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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第145話 十一組ラボの正解は、二つ並べても一つにならない



 翌朝。


 梅桜高校商業科棟二階。


 十一組の教室へ続く廊下には。


 昨夜まで降っていた雨の名残が。


 まだ、ところどころに残っていた。


 開け放たれた窓から入り込む風は。


 少しだけ湿っている。


 壁際へ寄せられた傘立てには。


 乾き切っていない傘が、何本も並んでいた。


 誰かが通るたび。


 傘の先から落ちた水滴が。


 床の上へ、小さな濃い丸を作っている。


 教室の中からは。


 いつもの朝の声が聞こえていた。


「今日、体育ある?」


「ある」


「外?」


「昨日雨だから、たぶん体育館」


「バスケ?」


「知らない」


「バスケなら休む」


「堂々と言うな」


 別の場所では。


「数学の宿題、どこまで?」


「全部」


「全部って何ページ?」


「提出するページ全部」


「答えになってない」


「宿題やってない人向けの答えはない」


 笑い声。


 椅子を引く音。


 机の横へ鞄を掛ける音。


 窓を開けた誰かが。


「湿気すご」


 と呟く声。


 いつもと変わらない朝。


 そのはずだった。


 なつきは。


 教室の後ろの扉の前で。


 ほんの少しだけ足を止めていた。


 右手には。


 通学鞄。


 左手には。


 家から持ってきた、薄い紙袋。


 中には。


 昨日。


 母に頼んで少し多めに焼いてもらった卵焼きが入っている。


 昼休みに。


 みんなで分けようと思っただけ。


 十一組ラボの初見確認へ協力してくれるクラスメイトがいるから。


 ほんの少しだけ。


 お礼にしたいと思った。


 それだけだった。


 ただ。


 紙袋を見た瞬間。


 昨日。


 春樹と卵焼きを交換したときのことを思い出した。


 甘い。


 甘くない。


 同じ卵焼きなのに。


 普通が違う。


 その話から。


 春樹が。


『横田さんだけ』


 と言った。


 そして。


 片づけの途中。


 なつきが聞いた。


『それって、特別ってこと?』


 春樹は答えた。


『俺にとっては、特別』


 自分も。


『特別』


 と返した。


 思い出した瞬間。


 教室へ入るだけなのに。


 足が動かなくなった。


「何してんの?」


 後ろから声がして。


 なつきの肩が。


 ぴくりと動いた。


「わっ」


「そこまで驚く?」


 振り返ると。


 三浦が立っていた。


 片手に。


 購買の袋。


 もう片方に。


 飲みかけの紙パック。


「三浦くん」


「うん」


「いつからいたの?」


「横田が扉の前で、入るか入らないか悩んでるところから」


「見てたの?」


「通れないから」


「あ」


 なつきは。


 自分が扉の前を塞いでいたことに気づく。


「ごめん」


「いや、いいけど」


 三浦は。


 なつきの顔を見る。


 次に。


 左手の紙袋を見る。


「何持ってるの?」


「卵焼き」


「俺に?」


「違う」


「まだ何も言ってないのに」


「言う顔だった」


「俺、分かりやすい?」


「かなり」


「最近、それ悪口に聞こえる」


「褒めてないよ」


「やっぱり悪口!」


 教室の中から。


 何人かがこちらを見る。


「朝から何してるの?」


「三浦が横田に何か言われてる」


「いつものやつ」


「俺が悪い前提やめて!」


 三浦は。


 大きな声を出しながら。


 扉を開けた。


「ほら、入ろうぜ」


「うん」


 なつきは。


 少しだけ息を吸い。


 三浦のあとに続いた。


 教室へ入る。


 窓際。


 後ろ。


 前。


 いつもの顔がある。


 茜は。


 自分の席で。


 黒いノートを開いていた。


 紅秋は。


 机の上に透明なファイルを置き。


 昨日の記録用紙を確認している。


 春樹は。


 まだ来ていなかった。


 そのことに。


 少しだけほっとした。


 同時に。


 少しだけ残念だと思った。


 自分でも。


 どちらの気持ちが大きいのか。


 分からない。


「なつき」


 茜が顔を上げる。


「おはよう」


「おはよう」


「それ、何?」


「卵焼き」


 三浦が先に答える。


「三浦くんに聞いてない」


「今、横田から聞いたから」


「何のため?」


「昨日の協力のお礼」


 なつきは。


 茜の机の横へ行き。


 紙袋を少し持ち上げる。


「昼休みに、みんなで食べようかなって」


「初見確認する人にも?」


「うん」


「お菓子出ないって言ったのに」


 三浦が。


 不満そうに口を挟む。


「卵焼きはお菓子じゃない」


「何か出るなら、昨日言ってよ」


「言ったら卵焼き目当てで増えるでしょう」


 茜が言う。


「増えて何が悪い」


「確認できる人数に限りがある」


「卵焼き争奪戦にすればいい」


「何の話?」


 紅秋が。


 ファイルから顔を上げる。


「横田が協力者へ賄賂」


「お礼」


 なつきがすぐに訂正する。


「昼休み、試したあとに渡す」


「先に渡したら、良い感想言うかもしれないから?」


 三浦が聞く。


「そこまでしないでしょう」


「俺なら言う」


「だから三浦くんは初見役にできない」


「信頼がない」


「自分でなくしてる」


 紅秋は。


 それだけ言って。


 もう一度、記録用紙へ視線を落とした。


 なつきは。


 卵焼きの入った紙袋を。


 鞄の横へ置く。


 そして。


 自分の席に座った。


 机の中へ。


 筆箱。


 教科書。


 ノート。


 一つずつ入れる。


 いつもと同じことをしているのに。


 目は。


 何度も教室の前の扉へ向いた。


 そのたび。


 まだ春樹ではない誰かが入ってくる。


 クラスメイト。


 担任ではない教師。


 隣のクラスの生徒。


 別に。


 待っているわけではない。


 そう思おうとする。


 でも。


 教室へ入る足音がするたび。


 少しだけ胸が動く。


「なつき」


 茜の声。


「うん」


「さっきから、扉見すぎ」


「見てないよ」


「見てる」


「人が入ってくるから」


「教室だからね」


「うん」


「誰か待ってる?」


「待ってない」


「そう」


 茜は。


 それ以上は聞かなかった。


 ただ。


 なつきの顔を。


 ほんの少しだけ長く見た。


「なに?」


「別に」


「茜ちゃん、昨日から何か気づいてる?」


「何を?」


「……分からない」


「分からないなら、私も分からない」


「ずるい」


「ラボで覚えた言い方」


「使ってる」


「便利だから」


 茜は。


 小さく笑った。


 そのとき。


 教室の前の扉が開いた。


 春樹が入ってくる。


 肩には鞄。


 片手には。


 本ではなく。


 透明なファイル。


 昨日。


 茜から渡された確認表が入っているのだろう。


 なつきは。


 春樹を見た。


 春樹も。


 教室へ入って。


 最初に。


 なつきの方を見た。


 視線が合う。


 ほんの一瞬。


 でも。


 昨日までと違う一瞬だった。


 お互いに。


 昨日の言葉を覚えている。


 特別。


 そう言った。


 だから。


 今までなら。


 普通に言えたはずの。


『おはよう』


 が。


 少しだけ言いにくい。


 春樹は。


 自分の席へ向かいながら。


 なつきの机の横で。


 ほんの少しだけ足を緩めた。


「おはよう」


 春樹が言う。


 声は。


 いつもと大きく変わらない。


 でも。


 なつきには。


 少しだけ柔らかく聞こえた。


「おはよう」


 なつきも返す。


 それだけ。


 それだけなのに。


 胸の奥が。


 じんわりと温かくなる。


「今日」


 春樹が。


 何か言いかける。


「うん」


「昼休み、確認するでしょう」


「うん」


「卵焼き持ってきた?」


 なつきは。


 目を丸くした。


「何で知ってるの?」


「三浦が廊下まで聞こえる声で言ってた」


「あ」


「俺にって聞いてた」


「違うって言った」


「聞こえた」


「全部?」


「少し」


 春樹は。


 ほんの少しだけ笑う。


「みんなの?」


「うん。協力してくれるから」


「そっか」


「大國くんも食べる?」


 聞いたあと。


 昨日の卵焼き交換を思い出す。


 春樹も。


 同じことを思い出したのか。


 少しだけ間が空いた。


「食べる」


「甘いよ」


「知ってる」


 その返事に。


 なつきの顔が。


 少しだけ熱くなる。


「昨日食べたから」


「うん」


「おいしかった」


「うん」


 何度も。


 うん。


 としか返せない。


 後ろから。


 三浦の声が飛んでくる。


「俺も食べる!」


「聞いてない」


 春樹が返す。


「横田には聞かれた!」


「みんなのだから」


 なつきが言う。


「じゃあ俺もみんな!」


「人数に入ってる」


「なら最初からそう言って!」


「朝からうるさい」


 紅秋が言う。


「板倉、今日はずっと厳しいな!」


「今日もだ」


 教室に。


 いつもの笑いが起こる。


 なつきは。


 春樹と目を合わせ。


 二人で小さく笑った。


 昨日。


 お互いに特別だと言った。


 だからといって。


 教室の景色が。


 急に変わるわけではなかった。


 三浦はうるさい。


 紅秋は冷静。


 茜は。


 みんなを見ている。


 クラスメイトは。


 朝の話をしている。


 先生は。


 もうすぐ来る。


 でも。


 変わっていない景色の中に。


 自分だけが知っているものが増えた。


 春樹も。


 同じものを知っている。


 そのことが。


 少し不思議で。


 少し嬉しかった。


 予鈴が鳴る。


 春樹は。


 自分の席へ向かう。


 なつきも。


 前を向く。


 けれど。


 授業が始まる前。


 机の端へ。


 小さな紙が置かれた。


 春樹が。


 通り過ぎるときに置いたらしい。


『昼休み、最初の記録は俺がやる』


 短い字。


 なつきは。


 紙を読み。


 少し考えて。


 裏へ書いた。


『私は何する?』


 前の席から。


 後ろへ紙を回す。


 少しして。


 戻ってくる。


『手元を見る』


『顔に出さない』


 二行。


 なつきは。


 昨日の美優との確認を思い出す。


 間違った場所へ手を伸ばしたとき。


 顔と声で教えてしまった。


 紙の端へ。


『頑張る』


 と書く。


 少し迷って。


 その下に。


『大國くんも顔に出さないでね』


 と付け足した。


 また。


 前から紙を回す。


 戻ってきた紙には。


『俺は出ない』


 と書かれていた。


 なつきは。


 それを見て。


 少し笑う。


 さらに。


『昨日、私が特別って言ったとき、出てた』


 と書きかける。


 鉛筆が止まる。


 これは。


 紙に残すのが。


 少し恥ずかしい。


 消そうか迷う。


 その間に。


 担任が教室へ入ってきた。


「席つけ」


 なつきは。


 慌てて紙を畳み。


 筆箱の下へ隠した。


「横田」


「はい」


「朝から何隠した?」


「何も」


「今、見えたぞ」


