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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第153話 変えられる形は、変えなくてもいい場所を教えてくれる


 放課後の二年十一組には、授業が終わった直後とは少し違う種類のざわめきが残っていた。


 机を引く音や、部活動へ急ぐ生徒たちの足音は、すでに廊下の向こうへ遠ざかり始めている。けれど教室の後方では、帰り支度を終えたはずの生徒たちが鞄を肩に掛けたまま立ち止まり、中央へ寄せられた四つの机を興味深そうに眺めていた。


 机の上に並べられているのは、昨日の十一組ラボで作り直した試作品だった。


 薄い板材を組み合わせた簡素な台座。左右へ動かせる仕切り。端末や教科書を立て掛けるための浅い溝。そして、筆記用具が机の端から落ちるのを防ぐために取り付けられた、低い縁。


 完成品と呼ぶには、まだ粗い。


 角には削った跡が残っており、部品を固定しているテープも仮留めのままだ。見た目だけなら、文化祭の準備中に余った材料で作った小道具のようにも見える。


 それでも、その周囲に集まっている十一組の生徒たちの顔には、昨日までとは違う期待が浮かんでいた。


「では、本日の比較試験を始めます」


 中央の机の前に立った紅秋が、手元の記録用紙へ視線を落としながら宣言した。


 普段の教室であれば、彼女の落ち着いた声はそのまま空気へ溶けてしまうこともある。だが今日は、教室の後方に残った十人以上の生徒が自然と口を閉じた。


「最初に言っておくけど、これは成功したかどうかを確かめる試験じゃないからね。どこが使えて、どこが使いにくいかを見つける試験。壊れても、ずれても、邪魔でも、遠慮なく言って」


「壊れたら誰が直すの?」


 三浦が試作品から一歩だけ距離を取りながら尋ねる。


 紅秋は顔を上げずに答えた。


「言い出した人」


「質問を撤回します」


「撤回しても、壊したら手伝って」


「はい」


 教室のあちこちから笑いが漏れた。


 張り詰めかけていた空気が少しだけ緩む。その笑いの中で、なつきは机の上に置かれた四つの試作品を順番に見つめた。


 同じものが四つあるように見えるが、細かな形はそれぞれ異なっている。


 一つ目は、右側へ筆記用具を置くことを想定した形。


 二つ目は、その左右を逆にした形。


 三つ目は、中央に端末を立て、手前へノートを広げられるようにした形。


 四つ目は、余計な仕切りを減らし、教科書とノートだけを使う場合に合わせた形だった。


 昨日までは、一つの試作品に機能を足しながら、全員が使える形へ近づけようとしていた。


 だが、全員の要望を一つへまとめようとするほど、机の上は狭くなった。右利きの生徒に使いやすい配置が左利きの生徒には邪魔になり、端末を使う授業に必要な仕切りが、紙だけを使う授業では腕へ当たった。


 便利な機能を足したはずなのに、使える人が減っていく。


 その矛盾に気づいた時、春樹が提案した。


 一つの完成形を決める前に、条件を分けて比べた方がいいのではないか、と。


 だから今日は、同じ生徒に同じ形を使わせる試験ではない。


 右利きと左利き。


 端末を使う場合と使わない場合。


 さらに、教科書を机の中央へ置く人と、少し斜めへ置く人。


 使う人の違いによって、同じ部品がどのように感じられるのかを比べる。


 試作品を評価するというより、使う側の違いを確かめるための試験だった。


「横田さん、記録は大丈夫?」


 紅秋に呼ばれ、なつきは胸元へ抱えていた記録板を持ち直した。


「うん。たぶん」


「たぶんは禁止」


「大丈夫。今、大丈夫にした」


「便利な言い方だね」


「心の中で準備が終わったから」


 紅秋は一瞬だけ目を細めたが、それ以上は追及しなかった。


 隣に立っていた茜が、笑いを堪えるように唇を結んでいる。


「なつき、記録する項目は覚えてる?」


「使い始めるまでの時間、物を置き直した回数、手が仕切りに当たった回数、使った後の感想」


「あと、姿勢」


「姿勢」


「それから、無意識に部品を動かした場合も記録」


「無意識に動かしたかどうかって、本人に聞いても分からなくない?」


「だから観察する人がいるんでしょう」


「なるほど」


 なつきが素直に頷くと、茜は少し不安そうな顔になった。


「今、初めて納得した顔をしたけど、昨日も説明したよね?」


「昨日も納得したよ。でも、今日の納得は今日の納得だから」


「納得って毎日更新されるものなの?」


「うん」


「遠山さん。横田さんの納得について考え始めると試験が始まらない」


 春樹の静かな声が、横から差し込んだ。


 いつの間にか、彼はなつきの右隣へ立っていた。手には別の記録用紙があり、そこには試作品の寸法と、昨日変更した部品の位置が細かく書き込まれている。


「大國君、それは助けてくれたの?」


 茜が尋ねると、春樹は少しだけ考えてから答えた。


「試験を始めるためです」


「なつきの説明を続けると始まらないって判断した?」


「はい」


「春樹君」


 なつきは隣を見上げた。


「私、そこまで時間を使わないよ」


「横田さんは使わないつもりでも、周りが考え始めます」


「どういう意味?」


「今みたいに」


 春樹が茜へ視線を向ける。


 茜はしばらく黙った後、深く頷いた。


「確かに、私は今、納得が毎日更新されるものなのか考えかけてた」


「茜ちゃんまで」


「なつきの言葉って、たまに答えがありそうに聞こえるんだよ」


「ないよ?」


「本人が先に否定するんだ」


 再び笑いが広がる。


 その輪の外側で、三浦が圭の肩を軽く叩いた。


「なあ、今の見た?」


「何を?」


「大國が横田の扱いに慣れすぎている」


「それは前からじゃない?」


「前からだったか?」


「たぶん。最近、分かりやすくなっただけ」


 二人は声を抑えているつもりらしいが、すぐ近くにいた茜には聞こえていた。


 茜は一度だけ二人を振り返ったものの、何も言わなかった。ただ、その目がわずかに細められたことに三浦が気づき、圭の背中へ半歩隠れる。


「三浦君」


「はい」


「試験参加者が足りないから、最初に座って」


「俺、今、何も言ってないよね?」


「右利きで、普段から机の上が散らかっている人が必要なの」


「条件の言い方に悪意がある」


「事実だけど」


「事実は言い方を選んでほしい」


 不満を口にしながらも、三浦は一つ目の試作品が置かれた席へ座った。


 その向かいには、左利きの女子生徒が座る。別の机には端末を使う圭と、紙のノートだけを使う男子生徒が位置についた。


 春樹は教卓側に立ち、全体を見渡す。


 なつきはその隣で記録板を構えたが、自分がどこを見ればよいのか迷い、四つの机へ何度も視線を動かした。


「全部を一度に見なくても大丈夫です」


 春樹が小さな声で言った。


「でも、全部記録しないと」


「横田さんは最初の二人を見てください。僕が残りの二人を見ます」


「あとで合わせる?」


「はい」


「分かった」


 なつきが頷くと、春樹もわずかに頷いた。


 ほんの短いやり取りだった。


 けれど、その様子を見ていた茜が、記録用紙を配る手を一瞬だけ止める。


 二人とも、特別なことをしたつもりはないのだろう。


 なつきが困る前に、春樹が見る範囲を分ける。春樹が提案すれば、なつきは理由を何度も尋ねず、自然に受け入れる。


 以前なら、もう少し時間が掛かっていた。


 なつきは自分で全部やろうとして、どこから手をつければいいのか分からなくなることがあった。春樹もまた、自分から助けるより、相手が尋ねるまで待つことが多かった。


 それが今は、互いの動きが途切れる前に言葉が渡されている。


 その変化を、本人たちより先に周囲が感じ始めていた。


「準備できた?」


 紅秋の問いかけに、四人がそれぞれ返事をする。


「では、一回目。普段の授業と同じように、教科書、ノート、筆記用具を机へ置いてください。端末を使う人は端末も。置き方は意識して変えないこと。始めて」


 合図と同時に、机の上へ物が置かれていく。


 教科書の角が板材へ触れる音。


 筆箱のファスナーが開く音。


 端末の保護ケースが机へ置かれる、鈍い音。


 教室の後方に集まっていた生徒たちも、先ほどまでの軽い空気を忘れたように、四人の手元を見つめていた。


 三浦は教科書を中央へ置き、ノートをその右側へ広げた。次に筆箱を置こうとして、右側の仕切りへ手を伸ばす。しかし、普段の癖で筆箱を横向きに置いたため、仕切りの幅に収まらない。


