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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第156話 待っていた言葉は、画面の中でも春樹君らしい


 午後の授業が終わるまで、なつきは何度も時計を見た。


 授業へ集中していなかったわけではない。教師が黒板へ書いた内容はノートへ写し、当てられた問題にも答えた。隣の茜から教科書のページを指で示された時には、きちんと同じ場所を開いていた。


 ただ、授業と授業の合間に訪れる短い空白へ、今日の放課後と、その先にある夜の約束が何度も入り込んできた。


 放課後は、春樹と隣で十一組ラボの試験を見る。


 帰宅した後は、春樹から本の感想が届く。


 どちらも、それだけを聞けば特別なことではない。


 十一組ラボでは昨日も隣に立っていた。春樹が読んだ本の感想を話すことも、図書室では何度かあった。


 それなのに今日は、その二つが昨日までとは少し違って感じられる。


 隣がいい、と自分から言った。


 待ってる、と春樹へ伝えた。


 春樹も、隣で見ると答え、本の感想を送ると約束した。


 同じ行動でも、互いに望んでいると知っているだけで、その時間が来るまでの気持ちは変わるらしい。


「なつき」


 六時間目の授業が終わり、教師が教室を出ていった直後、茜が横から呼んだ。


「何?」


「さっきから、時計見すぎ」


「そんなに見てた?」


「五分に一回くらい」


「五分なら、そんなに多くないよ」


「一時間に十二回だよ」


「計算早いね」


「褒めてない」


 茜は教科書を鞄へしまいながら、なつきの机の上を見る。


 ノートは開いたまま、端末は机の中へ入っている。なつきはまだ帰り支度を始めていなかったが、意識だけはすでに教室後方の十一組ラボへ向かっているようだった。


「放課後の試験が楽しみ?」


「うん」


「それとも、夜の連絡?」


 なつきの手が止まる。


「両方」


「迷わないんだ」


「どっちも楽しみだから」


「大國君から本の感想が来るだけでしょう」


「春樹君から初めて連絡が来る」


 なつきはそう言い、机の中へ視線を落とした。


 スマートフォンは、今は何も知らせていない。


 昼休みに交換した連絡先。


 自分から送った二つの文章。


 春樹から届いた二つの返事。


 短い言葉だけが並ぶ画面を、午後の休み時間に何度か開いた。


 何度見ても内容は変わらない。


 それでも、春樹の名前が画面に表示されていることを確認すると、不思議と落ち着いた。


「茜ちゃん」


「何?」


「春樹君から来たら、すぐ返した方がいい?」


「内容によるんじゃない?」


「本の感想」


「読んだら、読んだって返せばいいと思う」


「それだけ?」


「感想を読んで、何か思ったら書けばいいでしょう」


「長くなってもいいかな」


「大國君に聞いたでしょう。返事が大変な時は言ってもらうって」


「そうだった」


「今から全部決めなくてもいいよ」


 茜の言葉に、なつきは少しだけ考えてから頷いた。


「春樹君も、何を送るか考えてるかな」


「間違いなく考えてると思う」


「もう文章を作ってるかも」


「授業中に?」


「頭の中で」


「それはありそう」


 二人が小さく笑っていると、教室の後方から紅秋の声が届いた。


「試験参加者は、荷物を自分の席へ寄せて。机を動かすから、通路に鞄を置かないでね」


 その一言で、教室の空気が放課後へ切り替わった。


 部活動へ向かう生徒たちが慌ただしく鞄を持ち上げ、残る生徒たちは机の上を片づけ始める。昨日の比較試験へ参加した者に加え、今日は新しく試してみたいと名前を書いた生徒も多かった。


