、数は決められないね」
「必要だと思うものを選んでもらうしかありません」
「必要かどうか、どうやって分かる?」
三浦が紙を覗き込む。
「この質問に答える?」
「質問だけで決められるかを、今日試したい」
紅秋は朝に作った紙を指差した。
「まず何も説明しないで、図と部品だけ見せて選ぶ人。次に、この三つの質問を読んで選ぶ人。最後に、実際に少し使ってから選び直す人」
「三組に分ける?」
圭が尋ねる。
「昼休みだけだと時間が足りないから、昼は説明の確認だけ。放課後に実際の選択試験をする」
「今日は作るんじゃなくて、選ぶ方?」
「そう」
三浦は少し残念そうな顔をした。
「俺の溝は?」
「時間があれば後半で試す」
「忘れてない?」
「忘れてない」
「覚えてるって言ってほしかった」
三浦が春樹となつきの会話を真似るように言った。
一瞬、周囲が静かになる。
圭がゆっくり三浦を見る。
「それ、本人たちの前でやる?」
「冗談だよ」
「三浦君」
なつきが呼ぶ。
「何?」
「覚えてるって言われたい時、あるよね」
三浦は予想していた反応と違ったのか、少し言葉に詰まった。
「まあ、あるけど」
「じゃあ、板倉さんに言ってもらえば?」
「いや、今のは」
紅秋が記録用紙から顔を上げる。
「覚えてるよ。三浦君の案も、今日確認する」
三浦の表情が止まる。
今度は周囲から笑いが起きた。
「本当に言われると困るんだね」
圭が言う。
「ちょっと違うだろ」
「何が?」
「俺がやると笑いになる」
「日頃の行いじゃない?」
「ひどい」
教室後方の空気が少し和らぐ。
紅秋は話を戻すため、紙の端を指で叩いた。
「質問は、この三つで分かりやすいと思う?」
集まった生徒たちが紙を覗き込む。
一人の女子生徒が最初の質問を読む。
「机の上の物の場所が決まっている方が落ち着きますか」
「はい、いいえ、どちらでもない?」
別の男子生徒が尋ねる。
「その三つで答える形にする?」
「分からない、も必要じゃない?」
茜が言った。
「今まで考えたことがない人もいると思う」
「分からないって答えたら、部品を選べないよ」
三浦が言う。
「だから、試すんじゃない?」
なつきが答える。
「分からない人は、最初に何もつけないで使ってみる。それで落ち着かなかったら、印か仕切りを試す」
「試す順番も必要になるね」
紅秋がメモを取る。
「印と仕切り、どっちを先にする?」
「簡単な方」
圭が言った。
「印の方がつけたり外したりしやすい」
「仕切りは差し込む場所が必要です」
春樹が続ける。
「印で足りなければ仕切りを試す方が、変更の負担は少ないと思います」
「じゃあ、基本は何もなし。次に印。必要なら仕切り?」
「でも、隣が見えると集中できない人は、最初から仕切りでいいでしょう」
茜が二つ目の質問を指差す。
「だから、この質問がある」
「質問に答えられる人は、その答えで選ぶ。分からない人は試す」
紅秋が紙へ書き加える。
「だんだん説明が長くなってない?」
三浦が尋ねる。
全員が紙を見る。
最初は三つの質問だけだった。
今は、その横へ補足や分岐が増えている。
「長いね」
なつきが言う。
「選択肢を減らしたのに、説明が増えた」
「全部を一枚に書くからじゃない?」
圭が言った。
「最初に見る紙と、迷った人が見る紙を分ける」
「説明にも段階を作る?」
春樹が尋ねる。
「最初は簡単に。分からない人だけ詳しく」
「それ、使いやすいかも」
参加していた女子生徒が頷く。
「最初から全部読んでって言われたら、選ぶ前に面倒になる」
「俺は読まない」
三浦が言う。
「三浦君は読んで」
紅秋が返す。
「でも、読まない人がいる前提は必要だよね」
茜が紙を見る。
「図だけで分かるようにできないかな」
「仕切りと印の違いを、絵にする?」
なつきがペンを取った。
基本台座の上へ筆箱を置き、その四隅へ印を描く。
隣には、片側に仕切りをつけた図。
「印は、物の場所を決めたい人」
「仕切りは、物を分けたい人」
春樹が言葉を添える。
「端末支えは?」
「端末を立てたい人」
三浦が答える。