「あれ」


 無意識に声が漏れる。


 三浦は筆箱を縦へ向け直し、仕切りの中へ押し込んだ。


 なつきは記録用紙へ、置き直し一回、と書き込む。


 その向かいに座った左利きの女子生徒は、右利き用の試作品を使っていた。


 彼女はノートを少し左へ傾け、左腕を斜めに置く。書き始めようとした瞬間、手首が中央の仕切りへ当たった。


「これ、ちょっと近いかも」


「そのまま続けられる?」


 紅秋が尋ねる。


「続けられるけど、たぶん気になる」


「動かしてもいいよ。動かしたくなったら動かして」


「じゃあ、少しだけ」


 彼女は仕切りを右へ動かした。


 その動きは迷いがなく、最初からそこに置きたかったかのように自然だった。


 なつきは、部品移動一回、と記録する。


 だが書き終えたところで、ふと手を止めた。


 左利きの彼女が仕切りを動かしたことで、机の左側には十分な空間が生まれた。しかし、今度は右側へ置いていた筆箱と仕切りが重なり、筆箱を机の奥へ移している。


 一つを使いやすくすると、別のものが動く。


 昨日まで何度も見た光景だった。


「横田さん」


 春樹に呼ばれ、なつきは顔を上げた。


「今、何か気づきましたか?」


「仕切りを動かしたら、筆箱も動いた」


「はい」


「仕切りだけの問題じゃないのかも」


「どういうことですか?」


 春樹は答えを促すように、静かに尋ねた。


 なつきは目の前の机を見つめる。


 左利きの女子生徒は、すでに試し書きを始めていた。腕は動かしやすそうだが、筆箱が奥へ移ったため、消しゴムを取る時には少し大きく手を伸ばしている。


「仕切りの場所を変えれば使えると思ったけど、机に置くもの全部の場所がつながってる。仕切りだけ変えても、ほかのものが邪魔になる時がある」


「記録しておきましょう」


「うん」


「今の言葉で」


「私の言葉でいいの?」


「横田さんが気づいたことなので」


 なつきは記録用紙の余白へ、ゆっくりと書き込んだ。


 仕切りの位置を変えると、ほかの物の位置も変わる。部品だけではなく、机全体を見る必要がある。


 書き終えた文字を見てから、なつきは隣の春樹を見た。


「春樹君」


「はい」


「今の、昨日より分かった気がする」


「昨日も似たことは出ていました」


「うん。でも昨日は、邪魔だから動かした、で終わってた。今日は、動かした後も見てるから」


 春樹は少しだけ目を見開いた。


 その表情はすぐにいつもの静かなものへ戻ったが、なつきには、彼が何かを喜んだように見えた。


「比較しているからだと思います」


「比べると、動いた後も見えるの?」


「一つしかないと、使えたか、使えなかったかで考えやすくなります。でも、条件を変えて比べると、なぜ違ったのかを考えられます」


「だから、春樹君は四つに分けようって言ったんだ」


「僕だけではありません。板倉さんも、遠山さんも賛成しました」


「でも、最初に言ったのは春樹君だよ」


 なつきがそう言うと、春樹は返事をしなかった。


 否定するように視線を落としたものの、手元の記録用紙へすぐに書き始めることもなかった。


 沈黙は長くない。


 それでも、二人のすぐ後ろで見学していた三浦と圭が、揃って顔を見合わせるには十分な時間だった。


「なあ」


 三浦が囁く。


「今の横田、普通に褒めたよな」


「普通に褒めたね」


「大國、固まったよな」


「一瞬だけね」


「前からあんな感じだったか?」


「だから、分かりやすくなっただけじゃない?」


「お前、そればっかりだな」


「三浦よりは見てるから」


「俺も見てるよ。だから気づいたんだろ」


 二人が声を抑えて話していると、紅秋が振り返らないまま口を開いた。


「見学者は静かにしてください。観察の邪魔です」


「はい」


 三浦は即座に口を閉じた。


 しかし、隣の圭へ向けた目だけは、やはり何かを確信し始めている。


 一回目の試験が終わると、参加者たちは席を入れ替えた。


 三浦は左利き用の配置へ移り、左利きの女子生徒は仕切りを減らした試作品へ座る。圭は端末用から紙中心の形へ移り、もう一人の男子生徒が端末用を使う。


「次も、普段通りに置いてください」


 紅秋が言う。


「一回目の使い方へ合わせようとしなくていいからね。試作品に合わせるんじゃなくて、自分の置き方を優先して」


「それ、結構難しくない?」


 三浦が机へ座りながら言った。


「一回目で、ここに筆箱を置けばいいって覚えちゃったんだけど」


「覚えたなら、それも記録する」


「試験って、何でも記録するんだな」


「都合の悪いことを失敗にしないために記録するの」


 紅秋の言葉に、教室の空気がわずかに静まった。


 なつきも、記録板を抱えたまま彼女を見る。


 都合の悪いことを失敗にしない。


 その言葉は、昨日の十一組ラボで何度も話し合ったことと重なっていた。


 試作品が使いにくかった時、最初は作り方が悪かったのだと思った。


 寸法を間違えた。


 部品の位置がずれた。


 材料が弱かった。


 けれど、実際には、作り方が間違っていたのではなく、使う人によって必要な形が違っていただけかもしれない。


 誰かに使いにくかった形が、別の誰かには使いやすいこともある。


 そこを見ないまま、一つの形を失敗として捨ててしまえば、その形が必要だった人まで見えなくなる。


「板倉さん」


 なつきが小さく呼ぶ。


「何?」


「昨日、作り直したやつ、失敗じゃなかったんだね」


 紅秋は少しだけ考え、机の上の試作品へ視線を移した。


「まだ分からないよ。使えない可能性もあるし」


「でも、昨日みたいに、全部駄目ってことじゃない」


「そうだね」


「比べるために残したから、今日使えてる」


「うん」


 紅秋はそこで言葉を切り、なつきへ向き直った。


「だから、今日は成功させようとしなくていい。どれが駄目かを決めるんじゃなくて、どこで変わるのかを見つけたい」


「どこで変わるのか」


「右と左で変わるのか。端末があるかどうかで変わるのか。置く物の数で変わるのか。それが分かれば、変えた方がいい場所と、変えなくてもいい場所を分けられるでしょう」


 なつきは返事をする前に、四つの試作品を見た。


 形は違う。


 仕切りの位置も違う。


 けれど、すべてを変えたわけではない。


 机へ固定する台座の幅は同じで、教科書を立て掛けるための溝も、四つすべて同じ位置にある。昨日、全員が使いやすいと答えた部分は、あえて変えていなかった。


「変えなくてもいい場所を見つけるために、変えるの?」


「そういう見方もできるね」


「なんか、不思議」


「全部を変える方が簡単だからね」


 紅秋は試験参加者の準備を確認しながら続けた。


「使いにくいって言われたら、最初から作り直した方が気持ちは楽なの。前の形を捨てて、違うものを作れば、直した感じがするから。でも、本当に悪かった場所が一つだけなら、それ以外まで変える必要はない」


「変えすぎると、良かったところもなくなる?」


「そう」


 その答えを聞いた瞬間、なつきはなぜか春樹を見た。


 自分でも、どうして彼を見たのか分からなかった。


 春樹は二回目の記録の準備をしており、こちらの会話を聞いていないように見える。だが、なつきの視線に気づいたのか、少し遅れて顔を上げた。


「どうしましたか?」


「ううん」


 なつきは首を振る。


「変えなくてもいいところって、大事なんだなって思って」


「はい」


「春樹君は、変わった?」


 問いかけた後で、紅秋の手が止まった。


 茜も、配っていた記録用紙を持ったまま顔を上げる。


 春樹自身も、すぐには答えなかった。


「僕ですか?」


「うん。前より話すようになったし、十一組ラボでも意見を言うようになったから」


「それは……変わったと思います」


「でも、本を読むところは変わってないよね」


「はい」


「静かなところも」


「たぶん」


「人が多いと少し後ろに下がるところも」


「よく見ていますね」


「見てるよ」


 なつきは、当たり前のことを答えるように言った。


 春樹の目が、わずかに揺れた。


 教室の窓から差し込む夕方の光が、机の上へ長く伸びている。外では運動部の掛け声が聞こえ、廊下の向こうを走った誰かが教師に注意されていた。


 それらの音があるのに、十一組の後方だけが不自然に静かだった。


 見学していた生徒たちが、いつの間にか二人の会話を聞いている。


「だから、春樹君は、変えなくていいところを残したまま変わったんだね」


 なつきは続けた。


「私は、今の春樹君も好きだけど、前の春樹君もいなくなってないから、いいと思う」


 誰かが息を呑んだ。


 三浦だったのか、圭だったのか、それとも茜だったのかは分からない。


 言った本人だけが、その言葉のどこに周囲を黙らせる力があったのか理解していなかった。


 春樹は完全に動きを止めていた。


 手に持っていた鉛筆の先が記録用紙へ触れたまま、何も書かれていない。


「横田さん」


「何?」


「今の言い方は」


 春樹はそこまで言ってから、視線を横へ逸らした。


 耳がわずかに赤くなっている。


「言い方?」


「いえ。何でもありません」


「途中でやめた」


「試験を始めましょう」


「春樹君、逃げた?」


「逃げていません」


「顔、赤いよ」


「教室が暑いので」


 その答えに、教室中の視線が一斉に窓へ向いた。


 窓は開いている。


 夏を迎える前の風が、カーテンを緩く揺らしている。暑いと言い切るには、むしろ少し涼しいくらいだった。


「大國」


 三浦が真剣な声で呼びかけた。


「俺、窓際だけど、今日かなり涼しいぞ」


「三浦君」


 茜の低い声が飛ぶ。


「はい。黙ります」


 春樹は何も聞かなかったことにするように、記録用紙へ視線を落とした。


 けれど鉛筆は、まだ動いていない。


 なつきはそんな彼をしばらく見つめた後、自分の頬へ手を当てた。


「私も少し暑いかも」


「なつきは何で赤くなるの」


 茜が尋ねる。


「みんなが見てるから」


「今、気づいたんだ」


「うん。どうして見てるの?」


「それを私たちに聞くんだね」


 茜は額へ手を当てた。


 紅秋は小さく息を吐き、手元の用紙で机を軽く叩く。


「試験を再開します。見学者も、今の会話は記録しなくていいから」


「記録する人いる?」


 三浦が尋ねる。


「あなた」


「してません」


「なら黙って」


「はい」


 笑いが広がり、止まっていた空気がようやく動き出す。


 二回目の試験が始まった。


 なつきは記録用紙へ目を落としたが、先ほど自分が口にした言葉が、少し遅れて胸の中へ戻ってきていた。


 今の春樹君も好き。


 前の春樹君もいなくなっていないから、いいと思う。


 確かに、自分はそう言った。


 別に、変な意味で言ったわけではない。


 春樹の変わったところと、変わっていないところを説明しただけだ。


 けれど、教室中が静かになった理由を考え始めると、胸の奥が落ち着かなくなる。


 好きという言葉が、少しだけ強かったのだろうか。


 友達として好き。


 一緒にいると安心するから好き。


 話を聞いてくれるところが好き。


 自分が分からないことを、急がず待ってくれるところが好き。


 そういう意味を全部まとめて口にしたつもりだった。


 だが、言葉にした瞬間の春樹の顔を思い出すと、それだけではない何かまで伝わってしまったような気がした。


「横田さん」


 春樹の声に呼ばれ、なつきは肩を揺らした。


「はい」


「二番の人、仕切りを動かしました」


「あっ」


 慌てて視線を戻す。


 左利き用の配置へ座った三浦が、右側の仕切りを中央へ寄せていた。


「三浦君、今、どうして動かしたの?」


「筆箱を取ろうとしたら遠かったから。あと、右側が空きすぎて落ち着かない」


「空きすぎると落ち着かない?」


「何か置きたくなる。普段はもっとごちゃごちゃしてるし」


「それ、使いにくいってこと?」


「使いにくいとは違うかも。広いんだけど、広すぎて自分の机じゃない感じがする」


 なつきはその言葉を記録した。


 広い方が使いやすいと思っていた。


 物が少なく、手を動かす空間がある方が、机としては良いはずだと考えていた。


 けれど三浦にとっては、空間がありすぎることも落ち着かなさにつながるらしい。


「春樹君」


「はい」


「これも、変えた方がいい場所なのかな」


「まだ決めなくていいと思います」


「どうして?」


「三浦君だけがそう感じるのか、ほかの人も感じるのか分からないからです」


「一人の意見じゃ、変えない?」


「一人の意見だから変えない、ではありません」


 春樹は三浦の机を見ながら答えた。


「一人だけでも、その人が使えないほど困るなら、変える必要があるかもしれません。でも、落ち着かないという感覚が、仕切りの位置によるものなのか、慣れていないだけなのか、今は分からないです」


