第144話 十一組ラボの分かりやすさは、誰かの普通とぶつかる
翌朝。
梅桜高校商業科棟二階。
十一組の教室には。
いつもの朝より、少しだけ早く登校した生徒たちの声が重なっていた。
窓際では。
男子生徒が二人、昨日のプロ野球の結果を話している。
「九回で逆転は熱いって」
「でも、あれ守備ミスだろ」
「勝ちは勝ち」
「結果しか見てないやつの言い方」
教室の後ろでは。
女子生徒が、鞄から小さな鏡を出し。
前髪を整えながら、隣の友人へ言う。
「今日、湿気やばくない?」
「朝から終わってる」
「まだ始まったばっかりだけど」
「髪は終わった」
廊下からは。
別のクラスの生徒が走っていく足音。
その直後。
「廊下は走らない!」
という教師の声。
続いて。
「走ってません、急いで歩いてます!」
という苦しい言い訳。
朝の校舎に。
昨日の放課後とは違う、明るく落ち着かない空気が満ちていた。
なつきは。
自分の席に座り。
鞄から筆箱を出したあと。
机の中へ手を入れた。
指先に触れたのは。
一枚の折り畳まれた紙だった。
「あ」
昨日。
十一組ラボの活動が終わったあと。
茜から渡された記録用紙。
美優と蓮に試してもらったとき。
どこで手が止まったか。
何を見たか。
どう思ったか。
それをまとめた紙だった。
昨夜。
家へ帰ってから。
一度は読んだ。
夕食のあと。
自分の部屋で。
鞄から出して。
机の上へ広げた。
でも。
全部は読めなかった。
文字を追うたび。
美優が。
『分からない』
と言ったときの声が蘇った。
責める声ではなかった。
困っている声でもなかった。
ただ。
本当に分からなかったから。
そう言っただけ。
それなのに。
なつきは。
胸の奥が、少しだけ痛くなった。
頑張って作ったものが。
誰かに伝わらない。
その事実は。
思っていたよりも、静かに残った。
紙を机の上へ出す。
折り目を開く。
上の方には。
茜の整った字で。
『初見確認・一回目』
と書かれている。
その下へ。
『説明を探す』
『上下の判断に、材料へ元から印刷されていた文字を使った』
『補強部分を、最初に触る場所だと思った』
『正しい開閉位置より、色の違う箇所へ先に目が行った』
『片づける順番が分からない』
細かく。
いくつも記録されていた。
なつきは。
一行ずつ読む。
読んで。
そのたびに。
昨日の教室を思い出す。
美優の指。
蓮の手。
自分たちが正解だと思っていた場所ではないところへ。
二人の手は伸びていった。
知らない人は。
作った側の考えた道を歩いてくれない。
それは。
昨日。
頭では分かった。
けれど。
朝になっても。
完全に飲み込めたわけではなかった。
「朝から難しい顔してる」
声をかけられ。
なつきは顔を上げた。
茜が。
自分の席の横に立っていた。
片手には。
いつもの黒いノート。
「難しい顔?」
「眉、少し寄ってる」
「こう?」
なつきは。
自分の眉間を指で触る。
「もっと自然だった」
「今、作った顔」
「分かる」
「難しい顔って、どんな顔?」
「今みたいに、考えすぎてる顔」
「考えてた」
「昨日の紙?」
「うん」
茜は。
なつきの机の上へ視線を落とした。
「家でも見た?」
「少し」
「全部読まなかったでしょう」
「なんで分かるの?」
「今、二枚目から開いてるから」
「あ」
なつきは。
紙の順番を見る。
最初の一枚は。
昨日、教室で読んだ部分。
自分が気になった二枚目だけ。
昨夜も途中まで見ていた。
「全部、今日読めばいいよ」
「でも」
「昨日のうちに全部分からなくても大丈夫」
「茜ちゃんは、もう分かってる?」
「何が?」
「直すところ」
「分かってない」
茜は。
迷わず答えた。
なつきは。
少し驚いて、茜を見る。
「分かってないの?」
「記録しただけ」
「でも、茜ちゃんって何でも分かってそう」
「そんなわけないでしょう」
「委員長なのに」
「委員長は万能じゃない」
「でも、いっぱい書いてた」
「書かないと忘れるから」
「茜ちゃんも忘れる?」
「人間だから」
「担当猫じゃない?」
「まだ言ってるの?」
茜は。
呆れたように言いながらも。
ほんの少しだけ笑った。
そのとき。
教室の後ろから。
大きな声が飛んできた。
「担当猫って何!?」
三浦だった。
いつ来たのか。
制服の上着を半分だけ脱ぎ。
椅子の背に引っかけながら、こちらを見ている。
「遠山のノートにいる秘密の猫だろ!」
「秘密ではない」
「見せて」
「嫌」
「一回だけ」
「嫌」
「昨日から気になって眠れなかった」
「嘘」
「五分くらいは気になった」
「短い」
三浦は。
なつきたちの机へ近づいてくる。
けれど。
茜は。
ノートを胸元へ寄せた。
「今、見るものはこっち」
なつきの机の紙を指す。
「昨日の記録」
「ああ」
三浦の表情が。
ほんの少しだけ変わった。
さっきまでの軽さが。
一段だけ下がる。
「美優ちゃんと蓮の?」
「うん」
「朝から見てたんだ」
「なつきが」
「三浦くんは見た?」
「帰る前に少し」
「どうだった?」
三浦は。
すぐには答えなかった。
机の紙を。
なつきと同じように上から見る。
「俺の絵が、役に立ってなかった」
「そこ?」
「そこも」
三浦は。
紙の端へ指を置く。
「でもさ」
「うん」
「俺たちが分かりやすいと思ってたもの、全然分かりやすくなかったんだな」
朝の教室の音が。
三人の周りだけ。
少し遠くなった。
三浦は。
普段。
考えていることを。
わざと冗談に変えることが多い。
重くなりそうな空気を。
笑いへ逃がす。
だから。
今のように。
飾らずに言うと。
言葉が、思っていたより強く残る。
「うん」
なつきは。
小さく頷いた。
「私も思った」
「へこんだ?」
「少し」
「俺も」
その言葉を聞いて。
なつきは。
三浦を見る。
「三浦くんも?」
「俺だって人間だから」
「茜ちゃんと同じこと言った」
「遠山もへこんだ?」
「少しは」
茜は答えた。
「でも、昨日の確認をしなかったら」
「うん」
「分かりにくいまま、もう一度会議へ持っていってた」
「それは、もっとへこむな」
三浦が言う。
「先生の前で、美優ちゃんと同じことされる」
「たぶん」
「全員の前で?」
「たぶん」
「昨日、見つかって良かった」
三浦は。
少しだけ肩を落としたまま。
それでも、最後にはそう言った。
なつきは。
その言葉を聞いて。
昨日の春樹の声を思い出す。
『見つかったね』
失敗した。
ではなく。
見つかった。
同じ出来事でも。
言葉を変えるだけで。
少しだけ、次を見やすくなる。
「今日、どうする?」
三浦が聞く。
「放課後?」
「うん」
「全体の形から見直す」
茜が言う。
「全部?」
なつきが聞く。
「全部を壊すわけじゃない。でも」
茜は。
記録用紙の一行を指でなぞる。
「今まで私たちは、説明を足せば分かりやすくなると思ってた」
「うん」
「でも、昨日は説明を探すところから迷ってた」
「じゃあ、説明増やしても意味ない?」
「意味はある。でも、説明を見る前に迷うなら、それだけでは足りない」
三浦が。
腕を組む。
「形から分かるようにする」
「そう」
「難しくない?」
「難しい」
茜は。
すぐに認めた。
その返事が。
なつきには、少し意外だった。
できる。
やる。
大丈夫。
ではなく。
難しい。
と、茜が言った。
でも。
その声に。
諦めはなかった。
「難しいけど、やる」
茜は続けた。
「そこが、今の課題だから」
「委員長っぽい」
三浦が言う。
「委員長です」
「それ、昨日も聞いた」
「今日も委員長だから」
そのやり取りに。
なつきは笑った。
胸の中にあった重さが。
少しだけ動いた。
そのとき。
教室の前方から。
「何の話?」
春樹の声がした。
なつきは。
反射的に顔を上げる。
春樹は。
鞄を肩にかけたまま。
自分の席の近くに立っていた。
いつから聞いていたのか。
表情はいつもと大きく変わらない。
ただ。
なつきの机に広げた紙を見ている。