「そこはそのままだね」
「小さい用と大きい用、どう選ぶ?」
「端末を置いて比べるしかない?」
圭が自分の端末を取り出す。
「大きさだけじゃなくて、ケースの厚さもある」
「型紙を置く?」
なつきが言う。
「型紙?」
「この線より小さかったら細い支え。この線を超えたら広い支え」
「厚いケースだと?」
「横から入る幅も測る」
「測る場所が二つになるね」
「そこまで使う人にやってもらう?」
三浦が少し嫌そうな顔をする。
「俺なら、両方置いてみる」
「それが一番早いかも」
紅秋が二種類の支えを机へ並べる。
「端末は、実物を置いて選ぶ。仕切りと印は質問で考える。分からなければ試す」
「部品ごとに選び方が違うんだ」
なつきが言う。
「全部同じ方法にしようとしなくていいのかもしれません」
春樹が答える。
「同じ台座につける部品でも、役割が違います」
「無理に一つにまとめない」
「はい」
また、昨日まで何度も出てきた考え方だった。
基本は同じ。
けれど、違うところまで同じにしようとしない。
「春樹君」
「はい」
「人と話す時も、同じ方法じゃなくていい?」
「誰と話すかによって、という意味ですか?」
「うん。茜ちゃんにはすぐ聞けるけど、春樹君には待った方がいい時がある」
「僕は考える時間が必要です」
「でも、昨日からは文章でも送れる」
「はい」
「三浦君には?」
三浦が顔を上げる。
「何で俺?」
「三浦君は、待たなくてもすぐ言うでしょう」
「まあ」
「圭君が止める前に」
「そこまで早くない」
圭が首を横へ振る。
「早いよ」
「じゃあ、三浦君には先に圭君を置く?」
「俺は部品じゃない」
「でも、止める役目」
「役目にしないで」
また笑いが起こる。
紅秋は小さく笑った後、なつきへ視線を向けた。
「相手に合わせて話し方を変えるのは、悪いことじゃないと思う」
「同じ自分じゃなくなる?」
「ならないよ。伝え方を選ぶだけ」
「春樹君と話す時に待つのも?」
「なつきが大國君のことを考えて選んでるなら、なつきのままでしょう」
なつきは少し考える。
春樹を見る。
春樹も、静かになつきの言葉を待っていた。
「じゃあ、春樹君も、声で言いにくい時は文章にしていいんだね」
「はい」
「でも、ずっと文章だけは嫌かも」
春樹の表情がわずかに変わる。
「どうしてですか?」
「顔を見たいから」
なつきは迷わず答えた。
「文章も嬉しい。でも、春樹君がどんな顔で言ってるか分からない時がある」
「昨日の連絡もですか?」
「うん。嬉しいって書いてあった時、どんな顔だったのかなって考えた」
周囲の空気が、ほんの少しだけ静かになる。
三浦が口を開きかけたが、圭が無言で肩を押さえた。
紅秋は資料へ視線を戻し、茜も何も言わない。
「春樹君は?」
なつきが尋ねる。
「文章だけでいい?」
「僕も」
春樹は少し考えてから答えた。
「横田さんの表情を見たいです」
「昨日の返事の時?」
「はい」
「笑ってたよ」
「そうですか」
「春樹君は?」
春樹は答えに詰まった。
昨夜、なつきから「待っていた」「すごく嬉しかった」と届いた時。
嬉しかった。
同時に、どう返せばよいか分からず、何度も文章を打ち直した。
表情がどうなっていたかまでは、自分では分からない。
「たぶん」
春樹が慎重に言う。
「少し笑っていたと思います」
「見たかった」
「僕もです」
二人は、互いに少しだけ笑った。
その会話を聞いていた三浦が、今度は小さく息を吐く。
「何?」
圭が尋ねる。
「見守るの、思ったより大変だなって」
「黙っていればいいだけだよ」
「その黙るのが大変」
「頑張って」
「俺の成長回になってない?」
「たぶん違う」
紅秋が話を戻すように、資料の中央へ新しい紙を置いた。
「説明を二段階にする案、形にしてみるね」
一枚目。
『まず、普段の机の使い方を思い出してください』
その下に、簡単な三つの図を並べる。
何もついていない基本台座。
角の印。
仕切り。
「文章、もっと短くできない?」
なつきが尋ねる。
「図の下に一言だけにする?」
茜が紙へ書き込む。
『場所を決めたい』