「じゃあ、次に同じ形を使った人も見る?」


「はい。それと、三浦君がもう少し使った後、どう感じるかも」


 なつきは頷き、記録用紙の端に小さく丸をつけた。


 今は決めない。


 後でもう一度確かめる印だった。


 以前のなつきなら、誰かが困ったと聞けば、すぐに直した方がいいと思っていた。


 困っている人を待たせることが悪いように感じたからだ。


 けれど、急いで変えることで、別の誰かが使いにくくなる場合もある。


 今、目の前で見えている困りごとだけを解決するのではなく、その困りごとがどこから生まれているのかを見る。


 春樹が昨日から繰り返している、作る側の視線というものが、ようやく少し分かった気がした。


「横田さん」


「うん」


「今度は何に気づきましたか?」


「どうして分かったの?」


「丸をつけた後、少し長く机を見ていたので」


 なつきは記録用紙を見下ろした。


「春樹君、私のこと、よく見てるね」


 教室の後方で、誰かが机へ膝をぶつけた。


 鈍い音の後、三浦が声を堪えるように口元を押さえている。圭が無言で彼の肩を叩いた。


 春樹は今度こそ、すぐに答えなかった。


「観察担当なので」


「私、試作品じゃないよ?」


「分かっています」


「じゃあ、どうして?」


「それは……」


 春樹の言葉が止まる。


 なつきは急かさずに待った。


 窓から入った風が記録用紙の端を持ち上げ、春樹が片手で押さえる。その指先は落ち着いているように見えたが、視線だけがなつきへ戻ってこない。


「一緒に作業することが増えたからだと思います」


 やがて、春樹は静かに答えた。


「横田さんが困る前に分かった方が、作業が止まらないので」


「それだけ?」


 なつきは尋ねた。


 尋ねてから、自分でもなぜ聞き返したのか分からなくなった。


 春樹もまた、わずかに目を見開く。


 二人の間へ、短い沈黙が落ちた。


 その沈黙を見守るように、周囲の生徒たちまで口を閉じている。


「それだけではないかもしれません」


 春樹の声は、先ほどより小さかった。


 なつきの胸の奥が、不意に強く鳴る。


 続きを待とうとした、その時だった。


「三番、端末が倒れました!」


 紅秋の声が教室へ響いた。


 全員の視線が、一斉に端末用の試作品へ向く。


 浅い溝へ立て掛けられていた端末が前へ傾き、ノートの上へ倒れていた。幸い保護ケースがついていたため壊れてはいないが、使っていた男子生徒は驚いて椅子を引いている。


「触ってない?」


「触ってない。教科書を取った時に机が少し揺れただけ」


「角度を確認して。大國君、固定部分を見て」


「はい」


 春樹はすぐに端末用の机へ向かった。


 なつきも記録板を抱え、その後を追う。


 先ほどの言葉は、そこで途切れた。


 それだけではないかもしれません。


 何が、それだけではないのか。


 作業が止まらないように見るだけではない。


 なら、春樹はどんな理由で、自分を見ているのだろう。


 尋ねたかった。


 けれど今は、倒れた端末と、浅すぎた溝の方が先だった。


 春樹は試作品を机から外し、固定部分を指先で確かめている。紅秋が寸法を読み上げ、茜が昨日の記録と照らし合わせる。


 見学していた生徒たちも、先ほどまでの空気から切り替えるように、端末の周囲へ集まり始めた。


「溝が浅いだけじゃなくて、後ろの支えが少し動いています」


 春樹が言った。


「テープが弱かった?」


 紅秋が尋ねる。


「それもあります。ただ、教科書を取った時の揺れで倒れたなら、固定を強くするだけでは足りないかもしれません」


「角度を変える?」


「角度を深くすると画面が見にくくなります」


「では、支える位置を上げる?」


「それだと端末の大きさによって当たる場所が変わります」


 次々に意見が出る。


 昨日までなら、誰かが正しい答えを言うのを待っていた場面だった。


 だが今は、完成した答えがなくても会話が止まらない。


「横に支えをつけるのは?」


 圭が提案する。


「横幅が違う端末だと入らないかも」


 茜が答える。


「動かせるようにすればいいんじゃない?」


 三浦が身を乗り出す。


「動く部分を増やすと、また机の上が狭くなる」


 紅秋が返す。


「じゃあ、下から挟む?」


「ケースによって厚さが違うよ」


 見学していた女子生徒も加わった。


 なつきは、交わされる言葉を聞きながら、倒れた端末を見つめた。


 変えられる場所。


 変えなくてもいい場所。


 今、皆は倒れたという結果を見て、どこを変えるべきか探している。


 けれど、支えも、角度も、溝も、全部を変えればいいわけではない。


「端末を立てなくてもいいんじゃないかな」


 気づけば、なつきはそう口にしていた。


 周囲の声が止まる。


「どういうこと?」


 紅秋が尋ねる。


「立てる形を変える話をしてるけど、ずっと立てて使う人だけじゃないよね。文字を打つ時は寝かせる人もいるし、先生の説明を見る時だけ立てる人もいる」


「つまり?」


「立てるための場所を固定するんじゃなくて、使う時だけ支えが出る形にする。使わない時は、ノートを置けるように平らにする」


 自分で話しながら、なつきは昨日の試作品を思い出していた。


 最初に作った形には、教科書を支えるための小さな板があった。使わない時には内側へ倒せるようにしていたが、端末用の形を作る時、強度が足りないという理由で固定式へ変えた。


「昨日の、倒れる板」


 なつきが言う。


「あれを強くできないかな」


 春樹が顔を上げた。


「最初の試作品の部品ですか?」


「うん。あれなら、使わない時は平らにできる。全部を新しくしなくても、残ってる部品を変えたら使えるかもしれない」


 教室の後ろに置かれた段ボール箱へ、皆の視線が向いた。


 箱の中には、試作の途中で外した部品がまとめて入れてある。


 紅秋が箱へ歩み寄り、薄い板を一つ取り出した。


「これ?」


「それ」


「でも、昨日は支えられなかったよ」


「立てる場所が高すぎたからじゃない?」


 なつきは端末の下側へ手を添えた。


「下だけ支えるんじゃなくて、少し後ろから押さえる。倒れる板の位置を、溝の後ろにしたら」


「待って」


 茜が机の横へ回り込み、端末を横から見る。


「支えを後ろに置いて、角度だけ調整できるようにするってこと?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「まだ作ってないから」


「それはそうだけど」


 茜が笑い、周囲からも小さな笑いが漏れる。


 春樹は箱から別の部品を取り出し、端末の後ろへ当ててみた。


「可能だと思います」


 その声に、全員が彼を見る。


「固定する位置を二段階か三段階にすれば、端末の大きさに合わせられます。使わない時は倒して、溝と同じ高さまで下げる。強度は、板を厚くするより、支点を二つにした方が保てるかもしれません」


