第155話 連絡先を交換すると、会えない時間まで少し近くなる
昼休みの予鈴が鳴った瞬間、二年十一組の教室には、午前中の授業を終えた生徒たちの息が一斉にほどけるような空気が広がった。
教科書を閉じる音。椅子を引く音。弁当袋を机の横から取り出す音。購買へ向かう生徒たちが、まだ教師の姿が廊下へ消えきる前から扉の近くへ集まり、互いに急かす声を上げている。
「今日は焼きそばパン、残ってるかな」
「昨日、三分でなくなったよ」
「今日は授業終わる前から準備してた」
「それ、先生に見られてたけど」
「心の準備だから大丈夫」
「鞄を開けて財布持ってたでしょう」
そんな会話を残し、数人が廊下へ駆け出していく。
その後ろから担任の「走るな」という声が届いたが、返事だけは元気よく、足音は少しも遅くならなかった。
なつきは机の上へ弁当箱を置きながら、午前中に何度も思い出していたことを、もう一度頭の中で確かめた。
春樹と連絡先を交換する。
朝、茜に話した。
休み時間に聞こうと思った。
けれど一時間目の休み時間は、提出物を出し忘れた三浦が教室中を巻き込み、二時間目の後は次の教室への移動があり、三時間目の後には教師からプリントを配るよう頼まれた。
四時間目の前には、今度こそ聞こうと春樹の席へ向かったものの、図書委員の一年生が確認に来ており、結局声を掛けられないまま授業が始まった。
忘れていたわけではない。
むしろ、春樹を見るたびに思い出していた。
それなのに、聞く機会を考え始めると、なぜか少しだけ難しくなる。
「なつき」
弁当箱の包みを解かずに見つめていると、茜が隣から声を掛けた。
「連絡先」
「覚えてるよ」
「まだ聞いてないよね」
「うん」
「忘れてたわけじゃないんだ」
「春樹君を見るたびに思い出してた」
「それなら、聞けばよかったのに」
「人がいたから」
茜は、教室の中を見回した。
「今も人はいるよ」
「昼休みだから、みんな自分のことしてるでしょう」
「朝も、みんな自分のことをしてたと思う」
「でも、静かだった」
「今は騒がしいから大丈夫ってこと?」
「たぶん」
なつきは春樹の席へ視線を向けた。
春樹はまだ弁当を出していなかった。
机の上には、午前中に配られた図書委員会の資料が置かれており、そこへ小さな書き込みをしている。
普段なら、すぐに近づいて話しかけられる。
けれど今日のなつきは、朝から春樹との会話を意識しすぎていた。
待っていました。
来てくれて、よかったです。
明日も待っています。
春樹が自分へ向けて言った言葉が、授業中も、休み時間も、何度も胸へ戻ってくる。
連絡先を聞くこと自体は、特別なことではない。
クラスメイト同士で交換する者は多い。
十一組ラボの連絡にも使える。
図書委員の確認にも使える。
理由はいくらでもある。
それなのに、自分が最初に思った理由だけは、少し違っていた。
春樹が学校を休んだ時、すぐに理由を知りたい。
心配した時、連絡できるようにしたい。
それを言葉にすると、朝の教室で「来てほしい」と言われた時と同じように、周囲が静かになるような気がしていた。
「行かないの?」
茜が尋ねる。
「行く」
「今?」
「うん」
なつきは弁当を包み直し、席を立った。
茜も弁当箱を持ち上げる。
「茜ちゃんも来るの?」
「一緒に食べるでしょう」
「春樹君のところで?」
「いつも、四人で集まる時はそうでしょう」
「今日は二人で話すかもしれない」
茜の動きが止まった。
なつきは、言った後で自分の言葉を考え直すように首を傾げた。
「連絡先を聞くだけだけど」
「今の言い方だと、私が邪魔みたいに聞こえたよ」
「邪魔じゃないよ。でも、春樹君に聞くのは私だから」
「それなら、先に行って聞いてきて」
「茜ちゃんは?」
「ここで待つ」
「一緒に食べないの?」
「交換が終わったら呼んで」
茜はそう言い、自分の席へ座り直した。