『物を分けたい』
『端末を立てたい』
「これなら分かる」
三浦が言う。
「本当に?」
「俺でも読む」
「基準が三浦君になってる」
「重要だろ」
「読まない人の代表としてはね」
圭の言葉に笑いが起きる。
二枚目には、迷った時の質問を書く。
『場所が決まっている方が落ち着きますか』
『隣の物が見えない方が集中できますか』
『使ってみて邪魔だと感じた部分はありますか』
そして最後に。
『一度選んだ後でも、変更できます』
なつきは、その一文の下へ、もう一つ言葉を書き足した。
『最初に合わなくても、失敗ではありません』
紅秋がその文を見る。
「入れる?」
「うん」
「少し長くなるよ」
「でも、書いてほしい」
「どうして?」
「選んだものが違ったら、自分が間違えたって思う人がいるかもしれないから」
なつきは、自分でもその言葉を確かめるように続けた。
「最初に分からなかっただけなのに。使ってみたから、違うって分かったのに。それを失敗って思ったら、次に変えにくくなるでしょう」
教室後方に集まっていた生徒たちが、少し静かになる。
昨日の比較試験でも、最初に選んだ部品が合わなかった者はいた。
仕切りが必要だと思っていたのに、印だけで十分だった者。
端末支えが便利だと思ったのに、ノートの端が浮くことを嫌がった者。
何もつけない方がいいと思っていたが、実際には物の場所が決まらず落ち着かなかった者。
最初の判断と、使った後の判断が違う。
それは、珍しいことではない。
「いいと思う」
昨日試験へ参加した女子生徒が言った。
「私、最初は仕切りがあった方が整理できると思ったけど、実際は物を入れすぎたから」
「変えた時、失敗した感じした?」
なつきが尋ねる。
「少し。自分で選んだのに、使えなかったって思った」
「でも、その意見があったから、仕切りの高さも考え直せた」
紅秋が言う。
「使えなかったこと自体が、次の情報になった」
「それなら、失敗じゃないか」
「少なくとも、無駄ではない」
紅秋は、なつきが書いた一文へ丸をつけた。
「入れよう」
「うん」
「でも、説明する側も、それを理解してないと駄目だね」
茜が言う。
「選び直した人に、最初にちゃんと考えなかったからだ、みたいな言い方をしたら意味がない」
「誰が説明する?」
三浦が尋ねる。
「最初は私たち」
紅秋が答える。
「その後、クラスで使うなら、簡単な説明書をつける。十一組ラボへ来れば相談できることも書く」
「相談場所になるんだ」
なつきが教室後方を見回す。
材料棚。
試作品。
記録用紙。
最初は、数人で机を囲んだだけの場所だった。
今は、生徒たちが自分の意見を持ち込み、使いにくさを話し、別の案を試す場所になっている。
完成品を渡すだけではなく。
選ぶ時に迷った人が、相談できる場所。
使い始めた後で困った人が、戻ってこられる場所。
「いいね」
なつきが言った。
「何が?」
紅秋が尋ねる。
「選んだ後も来ていいところ」
「完成したら終わりじゃないって、昨日話したでしょう」
「うん。でも、使う人も終わりじゃないんだね」
「どういう意味?」
「一回選んだら、そのまま使わないといけないんじゃなくて、困ったら戻ってきていい」
なつきは紙の最後へ視線を落とす。
「戻ってきてもいいって分かれば、最初に選ぶのも怖くないかも」
春樹は、その言葉を聞きながら、少しだけ目を伏せた。
戻ってきてもいい。
一度離れた後でも。
違うと感じた後でも。
困った時に、もう一度同じ場所へ来られる。
「春樹君?」
なつきが呼ぶ。
「はい」
「何か考えてた?」
「少し」
「何を?」
春樹は、すぐには答えなかった。
周囲には人がいる。
十一組ラボの話をしている途中でもある。
それでも、今言わなければ、なつきはまた何を考えていたのか知りたがるだろう。
「横田さんは」
「うん」
「僕が、うまく話せなくて一度離れた時でも、また話しかけてくれました」
なつきは一瞬、目を丸くした。
春樹が指しているのは、これまでの何度かのすれ違いだろう。
話しかけられても、うまく返せなかった時。