「昨日の記録」
茜が答える。
「朝から反省会」
三浦が言う。
「反省会じゃない」
「じゃあ、落ち込み共有会」
「もっと違う」
春樹は。
自分の鞄を席へ置き。
なつきたちの机へ近づいた。
「横田さん」
「うん」
「全部読んだ?」
「まだ」
「俺もまだ」
「大國くんも?」
「板倉が持って帰ったから」
「あ」
昨日。
記録用紙は複数作られていた。
なつきは茜から。
春樹は紅秋から。
それぞれ渡されたらしい。
「読んで、どうだった?」
なつきが聞く。
「上下を文字で判断したところ」
「蓮の?」
「うん。俺たちは材料の文字を見てなかった」
「うん」
「でも、初めて見る人は見る」
「そこ、びっくりした」
「俺も」
春樹は。
紙へ視線を落としたまま答える。
「今まで、使う人の視線を考えてたつもりだった」
少しだけ。
声が低くなる。
「つもりだった?」
「作る側の視線から、使う人を想像してただけだった」
茜が。
春樹を見る。
三浦も。
口を閉じる。
なつきは。
その言葉を、頭の中で繰り返した。
作る側の視線から。
使う人を想像していた。
だから。
想像の中の使う人は。
自分たちが見てほしい場所を見る。
自分たちが触ってほしいところへ手を伸ばす。
知らない人ではなく。
作る側に都合のいい人になっていた。
「じゃあ」
なつきは。
紙の上へ指を置く。
「どうすれば、本当に使う人の視線になる?」
誰も。
すぐには答えなかった。
朝の教室には。
生徒たちの声が満ちている。
笑い。
机を動かす音。
黒板に日直が日付を書く音。
窓を開けたときに鳴る、少し古い金属音。
その中で。
四人の間だけ。
考えるための沈黙があった。
「他の人に見てもらう」
春樹が言う。
「昨日みたいに?」
「うん」
「毎回?」
三浦が聞く。
「毎回は無理でも、形を大きく変えたとき」
「誰に?」
「違う人」
「美優ちゃんと蓮じゃなくて?」
「一度見たから、次は初見じゃない」
「じゃあ、また誰か拾う?」
「人を拾うって言うな」
紅秋の声が飛んできた。
いつの間にか。
紅秋も登校していた。
鞄を自分の机へ置きながら。
こちらへ歩いてくる。
「初見確認の候補、もう考えてある」
「もう?」
三浦が言う。
「昨日、家で?」
「帰りの電車で」
「仕事が早い」
「お前が遅い」
「何もしてないって決めつけるな」
「何かしたのか?」
「昨日の夜、三浦家で正式作戦名を考えた」
「何になった?」
なつきが聞く。
三浦は。
少しだけ胸を張る。
「失敗歓迎・誰でも迷わない大作戦」
「長い」
茜が即座に言う。
「まだ仮だから!」
「仮でも長い」
「じゃあ、誰でも歓迎作戦」
「意味が変わった」
「分かりやすさ革命」
「大きすぎる」
「十一組ラボ・ザ・セカンド」
「何が二番目?」
「分からない」
「本人が分からない名前をつけないで」
次々に返され。
三浦が。
分かりやすく肩を落とす。
その横で。
紅秋は。
持っていた紙を机へ置いた。
「今日、昼休みに一回話す」
「放課後じゃなくて?」
なつきが聞く。
「放課後にいきなり作り始めると、また同じことになる」
「どういうこと?」
「昨日、問題が見つかった。だから、すぐ形を直したくなる」
「うん」
「でも、何を直すかが整理できてない」
紅秋は。
記録用紙を指した。
「補強部分の色を消す。上下を形で分ける。説明の位置を変える。片づける順番を示す。全部やったら、何が効いたのか分からなくなる」
「全部直した方がよくない?」
三浦が聞く。
「良くなるとは限らない」
「え?」
「一つ直したことで、別のところが分かりにくくなる可能性がある」
なつきは。
昨日の三度目の確認を思い出した。
上下は分かるようになった。
でも。
片づける順番で。
また止まった。
一つ進めるようになると。
その先の迷いが見える。
「じゃあ、一個ずつ?」
「優先順位を決めて、一つずつ試す」
紅秋が答える。
「時間かかるな」
三浦が言う。
「かかる」
「今日中に完成しない?」
「しないと思う」
「明日も?」
「たぶん」
「明後日も?」
「必要なら」
紅秋は。
淡々と言った。
三浦は。
天井を見上げる。
「終わらないじゃん」
「試作だから」
春樹が言う。
「でも、締め切りはあるだろ?」
「ある」
茜が答える。
「次の会議まで、あと二週間」
「二週間しかない」
「二週間ある」
紅秋と春樹が。
ほとんど同時に言った。
教室の空気が。
少し止まる。
三浦が。
二人を交互に見る。
「どっち?」
「考え方の違い」
茜が言う。
「板倉くんは、時間が少ないから順番を決めたい」
「大國くんは、二週間あるから試せるって思ってる」
なつきが続ける。
「たぶん」
「うん」
春樹が頷く。
「そうだな」
紅秋も。
少しだけ考えてから認めた。
「両方必要」
茜がまとめる。
「焦らない。でも、無駄にはしない」
「やっぱり委員長」
三浦が言う。
「今日も委員長です」
「三回目」
笑いが起こる。
その途中。
予鈴が鳴った。
教室のあちこちで。
「やば」
「先生来る」
「席戻れ」
という声が上がる。
なつきたちも。
紙を慌ててまとめる。
茜は。
自分のノートへ挟む。
紅秋は。
昼休みに使うらしい紙を、透明なファイルへ入れる。
三浦は。
自分の席へ戻りながら。
「昼休み、作戦会議な!」
と声を上げた。
「名前はまだ仮!」
茜が返す。
「そこ!?」
教室の扉が開く。
担任が。
出席簿を持って入ってきた。
「朝から元気だな」
「十一組ラボです!」
三浦が答える。
「聞いてない」
担任の一言で。
教室中に笑いが広がった。
なつきは。
自分の席へ座る。
前を向く。
けれど。
机の端に。
春樹がさっき置いた指の跡があるような気がして。
ほんの少しだけ。
視線を落とした。
作る側の視線から。
使う人を想像していた。
その言葉が。
まだ胸の中に残っている。
人のことを。
分かったつもりになる。
相手は。
こう思うはず。
こう動くはず。
こう言えば伝わるはず。
それは。
試作品だけの話ではない気がした。
自分は。
春樹のことを。
どこまで分かっているのだろう。
近くにいなくても見ている。
昨日。
そう言われた。
でも。
それが何を意味していたのか。
なつきは。
自分に都合のいい答えを。
勝手に作ろうとしているのかもしれない。
嬉しい言葉だったから。
特別な意味があると思いたい。
でも。
春樹は。
ただ友人として言っただけかもしれない。
ラボの仲間だから。
同じクラスだから。
席が近いから。
そういう理由かもしれない。
分からない。
相手の考えは。
形を見ただけでは。
正しく分からない。
「横田」
担任に呼ばれ。
なつきは。
はっと顔を上げた。
「はい」
「出席確認中だぞ」
「あ」
教室のあちこちから。
小さな笑い声が起こる。
「朝から考え事か?」
「ちょっと」
「授業中は戻ってこいよ」
「はい」
担任は。
呆れたように出席簿へ視線を戻す。
後ろから。
三浦の小さな声が聞こえた。
「朝から難しい顔」
「聞こえてる」
茜が。
さらに小さな声で注意する。
なつきは。
少しだけ頬を熱くしながら。
前を向いた。
昼休み。
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると。
教室は。
一気に授業の空気を失った。
椅子を引く音。
弁当箱を出す音。
購買へ走ろうとする生徒を。
「廊下は走らない!」
と止める茜の声。
「まだ教室!」
「教室でも走らない!」
そんなやり取りが。
朝と同じように響く。
なつきは。
机を少し後ろへ向ける。
いつものように。
茜と弁当を食べるため。
けれど今日は。
紅秋。
春樹。
三浦。
そして。
昨日のラボ作業へ参加していた数人も。
弁当を持って集まってきた。
「作戦会議しながら食べるの?」
女子生徒が聞く。
「食べ終わってから」
茜が答える。
「先に話したら、ご飯冷める」
「委員長が現実的」