少し離れた場所では、紅秋がそのやり取りを聞いていたらしく、弁当袋を開けながら小さく笑っている。
「板倉さん」
茜が呼ぶ。
「何?」
「今、笑った?」
「少しだけ」
「どうして?」
「遠山さんが、横田さんに追い返される日が来るとは思わなかったから」
「追い返されたわけじゃないよ」
「似たようなものじゃない?」
「なつきに悪気はないから、余計に困るんだよね」
「でも、二人で話したいってことを自分で言えたのは、進歩かも」
「本人は、連絡先を聞くだけだと思ってるけどね」
二人の小さな会話を背中に受けながら、なつきは春樹の席へ向かった。
途中、三浦と圭が机を寄せ、昼食の準備をしている。
三浦は弁当箱の蓋を開けながら、なつきが通り過ぎるのを目で追った。
「また大國のところ?」
「うん」
「十一組ラボ?」
「違うよ」
なつきは足を止めずに答える。
「じゃあ何?」
「春樹君と二人で話す」
三浦の箸が弁当の上で止まった。
圭は一度だけ目を閉じ、すぐに三浦の肩を押した。
「三浦。今は聞かない方がいい」
「まだ何も聞いてない」
「顔が聞いてる」
「顔で聞けるなら便利だな」
「余計なことを言う前に食べよう」
三浦は納得していない様子だったが、なつきはすでに春樹の席へ着いていた。
「春樹君」
声を掛けると、春樹は資料から顔を上げた。
「はい」
「今、話していい?」
「大丈夫です」
「二人で」
春樹の手が止まる。
教室のざわめきは大きい。
購買から戻ってきた生徒たちが、手に入れたパンを見せ合っている。窓際では、誰かが昼休みの予定を話し、廊下から別のクラスの笑い声も聞こえる。
それでも春樹には、なつきの「二人で」という言葉だけが、周囲の音から切り離されて聞こえた。
「場所を移動しますか?」
「ここでいいよ」
「二人で話すのでは?」
「みんな、自分の話してるから聞いてないでしょう」
春樹は、教室の何人かが明らかにこちらへ耳を向けていることへ気づいていた。
特に三浦は、弁当を食べながら顔を横へ向けすぎている。圭が何度も前へ戻そうとしているが、そのたびに少しずつ戻ってきていた。
「横田さん」
「何?」
「内容によっては、場所を変えた方がいいかもしれません」
「連絡先を交換したいだけだよ」
春樹の表情が固まった。
三浦が弁当の蓋へ箸を落とした。
乾いた音が教室へ響く。
「三浦」
「落としただけ」
「そうだね」
圭は諦めたように箸を拾って渡した。
春樹は一度、なつきを見た後、周囲へ視線を向ける。
「連絡先ですか?」
「うん」
「僕と?」
「春樹君以外に誰がいるの?」
「いえ」
春樹は、少しだけ姿勢を正した。
「どうして交換しようと思ったんですか?」
「春樹君が休んだ時に、すぐ連絡できないから」
今度は、三浦だけではなかった。
近くで昼食を取っていた数人が、会話の途中で口を閉じる。
なつきは気づかず、続けた。
「今日、茜ちゃんと話してて分かったの。春樹君が教室に来なかったら、私は理由を知らない。先生に聞いても、すぐに分からないかもしれないでしょう」
「はい」
「心配しても、何もできないのは嫌だから」
春樹は、すぐに返事ができなかった。
十一組ラボの連絡。
図書委員の予定。
そういう理由を先に言われると思っていた。
どれも交換するには十分な理由だ。
だが、なつきが最初に口にしたのは、自分が休んだ時のことだった。
「もちろん、十一組ラボの連絡にも使えるよ」
なつきが付け加える。
「図書委員の予定も聞けるし」
「後から理由を増やさなくても大丈夫です」
「茜ちゃんにも同じこと言われた」
「遠山さんが?」
「うん。最初の理由が一番大きいんでしょうって」
「そうなんですか?」
「たぶん」
なつきは少し考えた後、素直に頷いた。
「春樹君が休んでたら、心配すると思う」
春樹の胸の奥へ、その言葉がゆっくりと沈んでいく。
昨日、自分はなつきがいないと気になると伝えた。