「メモ」


「授業に関係ある?」


「昼休みの」


「じゃあ、昼休みに見ろ」


「はい」


 教室のあちこちから。


 小さな笑い声。


 担任は。


 深く追及せず。


 出席簿を開く。


 なつきは。


 筆箱の下の紙を。


 指先で少しだけ押した。


 書きかけの言葉。


 昨日。


 特別と言ったとき。


 春樹の顔には。


 確かに何かが出ていた。


 安堵。


 嬉しさ。


 驚き。


 全部を。


 正しく読めたわけではない。


 でも。


 何も出ていなかったわけではない。


 昼休みになったら。


 続きを書くのか。


 それとも。


 直接言うのか。


 なつきは。


 授業が始まっても。


 少しだけ考えていた。


 四時間目。


 終わりのチャイムが鳴る。


 教室中が。


 一斉に動き出した。


 椅子の脚が。


 床を擦る。


 鞄から弁当箱が出される。


 購買へ向かう男子生徒たちが。


 扉へ集まる。


「走らない!」


 茜が。


 いつものように声をかける。


「まだ走ってない!」


「走る顔してる」


「顔で判断するな!」


「昨日のラボみたい」


「関係ない!」


 笑いながら。


 何人かが教室を出ていく。


 今日の初見確認に参加する四人は。


 先に昼食を済ませることになっていた。


 佐藤。


 川島。


 石井。


 もう一人。


 普段は教室の中央辺りで。


 女子生徒たちと話している小林。


 四人とも。


 自分の席で。


 いつもより少し早い速度で弁当やパンを食べている。


「急がなくていいよ」


 茜が言う。


「昼休み全部使うわけじゃないから」


「でも、卵焼きあるんでしょう?」


 石井が聞く。


「あとで」


 なつきが答える。


「それ目当てじゃないからね」


「今、自分から言った」


「違う。昨日から約束してたから」


「分かってる」


「石井さん、甘い卵焼き平気?」


「好き」


「川島くんは?」


「俺も」


「佐藤くんは?」


「甘くない方が好き」


「あ」


「でも食べる」


「無理しなくていいよ」


「卵焼き一個で無理はしない」


「小林さんは?」


「私はどっちも好き」


 三浦が。


 会話へ割り込む。


「俺もどっちも好き!」


「三浦くんには聞いてない」


「昨日から俺だけ扱い違う!」


 なつきは。


 自分の弁当を開く。


 今日は。


 いつもの卵焼きとは別に。


 小さな容器へ。


 お礼用の卵焼きが入っている。


 春樹が。


 その容器を見る。


「多い」


「お母さんが作ってくれた」


「何て言ったの?」


「学校で使うって」


「使う?」


「配るって言ったら、何でって聞かれるから」


「それで伝わった?」


「たぶん」


「お母さん、分からないまま作ったの?」


「うん」


「初見確認みたい」


「違うよ」


「でも、説明足りてない」


「あ」


 なつきは。


 少し考える。


「帰ったら、ちゃんと説明する」


「何て?」


「ラボで、分かりやすさを確認してもらうからって」


「それで卵焼き?」


「お礼」


「今度は伝わる」


 春樹は。


 少し笑った。


 なつきも。


 笑い返す。


 その様子を。


 少し離れた場所から。


 茜が見ていた。


 ただし。


 何も言わない。


 黒いノートを開き。


 今日の確認順を見直している。


 紅秋は。


 二つの試作品を。


 それぞれ布袋へ入れたまま。


 机の下へ置いている。


 一方。


 三浦は。


 昨日描き直した説明用の絵を。


 みんなへ見せたくて仕方がないらしく。


 紙を持ったまま。


 何度も立ち上がりかけていた。


「まだ見せないで」


 茜が言う。


「誰にも?」


「初見確認の人には」


「ラボのメンバーには?」


「見てもいい」


「じゃあ」


 三浦は。


 なつきたちの机へ紙を広げる。


 描かれていたのは。


 二つの手。


 右手。


 左手。


 その間に。


 試作品らしきもの。


 前より。


 確かに分かりやすい。


 ただ。


 手の指が。


 両方とも六本あった。


「三浦くん」


 なつきが言う。


「どう?」


「指」


「五本あるだろ」


「六本」


「嘘」


 三浦は。


 右手の絵を数える。


「一、二、三、四、五……六」


 黙る。


 左手も数える。


「一、二、三、四、五……六」


 さらに黙る。


 紅秋が。


 紙を覗き込む。


「増えたな」


「昨日は三本だった」


「倍になった」


「成長」


 春樹が言う。


「成長しすぎ」


 なつきが続ける。


 三浦は。


 紙を胸元へ引き寄せた。


「今から一本消す」


「どれ?」


「端」


「親指消したら分かりにくい」


「じゃあ、小指」


「左右で違う指を消さないで」


「難しい!」


「人の手を見て描けばいいでしょう」


 茜が言う。


「誰の?」


「自分の」


 三浦は。


 自分の左手を広げる。


「これを見ながら?」


「そう」


「最初からそうすれば良かった」


「今、気づいたの?」


 小さな笑いが。


 机の周りへ広がる。


 初見確認の前。


 少しだけ緊張していた空気が。


 三浦の絵で。


 いつもの十一組らしいものへ戻っていく。


 全員の昼食が終わる。


 弁当箱を片づけ。


 机を移動させる。


 教室の前方。


 窓側。


 廊下側。


 四人が。


 互いの動きを見ないように。


 確認場所を分けることになった。


 一人目。


 佐藤。


 二人目。


 石井。


 三人目。


 川島。


 四人目。


 小林。


 比較する試作品は。


 二種類。


 ただし。


 同じ人が。


 二つを続けて使うと。


 一つ目で覚えた手順が。


 二つ目へ影響する。


 そのため。


 順番も分ける。


 佐藤と小林は。


 幅だけを変えた試作品から。


 石井と川島は。


 逆向きで止まり。


 説明の印が見える試作品から。


「難しい」


 三浦が。


 確認表を見る。


「何が?」


 茜が聞く。


「誰が、どっちから使うか」


「書いてある」


「見ても、頭に入らない」


「三浦くんは、佐藤くんの観察」


「佐藤だけ?」


「最初は」


「俺、佐藤係?」


「係ではない」


「佐藤、よろしく」


「何を?」


「良い感じに迷って」


「頼まれて迷うものじゃないだろ」


 佐藤が笑う。


 なつきは。


 石井の観察を担当する。


 春樹が。


 その記録。


 茜は。


 全体の進行。


 紅秋は。


 川島。


 女子生徒の一人が。


 小林。


 それぞれの机へ。


 布袋に入った試作品が運ばれる。


「今から説明します」


 茜の声が。


 教室の中央から聞こえる。


 普段の昼休みなら。


 周囲では。


 食事。


 雑談。


 スマートフォン。


 別々の時間が流れている。


 けれど。


 今日は。


 ラボに参加していない生徒たちも。


 少しだけ興味を持って。


 離れた場所から見ていた。


「声、出していい?」


 佐藤が聞く。


「思ったことは言って」


「分からないも?」


「分からないも」


「触る前に聞いていい?」


「質問はしていい。ただし、使い方については答えない」


「昨日、美優さんたちがやったのと同じ?」


 誰かが。


 教室の後ろから聞く。


「ほぼ同じ」


 茜が答える。


「今回は、二種類を比べる」


「どっちが当たり?」


 三浦が言う。


「当たりはない」


「勝つ方」


「競争じゃない」


「でも比較はする」


「良いところと悪いところを見る」


「どっちも良かったら?」


「両方の良いところを残す」


「どっちも駄目なら?」


「また作る」


 茜の返事に。


 教室の何人かが。


「大変だ」


 と小さく漏らした。


 三浦も。


 一度だけ肩を落とす。


 でも。


 昨日ほど。


 その言葉へ重く反応しなかった。


「始めます」


 茜が言う。


 教室の中の音が。


 少しだけ静かになる。


 完全な静寂ではない。


 廊下では。


 別のクラスの生徒が話している。


 窓の外からは。


 校庭で昼休みを過ごす生徒たちの声。


 体育館側から。


 ボールの弾む音。


 それでも。


 試作品を前にした四人の周りだけ。


 視線が集まる。


 なつきは。


 石井の前に立った。


「この袋から出して」


「うん」


「そこからは、自分で使ってみて」


「何に使うかは?」


「分からなくても、見て考えて」


「分かった」


 石井は。


 布袋の口を開く。


 中から。


 幅を変え。


 逆向きでは途中で止まり。


 そこで説明の印が見える試作品を取り出した。


 机の上へ置く。


 表。


 裏。


 横。


 順番に見る。


 なつきは。


 顔に出さないように。


 石井の指先だけを見る。


 昨日の自分なら。


 正しい場所へ手が近づくと。


 少し安心し。


 違う場所へ触れると。


 目が動いていた。


 今日は。


 何も教えない。


 石井が。


 試作品を逆向きに置く。


 なつきの胸が。


 一瞬だけ動く。


 でも。


 顔は変えない。


 たぶん。


 変えていない。


 春樹が。


 隣で記録している。


 鉛筆の音。


 さら。


 さら。


 石井は。


 試作品の一部を。


 ゆっくり差し込もうとする。


 途中で止まる。


「あれ」


 指へ。


 少し力が入る。


 押す。


 でも。


 入らない。


「これ、力入れていい?」


 石井が聞く。


 なつきは。


 答えかける。


 でも。


 すぐに止めた。


「どう思う?」


「聞き返された」


 石井が笑う。


 周りからも。


 小さな笑いが起こる。


「壊れそう?」


「そこまでは。でも、変」


 石井は。


 手を止める。


 そして。


 止まった場所に現れた印を見る。


「こっちじゃない?」


 小さな説明。


 向きを変える印。


 石井は。


 試作品を持ち上げる。


 逆にする。


 今度は。


 奥まで入った。


「あ」


 なつきの口から。


 少しだけ声が出た。


 しまった。


 と思う。


 石井が。


 なつきを見る。


「今、正解?」


「……顔に出た?」


「声に出た」


 教室の後ろから。


 三浦の笑い声が聞こえる。


「横田、昨日と同じ!」


「三浦くん、佐藤くん見て!」


「見てる!」


「こっち見たでしょう」


「声が聞こえたから!」


 茜が。


 手を上げる。


「一回止めない。続けて」


「今のも記録」


 春樹が言う。


「横田さんの反応で正解が分かった」


「ごめん」


「次、気をつければいい」


「うん」


 なつきは。


 もう一度。


 口元へ力を入れる。


 石井は。


 正しい向きにした試作品を。


 今度はゆっくり見ている。


「この印」


 指で触れる。


「最初から見えてた?」


 春樹が聞く。


「見えてたかも。でも、何の印か分からなかった」


「止まったあとなら?」


「向き変えろって分かった」


「色?」


「色も。でも、ここに出てきたから」


「出てきた位置?」


「うん。さっきまで見えなかったところに出た」


 春樹が。


 すぐに記録する。


 なつきは。


 その言葉を頭の中で繰り返す。