「昨日より多いな」


 三浦が参加者の一覧を見ながら言う。


「これ、全員一回ずつやったら日が暮れない?」


「一人ずつ長く試すんじゃなくて、今日は条件ごとに分けるよ」


 紅秋が答える。


「端末の大きさが違う人。仕切りを使いたい人。印だけでいい人。それぞれ数人ずつ試して、似た意見が出るか確認する」


「俺は?」


「三浦君は、昨日と同じ筆箱を使って、印の色を変える」


「新しい筆箱も持ってきた」


「それは後半」


「俺、二回出番があるの?」


「嫌なら一回にする?」


「やる」


 三浦は即座に答え、自分の席へ戻って筆箱を二つ取り出した。


 一つは昨日使った黒い筆箱。


 もう一つは、ひと回り大きい青色の筆箱だった。どちらも表面には細かな傷があり、長く使われていることが分かる。


「その青い方、初めて見た」


 圭が言う。


「家にあった」


「中身は?」


「古いペン」


「必要なもの入ってる?」


「まだ確認してない」


「試験の前に確認しようよ」


「筆箱の大きさを見るんだから、中身は関係ないだろ」


「重さは変わるんじゃない?」


 三浦は青い筆箱を持ち上げ、少し考える。


「じゃあ、黒い方と同じくらい入れる」


「珍しく条件を揃える気になったね」


「俺も成長する」


「昨日のプリントは?」


「それはもう終わった話」


「今日、出せたの?」


「出した」


「先生、読めた?」


「受け取ってくれた」


「読めたかは答えてないね」


 周囲から笑いが起こる。


 三浦は何か言い返そうとしたが、紅秋が机を動かすよう指示したため、青い筆箱を抱えたまま作業へ加わった。


 なつきも椅子を持ち上げようとする。


 その横から、春樹が手を伸ばした。


「机を動かしますか?」


「うん」


「では、反対側を持ってください」


「一緒に?」


「一人で持つより安定します」


 なつきは机の反対側へ回り込んだ。


 二人で机を持ち上げ、教室の後方へ運ぶ。


 距離は近い。


 机を落とさないよう互いの歩幅を合わせる必要があるため、自然と相手の動きを見ることになる。


「春樹君」


「はい」


「隣で見る約束、覚えてる?」


「覚えています」


「よかった」


「忘れると思いましたか?」


「思ってないけど、聞きたかった」


「どうしてですか?」


「覚えてるって言ってほしかったから」


 春樹の足が、ほんの少しだけ止まりかけた。


 机が傾き、なつきが慌てて持ち直す。


「春樹君」


「すみません」


「重かった?」


「いえ」


「じゃあ、どうしたの?」


「急に言われたので」


「何を?」


「覚えていると言ってほしかった、という部分です」


「変だった?」


「変ではありません」


「じゃあ、言って」


「もう言いました」


「もう一回」


 春樹は机を運びながら、少し困ったように視線を落とした。


「覚えています」


「うん」


「今日は、横田さんの隣で観察します」


 なつきの顔に、すぐに笑みが広がる。


「私も、春樹君の隣で見る」


「それは同じ意味では」


「私からも言いたかったの」


 春樹は返事をせず、机を置く位置へ視線を向けた。


 ただ、耳が少し赤くなっている。


 近くで別の机を運んでいた圭が、そのやり取りを聞いていたらしく、三浦が口を開く前に先回りして首を横へ振った。


「何も言わない方がいい」


「まだ言ってない」


「言う顔をしてる」


「みんな、俺の顔を読みすぎじゃない?」


「分かりやすいから」


「大國たちより?」


「今は三浦の話」


 圭に話を逸らされ、三浦は不満そうに机を置いた。


 教室の後方には、昨日と同じように四つの試作品が並べられた。


 ただし、今日はすべてが同じ形ではない。


 一つ目は、基本の台座だけを残したもの。


 二つ目は、右側に仕切りを取り付けたもの。


 三つ目は、左側に仕切りを取り付けたもの。


 四つ目は、端末用の支えと、二段階の角度を試せる仮の溝を取り付けたもの。


 さらに、仕切りの代わりに物を置く場所を示す細い印が、何色か用意されていた。


 白。


 薄い灰色。


 青。


 黄色。


 目立ち方が違う色を使い、置き場所が分かりやすいか、気になりすぎないかを確かめる。


「今日は、昨日より短い時間で何回か繰り返します」


 紅秋が参加者へ説明する。


「一回目は、普段通り使ってください。二回目は、指定された部分だけ変えます。印の色、仕切りの位置、端末の角度。変えた後で、良くなったか、悪くなったか、変わらないかを言って」


「変わらないもあり?」


 見学していた男子生徒が尋ねる。


「もちろん。変えたのに違いがなかったなら、その部品や色は必要ない可能性があるから」


「良くなったって言わないと悪い気がするんだけど」


 別の女子生徒が、少し遠慮がちに言う。


「作った人がいるから」


 紅秋はすぐに答えず、教室後方に残った生徒たちを見回した。


「昨日も言ったけど、良いと言われるための試験じゃないよ」


 その声は大きくない。


 けれど、作業を始めようとしていた者たちの手を止めるには十分だった。


「使いにくい部分が分かった方が、作る側は助かる。何も言われないまま、完成したと思って残る方が困るから」


「でも、悪いって言ったら」


「悪い、だけで終わると直せない。何が悪いのかを教えてくれれば、それは次の案になる」


 紅秋は、昨日の記録用紙を持ち上げた。


「三浦君が、仕切りがないと落ち着かないと言った。最初は仕切りを戻す案もあった。でも詳しく聞いたら、物の場所が決まっていないことが落ち着かなかった。だから印だけをつける案が出た」