今朝も、なつきが教室へ来るまで扉を気にしていた。
それと同じように、なつきも自分がいなければ心配する。
頭では昨日から分かっていたはずなのに、改めて言葉にされると、その重さは違った。
「交換してもいいですか?」
なつきが尋ねる。
「はい」
春樹は迷わず答えた。
「僕も、交換したいです」
「本当?」
「はい」
「どうして?」
今度は春樹が答える番だった。
なつきが休んだ時。
教室へ来ない時。
朝、いつもの時間になっても姿が見えない時。
自分もきっと心配する。
昨日までは、そう思っても連絡する方法がなかった。
「横田さんが休んだ時に、僕も連絡できるようにしたいからです」
なつきの目が、少しだけ大きくなる。
「心配する?」
「します」
「すぐ?」
「理由が分からなければ」
「じゃあ、同じだね」
「はい」
なつきは嬉しそうに笑った。
春樹も、ほんの少しだけ表情を緩める。
二人はそれぞれスマートフォンを取り出した。
なつきが画面を開きながら、手を止める。
「どうやって交換する?」
「連絡先の画面を開いてください」
「これ?」
「それは写真です」
「間違えた」
「一度戻ってください」
「戻った」
「今度は設定です」
「連絡先って、どこ?」
「貸してもらってもいいですか?」
「うん」
なつきは迷わずスマートフォンを差し出した。
春樹は受け取ろうとして、一瞬だけ手を止めた。
個人の端末を預かる。
ただ操作を手伝うだけだが、なつきの手の中にあったものが自分の手へ渡されることに、少しだけ緊張する。
「どうしたの?」
「いえ」
春樹は端末を受け取った。
画面には、先ほど間違えて開いた写真の一覧が一瞬だけ見えた。
校内の風景。
十一組ラボの試作品。
茜と一緒に撮ったらしい写真。
弁当。
猫。
そして、その中に、図書室で本を読んでいる春樹の横顔が小さく映っていた。
春樹は反射的に画面を止めた。
「横田さん」
「何?」
「この写真は」
なつきが画面を覗き込む。
「あ、それ」
「いつ撮ったんですか?」
「図書室」
「それは分かります」
「春樹君が本を読んでた時」
「僕は、撮られたことを知りませんでした」
「言ってないから」
「どうして撮ったんですか?」
なつきは、少しだけ考える。
「本を読んでる春樹君が、春樹君らしかったから」
春樹は返事を失った。
「駄目だった?」
「駄目ではありませんが」
「消した方がいい?」
なつきが不安そうに尋ねる。
春樹は画面の中の自分を見る。
窓から入る光の中で、本を読んでいる。顔は横向きで、なつきの存在にはまったく気づいていない。
勝手に撮られたことへ驚きはある。
けれど、なつきがその姿を残したいと思ったことを知ると、消してほしいとは言えなかった。
「そのままで大丈夫です」
「本当?」
「はい」
「よかった」
なつきは安心したように笑う。
「でも、今度から撮る前に言ってください」
「分かった」
「約束できますか?」
「うん」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは約束してください」
「分かった。撮る前に聞く」
「お願いします」
春樹は写真の画面を閉じ、連絡先の交換画面を開いた。
その間、周囲から向けられる視線が増えている。
三浦は完全に食事を止めていた。
圭も止めることを諦め、同じようにこちらを見ている。
紅秋と茜は、自分たちの机を近づけて昼食を取りながら、表面上は会話を続けているものの、時折二人へ視線を向けていた。
「できました」
春樹はなつきへ端末を返す。
「この画面を僕の端末で読み取ります」
「うん」
なつきが画面を見せ、春樹が自分の端末を近づける。
短い音が鳴り、互いの連絡先が登録された。
「入った?」
「はい」
「私の名前、どうなってる?」
「横田なつきさんです」
「さん、ついてるの?」
「連絡先の表示名なので」