「今日、直せる?」


 紅秋が尋ねる。


「材料が残っていれば」


「ある。昨日切った板が二枚」


「じゃあ、試せます」


 教室の空気が一気に動き出した。


 三浦が材料箱を机の下から引き出し、圭が工具の数を確認する。茜は試験を一度中断すると記録用紙へ書き込み、参加者たちへ席を離れるよう伝えた。


 なつきも動こうとしたが、春樹がすぐ横で小さく言った。


「横田さん」


「うん?」


「今の提案、良かったです」


 なつきは一瞬、何のことか分からず、彼を見上げた。


「端末の?」


「はい。新しく作ることだけではなく、前の形から残せる部分を見ていたので」


「板倉さんが言ったから。変えなくていいところを見つけるって」


「聞いた言葉を、すぐに今の問題へ使える人は多くありません」


「春樹君が、昨日の部品を覚えてたからだよ」


「横田さんが言わなければ、思い出していませんでした」


 互いに譲るような会話になり、二人は同時に口を閉じた。


 次の瞬間、なつきが笑う。


「じゃあ、二人で気づいたことにする?」


 春樹は少しだけ迷い、それから頷いた。


「はい」


「二人で見つけた」


「そうですね」


 そのやり取りを、少し離れた場所から茜が見ていた。


 隣では紅秋も、記録用紙を持ったまま二人を見ている。


「板倉さん」


 茜が声を抑える。


「何?」


「あの二人、前より近くなってない?」


 紅秋はすぐには答えず、材料を並べ始めた春樹となつきを見つめた。


 春樹が板を押さえ、なつきがその横へ定規を当てている。なつきの髪が作業の邪魔になりそうになると、春樹が何か言う前に、彼女は自分で耳へ掛けた。


 その直後、なつきが寸法を読み間違え、春樹が静かに訂正する。


 なつきは笑いながら書き直し、春樹もほんの少しだけ口元を緩めていた。


 触れ合っているわけではない。


 特別に甘い言葉を交わしているわけでもない。


 それでも、二人の間には、周囲が入り込まなくても作業が続いていく空気があった。


「近くなったというより」


 紅秋は慎重に言葉を選んだ。


「お互いの隣にいることを、前より気にしなくなったんじゃない?」


「それ、かなり近くなってるってことじゃない?」


「本人たちは気づいてないみたいだけどね」


「なつきはともかく、大國君も?」


「大國君は気づきかけてると思う」


「さっきの、それだけじゃないかもしれない、っていうの?」


 紅秋は答えず、記録用紙へ視線を落とした。


 そこには試作品の問題点と、次に確かめる条件が並んでいる。


 右利きと左利き。


 端末ありと端末なし。


 仕切りの位置。


 机に置く物の数。


 形を変えることで、違いは少しずつ見え始めていた。


 そして、比べなければ見えなかったものは、試作品の中だけにあるわけではなかった。


 以前の春樹と、今の春樹。


 以前のなつきと、今のなつき。


 別々に作業していた二人と、自然に同じ机へ向かうようになった二人。


 変わった場所を見つけることで、変わらず残っているものも見えてくる。


 その変化が何を意味するのか、本人たちはまだ言葉にできていない。


 けれど周囲の生徒たちは、すでに気づき始めていた。


 二人の距離が、ある日突然近づいたのではない。


 何度も話し、何度も迷い、相手が困る前に声を掛けることを覚えた結果として、隣にいることが当たり前になり始めているのだと。


「板倉さん、遠山さん」


 なつきが作業机から二人を呼んだ。


「ここ、見て。春樹君が、支えを二つにした」


「横田さんの案です」


「形にしたのは春樹君」


「二人の案でいいから、試すよ」


 紅秋が呆れたように言い、試作品へ近づく。


 茜もその後へ続きながら、なつきの表情を見た。


 本人はいつも通りだった。


 春樹の隣で笑い、自分が気づいたことを話し、春樹が形にしたことを嬉しそうに周囲へ伝えている。


 ただ、その無邪気さの奥に、以前にはなかった確かな信頼が見える。


 そして春樹もまた、なつきの言葉を聞き逃さない。


 彼女の思いつきを曖昧なものとして流さず、使える形へ置き換えようとしている。


「一度、端末を置きます」


 春樹が改良途中の支えを手で押さえた。


 なつきが端末をゆっくりと溝へ置く。


「離して大丈夫?」


「まだ固定していないので、少し待ってください」


「分かった」


「横田さん、そこを押さえてもらえますか?」


「ここ?」


「もう少し右です」


「こう?」


「はい。そのままで」


 二人の手が、板の上で少しだけ近づいた。


 触れそうで触れない距離。


 なつきは試作品だけを見ている。


 春樹もまた、作業へ集中しているように見えた。


 けれど、ほんの一瞬だけ。


 春樹の視線が、板を押さえるなつきの指先へ落ちた。


 すぐに戻されたその視線を、茜は見逃さなかった。


 三浦も見ていたらしく、圭の制服の袖を引く。


「なあ」


「今は黙ってた方がいいよ」


「まだ何も言ってない」


「顔に出てる」


 三浦は口元を押さえた。


 紅秋はそんな二人を横目で牽制しながら、試作品へ手を伸ばす。


「固定するよ。大國君、左。横田さんはそのまま。遠山さん、端末が傾いたら言って」


「分かった」


 四人の手が、一つの小さな試作品へ集まった。


 教室に残った生徒たちも、その周囲を囲む。


 最初は、机の上を少しだけ使いやすくするために始まった試作だった。


 けれど今、彼らが確かめているのは、単なる道具の形だけではない。


 誰かに合わせて変えること。


 全員を一つの形へ押し込まないこと。


 うまくいかなかったものを、すぐに失敗として捨てないこと。


 そして、変わった部分だけではなく、変えなくてもよかった部分を見つけること。


 端末から手を離すと、改良途中の支えは小さく揺れた。


 教室にいる全員が息を止める。


 一秒。


 二秒。


 先ほどは倒れた端末が、今度は傾きながらも、その場に残った。


「立ってる」


 なつきが声を上げた。


「まだ手を触れないで」


 紅秋が止める。


「机を少し揺らします」


 春樹が机の端へ手を掛ける。


 小さく一度。


 端末が揺れる。


 もう一度。


 支えの板がわずかに動いたが、倒れない。


 教室のあちこちから、押し殺していた息が漏れた。


「成功?」


 三浦が尋ねる。


 紅秋は端末と支えを確認し、首を横へ振る。


「まだ。これから角度と強度を測る。端末の大きさも変えるし、何度も倒して戻せるかも確かめる」


「厳しい」


「試験だから」


「でも」


 なつきが端末を見ながら言った。


「前よりは、進んだよね」


 紅秋は少しだけ笑った。


「うん。前よりはね」


 なつきも笑う。


 その隣で春樹が、改良した支えの寸法を記録していた。


「春樹君」


「はい」


「さっきの続き、あとで聞いてもいい?」


 鉛筆の動きが止まった。


 周囲では、試験を再開するために生徒たちが動いている。誰も聞いていないように見えたが、茜と紅秋の耳は明らかにこちらへ向いていた。


「さっきの続き?」


「私のことを見てる理由。それだけじゃないかもしれないって言ったでしょう」


 春樹はゆっくりと顔を上げた。


 なつきは、逃がさないように見つめているわけではない。


 ただ純粋に、途中で止まった言葉の続きを待っている。


 だからこそ、春樹はすぐに答えられなかった。


「……試験が終わった後で」


 やがて彼は言った。


「うん」


 なつきは素直に頷く。


「忘れないでね」


「忘れません」


「約束?」


 春樹は少しだけ迷い、それから静かに答えた。


「約束します」


 なつきは満足そうに笑い、記録板を抱えて次の試験席へ向かった。


 その背中を、春樹はしばらく見つめていた。


 本人がどこまで自覚しているのかは分からない。


 けれど、試験が終わるまでに答えを考えなければならない。


 作業を止めないため。


 困る前に気づくため。


 それは嘘ではない。


 ただ、それだけでは説明できないほど、自分は横田なつきを見ている。


 彼女が笑った時。


 困った時。


 何かに気づいて、伝えようと言葉を探している時。


 誰かの意見を聞き、自分の中へゆっくり取り込んでいる時。


 見ようとしているのではなく、気づけば見ている。


 その理由を、春樹自身もまだ、正確な言葉にはできていなかった。


 教室の前方から、紅秋が三回目の試験開始を告げる。


 再び机の上へ教科書とノートが置かれ、筆箱が開かれ、端末の画面が明るくなる。


 比較試験は、まだ半分も終わっていない。


 変えるべき場所も、残すべき場所も、これからさらに見つかっていく。


 そして、試験が終わる頃。


 春樹は自分の中で変わり始めたものを、なつきへどこまで伝えられるのか。


 その答えだけは、机の上の試作品のように、寸法を測って確かめることができなかった。

★★★★★


 三回目の比較試験が始まる頃には、窓から差し込んでいた光が、少しずつ橙色を帯び始めていた。


 放課後の校舎には、まだ多くの生徒が残っている。廊下の向こうからは吹奏楽部の音合わせが途切れ途切れに届き、校庭では運動部の掛け声が重なっていた。けれど二年十一組の後方では、別の時間が流れているように、机の上の小さな動きへ全員の意識が集まっていた。


 先ほど改良した端末用の支えは、まだ仮留めのままだった。


 倒して収納できる薄い板。その左右を支える小さな部品。そして、端末の角度を二段階で変えられるよう、板材の一部へ浅い溝を追加している。


 見た目は決して綺麗ではない。


 テープは何重にも重なり、寸法を調整するために削った部分には白い粉が残っている。だが、一度倒れた端末を見た後だからこそ、教室に残った生徒たちは、その不格好な試作品を先ほどより真剣な目で見ていた。


「三回目は、改良した端末用と、仕切りを減らした形を中心に見ます」


 紅秋が記録用紙を持ちながら説明する。


「端末用は、端末を立てた状態と寝かせた状態を途中で切り替えてください。切り替える時に邪魔になるもの、手順が多い部分、倒れそうに感じた瞬間があれば、その場で言って」


「感じた瞬間って、実際に倒れなくてもいいの?」


 端末用の席へ座った圭が尋ねた。


「倒れるまで待たなくていいよ。不安に感じたなら、それも使いにくさだから」


「気持ちも記録するんだね」


「道具って、壊れなければいいわけじゃないでしょう。毎回倒れそうだと思いながら使うなら、実際に倒れなくても使いたくなくなるから」


 紅秋の答えに、圭は納得したように頷いた。


 その向かいでは、三浦が仕切りを減らした試作品へ座っている。先ほどは空間が広すぎて落ち着かないと話していたため、同じ形をもう一度使い、時間が経つことで感覚が変わるのかを確かめることになった。