「当然でしょう」
「ラボより弁当優先?」
「昼休みは短いから」
三浦が。
なつきの机の横へ椅子を持ってくる。
「今日、パン一個しかない」
「また?」
なつきが聞く。
「朝、寝坊した」
「購買行かなかったの?」
「走るなって遠山に止められた」
「歩いて行けばいいでしょう」
「もう売り切れる」
「それは時間の使い方の問題」
「委員長が厳しい」
なつきは。
自分の弁当箱を開ける。
卵焼き。
小さなハンバーグ。
ブロッコリー。
ご飯の上には。
少しだけ海苔。
三浦が。
横から覗き込む。
「うまそう」
「見ないで」
「一個」
「駄目」
「卵焼きの端でいい」
「駄目」
「横田、前はくれたじゃん」
「前にあげたら、次も欲しいって言ったから」
「学習された」
「私も学習するよ」
「ラボの成果が昼飯にも」
春樹が。
三浦の隣から言う。
「何も関係ない」
「三浦が同じ手順で来るから」
「俺、分かりやすい人間?」
「かなり」
紅秋が答える。
笑いが起こる。
三浦は。
不満そうにパンの袋を開けた。
なつきは。
笑いながら。
卵焼きを一つ箸で持ち上げる。
少しだけ迷い。
それを。
三浦ではなく。
茜の弁当箱へ入れた。
「なに?」
茜が聞く。
「いつも手伝ってくれてるから」
「急に?」
「うん」
「ありがとう」
三浦が。
目を見開く。
「遠山にはあげるの!?」
「茜ちゃんは、次も欲しいって言わないから」
「言わない人が得する世界!」
「三浦くんは、言いすぎ」
「大國、お前も何かくれ」
「嫌」
「即答!」
「自分で買えばよかった」
「俺にだけ全員厳しくない?」
「分かりやすいから」
春樹が言う。
また。
笑いが広がる。
その笑いが落ち着いたあと。
なつきは。
春樹の弁当を見る。
ご飯。
唐揚げ。
煮物。
小さなトマト。
きれいに詰められている。
「大國くんのお弁当、今日もちゃんとしてる」
「今日も?」
「前も見た」
「いつ?」
「この前」
「覚えてない」
「私は覚えてる」
春樹の箸が。
少し止まった。
なつきは。
特に意識せず続ける。
「唐揚げ、前も入ってた」
「好きだから」
「毎日?」
「毎日ではない」
「お母さんが作ってる?」
「うん」
「いいな」
「横田さんのも、作ってもらってるでしょう」
「うん。でも、うちの卵焼きは甘い」
「うちは甘くない」
「交換する?」
言ったあと。
春樹が。
なつきを見る。
その視線を受けて。
なつきも。
自分が言ったことを理解した。
「……卵焼き」
「分かってる」
「今、変だった?」
「変ではない」
三浦が。
すぐに顔を出す。
「交換するなら俺も」
「三浦くんは入ってない」
「会話に参加しただけ!」
茜が。
溜め息をつく。
「食べ終わってから話すって言ったでしょう」
「今、卵焼き会議」
「違う」
なつきは。
自分の卵焼きを一つ見た。
甘い。
春樹のは。
甘くない。
違うものを。
交換する。
ただそれだけのこと。
なのに。
少しだけ。
胸が落ち着かない。
「本当に交換する?」
春樹が聞いた。
「いいの?」
「横田さんが嫌じゃなければ」
「嫌じゃない」
なつきは。
箸で卵焼きを一つ取る。
春樹も。
自分の弁当から卵焼きを一つ取った。
どこへ置くか。
二人とも。
一瞬だけ迷う。
直接。
相手の弁当へ入れる。
それだけなのに。
周りに人がいると。
妙に目立つ気がした。
「俺の紙皿使う?」
三浦が。
購買のパンを置いていた薄い紙を差し出す。
「いらない」
春樹が答える。
「衛生的に」
「お前のパン置いてあっただろ」
「仲介役になろうと思って」
「必要ない」
紅秋が言う。
結局。
なつきが。
春樹の弁当箱の端へ。
自分の卵焼きを置く。
春樹も。
なつきの弁当箱へ。
卵焼きを入れた。
その瞬間。
三浦が。
小さく。
「おお」
と声を出した。
「なに?」
なつきが聞く。
「いや、文化交流」
「卵焼きだけど」
「家庭の味交換」
「大げさ」
春樹が言う。
でも。
少しだけ。
耳が赤いように見えた。
なつきは。
自分の弁当箱へ入った卵焼きを見る。
形は。
自分のものより少し細い。
色も。
少し薄い。
一口食べる。
「あ」
「どう?」
春樹が聞く。
「甘くない」
「言った」
「でも、おいしい」
「そう」
「大國くんは?」
春樹も。
なつきの卵焼きを食べる。
少しだけ。
目を細めた。
「甘い」
「言った」
「でも、おいしい」
「同じこと言った」
「本当だから」
その言葉に。
なつきは。
少し笑った。
甘い。
甘くない。
どちらが正しいわけでもない。
同じ卵焼きでも。
家によって。
普通が違う。
それを。
食べてみるまで。
相手には分からない。
「普通って違うね」
なつきが呟く。
「卵焼き?」
茜が聞く。
「うん。それも」
「それも?」
「昨日の試作品も」
なつきは。
自分の卵焼きと。
春樹の卵焼きを見比べる。
「私たちには普通だった使い方が、美優たちには普通じゃなかった」
教室の中の会話が。
少しずつ止まる。
三浦も。
パンを持ったまま。
なつきを見た。
「だから分かりにくかった?」
「たぶん」
なつきは。
言葉を探しながら続ける。
「説明を見れば分かると思ってたけど。美優は、まず説明を探したでしょう」
「うん」
「蓮は、材料に書いてある文字を見た」
「うん」
「私たちは、そんなところ見てなかった」
春樹が。
静かに頷く。
「普通が違ったから」
「そうかも」
「じゃあ」
三浦が。
パンの袋を折り畳みながら言う。
「誰の普通に合わせればいいんだ?」
その質問に。
全員が黙った。
美優の普通。
蓮の普通。
なつきたちの普通。
他の誰かの普通。
人によって違うなら。
全部に合わせることはできない。
「誰でも分かるようにするって」
三浦は。
さっきまでより真剣な顔で続ける。
「無理じゃない?」
その言葉は。
冗談ではなかった。
だから。
簡単に否定できる人もいなかった。
茜が。
箸を置く。
紅秋も。
弁当箱の蓋を閉じる前に、手を止めた。
「全員に同じように分かるものは難しい」
紅秋が言う。
「じゃあ、どうする?」
三浦が聞く。
「迷ったときに、間違った使い方をしにくくする」
「分かるじゃなくて?」
「分かる方がいい。でも、全部の人が同じところを見るとは限らない」
紅秋は。
昨日の記録用紙を取り出す。
「だから、違う見方をされても危なくない形にする」
「安全性?」
「まずは」
「使えなくても?」
「使えないなら、聞けるようにする」
茜が続けた。
「聞ける?」
「説明を見つけやすくする。問い合わせ先を分かるようにする。迷ったら止まれるようにする」
「止まれる?」
なつきが聞く。
「間違ったまま進めない形」
「置く向きを間違えたら、先に進めないようにする?」
「そう」
春樹が言った。
「昨日、蓮が逆向きに置いたとき。力を入れたら壊れそうだった」
「うん」
「逆向きなら、最初から入らない形にすればいい」
「それなら、止まる」
「でも」
三浦が。
少し眉を寄せる。
「止まった人は、分からないままだろ」
「だから、次に見る場所を作る」
茜が言う。
「説明?」
「うん」
「じゃあ、形と説明の両方?」
「両方」
「最初からそうしてたじゃん」
「そうだけど」
なつきは。
話しながら。
違いを考えた。
前までは。
正しい手順を進んでもらうために。
説明をつけていた。
でも。
今は。
間違った道へ進んだとき。
どこで止まり。
どこを見れば戻れるか。
そこまで考えようとしている。
「前は」
なつきは。
ゆっくり口を開く。
「正解だけ作ってた」
「正解?」
三浦が聞く。
「正しく使う人だけ」
「でも、使い方は正しく使うものじゃない?」
「そうだけど」
なつきは。
うまく言えず。
一度、言葉を止める。
春樹が。
なつきの方を見る。
急かさない。
代わりに答えもしない。
待ってくれている。
「間違える人がいるって」
なつきは続ける。
「考えてなかった」
教室の中に。
静かな空気が落ちる。
