第154話 来てほしいと言われた朝は、いつもの席まで少し遠い
翌朝。
梅桜高校の正門をくぐった時から、なつきはいつもより少しだけ歩く速度を落としていた。
遅刻しそうなわけではない。むしろ、普段より早く家を出たため、始業までには十分な余裕がある。正門から校舎へ向かう生徒の数もまだ少なく、運動部らしい男子生徒が大きな鞄を背負って駆けていく姿や、昇降口の前で友人を待つ女子生徒が数人見える程度だった。
空には薄い雲が広がっていた。
昨日の夕方より風は弱く、校庭の端に並ぶ木々の葉も、朝の湿り気を含んだ空気の中で静かに揺れている。遠くから聞こえる野球部の掛け声と、校舎へ入っていく生徒たちの靴音が、まだ目覚めきっていない学校の中へ少しずつ重なっていた。
「なつき、今日早いね」
隣を歩いていた茜が、横目でなつきを見た。
「うん」
「家を出る時、何かあった?」
「何もないよ」
「じゃあ、どうしていつもより十五分も早いの?」
なつきはすぐに答えず、昇降口の扉を見つめた。
昨日、春樹と別れる前に交わした言葉を思い出す。
明日、私が先に教室にいたら、春樹君のところへ行くね。
来てほしい?
来てほしいです。
春樹は、そう答えた。
思い出しただけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
ただ教室へ行き、春樹の席まで歩くだけだ。これまでも何度もしてきたことなのに、今日はその一歩一歩に意味があるような気がしてしまう。
「春樹君が」
なつきは、言葉を途中で止めた。
「大國君が?」
「昨日、来てほしいって言ったから」
茜の足が、ほんの一瞬だけ止まりかけた。
なつきは気づかず、そのまま続ける。
「だから、春樹君が来る前に教室へ行こうと思ったんだけど」
「ちょっと待って」
「何?」
「昨日、来てほしいって言われたから、今日は早く来たの?」
「うん」
「大國君のところへ行くために?」
「うん」
茜は何も言わず、しばらく前を向いて歩いた。
昇降口の前では、一年生らしい女子生徒たちが楽しそうに話している。その声が近づき、横を通り過ぎ、また遠ざかっていく。
「なつき」
「うん」
「大國君が教室へ来る時間、知ってるの?」
「知らない」
「じゃあ、先に来ていても、大國君がまだ来ていない可能性があるよね」
「そうだね」
「その場合、どうするの?」
「待つ」
「自分の席で?」
なつきは少し考えた。
「春樹君の席の近くで」
「近くで待つの?」
「来たらすぐ行けるから」
茜は額へ手を当てた。
「なつき、それ、本人に言う?」
「何を?」
「大國君が来るのを、席の近くで待ってたって」
「聞かれたら言うよ」
「聞かれなくても言いそう」
「どうして?」
「今、私に全部言ったから」
なつきは不思議そうに茜を見た。
「茜ちゃんが聞いたからでしょう」
「そうだけど」
「春樹君も聞いたら答えるよ」
「大國君は聞かないと思う」
「じゃあ、言わなくていい?」
「それは自分で決めて」
茜は、そこで話を終わらせるように靴箱へ向かった。
なつきも自分の上履きを取り出しながら、少し首を傾げる。
昨日までは、春樹の席へ行くことに理由など必要なかった。
本のことを聞く時。
図書委員の確認をする時。
十一組ラボの話をする時。
何も用事がなくても、何となく話したい時。
行けば、春樹は顔を上げてくれた。忙しい時には少し待ってほしいと言い、そうでなければ、なつきの話がまとまるまで聞いてくれた。
だから今日も、同じように行けばいい。
そう思っているのに、昨日の「来てほしい」という言葉が加わっただけで、普段と同じ行動が少し難しく感じられる。
「茜ちゃん」
「何?」
「普通に行けばいいよね」
「何の話?」
「春樹君のところ」
「普通に行けるなら、普通に行けばいいと思う」
「普通って、どうやるの?」
茜は上履きへ履き替えた姿勢のまま、しばらく動かなかった。
「今まで通りでいいよ」
「でも、今までと同じだと、来てほしいって言われたから来たって分からなくない?」
「分からせたいの?」
「約束したから」
「約束は、行けば守れるでしょう」
「そうかな」
「そうだよ」
「じゃあ、行く」
「うん」
なつきは頷いたが、階段へ向かう足取りは、やはり普段より少し遅かった。
教室のある階へ近づくにつれ、生徒の数が増えていく。