「俺、またこれ?」


「嫌なら別の人に代わる?」


「いや、やる。さっきの俺の感覚が、ただ机が綺麗すぎて怖かっただけなのか確認する」


「机が綺麗だと怖いって、どういう生活をしてるの」


 茜が呆れた声を出す。


「散らかっている物には役割があるんだよ」


「床に落ちてるプリントにも?」


「あれは、まだ役割を探してる途中」


「ゴミ箱へ行く役割だと思う」


「遠山さんは結論を急ぎすぎる」


「一週間前のプリントを床へ置いている人に言われたくない」


 周囲から笑いが起こる。


 三浦は何か反論しようとしたが、紅秋が試験開始の合図を出したため、口を閉じて机へ向き直った。


 なつきは記録板を胸の前で持ちながら、春樹の横に立っていた。


 先ほどまでなら、春樹と二人で観察する範囲を分けた後、すぐに試作品へ意識を戻せた。


 けれど今は、そう簡単にはいかなかった。


 試験が終わった後で。


 忘れません。


 約束します。


 春樹がそう答えた声が、何度も胸の中へ戻ってくる。


 続きを聞きたいと言ったのは自分だ。


 途中で止められた言葉が気になった。ただそれだけだったはずなのに、約束してもらった瞬間から、試験が終わることを待っている自分がいる。


 何を言われるのだろう。


 春樹が自分をよく見ている理由。


 作業が止まらないようにするためだけではない理由。


 考えても答えは出ない。


 むしろ考えるほど、先ほど口にした自分の言葉まで思い出してしまう。


 今の春樹君も好き。


 前の春樹君もいなくなっていないから、いいと思う。


 皆が黙った理由を、なつきはまだ完全には理解できていなかった。


 ただ、あの言葉をもう一度、同じように皆の前で言えるかと聞かれたら、少し難しいような気がする。


「横田さん」


 隣から春樹に呼ばれ、なつきは慌てて顔を上げた。


「うん」


「試験が始まっています」


「見てたよ」


「三浦君が、すでに筆箱を動かしました」


「えっ」


 なつきが三浦の机へ視線を向ける。


 先ほどまで机の右奥に置かれていた筆箱が、今はノートの上側へ移動していた。


「三浦君、いつ動かしたの?」


「始まってすぐ」


「どうして?」


「右に置くと広すぎるから、上に置いた。やっぱり何かが近くにあった方が落ち着く」


「使いにくい?」


「うーん」


 三浦は鉛筆を持ったまま、机の上を見回した。


「書く時は使いやすい。腕に何も当たらないし。でも、使いやすいのと落ち着くのって、同じじゃないみたいだな」


 なつきは、その言葉を記録用紙へ書き込んだ。


 使いやすいが、落ち着かない。


 昨日までなら、矛盾しているように感じたかもしれない。


 けれど今は、その二つが別の感覚なのだと分かる。


「三浦君は、仕切りが欲しいんじゃなくて、物の場所が決まってほしいのかも」


 なつきが言うと、三浦は顔を上げた。


「物の場所?」


「仕切りがなくても、ここに筆箱を置くって決められたら、落ち着く?」


「どうだろう」


「試してみる?」


 なつきは材料箱から、細い紙のテープを取り出した。


 机の上へ直接貼らないよう、試作品の板材へ小さく四角を作る。


「ここを筆箱の場所にする」


「仕切りじゃなくて、印だけ?」


「うん。入らなくてもいいし、はみ出してもいい。でも、置く場所は分かる」


 三浦は少し面白そうな顔をしながら、筆箱をその四角の上へ置いた。


 筆箱の方が少し大きいため、端は線からはみ出している。それでも、場所が示されただけで、先ほどより机の上がまとまったように見えた。


「どう?」


「……さっきよりいいかも」


「書く時は?」


 三浦はノートへ短い文字を書き、消しゴムを取り、再び筆箱へ戻した。


「邪魔じゃない。というか、仕切りがないから多少ずれても気にならない」


「じゃあ、仕切りじゃなくて印でいい?」


「俺には、たぶん」


 なつきは大きく頷き、記録用紙へ新しい項目を書き加えた。


 物理的に区切らなくても、場所が見えるだけで落ち着く場合がある。


 書き終えたところで、春樹がなつきの手元を見た。


「今の提案も、残せそうですね」


「何を?」


「仕切りを減らした形です。三浦君が落ち着かないと言ったので、仕切りを増やす案も出ると思っていました。でも、横田さんは仕切りを戻さず、印だけを足しました」


「仕切りがあると、腕に当たる人もいたから」


「はい。変えなくてもいい部分を残して、別の方法を加えています」


 春樹の言葉に、なつきは少し嬉しくなった。


「私、作る側の見方、できてる?」


「できていると思います」


「少し?」


「昨日より、かなり」


 その答えが嬉しくて、なつきは笑った。


「春樹君が教えてくれたからだね」


「僕だけではありません」


「またそれ言う」


「事実です」


「でも、春樹君がいなかったら、私は仕切りを戻してたと思う」


「どうしてですか?」


「困ってるって聞いたら、すぐ直したくなるから。でも春樹君が、まだ決めなくていいって言ったでしょう。だから、仕切りを戻す前に、何が困ってるのか考えられた」


 春樹はしばらく何も言わなかった。


 なつきは首を傾げる。


「どうしたの?」


「横田さんは、聞いたことをそのまま使うんじゃなくて、自分で考えて変えています」


「うん?」


「僕が言ったからできた、ではないと思います」


「でも、きっかけは春樹君だよ」


「きっかけだけです」


「きっかけって大事だよ」


 なつきは、机の上の小さな四角を指差した。


「この印も、三浦君が落ち着かないって言わなかったら作らなかった。三浦君は印を作ってないけど、きっかけにはなってる。だから、春樹君も一緒」


「俺、いいこと言った人みたいになってる?」


 三浦が会話へ入ってくる。


「落ち着かないって言っただけだけど」


「それが大事だったんだよ」


「横田に真っ直ぐ言われると、急に立派な意見だった気がしてくるな」


「気のせいだから、試験を続けて」


 紅秋が即座に遮る。


 三浦は口元を緩めながら、再びノートへ向き直った。


 その少し離れた席では、圭が端末の角度を変えようとしていた。


「板倉さん。これ、動かす時に端末を一回持ち上げないと駄目かも」


 圭の声に、全員の意識が端末用の机へ集まる。


 倒して収納できる支えは、端末を置いたまま角度を変えようとすると、端末の重みで溝から外れにくくなっていた。


「無理に引くと倒れそう」


「そのまま触らないで」


 紅秋が近づく。


 春樹もすぐに圭の横へ回り込み、支えの動きを確認した。


「持ち上げれば変えられます」


「でも、毎回持ち上げるのは面倒だよね」


 圭が答える。


「授業中に先生が画面を見てって言った時、端末を持ち上げて、支えを動かして、置き直す。終わったらまた戻す」


「手順が多いね」


 茜が記録する。


「しかも、急いでやると倒すかもしれない」


 紅秋が言う。


 先ほどは立ったことで喜んだ試作品が、使い方を変えると別の問題を見せている。


 教室に残った生徒たちの間に、少しだけ重い空気が流れた。


「せっかく立ったのに」


 見学していた女子生徒が、小さく呟く。


「また作り直し?」


 別の男子生徒が尋ねた。


 紅秋は答えず、端末の支えを見つめている。


 春樹も手を伸ばしたまま、考え込んでいた。


 なつきは、皆の顔を順番に見た。


 先ほどまで、改良がうまくいったと思っていた。前の部品を残しながら、端末が倒れない形に近づけた。


 けれど、それで終わりではなかった。


 倒れないことと、使いやすいことも、同じではない。


 三浦が言った、使いやすいことと落ち着くことが同じではないように。


「作り直さなくてもいいんじゃない?」


 なつきが言うと、紅秋が顔を上げた。


「何か思いついた?」


「支えを動かすんじゃなくて、端末の方を滑らせる」


「滑らせる?」


「今は、支えの位置を変えて角度を変えてるでしょう。でも、支えを一か所にしたまま、端末を置く溝を前と後ろに動かせたら、持ち上げなくても角度が変わるかもしれない」


 春樹が端末の下へ視線を落とす。


「溝を動かす機構が必要になります」


「難しい?」


「今の材料では、安定させるのが難しいかもしれません」


「じゃあ、溝を二つにする?」


 なつきは板材の上を指でなぞった。


「前と後ろに最初から溝を作っておいて、端末を少しだけ前に倒して、滑らせる。全部持ち上げなくても、下だけ動かせないかな」


 圭が端末を両手で支え、試しに底を少しだけ前へ滑らせてみる。


 今の板には溝が一つしかないため、途中で止まらず、そのまま手前へ倒れそうになった。


 春樹がすぐに端末を支える。


「二つ目の溝があれば、可能かもしれません」


「でも、深くするとノートを置いた時に邪魔じゃない?」


 茜が言う。


「浅い溝なら?」


 見学していた女子生徒が提案する。


「端末の滑り止めになるくらいで、ノートなら上から置ける深さ」


「それなら、収納した時も平らに近くできる」


 紅秋が頷いた。


「ただ、端末のケースの厚さで止まり方が変わるね」


「滑り止めを貼る?」


 三浦が机から顔を上げる。


「柔らかい材料があれば、厚さが少し違っても止まるんじゃない?」


「珍しくまともな案」


 茜が言う。


「俺はいつもまともだよ」


「一週間前のプリント」


「あれは今、関係ないだろ」


 笑いが起こった。


 先ほど一瞬重くなった空気が、また緩やかに動き始める。


「材料箱に、滑り止めのシートが少し残っていたはず」


 紅秋が言う。


「大國君、確認できる?」


「はい」


 春樹が箱へ向かい、なつきもその後を追った。


 材料箱の中には、板材の切れ端、使わなくなった留め具、粘着テープ、薄いゴムのシートが分けて入れられている。


 春樹がゴムのシートを取り出し、厚さを指先で確認した。


「これなら使えそうです」


「溝に貼る?」


「先に、二つ目の溝を試します。板を切らなくても、細い部品を二本貼れば仮の溝を作れます」


「それなら、駄目でも外せるね」


「はい」


 二人は同時に材料箱へ手を伸ばした。


 なつきの指先が、春樹の手の甲へ軽く触れる。


「あ」


 ほんの短い接触だった。


 けれど二人とも、すぐには手を動かさなかった。


 春樹の手は温かかった。


 なつきがそう感じた瞬間、先ほどまで落ち着いていた胸の奥が、急に騒がしくなる。


「ごめん」


 なつきが先に手を引いた。


「いえ」


 春樹も手を戻す。


 視線を合わせることができず、二人とも材料箱の中を見たまま黙った。


 周囲では、試験参加者たちが今の案について話している。誰もこちらを見ていないように思えた。


 ただ、少し離れた場所にいた茜だけが、二人の動きを見ていた。


「春樹君」


「はい」


「今、びっくりした?」


「少し」


「私も」


「そうですか」


「うん」


 そこで会話が止まる。


 普段なら、触れただけでここまで意識することはなかった。


 プリントを渡す時。


 本を受け取る時。


 十一組ラボの材料を押さえる時。


 これまでも、手や腕が近づくことはあったはずだ。


 けれど今は、春樹があとで何を話すのかを考えていたからかもしれない。


 触れた場所だけが、不自然に残っているように感じる。


「細い部品、これでいい?」


 なつきは沈黙に耐えられず、箱の中から板材を一本取り出した。


「はい。もう一本必要です」


「これ?」


「それは少し厚いです」


「じゃあ、こっち」


「はい」


 二人は必要な材料を持ち、端末用の机へ戻った。


 茜がなつきの顔を見たが、何も言わなかった。


 その沈黙が、かえって何かを見られたようで、なつきは記録板を持ち直す。


「どうしたの?」


 なつきが尋ねる。


「何でもない」


「茜ちゃん、今、何か言いそうだった」


「試験が終わってからにする」


「春樹君と同じこと言う」


 なつきがそう言うと、茜は春樹を一度だけ見た。


「それは、たぶん内容が違うと思う」


「何の話?」


「だから、後で」


 教えてもらえないまま、試作品の改良が再開された。


 仮の溝を二つ作り、その内側へ細く切った滑り止めを貼る。端末の支えは一か所へ固定し、端末の底だけを前後へ動かせるようにした。


 作業は、最初の改良より早く進んだ。


 全員が何を確かめたいのか理解し始めていたからだ。


 紅秋が寸法を確認し、茜が前の記録と比較する。圭が実際に端末を動かし、三浦が別の大きさの端末を借りに走る。


 なつきは春樹の隣で、仮の溝がずれないよう板材を押さえていた。


 先ほど触れた指先を意識しないようにしても、春樹の手が近づくたび、視線がそこへ向きそうになる。


「横田さん」


「うん」


「少し力を弱めてください。板が曲がっています」


「ごめん」


「緊張していますか?」


「してない」


「かなり強く押さえています」


「これは、倒れないように」


「端末ではなく板です」


「分かってる」


 春樹は一瞬だけ黙った後、ほんの少し口元を緩めた。


「笑った?」


「笑っていません」


「今、笑ったよ」


「作業を続けます」


「逃げた」


「逃げていません」


 先ほど自分が言われた言葉を、そのまま返している。


 なつきがそれに気づいて笑うと、春樹も完全には隠しきれない様子で、視線を板材へ落とした。


「二人とも、楽しそうだね」


 向かい側から茜が言う。


「作業中だよ」


 なつきが答える。


「分かってる。作業中なのに楽しそうだなって」


「駄目?」


「駄目とは言ってない」


「遠山さん」


 春樹が静かに呼ぶ。


「何?」


「寸法を確認してもらえますか?」


「話を終わらせたね」


「作業を進めています」


「はいはい」


 茜は笑いながら定規を当てた。


 周囲で見ていた生徒たちも、二人のやり取りに以前ほど驚かなくなっている。


 それは二人の距離が目立たなくなったからではない。


 むしろ、春樹となつきが自然に言葉を交わす光景が、十一組の中で少しずつ当たり前になってきたからだった。


 春樹がなつきの言葉を拾う。


 なつきが春樹の小さな表情の変化に気づく。


 以前なら周囲が意外そうに見ていたことが、今ではまた始まったというような笑いへ変わりつつある。


 それでも、今日の二人にはいつもと違う何かがあった。


 会話の途中で、少しだけ間が生まれる。


 手が近づくと、どちらかが不自然に動きを止める。


 そして時折、なつきが春樹の顔を見て、何かを待つような表情をする。


 その理由を知っている茜と紅秋は、何も言わずに見守っていた。


「できた」


 紅秋が仮の溝を指で確かめる。


「圭君、端末を置いてみて」


 圭が端末を後ろ側の溝へ置いた。


 支えに預けると、画面が見やすい角度で止まる。


「次、手前へ動かす」


 圭は端末の上側を軽く支え、底を持ち上げずに前へ滑らせた。


 滑り止めの上を通り、端末の底が前側の溝へ入る。


 画面の角度が緩くなり、文字を入力しやすい位置へ変わった。


「さっきより楽」


 圭が言う。


「持ち上げてない?」


 紅秋が確認する。


「少し浮かせたけど、端末全体は持ち上げてない。片手でもできる」


「不安は?」


「今のところ、ない」


「机を揺らします」


 春樹が机の端を軽く押した。


 端末は小さく揺れたが、溝から外れなかった。


 もう少し強く揺らす。


 支えがわずかにしなり、端末の画面が前後する。それでも倒れず、元の位置へ戻った。


「立ってる」


 なつきが先ほどと同じ言葉を口にする。


 けれど今度は、すぐに成功とは言わなかった。


「次は、大きさを変える?」


 紅秋がなつきを見て、少しだけ笑う。


「分かってきたね」


「うん。まだ一つしか試してないから」


「その通り」


 ちょうどその時、三浦が別の端末を抱えて教室へ戻ってきた。


「隣のクラスから借りてきた。これ、少し小さいやつ」


「ちゃんと許可は取った?」


 茜が尋ねる。


「取った。俺は信用がないのか?」


「一週間前のプリント」


「それ、いつまで使うの?」


 笑いが広がる中、二つ目の端末が試作品へ置かれた。


 先ほどより横幅が狭く、ケースも薄い。


 後ろ側の溝へ置くと、支えには届くものの、底が少し滑る。


「動くね」


 圭が指で軽く触れた。


「滑り止めを広くする?」


 三浦が言う。


「広くすると、ノートを置いた時に段差が増える」


 紅秋が返す。


「では、端末を置く場所だけ、滑り止めを交換できるようにする方法もあります」


 春樹が提案する。


「交換?」


 なつきが尋ねる。


「薄いケース用と厚いケース用で、滑り止めの厚さを変えます。貼り直すのではなく、差し込む形にすれば」


「でも、部品が増えるよね」


「はい」


「なくしそう」


 三浦が即座に言う。


「あなたはなくす前提で考えた方がいいね」


 茜が答える。


「否定できないのが悔しい」


「交換する形じゃなくて」


 なつきは小さい端末を見つめた。


「滑り止めを斜めにできないかな」


「斜め?」


「奥が少し厚くて、手前が薄い。端末の厚さが違っても、どこかで止まるようにする」


 春樹の目が、試作品へ向く。


「くさびのような形ですか」


「くさび?」


「片側が厚く、反対側が薄い形です」


「たぶん、それ」


「それなら、部品を交換しなくても、置く位置を少し変えるだけで調整できます」


「作れる?」


「ゴムのシートを重ねれば、仮の形は作れます」


 再び材料箱が開かれる。


 誰かの問題が出るたびに、試験は止まる。


 止まるたびに、全員で考える。


 考えて、少し変える。


 そしてまた試す。


 その繰り返しに、苛立つ生徒はいなかった。


 むしろ、最初に用意された四つの形を使うだけだった試験が、今では自分たちの言葉で変化していくことを、全員が面白がり始めていた。


「なあ、これさ」


 三浦が新しい滑り止めを見ながら言う。


「最終的に何種類作るんだ?」


 教室が少し静かになる。


 最初は、一つの完成形を作るつもりだった。


 しかし比較すればするほど、使う人によって必要なものが違うと分かる。


 右利きと左利き。


 端末を使う人と使わない人。


 仕切りが必要な人と、印だけで落ち着く人。


 すべてに合わせようとすれば、また部品が増え、机が狭くなる。


「一つにしなくてもいいんじゃない?」


 なつきが言った。


 三浦が彼女を見る。


「四種類全部残すってこと?」


「全部じゃなくて、変えられる場所だけ選べるようにする」


「選べる?」


「台座と教科書の溝は同じでいい。昨日から、そこは誰も使いにくいって言ってないから。仕切りは右にも左にもつけられるようにして、いらない人は外す。端末の支えも、使う時だけつける」


