第157話 画面で話した翌朝は、目を合わせるまでが少し長い
翌朝。
なつきは、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
薄いカーテンの向こうから入る朝の光はまだ弱く、部屋の中には夜の静けさが少しだけ残っている。枕元へ置いていたスマートフォンの画面は消えたままで、当然ながら新しい通知も届いていなかった。
それでも、なつきは目を開けるとすぐに端末へ手を伸ばした。
時刻を確認するため。
そう思いながら画面を開き、気づけば昨夜の連絡を表示していた。
『おやすみなさい、横田さん。また明日』
春樹から最後に届いた言葉が、昨日と同じ場所へ残っている。
寝る前にも何度か読んだ。
内容は覚えている。
それでも、朝になってからもう一度見ると、本当に今日へつながっているように感じられた。
「また明日って、今日なんだ」
小さく呟く。
当たり前のことだった。
昨夜の明日は、朝になれば今日になる。
学校へ行けば春樹がいる。
いつもの席で本を開き、自分が教室へ入ってくるのを気にしているかもしれない。
昨日、春樹は言った。
明日も教室で待っています。
なつきも答えた。
明日も行くね。
約束したから早く起きた、というよりも、目が覚めてしまった。
眠気は少し残っている。
けれど、起きることを面倒には感じなかった。
なつきは布団から出ると、いつもより少し丁寧に制服を整えた。
鏡の前で髪を結び、一度ほどいて、もう一度結び直す。
最初と大きく違わない。
それでも、何となく片側だけ膨らんでいるような気がして、指で何度も形を直した。
「何してるんだろう」
自分で呟き、鏡の中の顔を見る。
春樹は、髪型が少し変わっていても気づかないかもしれない。
いや、最近の春樹なら気づくだろうか。
自分が困っている時。
考え事をしている時。
誰かと話している時。
春樹は、自分が思っていたより多くのことを見ていた。
髪を結び直したことまで分かるかは知らない。
けれど、もし気づかれたら少し嬉しいと思っている自分がいた。
朝食を終え、家を出る。
昨日と同じくらいの時刻だった。
空は薄い雲に覆われているが、雨が降りそうな重さはない。住宅街の屋根へ淡い朝日が広がり、通学路の植え込みには夜露が残っている。
道の途中で茜と合流すると、茜はなつきの顔を見るなり、少し目を細めた。
「おはよう」
「おはよう、茜ちゃん」
「今日も早いね」
「うん」
「昨日、何時に寝た?」
「十一時前」
「約束、守ったんだ」
「春樹君にも言ったから」
茜は歩き始めながら、少し笑う。
「連絡、来た?」
「来たよ」
「本の感想?」
「うん。長かった」
「大國君らしい内容だった?」
「春樹君らしかった」
なつきの答えには、朝の眠気よりも強い嬉しさが混ざっていた。
茜は横目でその表情を見る。
「何て書いてあったの?」
なつきはすぐに答えようとし、少しだけ迷った。
昨夜までなら、茜に全部話していたかもしれない。
これまでも、春樹との会話で分からないことがあれば茜へ聞いた。教室で何があったかも、ほとんど隠さず話していた。
けれど、昨日の連絡は、春樹が自分だけへ送ってくれた文章だった。
本の感想。
今日、横田さんが教室へ早く来てくれたことを思い出しました。
誰かがそこにいるだけでも、安心する人がいる。
その言葉を思い返すと、全部をそのまま他の誰かへ見せることに、少しだけ違和感があった。
「本の主人公が」
なつきは、伝えてもよい部分を選ぶように話し始めた。
「毎日同じ場所へ行く話だったんだって。すごいことをするわけじゃないけど、その人がいることで、周りの人が少しずつ変わっていくの」
「うん」
「それで、春樹君が、私が昨日早く教室へ行ったことを思い出したって」
茜の歩幅が、わずかに乱れた。
「大國君が、そう書いたの?」
「うん」
「本の感想の中で?」
「うん」
「思ったより、かなり真っ直ぐだね」
「そうかな」
「学校で話すより、文章の方が言いやすいのかも」
なつきは昨夜の画面を思い出す。
春樹の文章は、普段の会話より長かった。
話している時なら、一つの言葉を選ぶために沈黙が入る。なつきはその間、春樹の顔を見ながら待つ。
連絡では、その沈黙が見えない。
送られてくる時には、すでに春樹が考え終えた言葉がまとまっている。
「でも、返事は少しずつだったよ」
「なつきも送ったの?」
「うん」
「どんなこと?」
「待ってたって」
「連絡を?」
「うん。来た時、すごく嬉しかったって」
茜は、しばらく何も言わなかった。
なつきが不思議そうに横を見る。
「どうしたの?」
「いや」
「変だった?」
「変じゃないよ」
「じゃあ、何?」
「大國君、読んだ後、かなり考えただろうなと思って」
「三分くらい返事来なかった」
「それで済んだんだ」
「長い?」
「大國君なら短い方かも」
二人は並んで学校へ向かう。