「俺の意見、すごく活用されてるな」


 三浦が胸を張る。


「一週間前のプリントも活用できる?」


 圭が尋ねる。


「あれはもう忘れてくれ」


 笑いが広がり、固くなりかけていた空気が少し和らいだ。


「だから、遠慮しなくていい」


 紅秋は続ける。


「使いにくいなら、使いにくいでいい。その代わり、できる範囲で理由を考えてほしい」


 参加者たちが頷く。


 なつきは、その様子を春樹の隣で見ていた。


「板倉さん、すごいね」


「はい」


「昨日より説明が分かりやすい」


「記録をまとめたからだと思います」


「春樹君も手伝った?」


「今日はまだです」


「じゃあ、昨日の皆の言葉が入ってるんだ」


「そうですね」


 昨日、誰かが口にした小さな違和感が、今日の説明へ変わっている。


 使いにくいと話すことを、失敗ではなく次の案として扱う。


 十一組ラボの中で、道具だけではなく、意見を受け取る方法も少しずつ形になっていた。


「横田さん」


「うん」


「最初は、印の色を見ます」


「誰を見る?」


「三浦君と、昨日仕切りがなくても困らなかった二人です」


「分かった」


「横田さんは手元の動き。僕は、物を戻す時に迷うかどうかを見ます」


「隣なのに、見る場所は違うんだね」


「同じ場所を見ると、見落としも同じになるので」


「でも、気づいたらすぐ言って」


「はい」


 二人は記録板を持ち、並んで試作品の前へ立った。


 試験が始まる。


 三浦は、印だけをつけた台座へ黒い筆箱を置いた。


 最初は薄い灰色。


 板材の色に近く、遠目にはほとんど目立たない。


「場所、分かる?」


 なつきが尋ねる。


「近くで見れば」


「筆箱を取った後は?」


 三浦は筆箱を持ち上げ、机の上へ置いた。ノートへ文字を書き、消しゴムを使う。その後、筆箱を戻そうとして、ほんの一瞬だけ手を止めた。


「今、迷った?」


「少し」


「どうして?」


「印が薄い。見れば分かるけど、ぱっと戻そうとすると探す」


 春樹が記録する。


「気になるほど薄い、ではなく、気づきにくい?」


「そう。ずっと見えてなくていいけど、戻す時はすぐ分かってほしい」


「では、青へ変えます」


 紅秋が印を貼り替える。


 今度は、白い板材の上に細い青色の四角が現れた。


「目立つ」


 三浦が言う。


「嫌?」


「最初は少し。でも、筆箱を置けばほとんど見えない」


「戻す時は?」


 三浦は同じ動作を繰り返す。


 筆箱を持ち上げ、ノートへ書き、消しゴムを使い、戻す。


 今度は迷わなかった。


「すぐ置けた」


「青の方がいい?」


「俺はいい。でも、ずっと見えてると気になる人はいそう」


「黄色も試す?」


「黄色はもっと目立つんじゃない?」


「明るいけど、青より線が柔らかく見えるかもしれない」


 なつきが言い、黄色の印へ交換する。


 三浦は少し離れて机を見る。


「青より気にならないかも」


「でも、戻す場所は分かる?」


「分かる」


「じゃあ、三浦君は黄色?」


「今は」


「今は?」


「青い筆箱だと、黄色の方が分かりやすいかもしれない。筆箱の色で変わる」


 周囲から、小さなどよめきが起きた。


「そこまで変わるの?」


「黒い筆箱なら青でも見えるけど、青い筆箱を置いたら、青い線が隠れた時に同じ色で分かりにくいかも」


 三浦は青い筆箱へ持ち替え、実際に試した。


 予想通り、筆箱を少しずらすと、青い線と筆箱の端が重なり、位置が分かりにくくなる。


「色まで選べるようにする?」


 参加していた女子生徒が尋ねる。


「さっき、選択肢を増やしすぎないって話したよね」


 茜が言う。


「じゃあ、どうするの?」


「一色に決めるなら、持ち物の色と重なりにくいもの?」


「人によって違うよ」


「線じゃなくて、形を変える?」


 なつきが口にする。


 春樹が隣で顔を上げた。


「形ですか?」


「四角全部を囲わなくても、角だけ印にする。筆箱の色と同じでも、角が見えれば場所が分かるかもしれない」


「印を目立たせるのではなく、見える部分を残す」


「うん」


 紅秋が、細いテープを短く切った。


 筆箱を置く場所の四隅だけへ、黄色い印を貼る。


 中央には何もない。


 三浦が筆箱を置くと、四つの角のうち二つだけが外側へ見えた。


「これ、いいかも」


「戻す時は?」


 三浦は再び動作を繰り返す。


 今度も迷わず、四つの角の間へ筆箱を戻した。


「線全部より、気にならない。筆箱が少しずれても、角を見れば直せる」


「色は?」


「黄色でいい。青でも試したいけど、形が違うから、さっきより分かると思う」


「二色だけ比べよう」


 紅秋が青い角印も作る。


 別の参加者たちも、それぞれ同じ形を試し始めた。


 白い筆箱を使う者。


 柄のある筆箱を使う者。


 小さな布製の筆箱を使う者。


 結果は完全には一致しなかった。


 黄色が見やすい者もいれば、青の方が落ち着く者もいる。


 ただ、四角をすべて囲うより、角だけを示した方が気にならないという意見は多かった。


「色は二種類から選ぶ?」


 茜が記録を見ながら尋ねる。


「選択肢が二つなら、そこまで負担ではないかも」


 紅秋が答える。


「でも、作る時の手間は増える」


「同じ形で、色だけ違うなら、部品を増やすよりは簡単?」


「材料の管理は必要だけどね」


 春樹は、集まった意見を見比べる。


「印は、最初から貼るのではなく、必要な人だけ使う形でもいいと思います」


「仕切りと同じで?」


 なつきが尋ねる。


「はい。物の場所が決まっていなくても気にならない人には必要ありません」


「じゃあ、基本の台座は、何もついてない形?」


「教科書を立てる溝だけです」


「必要な人が、仕切りか印を足す」


「端末を使う人は支えも」


「だんだん分かれてきたね」


「でも、基本は同じです」


 春樹が台座を指差す。


「同じ部分があるので、完全に別のものを作るわけではありません」


 なつきは、その説明を聞きながら小さく頷いた。


 同じ部分を残したまま、必要なものだけを変える。


 昨日から何度も話してきたことが、試作品の形として見えるようになってきた。


「次、端末の試験に移るよ」


 紅秋の声で、参加者たちが席を入れ替える。


 端末用の試作品には、昨日作った二つの溝と、斜めに重ねた滑り止めが取り付けられている。


 大きさの違う三台の端末が用意され、ケースの厚さもそれぞれ異なっていた。


「最初は、小さい端末」


 圭が席へ座り、支えへ端末を立てる。


 薄いケースの端末は、昨日の試験では少し滑った。


 今日は、滑り止めの奥側を厚くし、底が途中で止まるようにしている。


「置いた感じは?」


 なつきが尋ねる。


「昨日より止まる」


「揺らしたら?」


 春樹が机の端を軽く押す。


 端末は小さく揺れたが、前へ滑らなかった。


「角度を変えます」


 圭が端末の上を片手で支え、底を後ろの溝から前の溝へ滑らせる。


 一度目は、途中で滑り止めへ引っかかった。


「止まった」


「持ち上げた?」


 紅秋が尋ねる。


「少し浮かせた」


「昨日よりは?」


「楽。でも、途中の段差が気になる」


「斜めに重ねた部分?」


 春樹が端末を外し、滑り止めへ指を触れる。


 何枚か重ねたゴムの端が揃っておらず、小さな段差になっていた。


「厚さを変える方向はよさそうですが、重ね方を変える必要があります」


「一枚を斜めに削る?」


 三浦が言う。


「ゴム、削れるの?」


「紙やすりで少しずつなら」


「表面がざらざらすると、もっと止まりすぎるかも」


 圭が答える。