「春樹君は、大國春樹君にした方がいい?」
「君は要りません」
「じゃあ、大國春樹」
「はい」
なつきは登録された名前を見つめた。
画面の中に、春樹の名前がある。
いつでも連絡できる。
そう考えると、不思議な感覚がした。
これまで春樹と話せるのは、学校の中だけだった。
教室。
図書室。
廊下。
十一組ラボ。
学校を離れれば、次に会うまで話す方法はなかった。
けれど今は、放課後も、休日も、春樹へ言葉を届けられる。
会えない時間まで、少し近くなったように感じる。
「春樹君」
「はい」
「試しに送っていい?」
「何をですか?」
「何でも」
「目の前にいますが」
「届くか確認するの」
「それなら」
なつきは文字を入力し始めた。
春樹の端末が、すぐに小さく震える。
画面を開くと、短い文章が表示されていた。
『春樹君、こんにちは』
春樹はなつきを見る。
「こんにちは」
「返事は端末でして」
「目の前にいます」
「確認にならないでしょう」
春樹は仕方なく文字を入力する。
『こんにちは、横田さん』
今度は、なつきの端末が震えた。
「来た」
「届きましたね」
「うん」
なつきは画面を見て、少し笑う。
「横田さん、なんだ」
「いつもそう呼んでいるので」
「連絡先でも?」
「変ですか?」
「変じゃないけど」
なつきは少し考え、春樹へもう一通送った。
『なつきでもいいよ』
春樹は画面を見たまま、動きを止めた。
周囲の生徒たちには内容まで見えていない。
ただ、春樹の耳が急に赤くなったため、何かがあったことだけは分かる。
「大國」
三浦が小声で呼ぶ。
「何が来た?」
「三浦君」
紅秋の声が飛ぶ。
「はい」
「人の連絡内容を聞かない」
「でも、顔が」
「見ない」
「教室で交換してるんだから、気になるだろ」
「気になっても聞かない」
「板倉は気にならないの?」
「気になるけど、聞かない」
「正直だな」
三浦は一度だけ笑い、ようやく弁当へ箸を戻した。
春樹は、画面の文字を見つめたままだった。
「横田さん」
「うん」
「これは」
「いつも横田さんだから、連絡の時はなつきでもいいってこと」
「急に呼び方を変えるのは」
「嫌?」
「嫌ではありません」
「じゃあ、呼べる?」
春樹はすぐに答えられなかった。
昨日、来てほしいと言うだけでも時間が掛かった。
今日、連絡先を交換し、画面の中で名前を呼ぶ。
声に出すわけではない。
それでも「なつき」と文字を打つことは、普段の「横田さん」とは違う距離へ踏み込むように感じられた。
「今すぐでなくてもいいよ」
なつきが言う。
「連絡する時だけでも」
「横田さんは、僕を春樹君と呼んでいます」
「うん」
「それは、最初からでしたか?」
「最初は大國君だったよ」
「いつから変わったんですか?」
なつきは記憶をたどるように、少しだけ上を見る。
「いつだったかな」
「覚えていないんですか?」
「気づいたら春樹君だった」
「そうですか」
「嫌じゃなかった?」
「嫌ではありません」
「じゃあ、春樹君も、気づいたら変えればいいよ」
なつきはそう言い、画面を閉じた。
春樹へ急いで変わることを求めない。
自分が呼び方を変えた時も、特別な日を決めたわけではなかった。
何度も話し、何度も隣へ立つうちに、自然と「春樹君」になった。
春樹も、同じでいい。
呼べると思った時に呼べばいい。
「分かりました」
春樹は小さく頷いた。
「でも、連絡先の表示は横田なつきさんのままにします」
「さん、残るんだ」
「表示名なので」
「春樹君らしいね」
「そうですか?」
「うん」
なつきは笑い、ようやく弁当を取りに自分の席へ戻ろうとした。
「横田さん」
春樹に呼ばれ、振り返る。
「何?」
「連絡先を交換してくれて、ありがとうございました」
「私が言ったんだよ」
「それでも」
「じゃあ、春樹君も交換してくれてありがとう」
二人は短く笑った。