「説明を読まない人」
「見る場所が違う人」
「逆に置く人」
「順番を飛ばす人」
一つずつ。
言葉にする。
「そういう人が悪いんじゃなくて」
なつきは。
昨日の美優と蓮を思い浮かべた。
二人は。
ふざけていたわけではない。
真面目に見て。
真面目に迷った。
「普通に使おうとして、間違える人がいる」
茜が。
静かに頷いた。
「それを前提にする」
「うん」
「じゃあ」
三浦が。
黒板の方を見る。
「作戦名、決まったな」
全員が。
三浦を見る。
「間違えても大丈夫作戦」
「長い」
茜が言う。
「また!?」
「でも」
なつきは。
少し笑った。
「前より分かりやすい」
「だろ!?」
三浦が。
急に元気を取り戻す。
「ついに横田から高評価!」
「名前が、ね」
「仮じゃない?」
女子生徒が聞く。
茜は。
少し考える。
「仮」
「また仮!」
「実際に形にしてから」
「名前まで試作!」
「ラボだから」
春樹が言う。
三浦は。
頭を抱えた。
けれど。
笑っていた。
昼食を終え。
机の上を片づけたあと。
紅秋が。
持ってきた紙を広げた。
そこには。
三つの案が描かれていた。
一つ目。
上下で幅を変える。
二つ目。
逆向きでは差し込めない突起をつける。
三つ目。
最初に触る場所へ。
手の形に近いくぼみをつける。
「これ、電車で考えたの?」
三浦が聞く。
「うん」
「寝なかった?」
「寝る時間じゃなかった」
「俺なら寝る」
「知ってる」
なつきは。
三つの案を見る。
「どれが一番いい?」
「それを今日決める」
紅秋が答える。
「全部作らないの?」
「全部作ってもいい。でも、時間と材料がかかる」
「一個だけ?」
「まず二つ」
「どうして二つ?」
「比較できるから」
春樹が言う。
「一つだけだと、良いのか悪いのか分かりにくい」
「二つなら?」
「どっちが迷いにくいか見られる」
「なるほど」
茜が。
黒板の端へ。
三つの案を書き写す。
周りのメンバーも。
自分の席を離れ。
集まってくる。
「幅変えるのが一番簡単じゃない?」
「材料費もほぼ同じ」
「でも、見た目で分かるかな」
「触れば分かる」
「触る前に逆に置く人は?」
「置いたら入らない形にする」
「それ、二番と同じじゃない?」
「少し違う」
「どこが?」
「幅だけなら加工が楽。突起は壊れる可能性がある」
「でも、突起の方が分かりやすい」
「引っかかったら無理に押す人もいる」
「蓮みたいに?」
「本人いないのに使われてる」
笑いが起こる。
でも。
議論は止まらない。
「手の形のくぼみは?」
「ここに置いてくださいって分かりやすい」
「左利きの人は?」
女子生徒の一人が言った。
全員が。
少し止まる。
「……あ」
なつきが声を出す。
「右手の形で考えてた」
「左手だと使いにくいかも」
「両方つける?」
「それだと形が大きくなる」
「手の形じゃなくて、丸いくぼみ」
「それなら左右関係ない」
「でも、何のくぼみか分からない」
「説明の印をつける?」
「また説明が増える」
意見が。
重なる。
一つの案へ。
すぐに決まらない。
誰かが良いと言えば。
別の誰かが問題を出す。
その問題へ答えようとすると。
また別の問題が見つかる。
教室の空気は。
少しずつ熱を持っていった。
「全部の人に合わせてたら、何も作れないって」
三浦が言う。
「だから優先順位を決める」
紅秋が返す。
「安全が一番?」
「うん」
「次は?」
「初見で逆向きに置かないこと」
「その次は?」
「説明を見つけやすいこと」
「左利きは?」
「それも大事」
「全部大事じゃん」
三浦の声が。
少し大きくなる。
「だから難しい」
茜が答える。
「難しいで終わったら進まないだろ」
「終わってない」
「でも、ずっと話してるだけじゃん」
教室の空気が。
わずかに硬くなる。
三浦は。
苛立っているというより。
焦っていた。
昨日の失敗を。
早く直したい。
分かりやすいものへ変えたい。
でも。
話せば話すほど。
問題が増える。
何が正しいのか。
見えなくなっている。
「作って試せばいい」
三浦が言う。
「今のままでもいいから」
「今のまま作ると」
紅秋の声も。
少しだけ低くなる。
「昨日と同じになる」
「昨日は作ったから問題が見つかったんだろ」
「考えずに作れとは言ってない」
「でも、考えすぎてる」
「お前が急ぎすぎてる」
沈黙。
教室の中に。
二人の声だけが残った。
周りで弁当を食べていた別の生徒たちも。
少しだけこちらを見る。
朝から。
十一組ラボが何かしていることは。
クラス全体に知られている。
でも。
こうして意見がぶつかる場面を。
見慣れているわけではない。
三浦は。
紅秋を見る。
紅秋も。
視線を逸らさない。
いつものような。
軽い言い合いではない。
なつきは。
二人の間の空気が。
少しずつ細く尖っていくのを感じた。
「三浦くん」
茜が声をかける。
「なに」
「急いでる理由は?」
「理由?」
「今日、形にしたい?」
「したい」
「どうして?」
三浦は。
すぐには答えなかった。
机の上の案を見る。
黒板を見る。
周りの視線を感じたのか。
少しだけ。
口元を引き結ぶ。
「昨日」
三浦は。
やがて言った。
「分からないって言われたとき」
声が。
さっきより小さくなる。
「俺の絵も、形も、全部役に立ってない気がした」
教室が。
静かになる。
「だから」
三浦は。
片手で自分の髪をかく。
「今日、すぐ直したかった」
なつきは。
その横顔を見る。
三浦は。
明るい。
騒がしい。
何でも冗談にする。
失敗しても。
『次、次』
と笑っていそうに見える。
でも。
昨日。
本当は。
ちゃんと傷ついていた。
自分の描いたものが。
役に立たなかった。
そのことを。
気にしていた。
「役に立ってなかったわけじゃない」
紅秋が言う。
声は。
さっきより少し柔らかかった。
「でも、分からなかった」
「絵だけの問題じゃない」
「分かってる」
三浦は答える。
「分かってるけど。俺が担当してたから」
また。
短い沈黙。
紅秋は。
机の紙へ視線を落とした。
「俺も」
「え?」
「材料費の計算ばかり見てた」
三浦が。
紅秋を見る。
「安くすることを優先して。補強部分の色が違うことは、問題だと思わなかった」
「板倉も?」
「俺も、作る側の普通で見てた」
紅秋は。
言い終えたあと。
少しだけ息を吐く。
「だから、急いでまた同じことをしたくない」
三浦は。
すぐには何も言わなかった。
ただ。
紅秋の紙を見る。
「……じゃあ」
少しして。
三浦が言う。
「話したあと、ちゃんと作る?」
「作る」
「今日、一個は?」
「一個は」
「二個は?」
「時間があれば」
「三個」
「無理」
「そこは変わらないな」
空気が。
少しだけ緩む。
三浦の口元も。
ほんの少し上がった。
クラスのあちこちから。
小さな息が漏れる。
見ていた生徒たちも。
再び自分たちの会話へ戻り始める。
なつきは。
胸の奥で。
詰めていた息を吐いた。
「三浦くん」
「なに?」
「絵、また描いて」
「いいの?」
「うん」
「俺ので?」
「昨日の絵、分からなかったけど」
「そこは言わなくても」
「でも」
なつきは。
少し笑う。
「どこが分からなかったか、もう分かったでしょう」
三浦は。
なつきを見る。
それから。
少しだけ照れたように。
鼻の下を指でこすった。
「じゃあ、次は五本指で描く」
「まだそこ?」
「大事」
「左右どっちの手?」
女子生徒が聞く。
三浦の動きが止まる。
「……両方描く」
「早速増えた」
「芸術担当は忙しい」
教室に。
笑いが戻った。
昼休みの残り時間。
全員で。
最初に作る案を決めた。
上下の幅を変える案。
そして。
逆向きでは途中までしか入らず。
その場所に説明の印が見える形。
二つを組み合わせる。
「一つずつじゃなかった?」
三浦が聞く。
「上下の幅だけ変えた場合と」
紅秋が紙を指す。
「幅を変えて、止まる位置に印をつけた場合。二種類作る」