「じゃあ、薄いゴムを何枚かずらして重ねる?」


 見学していた女子生徒が提案した。


「今も重ねてるよ」


 紅秋が言う。


「でも、端を階段みたいにするんじゃなくて、もっと少しずつずらす。段差が小さくなるように」


「枚数が増えるね」


「仮の試験ならできる」


 なつきは材料箱を開き、薄いゴムの切れ端を探した。


「これ、使える?」


 春樹が横から覗き込む。


「少し厚いです」


「こっちは?」


「それなら」


 二人が同時に同じ切れ端へ手を伸ばす。


 指先が触れそうになり、どちらも少しだけ動きを止めた。


 昨日と同じような場面だった。


 ただ、今日はなつきが先に手を引かなかった。


「一緒に持つ?」


 なつきが尋ねる。


「小さいので、一人で持てます」


「でも、春樹君も取ろうとした」


「横田さんが使ってください」


「じゃあ、切る時に押さえて」


「はい」


 なつきはゴムの切れ端を持ち上げ、春樹と一緒に作業台へ向かった。


 茜がその背中を見ながら、紅秋へ小さく言う。


「昨日より自然になったね」


「何が?」


「手が触れそうになっても、逃げなくなった」


「本人たちは作業だと思ってるよ」


「作業なのは本当だけど」


「隣に立つことを、二人で決めたからじゃない?」


 紅秋は記録用紙へ視線を落とす。


「昨日までは、近づいた後で理由を探してた。今日は、最初から隣にいる約束をしてるから、近いこと自体に迷わなくなったのかも」


「でも、意識はしてるよね」


「してると思う」


 二人が話している間にも、なつきと春樹は薄いゴムを数枚に切り分けていた。


 春樹が定規を押さえ、なつきが印をつける。


 切り口が重ならないよう、ほんの少しずつ位置をずらして貼る。


「これなら、段差が小さくなる?」


 なつきが尋ねる。


「さっきよりは」


「もっと細かくずらす?」


「貼る面積が減ると、剥がれやすくなります」


「じゃあ、このくらい」


「はい」


 春樹が一枚目を押さえ、なつきが二枚目を貼る。


 指先が近い。


 互いの手の動きを見ながら作業するため、自然と顔も近づく。


「横田さん」


「うん」


「少し右です」


「こっち?」


「もう少し」


「これくらい?」


「はい」


 なつきが位置を合わせると、春樹の指先がその端を押さえる。


 二人の手が、同じ小さな部品の上で並んだ。


 教室の周囲では、別の試験参加者たちも作業を続けている。


 誰かが笑い、誰かが使いにくさを説明し、紅秋が記録を取る。


 その中で、二人だけが特別に静かなわけではない。


 けれど、なつきには春樹の声が近く聞こえた。


 昨日、来てほしいと言われた。


 今日、待っていたと言われた。


 昼に連絡先を交換した。


 今は、隣で同じ部品を作っている。


 約束したことが、一つずつ本当に起きている。


「春樹君」


「はい」


「今日、隣でよかった?」


 春樹の指が止まる。


「はい」


「作業しやすいから?」


「それもあります」


「それだけ?」


 春樹は、なつきを見た。


 昨日なら、答えるまでにもっと長い時間が必要だったかもしれない。


 今も恥ずかしさはある。


 周囲に聞かれる可能性もある。


 それでも、昨日から何度も伝えたことを、今さら別の理由だけへ隠す必要はない。


「横田さんが隣にいると、安心するからです」


 なつきは、しばらく何も言わなかった。


 それから、少しだけ顔を伏せる。


「私も」


「はい」


「春樹君が隣にいると、安心する」


 二人の声は小さかった。


 近くにいた者へも、内容までは届いていない。


 ただ、なつきが少し照れたように笑い、春樹の耳が赤くなったことだけは見えた。


「できた?」


 紅秋が声を掛ける。


 二人は同時に手元へ視線を戻した。


「できた」


「試します」


 新しい滑り止めを端末支えへ取り付け、圭がもう一度小さな端末を置く。


 底を前後へ滑らせる。


 今度は、段差へ強く引っかからず、緩やかに位置が変わった。


「さっきよりいい」


「力は?」


「片手で動かせる。でも、勝手には滑らない」


「机を揺らします」


 春樹が軽く机を押す。


 端末は揺れたが、底は動かなかった。


「大きい端末でも試そう」


 紅秋が指示し、別の端末へ交換する。


 今度は厚いケースがついているため、奥側の滑り止めへ少し強く当たった。


「置ける?」


「置けるけど、端末が少し前に出る」


「支えへの当たり方は?」


「上の方だけ」


「倒れそう?」


「今は大丈夫。でも、強く触ると不安」


 春樹が端末の背面を見る。


「支えの高さを変えた方がいいかもしれません」


「高さも選べるようにする?」


 なつきが尋ねる。


「そこまで変えると、部品が増えます」


「じゃあ、大きい端末用と小さい端末用を分ける?」


「それも種類が増えます」


「一つで全部は難しいね」


「はい」


 二人は端末を見つめる。


 昨日までなら、一つにまとめられないことを失敗と感じたかもしれない。


 しかし今は、無理に一つへ合わせることが正解ではないと分かっている。


「端末支えだけ、二種類でもいいんじゃない?」


 なつきが言う。


「基本の台座は同じ。支えだけ、小さい端末用と大きい端末用」


「二種類なら、管理できそうですか?」


 春樹が紅秋を見る。


「部品の形がはっきり違えば、間違えにくいと思う」


 紅秋は支えの幅を測る。


「小さい端末用は細く、大きい端末用は広くする。見た目でも分かるように」


「色も変える?」


 三浦が言う。


「色を増やしすぎる話、さっきしたでしょう」


「支えは二種類だけだろ」


「印の色とは別にすると、組み合わせが増える」


「形が違えば色はいらないか」


「そう」


 三浦は納得したように頷いた。


「俺、ちゃんと選択肢を減らしてるな」


「今はね」


 茜が答える。


「一週間前のプリント」


「もうそれ、関係ないだろ」


 笑いが起こる。


 試験はその後も続いた。


 仕切りを右から左へ付け替える時間。


 印だけを使った場合の落ち着き。


 端末支えを使わない時、台座の邪魔にならないか。


 教科書を立てたまま筆記できるか。


 参加者が増えたことで、昨日までは出なかった意見も出てきた。


「仕切りがあると、隣の人の物が見えにくくていい」


「でも、話しかけられた時に少し邪魔」


「印があると場所は分かるけど、机を片づけた感じがしない」


「逆に、仕切りがあると物を入れすぎる」


「端末支えを倒した時、少しだけ厚みが残る」


「ノートの端が浮く」


 良い意見だけではない。


 むしろ、使いにくい部分が次々に見つかる。


 それでも、教室の空気は暗くならなかった。


 誰かが問題を口にすると、別の誰かが近づいて実際に触る。


 何が邪魔なのか。


 どう動かした時に気になるのか。


 全部直す必要があるのか。


 直すなら、どこだけ変えればいいのか。


 一つの問題を、数人で囲んで考える。


 そのたびに、試作品は少しずつ形を変えていった。


「今日、完成する?」


 三浦が尋ねた時には、窓の外の光がすでに傾き始めていた。


 紅秋は記録用紙を見た後、首を横へ振った。


「完成はしない」


「また明日?」


「今日の結果をまとめてから決める。端末支えは二種類作る案が出たし、印の形も変わった。仕切りの高さも意見が分かれてる」


「一話で終わらないな」


「何の話?」


「いや、こっちの話」


 三浦は意味の分からないことを言い、圭に肩を押された。


「でも」


 紅秋は参加者たちを見回す。


「基本の形は、かなり決まったと思う」