 印があるだけでは。


 最初から意味は伝わらない。


 間違えたとき。


 止まった場所に現れるから。


 意味が生まれる。


 石井は。


 次の手順へ進む。


 迷う。


 戻る。


 もう一度触る。


 昨日の美優よりは。


 少しだけ早く進んでいる。


 でも。


 途中で。


 別の問題が見つかる。


「これ」


 石井が。


 折り畳む部分へ指を置いた。


「どっちから戻すの?」


 片づける順番。


 昨日も。


 最後に迷った場所。


 そこは。


 今回の試作品では。


 まだ大きく直していない。


「分からない」


 石井が言う。


「これ、間違えて折ったら壊れる?」


 なつきは。


 今度こそ。


 何も答えない。


 石井は。


 少し考え。


 ゆっくり。


 片方を動かす。


 違う。


 けれど。


 止めない。


 途中まで折る。


 そこで。


 別の部分が引っかかる。


「あ」


 石井は。


 手を止めた。


「これ以上は、やめた方がいい感じ」


「どうして?」


 春樹が聞く。


「固いから」


「説明は見た?」


「見てない」


「どこにあると思う?」


「……分からない」


 その返事を聞き。


 なつきの胸へ。


 小さな重さが落ちる。


 一つ目の問題。


 上下。


 それは。


 前より改善していた。


 逆向きでも。


 壊れる前に止まり。


 説明へ視線を向けられた。


 でも。


 その先。


 片づけるところで。


 また。


 同じように迷う。


 一つ直しても。


 全部が分かりやすくなるわけではない。


 頭では分かっていた。


 それでも。


 目の前で止まる手を見ると。


 少しだけ苦しい。


「終わり?」


 石井が聞く。


 茜が。


 教室中央から答える。


「そこまで。今の感想を聞く」


「難しかった」


「どこが?」


「最初、向きが分からなかった。でも、途中で止まったら直せた」


「止まったとき、嫌だった?」


「嫌?」


「使えないと思ったか。壊したと思ったか」


「ちょっと壊したかと思った」


「不安になった?」


「少し」


「説明が出たあと?」


「何かあるって思った」


「何か」


「正しい向きにするためのもの」


「説明は読んだ?」


「全部は」


「どうして?」


「読む前に、絵で分かったから」


 三浦が。


 少し離れた場所で。


 自分の絵を見つめる。


 指は。


 今度こそ五本。


 ただし。


 まだ確認用の試作品には。


 三浦の新しい説明はつけていない。


 今使われているのは。


 簡単な矢印と。


 向きを変える絵だけ。


「絵で分かった」


 三浦が。


 小さく呟く。


 紅秋が。


 隣から見る。


「今のは、お前の絵じゃない」


「分かってる」


「次に使える」


「うん」


 三浦は。


 少しだけ真面目な顔で。


 石井の言葉を書き留めた。


 一方。


 窓側。


 佐藤は。


 幅だけを変えた試作品を使っていた。


 三浦が。


 観察する。


「これ、こっちだろ」


 佐藤は。


 試作品を見たあと。


 ほとんど迷わず。


 正しい向きに置いた。


 三浦の目が。


 少し見開かれる。


「何で分かった?」


「こっちが広いから」


「説明見た?」


「ないだろ」


「何もない」


「なら、形」


「形だけで?」


「うん」


 佐藤は。


 そのまま次へ進む。


 差し込む。


 開く。


 置く。


 最初の手順は。


 石井よりも早い。


 周りから。


「速い」


 という声が漏れる。


 三浦の顔が。


 少し明るくなる。


「こっちの方が勝ち?」


「まだ」


 紅秋が。


 別の場所から言う。


「最後まで見ろ」


「分かってる」


 佐藤は。


 順調に進む。


 幅だけ。


 説明の印はない。


 逆向きなら止まらない。


 ただ。


 最初から正しい向きを選んだ佐藤には。


 その安全機能は必要なかった。


「これ、簡単じゃん」


 佐藤が言う。


 三浦が。


 嬉しそうに記録する。


「簡単」


「何分?」


「まだ二分」


「速い!」


「三浦くん、声に出さない」


 茜が注意する。


「佐藤に影響する」


「もう使えてる」


「最後まで」


「はい」


 佐藤は。


 片づけへ入る。


 そこまでは。


 石井と同じ。


 でも。


 佐藤は。


 説明の印がないため。


 どこを見ればいいのか分からない。


「戻し方は?」


「自分で考えて」


 三浦が。


 少しぎこちなく答える。


 佐藤は。


 片方から折る。


 違う順番。


 でも。


 石井ほど慎重ではない。


 少し力を入れる。


 紙が。


 みし。


 と鳴った。


 教室の空気が。


 一瞬で止まる。


「あ」


 佐藤の手が止まる。


「壊した?」


 三浦が。


 顔を近づける。


「動かさないで」


 紅秋がすぐに言う。


 佐藤は。


 両手を離す。


 紅秋が。


 試作品を確認する。


 折り目の近く。


 補強した部分に。


 細い亀裂。


 完全には破れていない。


 でも。


 同じ力をもう一度かければ。


 壊れる可能性が高い。


「ごめん」


 佐藤が言う。


「謝らなくていい」


 茜が答える。


「壊したくてやったんじゃないでしょう」


「うん」


「普通に片づけようとした?」


「うん」


「なら、それを確かめるための試作」


 紅秋も。


 亀裂を見ながら頷く。


「使い方の問題じゃなくて、形の問題」


「でも、俺が力入れたから」


「そのくらいの力で壊れるなら、実際にも壊れる」


「記録する」


 三浦が言う。


 さっきまで。


 幅だけの試作品が。


 速く使えたことを喜んでいた。


 でも。


 今は。


 亀裂を。


 真剣に見ている。


「何て書く?」


 佐藤が聞く。


「正しい向きは、形だけで分かった」


 三浦は。


 一つ目を書き。


 少し間を空ける。


「でも、片づけの順番を間違えたとき、止まるところがなくて、力を入れた」


「壊れた」


「まだ壊れてない」


 紅秋が言う。


「壊れかけた」


「それ」


 三浦は書く。


 さっき。


 簡単だと言われた。


 速かった。


 見た目だけで向きが分かった。


 良いところは。


 確かにあった。


 でも。


 別の場所では。


 安全ではなかった。


 一つの試作品の中に。


 良い。


 悪い。


 両方がある。


 会議でも。


 昨日も。


 何度も聞いたこと。


 けれど。


 目の前で亀裂が入ったことで。


 教室の全員が。


 改めて実感していた。


「次」


 茜が言う。


「一つ目を使った人は、感想を言ったあと、別の場所へ移動して」


「二つ目も使う?」


 石井が聞く。


「少し休んでから」


「手順覚えたけど」


「完全な初見ではない。それも記録する」


「比較できる?」


「同じ人が使ったとき、どこが違うかは見られる」


「なるほど」


 なつきは。


 石井の前から。


 一度離れる。


 春樹も。


 記録用紙を持って移動する。


 二人が。


 教室の端へ並んだ。


「顔に出た」


 春樹が言う。


「一回だけ」


「声も」


「一回」


「昨日より減った」


「成長した?」


「少し」


「大國くんは?」


「出てない」


「本当?」


「たぶん」


「自信ないんだ」


「記録してたから」


 なつきは。


 春樹の持っている紙を見る。


 細かい字。


 石井が。


 どこを見たか。


 何秒止まったか。


 何と言ったか。


 一つずつ書かれている。


「いっぱい書いたね」


「あとで忘れるから」


「茜ちゃんみたい」


「遠山さんより雑」


「私よりはきれい」


「横田さんの字も読める」


「前より?」


「前より」


 なつきは。


 少し頬を膨らませる。


「数字が猫みたいって、まだ思ってる?」


「三は」


「三だけ?」


「八も」


「八も猫?」


「雪だるま」


「猫じゃない」


「うん」


「じゃあ、いい」


「いいんだ」


 二人の間に。


 小さな笑いが生まれる。


 その笑いが落ち着くと。


 昨日のことが。


 また。


 静かに二人の間へ戻ってきた。


 春樹は。


 記録用紙へ視線を落としたまま。


 なつきは。


 教室中央を見ながら。


 すぐには何も言わない。


「大國くん」


「うん」


「朝の紙」


「メモ?」


「うん」


「先生に見つかってた」


「見てた?」


「前にいたから」


「何書いたか、見た?」


「最後は戻ってきてない」


「あ」


 なつきは。


 筆箱の下へ隠したままだったことを思い出す。


「途中まで書いた」


「何を?」


「……あとで」


「今じゃなくて?」


「今は、みんな見てる」


 実際には。


 誰も二人を見ていなかった。


 初見確認へ集中している。


 でも。


 なつきには。


 教室全体が近く感じた。


「じゃあ、あとで」


 春樹は。


 それ以上聞かなかった。


 その待ち方が。


 なつきには。


 やっぱり春樹らしく思えた。


 二回目の確認。


 石井が。


 今度は。


 幅だけを変えた試作品を使う。


 一度。


 似た手順を経験している。


 だから。


 最初から。


 正しい向きで置く。


「さっき覚えたから?」


 春樹が聞く。


「それもある。でも、こっちは形だけでも分かる」


「印がなくても?」


「うん。広い方が下っぽい」


「どうして?」


「安定しそうだから」


「安定」


 春樹が記録する。


 石井は。


 最初の手順を。


 ほとんど迷わず進む。


「こっちの方が速い」


「理由は?」


「余計なものがない」


「余計?」


「さっきのは、途中で止まるところとか。印とか。何か考えないといけない感じがした」


「こっちは?」


「形だけで分かる」


 なつきは。


 少し驚いて。


 幅だけの試作品を見る。


 昨日。


 自分たちは。


 止まれる形。


 説明が見える形。


 それを。


 安全で。


 分かりやすいと考えた。


 でも。


 石井には。


 考える場所が増えたように見えていた。


 良くするために。


 足したものが。


 迷いを増やす。


 説明を増やせば。


 分かりやすくなるとは限らない。


 昨日。


 茜が言ったこと。


 形でも。


 同じだった。


「でも」


 石井は。


 片づけへ進み。


 手を止める。


「こっちは、戻し方分からない」


「さっきの方は?」


「止まったら、何か見る場所があった」


「こっちは?」


「何もない」


「どうする?」


「勘」


 三浦が。


 遠くから。


「勘は危険!」


 と声を上げる。


「三浦くん、黙って」


 茜が注意する。


「でも、昨日俺が勘で使うって言ったら危ないって!」


「今の石井さんにも聞こえた」


「あ」


 石井が笑う。


「じゃあ、勘でやるのやめる」


「影響した」


 三浦は。


 両手で口を押さえた。


 教室に。


 少し笑いが起こる。


 なつきも笑いそうになる。


 でも。


 口元へ力を入れる。


 石井は。


 片づけるのをやめた。


「分からないから、聞く」


 その言葉を。


 春樹が記録する。