茜は、なつきが連絡の全文を見せようとしなかったことへ気づいていた。
秘密にされたとは思わない。
なつき自身も、隠したつもりはないのだろう。
ただ、二人だけのやり取りを、二人の間へ置いておきたいと思い始めている。
それは小さな変化だった。
これまで、なつきの春樹への気持ちは、本人より先に周囲へ見えていた。
なつきが何を考えているのか分からない時には、茜や紅秋が言葉を補うこともあった。
しかし、連絡先を交換したことで、周囲が知らない会話が生まれた。
誰かに聞かせるためではない。
二人だけへ届く言葉。
それが少しずつ増えていけば、二人の関係も、教室で見えるものだけではなくなっていく。
「茜ちゃん」
「何?」
「春樹君、今日はどんな顔するかな」
「いつもの顔じゃない?」
「昨日、連絡した後だから」
「なつきは、どんな顔するつもり?」
「普通」
「今の時点で、かなり意識してるけど」
「意識してないよ」
「さっきから三回、髪触ってる」
なつきの手が止まる。
確かに、無意識に髪の結び目へ触れていた。
「変?」
「変じゃない」
「左右、同じ?」
「同じだよ」
「春樹君、気づくかな」
「髪型に?」
「今日、結び直した」
「見た目はいつもとほとんど同じだけど」
「じゃあ、気づかない?」
「大國君がどこまで見てるかによるね」
なつきは、少しだけ残念そうに髪から手を離した。
「気づいてほしいの?」
「分からない」
「気づかなかったら?」
「別にいいよ」
「でも、気づいたら?」
「嬉しい」
「それは、気づいてほしいってことじゃない?」
なつきは答えず、少し前を歩いた。
茜が隣へ追いつく。
正門へ近づく頃には、同じ制服を着た生徒たちが周囲へ増えていた。
校門前で友人を見つけ、駆け寄る生徒。
昨日の部活動の話をしながら歩く生徒。
自転車を降り、眠そうに押している生徒。
いつもの朝の賑わい。
その中で、なつきは自分だけが少し違う朝を歩いているような気がしていた。
昇降口で上履きへ履き替え、二階へ上がる。
昨日は教室の扉の前で足を止めた。
今日は止まらないようにしよう。
そう決めていたはずだった。
けれど、二年十一組の教室が見えたところで、なつきの歩幅は自然に小さくなった。
「なつき」
「何?」
「昨日と同じになってる」
「止まってないよ」
「遅くなってる」
「春樹君、いるかな」
「いると思うよ」
「連絡した後、初めて会うから」
「昨日も会って、帰った後に連絡しただけでしょう」
「でも、連絡した後には会ってない」
「それはそうだけど」
なつきは教室の扉を見る。
昨夜、文字で交わした言葉が頭へ浮かぶ。
会う前も気になりますか。
はい。
今日の朝は、横田さんが来る前から気にしていました。
私も、春樹君がいるかなって教室の前で止まったよ。
昨日までとは少し違いました。
同じだね。
画面の中でなら読めた。
返事もできた。
けれど今日、春樹の顔を見たら、どんな言葉を最初に言えばいいのか分からない。
「おはよう、でいいんじゃない?」
茜が言った。
「声に出てた?」
「顔に出てた」
「三浦君みたい」
「そこまでではないよ」
「おはようでいい?」
「毎朝言ってるでしょう」
「でも、昨日おやすみって送ったから」
「おやすみの次は、おはようで合ってる」
「そうだね」
なつきは一度だけ深く息を吸った。
そして、扉を開ける。
教室には、昨日と同じくらいの生徒が集まっていた。
紅秋はすでに後方の机で記録用紙を確認している。三浦は珍しく自分の席へ静かに座り、何かを書いていた。圭は窓際で友人と話している。
春樹は、いつもの席にいた。
本を開いている。
ただし、ページへ視線を落としていなかった。
扉が開いた瞬間から、こちらを見ていた。
なつきと春樹の目が合う。
昨日の朝も同じだった。
それでも今日は、目が合った瞬間、二人ともすぐには動けなかった。
画面の中でなら、自分の気持ちを書けた。
相手の言葉を、何度も読み返せた。
けれど対面すると、春樹の表情が見える。
少し驚いた目。
なつきが来たことで、ほんのわずかに緩んだ肩。
口元へ浮かびかけて、すぐに消えた笑み。
それらすべてが一度に見えるため、昨夜より言葉が出てこない。
「なつき」
背後から茜が小さく呼ぶ。
「おはよう」
「分かってる」
なつきは教室へ入った。
昨日よりは入口で立っていた時間が短い。
けれど、自分の席には向かわず、春樹のところへ歩いていく。
一歩進むたび、昨夜の文章が頭へ浮かぶ。
待っています。
また明日。
今日の朝は、来る前から気にしていました。
春樹の席の前へ着く。
春樹は本を閉じた。
「おはよう、春樹君」
「おはようございます、横田さん」
二人は、そこで黙った。
普段なら、なつきがすぐに次の話を始める。
昨日のこと。
今日の予定。
十一組ラボ。
登校中に見つけたもの。
話題はいくらでもある。
しかし今日は、互いに昨夜の連絡を意識している。