眠そうに欠伸をしながら廊下を歩く男子生徒。朝練を終え、タオルで髪を拭きながら教室へ戻る女子生徒。提出物を忘れたらしく、友人へ必死に説明している生徒。
いつもの朝の景色だった。
なつきも何度も通った廊下で、何度も開けた教室の扉が、今日は少しだけ遠く見える。
二年十一組の前へ着くと、なつきは足を止めた。
扉の向こうから、わずかに話し声が聞こえる。
「開けないの?」
後ろから茜が尋ねる。
「春樹君、いるかな」
「開ければ分かるよ」
「茜ちゃん、先に見て」
「どうして私が」
「いたら教えて」
「扉を開ければ見えるでしょう」
「急にいたら、びっくりするから」
茜は深く息を吐いた。
「昨日、あれだけ話したのに、今さら大國君が教室にいるだけで驚くの?」
「昨日話したから」
「逆じゃない?」
「違うよ。昨日話してなかったら、いつも通りでしょう。でも今日は、春樹君も私が来るって知ってる」
「だから?」
「待ってるかもしれない」
茜は返事をしなかった。
目の前のなつきの顔を見てから、教室の扉へ視線を向ける。
今までにも、なつきが春樹を意識していると感じる場面はあった。
春樹の姿を探す。
隣へ座る。
話している時、他の誰かより少し長く相手の顔を見る。
けれど、なつき自身は、その行動を特別だとは思っていなかった。
今日は違う。
春樹が待っているかもしれない。
その可能性を考え、教室へ入るだけで足を止めている。
昨日の会話は、本人が思っている以上に、二人の中へ残っている。
「なつき」
「うん」
「先に言っておくけど、教室には他の人もいるからね」
「分かってるよ」
「大國君のところへ行くのはいい。でも、入口で立ったまま見つめるのはやめた方がいいと思う」
「そんなことしないよ」
「今、すでに扉を見つめてる」
「これは、中にいるか考えてるだけ」
「見ただけでは分からないでしょう」
茜はそう言いながら扉へ手を掛けた。
「入るよ」
「待って」
「何?」
「私が開ける」
「どっちでも同じでしょう」
「約束したのは私だから」
茜は少し驚いたようになつきを見たが、すぐに手を離した。
「分かった。どうぞ」
なつきは一度だけ息を吸い、教室の扉を開けた。
まだ始業まで時間があるため、教室にいる生徒は十人ほどだった。
窓際では圭が友人と話し、教卓の近くでは紅秋が昨日の記録用紙を机へ広げている。三浦は自分の席へ座り、鞄の中を探しながら、何かを失くしたらしい声を上げていた。
「ない」
「何が?」
近くの男子生徒が尋ねる。
「昨日のプリント」
「例の一週間前の?」
「違う。昨日もらったやつ」
「一日で失くしたの?」
「まだ失くしたとは決まってない。鞄の中に存在していないだけ」
「それを失くしたって言うんじゃない?」
そんな会話が聞こえる中で、なつきの視線は自然に教室の奥へ向かった。
春樹の席。
窓から少し離れた、教室の中央より後ろ。
そこに、春樹はいた。
すでに鞄を机の横へ掛け、本を開いている。
けれど読んでいなかった。
扉が開いた音に気づいた時から、顔を上げていた。
なつきと春樹の視線が、教室を挟んで重なる。
春樹の表情は、いつもと大きく変わらない。
ただ、なつきの姿を見つけた瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
安心した。
昨日、春樹はそう言った。
自分が来ると分かって、安心したと。
今も同じなのだろうか。
なつきは、教室へ入ったところで足を止めた。
「なつき」
後ろから茜が小さく呼ぶ。
「入口で見つめるのはやめた方がいいって言ったよね」
「あ」
なつきは慌てて動き出した。
けれど、自分の席ではなく、春樹の席へ真っ直ぐ向かう。
途中、紅秋が記録用紙から顔を上げた。
三浦も鞄を探す手を止め、圭が会話の途中でなつきを見る。
教室にいる数人の生徒が、いつもより早く登校してきたなつきと、その向かう先へ何となく注目していた。
なつきは、それらの視線に気づいていない。
春樹の席の前へ着くと、立ち止まった。
「おはよう、春樹君」
「おはようございます」
春樹は本を閉じた。
なつきはその動きを見て、少しだけ笑う。
「読んでた?」
「開いていました」
「読んでなかったの?」
「少しだけ」
「私が来るの、待ってた?」
教室のざわめきが、不自然に小さくなった。