 机の上には、最初に作ったものよりずっと簡素な台座が置かれている。


 教科書を立てる溝。


 机へ固定するための部分。


 それだけ。


 仕切りも、端末支えも、印も、必要に応じて後から足す。


「何もついてないね」


 参加していた女子生徒が言う。


「最初より、減った」


「でも、使う人に合わせて増やせる」


 別の生徒が答える。


「最初から全部つけるより、こっちの方がいいかも」


「自分に必要なものだけ分かるし」


「選ぶ時に説明は必要だね」


「使ってみないと分からない人もいる」


「試せる場所を作れば?」


「十一組ラボで?」


 生徒たちの会話が続いていく。


 紅秋が何も言わなくても、次の課題を自分たちで見つけ始めている。


 作って終わりではない。


 誰が、どう選ぶのか。


 使い始めた後で変えられるのか。


 部品をなくしたらどうするのか。


 完成へ近づくほど、新しい問題が見えてくる。


「板倉さん」


 なつきが呼ぶ。


「何?」


「これ、完成したら終わりじゃないね」


「うん」


「使ってから、また変わるかもしれない」


「たぶん変わるよ」


「じゃあ、ずっと完成しない?」


 紅秋は少し考えた。


「一度、完成とは言えると思う。でも、それが最後の形ではない」


「完成した後も変えていい?」


「使う人が困るなら」


 なつきは台座を見つめる。


 完成は、変わらなくなることではない。


 今の条件で、今できる形を決めること。


 使い始めた後に別の問題が見つかれば、また考える。


「春樹君」


「はい」


「人も同じかな」


 春樹は、すぐには答えなかった。


「何がですか?」


「今の自分で完成してても、後から変わっていい」


「人を完成という言葉で表すのは難しいですが」


「でも、前の春樹君も今の春樹君も、春樹君でしょう」


 昨日も話したことだった。


 以前より話すようになった春樹。


 自分の気持ちを、少しずつ言葉にするようになった春樹。


 それでも、本を読むことや、考えてから話すことは変わらない。


「そうですね」


 春樹は静かに頷いた。


「変わった部分があっても、全部が別になるわけではありません」


「じゃあ、これからもっと変わる?」


「僕がですか?」


「私も」


「分かりません」


「でも、変わってもいいね」


「はい」


「変わらないところも、残ってていい」


「はい」


 二人は並んで、試作品を見る。


 台座の基本は、昨日と同じ。


 けれど、必要な部品を選べるようになった。


 変わらない場所と、変えられる場所が、昨日よりはっきりしている。


 二人の関係も、同じだった。


 学校で会えば話す。


 図書室では、本の話をする。


 十一組ラボでは、一緒に考える。


 それらは変わらない。


 ただ、朝に待つようになった。


 隣にいてほしいと、言うようになった。


 学校の外でも連絡できるようになった。


 少しずつ、変わる場所が増えている。


「今日はここまで」


 紅秋の声が教室へ響いた。


「片づけを始めるよ。仮留めの部品は、外さないでそのまま棚へ置く。端末は持ち主へ返して、記録用紙は私のところへ」


 生徒たちが動き出す。


 昨日より参加者が多いため、片づけも早かった。


 机を戻す者。


 床を掃く者。


 材料を箱へ分ける者。


 端末を返す者。


 なつきと春樹は、今日も同じ試作品を二人で運んだ。


「落とさないように」


 春樹が言う。


「分かってる」


「昨日、少し傾きました」


「春樹君が止まったからでしょう」


「今日は止まりません」


「本当に?」


「作業中なので」


「じゃあ、覚えてるって言っても止まらない?」


 春樹の足が、わずかに遅くなる。


「今、少し遅くなった」


「机は傾いていません」


「でも遅くなった」


「横田さん」


「何?」


「試していますか?」


「何を?」


「僕が止まるかどうか」


 なつきは少し考えてから笑った。


「少しだけ」


「危ないのでやめてください」


「分かった」


「本当に?」


「棚に置くまで言わない」


「その後は?」


「言うかも」


 春樹は返事をせず、試作品を棚へ置いた。


 二人が手を離す。


「置いたよ」


 なつきが言う。


「はい」


「春樹君」


「覚えています」


 先に答えられ、なつきは目を丸くした。


「まだ何も言ってない」


「言うと思ったので」


「何を?」


「隣で見る約束を覚えていたか」


「違うよ」


「違うんですか?」


「今日、隣でよかったって、もう一回言おうと思った」


 春樹は黙った。


 なつきは、今度は逃がさないように彼の顔を見る。


「私は、隣でよかった」


「僕もです」


「本当?」


「はい」


「安心した?」


「しました」


「私も」


 なつきは満足したように笑った。


 その少し離れた場所で、三浦が材料箱を持ちながら圭へ囁く。


「もう毎回確認するんだな」


「聞こえるよ」


「小声だよ」


「教室が静かになってきてるから」


「でも、大國も答えるようになった」


「そうだね」


「昨日までなら、作業しやすかったです、で終わってた」


「本人たちが少しずつ言えるようになったんだから、見守ろう」


「俺も見守ってる」


「実況しながら見守るのは違う」


 三浦は口を閉じた。


 片づけが終わる頃には、最終下校時刻までまだ少し余裕があった。


 昨日ほど遅くはない。


 参加者たちは、明日の試験へ持ってきたい物や、家で確認してくることを話しながら帰り支度を始める。


「俺、大きい端末もう一台借りられるか聞く」


「ケースが厚いものがいい」


「家に古いのあるかも」


「仕切りの高さ、段ボールで何種類か作ってこようか?」


「勝手に完成させず、比較できる形にして」


「分かった」


 十一組ラボは、教室の一部ではなくなりつつあった。


 放課後だけではなく、家へ帰った後にも、試作品について考える者がいる。


 明日持ってくる物を探す者がいる。


 自分の机の使い方を、改めて観察しようとする者がいる。


 なつきは、その様子を見回しながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


「春樹君」


「はい」


「みんな、家でも考えるんだね」


「そうですね」


「十一組ラボが、教室の外まで続いてる」


「横田さんも、家で考えるでしょう」


「うん」


「僕も考えます」


「じゃあ、連絡する?」


「試作品のことをですか?」


「それも」


「それも?」


「本の感想もあるでしょう」


「覚えています」


「九時まで」


「はい」


「待ってる」


 春樹は、なつきの顔を見た。


 待っていると言われる。


 その言葉が、自分の行動を少しだけ前へ押す。


「必ず送ります」


「約束?」


「約束です」


 なつきは大きく頷いた。


 二人は教室を出た。


 今日は茜と紅秋、三浦、圭も一緒だった。


 廊下には、部活動へ向かう生徒たちの声が残っている。窓から入る夕方の光は昨日より明るく、床の上へ長い影を伸ばしていた。


「横田」


 階段へ向かう途中、三浦が後ろから呼んだ。


「何?」


「大國と連絡先交換したんだよな」


「うん」


「俺とも交換する?」


「どうして?」


「十一組ラボの連絡」


「板倉さんがまとめるでしょう」


「個別に思いついた時とか」


「板倉さんに送れば?」


 三浦は言葉に詰まった。


 圭が笑いを堪える。


「三浦、理由が弱かったね」


「大國とは交換したのに」