なつきの言葉をすぐに受け取れず、距離を置いた時。
それでも翌日になれば、なつきはまた春樹の席へ来た。
「戻ってきたっていうより、また話したかったから」
「僕は、助かりました」
「嫌じゃなかった?」
「最初は、どう返せばよいか分からない時もありました」
「今は?」
「来てくれると、安心します」
なつきは、少しだけ笑った。
「じゃあ、春樹君も、十一組ラボみたいだね」
「どういう意味ですか?」
「一回で分からなくても、また来ていい」
「僕のところへですか?」
「うん」
春樹は返事を失った。
周囲にいた者たちも、何も言わなかった。
三浦さえ、今回は口を閉じている。
「私も」
なつきは続ける。
「春樹君が話せなかった時、もう来ないでって思わなかった。次は話せるかもしれないって思った」
「はい」
「今は、連絡もできる」
「はい」
「だから、声で言えなかったら文章でもいい。でも、あとで顔を見て話してね」
春樹は、なつきを見た。
真っ直ぐな目。
冗談ではない。
自分がうまく言葉にできないことを分かった上で、それでも離れずにいると言っている。
「分かりました」
春樹は、ゆっくり頷いた。
「横田さんも」
「私も?」
「途中で何を言いたいか分からなくなっても、話すことをやめなくて大丈夫です」
「春樹君が待つ?」
「はい」
「何回でも?」
「必要なら」
「それ、すごく多いかも」
「知っています」
春樹が静かに答えた。
周囲から、柔らかな笑いが起こる。
「知ってるんだ」
なつきも笑った。
「でも、待ってくれる?」
「はい」
「じゃあ、私も来る」
「待っています」
二人の言葉が重なる。
紅秋は、少しだけ間を置いてから資料へ視線を戻した。
「その話、説明書にそのままは書けないけど」
「書かないの?」
なつきが尋ねる。
「十一組ラボへ何度でも相談に来ていい、とは書く」
「それでいい」
「大國君も?」
春樹は小さく頷いた。
「はい」
そこから、説明書の文面を整える作業が始まった。
なつきが思いついた言葉を口にする。
春樹が、意味が伝わるよう順番を整える。
茜が、読んだ人が迷いそうな部分を指摘する。
紅秋が、全体の長さと必要な情報をまとめる。
三浦が、読まない人でも分かるかを確認する。
圭が、三浦の意見のうち本当に必要な部分を拾う。
「俺の役割、読まない人なの?」
三浦が不満そうに言う。
「読まなくても分かるかを見る人」
紅秋が訂正する。
「重要な役だな」
「調子に乗らないで」
「でも、説明書って読まない人多いだろ」
「だから図を入れる」
「俺の意見、役立ってる」
「今はね」
「その言い方、昨日から多くない?」
笑いながらも、作業は進んでいく。
最初の一枚には、大きな図を三つ。
何もつけない基本台座。
角の印。
仕切り。
端末支え。
それぞれの下へ、短い言葉を置く。
『まずは、このまま』
『場所を決めたい時』
『物を分けたい時』
『端末を立てたい時』
二枚目には、迷った人向けの質問。
最後には。
『使ってから変更できます』
『最初に合わなくても、失敗ではありません』
『迷った時は、十一組ラボへ相談してください』
「最後、相談してください、でいい?」
圭が尋ねる。
「来てください、の方がいいかな」
なつきが言う。
「相談って言われると、ちゃんと困ってないと行けない感じがする」
「少し気になるだけでも来ていい?」
参加者の一人が尋ねる。
「もちろん」
紅秋が答える。
「じゃあ、困った時だけじゃなくて、変えてみたい時も?」
「いいよ」
「壊れてなくても?」
「使いにくいなら」
「もっと良くしたいだけでも?」
「それも試験になる」
なつきは最後の文を書き直した。
『迷った時や、変えてみたい時は、十一組ラボへ来てください』
「これなら?」
春樹が読み返す。
「相談という言葉より、入りやすいと思います」
「春樹君も、来てって言われた方が来やすい?」
なつきが尋ねる。
「はい」
「相談して、だと?」
「何を相談するか、先に整理しようとします」
「やっぱり」
「横田さんは?」
「来て、って言われたら行く」
「知っています」
「それ、昨日から二回目」