三浦が鞄の中へ入れた手を止めたまま、ゆっくりと顔を上げる。
圭は隣の友人との会話を完全にやめ、紅秋は記録用紙へ視線を落としているものの、鉛筆が動いていなかった。
茜は自分の席へ向かう途中で足を止め、額へ手を当てている。
春樹は、すぐには答えなかった。
昨日、自分から「来てほしい」と言った。
今日、なつきは実際に来た。
それだけなら、答えは決まっている。
ただ、教室にいる全員へ聞こえる声で尋ねられるとは思っていなかった。
「横田さん」
「うん」
「声が少し大きいです」
「そう?」
「はい」
なつきは周囲を見回した。
目が合った生徒たちが、一斉に視線を逸らす。
三浦は何も見ていなかったふりをして、再び鞄の中へ顔を入れた。圭は窓の外を見ており、紅秋は同じ一行を何度も読んでいるようだった。
「みんな聞いてた?」
なつきが尋ねると、誰も答えない。
「聞こえてたと思います」
春樹が小さく言った。
「じゃあ、小さく聞く」
なつきは机へ少しだけ身を寄せた。
春樹との距離が近くなる。
声を落とすためだけだったが、周囲から見ると、先ほどより余計に二人だけの会話に見えた。
「私が来るの、待ってた?」
今度は確かに小さな声だった。
ただ、静かになった教室では、近くにいる者には十分聞こえる。
春樹は一度、周囲へ視線を向けた。
逃げようと思えば、いくらでも別の答えが言える。
朝の確認があるので。
昨日の記録をまとめるので。
十一組ラボの話をする必要があるので。
けれど、それは昨日話したことを、また作業の理由へ戻すことになる。
「待っていました」
春樹は答えた。
短い言葉だった。
なつきの表情が、すぐに明るくなる。
「よかった」
「何がですか?」
「約束を覚えててくれた」
「忘れません」
「私も覚えてたよ。だから早く来た」
「早く?」
「いつもより十五分早い」
春樹がわずかに目を見開いた。
「僕が来る前に来ようとしたんですか?」
「うん。でも、春樹君の方が早かった」
「僕は、いつもこのくらいです」
「知らなかった」
「横田さんが来る時間には、だいたい教室にいます」
「そうだね」
なつきは頷いた後、少しだけ考える。
「じゃあ、春樹君は、いつも私が来る前から教室にいたの?」
「はい」
「私が入ってくるの、見てた?」
再び教室の空気が静かになる。
春樹の耳が、少しずつ赤くなっていく。
「毎日ではありません」
「でも、見てた日もある?」
「あります」
「今日も?」
「今日は」
春樹は一度、本へ視線を落とした。
「扉が開く前から、少し気にしていました」
なつきの胸の奥が、強く鳴った。
昨日、春樹は、気づけば自分を見ていると話した。
今日、その言葉が、朝の教室で実際の形になっている。
自分が来る前から、扉を気にしていた。
来るのを待っていた。
「春樹君」
「はい」
「私、来てよかった?」
「はい」
春樹は、今度は迷わなかった。
「来てくれて、よかったです」
なつきは何も言わず、少しの間、春樹を見つめた。
嬉しい。
昨日と同じ感情が、胸の中へ広がる。
ただ昨日よりも、その意味が少しだけ分かる。
自分が来たことで、春樹が安心した。
自分の存在が、春樹の朝の中に必要だった。
そのことが嬉しい。
「なつき」
教室の後ろから、茜の声が飛んだ。
「そろそろ鞄を置いたら?」
「あ」
なつきは、まだ鞄を肩へ掛けたままだったことに気づいた。
「春樹君、ちょっと待ってて」
「はい」
なつきは自分の席へ向かう。
その背中を見送りながら、春樹は小さく息を吐いた。
周囲の視線が、自分へ集まっている。
気づいていた。
けれど、顔を上げることができない。
「大國」
三浦が、遠慮がちに呼ぶ。
「何ですか」
「今日、暑いか?」
「暑くありません」
「先に答えられた」
「聞かれると思ったので」
三浦は少し感心したように頷いた。
「成長したな」
「何の成長ですか」
「教室が涼しいことを認める成長」
「最初から分かっています」
「昨日は暑いって言ってたよな」
「あれは」
春樹の言葉が止まる。
圭が三浦の肩を軽く叩いた。
「三浦。そこまでにしよう」
「どうして?」
「大國の耳が昨日と同じだから」
三浦が春樹の耳を見る。
春樹は無言で本を開いた。
「分かりやすいな」
「三浦君」
紅秋の低い声が届く。
「昨日のプリントを探した方がいいんじゃない?」