「春樹君が休んだ時、心配だから」


「俺が休んだら?」


 なつきは少し考える。


「板倉さんが知ってそう」


「扱いが違いすぎない?」


「三浦君は、休んでも次の日に元気に来そう」


「大國は?」


「春樹君が休んだら、何かあったかもしれないって思う」


「俺にも何かあるかもしれない」


「プリントを探して遅れるとか?」


「それは休まない」


 周囲から笑いが起こる。


「三浦君」


 紅秋が言う。


「必要なら、ラボ用の連絡グループを作る方法もあるよ」


「本当?」


「参加者が増えたから、個別に伝えるより楽かもしれない」


「じゃあ、横田と大國も入る?」


「入ると思う」


「それなら、二人が交換した意味が」


「ラボ以外の連絡もあるでしょう」


 紅秋が何気なく答えた。


 その瞬間、三浦がなつきと春樹を交互に見る。


 春樹の耳が、少し赤くなる。


「本の感想を送ってもらうの」


 なつきが先に答えた。


「今夜」


「今夜?」


「春樹君が読んだ本の感想」


「業務連絡じゃないんだな」


「本の話」


「それを業務とは言わない」


 三浦は何かを納得したように頷く。


「学校の外でも話すんだ」


「連絡先を交換したから」


「そうだけど」


「三浦」


 圭が肩を叩く。


「それ以上はやめよう」


「何も悪いこと言ってない」


「本人たちが普通に答えるから、三浦の方が困ってるでしょう」


 三浦は否定できず、口を閉じた。


 昇降口で靴を履き替え、校門へ向かう。


 途中で紅秋と三浦、圭が別の道へ分かれ、茜もなつきの隣へ並んだ。


 春樹は少し後ろを歩いている。


「なつき」


 茜が小声で呼ぶ。


「何?」


「今夜、本当に待つの?」


「うん」


「九時までずっと端末見てるつもり?」


「見てないよ」


「じゃあ、何するの?」


「ご飯食べて、お風呂入って、明日の準備して」


「普通だね」


「でも、来たらすぐ分かるようにする」


「通知音、入れておく?」


「うん」


「大國君、長い感想を送ってきそう」


「春樹君の文章、読みたい」


「返事も長くなる?」


「分からない」


「考えすぎて、十一時を過ぎないようにね」


「春樹君は十時までって言ってた」


「受け取るのは九時まででしょう」


「でも、返事は」


「急がなくてもいいよ」


 茜は少しだけ笑った。


「大國君も、きっと送るまで考える。なつきまで返事を急いだら、二人とも疲れるでしょう」


「でも、待たせたら悪い」


「待ってるって言っても、すぐ返事が来ることだけを待ってるわけじゃないと思う」


「どういうこと?」


「読んでくれること。自分の言葉がなつきへ届くこと。それで十分な時もあるんじゃない?」


 なつきは、少し考えた。


「春樹君も、私が送ったのを残すって言った」


「うん」


「話したのと同じでも、残るって」


「なら、急がず読んで、ちゃんと返せばいいよ」


「分かった」


 校門の前で、春樹が追いつく。


「何の話をしていたんですか?」


「春樹君から来た連絡に、すぐ返せなくてもいいかって」


「急がなくて大丈夫です」


 春樹はすぐに答えた。


「でも、待ってるでしょう」


「読んでもらえれば十分です」


「茜ちゃんと同じこと言った」


「そうですか」


「でも、返事はするよ」


「はい」


「春樹君も、私から来た時、急がなくていいからね」


「分かりました」


 二人は互いに頷いた。


 茜はその横で、何も言わずに笑う。


 帰り道の途中で、春樹と別れる場所へ着く。


「では、また明日」


 春樹が言う。


「その前に、今夜」


 なつきが答える。


「はい」


「待ってるね」


「九時までには送ります」


「うん」


「横田さんも、無理に起きていなくて大丈夫です」


「九時なら起きてるよ」


「そうでした」


「春樹君も、感想を長くしすぎて九時を過ぎないでね」


 春樹は少し驚いた後、苦笑する。


「気をつけます」


「じゃあ、また後で」


「また後で」


 これまで別れ際に交わしていたのは、また明日、だった。


 今日は違う。


 また後で。


 学校を離れても、次に言葉を交わせることを知っている。


 なつきは春樹と別れ、茜と一緒に歩き始めた。


 数歩進んだところで振り返る。


 春樹も、やはり振り返っていた。


 目が合い、二人は同時に小さく手を上げる。


「なつき」


「何?」


「今の、毎日やるの?」


「何を?」


「振り返るの」


「春樹君も振り返ったから」


「どっちが先?」


「同じ」


「そう」


 茜は笑いながら、再び前を向いた。


 帰宅後。


 なつきは、普段より早く夕食を終えた。


 家族と話し、食器を片づけ、風呂へ入る。


 髪を乾かしている間も、机の上へ置いたスマートフォンが気になった。


 まだ七時半。


 春樹は本を読んでいる頃かもしれない。


 感想を送ると言っていた。


 どの本なのか。


 どんな話なのか。


 春樹は、何を面白いと思ったのか。


 図書室で直接聞く時には、春樹の表情を見ながら話せる。


 今日は文字だけだ。


 表情が見えない分、春樹が選んだ言葉を、いつもよりゆっくり読める気がする。


 八時。


 なつきは明日の準備を始めた。


 教科書を揃え、提出物を鞄へ入れる。


 十一組ラボの記録板も確認する。


 途中、端末の画面を一度開く。


 新しい連絡はない。


「まだだよね」


 誰もいない部屋で、小さく呟く。


 約束は九時まで。


 急がなくていい。


 茜にも、春樹にも言われた。


 なつきは端末を伏せ、明日の持ち物へ視線を戻した。


 八時十五分。


 机へ座り、今日の授業の復習を始める。


 数問解いたところで、また時間を見る。


 八時二十八分。


 まだ早い。


 八時四十分。


 スマートフォンは静かなまま。


 なつきは、春樹が送る文章を考えている姿を想像した。


 短すぎないか。


 長すぎないか。


 分かりにくい言葉になっていないか。


 何度も読み返しているかもしれない。


「春樹君らしい」


 そう思うと、待つ時間まで少し楽しくなった。


 すぐに届かないから不安なのではない。


 今、春樹が自分へ渡す言葉を考えているかもしれない。


 その時間ごと、待っていたい。


 八時五十二分。


 なつきは机の上へ頬杖をつき、開いた教科書を見ていた。


 文字は目に入っているが、意味までは頭へ入ってこない。


 あと八分。


「九時までには、だから」


 八分後とは限らない。


 そう自分へ言い聞かせた瞬間。


 机の上のスマートフォンが、小さく震えた。


 画面が明るくなる。


 表示された名前は。


 大國春樹。


 なつきは、反射的に端末へ手を伸ばした。


 すぐに開きかけて、一度だけ手を止める。


 急いで開くと、待っていたことが春樹へ伝わるだろうか。


 既読の時間で分かるかもしれない。


 でも、待っていると伝えてある。


 隠す必要はない。


 なつきは画面を開いた。


 春樹からの文章は、思っていたより長かった。


『こんばんは。昼休みに話した本を読み終えました。


 主人公が、自分には何も変えられないと思いながら、それでも毎日同じ場所へ通い続ける話でした。大きな出来事を起こすのではなく、最初は誰にも気づかれないような小さな行動を繰り返します。


 その行動によって、周囲の人が少しずつ変わっていくところが面白かったです。


 主人公自身は、自分が誰かへ影響を与えていると最後まであまり理解していませんでした。けれど、周囲の人にとっては、その人が毎日そこにいること自体が意味になっていました。