「来たよ」
なつきが、ようやく言った。
「はい」
「待ってた?」
「待っていました」
春樹は、すぐに答えた。
昨日より早い返事だった。
「昨日、連絡で言ってたから」
「はい」
「本当に待ってた?」
「はい」
「扉が開く前も?」
「何度か、廊下の音を気にしました」
なつきの胸が、ゆっくりと温かくなる。
「私も」
「何がですか?」
「教室に来るまで、春樹君がいるかなって考えてた」
「昨日、僕はいつもこの時間にいると言いました」
「分かってても考えるの」
春樹は少しだけ視線を落とす。
「僕も、横田さんが来ると分かっていました」
「でも、気にした?」
「はい」
「同じだね」
「同じですね」
二人は、昨日の夜にも交わした言葉を、今度は声に出して言った。
画面で読んだ時よりも、少し恥ずかしい。
けれど春樹が頷くところまで見えるため、安心も大きかった。
「昨日の連絡」
なつきが言う。
「長くなかったよ」
「朝、最初にその話をするんですか?」
「言いたかったから」
「そうですか」
「春樹君が、本を読みながら私のことを思い出したの、嬉しかった」
春樹の耳が、少し赤くなる。
周囲では、何人かの生徒が会話の声を小さくしていた。
昨日までのやり取りですでに慣れ始めていたはずだが、今朝の二人には、また違う空気がある。
学校で別れた後にも話していた。
その続きが、今ここで始まっている。
クラスメイトたちには、昨夜何があったのか分からない。
けれど二人の間には、周囲の知らない時間が存在している。
「横田さん」
「うん」
「僕も、連絡を読んでもらえて嬉しかったです」
「返事も?」
「はい」
「待ってたって書いたところ?」
春樹は一度、周囲へ視線を向けた。
三浦は自分の机で何かを書き続けているが、鉛筆の動きが完全に止まっている。圭は友人との会話を中断し、窓の外へ顔を向けていた。
紅秋は記録用紙へ目を落としたまま、わずかに口元を緩めている。
「声が大きいです」
春樹が言った。
「昨日も言われた」
「今日も気をつけてください」
「じゃあ、小さくする」
なつきは机へ少し近づいた。
「待ってたって送ったの、嬉しかった?」
昨日の朝と同じように、声を小さくするため、距離まで近くなる。
春樹は困ったようにしながら、それでも答えた。
「嬉しかったです」
「すごく?」
「横田さん」
「私はすごく嬉しかったって送った」
「知っています」
「春樹君は?」
春樹は、答えを急かされることを苦手としていた。
けれど、なつきが欲しいのは、言葉の正しさではない。
自分と同じように感じたのか。
それを確かめたいだけなのだろう。
「僕も」
春樹は小さく息を吸った。
「すごく嬉しかったです」
なつきの目が大きくなる。
そして、すぐに嬉しそうな笑顔へ変わった。
「よかった」
「何がですか?」
「同じだったから」
春樹も、ほんの少しだけ笑った。
教室の後方で、三浦が鉛筆を机へ置く。
「もう無理だ」
小さな声だったが、静かになった周囲には聞こえた。
「何が?」
近くの男子生徒が尋ねる。
「聞いてないふり」
圭がすぐに三浦の肩を押した。
「聞いてないふりを続けよう」
「本人たちが教室の真ん中で話してるんだぞ」
「小声にはしてる」
「距離が近くなっただけだろ」
「それを言わない」
三浦は口を押さえた。
なつきが声のした方へ振り返る。
「三浦君、何?」
「何でもない」
「何か書いてた?」
「十一組ラボの案」
紅秋が顔を上げる。
「本当に?」
「本当。家で考えてきた」
三浦は一枚の紙を持ち上げた。
そこには、四角い台座と、左右へ付け替えられる仕切りらしい絵が描かれている。線は少し歪み、文字も斜めになっていたが、昨日の試験結果を踏まえて考えたことは分かった。
「見せて」
紅秋が手を伸ばす。
三浦は紙を持って教室後方へ向かった。
それをきっかけに、止まっていた朝の空気が再び動き始める。
生徒たちは自分の会話へ戻り、登校してきた者が教室へ入ってくる。
「横田さん」
春樹が呼ぶ。
「うん」
「鞄を置かなくて大丈夫ですか?」
「あ」
今日も肩へ掛けたままだった。
「昨日も同じことを言われた」
「今日は自分で気づくと思っていました」
「春樹君と話してたから忘れた」
「そうですか」
「待ってて」
「はい」
なつきは自分の席へ向かう。
その途中、茜と目が合った。
茜は何も言わず、少しだけ笑っている。
「何?」
「おはよう、の次、長かったね」
「昨日の話をしたから」
「見てれば分かるよ」
「聞こえた?」
「途中まで」
「小さくしたのに」
「小さくするために近づきすぎ」
「春樹君にも言われた」
「言われたの?」
「声が大きいって」
「距離の話は?」
「されてない」
「大國君も、それどころじゃなかったんだね」
なつきは首を傾げながら、自分の席へ鞄を置いた。
「茜ちゃん」
「何?」
「春樹君、髪のこと何も言わなかった」