「聞ける人がいたら?」


「うん」


「いなかったら?」


「説明探す」


「なかったら?」


「そのまま置く」


「無理に戻さない?」


「さっき、壊れかけたの見たから」


 今度は。


 佐藤の失敗が。


 石井へ影響している。


 完全な初見ではない。


 だから。


 実際の使用場面とは違う。


 でも。


 誰かが壊れかけたのを見たことで。


 石井は。


 無理に進めない判断をした。


 それも。


 大事な反応に見えた。


「人が失敗するところを見るのも、説明になる?」


 なつきが。


 小さく呟く。


 春樹が聞く。


「なると思う」


「でも、毎回誰かが失敗するところ見られないよ」


「だから、失敗しそうな場所を見せる」


「どうやって?」


「説明の絵」


「間違った例?」


「うん」


「三浦くんの絵?」


「指が五本なら」


「今は五本」


 離れた場所から。


 三浦が声を上げる。


「聞こえてる!」


「観察して」


 茜が言う。


「してる!」


 小林は。


 幅だけの試作品を使い。


 最初から。


 上下を逆に置いた。


 佐藤。


 石井。


 二人は。


 形だけで正しい向きを選んだ。


 でも。


 小林は。


 逆だった。


「広い方が上だと思った?」


 観察を担当する女子生徒が聞く。


「上っていうか」


 小林は。


 試作品を見る。


「持つ場所だと思った」


「広い方を?」


「うん。手で持ちやすいから」


「下にすると思わなかった?」


「思わなかった」


「安定しそうじゃない?」


「机に置くものだと思ってなかった」


 その言葉に。


 ラボのメンバー全員が。


 少し止まる。


「何だと思ったの?」


 茜が聞く。


「手で持って使うもの」


「どうして?」


「最初に袋から出したとき、手に持ってたから」


 なつきは。


 小林の手元を見る。


 確かに。


 布袋から取り出せば。


 最初は。


 誰でも手に持つ。


 自分たちは。


 机へ置くものだと知っている。


 だから。


 すぐに置く。


 でも。


 知らない人にとっては。


 持ったまま使う可能性がある。


「袋から出すところから、手順なんだ」


 なつきが言う。


 春樹が。


 すぐに記録する。


「机に置いてって言ったら?」


 三浦が聞く。


「それ、説明になる」


 紅秋が返す。


「でも、言えばいいだろ」


「毎回、誰かが言えるとは限らない」


「じゃあ、袋に書く?」


「机に置いて使います」


「それなら分かる?」


 小林へ聞く。


「分かると思う」


「絵なら?」


「机の絵?」


「うん」


「文字より先に見るかも」


 三浦が。


 自分の説明用紙へ。


 机の絵を描き始める。


「机って、どう描く?」


「四角と脚」


 なつきが言う。


「脚、四本?」


「普通は」


「見えるの二本じゃない?」


「横からなら」


「上からなら四角だけ」


「また普通が違う」


「机で詰まるとは思わなかった」


 三浦は。


 鉛筆を止める。


 周りから。


 小さな笑いが起こる。


 でも。


 誰も。


 その迷いを無駄とは言わない。


「写真の方がいい?」


 女子生徒が聞く。


「写真だと、実際の机と違ったら?」


「そこまで気にする?」


「でも、分かりやすさを見るなら」


「簡単な絵で十分じゃない?」


「人の手も描く?」


「机に置く瞬間」


「指、五本ね」


「もう増やさない!」


 三浦の声に。


 また笑いが広がる。


 小林は。


 逆向きのまま。


 試作品を使おうとする。


 幅だけを変えた形では。


 途中で止まらない。


 少し歪みながら。


 入ってしまう。


「入った」


 小林が言う。


 正しい位置ではない。


 でも。


 力をかければ。


 使えるように見える。


 そのまま進めば。


 補強部分へ。


 負担がかかる。


「止める?」


 なつきが。


 小さく春樹へ聞く。


「危なくなるまでは見る」


「壊れそう」


「板倉が近くにいる」


 紅秋は。


 小林の手元を。


 じっと見ている。


 小林が。


 さらに押す。


 紙が。


 少しだけたわむ。


「これ、違うかも」


 小林が自分で言った。


 手を止める。


「どうして?」


「真っ直ぐじゃない」


「でも、入った?」


「入ったけど、変」


「戻す?」


「うん」


 小林は。


 一度引き抜く。


 反対へ向ける。


 今度は。


 きれいに入る。


「あ」


 自分で違いに気づく。


「こっちだ」


「何が違った?」


「無理に押さなくても入った」


「最初から、入らない方がいい?」


「その方が分かる」


「でも、さっきは途中まで入った」


「だから、間違ってるか分からなかった」


 記録用紙へ。


 また。


 言葉が増える。


『入ることと、正しいことが同じに見える』


『間違った向きでも途中まで進めると、そのまま使おうとする』


『抵抗があっても、少しなら押す人がいる』


 なつきは。


 その文字を見ながら。


 昨日の紅秋の言葉を思い出す。


『違う見方をされても危なくない形にする』


 小林は。


 何もおかしなことをしていない。


 袋から出した。


 手に持った。


 広い方を持ち手だと思った。


 差し込んだ。


 少し固かった。


 でも入った。


 だから進めた。


 全部。


 小林にとっては。


 自然な流れだった。


 作った側には。


 間違い。


 でも。


 使う側には。


 正解に見える道。


「怖いね」


 なつきが言う。


「何が?」


 春樹が聞く。


「間違ってるのに、合ってるみたいに進めること」


「うん」


「止まらない方が、分かりやすいと思ってた」


「進めるから?」


「うん。でも」


 なつきは。


 小林が正しい向きへ直した試作品を見る。


「進めることが、良いとは限らない」


 春樹は。


 少しだけ頷く。


「止まった方がいい場所もある」


「さっきの試作品みたいに?」


「うん」


「でも、石井さんは、止まって不安になった」


「そう」


「じゃあ」


 なつきは。


 少し困ったように眉を寄せる。


「止まるのが良いのか、進むのが良いのか、分からない」


「場所による」


「難しい」


「うん」


「大國くんも分からない?」


「分からない」


 その答えに。


 なつきは。


 少しだけ安心する。


 昨日。


 同じ言葉を。


 何度も交わした。


 分からない。


 でも。


 一緒に見ている。


 それだけで。


 自分一人で迷っている感じが減る。


 最後。


 川島。


 逆向きで止まり。


 説明の印が見える試作品を使う。


 川島は。


 最初に。


 机へ置かなかった。


 小林と同じ。


 手に持ったまま。


 試作品の上下を確認する。


 ただ。


 川島は。


 幅ではなく。


 印を見る。


「これ、こっち?」


 印を上にする。


「何で?」


 紅秋が聞く。


「マークがあるから」


「意味は分かる?」


「上ってこと?」


「そう思った?」


「うん」


 でも。


 その印は。


 向きを変えるためのもの。


 最初から見た場合。


 上を示しているように見える。


 結果として。


 川島は。


 正しい向きに置いた。


 ただし。


 意図した理由ではない。


「結果は合ってる」


 三浦が言う。


「でも、意味は違う」


 茜が返す。


「それは駄目?」


「別の置き方をしたとき、同じ意味に見えるとは限らない」


「偶然当たった?」


「近い」


 川島は。


 最初の手順を進める。


 止まらない。


 説明も。


 最初から正しい向きだったため。


 現れない。


「さっきの人と同じで、こっち簡単」


 川島が言う。


「止まる仕組み、使わなかったけど?」


「何それ?」


「逆向きにしたら分かる」


「今、向き合ってた?」


「合ってた」


「じゃあ、必要ないじゃん」


 川島の言葉に。


 教室の空気が。


 少しだけ止まる。


 必要ない。


 正しく使えた人には。


 その機能は見えない。


 使わなかった。


 だから。


 無駄に思える。


「でも」


 小林が。


 少し離れた場所から言う。


「私、逆にした」


「逆なら止まる?」


 川島が聞く。


「そっちは止まるらしい」


「俺は逆にしなかった」


「人によるんじゃない?」


「じゃあ、俺にはいらない」


「小林さんにはいる」


「両方作る?」


 三浦が言う。


「人によって渡す?」


 紅秋が返す。


「使う前に、その人が間違えるか分からない」


「じゃあ、つける」


「でも、川島には余計に見える」


「何も感じてなかっただろ」


「今、必要ないって言った」


 話が。


 また。


 広がり始める。


 川島は。


 まだ使っている途中。


 茜が。


 軽く手を上げる。


「議論はあと。最後まで見る」


 全員が。


 口を閉じる。


 川島は。


 片づけへ進む。


 そこで。


 一度止まる。


「これ」


 順番を迷う。


 石井。


 佐藤。


 小林。


 全員が迷った場所。


 今回も。


 同じ。


「説明ない?」


 川島が聞く。


「探して」


 紅秋が答える。


 川島は。


 試作品を持ち上げる。


 裏を見る。


 横を見る。


 止まるための印は。


 上下を間違えたときにしか現れない。


 正しく使っている川島には。


 最後まで見えない。


「ない」


「どこにあったら見る?」


「今持ってるところ」


「持ち手?」


「うん。片づけるとき、ここ持つから」


「最初に持つ場所とは違う?」


「同じ」


「なら、最初から見える?」


「見える」


「邪魔?」


「使うときは見ないかも」


「どうして?」


「手で隠れる」


 また。


 新しい問題。


 説明を。


 持ち手へ置く。


 そこなら。


 片づけるときに見る。


 でも。


 使用中は。


 手で隠れる。


 それが。


 良いのか。


 悪いのか。


 すぐには分からない。


「終わり」


 茜が言う。


 四人の確認が。


 一旦止まる。


 教室の中に。


 大きな息が広がった。


「疲れた」


 佐藤が言う。


「使っただけなのに」


「見られてるから緊張した」


「分かる」


 小林が答える。


「間違えたら、みんな書くでしょう」


「間違いを見るためだから」


 三浦が言う。


「分かってるけど、書かれると恥ずかしい」


 その言葉に。


 なつきの胸が。


 少し動く。


 自分たちは。


 失敗を見せることへ。


 少しずつ慣れてきた。


 でも。


 確認される側は。


 間違えるところを見られる。


 それも。


 楽ではない。


「ごめん」


 なつきが言った。


「何で横田さんが謝るの?」


 小林が聞く。


「間違いを探すみたいになってた」


「探してたんじゃないの?」


「そうだけど」


 なつきは。


 言葉を探す。


「使い方が悪いんじゃなくて、試作品の悪いところを探してた」


「うん」


「でも、見られる方は、自分が間違えたって思うよね」


 小林は。


 少し考える。


「思う」


「やっぱり」


「でも、最初にそう説明されたから。怒られるとは思ってない」


「恥ずかしい?」