なつきが自分の席へ戻ると、茜が待っていたように弁当箱を持ち上げる。
「終わった?」
「うん」
「無事に交換できた?」
「できたよ」
「よかったね」
「春樹君の名前、入った」
「連絡先だから、そうでしょう」
「学校にいなくても話せる」
なつきの声には、隠しきれない嬉しさがあった。
茜はその表情を見てから、少しだけ笑う。
「最初に何を送ったの?」
「こんにちは」
「普通だね」
「春樹君も、こんにちはって返してくれた」
「目の前にいるのに?」
「届くか確認したから」
「それで終わり?」
なつきは一瞬だけ黙った。
「なつきって呼んでもいいって送った」
茜の箸が止まる。
「連絡先を交換して、すぐ?」
「うん」
「大國君は?」
「まだ呼んでない」
「そりゃそうだよ」
「急がなくていいって言った」
「なつきは、そういうところだけ急に落ち着いてるよね」
「どういうところ?」
「本人は分からなくていいよ」
茜は小さく笑い、紅秋の机へ移動する。
「板倉さん、聞いた?」
「途中まで」
「なつきって呼んでもいいって送ったらしい」
紅秋は箸を持ったまま、なつきと春樹を交互に見た。
「大國君、無事?」
「本を開いたけど、読んでない」
春樹は確かに本を開いていた。
しかし、朝と同じようにページは進んでいない。
時折端末へ視線を落とし、先ほど届いた短い文面を確認している。
「本人たちの中では、連絡先を交換しただけなんだろうね」
紅秋が言う。
「だけではないと思うけど」
茜が答える。
「学校の外でもつながれるようになったから」
「それを本人たちがどこまで分かってるかだね」
「なつきは、会えない時も話せるって喜んでる」
「大國君も、たぶん同じでしょう」
「でも、連絡する内容を考えすぎそう」
「一通送るのに、十分掛かるかもね」
二人が話していると、なつきが弁当箱を持って近づいてきた。
「何の話?」
「大國君が連絡する時、どのくらい考えるか」
「春樹君、考えると思う」
「なつきは?」
「思った時に送る」
「時間は気にしてね」
茜がすぐに言った。
「夜中に送ったら駄目だよ」
「送らないよ」
「朝早すぎるのも」
「起きてるか聞く」
「その連絡で起こすかもしれないでしょう」
「じゃあ、何時ならいい?」
「夜は九時くらいまで。朝は七時以降なら、たぶん大丈夫じゃない?」
「春樹君に聞いた方がいい?」
「それが一番いいね」
なつきはすぐに春樹の席へ向かおうとした。
「今じゃなくていいよ」
茜が腕をつかむ。
「どうして?」
「まず、ご飯を食べよう」
「でも、忘れる」
「私が覚えておくから」
「さっきは自分で覚えてって言ったのに」
「なつきが、このままだと昼休み中ずっと大國君のところへ行くから」
「駄目?」
「駄目じゃないけど、食べる時間がなくなるよ」
なつきは弁当箱を見下ろした。
「じゃあ、食べる」
四人は机を寄せ、昼食を始めた。
少し遅れて春樹も弁当を持って加わる。
席の配置は、いつもと同じだった。
紅秋と茜が向かい合い、その横に春樹となつきが座る。
けれど今日は、なつきのスマートフォンの連絡先に春樹の名前があり、春樹の端末にもなつきの名前がある。
目に見えるほど大きな変化ではない。
それでも、二人が向かい合う空気には、朝までとは少し違う柔らかさがあった。
「春樹君」
なつきが卵焼きを箸で持ちながら呼ぶ。
「はい」
「連絡する時間、いつがいい?」
春樹は、すぐには質問の意味を理解できなかった。
「時間ですか?」
「夜とか朝。寝てる時に送ったら悪いから」
「通知音は小さくしているので、起こされることはないと思います」
「何時でもいい?」
「急ぎでなければ、夜は十時くらいまでにしてもらえると助かります」
「朝は?」
「六時半以降なら起きています」
「早いね」
「横田さんは?」
「朝は七時くらい。夜は十一時半くらいまで起きてる」
「明日は早く寝ると言っていました」