「部品を選ぶ形か」


 紅秋が考えるように呟く。


「最初から一つの形にするんじゃなくて、必要なものだけ足す」


 茜が続ける。


「それなら、全部入りで机が狭くなるのを避けられるね」


「でも、選ぶのが面倒な人もいない?」


 圭が尋ねる。


「最初に一回選べばいいんじゃない?」


 三浦が答える。


「授業ごとに全部変えるんじゃなくて、普段の基本の形を決めておく。端末を使う時だけ支えを出すとか」


「その基本の形を決めるために、今日の記録を使える」


 春樹が言う。


「利き手だけではなく、物の置き方や、仕切りが必要かどうかも簡単に確認できるようにすれば、一人ずつ選べます」


「一人ずつ違う机になる?」


 見学していた女子生徒が、少し驚いたように尋ねる。


「完全に違う机ではありません」


 春樹は台座を指差した。


「変えなくていい部分は同じです。必要な部分だけが違います」


 その言葉に、なつきは胸の中で何かがつながるのを感じた。


 変えられる形は、変えなくてもいい場所を教えてくれる。


 最初に紅秋が話した言葉が、ようやく一つの形になり始めている。


 違うものをたくさん作るのではない。


 同じでいい場所を見つけ、その上で違っていい場所だけを動かす。


「それ、いいね」


 なつきが言う。


「全部違うんじゃなくて、同じところもある。でも、無理に同じにしない」


 その言葉を聞いた春樹が、なつきを見た。


 二人の視線が重なる。


 今度は、どちらもすぐには逸らさなかった。


 なつきは、自分が話しているのが試作品のことだけではないような気がした。


 春樹も、同じことを感じているように見えた。


 人は変わる。


 話すようになることもある。


 誰かの隣へ立つことを、以前より自然に感じるようになることもある。


 けれど、全部が変わるわけではない。


 春樹が静かなこと。


 本を読むこと。


 人の話を急がずに待つこと。


 なつきがすぐに誰かの困りごとへ気づこうとすること。


 考えている途中の言葉を、そのまま口にしてしまうこと。


 変わらない部分を持ったまま、変わっていくことができる。


「横田さん」


「うん」


「今の言葉、記録しておいた方がいいと思います」


「全部違うんじゃなくて、同じところもある?」


「その後です」


「無理に同じにしない?」


「はい」


 なつきは記録用紙の余白へ、その言葉を書いた。


 同じでいい場所は残す。違う方がいい場所は、選べるようにする。無理に一つへまとめない。


 書き終えた文字を、春樹も横から見る。


「これ、今日のまとめに使えるかな」


「使えると思います」


「板倉さんに見せる?」


「はい」


 二人で紅秋のところへ向かおうとした時、放課後を告げる最終下校時刻前の予鈴が、校舎へ響いた。


 教室に残っていた生徒たちが、揃って時計を見る。


「もうこんな時間?」


 三浦が声を上げる。


「試験、まだ終わってないよな」


「四回目はできないね」


 紅秋は時計と記録用紙を交互に見た。


「今日はここまでにして、片づけながら結果をまとめる。残りは明日」


 教室のあちこちから、名残惜しそうな声が漏れる。


「明日もやるの?」


「部活あるけど、途中から来てもいい?」


「俺、別の筆箱でも試したい」


「小さい端末、明日も借りられるか聞いておく」


 参加者だけではなく、見学していた生徒たちまで次の試験について話し始める。


 最初は、数人で始めた十一組ラボだった。


 誰かが作ったものを、周囲が見ているだけの活動に近かった。


 けれど今日は、使いにくいと口にすることも、失敗を見つけることも、別の形を提案することも、少しずつ教室全体のものになっている。


 紅秋はそんな周囲の様子を見回し、わずかに表情を緩めた。


「明日の参加者は、後で確認する。今日は片づけを優先して」


 生徒たちが一斉に動き出す。


 端末を返す者。


 机を元の位置へ戻す者。


 材料を箱へ分ける者。


 記録用紙を順番に集める者。


 なつきも試作品を持ち上げようとしたが、春樹が先に手を伸ばした。


「それは僕が持ちます」


「一緒に持つよ」


「軽いです」


「でも、部品が落ちるかも」


「では、横を押さえてください」


「うん」


 二人で同じ試作品を持ち、教室の後方にある保管棚へ向かう。


 ほんの数歩の距離だった。


 けれどなつきは、試作品を落とさないことより、春樹との約束の方を意識していた。


 試験が終わった後で。


 今、紅秋は試験を終えると言った。


 なら、片づけが終われば、春樹は答えてくれるのだろうか。


 保管棚へ試作品を置き、春樹が手を離す。


 なつきはその場に残り、彼の横顔を見た。


「春樹君」


「はい」


「試験、終わったよね」


 春樹の動きが止まった。


 少し離れた場所で記録用紙をまとめていた茜が、顔を上げる。


 紅秋も、材料箱の蓋を閉めながら、視線だけをこちらへ向けた。


 春樹は教室の中を見回した。


 まだ多くの生徒が残っている。


 三浦と圭は机を運びながら何かを話し、見学していた生徒たちも片づけを続けていた。


「まだ片づけが終わっていません」


「試験が終わった後って言った」


「片づけも十一組ラボの一部です」


「春樹君」


 なつきは少しだけ目を細めた。


「また逃げた?」


「逃げていません」


「じゃあ、忘れてない?」


「忘れていません」


「本当に?」


「約束したので」


 春樹の声は静かだった。


 けれど、その表情には、試作品の問題を考えていた時とは違う緊張が見えていた。


 なつきはそれ以上急かさず、頷く。


「分かった。片づける」


「はい」


「でも、全部終わったら聞くからね」


「分かっています」


 なつきは満足したように、次の材料を片づけに向かった。


 その背中を見送った春樹が、小さく息を吐く。


「大國君」


 すぐ横から声がし、春樹は肩を揺らした。


 いつの間にか、紅秋が隣へ立っていた。


「何ですか」


「答え、決まった?」


「何のことでしょうか」


「横田さんへ話すこと」


「聞いていたんですか」


「教室中に聞こえてたよ」


 春樹は視線を落とした。


「まだ、正確には決まっていません」


「正確な答えが必要?」


「曖昧なまま話すと、横田さんを困らせるかもしれません」


「でも、黙ったままでも困らせると思う」


 紅秋の言葉に、春樹は何も返せなかった。


 なつきはすでに何度もこちらを見ている。


 片づけながらも、約束を忘れていないか確かめるように。


「今日の試験で分かったでしょう」


 紅秋は保管棚へ視線を向けた。


「最初から完成した答えを出そうとすると、必要な違いまで消えることがある。今分かっていることだけ話して、続きは後で考えてもいいんじゃない?」


「試作品と同じようにはできません」


「同じだとは言ってない。でも、失敗しない言葉を探しすぎて、何も言わないのは、大國君が今日ずっと避けていたやり方じゃない?」


 春樹の指先が、わずかに動いた。


 都合の悪い結果を失敗にしない。


 使いにくい理由が分からないまま、全部を作り直さない。


 一人の意見を、すぐに捨てない。


 今日、試作品を通して確かめてきたことが、自分自身へ返ってくる。


「僕は」


 春樹は言葉を探した。


「横田さんが困っていると、気づくことが増えました。話していなくても、何か考えている時も分かることがあります」


「うん」


「それを放っておけないと思います」


「それが答えじゃないの?」


「でも、どうして放っておけないのかは、まだ」


「分からない?」


「分からないわけではありません」


 春樹はそこまで言い、口を閉じた。


 紅秋は急かさず待つ。


 教室の中では、机を戻す音が続いている。


「認めると、今までと同じではいられなくなる気がします」


 やがて、春樹は小さく言った。


「何を認めるの?」


「それは」


 紅秋の視線が、なつきへ向く。


 なつきは茜と一緒に記録用紙を揃えている。何かを話しながら笑い、しかしその合間に、やはり春樹の方を見ていた。


「自分で言わないと意味がないよ」


 紅秋はそれだけ言い、材料箱を持ち上げた。


「片づけ、もうすぐ終わるから」


 春樹はその場に立ったまま、なつきを見つめた。


 以前の自分なら、答えが決まるまで待っただろう。


 正しい言葉が見つかるまで、話さなかった。


 曖昧な気持ちを口にして、相手を混乱させるくらいなら、何も言わない方がいいと思っていた。


 けれど、なつきは待っている。


 完成した答えではなく、春樹が今持っている言葉を。


 それを分かっていながら、また沈黙へ逃げれば、約束を守ったことにはならない。


 最終下校時刻を告げる音が鳴るまで、あとわずかだった。


 机は元の位置へ戻り、材料箱も棚へ収められていく。


 十一組ラボの片づけは、確実に終わりへ近づいていた。


 そして春樹が自分の言葉を選ぶために残された時間も、少しずつ短くなっていた。


★★★★★


 片づけは、思っていたより早く終わった。


 最初は教室の後方へ寄せられていた机も、少しずつ元の列へ戻されていく。床に落ちていた板材の削りかすは箒で集められ、記録用紙は紅秋の手元で順番に重ねられた。


 端末は借りた相手へ返すため、三浦と圭がそれぞれ抱えて廊下へ出ていく。見学していた生徒たちも、鞄を肩へ掛けながら、明日の試験について最後まで話していた。


「明日、俺も右利き用を試していい?」


「いいけど、普段の机の使い方を変えないでね」


「変えないって言われると、急にいつもの置き方が分からなくなるな」


「それ、今日の三浦君と同じ」


「俺の名前を、困った例として使わないでほしい」


 廊下へ出たはずの三浦が、端末を抱えたまま顔だけ教室へ戻して抗議する。


「早く返してきて」


 紅秋に言われ、三浦は不満そうな表情を残しながら今度こそ姿を消した。


 その後ろから圭の笑い声が聞こえ、やがて二人の足音は廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 教室に残っている人数は、少しずつ減っていた。