「少し」


「どうすればいい?」


 小林は。


 なつきを見る。


「間違えたって言わなければいいんじゃない?」


「何て言う?」


「止まったとか。違う使い方をしたとか」


「間違いじゃなくて?」


「だって、知らないんだから」


 教室が。


 静かになる。


 小林は。


 試作品を使う前。


 何も知らなかった。


 正しい使い方も。


 作った側の想定も。


 知らない。


 その状態で。


 自分の考えた道を進んだ。


 それを。


 間違いと呼ぶのは。


 作る側の都合なのかもしれない。


「違う使い方」


 なつきは。


 小さく繰り返す。


「その方がいい?」


「私は」


 小林は。


 少し笑う。


「間違えた人って書かれるよりいい」


 三浦が。


 自分の記録用紙を見る。


 そこには。


『逆向き』


『順番間違い』


『押しすぎ』


 という文字が並んでいる。


「俺、全部間違いって書いてた」


 声が。


 少し小さくなる。


「書き直す?」


 なつきが聞く。


「うん」


 三浦は。


 消しゴムを取り出す。


『順番間違い』


 を消す。


 代わりに。


『別の順番で片づけようとした』


『押しすぎ』


 を消す。


『止まらなかったため、力を入れて進めた』


 少し長い。


 でも。


 誰かを責める言葉ではない。


「長いな」


 三浦が言う。


「でも、分かりやすい」


 なつきが返す。


「本当?」


「うん」


「じゃあ、採用」


 紅秋も。


 三浦の記録用紙を覗き込んだ。


「その方が、あとで見たときに原因が分かる」


「原因?」


「『押しすぎ』だけだと、佐藤が悪いみたいに見える」


「俺、悪くない?」


 佐藤が。


 少し離れたところから聞く。


「悪くない」


 紅秋は即答した。


「普通に片づけようとして、止まらなかった。だから力を入れた。それで亀裂が入った」


「じゃあ、試作品が悪い?」


「それも違う」


「え?」


「悪いって言葉にすると、また一つに決めたくなる」


 紅秋は。


 亀裂の入った試作品を持ち上げた。


「この形は、最初の向きは分かりやすかった」


「うん」


 三浦が頷く。


「佐藤は速かった」


「うん」


「でも、片づけるときは止まらなかった」


「うん」


「だから、そこは危なかった」


「……うん」


「全部悪いわけじゃない」


 三浦は。


 少しだけ黙った。


 それから。


 記録用紙へ視線を落とす。


「じゃあ」


 鉛筆の先を。


 紙の上へ置く。


「良かったところと、危なかったところ、両方書く?」


「そのための比較」


 茜が言った。


「どっちが勝ちか決めるためじゃない」


「まだ勝ちって言ってない」


「朝から三回言った」


「数えてたの?」


「数えなくても覚えてる」


 教室のあちこちから。


 小さな笑いが漏れた。


 張っていた空気が。


 少しだけ緩む。


 窓の外では。


 雲の切れ間から。


 薄い陽が差し始めていた。


 雨上がりの校庭。


 まだ乾いていない土の上を。


 運動部らしい男子生徒が二人。


 水たまりを避けながら走っている。


「そこ飛べる!」


「無理だって!」


「いける!」


 遠くから。


 そんな声が聞こえ。


 直後。


「うわっ!」


 という大きな声。


 教室の窓際にいた何人かが。


 一斉に外を見る。


「落ちた」


「水たまり入った」


「靴終わったな」


「昼休みに何してんの」


 十一組の中へ。


 いつもの学校の時間が。


 少しだけ戻ってくる。


 茜は。


 時計を見る。


「あと十五分くらい」


「もうそんな?」


 なつきが聞く。


「確認だけで結構使った」


「卵焼き」


 三浦が言う。


「忘れてない?」


「忘れてない」


「俺はずっと覚えてた」


「ラボより?」


「同じくらい」


「嘘」


「ちょっと卵焼きが上」


「正直」


 石井が笑った。


「じゃあ、先に食べる?」


 なつきは。


 机の横へ置いていた小さな容器を取り出す。


 蓋を開ける。


 黄色い卵焼き。


 一口で食べられるくらいに切られている。


 少し甘い匂いが。


 近くへ広がった。


「あ、うまそう」


「俺も」


「私も食べたい」


「初見確認してない人も?」


「余ったら」


「余る?」


「たぶん」


 一気に。


 周囲へ人が集まり始める。


「待って」


 なつきが容器を両手で守る。


「先に協力してくれた四人」


「優先順位あるんだ」


「お礼だから」


 佐藤。


 石井。


 川島。


 小林。


 四人へ。


 一つずつ渡す。


「ありがとう」


「いただきます」


「甘い?」


「甘いよ」


「どのくらい?」


「食べれば分かる」


「説明放棄した」


 石井が笑いながら。


 一口。


 食べる。


「甘い」


「だから言った」


「思ったより甘い」


「嫌だった?」


「いや、うまい」


 小林も食べる。


「お弁当に入ってたら嬉しいやつ」


「本当?」


「うん」


 川島は。


 一口食べてから。


「俺ん家のと全然違う」


 と言った。


「川島くんの家は?」


「だし巻きっぽい。甘くない」


「佐藤くんも甘くない方が好きって言ってた」


「うん」


 佐藤も。


 卵焼きを食べる。


 少しだけ考える。


「でも、これはこれでうまい」


「良かった」


「正解は?」


 三浦が。


 突然聞いた。


「何の?」


「卵焼き」


「正解?」


「甘いのと甘くないの」


「ないよ」


 なつきは。


 自然に答えた。


 答えてから。


 少しだけ止まる。


 春樹も。


 なつきを見た。


 三浦は。


 卵焼きの容器を覗き込みながら。


「でも、どっちか選ぶなら?」


「好きな方」


「横田は甘い方?」


「うん」


「大國は?」


 突然。


 話を振られた春樹が。


 少しだけ目を瞬く。


「どっちも食べる」


「逃げた」


「逃げてない」


「昨日、交換したんだろ?」


 なつきの手が。


 ぴたりと止まった。


「何で知ってるの?」


「朝の会話」


「そこまで聞こえてた?」


「甘いって話してただろ」


「あ」


 三浦は。


 悪気なく続ける。


「大國ん家のは甘くない?」


「うん」


「横田のは甘い」


「うん」


「どっちがうまかった?」


 一瞬。


 春樹が黙る。


 なつきも。


 春樹を見る。


 周りの何人かも。


 何となく。


 答えを待った。


 別に。


 大した質問ではない。


 ただの卵焼き。


 甘いか。


 甘くないか。


 どちらが好きか。


 それだけ。


 でも。


 昨日。


 二人にとっては。


 そこから。


 普通の違いの話になった。


 そして。


 特別。


 という言葉まで行った。


 春樹は。


 少し考えてから。


「比べられない」


 と言った。


「何で?」


 三浦が聞く。


「違うから」


「卵焼き同士だろ」


「同じ卵焼きでも、味が違う」


「だから、どっちが好きか」


「どっちも好き」


「また逃げた」


「逃げてない」


 春樹は。


 少しだけ。


 なつきを見る。


「横田さんのは、横田さんの味だから」


 その言葉で。


 なつきの胸の奥が。


 昨日と同じように。


 少しだけ温かくなる。


「家のは?」


 三浦が聞く。


「家の味」


「じゃあ、比べない?」


「比べても、同じにはならない」


 春樹は。


 机の上に並べられた。


 二つの試作品へ視線を移した。


 一つ。


 幅だけを変えたもの。


 もう一つ。


 逆向きなら止まり。


 説明の印が見えるもの。


「これも同じかも」


 紅秋が。


 その視線を追った。


「何が?」


「どっちが正解か決めようとしてた」


 三浦が。


 卵焼きを取ろうとしていた手を止める。


「俺?」


「みんな」


 春樹は言った。


「比較するから、勝つ方があるみたいに思ってた」


「でも、比べるんだろ?」


「比べる」


「じゃあ、良い方を選ぶんじゃないの?」


 佐藤も。


 興味を持ったように聞く。


 茜が。


 黒いノートを閉じた。


「選ぶ場合もある。でも、今回の結果だけなら」


 机の上へ。


 二つの試作品を並べる。


「幅を変えた方は、形だけで向きが分かった人が多かった」


「佐藤くんと石井さん」


 なつきが言う。


「小林さんは逆だった」


「うん」


「もう一つは?」


「逆向きなら途中で止まる。そこで説明に気づける」


「石井さん」


「でも、川島くんには必要ないように見えた」


「正しく置けたから」


「そう」


 茜は。


 二つを。


 少し離して置く。


「どっちも正解じゃない」


「どっちも不正解?」


 三浦が聞く。


「それも違う」


「難しいな!」


 教室に笑いが起こる。


 茜も。


 少しだけ笑った。


「良いところが違う」


「じゃあ」


 なつきは。


 二つの試作品を見ながら。


 ゆっくり言葉を探す。


「二つの良いところを、一つにしたら?」


 三浦が。


 すぐに反応する。


「それ!」


 指を差す。


「幅を変えて、逆なら止まるようにして、印もつける!」


「全部乗せ」


 紅秋が言う。


「最強じゃん」


「本当に?」


 春樹が聞いた。


 三浦が。


 口を開いたまま止まる。


「……違う?」


「石井さん、何て言った?」


「え?」


 記録用紙を見る。


「えっと」


 三浦が探す。


 春樹が。


 自分の記録から読む。


「『途中で止まるところとか、印とか、何か考えないといけない感じがした』」


「あ」


「足せば足すほど、考えることが増えるかもしれない」


「でも、安全になる」


 紅秋が言う。


「そう」


 春樹は頷く。


「だから、全部足せば正解でもない」


「じゃあ、どうする?」


 三浦の声から。


 少しだけ。


 さっきまでの軽さが消える。


 困っている。


 でも。


 嫌になった顔ではない。


 分からないことを。


 ちゃんと分からないまま持っている顔。


 なつきは。


 それを見て。


 昨日までの三浦とは。


 少し違うと思った。


「必要なものだけ残す?」


 なつきが言う。


「何が必要?」


 三浦が聞く。


「それを決めるために、今日見たんじゃない?」


 茜が返す。


「じゃあ」


 紅秋が。


 ホワイトボードの前へ立った。


「一回、分けるか」


「何を?」


「今日分かったこと」


 紅秋は。


 黒いマーカーを取る。


 ホワイトボードの左上へ。


『幅』


 と書く。


 右上へ。


『止まる+印』


 その下へ。


 それぞれ。


『良かった』


『困った』


 と分けた。


「まず幅」


 三浦が手を上げる。


「向きが分かりやすい!」


「全員?」


「……全員じゃない」


「誰?」


「佐藤。石井」


「川島は二つ目だから比較できない」


「小林は逆」


 紅秋が書く。


『形だけで向きを判断できた人がいる』


「長い」


 三浦が言う。


「正確」


「俺の記録と同じ」


「お前も長くなった」


「成長した」


「今度は良い意味」


 また。


 小さな笑い。


「次」


 茜が促す。


「幅の困ったところ」


 佐藤が。


 亀裂の入った試作品を見る。


「片づけるとき、止まらない」