「比較できる」
春樹が言う。
「これなら、どっちが効いたか分かる」
「なるほど」
茜が。
作業表へ書き込む。
「放課後、二班に分かれる」
「誰と誰?」
「幅だけの方」
茜は。
紅秋。
三浦。
女子生徒二人の名前を書く。
「幅と印の方」
春樹。
なつき。
茜。
残りの男子生徒一人。
「また大國くんと横田さん一緒」
三浦が言う。
「設計を考えた人を分けただけ」
茜が答える。
「俺、何も言ってない」
「言い方で分かる」
「委員長、察しが良すぎる」
なつきは。
少しだけ顔を熱くしながら。
黒板を見る。
自分の名前。
そのすぐ上に。
『大國』
と書かれている。
昨日も。
隣で作った。
今日も。
一緒に作る。
それだけ。
ただの班分け。
でも。
その文字の近さが。
少し嬉しい。
そんなふうに思う自分が。
昨日よりも。
少しだけ分かるようになってきた。
放課後。
最後の授業が終わると。
教室には。
昼休みに決めた通り。
十一組ラボのメンバーが残った。
窓から入る光は。
昨日より少し白く。
空には薄い雲が広がっている。
校庭から。
運動部の声が届く。
廊下には。
部活へ向かう生徒たちの足音。
「今日もやってる」
「十一組ラボ?」
「昨日、特進の人来てたよね」
「何作ってるんだろ」
通り過ぎる生徒たちの声が。
開いた扉から入ってくる。
教室の中央には。
二つの机の島ができていた。
左。
紅秋たちの班。
右。
春樹たちの班。
同じ材料。
同じ道具。
でも。
作る形は。
少しだけ違う。
「競争?」
三浦が言う。
「違う」
紅秋が答える。
「早くできた方が勝ち」
「違う」
「きれいにできた方」
「比較は使いやすさ」
「面白さは?」
「不要」
「俺の班、不利!」
「面白さを入れようとするからだ」
笑いながら。
作業が始まる。
なつきは。
厚紙を押さえる。
春樹が。
定規を当てる。
昨日と似た位置。
似た手順。
でも。
今日は。
ただ線を引く前に。
二人で紙の向きを確認した。
「こっちが上?」
なつきが聞く。
「うん」
「どうして?」
「幅が狭いから」
「知らない人にも分かる?」
「今は分からないかも」
「じゃあ、分かるようにする?」
「そう」
春樹は。
線を引く前に。
紙へ小さな丸を描く。
「これは?」
「印の仮」
「丸?」
「分かりにくい?」
「何の丸か分からない」
「じゃあ、矢印」
「矢印だけだと、どっち向き?」
「上向き」
「上って、立てたときの?」
「そう」
「置いたときは?」
春樹の手が止まる。
なつきも。
自分で聞きながら。
少し驚いた。
昨日までなら。
矢印をつければ分かると思っていた。
でも。
置く向きによって。
上は変わって見える。
「横田さん」
「うん」
「今の、記録して」
「え」
「迷うところ」
「あ」
なつきは。
慌ててノートを開く。
『矢印の向きは、置き方で意味が変わる』
書く。
字が。
少し斜めになる。
「茜ちゃんみたいに、きれいに書けない」
「読めればいい」
「大國くん、読める?」
「うん」
「本当?」
「横田さんの字、前より分かる」
「前より?」
「簿記のノートより」
「あれは急いでたから」
「数字が猫みたいだった」
「猫?」
「三が耳に見えた」
「担当猫」
なつきは笑う。
春樹も。
少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、矢印じゃなくて」
なつきは。
紙の上へ指を置く。
「広い方を下にする形そのものを見せる?」
「どうやって?」
「置く場所に、同じ形を描く」
「本体じゃなくて、台に?」
「うん」
「でも、台がない場所では使えない」
「あ」
「でも、考え方は使える」
「どこに?」
「本体の中に、同じ形をつける」
「どういうこと?」
春樹は。
別の紙を取り。
簡単な図を描く。
上が狭い。
下が広い。
同じ形の枠へ。
合わせて入れる。
「鍵みたい」
なつきが言う。
「鍵?」
「合う形じゃないと入らない」
「それ」
「鍵にする?」
「鍵ではない」
「名前」
「名前はあと」
「仮?」
「全部仮」
向かいの班から。
三浦の声が飛んでくる。
「そっち、楽しそうだな!」
「作業して」
茜が言う。
「こっちもしてる!」
「手が止まってる」
「今、相手班の偵察」
「競争じゃない」
「気持ちは競争」
「勝手にしないで」
教室中に。
笑いが広がる。
けれど。
作業は。
前よりゆっくり進んだ。
一つ線を引く前に。
誰が。
どう見るか。
逆向きなら。
どうなるか。
左手なら。
どう触るか。
説明を見なかったら。
どこで止まるか。
何度も話す。
そのたび。
手が止まる。
昨日までなら。
進んでいないように見えたかもしれない。
でも。
今日は。
止まることも作業だった。
なつきは。
春樹の隣で。
紙を押さえながら。
ふと聞いた。
「大國くん」
「うん」
「普通って、何だと思う?」
春樹は。
鉛筆を持ったまま。
なつきを見る。
「急に?」
「卵焼きで思った」
「甘いか、甘くないか?」
「うん。それと、試作品」
春樹は。
すぐには答えなかった。
窓の外から。
体育館へ向かう生徒の笑い声が聞こえる。
机の向かいでは。
茜が材料を並べている。
少し離れた場所で。
三浦が。
切る位置を間違え。
紅秋に止められている。
「自分が慣れてること」
春樹が言った。
「慣れてること?」
「何も考えなくてもできること」
「じゃあ、人によって違う?」
「違うと思う」
「大國くんの普通と、私の普通も?」
「違う」
「例えば?」
「卵焼き」
「それ以外」
なつきは。
少しだけ身を乗り出す。
春樹は。
考えるように視線を紙へ落とした。
「本を読む時間」
「どう違う?」
「俺は静かな方がいい」
「私は?」
「横田さんは、話しかける」
「本読んでても?」
「うん」
「邪魔?」
聞いたあと。
なつきは。
少しだけ不安になった。
図書室でも。
教室でも。
春樹が本を読んでいると。
何度も話しかけた。
春樹は。
いつも本を閉じて。
返事をしてくれた。
でも。
本当は。
静かにしてほしかったのかもしれない。
「邪魔ではない」
春樹は答えた。
「でも、静かな方がいいんでしょう?」
「一人で読むなら」
「私がいると?」
「話しかけられてもいい」
なつきは。
春樹を見る。
春樹は。
目を逸らさなかった。
「それ」
なつきは。
少しだけ声を小さくする。
「大國くんの普通?」
「横田さんだけ」
鉛筆の先が。
紙の上で止まっていた。
なつきの胸も。
一瞬。
止まったように感じた。
横田さんだけ。
その言葉が。
どういう意味なのか。
すぐには分からない。
分からないのに。
心臓だけが。
先に反応する。
昨日。
作る側の視線から。
使う人を想像していた。
今日。
人の普通は違うと話した。
だから。
春樹の言葉を。
自分に都合よく決めてはいけない。
そう思う。
でも。
「それって」
なつきは。
聞きかける。
春樹の視線が。
少し揺れる。
教室の音が。
遠くなる。
「なに?」
春樹が聞く。
なつきは。
言葉を探す。
横田さんだけ。
どうして。
特別だから。
そう聞いてしまったら。
何かが。
変わる気がした。
今の距離。
隣に座れる距離。
自然に話しかけられる距離。
その形が。
まだ完成していないのに。
無理に答えを出したら。
壊れるかもしれない。
「……本、読んでるとき」
なつきは。
少しだけ逃げるように言った。
「また話しかけてもいい?」
春樹は。
すぐには答えなかった。
少しだけ。
困ったように。
でも。
柔らかく笑う。
「いいよ」
「何回でも?」
「多すぎなければ」
「何回から多い?」
「数えてない」
「じゃあ、分からない」
「俺も分からない」
「普通が違う」
「たぶん」
二人は。
小さく笑った。
答えは。
まだ聞けなかった。
でも。
聞けなかったことを。
失敗だとは思わなかった。
今は。
まだ聞けない。
それを。
知ることができた。