 最終下校時刻が近い。


 普段なら、茜はすでになつきの帰り支度を急かしている頃だった。けれど今日は何も言わず、集めた記録用紙を紅秋と一緒に確認している。


 その視線が時折こちらへ向くことに、なつきは気づいていた。


 春樹も気づいているはずだった。


 それでも、二人とも触れなかった。


 なつきは自分の机へ戻り、記録板を鞄へしまった。


 筆箱を入れ、机の横へ掛けていた小さな袋を取り、椅子を机の中へ押し込む。帰る準備はすぐに終わったが、鞄を持ち上げることはできなかった。


 春樹との約束が残っている。


 試験が終わった後。


 片づけも終わった。


 教室の後方では、春樹が材料箱の蓋が閉まっているか、もう一度確認している。


 その動作が普段より丁寧に見えるのは、なつきの気のせいではないだろう。


 何度も確かめる必要のない留め具へ手を掛け、少し押してから離す。次に試作品を置いた棚へ視線を向け、位置がずれていないことを確かめる。


 時間を使おうとしている。


 なつきには、そう見えた。


「春樹君」


 呼ぶと、彼の肩がわずかに動いた。


「はい」


「片づけ、終わった?」


「もう少しです」


 紅秋が、記録用紙から顔を上げる。


「終わってるよ」


 春樹がゆっくりと紅秋を見る。


「板倉さん」


「材料箱は閉まってる。試作品も棚に置いた。机も戻した。床も掃いた。記録は私と遠山さんが持って帰る」


「確認が」


「私が確認した」


 逃げ道を一つずつ塞ぐような答えだった。


 春樹は何も言えず、視線を落とす。


 なつきは、その様子を見ながら少しだけ笑った。


「春樹君、やっぱり逃げてた?」


「逃げていません」


「じゃあ、話してくれる?」


 教室へ、短い沈黙が落ちた。


 完全な静寂ではない。


 廊下では、別の教室から出てきた生徒たちが話している。窓の外では運動部の片づけが始まり、遠くで笛の音が鳴った。


 それでも、十一組の中に残った四人の間では、その沈黙がはっきりと感じられた。


 春樹はすぐに答えない。


 なつきも、急かさなかった。


 約束したことを忘れていないのなら、待てる。


 春樹が言葉を選ぶ時間を、これまで何度も待ってきた。すぐに答えが出なくても、黙ったまま考えていることを知っている。


 以前なら、その沈黙を不安に感じることもあった。


 自分の言い方が悪かったのではないか。


 何か困らせたのではないか。


 話しかけない方がよかったのではないか。


 けれど今は、春樹が何も考えていないわけではないと分かる。


 彼の沈黙は、言葉がない沈黙ではない。


 言葉を雑に渡さないための時間だった。


「横田さん」


 春樹が、ようやく顔を上げた。


「うん」


「ここで話しますか?」


 なつきは一度、教室の中を見回した。


 茜と紅秋がいる。


 二人とも聞いていないふりをしているが、明らかに耳はこちらへ向いていた。


「嫌?」


「嫌ではありません」


「じゃあ、ここでいいよ」


 なつきが答えると、茜が記録用紙を持ったまま小さく咳払いをした。


「私たち、先に廊下へ出ようか?」


「どうして?」


 なつきが不思議そうに尋ねる。


「どうしてって」


「茜ちゃんも聞いてたでしょう。途中まで」


「聞こうと思って聞いたわけじゃないよ」


「でも、今さら出なくてもいいよ」


 なつきはそう言ってから、紅秋も見る。


「板倉さんも」


「私は出てもいいけど」


「残ってて」


「どうして?」


「あとで変な言い方をしてたら教えてほしい」


 紅秋が額へ手を当てた。


 茜は困ったように笑い、春樹は言葉を失っている。


「なつき」


 茜が慎重に呼ぶ。


「たぶん、そういう話は、あとで採点するものじゃないと思う」


「採点してほしいんじゃないよ。変な意味に聞こえたら、あとで教えてほしいだけ」


「それを今、本人の前で言うんだね」


「だって、春樹君、言葉をすごく考えてるから」


 なつきは春樹へ向き直った。


「そんなに正しい言い方じゃなくてもいいよ」


 その言葉に、春樹の表情がわずかに変わる。


 中盤で紅秋に言われたことと、よく似ていた。


 完成した答えでなくてもいい。


 今分かっていることだけでもいい。


 春樹は、なつきがそこまで考えて言っているのか判断できなかった。


 きっと、深く考えていない部分もある。


 けれど、だからこそ、その言葉は真っ直ぐだった。


「僕は」


 春樹は、ゆっくりと話し始めた。


「横田さんが困っている時、以前より早く気づくようになりました」


「うん」


「一緒に作業することが増えたからだと思っていました。横田さんが何を見ているか、どういう時に迷うのか、少しずつ分かるようになったので」


 なつきは黙って聞いている。


 春樹は一度だけ視線を落とし、続けた。


「それで、困る前に声を掛ければ、作業が止まらない。そう考えていました」


「うん」


「でも、それだけではありません」


 さっき途切れた言葉が、今度ははっきりと続いた。


 なつきの指先が、鞄の持ち手を少し強く握る。


「作業に関係がない時も、見ています」


 春樹の声は小さい。


 けれど、教室の中では十分に聞こえた。


「横田さんが誰かと話している時や、廊下を歩いている時。授業中に分からないところがあって、教科書を何度も見ている時も。休み時間に、窓の外を見ながら何か考えている時も」