「それは幅の問題?」


 春樹が聞く。


「違うか」


「幅だけ変えた試作品には、安全に止める仕組みがない」


「じゃあ、それ」


 紅秋が書く。


『別の手順でも進めてしまう』


 小林が手を上げる。


「逆でも途中まで入った」


「それも」


『違う向きでも進める』


「でも」


 なつきが言う。


「進めるのが悪いって書くと、全部止めればいいみたいになる」


「確かに」


 紅秋は。


 少し考える。


 文字を消す。


 書き直す。


『違う向きでも「合っている」と感じるところまで進める』


「あ」


 なつきが。


 その言葉を見つめる。


「それ、分かりやすい」


「長いけど」


 三浦が言う。


「長くても意味が違わない方がいい」


「俺、今日それ学んだ」


「さっき」


「今日の中だからいいだろ」


 次。


『止まる+印』


 良かったところ。


「逆向きで止まった」


 石井が言う。


「壊れる前に」


 なつきが付け足す。


「止まったあと、印に気づいた」


「絵で向きが分かった」


「全部読まなくても」


 紅秋が。


 一つずつ書く。


『違う向きで止まる』


『止まった場所で説明に気づける』


『文字を全部読まなくても絵で直せた』


「良いじゃん」


 三浦が言う。


「こっちの方が多い」


「数で決めない」


 茜がすぐに返す。


「また勝ち負けに戻ってる」


「数えただけ!」


「顔が勝ったって言ってた」


「顔で判断するな!」


「今日、顔に出る話多いね」


 小林が笑う。


 なつきは。


 少しだけ。


 春樹を見る。


 春樹も。


 ちょうど。


 こちらを見ていた。


 目が合う。


 なつきは。


 朝。


 書きかけたメモを思い出す。


『昨日、私が特別って言ったとき、出てた』


 その続き。


 まだ。


 筆箱の下にある。


 春樹が。


 ほんの少しだけ。


 目を細める。


 なつきは。


 何となく。


 それだけで。


 また顔に出た気がした。


 慌てて。


 ホワイトボードを見る。


「困ったところ」


 紅秋が言う。


 石井が。


 少し考えてから答える。


「止まったとき、壊したと思った」


 教室の空気が。


 少し変わる。


 良いところと。


 同じ場所。


 止まる。


 それは。


 壊れるのを防いだ。


 でも。


 同時に。


 不安も生んだ。


 紅秋は。


 少し間を置いてから書く。


『止まった理由が分かるまで、不安になる』


「それ」


 石井が言う。


「止まるのは良かった?」


 なつきが聞く。


「今考えると良かった」


「そのときは?」


「壊したかと思った」


「じゃあ」


 なつきは。


 ホワイトボードを見る。


「同じことが、良いところと困るところの両方にあるんだ」


 誰も。


 すぐには答えなかった。


 教室の外を。


 誰かが走っていく。


 廊下の床を蹴る音。


 遠くで。


 教師の声。


「走るな!」


 そのあと。


「走ってません!」


「今走ってただろ!」


 少し笑いが起こる。


 でも。


 ホワイトボードの前にいる何人かは。


 まだ。


 なつきの言葉を考えていた。


「あると思う」


 春樹が言った。


「止まること自体が良い悪いじゃない」


「じゃあ何?」


「止まったあと」


「あと?」


「止まった理由が、すぐ分かれば」


 春樹は。


『止まる+印』


 の欄を見る。


「不安になる時間が短くなるかもしれない」


「今は長い?」


「石井さんは、一回押した」


「うん」


 石井が頷く。


「止まった。押した。変だと思った。印を見た」


「その順番」


 春樹が言う。


「止まった瞬間に印が目に入ったら?」


「押さないかも」


「じゃあ」


 三浦が。


 急に前へ出る。


「印をでかくする!」


「また足す」


 茜が言う。


「でかくするだけ!」


「目立ちすぎたら、正しく使ってる人には邪魔かもしれない」


「じゃあ、止まったときだけ出る」


「今もそう」


「もっと出る!」


「どうやって?」


 三浦が止まる。


「……飛び出す?」


「危ない」


「音が鳴る?」


「紙だぞ」


「赤くなる?」


「魔法じゃない」


「難しい!」


 三浦は。


 頭を抱えた。


 その姿に。


 教室の何人かが笑う。


 けれど。


 なつきは。


 少しだけ。


 その言葉が面白いと思った。


「赤くなる」


「え?」


 三浦が顔を上げる。


「全部赤くならなくても」


 なつきは。


 試作品を手に取る。


「止まったときに見えるところだけ、赤かったら?」


「今も印ある」


 紅秋が言う。


「うん。でも、矢印だけでしょう?」


「そう」


「止まったところに」


 なつきは。


 指を置く。


「『ここで止まって大丈夫』って分かる色があったら」


「色だけで大丈夫って分かる?」


 春樹が聞く。


「……分からない」


「赤は危険に見えるかも」


「そっか」


「黄色?」


 三浦が言う。


「注意っぽい」


「緑?」


「進んでいいみたい」


「じゃあ青」


「何の意味?」


「俺が好き」


「関係ない」


 笑い。


 また。


 少しだけ空気が軽くなる。


「色も、普通が違う」


 なつきが言った。


「赤を見て、止まれって思う人もいる」


「危険も」


「正解の印だと思う人もいるかも」


「丸つけで赤使うし」


「じゃあ、色だけじゃ足りない」


 茜が。


 黒いノートへ。


 何かを書き込む。


「絵と組み合わせる?」


 三浦が聞く。


「文字は?」


「短く」


「『反対』」


「何が反対か分からない」


「『向きを変える』」


「長い?」


「そのくらいなら」


「矢印だけでも分かったって石井さん言った」


「じゃあ、矢印を見つけやすくする?」


「でも、最初から見えたら川島くんは上だと思った」


「隠す?」


「止まったときだけ見えるように」


「今もそうじゃない?」


「もっと分かりやすく」


 話が。


 何度も。


 同じ場所を回る。


 でも。


 昨日までとは違った。


 誰かが。


「これが正解」


 と言って終わらない。


 一つの案が出る。


 誰かが。


 別の見方をする。


 また。


 少し変える。


 そこへ。


 別の困り方が見つかる。


 それを。


 面倒だと思う瞬間はある。


 でも。


 前へ進んでいないわけではない。


 むしろ。


 簡単に進まないことで。


 見えていなかったものが。


 少しずつ増えている。


「時間」


 茜が。


 時計を見て言った。


「あと五分」


「卵焼き!」


 三浦が。


 すぐに反応する。


「まだ食べてない!」


「ラボより覚えてるじゃん」


 佐藤が笑う。


「違う。両方大事」


「卵焼きが上って言った」


「撤回する」


「遅い」


 なつきは。


 容器を持ち上げる。


「一人一個なら、まだあるよ」


 その言葉で。


 近くにいた生徒たちが。


 少しずつ集まってくる。


「俺もいい?」


「私も」


「初見確認してないけど」


「見てた」


「それは協力?」


「見守り」


「都合いい」


 それでも。


 なつきは。


 一つずつ配る。


 茜。


 紅秋。


 三浦。


 春樹。


 それから。


 近くで見ていたクラスメイトたち。


 全員分には。


 少し足りない。


「半分にする?」


「俺、半分でいい」


「私も」


「じゃあ切る?」


「箸で?」


「崩れる」


「別にいいだろ」


 卵焼き一つで。


 また。


 小さな相談が始まる。


「何か」


 小林が笑う。


「ラボと同じだね」


「何が?」


 なつきが聞く。


「一個しかないなら、半分にすればいい。でも、崩れる」


「崩れても味は同じ」


 三浦が言う。


「見た目は違う」


「食べれば一緒」


「お弁当に入れるなら?」


「崩れてない方がいい」


「家で食べるなら?」


「崩れててもいい」


「また条件で変わる」


 紅秋が言う。


「卵焼きまでラボにするな」


 三浦が笑った。


 結局。


 残った卵焼きは。


 半分に分けられた。


 少し形が崩れたものもある。


 でも。


 誰も気にせず食べた。


「甘い」


「うまい」


「これ、毎日持ってきて」


「無理」


「お母さんに頼んで」


「もっと無理」


「ラボの報酬」


「報酬制じゃない」


 なつきは。


 最後の一つを。


 箸で取る。


 そのとき。


 春樹が。


 まだ食べていないことに気づいた。


「大國くん」


「うん」


「食べた?」


「まだ」


「何で?」


「配ってたから」


「大國くんが?」


「横田さんが」


「私は食べたよ」


「いつ?」


「お弁当」


「あ」


「これ、お礼用」


「じゃあ、俺も」


 春樹が。


 最後の一つへ手を伸ばす。


 なつきも。


 同じ卵焼きを取ろうとしていた。


 二人の箸が。


 容器の上で。


 止まる。


「あ」


「どうぞ」


「大國くん食べて」


「横田さんが」


「私は食べたから」


「俺も昨日食べた」


「昨日は昨日」


「今日のは?」


「同じ」


「本当に?」


「たぶん」


「初見確認しないと」


「卵焼きで?」


 なつきが笑う。


 春樹も。


 少し笑う。


「半分にする?」


「さっきみたいに?」


「うん」


 最後の一つ。


 少し大きめ。


 なつきは。


 箸で真ん中を切ろうとする。


 柔らかい。


 少し潰れる。


「あ」


「崩れた」


「大國くんが見てるから」


「俺のせい?」


「たぶん」


「顔に出た?」


「出てない」


「じゃあ違う」


「でも見てた」


「見るくらいは」


 春樹が。


 片方を取る。


 なつきも。


 もう片方。


「いただきます」


「いただきます」


 二人で。


 ほぼ同時に食べる。


 甘い。


 昨日と。


 同じ味。


 でも。


 昨日とは。


 少し違う気がした。


 半分にしたからか。


 教室で。


 みんなと食べたからか。


 春樹と。


 同じ一つを分けたからか。


 理由は。


 分からない。


「同じ?」


 春樹が聞く。


「何が?」


「昨日と」


 なつきは。


 少し考える。


「味は同じ」


「味は?」


「今日の方が小さい」


「半分だから」


「うん」


「それだけ?」


「……分からない」


「そっか」


 春樹は。


 それ以上聞かなかった。


 予鈴が鳴る。


「片づけ!」


 茜の声で。


 全員が動き始める。


 試作品。


 記録用紙。


 ホワイトボード。


 机。


 容器。


 箸。


「亀裂入ったやつ、捨てる?」


 三浦が聞く。


「捨てない」


 紅秋が答える。


「何で?」


「失敗の記録」


「会議に持ってく?」


「その可能性もある」


「壊れかけ見せるの?」


「見せた方が分かる」


「恥ずかしくない?」


 三浦の言葉に。


 なつきが。


 少しだけ手を止める。


 昨日までなら。


 自分も。


 同じように思ったかもしれない。


 失敗したもの。


 壊れかけたもの。


 できなかった証拠。


 それを。


 誰かに見せるのは。


 怖い。


 でも。


「これ」


 なつきは。