「横田さん」
「うん」
「線、引いていい?」
「あ」
なつきは。
紙を押さえ直す。
今度は。
力を入れすぎないように。
春樹が。
定規を当てる。
鉛筆の線が。
二人の間を。
ゆっくり真っ直ぐに進んだ。
それから。
しばらくして。
二つの試作品が完成した。
完全な完成ではない。
形を比べるための。
仮のもの。
一つは。
上下の幅だけを変えたもの。
もう一つは。
幅を変え。
逆向きでは途中で止まり。
その止まった位置に説明が見えるもの。
机の中央に。
二つ並べる。
メンバー全員が。
周りへ集まった。
「見た目は」
三浦が腕を組む。
「こっちの方が格好いい」
「格好良さで決めない」
紅秋が言う。
「でも、使う人が選ぶなら見た目も大事だろ」
「今は比較項目に入れてない」
「次回入れよう」
「必要なら」
「板倉、少し柔らかくなった」
「お前が少し真面目になったからだ」
「褒めた?」
「事実」
三浦が。
少し嬉しそうに笑う。
茜は。
二つの試作品を見比べる。
「今日、もう初見確認はできない」
「誰か探す?」
なつきが聞く。
「昨日と同じ人は駄目」
「まだ残ってる人」
「急だと難しい」
「じゃあ、明日?」
「うん」
「誰に頼む?」
三浦が。
周りを見る。
「クラスの誰か?」
その言葉に。
近くで。
帰る準備をしていた生徒たちが。
少しだけ反応する。
「俺、やろうか?」
朝。
プロ野球の話をしていた男子生徒が言った。
「見てなかった?」
「遠くからしか見てない」
男子生徒は。
机の横に鞄を置いたまま。
二つの試作品を覗き込んだ。
「使い方は?」
紅秋が聞く。
「分からない」
「昨日の説明、聞いてない?」
「聞いてない。何か作ってるなとは思ってたけど」
「それなら候補にはなる」
茜が言う。
「時間ある?」
「十分くらいなら」
その隣で。
同じく帰る準備をしていた男子生徒も。
鞄の持ち手から手を離した。
「俺もいいよ」
「部活は?」
三浦が聞く。
「今日は休み」
「本当に初めて?」
「何作ってるかも知らない」
「完璧な初見!」
「珍しい生き物みたいに言うな」
教室の中に。
小さな笑いが起こる。
その笑いをきっかけに。
他の生徒たちも。
少しずつ、試作品の周りへ近づいてきた。
「それ、昨日のやつでしょう?」
女子生徒の一人が。
机の向こうから言う。
「特進の人たちが使ってた」
「見てた?」
茜が聞く。
「少しだけ。でも、何してたかまでは分からない」
「使い方は?」
「分からない」
「じゃあ、見ないで」
三浦が。
慌てたように試作品の前へ立つ。
「今から見たら初見じゃなくなる!」
「もう見えてるけど」
「形を記憶から消して!」
「無理」
「目を閉じる?」
「そこまでしなくていい」
紅秋が。
三浦の肩を押し。
試作品の前からどかす。
「今日は確認しない。明日の昼休み」
「今日じゃないの?」
女子生徒が聞く。
「もう下校時間が近いから」
茜が答える。
「準備も必要」
「何を準備するの?」
「それを言うと初見じゃなくなる」
「あ」
「何も知らないままで来て」
「それ、ちょっと怖い」
「危ないことはしない」
「三浦くんがいるけど?」
「俺が危険物みたいに言うな!」
再び。
教室に笑い声が広がった。
誰かが。
「明日なら俺も」
と手を上げる。
別の誰かが。
「使うだけならやる」
と言う。
その声が。
一つ。
また一つ。
机の周りへ集まってくる。
「私、見るだけでもいい?」
「見ると次に使えなくなるよ」
「じゃあ、先に使う」
「順番決める?」
「くじ引き?」
「そこまで大げさにしなくても」
「でも、人数多い方がいいんじゃない?」
「全員一緒にやると、誰かの動きを真似する」
紅秋が言う。
「一人ずつ?」
「できれば」
「昼休みだけで足りる?」
「足りないかも」
茜は。
黒いノートを開き。
その場で人数を書き始めた。
「明日の昼休みと、放課後に分ける」
「放課後、部活ある人は?」
「昼休み」
「帰宅部は放課後?」
「それがいい」
「俺、帰宅部だけど早く帰りたい」
「十分だけ」
「それなら」
「菓子出る?」
「出ない」
三浦が答える。
「じゃあ、考える」
「お菓子で決めるな!」
笑いの中。
なつきは。
集まってきたクラスメイトたちの顔を見ていた。
昨日まで。
十一組ラボは。
同じクラスの中でも。
限られた人だけが関わるものだった。
教室の中央に机を集め。
材料を広げていても。
多くの生徒は。
少し離れた場所から眺めていた。
何か作っている。
会議があるらしい。
失敗したらしい。
そこまでは知っていても。
わざわざ近づいてくることはなかった。
けれど。
今。
二つの試作品を前に。
誰かが。
触ってみたいと言う。
分からないまま使ってみると言う。
失敗を見せることが。
恥ずかしいだけではなくなっていた。
隠さず置いたから。
人が寄ってきた。
上手くできなかったことを。
教室で話したから。
協力してもらえるようになった。
「横田さん」
春樹が。
小さな声で呼ぶ。
「うん」
「どうしたの?」
「みんな、来てくれたなって」
「うん」
「最初は」
なつきは。
周りに聞こえないくらいの声で続けた。
「失敗したもの、見られたくなかった」
「今は?」
「少し恥ずかしい」
「少しなんだ」
「まだ少しはあるよ」
「俺も」
「大國くんも?」
「失敗したところを見られるのは、普通に嫌」
春樹は。
机の上の試作品を見る。
「でも、見られないと分からない」
「うん」
「だから、嫌じゃなくなったわけじゃない」
「嫌だけど、見せる?」
「そう」
なつきは。
その言葉を聞いて。
少しだけ安心した。
自分だけが。
失敗を怖がっているわけではない。
春樹も。
三浦も。
紅秋も。
茜も。
形は違っても。
同じように。
うまくいかなかったことへ傷ついている。
それでも。
次へ進むために。
見せている。
「私も」
なつきは言った。
「嫌だけど、見てもらう」
「うん」
「大國くんも一緒?」
「一緒」
また。
短い言葉。
でも。
その一言が。
今のなつきには十分だった。
机の向こうでは。
三浦が。
協力者の名前を勝手に読み上げていた。
「一番、野球好きの佐藤!」
「何で紹介がそれなんだよ」
「二番、今日だけ帰宅部の川島!」
「部活休みなだけ」
「三番、前髪が湿気で終わった石井!」
「それ朝の話聞いてたの!?」
「十一組の情報網」
「ただの盗み聞きでしょう」
茜が言う。
「紹介いらないから、名前だけ書いて」
「場を温めようと思って」
「確認は明日」
「今から温める」
「冷めるよ」
「横田まで!」
笑い声が。
教室の天井へ広がる。
帰る準備をしていた生徒たちも。
いつの間にか鞄を机へ戻し。
話へ加わっている。
「なあ」
佐藤と呼ばれた男子生徒が。
二つの試作品を見比べながら言った。
「これ、見た目だけなら右の方が分かりやすそう」
「触らないで!」
三浦が叫ぶ。
「見た目の感想だけ」
「それも記録!」
紅秋が。
すぐに紙へ書き始める。
「どこが分かりやすそう?」
「こっち」
佐藤は。
春樹たちの作った試作品を指した。
「何か、ここで止まるようになってるだろ」
「見ただけで分かった?」
なつきが聞く。
「たぶん。違う?」
「違わない」
「じゃあ、分かりやすいじゃん」
「でも、使ってみたら違うかもしれない」
春樹が言う。
「見た目では分かっても、手に持ったら迷うこともある」
「そこまで見るのか」
「今回、それを見たいから」
「大変だな」
佐藤は。
少し感心したように。
二つの試作品を見る。
「俺なら、一個作って終わりにする」
「俺も」
三浦が言う。
「お前は作る側だろ」
「気持ちは佐藤側」
「だから板倉くんに止められる」
なつきが言うと。
三浦は。
少しだけ口を尖らせた。
「俺だって、今日は考えた」
「うん」
「横田に言われると、ちょっと刺さる」
「何で?」
「天然で言ってるから」
「天然じゃないよ」
「そこも天然」
そのやり取りへ。