「まだ分からないよ」
「気づいてないと思う」
「ほとんど同じだから」
「結び直したのに」
「見た目は、昨日と同じだよ」
なつきは髪の結び目へ触れる。
「聞いたら駄目?」
「大國君に、髪が違うか聞くの?」
「気づいたか」
「聞けば答えると思うけど」
「自分から気づいてほしかった」
「だったら、聞かずに待った方がいいんじゃない?」
「でも、気づかないかも」
「それは仕方ないよ」
なつきは少し不満そうに春樹を見る。
春樹は、なつきが自分の席へ戻った後、本を開こうとしていた。
けれど視線が、もう一度なつきへ向く。
目が合う。
なつきは反射的に髪へ触れた。
春樹は少しだけ眉を寄せる。
何かを考えているようだった。
「なつき」
茜が小声で呼ぶ。
「今、すごく分かりやすく髪触ったよ」
「気づいてくれるかも」
「誘導してるじゃない」
「少しだけ」
春樹は本を机へ置き、席を立った。
なつきの方へ歩いてくる。
「来た」
「見れば分かるよ」
春樹が二人の席の前へ着く。
「横田さん」
「何?」
「髪を気にしていますか?」
なつきは、すぐには答えなかった。
自分から触って見せたため、完全に春樹が気づいたとは言えない。
それでも、春樹の方から聞いてくれたことは嬉しい。
「今日、結び直した」
「そうなんですか?」
「少し違うでしょう」
春樹は、なつきの髪を見る。
見られていると意識した瞬間、なつきの背筋が少し伸びた。
春樹の視線は真剣だった。
試作品の違いを見る時と同じように、昨日との違いを探している。
「位置が」
春樹が慎重に言う。
「昨日より、少しだけ高いかもしれません」
「本当?」
「はっきりとは分かりませんが」
「分かったんだ」
「今、結び直したと聞いたので」
「聞く前には?」
春樹は答えに困った。
なつきが何度も髪へ触れていたため、何か気にしていることには気づいた。
しかし、結ぶ位置が違うとまでは分からなかった。
「髪を気にしていることには気づきました」
「結び直したことは?」
「分かりませんでした」
「そっか」
なつきは少しだけ残念そうにする。
春樹は、その表情を見て言葉を続けた。
「でも」
「何?」
「今日の髪も、似合っていると思います」
今度は、なつきが完全に動きを止めた。
茜も隣で目を見開く。
春樹自身も、言った後で少し顔を固くした。
違いに気づけなかったことを補うためだけではない。
なつきが気にしていると分かった。
そして実際に見て、似合っていると思った。
なら、それを言ってもいい。
昨日までの春樹なら、思っても口へ出さなかったかもしれない。
「本当?」
なつきが小さく尋ねる。
「はい」
「昨日より?」
「比べるものではないと思います」
「どっちも?」
「はい」
「今日も?」
「似合っています」
なつきの頬が、少しずつ赤くなる。
「ありがとう」
声は、先ほどまでより小さかった。
春樹は頷く。
「いえ」
二人の間へ沈黙が落ちる。
教室は騒がしい。
それでも、なつきには春樹の言葉だけが胸の中へ残った。
似合っている。
春樹が、自分を見て言った。
気づいてほしいと思っていた。
違いそのものには気づかなかったが、見て、考え、言葉をくれた。
それだけで、朝から何度も結び直したことが無駄ではなかったように感じる。
「春樹君」
「はい」
「明日も変えたら、気づく?」
「毎日変えるんですか?」
「分からない」
「変わったことへ気づけるとは限りません」
「でも、見てくれる?」
春樹は、すぐに頷いた。
「はい」
「ならいい」
なつきは嬉しそうに笑った。
春樹も、少しだけ表情を緩め、自分の席へ戻っていく。
茜はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
「なつき」
「何?」
「よかったね」
「うん」
「大國君、かなり変わったね」
「前の春樹君も、思ってたのかな」
「似合ってるって?」
「うん。でも、言わなかっただけ?」
「それは本人にしか分からないけど」
なつきは、春樹の席を見る。
春樹は本を開いた。
今度は読もうとしているようだが、耳の赤さはまだ残っている。
「あとで聞いてみる」
「今はやめてあげて」
「どうして?」
「大國君、本を開いて逃げたから」
「逃げたの?」
「少し落ち着きたいんだと思う」
「じゃあ待つ」
なつきは素直に頷いた。
朝のホームルームまで、まだ少し時間がある。
教室後方では、紅秋が三浦の案を見ながら、いくつか質問をしていた。
「この溝、どうやって仕切りを固定するの?」
「差す」
「差しただけだと揺れるよ」
「横に小さい出っ張りをつける」
「外す時は?」
「引く」
「力が必要にならない?」
三浦は紙を見つめる。
「そこは考えてない」
「じゃあ、今日試すところだね」
「駄目じゃない?」
「全部決まってないだけ」
紅秋は案を否定せず、記録用紙の横へ置いた。