「今、それは関係ない」
「鞄に存在していないんでしょう」
「そうだけど」
「朝のうちに見つけないと、提出できないよ」
三浦はようやく春樹から視線を外し、再び鞄の中を探し始めた。
「板倉、昨日の記録に俺のプリントの場所、書いてない?」
「書いてない」
「何でも記録するんじゃなかったのか」
「試験に関係することだけ」
「俺の鞄の使いにくさも、試験に関係あると思う」
「それは自分で改善して」
教室に笑いが広がる。
なつきは自分の席へ鞄を置きながら、その会話を聞いていた。
普段と同じ朝だ。
三浦が何かを失くし、紅秋が呆れ、圭が笑っている。
それなのに、なつきの中では、昨日までとは少し違って見える。
春樹が自分を待っていた。
教室へ入る前から、扉を気にしていた。
その事実が、朝の景色へ薄く重なっている。
「なつき」
隣の席へ座った茜が、小声で呼ぶ。
「何?」
「本当に、昨日より十五分早く来たんだね」
「言ったでしょう」
「大國君に、来てほしいと言われたから?」
「うん」
「それを、あんなに素直に本人へ言うとは思わなかった」
「言わない方がよかった?」
「悪くはないよ」
「じゃあ、いいでしょう」
「ただ、大國君には準備する時間が必要だったと思う」
「何の準備?」
「みんなの前で、待ってたか聞かれる準備」
「でも、昨日答えるって約束した時も、みんないたよ」
「昨日と今日では違うの」
「どう違うの?」
茜は答えに困り、春樹の方を見た。
春樹は本を開いている。
けれど、ページは先ほどから変わっていない。
「昨日は、自分の気持ちを説明する話だったでしょう。今日は、それを実際にやってるところを、みんなに見られたの」
「実際に?」
「大國君が、なつきを待ってた。なつきが、それを知って早く来た。それを二人で確認した」
「うん」
「それが、昨日より分かりやすいの」
「何が?」
「二人が、お互いを気にしてること」
なつきは、春樹を見る。
春樹も、ちょうどこちらへ視線を向けていた。
目が合う。
春樹は少しだけ驚いた後、すぐに本へ視線を戻した。
なつきは、その動きを見てから茜へ向き直る。
「気にしてるよ」
「そうだね」
「春樹君も、気にしてる」
「昨日から、みんな知ってる」
「じゃあ、分かりやすくても同じじゃない?」
「なつきに説明するの、難しいな」
茜は苦笑した。
「でも、嫌じゃないならいいんじゃない?」
「誰が?」
「なつきが、大國君に待たれてること。大國君のところへ行くこと」
「嫌じゃないよ」
なつきはすぐに答えた。
「嬉しい」
その言葉は、昨日よりも自然に口から出た。
茜はなつきの表情を見つめる。
無理に答えを決めなくてもいい。
紅秋は昨日、そう言っていた。
本人たちがまだ関係へ名前をつけていないのなら、周囲が先に決める必要はない。
それでも、なつきの「嬉しい」という言葉だけは、昨日から何度も同じ場所へ向かっている。
「なつき」
「うん」
「大國君が来てなかったら、どうしてた?」
「待ってた」
「どのくらい?」
「来るまで」
「遅刻しそうでも?」
「春樹君は遅刻しないでしょう」
「そういう問題じゃなくて」
なつきは少し考える。
「来なかったら、心配したと思う」
「休みかもしれないって?」
「うん。連絡できるかなって考える」
「大國君の連絡先、知ってるの?」
「知らない」
「じゃあ、どうするの?」
「茜ちゃんに聞く」
「私も知らないよ」
「板倉さんなら知ってる?」
「たぶん知らないと思う」
「じゃあ、図書委員の先生に聞く」
「個人情報だから教えてくれないと思う」
なつきは困ったように眉を寄せた。
「春樹君が休んだら、何も分からないんだね」
「学校へ来れば、先生が理由を知ってる場合はあるよ」
「でも、すぐには分からない」
「そうだね」
なつきは再び春樹を見る。
今日、彼は教室にいる。
いつもの席で、本を開いている。
ただそれだけのことに、少しだけ安心した。
昨日までも、春樹がいる日は安心していたのかもしれない。
ただ、それを自分で知らなかった。
「連絡先」
なつきが呟く。
「何?」
「春樹君と、連絡先を交換した方がいいかな」
茜の目が大きくなる。
「今?」
「今じゃなくてもいいけど」
「どうして?」
「休んだ時、心配だから」
「それだけ?」
「十一組ラボの連絡もできる」
「それだけ?」