 亀裂の入った試作品を見る。


「失敗したからできたんじゃないよね」


「何が?」


「亀裂」


「失敗したからだろ?」


「佐藤くんが?」


「いや」


 三浦が。


 少し考える。


「試作品が?」


「それも、違う気がする」


「じゃあ何?」


 なつきは。


 すぐに答えられなかった。


 春樹が。


 隣から言う。


「使ったら、こうなる可能性が分かった」


「……あ」


「だから」


 なつきが続ける。


「壊れかけたことが、失敗じゃなくて」


 言葉を探す。


「壊れかけるって分かったことが、今日の結果?」


 紅秋が頷く。


「それでいいと思う」


「じゃあ、見せる」


 三浦は。


 亀裂の入った試作品を。


 透明な袋へ入れた。


「捨てない」


「うん」


「名前つける?」


「いらない」


「亀裂一号」


「いらない」


「かわいそう」


「何が?」


「名前ないと」


「試作品に感情移入するな」


「昨日から一緒にいるから」


「一日」


「濃い一日」


 笑いながら。


 机を戻す。


 昼休みが終わる。


 午後の授業。


 五時間目。


 簿記。


 教室の前では。


 教師が。


 仕訳の説明をしている。


「現金が増えたら借方。減ったら貸方。ここを逆にするなよ」


 黒板へ。


 数字。


 勘定科目。


 線。


 なつきは。


 ノートを取る。


 でも。


 頭の片隅には。


 昼休みの二つの試作品が残っていた。


 幅だけ。


 止まる。


 印。


 形。


 説明。


 安全。


 不安。


 速さ。


 迷い。


 良いところ。


 困るところ。


 二つ並べても。


 どちらか一つが。


 全部正しいわけではない。


 正解を二つ並べれば。


 もっと正しい一つになる。


 そういうものでもない。


 むしろ。


 良いものを全部足せば。


 複雑になる。


 説明を増やせば。


 見るものが増える。


 止めれば。


 安全になる。


 でも。


 不安になる。


 進めれば。


 簡単に感じる。


 でも。


 間違ったまま進める。


 反対のものが。


 同時に。


 そこにある。


「横田」


「はい」


「今、何考えてた?」


 突然。


 教師の声。


 なつきの肩が跳ねる。


「簿記」


「嘘つけ」


 教室に笑い。


「本当に」


「じゃあ、この仕訳」


 黒板を指される。


 なつきは。


 固まる。


 現金。


 売掛金。


 商品。


「……現金?」


「何が?」


「増えた」


「どっち?」


「借方」


「次」


「売掛金が減ったから……貸方」


「合ってる」


「やった」


「やったじゃない。授業聞け」


「はい」


 また笑い。


 教師は。


 黒板へ向き直る。


 なつきは。


 少しだけ息を吐いた。


 前の方。


 春樹が。


 肩を揺らしている。


 笑っている。


 なつきは。


 小さく。


 机の下で。


 春樹の背中へ向けて。


 拳を作る。


 もちろん。


 届かない。


 そのあと。


 朝のメモを思い出した。


 筆箱の下。


 授業中。


 教師に見つかりかけた紙。


 なつきは。


 そっと取り出す。


 開く。


『俺は出ない』


 その下。


 自分が書きかけた。


『昨日、私が特別って言ったとき、出てた』


 そこまで。


 なつきは。


 鉛筆を持つ。


 少し迷う。


 そして。


 続きを書いた。


『だから、大國くんも顔に出るよ』


 さらに。


 少しだけ考える。


『私だけじゃない』


 書いて。


 読み返す。


 何だか。


 言いたかったことと。


 少し違う。


 でも。


 消さなかった。


 授業が終わったあと。


 渡せばいい。


 そう思った。


 けれど。


 五時間目の終わり。


 チャイム。


 教師が出る。


 教室が動く。


 春樹は。


 紅秋に呼ばれた。


「大國、記録見せて」


「うん」


 二人が。


 昼休みの確認表を見始める。


 なつきは。


 メモを持ったまま。


 渡す機会を失う。


 六時間目。


 情報処理。


 移動教室。


 全員が。


 パソコン室へ向かう。


「横田さん」


 廊下で。


 春樹が隣へ来る。


「うん」


「朝の紙」


「あ」


「あとでって言ってた」


「覚えてた?」


「うん」


「……これ」


 なつきは。


 制服のポケットから。


 折り畳んだ紙を出す。


 春樹へ渡す。


「今見る?」


「今は」


 前を歩く三浦が。


 突然振り返る。


「何渡した?」


 なつきと春樹。


 二人とも。


 同時に紙を隠した。


 三浦が止まる。


「怪しい」


「何が?」


 なつきが言う。


「今、二人で隠した」


「メモ」


「ラボ?」


「うん」


 春樹が答える。


「見せて」


「嫌」


「即答!」


「三浦くん、前見て」


「何で俺だけ見せてもらえない?」


「個人用だから」


「個人用のラボ?」


「三浦!」


 前から。


 茜の声。


「階段で後ろ向かない!」


「あ」


 三浦が。


 慌てて前を向く。


「危な」


「落ちるよ」


「今のは大國たちが怪しいから!」


「人のせいにしない」


 周囲の生徒たちが笑う。


 春樹は。


 紙を。


 制服のポケットへ入れた。


「あとで見る」


「うん」


「返す?」


「返して」


「分かった」


 情報処理室。


 キーボードの音。


 教師の説明。


 表計算。


 関数。


 数字。


 午後の眠気。


「SUMくらい覚えろよ」


「覚えてます」


「じゃあ、何で手入力した?」


「気持ちです」


「気持ちで計算するな」


 教師と男子生徒のやり取りに。


 笑いが起こる。


 なつきは。


 画面を見ながら。


 時々。


 二つ前の席の春樹を見る。


 春樹は。


 普通に課題を進めている。


 紙は。


 まだ見ていないらしい。


 気になる。


 でも。


 見てほしいような。


 見てほしくないような。


 書いたのは。


 たった二行。


『昨日、私が特別って言ったとき、出てた』


『だから、大國くんも顔に出るよ。私だけじゃない』


 それだけ。


 でも。


 昨日のことを。


 もう一度。


 二人だけで触れるようで。


 少し恥ずかしい。


 授業が終わる。


 放課後。


 帰りのホームルーム。


 担任が。


 連絡事項を話す。


「明日、体育館使用の部活は時間変更あるから掲示板見ろ。あと、雨でグラウンド状態悪い。勝手に入るなよ」


「先生、昼休み入ってた人いました」


「誰だ」


「知らない」


「じゃあ言うな」


 笑い。


「あと、商業科の提出物。締切明日」


「今日じゃないんですか?」


「明日」


「助かった!」


「今助かったって言ったやつ、今日やれ」


「はい」


 ホームルームが終わる。


 椅子。


 鞄。


 部活へ向かう声。


 帰宅する生徒。


 掃除当番。


 教室が。


 少しずつ。


 放課後の形へ変わっていく。


 十一組ラボのメンバーは。


 今日の記録を。


 少しだけ整理してから帰ることになっていた。


「長くやらない」


 茜が言う。


「今日は記録だけ」


「作らない?」


 三浦が聞く。


「今から作ると遅くなる」


「でも、思いついた」


「何?」


「机の絵」


「明日でいい」


「忘れる」


「描いとけば」


「あ」


 三浦は。


 自分のノートへ。


 四角。


 脚。


 人の手。


 試作品。


 を描き始める。


「指」


 なつきが言う。


「五本!」


 三浦は。


 描く前に宣言した。


「数えながら描く!」


「そこまでしなくても」


「今日は信用を取り戻す」


「誰から?」


「人類」


「大きい」


 紅秋が。


 昼休みの記録用紙を。


 机の上へ並べる。


「これ、明日まとめる」


「うん」


「今日の時点では」


 茜が。


 ホワイトボードに残した内容を。


 ノートへ写す。


「幅の違いは残したい」


「俺も」


 三浦が言う。


「形だけで分かった人いたし」


「止まる仕組みも?」


 なつきが聞く。


「残したい」


 紅秋が答える。


「でも、そのまま足すとは決めない」


「印は?」


「見せ方を変える」


「片づけ方は?」


「別で考える」


「机に置く説明」


「袋か最初の絵」


「いっぱいある」


 なつきが。


 思わず言う。


 茜も。


 ノートを見て。


「増えたね」


「昨日より?」


「かなり」


 三浦が。


 少しだけ。


 不安そうな顔をする。


「これ、終わる?」


 教室が。


 少し静かになる。


 誰も。


 すぐに。


「終わる」


 とは言わなかった。


 簡単に言えば。


 安心させられる。


 でも。


 分からない。


「分からない」


 なつきが言った。


 三浦が。


 なつきを見る。


「また?」


「うん」


「最近、横田それ多いな」


「便利だから」


「遠山も言ってた」


「ラボで流行ってる」


「嫌な流行り」


 なつきは。


 少し笑う。


 でも。


 そのあと。


 真面目に続ける。


「終わるかは分からない。でも」


「でも?」


「昨日より、分かったこと増えた」


 三浦は。


 記録用紙を見る。


 亀裂。


 逆向き。


 止まる。


 不安。


 印。


 机。


 持ち方。


 片づけ方。


「増えすぎじゃない?」


「問題も増えた」


「それ、良いの?」


「見つからないままよりは」


 春樹が言う。


 三浦は。


 春樹を見る。


「見つけたら直さないといけない」


「うん」


「大変」


「うん」


「見つけない方が楽」


「うん」


「でも」


 三浦は。


 亀裂の入った試作品を見る。


「これ、見つけないで会議持ってったら」


「誰かが使ったとき壊れたかも」


 紅秋が言う。


「それは嫌だ」


「じゃあ、見つかって良かった」


「……うん」


 三浦は。


 少しだけ。


 肩の力を抜いた。


「分かった」


「何が?」


 なつきが聞く。


「問題増えるの、嫌だけど」


 少し考える。


「増えたんじゃなくて、見えるようになった?」


 茜が。


 ゆっくり顔を上げる。


「それ、今日の記録に書こう」


「俺の言葉?」


「うん」


「マジ?」


「大事だから」


 三浦の顔が。


 少し明るくなる。


「俺、今日いいこと言った?」


「たまに」


「たまに!?」


「毎回ではない」


「板倉!」


「事実」


「横田!」


「今日は言った」


「遠山!」


「記録する」


「誰も褒め方が素直じゃない!」


 教室に。


 笑いが広がった。


 窓の外。


 雲は。


 朝よりも薄くなっていた。


 西から差す光が。


 まだ湿った校庭を。


 少しだけ白く光らせている。


 ラボの片づけが終わる。


 茜。


 紅秋。


 三浦。


 何人かのクラスメイト。


 一人ずつ。


 教室を出ていく。


「じゃあ明日!」


 三浦が。


 廊下から手を振る。


「卵焼きも!」


「ないよ!」


「期待してる!」


「聞いてない!」


 足音が。


 遠ざかる。


 なつきは。


 鞄へ。