「昨日決めた基本台座へ、この溝を追加できるか見てみよう」
「俺の案、使う?」
「試す」
三浦は嬉しそうに笑った。
「家で考えた甲斐があった」
「何時まで考えたの?」
圭が尋ねる。
「十一時くらい」
「珍しく真面目だね」
「俺だってやる時はやる」
「宿題は?」
三浦の表情が止まる。
「何の?」
「今日提出の数学」
三浦は無言で鞄を見る。
その様子を見ていた周囲から、笑いが広がった。
「忘れてた?」
「十一組ラボを考えてた」
「理由にならないよ」
「どっちも学習活動だろ」
「先生に言ってみれば?」
「通ると思う?」
「思わない」
三浦は慌てて教科書とノートを取り出し、近くの生徒へ話しかけ始めた。
「一問だけ見せて」
「自分でやって」
「考え方を確認するだけ」
「答えを写す時にみんな言うやつ」
朝の教室には、笑い声と会話が重なっていく。
春樹となつきのやり取りだけが特別に切り離されているわけではない。
三浦の忘れ物。
十一組ラボの新しい案。
今日の授業。
購買の話。
部活動の予定。
教室には、それぞれの朝がある。
その中で、なつきと春樹の朝も少しずつ変わっていた。
ホームルームが始まる直前。
紅秋が、昨日の記録を持ってなつきたちの席へ来た。
「今日の昼休み、少し時間ある?」
「あるよ」
なつきが答える。
「春樹君も?」
「あります」
「昨日の試験結果を、先生へ見せる前にまとめたい。基本台座はほぼ決まったけど、仕切りの高さと端末支えの二種類案をどう説明するか決めたいから」
「先生に見せるの?」
「明日か、遅くても明後日。材料を追加で使うなら、許可が必要でしょう」
「もうそんなところまで来たんだ」
「最初の試作品を作るところから比べたらね」
紅秋は記録を机へ広げる。
「ただ、今日の放課後で、使う人が部品をどう選ぶかも試したい」
「選ぶところ?」
なつきが尋ねる。
「昨日までは、こっちが仕切りを右にする、左にする、印にするって決めて渡してた。でも実際に使う時は、本人が選ぶことになる」
「説明を聞くだけで選べるか?」
春樹が言う。
「そう。自分に何が必要か、最初から分かる人ばかりじゃない」
「三浦君も、最初は仕切りが必要だと思ってた」
「詳しく試したら、印だけでもよかった」
紅秋は頷く。
「だから、今日は何も説明せず選んでもらう組と、簡単な説明を聞いて選んでもらう組。それから、一度使ってから選び直す組に分けたい」
「選び直してもいいんだね」
「むしろ、選び直せることが大事かもしれない」
なつきは記録用紙へ目を落とす。
最初に選んだものが、自分へ合うとは限らない。
使ってから違うと分かることもある。
一度決めたからといって、そのまま使い続ける必要はない。
「何回でも変えていい?」
「材料が壊れない範囲なら」
「最初に間違えても大丈夫?」
「間違いというより、使って初めて分かるんだと思う」
春樹が静かに言った。
「選んだ時には、それが合うと思っている。後で違うと分かったなら、選び直せばいい」
「人の気持ちも?」
なつきが尋ねる。
紅秋が、春樹となつきを交互に見た。
春樹は少しだけ考える。
「気持ちを選ぶ、という言い方が合うかは分かりません」
「でも、最初に思ってたことと、後で分かることが違う時あるでしょう」
「あります」
「春樹君も?」
「はい」
「私のこと?」
あまりにも自然に尋ねられ、春樹は言葉を失った。
紅秋は、記録用紙を持ったまま視線を逸らす。
茜も隣で小さく息を吐いた。
「横田さん」
「何?」
「朝のホームルームが始まります」
春樹は答えを避けた。
ちょうど教室の前方で扉が開き、担任が出席簿を持って入ってくる。
「本当だ」
なつきは前を見る。
「あとで聞くね」
「覚えているんですか?」
「忘れないよ」
春樹は少し困った表情を見せながら、自分の席へ戻った。
担任が教卓へ立つ。
「おはよう。今日は提出物が多いから、出してない者は朝のうちに出せよ」
三浦が激しくノートへ文字を書いている姿を見つけ、担任は一度だけ目を細めた。
「三浦」
「はい」
「今やってるのは何だ」
「最終確認です」
「数学の宿題に見えるが」
「確認です」
「提出はホームルーム後まで待ってやる。自分でやれ」
「ありがとうございます」
教室に笑いが起こる。
担任は呆れたように首を振り、連絡事項を読み始めた。
なつきも前を向く。
けれど、さっき春樹へ聞いた言葉が頭の中へ残っている。
最初に思っていたことと、後で分かったこと。
春樹は、あると答えた。
自分のことかと聞くと、答えなかった。
ホームルームが始まったから。
それだけかもしれない。
けれど、春樹が少し困った顔をした理由が気になる。
なつきは、後ろを振り返りたい気持ちを抑えた。
授業中は行かない。
春樹と約束した。
代わりに、机の中にあるスマートフォンを意識する。
連絡先を交換した今なら、文字で聞くこともできる。