「図書委員の予定も」
「なつき」
茜は少し真剣な声を出した。
「理由を足さなくていいよ」
「足してないよ。全部本当」
「最初の理由が一番大きいんでしょう」
「春樹君が休んだ時?」
「うん」
「それはそうかも」
なつきは、あっさり認めた。
「じゃあ、聞いてみる」
「今?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど」
茜は教室の中を見回した。
昨日からの流れを知っている生徒たちは、二人が何か話し始めるたびに、表面上は別のことをしながら耳を向けている。
今、なつきが春樹へ連絡先を聞けば、確実に注目される。
「もう少し、人が増えてからでもいいんじゃない?」
「人が増えた方が聞かれるでしょう」
「そうじゃなくて、今はみんな静かだから目立つの」
「じゃあ、休み時間?」
「それがいいと思う」
「忘れそう」
「覚えてて」
「茜ちゃん、覚えてて」
「自分のことだよ」
「でも、茜ちゃんの方が覚えるの得意」
「連絡先を聞くことくらい、自分で覚えて」
茜はそう言ったが、心の中では、休み時間が来たら自分からなつきへ声を掛けるだろうと思っていた。
なつきは忘れる時、本当に忘れる。
ただ、今日のことに限っては、忘れないような気もする。
その時、紅秋が教室の後方から声を掛けた。
「横田さん、大國君。朝のうちに昨日のまとめ、確認してもらえる?」
「うん」
「分かりました」
なつきと春樹が同時に返事をする。
なつきは自分の席を立ち、春樹も本を閉じた。
二人が教室の後方へ向かうと、紅秋は机の上へ記録用紙を並べた。
昨日の比較試験で集めた意見が、項目ごとにまとめられている。
右利き用と左利き用。
端末ありと端末なし。
仕切りを使う場合と、印だけを使う場合。
端末の角度変更。
支えの強度。
そして、使いやすさと落ち着きが一致しない場合。
「まず、昨日分かったことを三つに分けた」
紅秋が紙の上を指で示す。
「一つ目は、全員で同じにしても問題が少なかった部分。台座の幅、教科書を立てる溝の位置、机へ固定する方法」
「変えなくてもいい場所」
なつきが言う。
「そう。二つ目は、人によって変えた方がいい部分。仕切りの左右、仕切り自体が必要かどうか、端末支えの有無」
「選べる場所ですね」
春樹が続ける。
「三つ目は、まだ答えが出ていない部分。端末支えの角度、滑り止めの形、部品を交換式にするか固定式にするか」
「今日、もう一回試すところ?」
「うん」
紅秋は頷いた。
「それと、昨日の最後に出た案。全部を一種類へまとめるのではなく、基本の形を一つ作って、必要な部品だけ選べるようにする」
なつきは、記録用紙を覗き込む。
春樹も隣から紙を見る。
肩が触れるほどではない。
けれど昨日より、互いの距離を意識しているため、少し近づくだけで相手の存在がはっきり分かる。
なつきは春樹の袖が視界へ入るたび、朝の会話を思い出した。
待っていました。
来てくれて、よかったです。
同じ机を見ているだけなのに、その言葉が胸の中へ残っている。
「横田さん」
春樹が小さく呼ぶ。
「うん」
「記録用紙が見えていますか?」
「見えてるよ」
「同じ行をずっと見ています」
「読んでるの」
「昨日の感想の部分です」
「感想も大事でしょう」
「三浦君の『広すぎて自分の机ではない感じがする』という感想です」
「大事だよ」
「確かに大事ですが」
春樹は、なつきの顔を見た。
「別のことを考えていませんか?」
なつきは返事をしなかった。
昨日も、春樹は自分が何か考えていることへ気づいた。
今日も、同じように気づいている。
「分かるの?」
「少しだけ」
「何を考えてるかも?」
「そこまでは分かりません」
「じゃあ、言う」
紅秋が記録用紙を持つ手を止めた。
少し離れた場所で見ていた茜も、嫌な予感がしたように顔を上げる。
「春樹君が、私を待ってたって言ったこと」
春樹の目が、わずかに大きくなる。
「それを考えていましたか?」
「うん」
「今ですか?」
「うん」
「記録の確認中に?」
「だって、春樹君が隣にいるから」
春樹の耳が、また赤くなる。
紅秋はゆっくりと記録用紙へ視線を落とした。
「横田さん」
「何?」
「今日の朝まとめ、続けてもいい?」
「うん」
「大國君も大丈夫?」
「……はい」
「本当に?」