 今日、横田さんが教室へ早く来てくれたことを思い出しました。


 内容は違いますが、誰かが来ることや、そこにいることだけでも、安心する人がいるのだと思いました。


 長くなってすみません。おやすみになる前に読んでもらえれば大丈夫です』


 なつきは、最初から最後まで一度読んだ。


 すぐに、もう一度読んだ。


 そして三度目は、少しゆっくり読む。


 主人公が毎日同じ場所へ通う。


 大きなことをするわけではない。


 ただ、そこにいる。


 周囲にとっては、それだけで意味がある。


 今日、横田さんが教室へ早く来てくれたことを思い出しました。


 その一文で、胸の奥が強く鳴る。


 本の感想だけではなかった。


 春樹は、本を読みながら自分のことを思い出した。


 教室へ来た自分のことを。


 待っていた朝のことを。


 なつきは、画面を見つめたまま、頬が少し熱くなるのを感じた。


「春樹君らしい」


 今度は、声に出して笑った。


 長くなってすみません。


 最後にそう書いてある。


 けれど、長いとは思わなかった。


 もっと読みたいとさえ感じた。


 なつきは返信欄を開く。


 最初に入力したのは。


『読んだよ』


 そこで指を止める。


 茜は、読んだと返せばいいと言った。


 春樹も、急がなくていいと言った。


 けれど、これだけでは足りない。


 なつきは文章を続ける。


『長くないよ。送ってくれてありがとう。


 春樹君が、本を読みながら今日のことを思い出してくれたのが嬉しかった。


 私も、春樹君が教室にいると安心する。


 今日、春樹君が待ってたって言ってくれたから、早く来てよかったって思った。


 明日も行くね』


 そこまで打ち、なつきは読み返す。


 最後に、何か足りない気がした。


 今日、春樹が隣にいて安心したこと。


 放課後の試験で一緒に作業できて嬉しかったこと。


 今、連絡が届くのを待っていたこと。


 どれも伝えたい。


 ただ、一度に全部送ると長くなりすぎるかもしれない。


 春樹は長くても困らないと言うだろうか。


 なつきは少し考え、もう一文だけ加えた。


『それから、連絡が来るのを待ってた。来た時、すごく嬉しかった』


 送信ボタンの上で、指が止まる。


 すごく嬉しかった。


 大きすぎるだろうか。


 春樹を困らせないだろうか。


 しかし、嘘ではない。


 待っていた。


 画面に春樹の名前が出た時、本当に嬉しかった。


 なつきは、そのまま送信した。


 送った直後、急に恥ずかしくなった。


「長かったかな」


 春樹の文章よりは短い。


 けれど、自分の気持ちばかり書いた。


 明日も行く。


 待っていた。


 嬉しかった。


 春樹は、どう受け取るだろう。


 既読がつくまで、なつきは画面を見つめた。


 数秒。


 十秒。


 三十秒。


 既読の表示がつく。


 春樹が読んでいる。


 そのことを意識した瞬間、心臓が早くなる。


 返事はすぐには来なかった。


 一分。


 二分。


 春樹は、きっと考えている。


 どの言葉を返すか。


 どこまで書くか。


 なつきは端末を机へ置き、待つ。


 学校で春樹が黙って考える時と同じ。


 画面の向こうでも、春樹はすぐに言葉を選ばない。


 その沈黙が、今は不安ではなかった。


 三分ほど経った頃、再び端末が震えた。


『読んでくれて、ありがとうございます。


 長すぎたかもしれないと思っていたので、そう言ってもらえて安心しました。


 横田さんが待っていてくれたことも、嬉しいです。


 明日も教室で待っています。


 ただ、無理に早く起きなくても大丈夫です。来られる時間に来てください』


 なつきは、思わず笑った。


 春樹らしい。


 来てほしいと言いながら、必ず無理をしなくていいと付け加える。


 待っていると伝えながら、相手の負担を気にする。


 昨日までなら、なつきはそれを遠慮だと思ったかもしれない。


 今は違う。


 来てほしい気持ちと、無理をしてほしくない気持ち。


 どちらも春樹の本当の気持ちなのだと分かる。


『無理しないよ。私も早く行きたいから行く。


 春樹君も、眠かったら無理しないでね』


 送る。


 少しして、返事が来る。


『僕はいつも同じ時間に起きているので、大丈夫です』


『春樹君らしいね』


『そうでしょうか』


『うん。毎日同じ時間に来て、本を読んでるところ』


『横田さんは、毎日少し違います』


『悪い意味?』


『悪い意味ではありません。何を話すか分からないので、会うと気になります』


 なつきは、その文章を読んで目を丸くした。


 会うと気になる。


 昨日から何度も聞いた言葉。


 けれど、画面の中で改めて読むと、違う温度を持っているように感じる。


『会う前も気になる?』


 送った後で、少し直接的だったかと思う。


 春樹の返事は、また少し時間が掛かった。


『はい』


 短い一言。


 その下へ、少し遅れてもう一通届く。


『今日の朝は、横田さんが来る前から気にしていました』


 なつきは、端末を両手で持った。


 嬉しい。


 胸の奥から、その感情が何度も広がる。


『私も、春樹君がいるかなって教室の前で止まったよ』


『遠山さんと一緒でしたか?』


『うん。茜ちゃんに先に見てもらおうとした』


『どうしてですか?』


『急に春樹君がいたら、びっくりすると思ったから』


『僕は、いつも教室にいます』


『昨日、来てほしいって言われたから、今日は違ったの』


 送信。


 既読。


 その後、返事が来ない。


 なつきは少しだけ不安になる。


 困らせただろうか。


 言いすぎただろうか。


 けれど、春樹が言葉を選んでいるだけかもしれない。


 しばらくして、ようやく返事が届いた。


『僕も、昨日までとは少し違いました』


 それだけだった。


 けれど、なつきには十分だった。