しかし、同じ教室にいるのに送るのは、昨日の昼休みの確認とは違う。
春樹は授業中の連絡を嫌がるだろう。
何より、返事を急がせたくない。
後で聞く。
顔を見て。
春樹が考える時間を待ちながら。
なつきは担任の話をノートへ書き留めた。
一方、春樹も、前を向きながらなつきの問いを考えていた。
最初に思っていたことと、後で分かったこと。
ある。
なつきのことも、その一つだった。
最初は、よく話しかけてくる同じクラスの生徒だった。
自分が本を読んでいても、遠慮なく声を掛ける。
話が途中で別の方向へ進む。
何を伝えたいのか、本人も分かっていない時がある。
少し苦手かもしれないと思ったこともあった。
しかし、なつきは春樹が黙っても待った。
言葉が出るまで、勝手に答えを決めなかった。
本の話を覚えていた。
図書室へ来た。
隣へ立った。
気づけば、来ない日を気にするようになった。
話しかけられることを、待つようになった。
それは、最初に思っていたものとは違う。
けれど、途中で最初の判断が間違いだったと切り捨てるだけでもない。
当時の自分には、まだ知らないことが多かった。
知るたびに、なつきへの見方が変わった。
変わったというより、見える部分が増えた。
そして今も、すべてを知っているわけではない。
なつきが何を考えているのか分からない時は多い。
何を言い出すか予測できない。
それでも、その分からなさを避けたいとは思わなくなった。
むしろ知りたい。
次に何を話すのか。
何を見つけるのか。
何を嬉しいと思うのか。
それを自分の近くで見たいと思っている。
そこまでを、春樹はまだ言葉にできるだろうか。
なつきに聞かれれば、答えなければならない。
正確でなくてもいい。
今分かっていることだけでいい。
昨日、紅秋となつきから教えられた。
それでも、教室で声にすることを考えると、胸の奥が落ち着かない。
朝のホームルームが終わる。
担任が教室から出た瞬間、生徒たちが次の授業の準備を始めた。
なつきはすぐには振り返らなかった。
春樹も席を立たない。
互いに、先ほどの問いを覚えている。
そのことが分かるからこそ、どちらから動くかを少し迷っていた。
「なつき」
茜が教科書を出しながら呼ぶ。
「聞かないの?」
「春樹君、考えてるかもしれない」
「待つの?」
「うん」
「成長したね」
「何が?」
「今までは、気になったらすぐ何回も聞いてたでしょう」
「春樹君が、考える時間いるから」
「でも、忘れない?」
「忘れない」
なつきは自信を持って答えた。
その時。
机の中で、スマートフォンが小さく震えた。
授業前の教室では、他にも通知音が鳴ることはある。
けれどなつきは、自分の端末の振動だとすぐに分かった。
取り出して画面を見る。
表示された名前は、大國春樹。
なつきは驚き、後ろを振り返った。
春樹は自分の席で端末を持っている。
目が合うと、少しだけ視線を下げた。
なつきは届いた文章を開く。
『さっきの質問ですが、横田さんのことも、最初に思っていたことと、後で分かったことが違います。
最初は、話す内容が予測できないので、少し苦手だと思ったことがありました。
今は、次に何を話すのか知りたいと思います。
横田さんが何を見て、何を考えるのか、以前より知りたいです。
うまく声にできるか分からなかったので、先に文章で送りました』
なつきは、画面を一行ずつゆっくり読んだ。
少し苦手だと思ったことがあった。
最初の一文には、少しだけ驚いた。
けれど嫌ではなかった。
今の春樹が、最初から自分を特別に思っていたとは考えていない。
むしろ、以前の春樹がどう感じていたのかを正直に教えてくれたことが嬉しい。
そして。
今は、次に何を話すのか知りたい。
何を見て、何を考えるのか知りたい。
なつきは画面を見つめたまま、胸の奥が温かくなるのを感じた。
春樹は、さっき答えを避けたのではなかった。
言葉にするために考えていた。
考えた後、自分から送ってくれた。
なつきは返信欄を開く。
『教えてくれてありがとう。
最初は苦手だったんだね』
そこまで書き、少し考える。
『でも、今は知りたいって思ってくれて嬉しい。
私も、春樹君が何を考えてるか知りたい。
前は、春樹君は本を読んでる静かな人だと思ってた。
今は、たくさん考えてる人だって知ってる。
あと、優しいけど、心配しすぎる人』
送信する。
春樹が画面を見る。
なつきは、その表情を後ろの席から見つめた。
文章を読んでいる春樹。
少し眉を寄せる。
最後の部分まで読んだのか、わずかに困った顔になる。
端末が震える。
『心配しすぎでしょうか』
なつきは小さく笑った。
『少しだけ。でも、嫌じゃないよ』
返事はすぐに来なかった。
春樹が何度か文字を打ち直しているように見える。
その間に、一時間目の教師が教室へ入ってきた。
「端末をしまって、授業の準備をしろ」
生徒たちが慌ててスマートフォンを机の中へ入れる。