「今日は十一時」
「約束ですね」
「うん」
紅秋が弁当を食べながら、二人の会話を聞いている。
「連絡する時間まで決めるんだ」
「迷惑になったら嫌だから」
なつきが答える。
「横田さんから連絡が来ても、迷惑ではありません」
春樹が静かに言った。
なつきの箸が止まる。
「いつでも?」
「授業中や、眠っている時間でなければ」
「じゃあ、送りたい時に送っていい?」
「はい」
「返事がすぐ来なくても?」
「読めない時もあります」
「分かった」
なつきは頷いた。
「春樹君も、送りたい時に送ってね」
「何を送ればいいですか?」
「何でも」
「何でもが一番難しいです」
「今日読んだ本とか」
「興味がありますか?」
「春樹君が好きなら、聞きたい」
春樹は少しだけ目を伏せる。
「では、面白かった本があれば送ります」
「うん。私も送る」
「何をですか?」
「面白かったもの」
「広いですね」
「猫とか、変な雲とか、ご飯とか」
「食事の写真ですか?」
「うん。今日のお弁当も送る?」
「今、目の前にあります」
「夜に見たくなるかもしれない」
「なるでしょうか」
「私はなるよ」
紅秋と茜が、同時に小さく笑った。
「なつき」
茜が言う。
「大國君との連絡、最初からかなり多くなりそうだね」
「そう?」
「送るものがたくさんあるでしょう」
「でも、全部送ったら春樹君が困るかも」
なつきは春樹を見る。
「困る?」
「量によります」
「一日何回まで?」
「回数を決めなくてもいいと思います」
「じゃあ、送りたい時に送る」
「はい」
「返事が大変な時は言ってね」
「分かりました」
そのやり取りを聞きながら、紅秋は少しだけ表情を緩めた。
昨日までの春樹なら、「必要な連絡だけで大丈夫です」と答えたかもしれない。
なつきも、送ってよい内容を一つずつ確認し続けたかもしれない。
けれど今は、互いに無理をしないことを確かめながら、それでも話したい時には話そうとしている。
決まりを増やしすぎない。
選択肢を増やしすぎない。
必要な部分だけを決め、あとは相手へ任せる。
午前中に確認した十一組ラボの方針と、どこか似ていた。
「板倉さん」
なつきが呼ぶ。
「何?」
「今日の放課後、試験するよね」
「する予定」
「春樹君に連絡した方がいい?」
「今、隣にいるでしょう」
「でも、練習」
「何の練習?」
「連絡する練習」
紅秋は一度、春樹を見る。
春樹は困ったようにしているが、嫌そうではない。
「好きにすれば?」
「じゃあ、送る」
なつきは弁当を食べ終える前に端末へ手を伸ばした。
「まず食べて」
茜が止める。
「食べながら送れるよ」
「ご飯粒が画面につく」
「つかないようにする」
「さっき、卵焼き持ったまま触ろうとしたでしょう」
「気をつける」
「送信は食べ終わってから」
なつきは少し不満そうに端末を置いた。
「茜ちゃん、厳しい」
「端末を汚さないため」
「春樹君は気にする?」
「僕の端末ではありません」
「私が汚しても?」
「横田さんが困ると思います」
「じゃあ、食べてからにする」
春樹の言葉には素直に従うなつきを見て、茜は何とも言えない表情になる。
「私が先に言ったんだけど」
「春樹君も言ったから」
「同じ内容だよ」
「二人に言われたから、もっと気をつける」
「そういうことにしておく」
昼食が終わると、なつきは宣言通り、春樹へ連絡を送った。
『放課後、十一組ラボで試験します』
春樹の端末が震える。
目の前にいるなつきへ一度視線を向けてから、春樹は返信した。
『分かりました。参加します』
なつきの端末が震える。
「返事来た」
「目の前で見ていました」
「でも、画面に春樹君から来た」
なつきは嬉しそうに、返信を何度も見た。
「不思議だね」
「何がですか?」
「話したのと同じなのに、残る」
春樹も、自分の画面を見る。
なつきから届いた最初の連絡。