周りから笑いが起こる。
教室の空気は。
さっきまでの作業中とは違い。
少し緩んでいた。
完成した。
という達成感ではない。
明日。
また失敗が見つかるかもしれない。
むしろ。
見つけるために人を呼ぶ。
だから。
今は。
終わった時間ではなく。
次へ向かう途中の休憩に近かった。
茜が。
ノートへ最後の名前を書き込む。
「昼休み四人。放課後三人」
「俺、どっち?」
三浦が聞く。
「三浦くんは確認する側」
「俺も初見役やりたい」
「無理」
「記憶消す」
「今日二回目」
「本気で消せる気がしてきた」
「勉強したことまで消えそう」
「そこは元から」
紅秋が言う。
「板倉、急にひどい!」
「記憶消すって言うからだ」
「じゃあ、俺は何をする?」
「観察」
茜が答える。
「美優さんたちのとき、途中から声を出してたでしょう」
「出してない」
「『そこじゃない』って顔してた」
「顔は声じゃない」
「顔も禁止」
「厳しい!」
「三浦くん」
なつきが言う。
「私も昨日、美優に顔で教えちゃった」
「仲間!」
「でも、明日は気をつける」
「裏切った!」
「一緒に気をつけよう」
「そう言われると断れない」
三浦は。
少しだけ照れたように笑う。
その横で。
紅秋が。
二つの試作品へ、紙をかぶせた。
「見すぎるな」
「何で隠すの?」
川島が聞く。
「明日使うなら、形を覚えない方がいい」
「もう見た」
「細かい部分までは見てないだろ」
「たぶん」
「今日はそれでいい」
「秘密兵器みたい」
「試作品」
「秘密試作品」
「名前増やすな」
三浦が言う。
「お前が言うな」
複数の声が。
同時に返った。
その瞬間。
教室中に。
今までで一番大きな笑いが起こった。
三浦は。
一瞬。
何を言われたのか分からない顔をしたあと。
「全員、俺への扱い雑!」
と声を上げる。
さらに。
笑いが重なる。
廊下を歩いていた生徒が。
何事かと教室を覗く。
「十一組、今日も騒がしいな」
「ラボだって」
「何の?」
「知らない」
「知らないのにラボって呼んでるの?」
「十一組がそう言ってるから」
そんな声まで。
開いた扉から聞こえてくる。
「有名になってる」
なつきが言う。
「悪い意味で?」
三浦が聞く。
「半分くらい」
「半分は良い?」
「たぶん」
「そこは断言して」
「分からないから、見てもらう」
「今日の横田、それ好きだな」
「うん」
なつきは。
素直に頷いた。
分からない。
以前なら。
少し怖い言葉だった。
答えられないこと。
遅れていること。
できていないこと。
でも。
今は。
分からないから。
次を見る。
分からないから。
誰かに触ってもらう。
分からないことを。
そのまま置いておかず。
みんなで囲む。
それが。
十一組ラボのやり方になり始めている。
やがて。
下校時刻が近づき。
教室の人数が。
少しずつ減り始めた。
「じゃあ、明日」
「忘れないでね」
「昼休み、弁当持って来る?」
「食べてから?」
「食べながらは駄目」
「手、汚れるもんな」
「そういう理由?」
「一応」
協力することになった生徒たちが。
それぞれ鞄を持ち。
教室を出ていく。
「また明日」
「お疲れ」
「ラボ頑張って」
「失敗したら教えて」
「成功しても教えて!」
三浦が。
扉の前から返す。
「何で失敗前提なんだよ!」
「失敗歓迎作戦だから!」
「まだその名前なの?」
「仮!」
最後まで笑い声を残し。
クラスメイトたちが廊下へ消える。
教室には。
ラボのメンバーだけが残った。
さっきまで。
人で囲まれていた二つの試作品は。
紙をかぶせられたまま。
机の中央に置かれている。
「片づけよう」
茜の声で。
全員が動き始めた。
定規。
はさみ。
鉛筆。
余った厚紙。
切れ端。
記録用紙。
それぞれを。
決めた場所へ戻していく。
「この切れ端、捨てる?」
なつきが。
細長い厚紙を持ち上げる。
「まだ使える」
紅秋が答える。
「何に?」
「補強の比較」
「小さくない?」
「小さい部分なら」
「じゃあ、残す」
なつきは。
『使えるかもしれない紙』
と書かれた箱へ入れようとする。
「待って」
茜が止める。
「なに?」
「その箱、もういっぱい」
「あ」
紙の切れ端が。
箱の縁から。
何枚も飛び出している。
「新しい箱作る?」
三浦が聞く。
「増やしすぎると、どこに何があるか分からなくなる」
「捨てる?」
「使うものだけ残す」
「でも、使うかもしれない」
「全部それで残してる」
「いつか使う」
「そのいつかが来てない」
「遠山、母親みたい」
「三浦くんの机も同じ?」
「俺の机は夢が詰まってる」
「ゴミでは?」
「板倉!」
片づけの最中にも。
会話は途切れない。
なつきは。
箱の中身を一枚ずつ出し。
本当に使えそうなものと。
もう小さすぎるものを分け始めた。
その隣へ。
春樹が座る。
「俺もやる」
「大國くん、試作品は?」
「板倉が保管する」
「そうなんだ」
「だから、こっち」
二人で。
紙の切れ端を分ける。
大きさ。
厚さ。
折れ。
汚れ。
同じように見える切れ端でも。
よく見ると。
使える場所が違う。
「これ」
なつきが。
細長い紙を持ち上げる。
「何に使える?」
春樹は。
紙を受け取り。
少し考える。
「印の比較」
「矢印?」
「矢印はやめたでしょう」
「あ、そうだった」
「色を変えるとき」
「でも、色に頼らないって」
「頼らないだけで、使わないとは言ってない」
「形と色?」
「両方」
「普通が違っても?」
「見える人には色で分かる。見えなくても形で分かる」
「二つの道」
「うん」
なつきは。
春樹の手元を見る。
さっき。
作業中にも。
同じような話をした。
一つの正解だけを作らない。
違う人が。
違う見方をしても。
どこかで同じ場所へたどり着けるようにする。
それは。
試作品だけではなく。
人と話すことにも似ている。
「大國くん」
「うん」
「さっきの」
春樹の手が。
少し止まる。
「何?」
「本読んでるとき」
「うん」
「私だけ、話しかけてもいいって言ったでしょう」
今度は。
逃げなかった。
聞いてから。
胸が。
急に速くなる。
片づけをしている音。
三浦と紅秋の言い合い。
茜が箱へ名前を書く音。
全部聞こえているのに。
すぐ近くの春樹の返事だけを。
待っている。
「言った」
春樹が答える。
「それって」
なつきは。
一度。
息を吸う。
「どうして?」
春樹は。
紙を持ったまま。
しばらく黙っていた。
なつきも。
急かさない。
答えを。
勝手に作らないように。
待つ。
窓の外から。
部活動を終えた生徒たちの声が届く。
夕方の光が。
机の上の切れ端を。
淡く照らしている。
「話しかけてほしいから」
春樹が言った。
なつきは。
瞬きをする。
「本、読んでても?」
「うん」
「静かな方が好きなのに?」
「横田さんが来るなら、そっちの方がいい」
言葉が。
すぐには入ってこなかった。
正確には。
意味は分かる。
でも。
胸の中へ落ちるまで。
時間がかかった。
横田さんが来るなら。
そっちの方がいい。
静かな時間より。
自分が話しかける時間。
春樹にとって。
それが。
選ばれている。
「私」
なつきは。
声を出した。
けれど。
続きが出ない。
春樹も。
なつきを見たまま。
何も言わない。
いつもなら。
三浦が。
すぐに入り込んでくる。
けれど。
少し離れた場所では。
紅秋と箱の中身を巡って話している。
茜も。
こちらを見ていない。
二人の間に。
短い。
でも。
逃げられない沈黙が生まれた。
「それ」
なつきは。
ゆっくり言葉を選ぶ。
「特別ってこと?」
言った。
言ってしまった。
胸が。
大きく鳴る。
春樹の目が。
ほんの少し見開かれる。
なつきも。
自分で聞いておきながら。
怖くなる。
違う。
そう言われたら。
どうしよう。
そんな意味ではない。
ただの友達。
そう返されたら。
今まで通り。
話しかけられるだろうか。
けれど。
もう。