「進めてください」
紅秋は一度だけ息を吐き、説明を再開した。
「基本の台座は同じにする。ただし、右利き用、左利き用と分けるのではなく、仕切りをどちら側にも取り付けられるようにする。仕切りがいらない人は、位置を示す印だけ使う」
「印の色は選べる?」
なつきが尋ねる。
「色?」
「三浦君、目立つ方が分かりやすいかもしれない」
「派手すぎると気になる人もいるよ」
茜が会話へ加わる。
「色も選べるようにする?」
「そこまで増やすと管理が大変になる」
紅秋が答える。
「まずは目立ちにくい色で試して、見えにくいという意見が多ければ変える」
「最初から全員へ合わせなくていいんだね」
「昨日、それを確認したでしょう」
「でも、色まで同じだと思ってなかった」
「全部を違える必要もないからね」
紅秋は記録用紙へ印をつける。
「変えられるようにする部分が増えすぎると、作る側も使う側も迷う。選べる方がいいことと、選択肢が多い方がいいことは同じじゃない」
「選べすぎると、決められない?」
「そう」
「それ、なつきが一番困るやつだね」
茜が言う。
「私、決められるよ」
「お昼を選ぶのに十分掛かるでしょう」
「食べたいものが多いから」
「色は?」
「全部見てから決める」
「時間が掛かるね」
「でも、ちゃんと決めるよ」
「決めた後、別の色も気になるでしょう」
「気になる」
「じゃあ、選択肢は多すぎない方がいい」
茜の言葉に、周囲から小さな笑いが漏れた。
朝の教室には、いつの間にか生徒が増えていた。
登校してきた生徒たちは、自分の席へ鞄を置きながら、後方で行われている十一組ラボの朝まとめへ耳を向けている。
昨日の比較試験へ参加した生徒も多く、記録用紙に何がまとめられたのか気になっているようだった。
「板倉さん」
三浦が、ようやくプリントを見つけたらしく、折れた紙を持って近づいてきた。
「印だけにする案、残った?」
「残ってるよ」
「よかった」
「三浦君の場合は、まず鞄の中に物の場所を作った方がいいと思う」
「今、見つかったから問題ない」
「プリント、かなり折れてるけど」
「読める」
「端が破れてる」
「内容は残ってる」
紅秋は何も言わず、三浦のプリントを見た。
三浦は少しずつ視線を逸らす。
「今日、別の筆箱でも試したい」
「話を変えたね」
「試験の話だよ」
「いいけど、昨日と同じ条件も必要だから、最初は同じ筆箱を使って」
「分かった」
三浦は頷いた後、春樹となつきを交互に見た。
「ところで」
「何?」
紅秋が警戒するように尋ねる。
「横田、今日早くない?」
なつきが顔を上げる。
「うん。早く来た」
「どうして?」
茜が小さく首を横へ振った。
圭も三浦へ目で止めるよう伝えたが、三浦は気づいていない。
「春樹君が来てほしいって言ったから」
教室のあちこちで、椅子を引く音や鞄を置く音が止まった。
三浦は、聞いた後で自分の質問を後悔したように口を閉じる。
「それ、昨日の話?」
「うん」
「本当に来たんだ」
「約束したから」
「大國は?」
「何ですか」
「待ってたの?」
春樹は、今朝二度目の同じ質問を受けた。
しかも、今度は教室の半分以上がいる。
なつきは春樹を見る。
答えを急かすつもりはない。
ただ、先ほどと同じ答えを待っている。
春樹は、静かに息を吐いた。
「待っていました」
教室の中に、わずかなざわめきが広がる。
「おお」
三浦が小さく声を漏らす。
すぐに圭が肘で止めた。
「大國、昨日より言うようになったな」
「三浦君」
紅秋が呼ぶ。
「はい」
「必要のない観察はしなくていい」
「でも、変わった部分を見つけるのが今日の」
「人ではなく試作品の話」
「昨日は人の変化も」
「黙って」
「はい」
教室に笑いが起こる。
春樹は、以前なら耐えられなかったかもしれないと思った。
自分がなつきを待っていたことを、教室中へ知られる。
恥ずかしい。
今もそう感じる。
ただ、それ以上に、なつきが約束を守って早く来たことが嬉しかった。
そして、待っていたかと尋ねられた時、違うとは言いたくなかった。
「横田さん」
春樹が呼ぶ。
「うん」
「早く来てくれて、ありがとうございました」
「うん」
「でも、無理をしなくても大丈夫です」
「無理してないよ」
「いつもより十五分早いと聞いたので」
「十五分なら大丈夫」
「眠くありませんか?」