 昨日までとは違った。


 春樹も、同じ朝をそう感じていた。


『同じだね』


 なつきは送る。


『はい』


 春樹から返ってくる。


 短い言葉が、画面の中へ並ぶ。


 学校で話している時なら、そこで互いに笑ったかもしれない。


 今は表情が見えない。


 それでも、春樹も少し笑っているような気がした。


 時計を見る。


 九時半を過ぎている。


 昼休みに決めた時間では、まだ連絡してもよい範囲だ。


 けれど、なつきは明日早く寝ると約束した。


 十一時までには眠る。


 まだ余裕はあるが、このまま話し続ければ、時間を忘れそうだった。


『春樹君』


『はい』


『まだ話したいけど、今日は早く寝る約束したから、そろそろやめる』


 送ると、春樹からすぐに返事が来た。


『分かりました』


 少しだけ寂しい。


 学校なら、別れ道が来る。


 授業が始まる。


 図書室が閉まる。


 会話を終える理由が自然にやってくる。


 連絡では、どこで終わればいいのか自分で決めなければならない。


 話したいことはまだある。


 明日の十一組ラボ。


 端末支え。


 印の色。


 春樹が読んだ本の続きをもっと聞きたい。


 でも、全部を今日話す必要はない。


 明日も会える。


『続きは明日話すね』


『はい。明日、聞きます』


『待ってて』


『待っています』


 なつきの指が止まる。


 最後に何と送ればいいのか。


 おやすみ。


 それだけでいい。


 けれど、春樹へ初めて送る夜の終わりの言葉だと思うと、少しだけ特別に感じる。


『おやすみ、春樹君。また明日』


 送信。


 数秒後。


『おやすみなさい、横田さん。また明日』


 画面へ表示された文章を、なつきはしばらく見つめていた。


 また明日。


 いつも口にしている言葉。


 けれど今夜は、学校を離れた場所から届いた。


 春樹も、自分の家にいる。


 同じ教室にはいない。


 声も、表情も見えない。


 それでも、文字が二人の間をつないでいる。


 なつきは端末を机へ置き、椅子から立ち上がった。


 明日のために、眠る準備をする。


 春樹が待っている教室へ行くために。


 そして春樹もまた、自分が来ることを待っている。


 そのことを、今夜は画面の中でも確かめられた。


 一方。


 同じ頃。


 春樹は、自室の机へ端末を置いたまま、最後に届いた文章を見つめていた。


 おやすみ、春樹君。また明日。


 声に出して呼ばれることには慣れていたはずだった。


 それでも、文字として自分の名前が送られてくると、なつきが自分だけへ向けて書いた言葉なのだと強く感じる。


 春樹は、昼休みに届いた文章を遡って見る。


 こんにちは。


 放課後、十一組ラボで試験します。


 なつきでもいいよ。


 短いものばかりだ。


 それでも、一つずつ残っている。


 なつきが自分を待っていたこと。


 連絡が届いて嬉しかったこと。


 明日も早く来ること。


 学校では、言葉を聞いた後、時間とともに会話は流れていく。


 記憶には残るが、同じ形で見返すことはできない。


 画面の中では、なつきが選んだ言葉がそのまま残っている。


 春樹は、自分が送った文章も読み返した。


 今日の朝は、横田さんが来る前から気にしていました。


 送信した時には、少し直接的すぎたかもしれないと思った。


 けれど、なつきは同じだと返してくれた。


 言葉にしなければ分からない。


 昨日から、何度も確かめている。


 そして言葉にすると、相手の中へ届くだけではなく、自分の中にも残る。


 自分は、なつきを待っていた。


 会う前から気にしていた。


 連絡を待っていてくれたことが嬉しかった。


 文字にしたことで、その気持ちは昨日よりはっきりしていた。


 春樹は端末の画面を閉じた。


 明日も、なつきが来る。


 教室の扉が開く。


 なつきは、自分の席へ鞄を置く前に、こちらへ来るかもしれない。


 来てほしい。


 その気持ちを、もう隠さなくてもいい。


 ただ、無理をしてほしくない。


 それも同じように伝えていい。


 どちらか一つへ決めなくてもいい。


 十一組ラボの試作品と同じように、変えなくていい部分を残したまま、必要な場所だけを変えていけばいい。


 静かなままでいい。


 慎重なままでいい。


 ただ、待っている時には待っていると伝える。


 嬉しい時には、嬉しいと返す。


 春樹は明日の目覚ましを確認し、本を閉じた。


 なつきへ感想を送るために読んだ本。


 その物語の中では、主人公が毎日同じ場所へ通い続けていた。


 そこにいるだけで、誰かにとっての意味になっていた。


 今日の朝、なつきが教室へ来た時。


 春樹は、その意味を少しだけ理解した。


 そして今夜。


 なつきから言葉が届いた時にも、同じように安心した。


 姿が見えなくても。


 声が聞こえなくても。


 相手から届いた短い言葉が、そこにいることを教えてくれる。


 連絡先を交換したことで、会えない時間が消えたわけではない。


 二人は別々の家で、別々の夜を過ごしている。


 ただ、その離れた時間の中へ、互いの言葉を置けるようになった。


 なつきは、春樹から届く言葉を待つ。


 春樹は、なつきが読んでくれることを思いながら書く。


 そして、送った言葉が届いたと分かった時。


 会えない時間まで、少しだけ近くなる。


 大きな変化ではない。


 明日になれば、また同じ教室で会う。


 なつきは春樹の席へ行き。


 春樹は本から顔を上げる。


 昨日までと似た朝が始まる。


 それでも、二人の間には今夜の言葉が残っている。


 おやすみ。


 また明日。


 画面の中で交わした初めての夜の挨拶が、明日の朝へ続く小さな道のように、二人の間へ静かに伸びていた。

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