こんにちは。
放課後、十一組ラボで試験します。
どちらも、今ここで話せば済む内容だった。
それでも文字として残っていると、なつきが自分へ送った言葉として、いつでも見返すことができる。
「そうですね」
春樹は静かに答えた。
「残ります」
「消さない?」
「消しません」
「私も消さない」
三浦が、少し離れた机から身を乗り出す。
「業務連絡を宝物みたいに言うなよ」
「三浦君」
紅秋が呼ぶ。
「はい」
「また余計な観察をしてる」
「今回は聞こえたんだよ」
「聞こえても言わない」
「でも、放課後の試験は俺も参加するから、連絡内容に関係ある」
「参加の話だけならね」
三浦は口を閉じたものの、にやにやと笑っている。
圭が隣で苦笑しながら、三浦の机を軽く蹴った。
「その顔をやめよう」
「どんな顔?」
「本人たちより先に何かを決めてる顔」
「決めてないよ。ただ、もうかなり分かりやすいと思ってるだけ」
「それを決めてるって言うんだよ」
二人の小声は、なつきには届いていなかった。
なつきは端末を見つめながら、今夜、春樹へ何を送ろうか考えている。
面白かったもの。
猫。
雲。
食事。
今日の十一組ラボで気づいたこと。
話したいことは、思っていたより多い。
これまでは学校で会うまで胸の中へ置いていた言葉を、今日からはその日のうちに送ることができる。
けれど、全部を送れば春樹が困るかもしれない。
送る前に考える必要もある。
連絡先を交換すれば、いつでも話せる。
だが、いつでも話せるからこそ、相手の時間を考える必要がある。
近くなったから、何も考えなくていいわけではない。
十一組ラボで、部品を選べるようにしすぎると、使う人が迷うと分かったように。
言葉を送れる場所が増えたからといって、思いついたものを全部渡せばいいとは限らない。
「春樹君」
「はい」
「今日、最初に送るの、何がいい?」
「もう二つ送っています」
「業務連絡じゃなくて」
「こんにちはは業務連絡ではありません」
「でも、確認だったでしょう」
「そうですね」
「ちゃんと話したいこと」
春樹は少し考える。
「横田さんが送りたいものなら、何でもいいと思います」
「何でもって難しいって、春樹君が言ったのに」
「僕も、今分かりました」
「じゃあ、一緒に考える?」
「相手に送る内容を、相手と一緒に考えるんですか?」
「駄目?」
「駄目ではありませんが、不思議です」
「春樹君に、何を聞きたいかな」
なつきは、しばらく春樹の顔を見つめた。
「今日、帰ってから何する?」
「本を読みます」
「何の本?」
「昨日、図書室から借りた本です」
「面白かったら教えて」
「分かりました」
「じゃあ、それを送って」
「僕が最初に送るんですか?」
「うん」
「横田さんからではなく?」
「春樹君から来るの、待ちたい」
春樹の表情が、静かに変わった。
待ちたい。
今朝、自分がなつきを待っていたように。
放課後、学校を離れてから、今度はなつきが自分からの言葉を待つ。
「分かりました」
春樹は頷いた。
「読んだ後、感想を送ります」
「何時くらい?」
「九時までには」
「待ってる」
「はい」
なつきは嬉しそうに笑った。
茜と紅秋は、そのやり取りを聞きながら、何も言わなかった。
今夜、二人は初めて学校の外で連絡を取る。
内容は、本の感想。
それだけかもしれない。
けれど、互いに相手から届く言葉を待つ時間が生まれる。
朝、教室の扉を見ながら待つ時間とは違う。
姿が見えないまま、端末の画面が明るくなるのを待つ。
会えない時間の中でも、相手を思い出す。
その変化が、二人に何をもたらすのか。
まだ誰にも分からなかった。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
生徒たちは机を元へ戻し、弁当箱を片づけ始めた。
「放課後の試験参加者、名前を書いて」