「少し」
「無理をしています」
「でも、春樹君に会えたからいい」
また教室が静かになる。
なつきは周囲の変化に気づき、少しだけ声を落とした。
「今のも大きかった?」
「はい」
春樹は正直に答えた。
「じゃあ、小さく言う」
「言い直さなくて大丈夫です」
「春樹君に会えたから、早く来てよかった」
「横田さん」
「小さくしたよ」
「そういう問題ではありません」
「違うの?」
「違わなくはありませんが」
春樹は昨日と同じような答えを返してしまい、自分で口を閉じた。
三浦が笑いを堪え、圭は窓の外へ顔を向けている。
紅秋は記録用紙の端へ何かを書き加えた。
「板倉さん」
茜が小声で尋ねる。
「今、何を書いたの?」
「十一組ラボのまとめ」
「本当に?」
「本人たちへの余計な質問は禁止、と書こうか迷ってる」
「必要かも」
「でも、横田さんが自分から全部言うから、質問を止めても意味がないんだよね」
「それはそう」
二人は小さく息を吐いた。
その時、朝の予鈴が鳴った。
教室にいた生徒たちが一斉に時計を見る。
「まとめはここまで」
紅秋が記録用紙を集める。
「続きは昼休みか放課後。今日の試験参加者は、昼までに名前を書いておいて」
「分かった」
「昨日の試作品、朝は触らないでね。仮留めのままだから」
三浦が伸ばしかけていた手を止めた。
「何もしてない」
「今、触ろうとしたでしょう」
「見ただけ」
「手が出てた」
「見る時に手も動くことがある」
「ないよ」
笑いが残る中、生徒たちは自分の席へ戻っていく。
なつきも席へ向かおうとした。
その途中、春樹の横を通る。
「横田さん」
小さく呼ばれ、足を止めた。
「何?」
「今日、早く来てくれたこと」
「うん」
「本当に嬉しかったです」
周囲へ聞こえない程度の声だった。
なつきは一瞬、何も言えなかった。
先ほどまで皆の前で話していた時よりも、胸の奥へ強く届く。
「私も」
なつきは同じくらいの声で答える。
「春樹君が待っててくれたの、嬉しかった」
春樹の目が、少しだけ柔らかくなる。
「明日も早く来ますか?」
「来てほしい?」
春樹は一度だけ迷った。
けれど、昨日と同じように答える。
「来てほしいです」
なつきは笑った。
「じゃあ、来る」
「無理はしないでください」
「十五分だけでしょう」
「眠いと言っていました」
「今日は少し遅く寝たから。明日は早く寝る」
「そこまでしなくても」
「でも、春樹君が待ってるでしょう」
春樹は言葉を失った。
なつきは、その表情を見て少しだけ笑い、自分の席へ戻っていく。
その後ろ姿を見ながら、春樹は、机の上に開いていた本へ視線を落とした。
今日、なつきが教室へ来る前、自分は確かに扉を気にしていた。
いつもより早い時間だったため、まだ来ないと分かっていても、廊下で足音がするたびに顔を上げそうになった。
そして扉が開き、なつきの姿が見えた時、安心した。
昨日、自分で言葉にした気持ちが、本当だったと分かった。
来てほしい。
会えると安心する。
それを伝えたことで、なつきはいつもより早く来た。
言葉にしたことが、相手の行動を変えた。
その事実は嬉しい。
けれど同時に、少し怖くもある。
自分の言葉で、なつきが無理をするかもしれない。
眠いのに早起きをする。
別の予定があっても、自分のところへ来ようとする。
言わないことで相手を困らせることもある。
しかし、言えば必ずいいわけでもない。
昨日の試作品と同じように、一つ変えると、別の場所が動く。
来てほしいと伝えれば、なつきは来る。
だからこそ、来てほしいという自分の気持ちだけではなく、なつきの負担も見なければならない。
「春樹君」
前の席から、なつきが振り返った。
「はい」
「明日、何時に来る?」
「今日と同じくらいです」
「じゃあ、同じくらいに来る」
「横田さん」
「無理しないよ。早く寝るから」
「本当に?」
「うん」
「約束できますか?」
「できる」
「何時に寝ますか?」
なつきは少し考えた。
「眠くなったら」
「それは約束になっていません」
「じゃあ、十一時」
「普段は何時ですか?」
「十一時半くらい」
「三十分しか変わりません」
「十五分早く来るためなら十分でしょう」
春樹は返事に困った。
なつきは、すでに明日の朝を楽しみにしている。
その気持ちを止める必要はない。