聞かなかったことにはできない。
春樹は。
一度。
視線を机へ落とした。
切れ端。
箱。
なつきの指先。
それから。
もう一度。
なつきを見る。
「俺にとっては」
声は。
とても小さかった。
「特別」
なつきの指が。
紙の端を強くつまむ。
「……そっか」
それしか言えなかった。
嬉しい。
驚いた。
恥ずかしい。
もっと聞きたい。
逃げたい。
全部が。
一度に胸の中へ入ってくる。
「横田さんは?」
春樹が聞く。
今度は。
なつきが答える番だった。
「私?」
「俺が話しかけるの」
「うん」
「特別?」
春樹の声にも。
少しだけ緊張が混ざっていた。
なつきは。
春樹を見る。
今まで。
何度も。
隣にいた。
図書室。
教室。
帰り道。
行事。
ラボ。
自分が困ったとき。
春樹は。
急かさず待ってくれた。
言葉を奪わず。
でも。
離れずにいてくれた。
それを。
友達だから。
クラスメイトだから。
そういう普通だと思おうとしていた。
けれど。
春樹が。
他の誰かと話していると。
気になった。
隣に座れると。
嬉しかった。
名前が近くに書かれているだけで。
胸が温かくなった。
弁当の卵焼きを交換しただけで。
何度も思い出しそうになった。
もう。
答えは。
かなり前から。
形になり始めていたのかもしれない。
「特別」
なつきは。
小さく答えた。
その瞬間。
春樹の表情が。
ほんの少しだけ緩んだ。
大きく笑ったわけではない。
声を上げたわけでもない。
でも。
肩から。
少し力が抜けたように見えた。
「そっか」
春樹も。
なつきと同じ言葉を返す。
二人とも。
それ以上。
すぐには言えなかった。
特別。
何が。
どこまで。
どういう意味で。
そこまでは。
まだ決めていない。
でも。
お互いに。
普通ではない。
そのことだけは。
言葉になった。
「横田さん」
「うん」
「紙」
「え?」
「握ってる」
「あ」
なつきは。
慌てて指を開く。
細長い厚紙が。
少し折れていた。
「また失敗」
なつきが言う。
「使える」
春樹は。
折れた紙を受け取る。
「どこに?」
「折る場所の見本」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「でも、捨てなくていい」
春樹は。
折れた紙を。
『使えるかもしれない紙』
の箱へ入れた。
なつきは。
その手元を見ながら。
小さく笑う。
失敗して。
形が変わった。
でも。
使い道がなくなったわけではない。
さっきの言葉も。
同じかもしれない。
特別と認めたことで。
今までの関係は。
少し形を変えた。
でも。
壊れたわけではない。
むしろ。
今まで見えなかったものが。
見えるようになった。
「二人とも」
茜の声が飛んでくる。
「紙、一箱に何分かかってるの?」
なつきと春樹は。
同時に顔を上げた。
「今やってる」
春樹が答える。
「手、止まってたでしょう」
「考えてた」
なつきが言う。
「何を?」
「使い道」
「紙の?」
「……紙の」
少しだけ間があった。
茜は。
なつきの顔を見る。
次に。
春樹を見る。
それから。
何かに気づいたように。
ほんの少し眉を上げた。
けれど。
何も言わなかった。
「五分で終わらせて」
「はい」
「分かった」
三浦が。
箱を抱えたまま近づいてくる。
「何で二人とも顔赤いの?」
「暑いから」
なつきが答える。
「窓開いてるけど」
「作業したから」
「紙分けてただけだろ」
「三浦」
紅秋が呼ぶ。
「なに?」
「こっち終わってない」
「今、重要な確認を」
「必要ない」
「またそれ!」
三浦は。
紅秋に呼び戻される。
なつきは。
ほっと息を吐いた。
その隣で。
春樹も。
小さく息を吐く。
「危なかった」
なつきが言う。
「うん」
「三浦くん、分かりやすいけど、気づくときは気づく」
「声が大きいから困る」
「言われたら、みんなに聞こえる」
「気をつけよう」
「何を?」
なつきが聞く。
春樹は。
少しだけ視線を逸らした。
「顔」
「大國くんも赤いよ」
「横田さんも」
「同じ?」
「うん」
なつきは。
また少し笑った。
普通は違う。
でも。
同じところもある。
二人で。
残りの紙を分ける。
今度は。
手を止めすぎないように。
でも。
急がず。
一枚ずつ。
夕方の教室は。
少しずつ静かになっていった。
外では。
部活動を終えた生徒たちが。
昇降口へ向かっている。
空の色は。
白から橙へ。
橙から。
薄い青灰色へ変わり始めていた。
最後の箱を棚へ戻し。
茜が。
教室を見回す。
「忘れ物ない?」
「ない」
「試作品は?」
「板倉が持つ」
「記録用紙」
「私」
「明日の確認表」
「大國」
「協力者の名簿」
「私」
「作戦名」
三浦が言う。
「いらない」
「必要!」
「正式決定してない」
「じゃあ、仮名簿」
「何それ」
「仮の作戦名を書く紙」
「作業増やさないで」
最後まで。
三浦の声が響く。
電気を消し。
全員で廊下へ出る。
茜が鍵を閉める。
扉の向こうには。
二つの試作品。
明日。
違う普通とぶつかるための形が。
残されている。
「明日、どっちが勝つかな」
三浦が言う。
「競争じゃない」
紅秋が答える。
「でも、結果は出るだろ」
「両方駄目かもしれない」
「縁起悪いこと言うな」
「その可能性もある」
「じゃあ、両方良い可能性も?」
「ある」
「なら、それにしよう」
「決められない」
「気持ちの話」
前を歩く二人の会話を聞きながら。
なつきは。
春樹の隣を歩いた。
少し前には。
茜。
その先に。
三浦と紅秋。
いつものような並び。
でも。
なつきの中では。
昨日までと少し違っていた。
隣にいる人が。
自分を特別だと言った。
自分も。
同じように答えた。
それだけで。
歩く距離まで。
少し近く感じる。
実際には。
肩が触れているわけではない。
手をつないでいるわけでもない。
ただ。
同じ速度で。
並んで歩いている。
「大國くん」
「うん」
「明日」
「初見確認?」
「それもだけど」
「うん」
「本読んでたら、話しかけるね」
春樹は。
一瞬だけ。
なつきを見た。
「待ってる」
「読んでなくても?」
「そのときも」
「じゃあ、いつでも?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「三浦みたいに、一日中は困る」
「私、そんなに話さないよ」
「三浦よりは」
「比べる相手が悪い」
「聞こえてるぞ!」
前から。
三浦の声が飛んでくる。
「一日中話してない!」
「ほぼ話してる」
紅秋が返す。
「板倉まで!」
笑い声が。
廊下へ広がる。
なつきも笑う。
春樹も。
隣で笑っていた。
誰かの普通とぶつかる。
それは。
自分の考えが。
間違っていたと知ることかもしれない。
思っていた道を。
相手が歩いてくれないことかもしれない。
でも。
ぶつからなければ。
違いは見えない。
違いが見えなければ。
その人のことを。
知ることもできない。
甘い卵焼き。
甘くない卵焼き。
静かに読む時間。
話しかけてもいい時間。
作る側の普通。
使う側の普通。
同じではないから。
確かめる。
聞く。
言葉にする。
そして。
違ったままでも。
隣にいられる形を探す。
明日。
二つの試作品は。
また誰かの普通とぶつかる。
そこで。
新しい失敗が見つかるかもしれない。
けれど。
なつきは。
もう。
それを前ほど怖いとは思わなかった。
分からないと言われても。
隣で。
一緒に考えてくれる人がいる。
自分も。
その人にとって。
特別な場所にいる。
そのことを。
今日。
初めて言葉で確かめられたから。
十一組ラボの分かりやすさは。
まだ完成していない。
なつきと春樹の関係も。
まだ。
名前のつかない途中だった。
それでも。
分からないまま。
目を逸らさず。
少しずつ確かめていく。
その歩き方なら。
きっと。
誰かの普通とぶつかっても。
隣を離れずにいられる気がした。