 筆箱を入れる。


 ノート。


 教科書。


 空になった卵焼きの容器。


 最後に。


 机の中を見る。


 何もない。


「横田さん」


 声。


 顔を上げる。


 春樹が。


 自分の席の横に立っていた。


「これ」


 折り畳んだ紙。


 朝のメモ。


「あ」


「返す」


「見た?」


「うん」


 なつきは。


 紙を受け取る。


 少しだけ。


 恥ずかしい。


「何か書いた?」


「書いた」


「え?」


 なつきは。


 すぐに紙を開こうとする。


「今見る?」


 春樹が聞く。


「見る」


「教室で?」


「……誰もいない」


 完全には。


 いないわけではない。


 掃除当番が。


 教室の後ろで。


 箒を動かしている。


「そこ、まだゴミある」


「今やる」


「机動かして」


「重い」


「一人用机だよ」


 そんな声。


 でも。


 二人の近くには。


 誰もいない。


 なつきは。


 紙を開く。


 自分の文字。


『昨日、私が特別って言ったとき、出てた』


『だから、大國くんも顔に出るよ』


『私だけじゃない』


 その下。


 春樹の字。


『出てたなら、横田さんが見てたからだと思う』


 なつきは。


 止まった。


 一度読む。


 もう一度読む。


 意味を。


 すぐには。


 うまく飲み込めない。


「どういう意味?」


 聞く。


 春樹が。


 少しだけ困った顔をする。


「そのまま」


「そのままが分からない」


「昨日」


「うん」


「横田さんが、特別って言ったとき」


「うん」


「嬉しかった」


 教室の音が。


 少し遠くなる。


 箒の音。


 廊下。


 部活へ向かう声。


 窓の外。


 全部ある。


 でも。


 なつきには。


 春樹の声だけが。


 近く聞こえた。


「だから、顔に出た」


「うん」


「でも」


 春樹は。


 少しだけ視線を逸らす。


「誰に言われても、同じ顔にはならない」


 なつきは。


 紙を持ったまま。


 動けなかった。


 昨日。


『俺にとっては、特別』


 春樹が言った。


 自分も。


『特別』


 と返した。


 それだけでも。


 十分。


 昨日から。


 何度も思い出していた。


 なのに。


 今日。


 また。


 その言葉の周りへ。


 別の意味が増える。


「それ」


 なつきは。


 小さな声で言う。


「また、特別ってこと?」


 春樹が。


 少しだけ。


 なつきを見る。


「たぶん」


「たぶん?」


「昨日、分からないことは分からないって言うって決めたから」


「そこは分からないんだ」


「特別の中身は」


「中身?」


「どういう特別か」


 なつきは。


 少しだけ。


 息を止める。


 恋。


 好き。


 そういう言葉が。


 頭の端へ。


 ほんの一瞬。


 浮かぶ。


 でも。


 まだ。


 そこへ触れるのは。


 怖い。


 春樹も。


 同じなのかもしれない。


「じゃあ」


 なつきは。


 紙を見ながら言う。


「二つ並べても、一つにならないね」


「何が?」


「私の特別と、大國くんの特別」


 春樹が。


 少しだけ目を見開く。


 なつきは。


 昼休みの試作品を思い出す。


「どっちも特別って言ったけど」


「うん」


「同じ意味かは分からない」


「うん」


「でも」


 少しだけ。


 胸が苦しくなる。


 もし。


 違ったら。


 自分の特別と。


 春樹の特別。


 同じ言葉でも。


 中身が違ったら。


 どちらかが。


 いつか。


 傷つくかもしれない。


 その可能性に。


 初めて。


 少しだけ触れた。


 昨日は。


 同じ言葉を返せたことが。


 ただ嬉しかった。


 でも。


 今日。


 二つの試作品を比べた。


 同じ目的で作った。


 二つ。


 どちらも。


 良いところがあった。


 でも。


 同じではなかった。


 重ねれば。


 簡単に。


 一つの正解になるわけでもなかった。


「横田さん」


 春樹が呼ぶ。


「うん」


「今、顔に出てる」


「え?」


「不安そう」


「……出てた?」


「少し」


「大國くんも出るって言ったのに」


「俺も出る」


「今は?」


「たぶん」


「何が?」


 春樹は。


 少し黙る。


 それから。


「困ってる」


「何で?」


「横田さんが不安そうだから」


「それで困るの?」


「うん」


「どうして?」


「分からない」


 なつきは。


 春樹を見る。


 春樹も。


 なつきを見ている。


 二人とも。


 分からない。


 でも。


 逃げずに。


 そこにいる。


「じゃあ」


 なつきは。


 ゆっくり言う。


「今は、同じにしなくていい?」


「何を?」


「特別の意味」


 春樹は。


 少し考える。


「いいと思う」


「違っても?」


「違うかもしれない」


「怖くない?」


 聞いてから。


 なつきは。


 自分が。


 何を聞いているのか。


 少しだけ分かった。


 違うことが怖い。


 自分だけが。


 もっと先へ行っていたら。


 逆に。


 春樹だけが。


 自分の知らない場所にいたら。


 怖い。


 でも。


 春樹は。


 すぐには答えなかった。


 窓の外を見る。


 夕方の光。


 雨上がりの空。


 薄い雲。


 遠く。


 部活の掛け声。


 少しして。


 春樹は言う。


「昨日よりは、怖くない」


「昨日?」


「言わないままの方が怖かったから」


 なつきは。


 その言葉を。


 ゆっくり受け取る。


「言ったから?」


「うん」


「特別って?」


「うん」


「中身は分からなくても?」


「少なくとも」


 春樹は。


 少しだけ。


 なつきの持っている紙を見る。


「大事だってことは、同じだと思う」


 胸の奥。


 さっきまであった。


 小さな不安が。


 全部消えたわけではない。


 でも。


 少しだけ。


 形が変わる。


「大事」


 なつきが繰り返す。


「うん」


「それは同じ?」


「たぶん」


「また、たぶん」


「横田さんは?」


 聞き返される。


 なつきは。


 春樹を見る。


 昨日。


 卵焼きを交換した。


 今日。


 同じ一つを半分にした。


 ラボで。


 一緒に分からないと言った。


 失敗したものを。


 一緒に見た。


 顔に出た。


 紙を回した。


 待ってくれた。


 全部。


 小さなこと。


 でも。


 その小さなものが。


 少しずつ。


 重なっている。


「うん」


 なつきは。


 今度は。


 迷わず言った。


「大事は同じ」


 春樹の顔が。


 ほんの少しだけ。


 緩んだ。


 なつきは。


 すぐに指を差す。


「出た」


「何が?」


「顔」


「出てない」


「出た」


「どこ?」


「ここ」


 なつきは。


 自分の頬の横を指す。


「少し笑った」


「笑ってない」


「笑ったよ」


「横田さんも」


「私はいいの」


「何で?」


「先に言ったから」


「意味分からない」


「普通が違う」


「便利に使ってる」


「ラボで覚えた」


 二人で。


 小さく笑う。


 そのとき。


 教室の後ろから。


「ねえ」


 掃除当番の女子生徒が。


 箒を持ったまま言った。


「二人とも、帰らないなら机上げてくれる?」


「あ」


 なつきと春樹が。


 同時に振り返る。


「ごめん!」


「今やる」


「そこ掃きたい」


「ごめん」


 二人で。


 慌てて机を持ち上げる。


「そっち」


「うん」


「一緒に持つ?」


「一人用だから持てる」


「さっき聞いた」


「聞いてたの?」


「同じ教室だから」


 掃除当番の女子生徒が笑う。


「二人、ずっと話してるから」


 なつきの顔が。


 一気に熱くなる。


「ずっとじゃないよ」


「結構長い」


「ラボの話」


「ふーん」


「本当に」


「別に何も聞いてないけど」


「……うん」


「顔に出てるよ」


 なつきが固まる。


 春樹が。


 横で。


 少し笑った。


「大國くん」


「何?」


「今、笑った」


「笑ってない」


「笑った!」


「机運ぶ」


「逃げた」


「逃げてない」


 二人で。


 机を前へ運ぶ。


 掃除当番が。


 箒を通す。


 夕方の教室。


 少しずつ。


 人が減っていく。


 最後。


 鞄を持ち。


 二人で廊下へ出る。


 階段へ向かう。


 窓の外。


 雨上がりの空は。


 朝より。


 ずっと明るかった。


 水たまりには。


 夕方の光が映っている。


「明日」


 なつきが言う。


「うん」


「また作る?」


「たぶん」


「二つを一つにする?」


「そのままはしないと思う」


「そっか」


「良いところは残す」


「困ったところは?」


「変える」


「全部?」


「全部は無理かも」


「じゃあ、また分からない?」


「うん」


 なつきは。


 少しだけ笑った。


「それでもいいね」


「うん」


「前は、分からないの嫌だった」


「今は?」


「少し嫌」


「嫌なんだ」


「でも」


 階段の踊り場。


 なつきは。


 一度立ち止まる。


 窓から。


 校庭を見る。


「分からないまま、一緒に考えられるなら」


 春樹も。


 一段下で止まる。


「前よりは嫌じゃない」


「ラボ?」


 春樹が聞く。


 なつきは。


 少しだけ。


 春樹を見る。


「それも」


「それも?」


「うん」


「他は?」


「言わない」


「分からない?」


「分かってても言わない」


「それ、昨日のルールと違う」


「分からないことは分からないって言うだけ」


「分かってることは?」


「言うとは決めてない」


「ずるい」


「大國くんも使った」


「いつ?」


「朝」


「覚えてない」


「じゃあ、私の勝ち」


「競争じゃない」


「あ」


 二人とも。


 同時に。


 昼休みの言葉を思い出す。


 そして。


 笑った。


 二つ並べたからといって。


 一つの正解にはならない。


 違うものは。


 違うまま。


 そこにある。


 甘い卵焼きと。


 甘くない卵焼き。


 幅で伝える形と。


 止まって伝える形。


 なつきの特別と。


 春樹の特別。


 同じ言葉。


 同じ目的。


 同じように見えるもの。


 それでも。


 中身まで。


 全部同じとは限らない。


 だから。


 すぐに。


 一つへまとめなくていい。


 どちらかを。


 正解にしなくてもいい。


 二つ並べて。


 違うところを見る。


 良いところを見る。


 困るところを見る。


 分からないところは。


 分からないと言う。


 そして。


 必要なら。


 また。


 明日。


 一緒に考える。


 なつきは。


 春樹と並んで。


 階段を下りた。


 昨日より。


 少しだけ。


 近い気がした。


 でも。


 どのくらい近くなったのかは。


 まだ。


 分からない。


 それで。


 今は。


 良かった。

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