「何がですか?」
「知ってるって言われたの」
「横田さんが来る人だということは、分かっています」
「嬉しい?」
春樹は、周囲を一度見た。
教室後方にいる全員が、露骨には見ていないものの、聞いていることは分かる。
それでも、春樹は逃げずに答えた。
「はい」
「私も、春樹君が待っててくれるの嬉しい」
「はい」
「そこは、はいだけ?」
「同じことを何度も聞かないようにすると、朝に言っていました」
なつきの動きが止まる。
周囲から笑いが起こる。
「覚えてたんだ」
「覚えています」
「でも、聞きたい時は聞いていいって言った」
「必要なら」
「今は必要」
「どうしてですか?」
「みんなの前でも、同じか知りたい」
春樹は少し困ったように眉を寄せた。
なつきは周囲の視線を気にしていないように見える。
だが、本当は違う。
昨日の連絡のすべては、周囲に聞かせたくないと感じた。
だからこそ今、教室で見えている春樹の気持ちが、二人だけの時と同じなのかを確かめたいのかもしれない。
「同じです」
春樹は静かに答えた。
「横田さんが来てくれると、嬉しいです」
教室後方へ、小さな沈黙が落ちる。
なつきは、少しだけ目を見開いた後、柔らかく笑った。
「よかった」
三浦が両手で口を押さえる。
圭が隣で小声で尋ねた。
「大丈夫?」
「俺、何も言ってない」
「偉いね」
「これが成長か」
「たぶん」
紅秋は、資料を重ねながら時計を見る。
「そろそろ食べないと、昼休みが終わる」
その言葉で、全員が一斉に時間を確認した。
「あと二十分しかない」
三浦が慌てて立ち上がる。
「俺の弁当」
「席に置いたでしょう」
「話しすぎた」
「途中で何度も別の話へ行ったからね」
「主に横田と大國だろ」
「三浦君も」
「俺は必要な確認」
それぞれが弁当を取りに戻る。
机を寄せる時間まではないため、今日は教室後方の机をそのまま使い、何人かで囲むことになった。
なつきは弁当箱を持って戻り、春樹の隣へ座る。
「ここでいい?」
「はい」
「今日も隣だね」
「まとめの時から隣でした」
「気づいてた?」
「はい」
「言わなかったね」
「作業中だったので」
「今は?」
「昼食中です」
「じゃあ、言って」
春樹は何を求められているのか分からず、なつきを見る。
「何をですか?」
「今日も隣で嬉しいって」
「横田さん」
「必要な確認」
三浦が口元を押さえながら笑う。
「それ、俺の言葉」
「三浦君は違うでしょう」
「何が?」
「春樹君に聞くのは必要」
「俺の溝も必要」
「後で試すよ」
紅秋が弁当箱を開けながら言う。
「忘れてない」
三浦はすぐに機嫌を直した。
春樹は小さく息を吐き、なつきへ向き直る。
「今日も隣で、よかったです」
「うん」
「横田さんは?」
「嬉しい」
「なら、同じですね」
「うん。同じ」
二人は互いに少し笑い、ようやく弁当を食べ始めた。
昼休みの残り時間は短かったが、会話は途切れなかった。
放課後に誰を選択試験へ参加させるか。
説明なしの組。
簡単な図だけを見る組。
質問まで読む組。
使った後に選び直す組。
「同じ人が全部やった方が比べられない?」
圭が尋ねる。
「一回目の経験が残るから、次の説明の効果が分からなくなる」
紅秋が答える。
「じゃあ、別の人?」
「人数が必要だね」
「今日の参加者一覧、足りる?」
「昨日より多いから、たぶん」
「誰がどの組か、本人に選ばせる?」
なつきが尋ねる。
「それも選ばせるの?」
三浦が笑う。
「試験の組まで選んだら、偏るでしょう」
茜が言う。
「何も説明されない組を、自分から選ぶ人は少ないかも」
「三浦君は?」
「俺は全部試したい」
「だから別の人」
「また俺が基準になってる」
話しているうちに、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。
全員が慌てて弁当箱を閉じる。
「食べ終わってない」
三浦が最後の一口を急いで口へ入れる。
「だから最初に食べればよかったのに」
圭が言う。
「俺の案が重要だったから」
「溝の話、ほとんどしてないよ」