ただ、自分が待っているからという理由だけで、無理をしてほしくもない。
「明日、来られそうなら来てください」
春樹は言い直した。
「来られなかったら?」
「待ちます」
「ずっと?」
「始業までは」
「その後は?」
「教室に来るか、先生へ確認します」
「心配する?」
「します」
なつきは、少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、来る」
「横田さん」
「心配させたくないから」
「そういう意味で言ったのでは」
「分かってる。でも、私も来たいから」
春樹は、そこで何も言えなくなった。
来てほしい自分と、無理をしてほしくない自分。
その二つは、どちらも本当だった。
どちらか一つを消す必要はないのかもしれない。
来てほしい。
でも無理はしないでほしい。
両方を伝え、その上でなつきが来たいと決めるなら、それを受け取ればいい。
「分かりました」
春樹は頷いた。
「明日も待っています」
「うん」
なつきは嬉しそうに前へ向き直った。
その直後、担任が教室へ入ってくる。
「おはよう。席につけ。朝から随分楽しそうだな」
教室中から返事が起こり、生徒たちが姿勢を整える。
担任は出席簿を教卓へ置き、黒板へ日付を書き始めた。
いつもの朝のホームルームが始まる。
連絡事項。
提出物。
今日の授業変更。
生徒たちはそれぞれ手帳や端末へ予定を書き込み、忘れ物をした三浦だけが、折れたプリントを何とか伸ばしていた。
春樹も前を向き、担任の話を聞く。
なつきも机の上へ手を置き、黒板を見ている。
二人の席は離れている。
授業が始まれば、すぐに話すことはできない。
昨日までと、何も変わっていないように見える。
けれど、二人の中には、明日の朝の約束がある。
春樹は待つ。
なつきは来る。
もし来られなければ、春樹は心配する。
もし春樹がいなければ、なつきも同じように気にする。
それは、まだ大きな約束ではない。
何かを決定的に変える言葉でもない。
ただ、いつもの教室へ向かう理由が、一つ増えただけだった。
なつきにとっては、春樹が待っているから。
春樹にとっては、なつきが来るから。
朝の教室という、これまで何度も過ごしてきた場所が、昨日までとは少し違って見える。
変わったのは、登校時刻だけではない。
相手がいることを、当たり前として受け取るのではなく、来てくれたこととして感じるようになった。
その小さな変化が、二人の間へ残っていた距離を、ほんの少しずつ縮めている。
ホームルームの途中。
担任が黒板へ向いた隙に、なつきは一度だけ後ろを振り返った。
春樹は、すでにこちらを見ていた。
目が合う。
なつきは驚いた後、声を出さずに笑った。
春樹も、ほんの少しだけ口元を緩める。
担任が振り返る前に、二人は同時に前へ向き直った。
その様子を、斜め後ろの席から三浦が見ていた。
圭も気づいていたらしく、三浦と目が合う。
三浦は口を開きかけた。
だが、昨日と今朝、紅秋に何度も止められたことを思い出したのか、何も言わずに口を閉じる。
代わりに、机の端へ小さく文字を書いた。
あとで話す。
その紙を圭の方へ少しだけずらす。
圭は読んだ後、返事の代わりに首を横へ振った。
今は放っておこう。
そう言っているようだった。
三浦は不満そうにしたが、もう一度前を向いた。
周囲が何も言わなくても、二人の変化は見えている。
昨日までは、春樹となつきが自然に隣へ立つことへ気づく段階だった。
今日は、離れた席にいても互いを探している。
来る前から待ち。
来たことへ安心し。
離れた後も、相手がこちらを見ているか確かめる。
それでも二人は、まだその気持ちへ名前をつけていない。
ただ、名前がなくても、形は少しずつ変わっていく。
変えられる場所を見つけたからこそ、残したい場所も分かり始める。
春樹は静かなままでいい。
なつきは真っ直ぐなままでいい。
違う二人が、無理に同じになる必要はない。
ただ、来てほしい時に、来てほしいと言う。
待っていた時に、待っていたと答える。
嬉しい時に、嬉しいと伝える。
変える必要があったのは、その小さな言葉の部分だけだった。
そして、その言葉が一つ増えただけで。
いつもの席までの距離は、昨日までより少し遠く感じられ、たどり着いた時の安心は、昨日までよりずっと大きくなっていた。