 なつきは、瞬きを忘れたように春樹を見つめた。


 自分が見られていることへ気づいた記憶は、ほとんどない。


 春樹はいつも、本を読んでいた。


 教科書を見ていた。


 誰かの会話へ無理に入らず、少し離れた場所にいることが多かった。


 その春樹が、自分を見ていた。


 授業中も。


 廊下でも。


 休み時間も。


「どうして?」


 なつきは、小さく尋ねた。


 昼間と同じ問いだった。


 けれど今度は、問いかける自分の声が、少し震えていることに気づいた。


「気になるからです」


 春樹が答えた。


 短い言葉だった。


 それでも、教室の空気が止まるには十分だった。


 茜が息を止める。


 紅秋は何も言わず、記録用紙を持つ手を下ろした。


 なつきはすぐに言葉を返せなかった。


「気になる?」


「はい」


「困ってない時も?」


「はい」


「私が何もしてなくても?」


「何もしていないように見えて、考えていることが多いので」


「それは」


 なつきは反射的に否定しかけ、少し考えた。


 確かに、何も考えていないように見える時間にも、頭の中で別のことを考えている場合がある。


 ただ、自分ではそれが顔へ出ているのか分からない。


「分かるの?」


「全部ではありません」


「でも、考えてるって分かる?」


「以前よりは」


 春樹は一つずつ答える。


 逃げずに答えようとしていることが、なつきにも伝わってきた。


「だから見てるの?」


「それもあります」


「ほかにもある?」


 茜が、止めるようになつきの名前を呼びかけた。


「なつき」


「だって、春樹君がそれだけじゃないって言ったから」


「そうだけど」


「最後まで聞きたい」


 なつきは春樹から目を逸らさなかった。


 春樹は困ったように口を閉じる。


 けれど、ここでまた曖昧にすれば、なつきは待ち続ける。


 正しい言葉を探す時間をくれるだろう。


 だが、待たせることが優しさになるとは限らない。


「横田さんが」


 春樹は、ゆっくりと息を吸った。


「楽しそうにしていると、安心します」


 なつきの目が、少しだけ大きくなる。


「困っていると、気になります。自分にできることがあるなら、声を掛けたいと思います」


「うん」


「誰かと話して笑っていると、よかったと思います」


「うん」


「でも」


 春樹の言葉が一度止まった。


 なつきは待つ。


「僕ではない人と、楽しそうに話している時に、少しだけ気になることもあります」


 その瞬間、茜が顔を覆った。


 紅秋もわずかに目を見開き、すぐに視線を逸らす。


 春樹自身は、言ってしまった後で、表情を固くしていた。


 なつきだけが、意味を理解しようとするように首を傾げる。


「私が、ほかの人と話してる時?」


「はい」


「何が気になるの?」


 春樹の耳が、はっきりと赤くなる。


 茜は顔を覆ったまま、小さく首を横へ振っていた。


 紅秋が、これ以上は本人に言わせるしかないというように、静かに息を吐く。


「自分とも、話してほしいと思います」


 春樹は答えた。


「その人と話すな、という意味ではありません。ただ、僕のところにも来てほしいと思うことがあります」


 なつきの胸の奥で、何かが大きく鳴った。


 自分とも話してほしい。


 自分のところにも来てほしい。


 それは、春樹がこれまで口にしなかった種類の言葉だった。


 彼は誰かを引き止めることが少ない。


 来てほしいとも、残ってほしいとも言わない。


 相手が離れていけば、その選択を静かに受け入れるようなところがあった。


 その春樹が、自分には来てほしいと思っている。


「それって」


 なつきは、口にしようとした言葉を途中で止めた。


 何を聞けばいいのか分からない。


 嬉しい。


 先に浮かんだのは、その感情だった。


 けれど、なぜ嬉しいのかを考えると、胸が苦しくなる。


 春樹が自分を見ていたから。


 自分がほかの人と話している時にも、気にしていたから。


 自分にも来てほしいと思ってくれていたから。


 それを知っただけで、顔が熱くなる。


「横田さん」


 春樹が不安そうに呼ぶ。


「困らせましたか?」


「ううん」


 なつきはすぐに首を振った。


「困ってない」


「でも」


「びっくりしただけ」


「そうですか」


「春樹君が、そんなこと思ってるって知らなかったから」


「言っていませんでした」


「うん。言ってない」


 なつきは頬へ手を当てる。


 やはり熱い。


「私、嬉しい」


 春樹が目を見開いた。


 茜も顔から手を離し、なつきを見る。


「嬉しいんですか?」


「うん」


「なぜですか?」


「分からない」


「分からないんですか」


「でも、嬉しい」


 なつきは言葉を探すように、少し視線を落とした。


「春樹君が、私と話したいって思ってくれてるのが嬉しい。私が行かなかった時に、来てほしいって思ってたのも」


「横田さんは、よく来ています」


「そうかな」


「はい」


「じゃあ、もっと行ってもいい?」


 春樹は答えを失った。


 なつきは真剣だった。


「本を読んでる時も?」


「話しかける前に、急ぎかどうかは見てください」


「そこは止めるんだ」


「内容によります」


「じゃあ、見て分からなかったら聞く」


「それなら」


「いい?」


 春樹は、少しだけ迷った後、頷いた。


「はい」


 なつきが笑う。


 その笑顔を見て、春樹の表情もわずかに緩んだ。


 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 しかし、茜と紅秋はまだ何も言わない。


 二人とも、この会話が終わったのか判断できずにいるようだった。


 なつきもまた、何かがまだ残っているような気がしていた。


「春樹君」


「はい」


「私も、春樹君がいないと気になる時があるよ」


 今度は、春樹が完全に動きを止めた。


「僕がいない時ですか?」


「うん。図書室にいると思ったのにいなかった時とか、いつもの席にいない時とか。今日は話してないなって思う時もある」


「それは」


「あと、春樹君がほかの人と話してる時」


 茜が、再び顔を覆う。


 紅秋は今度こそ、窓の外へ視線を向けた。


「その時も、少し気になる」


 なつきは自分の胸の中を確かめながら、ゆっくり話す。


「嫌じゃないよ。春樹君が誰かと話すのはいいし、楽しそうなら私も嬉しい。でも、あとで私とも話してほしいって思う」


 春樹の目が、なつきを見つめる。


「同じですね」


「うん」


 なつきは、そこで笑った。


「同じだった」


 その言葉が、二人の間へ静かに落ちる。


 まったく同じではないのかもしれない。


 感じ方も、言葉にする速さも、気づき方も違う。


 けれど、相手がいない時に気になる。


 自分とも話してほしいと思う。


 隣へ来てほしいと願う。


 その部分は、二人の中に同じように存在していた。


「じゃあ」


 なつきは少し考えた後、言った。


「これからは、気になったら言う?」


「何をですか?」


「話したい時とか。来てほしい時」


「毎回ですか?」


「毎回じゃなくてもいいけど、言える時は」


 春樹はすぐには答えなかった。


 それは、彼にとって簡単なことではない。


 自分から誰かを求める言葉は、春樹が避けてきたものでもあった。


 相手には相手の都合がある。


 自分が言えば、断りにくくなるかもしれない。


 負担になるかもしれない。


 そう考え、最初から言わないことを選んでいた。


「無理に言わなくてもいいよ」


 なつきは、春樹の沈黙を見て続けた。


「でも、言わないと分からない時もあるから」


「はい」


「私、春樹君が来てほしいって思ってたの、今日まで知らなかった」


「そうですね」


「知ってたら、もっと行ったかもしれない」


「それは」


 春樹は一瞬、困ったような顔をした。


「授業中は来なくて大丈夫です」


「行かないよ」


「横田さんなら、話の流れによっては来るかもしれません」


「先生に怒られるから行かない」


「なら大丈夫です」


「春樹君、私を何だと思ってるの?」


「行動が予測しにくい人です」


「ひどい」


「否定できますか?」


 なつきは少し考えた。


「全部はできない」


「そうだと思いました」


 春樹の口元に、小さな笑みが浮かぶ。


 なつきも笑った。


 先ほどまでの緊張が、二人の間から少しずつ抜けていく。


 それを見ていた茜が、ようやく大きく息を吐いた。


「終わった?」


 なつきが茜を見る。


「何が?」


「春樹君の話」


「私に聞かれても」


「変な意味になってなかった?」


「なつき」


 茜は真剣な顔になった。


「変な意味どころか、かなり大事な話だったと思う」


「そうなの?」


「本人たちだけが、そこに驚いてないのが怖いよ」


「驚いたよ」


「そういう意味じゃなくて」


 茜は説明しようとしたが、紅秋が隣で首を横へ振った。


「今はいいんじゃない?」


「でも」


「本人たちが、自分たちの言葉で話せたんだから」


 紅秋の声は穏やかだった。


「途中で周りが名前をつけると、また正しい答えを探し始めるかもしれない」


 茜はしばらく黙った後、諦めたように頷いた。


「それはそうかも」


「何の話?」


 なつきが尋ねる。


「今は、分からなくてもいい話」


「また後で?」


「そのうち、自分で分かるよ」


「いつ?」


「それは私にも分からない」


 なつきは少し不満そうにしたが、それ以上は聞かなかった。


 春樹も、茜と紅秋の言葉の意味をある程度理解しているようだったが、口を挟まない。


 自分の中にあるものが何なのか。


 今、すべてを決める必要はない。


 ただ、作業を進めるためだけではなく、なつき自身が気になる。


 自分のところへ来てほしいと思う。


 ほかの誰かと話している時にも、少しだけ気になることがある。


 そこまでを、自分の言葉で伝えられた。


 そして、なつきも似たことを感じていたと知った。


 それだけでも、今日までとは違う。


 関係の名前は変わっていない。


 友人。


 同じクラスの生徒。


 図書委員で、十一組ラボの仲間。


 けれど、その中にある距離は、確かに少し変わっていた。


 最終下校時刻を告げる放送が流れ始める。


『校内に残っている生徒は、速やかに下校してください。部活動中の生徒は、顧問の指示に従い――』


「本当に帰らないと」


 茜が鞄を肩へ掛ける。


 紅秋も記録用紙を鞄へ入れ、教室の照明を確認した。


「明日の記録、朝に一度まとめるから。横田さんと大國君は、今日気づいたことがあれば、忘れないうちに書いておいて」


「うん」


「分かりました」


「三浦君たちには、私から伝えておく」


 四人で教室を出る。


 廊下には、すでに夕方の静けさが広がっていた。


 西側の窓から入る光は薄くなり、床の上へ長く伸びていた影も、輪郭を失い始めている。遠くの階段では、帰りを急ぐ生徒たちの足音が響き、それも少しずつ下の階へ消えていった。


 茜と紅秋が前を歩く。


 なつきと春樹は、自然にその後ろへ並んだ。


 どちらから隣へ立ったわけでもない。


 教室を出た時から、気づけばそうなっていた。


 階段へ向かう途中、なつきは春樹を見上げる。


「春樹君」


「はい」


「話してくれて、ありがとう」


「正しく伝わったかは分かりません」


「伝わったよ」


「本当ですか?」


「うん」


 なつきは少し考え、続ける。


「春樹君が、私を見てるってこと」


「それだけだと、少し違う意味に聞こえます」


「違うの?」


「違わなくはありませんが」


「どっち?」


 春樹は言葉に詰まる。


 なつきが笑うと、前を歩いていた茜の肩が小さく揺れた。聞こえているのだろう。


「困っている時だけじゃなくて、見てる」


 なつきは言い直した。


「私がいないと気になる時がある。私にも来てほしいって思う」


「はい」


「それで、私も同じ」


 春樹は一度、足元へ視線を落とした。


「嬉しかったです」


「何が?」


「同じだと言ってくれたことです」


 なつきの歩く速度が、ほんの少し遅くなる。


 春樹もそれに合わせるように歩調を緩めた。


「私も嬉しかった」


 なつきが答える。


「春樹君だけじゃなかったって分かったから」


「横田さんも気にしていたことがですか?」


「うん。でも、私は今日まで気づいてなかった」


「僕も、はっきりとは分かっていませんでした」


「じゃあ、今日分かった?」


「少しだけ」


「私も」


 二人は、そこで短く笑った。


 今日の比較試験では、形を変えることで違いが見えた。


 右側に仕切りが必要な人。


 左側に必要な人。


 仕切りそのものがいらず、置く場所を示す印だけで落ち着く人。


 端末を立てる人。


 寝かせて使う人。


 最初は一つの形へまとめようとしていた。


 けれど、比べれば比べるほど、同じでなくてもいい場所が分かっていった。


 そして同時に、変えなくていい部分も見えてきた。


 すべてを作り直す必要はない。


 残せるものは残し、必要なところだけを変える。


 二人の関係も、きっと同じだった。


 急に別のものになるわけではない。


 明日から何もかもが変わるわけでもない。


 春樹はきっと、明日も本を読む。


 なつきは、その隣で話しかける。


 春樹は言葉を選び、なつきは待つ。


 今までと同じ時間が続く。


 ただ、その中に一つだけ、新しく分かったことがある。


 互いに、相手がいないと気になる。


 相手にも、自分のところへ来てほしいと思っている。


 そのことを知っただけで、同じ距離が少し違って感じられた。


 階段を下りる。


 一階へ近づくにつれ、玄関から入る夕方の風が強くなる。


 茜と紅秋は先に靴箱へ向かった。


 なつきと春樹も、その後を追う。


「春樹君」


 なつきがもう一度呼ぶ。


「はい」


「明日も、十一組ラボ来る?」


「来ます」


「よかった」


「横田さんも来るんですか?」


「行くよ」


「そうですか」


「今、安心した?」


 春樹は答える前に、少しだけ黙った。


 以前なら、別の言葉へ置き換えたかもしれない。


 予定を確認しただけです。


 作業人数が必要なので。


 そう答えれば、今までと同じだった。


 けれど今日は、言わないと分からないことがあると知った。


「はい」


 春樹は、静かに答えた。


「安心しました」


 なつきの顔に、嬉しそうな笑みが広がる。


「じゃあ、私も言う」


「何をですか?」


「春樹君が来るって聞いて、安心した」


 今度は春樹が、少しだけ笑った。


 その表情を見て、なつきの胸の奥がまた温かくなる。


 靴箱の前では、茜が上履きを脱ぎながら二人を待っていた。


「なつき、帰るよ」


「うん」


「大國君も、最終下校時刻過ぎるから急いで」


「はい」


 紅秋はすでに靴を履き終え、昇降口の扉を押さえている。


 外へ出ると、昼間より冷えた風が頬へ触れた。


 校庭の端では、最後まで残っていた運動部が用具を運んでいる。自転車置き場へ向かう生徒たちの声が、夕暮れの中へ広がっていた。


 四人は校門へ向かって歩く。


 なつきと春樹は、やはり隣だった。


 途中、腕が触れるほど近づくことはない。


 意識して距離を縮めることもない。


 それでも、どちらも相手から離れようとはしなかった。


 少し前までなら、偶然同じ方向へ歩いているだけだったのかもしれない。


 今は、隣にいることを互いに分かっている。


 校門の前で、紅秋が立ち止まった。


「今日の試験結果、明日の朝に簡単にまとめるね」


「手伝うよ」


 なつきが言う。


「横田さんは、今日書いた気づきを忘れず持ってきて」


「鞄に入れた」


「なくさないでね」


「大丈夫」


「その自信が少し怖い」


「茜ちゃんが一緒に帰るから」


「私が管理する前提なんだ」


 茜が呆れた声を出す。


 いつものやり取りに、四人の間へ笑いが広がる。


 別れ道で、紅秋が先に手を上げた。


「また明日」


「また明日」


 茜も、なつきと春樹を一度ずつ見た後、何も言わずに紅秋と別の道へ向かった。


 なつきと春樹だけが、少しの間、同じ方向へ歩く。


 夕暮れはもう薄く、街灯が一つずつ点き始めていた。


「横田さん」


「うん」


「今日のことですが」


「試験?」


「それもありますが」


 春樹は少し迷う。


「話したことを、無理に答えへしなくても大丈夫です」


「答え?」


「僕が言ったことが、どういう意味なのか。今すぐ決めなくても」


 なつきは、少しだけ考えた。


「春樹君も決めてない?」


「全部は」


「じゃあ、一緒だね」


「そうかもしれません」


「でも、分かったことはあるよ」


「何ですか?」


「春樹君が私を気にしてること」


「はい」


「私も春樹君を気にしてること」


「はい」


「それで、明日も会えると安心すること」


 春樹は静かに頷いた。


「それだけ分かってれば、今日はいいんじゃない?」


 なつきの言葉に、春樹はしばらく何も言わなかった。


 正しい答えではないかもしれない。


 関係を説明するには足りない。


 けれど今の二人にとっては、十分な言葉だった。


「はい」


 春樹は答える。


「今日は、それでいいと思います」


 道が分かれる場所へ着く。


 なつきは立ち止まり、春樹を見る。


「じゃあ、また明日」


「また明日」


「明日、私が先に教室にいたら、春樹君のところ行くね」


「はい」


「来てほしい?」


 春樹は少しだけ困った顔をした。


 けれど、今度は逃げなかった。


「来てほしいです」


 なつきは、嬉しそうに笑う。


「分かった」


 手を振り、互いに別の道へ歩き出す。


 数歩進んだところで、なつきは振り返った。


 春樹も、ちょうど振り返っていた。


 視線が合う。


 二人は少し驚き、その後、同時に笑った。


 大きく何かが変わったわけではない。


 告白をしたわけでも、関係へ名前をつけたわけでもない。


 明日からも、二人は同じ教室で、同じように言葉を交わす。


 それでも今日、変わった場所が一つあった。


 相手を見ていること。


 相手に来てほしいと思っていること。


 相手が明日もいると知って、安心すること。


 その気持ちを、二人は初めて言葉にした。


 変えられる形を比べたからこそ、変えなくてもよかった場所が見えたように。


 二人もまた、今までと同じ時間の中に、すでに生まれていた変化を見つけた。


 その変化はまだ小さい。


 けれど、見つけてしまった以上、もう知らなかった頃とまったく同じには戻れない。


 なつきは帰り道を歩きながら、明日の朝を思った。


 教室へ入り、春樹の姿を探す。


 見つけたら、そのところへ行く。


 そして春樹も、自分が来るのを待っている。


 そう考えただけで、足取りが少し軽くなった。


 一方、春樹も歩きながら、明日の教室を思い浮かべていた。


 本を開いていても、きっと入口を気にする。


 なつきが来れば、安心する。


 そして今度は、その理由を隠さなくてもいい。


 すべてを変える必要はない。


 静かでいることも、本を読むことも、言葉を慎重に選ぶことも、そのままでいい。


 ただ、来てほしい時には、来てほしいと言う。


 話したい時には、話したいと伝える。


 変える必要があったのは、その小さな部分だけだった。


 夕暮れの道を、二人は別々に歩いていく。


 向かう先は違っていても、明日また同じ教室で会うことを知っている。


 その確かな約束が、今日の試作品よりも静かに、二人の間へ残っていた。

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