「午後に期待」
机を元へ戻し、次の授業の準備をする。
なつきは自分の席へ戻る途中、説明書の紙をもう一度見た。
『最初に合わなくても、失敗ではありません』
『迷った時や、変えてみたい時は、十一組ラボへ来てください』
その二つの言葉が、紙の上へ並んでいる。
「春樹君」
なつきが後ろを振り返る。
「はい」
「あとで変えたくなっても、来ていいっていいね」
「はい」
「人のところにも、書いてあったらいいのに」
「何がですか?」
「一回話せなくても、また来ていいですって」
春樹は少しだけ考える。
「書いていなくても」
「うん」
「僕のところには、来て大丈夫です」
なつきの表情が、ゆっくりと変わる。
「本当?」
「はい」
「何回でも?」
「必要なら」
「必要じゃなくても、話したい時は?」
「来てください」
春樹は、以前より迷わず答えた。
なつきは嬉しそうに頷く。
「春樹君も来てね」
「僕がですか?」
「私のところ」
「横田さんは、いつも僕のところへ来ます」
「でも、春樹君から来てくれたら嬉しい」
春樹は、朝に自分からなつきの席へ向かったことを思い出した。
髪を気にしていると気づき、話しかけた。
それだけのことでも、なつきは嬉しそうにしていた。
「分かりました」
「来られる?」
「必要な時は」
「話したい時も」
「はい」
「約束?」
「約束です」
なつきは笑い、前へ向き直った。
午後の授業が始まる。
教師が教室へ入り、生徒たちの声が少しずつ静まっていく。
春樹は教科書を開きながら、先ほどの約束を考えていた。
これまでは、なつきが来るのを待つことが多かった。
自分から近づくには、理由が必要だと思っていた。
図書委員の確認。
十一組ラボの作業。
忘れ物。
なつきが困っているように見えた時。
何か理由があれば、席を立てる。
しかし、話したいという理由だけでもいいのかもしれない。
なつきは、そうしてほしいと言った。
自分から来てくれたら嬉しいと。
一度選んだ方法が、今の自分に合わなくなったなら、変えていい。
待つだけではなく、行くことも選べる。
一度目にうまく話せなくても。
途中で言葉を間違えても。
また話しかけていい。
なつきは、何度でも来ると言った。
自分も、何度でも行っていいと言われた。
それは、十一組ラボの説明書へ書いた言葉よりも、春樹にとって大きな安心だった。
最初に合わなくても、失敗ではない。
使ってみて、違うと分かったなら変えられる。
人との距離も。
言葉の渡し方も。
呼び方も。
まだ変えられるものがある。
春樹は、昼休みに交わした会話を思い出しながら、なつきの後ろ姿を見る。
連絡先の表示は、今も横田なつきさんのままだ。
声でも、横田さんと呼んでいる。
なつきは、連絡の時だけでも、なつきと呼んでいいと言った。
気づいた時に変えればいいとも言った。
春樹は、まだその呼び方を選んでいない。
選べないのではない。
いつ変えるのかを考えている。
最初から決めなくてもいい。
呼びたいと思った時。
呼んでもよいと自分で思えた時。
選び直せばいい。
その時に、なつきがどんな顔をするのか。
春樹は、少しだけ見てみたいと思った。
前方では、なつきが教師の説明をノートへ書きながら、一度だけ振り返った。
春樹と目が合う。
なつきは声を出さず、口元だけで何かを言った。
あとで。
そう見えた。
春樹も小さく頷く。
放課後には、選び方の試験がある。
説明を読んで選ぶ者。
使ってから変える者。
最初に選んだものが違ったと気づく者。
そこで何が起きるかは、まだ分からない。
けれど、違っても大丈夫だと、先に伝えることはできる。
選び直せる。
戻ってこられる。
もう一度話せる。
その安心があれば、最初の一歩は少しだけ軽くなる。
十一組ラボの試作品も。
なつきと春樹の距離も。
今の形が、最後ではない。
変えなくてもいい部分を残しながら。
必要になった時には、また選び直していける。
そう知った二人の間には。
昨日までより少しだけ、間違えることを怖がらずに言葉を置ける場所が生まれ始めていた。