なつきも画面を閉じようとした時、最後の連絡が届いた。
『嫌ではないなら、少し安心しました』
なつきはそれを読んでから、端末をしまった。
春樹も前を向く。
離れた席。
話すことはできない。
それでも、先ほどまで互いの手元に同じ会話があった。
教室で言えなかった言葉を、文章で先に伝える。
その後、顔を見て続きを話す。
文字と声。
どちらか一つだけではなく、二つを使えるようになったことで、春樹は以前より多くのことを伝えられる。
なつきも、春樹が考え終わるまで、画面の向こうで待てる。
連絡先を交換したことで、会えない時間だけが近くなったのではない。
同じ教室にいる時でさえ、言葉を渡す方法が一つ増えた。
ただし、授業中は使わない。
それも、二人の中で新しい決まりになりそうだった。
一時間目が終わると、なつきは今度こそ春樹の席へ向かった。
春樹も、本を開かずに待っていた。
「春樹君」
「はい」
「送ってくれてありがとう」
「声で答えた方がよかったですか?」
「文章でもよかったよ」
「逃げたように見えませんでしたか?」
「思わなかった」
「本当ですか?」
「うん。考えてたんだって分かった」
なつきは春樹の机の横へ立つ。
「でも、少し苦手だったんだね」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
「嫌ではありませんか?」
「その時の春樹君は、私のことあまり知らなかったでしょう」
「はい」
「私も、春樹君のこと知らなかった」
「本を読んでいる静かな人、ですか?」
「うん」
「間違ってはいません」
「でも、それだけじゃなかった」
「横田さんもです」
「私も?」
「話がまとまらない人、だけではありませんでした」
なつきは目を丸くする。
「そんなふうに思ってたの?」
「最初は」
「今は?」
春樹は少しだけ考える。
「話がまとまらない時もあります」
「そこは残ってるんだ」
「でも、まとまっていないからこそ、途中で別のことに気づくことがあります」
「いい意味?」
「はい」
「本当?」
「十一組ラボでも、横田さんの途中の言葉から案が変わったことがありました」
「じゃあ、直さなくていい?」
「相手へ正確に伝える必要がある時は、まとめた方がいいと思います」
「全部そのままじゃ駄目なんだね」
「変えなくていい部分と、変えた方がいい部分があります」
昨日までの試作品と同じ言葉だった。
なつきは少し笑う。
「私も、選べる部品みたい」
「人と部品を同じにはできません」
「でも、春樹君が心配しすぎるところも、全部直さなくていいでしょう」
「そうですか?」
「私を心配してくれるの、嬉しいから」
春樹は黙った。
「でも、無理して来なくていいって何回も言われると、少しだけ来ない方がいいのかなって思う時がある」
「それは違います」
春樹は、いつもより早く答えた。
「来てほしいです」
「うん」
「ただ、横田さんが無理をして体調を崩したら困ります」
「じゃあ、来てほしいけど無理はしないで、って一回言えばいい?」
「そうかもしれません」
「何回も確認しなくていい?」
「心配になると、確認したくなります」
「そこは少しずつ?」
「はい」
「私も、春樹君に何回も同じこと聞くの、少しずつ減らす」
「減らすんですか?」
「嫌?」
「嫌ではありませんが」
「何回も聞かれる方がいい?」
春樹は答えに困った。
同じことを繰り返し聞かれると、恥ずかしい。
けれど、なつきが安心するために確認しているのなら、答えたいとも思う。
「必要な時は、聞いてください」
「必要じゃない時は?」
「聞きたいなら」
「じゃあ、変わらないかも」
「そうですね」
二人は小さく笑った。
その横を、三浦と圭が通り過ぎる。
三浦は何も言わず、前を向いたまま歩いている。
圭が少し驚いたように見る。
「今日は言わないんだ」
「見守るって決めた」
「昨日、実況しないように言われたから?」
「俺も学習する」
「数学の宿題は?」
「出した」
「先生、何て?」
「次から早くやれって」
「それは学習できそう?」
「努力する」
二人の会話を聞き、なつきが笑う。
「三浦君、今日は静かだったね」
春樹が小さく頷く。
「その分、聞いていたと思います」
「聞かれて困った?」
「以前よりは」
「以前より?」
「少しだけ、困らなくなりました」
「どうして?」
「横田さんへ言ったことを、違うとは思わないので」
なつきは、しばらく春樹を見つめた。
周囲に聞かれることは恥ずかしい。
それでも、言った気持ちを隠したくはない。
春樹がそう思えるようになった。
「私も」
なつきが言う。
「春樹君に会えて嬉しいって、聞かれても違わない」
「はい」
「でも、全部は聞かれたくないかも」
「昨日の連絡ですか?」
「うん」
「僕もです」
「同じだね」
「はい」
二人だけの言葉がある。