紅秋が紙を教室の後方へ貼る。
三浦が真っ先に名前を書き、圭もその下へ続く。
昨日見学していた生徒たちも、次々に紙へ近づいていった。
「今日、多いね」
なつきが言う。
「昨日の試験が面白かったんだと思う」
茜が答える。
「見てるだけじゃなくて、意見が形になったから」
「みんなで作ってる感じがした」
「そうだね」
なつきは参加者の名前が増えていく紙を見つめた。
最初は、数人で始めた活動だった。
春樹と話し、紅秋と考え、茜に手伝ってもらいながら、少しずつ形を作ってきた。
今は、教室の多くの生徒が関わり始めている。
誰かが使いにくいと言えば、別の誰かが理由を考える。
一つの案が駄目でも、それを失敗として捨てず、別の形へ変える。
その積み重ねが、十一組ラボを十一組全体のものへ近づけていた。
「春樹君」
なつきが呼ぶ。
「はい」
「放課後も隣で見る?」
「昨日と同じように、観察する範囲を分けますか?」
「うん。でも」
なつきは少しだけ迷う。
「隣がいい」
春樹は何も言わず、なつきを見た。
昨日までなら、作業しやすいから、と理由を足したかもしれない。
記録を合わせるため。
意見をすぐ確認するため。
そういう説明があれば、二人とも安心できた。
けれど今日は、なつきは理由を加えなかった。
春樹も求めなかった。
「分かりました」
春樹は静かに頷いた。
「隣で見ます」
なつきは笑う。
「約束ね」
「はい」
授業開始を告げる鐘が鳴り、生徒たちは席へ戻る。
なつきも前へ向かいながら、一度だけ振り返った。
春樹は、すでにこちらを見ていた。
二人は声を出さず、短く頷き合う。
朝は、教室で会う約束。
昼は、連絡先を交換する約束。
放課後は、十一組ラボで隣に立つ約束。
そして夜には、春樹から本の感想が届く。
一日の中に、相手とつながる時間が少しずつ増えている。
それでも、二人は急いで何かを変えようとはしていなかった。
教室では話す。
作業では隣に立つ。
会えない時には、短い言葉を送る。
必要な場所だけ、少しずつ変えていく。
変わらなくてもいいものは、そのまま残す。
春樹は静かなまま。
なつきは真っ直ぐなまま。
ただ、相手を気にしていることを、以前より隠さなくなった。
連絡先を交換したことで、学校の外まで関係が広がったわけではない。
もともと互いのことを考えていた時間に、言葉を届ける方法が加わっただけだった。
けれど、その小さな違いは大きい。
会えない時間は、何もない時間ではなくなる。
相手から何かが届くかもしれない時間になる。
なつきは午後の授業が始まる前、机の中へしまった端末を一度だけ見た。
まだ春樹から新しい連絡は来ていない。
今は同じ教室にいるのだから、当然だった。
それでも、夜になれば、この画面へ春樹の言葉が届く。
そう思うと、帰宅後の時間まで少し楽しみになる。
春樹もまた、机の横へしまった端末を意識していた。
今夜、なつきへ何を送るのか。
本の感想を、どこまで書けばいいのか。
長すぎると困らせるかもしれない。
短すぎると、待っていたなつきへ失礼かもしれない。
すでに考え始めている自分に気づき、春樹は小さく息を吐いた。
きっと、送信するまでには時間が掛かる。
それでも、送ることをやめたいとは思わなかった。
なつきが待っている。
その事実が、慎重な春樹の指を、少しだけ前へ動かしてくれる。
教室では、午後の授業を担当する教師が教材を抱えて入ってきた。
生徒たちが姿勢を整え、教室のざわめきが静まっていく。
なつきと春樹は、それぞれ別の席で教科書を開いた。
距離は、朝と同じ。
関係の名前も、昨日と同じ。
それでも、二人の端末には、互いの名前が残っている。
学校が終わっても話せる。
会えなくても、言葉を届けられる。
そのことを知っただけで。
放課後までの時間も、帰宅してからの時間も、昨日までより少しだけ近く感じられていた。