それを隠すためではなく、大切にするために、全部は周囲へ見せない。
なつきは、今朝茜へ連絡の全文を話さなかった理由が、少しだけ分かった気がした。
春樹が自分へ送った言葉だから。
自分が春樹へ返した言葉だから。
誰かに見せてはいけないわけではない。
ただ、最初に受け取った自分が、しばらくそのまま持っていたい。
そう感じた。
「昼休み」
春樹が言う。
「十一組ラボのまとめがあります」
「うん」
「それまでに、仕切りを選ぶ説明の案を考えますか?」
「一緒に?」
「はい」
「今?」
「次の授業まで、あと五分です」
「五分なら少しできる」
二人は教室後方の机へ向かった。
紅秋の記録用紙を見ながら、選び方を説明する言葉を考える。
「仕切りが必要な人」
なつきが書く。
「必要か分からない人もいます」
「じゃあ、物が動くと困る人?」
「仕切りがあることで、逆に物を置きすぎる人もいました」
「難しいね」
「質問にしますか?」
「質問?」
「机の上の物の場所が決まっている方が落ち着きますか」
「うん」
「隣の物が見えない方が集中できますか」
「仕切りの高さも関係するね」
「物を取り出す時、仕切りが邪魔に感じますか」
「最初から全部聞いたら、選ぶ前に疲れない?」
「三問くらいに減らします」
「それで決められなかったら、試す」
「はい」
春樹が書いた三つの質問を、なつきが読み返す。
「最後に、あとで変えられます、って書きたい」
「安心するためですか?」
「最初に間違えたら駄目って思う人、いるでしょう」
「そうですね」
春樹が最後へ一文加える。
『一度選んだ後でも、使いにくければ変更できます』
「これ、いい」
「先生へ見せる説明にも使えるかもしれません」
「人にも言えたらいいね」
「何をですか?」
「最初に思ったことが、後で変わっても大丈夫って」
春樹は、なつきを見た。
「横田さんは、僕への印象が変わったことを嫌だと思いますか?」
「思わないよ」
「最初は静かな人だけだと思っていた」
「うん」
「今は違う」
「うん。今の方がいっぱい知ってる」
「では、変わったことではなく、増えたのかもしれません」
「見えるものが?」
「はい」
春樹が先ほど自分の中で考えていたことだった。
相手が変わった。
自分の気持ちが変わった。
それだけではなく、知らなかったものが見えるようになった。
なつきも頷く。
「じゃあ、これからも増える?」
「一緒にいれば」
「いたい?」
春樹は、また少しだけ黙った。
しかし、答えはすでに分かっている。
「はい」
「私も」
なつきは笑った。
「もっと知りたい」
次の授業を告げる予鈴が鳴る。
二人は記録用紙を紅秋の机へ置き、それぞれの席へ戻った。
距離は離れる。
けれど、今日の二人には、離れていても続く言葉がある。
声で話したこと。
画面で送ったこと。
まだ答えきれていないこと。
昼休みに一緒に考えること。
関係へ名前はついていない。
昨日までと同じように、同じクラスの友人で、十一組ラボの仲間で、図書委員として話す相手だった。
それでも、知りたいと思う部分は増えている。
春樹は、なつきが次に何を話すのか知りたい。
なつきは、春樹が何を考えているのか知りたい。
互いに知らない部分があることを、不安だけではなく、これから知れるものとして感じ始めている。
画面の中で交わした言葉は、朝になって消えなかった。
むしろ、顔を合わせたことで、昨日よりはっきりとした。
待っていたこと。
嬉しかったこと。
もっと知りたいと思っていること。
文字だけでは伝わらなかった表情を見て。
声だけでは残らなかった言葉を読み返して。
二人は少しずつ、相手の中にあるものを確かめていく。
授業が始まり、なつきは教科書を開いた。
春樹も、後ろの席で同じページを開く。
教師が黒板へ文字を書き始める。
なつきは前を向きながら、今朝春樹から言われた言葉を思い出した。
今日の髪も、似合っていると思います。
思い出すたび、頬が少し熱くなる。
春樹もまた、なつきから送られた文章を思い出していた。
心配しすぎる人。
でも、嫌ではない。
少しずつ変えればいい。
全部を直す必要はない。
変わらなくてもいいところを残しながら、伝わりにくいところだけを変えていく。
十一組ラボの試作品と同じように。
そして、一度選んだ後でも、違うと分かれば選び直していい。
最初に持った印象も。
相手との距離も。
自分の言葉の渡し方も。
今の形を大切にしながら、必要な時には変えていける。
そのことを知った二人にとって。
昨夜から今朝までの時間は、ただ連絡を交わしただけではなかった。
会えない時間に言葉を置き。
会えた朝に、その続きを声で確かめる。
新しいやり方が、二人の間へ一つ増えた。
だから、目を合わせるまでには昨日より少し時間が掛かった。
けれど、目が合った後に交わせた言葉は。
昨日までより、ほんの少しだけ深い場所へ届いていた。




